第78話 頼んでみたいこと
翌朝、エレナが目を覚ますと、屋根を打つ小さな音が聞こえていた。
強い雨ではない。窓の外には細かな雨粒が落ちており、道の土がゆっくりと色を濃くしている。風はほとんどなく、軒先から落ちる雫の音が一定の間隔で続いていた。
寝台から起き上がったエレナは窓辺まで歩き、東の方角へ目を向けた。
警戒線の音は聞こえない。
雨の日には地面へ残った痕跡が変わることもあると、以前の確認で聞いている。しかし、だからといってエレナ自身が東へ見に行く理由にはならなかった。
(確認が必要なら、確認する方たちが決めます)
そう考えられることに、以前ほど努力はいらなくなっている。
エレナは窓から離れ、着替えを済ませた。
両手にも昨日使った石鹸による変化は見られない。赤みや痒み、痛みはなく、乾燥して皮膚が突っ張るような感覚もなかった。
今日も使うかどうかは、まだ決めなかった。
まず朝食を食べたいと思ったからだ。
◇
「今日は外へ出るなら濡れるよ」
朝食の席で、マーサが窓を見ながら言った。
「はい」
「散歩は?」
「今は行きたくありません」
「ユウのところは?」
「それも今は」
エレナはパンをちぎりながら答えた。
昨日はローデンからレグルの名前を聞き、一人で歩いたあと、偶然会ったユウへ話した。
今日は今のところ、新しく伝えたいことはない。
会いたくないわけでもない。
雨の中をわざわざ会いに行きたいほどではない、というだけだった。
「今日は家にいます」
「一日中?」
「そこまでは決めていません」
「そうだったね」
マーサが笑う。
「朝決めたことに一日縛られなくてもいいんだった」
「はい。雨が止んで外へ出たくなるかもしれません」
「降ったままでも出たくなるかもしれないよ」
「その時は濡れない方法を考えます」
「そこまでして行きたくなったらね」
マーサはスープを口へ運んだ。
食事を終えたあと、エレナは水場へ立った。
石鹸を見る。
今日は使いたいかと、自分へ問いかけてみる。
昨日と同じ程度には使ってみたい。
「マーサさん、今日も使います」
「はいよ。何か変だったらすぐ流しな」
「はい」
エレナは手を濡らし、石鹸を軽く泡立てた。
泡は相変わらず少ない。けれど、もうそのこと自体を問題だとは考えていない。
指の間まで軽く洗い、十分に水で流す。
痛みも刺激もなかった。
「今のところ、大丈夫です」
「じゃあ何度も見ない」
「はい」
エレナは笑い、石鹸を元の場所へ戻した。
◇
雨の日のマーサの家は、晴れた日より少し暗かった。
窓から入る光が弱いため、食卓の上にも淡い影が落ちている。マーサは古い布を一枚取り出し、端の傷んだ部分を切り落とす作業を始めた。
エレナは『暮らしの小さな工夫』を開いたものの、数ページ読んだところで本を閉じた。
内容が面白くないわけではない。
ただ、雨音を聞いているうちに、別のことをしたくなった。
「マーサさん」
「何だい?」
「何か、私に頼みたいことはありますか?」
マーサの手が止まる。
「急にどうした」
「今日は家にいますから、何かあるならと思って」
「何でも?」
その言葉に、エレナは少し考えた。
「いいえ」
「ほう」
「私にできることで、私がやりたいと思えることなら」
「ずいぶん条件がついたね」
「駄目でしょうか?」
「いや、その方がいい」
マーサは手元の布を見る。
「じゃあ、この布の端を切るの手伝うかい?」
「どのように切ればよいですか?」
「傷んでるところだけ落とす。真っ直ぐじゃなくてもいいが、使えるところまで一緒に捨てるな」
エレナは布を受け取った。
「これは、何に使うのですか?」
「まだ決めてない。拭き布にするかもしれないし、小さい当て布にするかもしれない」
「用途が決まっていなくても切ってよいのですか?」
「傷んだ端はどっちにしても使いにくいからね」
「分かりました」
エレナは鋏を受け取る。
以前なら「手伝う」と言った時点で、渡されたものを最後まで終わらせなければならないと考えただろう。
今はまず、一枚だけ切ってみる。
布の傷み具合を見ながら、使えそうな部分を残すように鋏を動かした。
「ここはどうでしょう?」
「そこは残しな。薄いけど破れてない」
「こちらは?」
「そこは落としていい」
マーサに確認しながら切っていく。
一枚を終えると、エレナは切り口を眺めた。
真っ直ぐではない。
けれど、傷んだ部分はほとんど取り除けている。
「次もやるかい?」
マーサが尋ねる。
エレナは籠を見る。
まだ何枚かある。
「もう一枚、やってみたいです」
「なら頼むよ」
そうして二枚目へ手を伸ばした。
◇
二枚目を切り終えた頃、戸を叩く音がした。
雨の音に混じっていたため、一度目は小さく聞こえた。
「誰だい?」
マーサが声をかける。
「サナです」
返事を聞き、エレナは鋏を置いた。
マーサが戸を開けると、サナが頭に布をかぶり、雨を避けながら立っていた。片手には小さな籠を持っている。
「濡れたねえ」
「少しだけです」
「入りな」
「お邪魔します」
サナは家へ入り、頭の布についた水滴を払った。
「エレナさん、いらっしゃいましたね」
「はい。どうしましたか?」
「石鹸のことを聞こうと思って」
エレナは自分の両手を見る。
「今朝も一度使いました」
「昨日は?」
「昨日も朝に一度です。その前の日は使っていません」
「使わなかった日は、何かあったから?」
「いいえ。使いたいと思わなかったので使いませんでした」
「分かりました」
サナはそれを否定しなかった。
「今朝使ってから、痛みや痒みは?」
「ありません。昨日も一日ありませんでした」
「赤くなったところは?」
「ないと思います」
「見てもいいですか?」
「はい」
エレナは両手を差し出した。
サナは強く触らず、手の甲と指の間を目で確かめる。
「今は大丈夫そうですね」
「これで、安全だと考えてよいのでしょうか?」
「まだです」
サナはすぐに答えた。
「私と妹とエレナさんで、今のところ大きな問題が出ていないだけです。同じ石鹸でも人によって違うかもしれませんし、続けて使ったあとで出ることもあるかもしれません」
「では、まだ試す?」
「はい。ただし、毎日でなくてもいいです」
エレナは頷いた。
「使いたい日に、一日一度までですね」
「そうです。何か変なら止めてください」
「分かりました」
サナはそこで籠を開いた。
中には、別の小さな石鹸片が入っている。
「これは?」
「別に作った方です」
「同じものではないのですか?」
「材料の種類は同じです。でも、固まり方が少し違います」
エレナは手を伸ばさず、籠の中を見る。
確かに、今使っている石鹸より少し色が濃く、表面も硬そうに見える。
「こちらも試すのですか?」
「まだです」
サナは首を横に振った。
「まず私が使います。妹にも、今使っている方をもう少し続けてもらいます」
「では、私は今の石鹸だけ?」
「はい。二つ同時に変えると、もし何かあった時にどちらの影響か分かりにくくなるので」
エレナはその言葉に納得した。
「一度に増やさないのですね」
「その方が分かりやすいと思います」
「分かりました」
サナは籠を閉じる。
「あと、お願いがあるのですが」
「私にですか?」
「はい」
エレナは少し姿勢を正した。
「何でしょう?」
「今使っている石鹸で、手を洗ったあとに気になることがあったら、次に会った時に教えてほしいです。痛いとか痒いだけじゃなくて、前より乾く気がするとか、匂いが気になるとか」
「毎回報告した方がよいですか?」
「何もなければ、会った時でいいです」
「記録は?」
「エレナさんが自分で残したいなら。でも、私のために毎日書かなくても大丈夫です」
エレナは少し驚いた。
記録を取ること自体は嫌いではない。
むしろ、今では事実と考えを分けるために役立っている。
しかし、誰かに頼まれたから毎日詳細に書かなければならないとなれば、少し意味が変わる。
「私は、自分の記録帳には書きたいです」
「なら、それでお願いします」
「でも、サナさんへ毎日届ける必要はない?」
「ありません。異常がなければ」
「分かりました」
サナは微笑んだ。
◇
「ところで、サナ」
マーサが布を持ったまま声をかける。
「雨の中、石鹸の確認だけで来たのかい?」
「それもありますけど、これを届けに」
サナは籠の下から小さな包みを取り出した。
「干した香草です。前にマーサさんが欲しいと言っていたので」
「ああ、それか。忘れてたよ」
「私は覚えていました」
「ありがとよ」
マーサが受け取る。
エレナは二人のやり取りを見てから、サナへ尋ねた。
「帰りも雨ですよね」
「そうですね」
「何かお手伝いしましょうか?」
「帰るだけですよ?」
「籠を持つとか」
サナは籠を見る。
「軽いです」
「では、必要ありませんね」
「はい」
エレナは素直に引いた。
サナが少し笑う。
「エレナさん、前より聞くようになりましたね」
「何をですか?」
「手伝っていいかどうか」
「以前は違いましたか?」
「会ったばかりの頃は、何かあると先に動いていた気がします」
エレナは少し恥ずかしくなる。
「迷惑でしたか?」
「迷惑ではありませんでした。でも、私は自分でできることも多いですから」
「そうですよね」
サナは頭に布をかぶり直した。
「でも、重いものがあったら頼みます」
「はい。その時に私ができるなら」
「その時に?」
「私もできない時があるかもしれません」
「では、別の人に頼みます」
「お願いします」
それで会話は終わった。
誰か一人が必ず助けなければならないわけではない。
頼む側も、断られる可能性を含めて別の方法を選べる。
サナを見送ったあと、エレナはそのことを少し嬉しく思った。
◇
昼前になると雨は弱くなったものの、完全には止まなかった。
エレナは三枚目の布へ手を伸ばさず、鋏をマーサへ返した。
「今日はここまでにします」
「もう飽きたかい?」
「少し肩が疲れました。それと、別のことをしたくなりました」
「いいよ。二枚で十分だ」
「残りは?」
「あたしがやるかもしれないし、明日やるかもしれない」
「私が明日やりたくなるかもしれません」
「その時は頼むよ」
マーサは残った布を籠へ戻した。
エレナは肩を軽く回す。
二枚しか終わっていない。
それでも、中途半端だとは感じなかった。
頼まれたのは、今日できる分を手伝うことだった。
籠を空にすることではない。
◇
昼食を取ったあと、雨がほとんど止んだ。
雲はまだ残っているが、軒から落ちる雫も少なくなっている。
エレナは窓から外を見た。
濡れた道。
雨に洗われた草。
少し冷たそうな空気。
外へ出たいと思った。
「マーサさん」
「行くのかい?」
「はい。少し歩いてきます」
「ユウ?」
エレナは考える。
「まだ決めていません」
「外へ出てから決めるのか」
「そうなるかもしれません」
「滑るところあるから気をつけな」
「はい」
エレナは外套を羽織り、家を出た。
◇
雨上がりの村は、晴れた日とは匂いが違った。
湿った土と草の匂いが強く、屋根や柵には小さな水滴が残っている。道の中央には浅い水溜まりができている場所もあり、エレナは足元を見ながら歩いた。
東へ向かう道ではない。
最初は村の中央へ向かった。
そこで、ベルの家へ続く道と、ユウの家へ続く道が分かれる。
エレナは足を止めた。
(ユウさんに会いたいでしょうか)
昨日は偶然会った。
今日はまだ会っていない。
話したい大きな出来事もない。
石鹸についてサナと話したことなら、話そうと思えば話せる。
けれど、それを理由にしなければ会いに行けないわけではない。
「会いたいです」
小さく口にしてみる。
言葉にすると、気持ちははっきりした。
エレナはユウの家へ向かった。
◇
戸を叩くと、少し間を置いてユウが出てきた。
「エレナさん?」
「こんにちは」
「雨、大丈夫だった?」
「もうほとんど止んでいます」
「入る?」
尋ねられ、エレナは頷いた。
「はい。入りたいです」
ユウの家へ入る。
室内には木の匂いが残っていた。
食卓の端には、例の削りかけの木片が置かれている。その隣には道具が一つだけあったが、今は作業していた様子ではない。
「今日は木を削っていたのですか?」
「午前中に少しだけ。今は休んでた」
「何をして休んでいたのですか?」
「何もしてない」
「本当に?」
「椅子に座って雨見てた」
エレナは少し笑った。
「私も朝、似たようなことをしました」
「雨見てた?」
「私は、何をするか決まるまで窓の外を見ていました」
「じゃあ同じようなものか」
ユウは椅子を引いた。
「座る?」
「はい」
二人は食卓を挟んで座った。
「今日は何か用事?」
ユウに尋ねられ、エレナは首を横に振った。
「会いたくなったので来ました」
口にしてから、少し頬が熱くなる。
以前にも似た言葉を伝えている。
それでも、慣れたわけではない。
ユウもわずかに視線を逸らした。
「そっか」
「はい」
「俺も嬉しい」
その一言で、エレナの胸の奥が温かくなる。
◇
「今日は何をしていましたか?」
ユウが尋ねる。
「朝、石鹸を使いました。それからマーサさんの布を二枚だけ切りました」
「二枚だけ?」
「はい。三枚目はやりませんでした」
「疲れた?」
「少し。それと、別のことをしたくなったので」
「じゃあ止めて正解だったんじゃない?」
「マーサさんも同じようなことを言っていました」
エレナはサナが訪ねてきたことも話した。
今使っている石鹸について、これまで大きな問題が出ていないこと。
別に作った石鹸片は硬さが違い、サナ自身が先に試すこと。
二つを同時に変えれば、何かあった時に原因が分かりにくくなるため、エレナは今の石鹸だけを続けること。
毎日詳細な報告を求められているわけではないこと。
「ちゃんとしてるね、サナさん」
「はい。私もそう思いました」
「別のやつも使ってみたい?」
「少し興味はあります。でも、今すぐではありません」
「サナさんが先に試すって言ってるなら、それ待てばいいか」
「はい」
そこで会話が一度途切れた。
雨上がりの光が窓から入ってくる。
エレナは食卓の端に置かれた木片を見る。
「昨日、ベルさんに見せたものですよね」
「うん」
「見てもよいですか?」
「いいよ」
ユウが木片をエレナの前へ置いた。
以前見た時より、表面が少し整っている。
深く削りすぎた跡はまだ残っていた。
完全に消えてはいない。
「ここが、以前削りすぎたところですか?」
「そう」
「前より滑らかになっています」
「少しずつね」
「でも、まだ跡はあります」
「消そうとすると、周りまで削りすぎるってベルさんに言われた」
エレナは木片を触らずに眺めた。
「残しておくのですか?」
「今は」
「ずっと?」
「それは分からない」
「あとで削りたくなるかもしれない?」
「なるかもしれないし、これでいいって思うかもしれない」
エレナは頷く。
今決めなくてもよいことが、ここにもあった。
◇
「ユウさん」
「うん?」
「一つ、お願いしてみたいことがあります」
ユウの表情が少し変わる。
「何?」
エレナはすぐに言わなかった。
朝から考えていたことではない。
ここへ来て、ユウの家で向かい合って座っているうちに浮かんだ。
だからこそ、本当に頼みたいのかを一度確かめる。
(私は、お願いしたいです)
「今度、三軒目の家について新しい知らせが来た時に」
「うん」
「もし私がユウさんのところへすぐ来なかったとしても、私が話したくないと思ったとは考えないでほしいです」
ユウは少し意外そうな顔をした。
「それがお願い?」
「はい」
「考えないようにするよ」
あっさり答えられ、エレナは目を瞬かせた。
「よいのですか?」
「だって昨日もそうだったでしょ。話したかったけど、先に一人で歩いたって」
「はい」
「なら次もそういうことあると思うし」
「でも、ユウさんが話したいと思っているかもしれません」
「それは俺の気持ちだから」
ユウは少し考えながら続ける。
「俺が早く聞きたいって思っても、エレナさんがすぐ話しに来なきゃいけない理由にはならないよ」
その言葉が、エレナの胸へ静かに落ちた。
「ありがとうございます」
「ただ」
「はい」
「もし急ぐ話で、俺にも関係あることなら、それは早めに教えてほしいかな」
「分かりました」
「たとえば警戒線とか、危ないこととか」
「はい。それは別ですね」
「うん」
何でも好きな時でよいわけではない。
誰かの安全や予定に関わることなら、共有する必要がある。
けれど、自分の家について届いた知らせを、ただ嬉しくて話したいという時なら、自分の時間で伝えてよい。
「では、私からも聞いてよいですか?」
エレナが尋ねる。
「何?」
「ユウさんも、何か話したいことがあっても、すぐ来なくてよいです」
「お願いじゃなくて許可?」
「どちらでしょう」
エレナは少し困ってから笑った。
「私が、そうしてほしいと思っています」
「じゃあお願いかな」
「では、お願いです」
「分かった」
ユウも笑った。
◇
エレナはそこで、もう一つ浮かんだことを言うか迷った。
今度は先ほどより少し時間がかかる。
ユウは急かさなかった。
「もう一つあります」
「うん」
「もし、三軒目の家に住めることになったら」
口にした途端、まだずっと先の話だと自分でも分かる。
北梟工房の現存すら確認できていない。
エルドがどこにいるのかも分からない。
現在の権利者も、使用許可も不明だ。
それでも、想像することまで禁じる必要はない。
「その時、最初に家へ入る時に、一緒に来てほしいです」
ユウが黙った。
エレナは自分の言葉が重すぎなかったか不安になり、膝の上で指を重ねる。
「もちろん、住めることになったら、です。それに、その日にユウさんが来たくなければ――」
「行きたい」
言葉を重ねられ、エレナは顔を上げた。
ユウは少し照れたような表情をしていた。
「住めることになったら、俺も一緒に行きたい」
「本当ですか?」
「うん」
「でも、まだ何も決まっていません」
「分かってるよ」
「北梟工房がなくなっているかもしれませんし、エルドさんへ繋がらないかもしれません。権利を持つ方から断られる可能性もあります」
「それも分かってる」
「それでも?」
「住めることになった時の話でしょ?」
「はい」
「なら、その時は一緒に行きたい」
エレナは息をゆっくり吐いた。
胸の奥に広がる温かさは、昨日偶然ユウに会った時とも、今朝ローデンからレグルの話を聞いた時とも違っていた。
(私は、あの家に一人で入る未来を考えていたはずなのに)
もちろん、一人暮らしをしたいという気持ちは変わっていない。
マーサの家から出て、自分の家を持つ。
誰かに養われるためではなく、自分で暮らす場所を選ぶ。
その願いは今もある。
けれど、最初の一歩まで一人でなければならないとは思わなくなっていた。
「ありがとうございます」
「まだ決まってないけどね」
「はい。でも、お願いできたことが嬉しいです」
◇
ユウは木片の横に置いていた道具へ一瞬だけ目を向けた。
三軒目の家。
初めてエレナと見に行った時から、彼女はあの家を気に入っていた。
その後も何度か外から眺め、誰のものなのかを調べ、使ってよいか分からないから勝手には触らなかった。
今では、遠いラウゼンという町まで手がかりが伸びている。
もし本当に住めるようになったなら。
エレナが自分の家を持つ。
そこへ最初に入る時、一緒にいてほしいと言われた。
(嬉しいな)
その感情を否定する理由はなかった。
ただし、自分が住む家ではない。
エレナの家だ。
手伝うとしても、彼女の生活を自分のものにしてはいけない。
「エレナさん」
「はい」
「俺からも、一つお願いしていい?」
「もちろんです」
「もし住めることになって、一緒に入ったとしても」
「はい」
「俺に全部やらせないでね」
エレナは少し驚いたあと、意味を理解したらしく笑った。
「全部やってくださるつもりだったのですか?」
「逆。やり始めると、やりすぎるかもしれないから」
「ユウさんが?」
「俺が」
ユウは苦笑した。
「掃除とか、家具動かすとか、壊れてるところ確認するとか。前の仕事の癖もあるし、危ないところ見つけると気になると思う」
「では、私が止めるのですか?」
「止めてほしい時は」
「それは難しそうです」
「何で?」
「ユウさんが頑張っていると、私も手伝おうとしてしまいそうです」
二人は顔を見合わせた。
そして同時に笑った。
「じゃあ、二人とも止まれなくなるね」
「それは困ります」
「ベルさん呼ぶ?」
「まだ家へ入れるかも分からないのに、もうベルさんまで呼ぶのですか?」
「確かに早い」
笑いが収まるまで少し時間がかかった。
まだ存在するかどうかも分からない許可の先を想像している。
けれど、その想像が苦しくない。
未来を決めつけるためではなく、叶ったら嬉しいことを話しているだけだからだ。
◇
「でも、本当に住めることになったら」
エレナは少し落ち着いてから言った。
「最初に全部を直さなくてもよいですよね」
「住める状態かどうかは確認した方がいいけどね」
「屋根や床など?」
「うん。危ないところは先に。でも、棚が足りないとか、椅子が欲しいとかは後でもいいと思う」
「本も、最初から全部置く必要はありませんね」
「今持ってる本もそんなに多くないし」
「これから増えるかもしれません」
「その時棚増やせばいい」
「昼寝用の椅子も?」
ユウが一瞬黙った。
エレナはすぐに気づく。
「まだ作っていませんよね?」
「作ってない」
「忘れていましたか?」
「忘れてはないよ」
「作りたいですか?」
「いつかは」
「では、いつかですね」
「うん」
以前なら、「いつか」と言ったことを約束のように受け取ったかもしれない。
今は違う。
ユウが作りたいと思う日が来れば作る。
来なければ、別の椅子を使ってもよい。
そのくらいの余白があっても、未来を楽しみにすることはできる。
◇
窓の外が少し明るくなった。
雲の切れ間から光が差し込み、濡れた道の一部が白く光っている。
「雨、止みましたね」
「うん」
「そろそろ帰ります」
「もう?」
ユウが口にしてから、少し気まずそうな顔をした。
エレナはその変化を見逃さなかった。
「もう少しいてほしいですか?」
尋ねると、ユウはすぐには答えなかった。
以前のエレナなら、その沈黙を断りや迷惑の兆しだと受け取ったかもしれない。
今は待つ。
「……少しだけ」
やがてユウが言った。
「もう少しいてくれたら嬉しいかな」
エレナの胸が温かくなる。
「では、もう少しいたいです」
「帰りたかったんじゃない?」
「帰ろうと思いました。でも、急いで帰りたいわけではありません」
「俺が言ったから変えた?」
「はい」
ユウが少し困ったような顔をする。
「それ、大丈夫?」
「大丈夫です」
エレナは自分の気持ちを確かめながら答えた。
「ユウさんが言ったから、無理をして残るのではありません。もう少しいてもよいと思っていたところに、ユウさんがいてほしいと言ってくださったので、私もいたくなりました」
「そっか」
「もし本当に帰りたければ、帰ります」
「うん。それならいい」
エレナは椅子へ座り直した。
何か特別なことをするわけではない。
ユウも木を削らない。
二人で窓の外を眺めながら、雨上がりの村について少し話した。
ニコの虫のこと。
ガルドの豆のこと。
マーサの布のこと。
途中で会話がなくなる時間もあった。
それでも、どちらも無理に話題を探さなかった。
◇
しばらくして、エレナは今度こそ立ち上がった。
「帰ります」
ユウは今度は引き止めなかった。
「うん。来てくれてありがとう」
「私が来たかったので」
「それでも」
「では、どういたしまして」
エレナが笑う。
「私も、いてほしいと言ってくださって嬉しかったです」
「言うの、ちょっと恥ずかしかったけどね」
「私も尋ねるのは少し恥ずかしかったです」
「じゃあお互い様か」
「はい」
戸口まで出る。
雨は完全に止んでいた。
「送ろうか?」
ユウが尋ねる。
エレナは道を見る。
濡れてはいるが、危険なほどではない。
「今日は一人で帰りたいです」
「分かった。滑らないようにね」
「はい」
エレナは一人で歩き始めた。
背後を振り返ると、ユウは戸口に立っている。
「ユウさん」
「何?」
「三軒目の家のお願い、忘れないでください」
「忘れないよ」
「もし私が忘れたら?」
「その時は聞く」
「お願いします」
今度こそエレナは前を向いた。
◇
帰り道、エレナは自分の足元を見ながらゆっくり歩いた。
水溜まりを避け、濡れた石の上では歩幅を小さくする。
胸の奥には、先ほどの会話が残っていた。
三軒目の家へ住めることになったら、最初に一緒に来てほしい。
自分から頼んだ。
ユウは行きたいと言ってくれた。
(私は、一人で暮らしたいのに、一人で全部を始めたいわけではないのですね)
その違いを、以前の自分なら理解できなかったかもしれない。
自立するなら、人に頼ってはいけない。
自分の家なら、自分だけで整えなければならない。
誰かの手を借りれば、それだけで弱い。
そんなふうに考えていただろう。
けれど、ルーデで暮らしている人たちは違う。
ガルドは豆の紐が分からなければベルへ聞く。
サナは試用をエレナへ頼む。
マーサは必要ならエレナへ布仕事を頼む。
それでも、それぞれの暮らしが誰かのものになるわけではない。
頼むことと、任せきることは違う。
助けてもらうことと、自分で決めなくなることも違う。
エレナはそのことを、ようやく自分の未来にも当てはめられるようになっていた。
◇
マーサの家へ戻ると、残っていた布の籠は朝と同じ場所にあった。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「ユウんとこ行ったね?」
「分かるのですか?」
「顔見りゃね」
マーサは針を置いた。
「何かあったのかい?」
「お願いをしました」
「何を?」
エレナは外套を脱ぎながら答える。
「もし三軒目の家に住めることになったら、最初に入る時、一緒に来てほしいと」
マーサの手が一瞬止まった。
しかし、すぐにいつもの表情へ戻る。
「そうかい」
「はい」
「ユウは?」
「行きたいと言ってくれました」
「そりゃよかった」
マーサはそれ以上何も言わなかった。
恋人だとも、特別な約束だとも言わない。
エレナ自身がまだそう呼んでいないことを、マーサは知っている。
「でも、まだ住めると決まったわけではありません」
「知ってるよ」
「北梟工房も――」
「そこから説明し直さなくても知ってる」
「そうでした」
エレナは笑った。
「それでも、お願いしてよかったと思います」
「ならいいんじゃないかい」
◇
夕方、東の警戒線に新しい反応はなかった。
雨のあとだからといって、エレナは自分から確認へ向かわなかった。
ローデンも訪れず、レグルが依頼を引き受けたという返事もまだ届いていない。
ニコも今日は来なかった。
雨上がりの虫道を見に行ったのかもしれないが、エレナには分からない。
分からないものを想像だけで記録する必要はなかった。
石鹸については夕方まで赤み、痒み、痛み、刺激なし。
今日確認できたのは、それだけだった。
◇
夜、エレナは記録帳を開いた。
『石鹸を朝一度使用。夕方まで赤み、痒み、痛み、刺激なし。サナさんが確認。現在の石鹸は私、サナさん、サナさんの妹で試用中。別に作った石鹸片は硬さが少し異なるため、まずサナさんが試す。二種類を同時に試さない。今のところ村全体に安全とは判断していない。』
次に、布仕事について書く。
『マーサさんに頼めることがあるか聞いた。古い布の傷んだ端を二枚分切った。三枚目はやらなかった。頼まれたから全部終える必要はない。』
少し考え、その下へ書き加える。
『サナさんの籠は持たなかった。手伝えることと、相手が手伝ってほしいことは同じではない。』
レグルについては新しい情報がないため、昨日の記録へ追加することはなかった。
そして、ユウのことを書く。
『雨が止んだあと、外へ出た。途中でユウさんに会いたいと思い、家へ行った。用事はなかった。会いたかったので行った。』
そこまで書くだけで、少し頬が熱くなる。
けれど、消そうとは思わなかった。
『三軒目の家に住めることになったら、最初に入る時に一緒に来てほしいとユウさんへお願いした。ユウさんは、行きたいと言ってくれた。』
筆先を止める。
まだ許可はない。
エルドの所在すら分からない。
レグルがラウゼンへ寄れるかどうかも決まっていない。
そんな段階で未来の話をした。
けれど、それを間違いだとは思わなかった。
『まだ決まっていない未来について、叶ったら嬉しいことを話してもよい。話したからといって、必ずそうならなければならないわけではない。』
さらに、今日ユウから言われたことを思い出す。
帰ろうとした自分へ、もう少しいてくれたら嬉しいと言ってくれた。
それを聞いて、自分も残りたいと思った。
『誰かの希望を聞いてから、自分の気持ちが変わることもある。言われたから従ったのか、自分もそうしたくなったのかは、自分で確かめる。今日は、もう少し一緒にいたいと思った。』
エレナは筆を置いた。
自分で決めるということは、誰の言葉にも影響されないことではない。
誰かに頼まれて、やりたいと思うこともある。
誰かにいてほしいと言われて、いたいと思うこともある。
自分も誰かへ頼んでよい。
相手が断るかもしれないことを受け入れたうえで、それでも希望を伝えてよい。
(お願いすることは、命令することではないのですね)
当然のことのようでいて、エレナには長い間、その境目がよく分からなかった。
公爵令嬢だった自分の頼みは、立場の低い相手にとって断りにくいことがあった。
王太子の婚約者として口にする言葉には、自分が思う以上の重さがあった。
だからこそ、頼むことそのものを怖いと思う気持ちも、今は少し理解できる。
けれど、何も頼まなければよいわけではない。
相手が選べるように頼む。
自分も、頼まれた時に選ぶ。
その関係を作っていけばよい。
エレナは閉じる前に、最後の一行を書いた。
『私は、自分の家へ最初に入る時、ユウさんに一緒にいてほしい。』
書いた言葉を見つめる。
理由を細かく説明しようとすれば、まだうまく言葉にできない。
安心するから。
嬉しいから。
あの家を初めて一緒に見た人だから。
ルーデでの暮らしを考える時、自然とユウの姿が浮かぶようになったから。
どれも間違いではない気がする。
けれど、どれか一つだけでもない。
(今は、いてほしいと思っていることだけ分かれば十分です)
エレナは記録帳を閉じた。
窓の外では雲が薄くなり、その隙間から夜空が少し見えている。
レグルからの返事はまだない。
三軒目の家へ続く道も、まだ遠い。
それでも、その家へ入れる日を想像した時、今日からは一人きりの姿ではなくなった。
自分の足で選んだ家へ、自分の足で向かう。
そして、その最初の時だけは、一緒に来てほしい人へ自分から頼んだ。
それは自分の人生を誰かへ預けることではなかった。
むしろ、自分がどんなふうに始めたいのかを、自分で選んだということだった。




