第77話 待つあいだにも
翌朝、エレナが目を覚ました時、窓の外には薄い雲が広がっていた。
雨が降りそうなほど重い雲ではなく、時折その切れ間から柔らかな朝日が差し込んでいる。風も穏やかで、マーサの家の外からは、早くから畑へ向かう村人たちの声と、遠くで鳴く鶏の声が聞こえていた。
起き上がったエレナは寝台を整えたあと、いつものように両手へ目を向けた。
石鹸を使わなかった昨日から変わったところはない。赤みも痒みもなく、指を曲げても痛みは感じなかった。
(今日は、どうしましょう)
サナからは、一日に一度までなら自分で使ってよいと言われている。
毎日使うよう求められているわけではない。
昨日は使わなかった。
だからといって、今日も使わないと決める必要はなかった。
エレナは少し考えてから、朝食の前に手を洗う時に使ってみようと思った。
それ以上の理由はない。
今日は使いたいと思ったから使う。
それで十分だった。
◇
「今日は使うんだね」
朝食の準備をしていたマーサが、水場へ立ったエレナを見て言った。
「はい。今日は使いたいと思いました」
「昨日は使わなかったのに?」
「昨日は使いたいと思わなかったので」
「ずいぶん簡単になったねえ」
「簡単ですか?」
「前なら、昨日使わなかった理由と今日使う理由を、もっと難しく考えてただろうさ」
言われて、エレナは否定できなかった。
試用を続けるなら毎日使うべきなのではないか。
一度休んだなら、何か問題があったと思われるのではないか。
使うと決めたなら一定の日数は続けるべきではないか。
以前なら、そんなことまで考えていたかもしれない。
「今日は一度だけ使います」
「そうしな」
エレナは手を水で濡らし、小さな石鹸を軽く泡立てた。
相変わらず泡は多くない。
最初に使った時は、泡が少ないこと自体が少し不思議だったが、今はそれだけで洗えていないとは思わなくなっている。
指先から手のひら、手の甲へと軽く広げる。
強く擦らず、長く使わない。
そのあと水で丁寧に流した。
刺激はない。
痒みもない。
皮膚の色にも目立った変化は見られなかった。
「どうだい?」
「今のところ、何もありません」
「なら朝はそれで終わりだね」
「はい」
石鹸を置き、エレナは布で手を拭いた。
その後も何度も確認しようとは思わなかった。
何か違和感が出たなら見る。
そうでなければ、次に確認するのは昼頃でも十分だろう。
◇
朝食を終えたあと、エレナは昨日途中まで読んだ『暮らしの小さな工夫』を食卓へ持ってきた。
保存食についての章は読み終えている。
次の章へ進むかどうかは、まだ決めていなかった。
表紙を撫でながら考えていると、マーサが向かい側から声をかける。
「読むのかい?」
「迷っています」
「読みたくない?」
「読みたくないわけではありません」
「なら何で迷うんだい?」
「他にも何かしたいような気がするのですが、それが何なのか分からなくて」
マーサは少し考え、手元の籠へ視線を落とした。
「じゃあ、決まるまで何もしなきゃいいんじゃないかい?」
「何もしない?」
「本を読むか、外へ行くか、手伝うか、それが決まるまで別の仕事を探す必要もないだろ」
エレナは椅子へ座ったまま、窓の外を見る。
確かに、すぐに次の行動を決めなければならない理由はない。
「では、少しそうします」
「そうしな」
マーサは洗った布を畳み始めた。
エレナは手伝おうとはしなかった。
今は頼まれていないし、自分から畳みたいとも思っていない。
代わりに椅子の背へ体を預け、窓から見える空を眺めた。
薄い雲がゆっくり流れている。
道を一人の村人が通り過ぎ、その少しあとを鶏が一羽、どこから入り込んだのか道端まで出てきた。遠くからオルドらしい声がすると、鶏は慌てる様子もなく柵の方へ戻っていく。
何かをしているわけではない。
それでも、退屈だとは感じなかった。
(こういう時間も、以前より長く過ごせるようになりました)
王都にいた頃なら、何もしていない時間には落ち着かなかった。
次の予定。
次の勉強。
次の礼儀作法。
次に求められる役割。
それらを先回りして考えることが、当たり前になっていた。
今は、何も決めていない朝がある。
それを無駄だとは思わなくなっている。
◇
しばらくすると、外から足音が近づいてきた。
昨日のようにユウだろうかと一瞬だけ思ったが、戸を叩く前に聞こえた声はローデンのものだった。
「マーサ、いるか?」
「いるよ。開いてる」
エレナは自然に姿勢を正した。
胸の奥に小さな期待が生まれる。
昨日までなら、その期待を抱いた自分へ「まだ早い」と言い聞かせていたかもしれない。
今日は止めなかった。
(ラウゼンのことでしょうか)
違ったなら、その時に残念だと思えばよい。
ローデンが戸を開けて入ってくる。
「おはようございます」
「おう、おはよう。エレナもいたか」
「はい」
ローデンは手に紙を持っていなかった。
それを見ただけで、正式な返事が届いたわけではなさそうだと分かる。
それでもエレナは尋ねた。
「ラウゼンのことですか?」
「ああ。ただし、まだ返事じゃないぞ」
「はい」
ローデンは空いている椅子へ座った。
「ゼムから短い伝言が来た。昨日話した荷運び人の件だ」
エレナは両手を膝の上で重ねる。
「その方が決まったのですか?」
「名前は分かった。ラウゼン近くを通ることも、今のところはできそうだ」
胸の奥が少し明るくなる。
しかし、エレナは続きを待った。
「ただな、ラウゼンそのものへ必ず入るとはまだ言えん。荷の行き先と道の状態次第らしい」
「では、北梟工房を確認できるかは、まだ分からない?」
「そういうことだ」
「出発はいつでしょう?」
「それも確定してない。数日のうち、という話だ」
「その荷運び人の方のお名前は?」
「レグルだ」
ローデンはそこで一度区切った。
「四十前くらいの男らしい。ゼムの知人商人とは何度か仕事をしてる。俺は会ったことがない」
エレナはその情報を頭の中で整理する。
レグル。
ラウゼン近くを通る予定の荷運び人。
ただし、ラウゼンへ必ず入るとは決まっていない。
出発も数日のうちというだけで、確定していない。
「その方に、もう何かお願いしたのですか?」
「北梟工房って名前の工房が今もあるか、なければ知ってる人がいるか、立ち寄れた場合だけ聞いてもらえないかって話を回してるところだ」
「エルドさんのことは?」
「まだだ」
ローデンははっきり答えた。
「いきなり人探しまで頼むと話が重くなる。まず工房があるのか、名前が残ってるのか。そこからだな」
エレナはゆっくり頷いた。
「私も、その方がよいと思います」
「手紙もまだ渡さない」
「はい」
「レグル本人が引き受けたって返事が来たら、その次を考える。ラウゼンへ寄れないなら、別の人を待つかもしれん」
昨日より、一つだけ具体的になった。
けれど、一気に答えへ近づいたわけではない。
それがエレナにも分かる。
「ありがとうございます」
「まだ礼を言われるほどじゃないぞ」
「でも、教えてくださったので」
「それなら受け取っとく」
ローデンが笑った。
◇
マーサは二人のやり取りを聞きながら、畳んだ布を籠へ戻していた。
「それで、エレナ。今からユウのところへ行くのかい?」
突然尋ねられ、エレナは目を瞬かせた。
「なぜですか?」
「昨日は知らせ聞いて行っただろ」
「昨日は、行きたいと思ったからです」
「今日は?」
エレナは自分へ問いかける。
レグルという名前が分かった。
ラウゼン近くを通る可能性も、昨日より具体的になった。
ユウへ話したいかと聞かれれば、話したい。
けれど、今すぐ会いに行きたいか。
(どうでしょう)
少し考えてみる。
「今すぐではありません」
「そうかい」
「でも、話したいです」
「なら後で話せばいい」
マーサはそれだけ言った。
ローデンが笑う。
「ずいぶんのんびりした話になったな」
「急ぐ理由がないからね」
「違いない」
ローデンは立ち上がる。
「俺は他にも寄るところがある。レグルの返事が来たら、また知らせる」
「お願いします」
「毎朝待ち構えるなよ」
冗談めいた声に、エレナも笑った。
「待ち構えません。でも、お会いした時に聞きたくなったら聞くかもしれません」
「それでいい」
ローデンは手を上げて家を出ていった。
◇
戸が閉じたあと、エレナはしばらく椅子へ座ったままだった。
嬉しい。
ただし、昨日とは少し違う。
昨日は、ラウゼンへ向かう人へ繋がる可能性ができたことそのものが大きかった。
今日は、その人に名前がついた。
レグルという一人の荷運び人が、数日のうちに西へ向かうかもしれない。
その途中でラウゼンへ寄れるかもしれない。
寄れないかもしれない。
まだ不確かなことばかりだ。
それでも、三軒目の家へ続く道が、少しずつ人から人へ渡されていることが分かる。
「嬉しそうだね」
マーサが言う。
「はい」
「でも行かないんだろ?」
「今は」
「何する?」
エレナは少し考えた。
今朝、何をしたいのか分からなかった。
けれど今は、一つ思いついている。
「歩きたいです」
「ユウのところじゃなく?」
「はい。一人で少し歩きたいです」
「なら行っといで」
エレナは立ち上がった。
◇
外へ出ると、雲の切れ間が広がっていた。
朝より光が強くなり、村の道には家々の影が落ちている。エレナはユウの家がある方角ではなく、井戸の方へ向かった。
目的はない。
水を汲む必要もない。
誰かに会う約束もない。
ただ、今は一人で歩きたかった。
井戸の近くまで来ると、ミレアが籠を持って立っていた。
「あら、エレナ」
「おはようございます、ミレアさん」
「水?」
「いいえ。今日は散歩です」
「朝から?」
「もう朝というには遅いでしょうか」
「まだ昼じゃないから朝でいいんじゃない?」
ミレアは笑い、籠を地面へ置いた。
「マーサに野菜持ってこうと思ってたところ」
「私が持ちましょうか?」
口にしてから、エレナは籠を見る。
それほど重そうには見えない。
けれど、ミレアは自分で持ってきた。
「持ってほしいですか?」
言い直すと、ミレアが少し目を丸くした。
「いや、自分で持てるよ」
「では、お任せします」
「前ならそのまま持ってったんじゃない?」
「たぶん」
「変わったねえ」
「少しずつです」
エレナは笑った。
できることと、やることは同じではない。
手伝えることと、相手が手伝ってほしいことも同じではない。
「散歩なら、南の方は今風が気持ちいいよ」
「ありがとうございます。行ってみます」
「鶏に追いかけられないようにね」
「オルドさんの鶏でしょうか」
「たまに出てるからね」
ミレアと別れ、エレナは南へ向かった。
◇
昨日ユウと歩いた道へ出た。
同じ場所なのに、一人で歩くと少し違って見える。
昨日は隣からユウの声が聞こえていた。
今日は風が草を揺らす音の方がよく聞こえる。
寂しいとは思わなかった。
かといって、昨日より今日の方がよいとも思わない。
(どちらも好きです)
ユウと歩く時間。
一人で歩く時間。
どちらかを選んだから、もう一方がいらなくなるわけではない。
木陰まで来たが、今日は座らなかった。
少し足を止めただけで、そのまま先へ進む。
道の向こうにオルドの鶏が見えた。
昨日と同じように、どれが以前脚を気にしていた一羽なのかは分からない。
今日はオルド本人の姿も見えなかったため、そのまま通り過ぎた。
さらに少し進んだところで、エレナは足を止める。
このまま歩けば、村の南端近くまで行ける。
行きたいかどうかを考えてみる。
「今日は、ここまででよいですね」
誰に聞かせるでもなく呟き、来た道を戻った。
目的地がなくても、終わる場所は自分で決められる。
◇
家へ戻る途中、道の先に見覚えのある姿を見つけた。
ユウだった。
片手に小さな袋を持ち、反対方向から歩いてくる。
エレナの足が自然に少し速くなる。
それに気づいて、自分で笑いそうになった。
(会えたら嬉しいと思っていました)
朝、自分から会いに行くほどではなかった。
ローデンから話を聞いたあとも、今すぐユウのところへ向かう気にはならなかった。
それでも、姿を見つければ嬉しい。
「ユウさん」
声をかけると、ユウもこちらを見た。
「エレナさん。散歩?」
「はい。一人で歩いていました。ユウさんは?」
「ガルドさんのところ」
「豆ですか?」
「いや、これ」
ユウが袋を少し持ち上げる。
「昨日、野菜余ってるって言ってたから分けてもらいに行く」
「ご自分で食べるためですか?」
「うん」
「それなら、用事ですね」
「今日はちゃんと用事」
昨日は話したいから来た。
今日は野菜をもらいに行く。
それだけの違いなのに、エレナには少し面白かった。
「ユウさん」
「ん?」
「話したいことがあります」
ユウが足を止める。
「今?」
エレナは考える。
道の真ん中で急いで話す必要はない。
「ガルドさんのところへ行く途中ですよね」
「急いではないよ」
「でも、私は家へ戻るところでした」
「じゃあ、一緒に歩く?」
「どちらへ?」
「エレナさんの家まで。そこから俺はガルドさんのところ行く」
「遠回りになりませんか?」
「少しだけ」
「それでもよいのですか?」
「今はそうしたいかな」
エレナは笑った。
「では、お願いします」
二人は並んで歩き始めた。
◇
「ラウゼンのことです」
エレナが切り出すと、ユウは少しだけ表情を変えた。
「何か分かった?」
「少しだけです」
エレナはローデンから聞いた内容を、分かっている範囲だけ説明した。
荷運び人の名前がレグルだということ。
四十歳前後の男性らしく、ゼムの知人商人と何度か仕事をしていること。
数日のうちに西へ向かう可能性があること。
ラウゼン近くを通る予定ではあるが、町そのものへ立ち寄れるかは荷と道次第で、まだ確定していないこと。
もし寄れるなら、まず北梟工房が今も存在するか、あるいはその名を知る人がいるかだけを尋ねてもらう予定であること。
「エルドさんを直接探してもらうわけじゃないんだ」
「はい。まだです。ローデンさんは、最初から人探しまでお願いすると負担が大きくなると言っていました」
「それがよさそうだね」
「手紙も、まだ渡しません」
「うん」
ユウは歩きながら少し考える。
「じゃあ、昨日より一歩進んだけど、まだ出発したわけでもないんだね」
「はい」
「ラウゼンに行けるとも決まってない」
「はい」
「でも、誰が行くかもしれないかは分かった」
「そうです」
エレナは嬉しくなる。
ユウが、自分と同じように事実を一つずつ分けてくれる。
「私は、それでも嬉しかったです」
「うん」
「でも、聞いてすぐユウさんの家へ行こうとは思いませんでした」
「そうなの?」
「はい。一人で歩きたいと思いました」
「それで散歩してたんだ」
「そうです」
エレナは少し間を置いた。
「でも、ユウさんへ話したくはありました」
「今会ったから話してくれた?」
「はい」
「そっか」
ユウは笑った。
「じゃあ、会えてよかった」
「私もです」
その言葉は、以前より自然に出た。
◇
「昨日は、話したくなって俺が行ったんだよね」
ユウが言う。
「はい」
「今日はエレナさんに話したいことがあって、たまたま会った」
「そうですね」
「こういうのでいいのかもね」
「こういうの?」
「毎回、わざわざ会いに行かなくても」
ユウは道の先を見ながら続ける。
「話したいと思っても、その時ほかにやりたいことがあるならそっちやって、あとで会った時に話すとか」
「忘れてしまったら?」
「それはそれで、そのくらいの話だったってことかもしれない」
エレナは少し考えた。
「大切なことなら?」
「忘れたくないなら書いとくとか、急ぐなら会いに行くとか」
「その時に決める?」
「うん」
エレナは頷いた。
「私も、それがよいです」
昨日、「話したい時に話す」と二人で確かめた。
けれど、それは「話したいと思った瞬間に必ず会いに行く」という意味ではなかった。
会いたい。
話したい。
けれど、今は一人で歩きたい。
それらは同時に存在してもよい。
「待つことが、少し増えた気がします」
エレナが言う。
「何を?」
「いろいろです。三軒目の家の返事も、石鹸の結果も、警戒線のことも」
「警戒線は、待ちたいものではないけどね」
「確かにそうですね」
二人で笑う。
「でも、以前の私は、待っているものがあると、それだけを考えていたように思います」
「返事来るまで何もできない感じ?」
「はい」
エレナは道端に咲く小さな白い花へ目を向ける。
「今は、返事を待っている間にも、本を読んだり、歩いたり、ユウさんと話したりできます」
「豆見たり」
「石鹸を使ったり」
「虫は見なかったり」
「はい」
思い返すと、ずいぶん多くのことがある。
三軒目の家の返事はまだ来ていない。
けれど、その間の日々が空白だったわけではない。
「返事が届くまでの時間も、私の生活なのですね」
「そうだと思うよ」
ユウの声は静かだった。
◇
マーサの家が見えてきた。
エレナは少しだけ歩みを遅くした。
もっと話したい気持ちはある。
しかし、ユウにはガルドのところへ行く用事がある。
「ここまでで大丈夫です」
「家の前まで行くよ」
「もう見えています」
「でも、俺が行きたいから」
その答えに、エレナは一瞬黙ったあと、笑った。
「では、一緒にお願いします」
家の前まで歩く。
マーサは外にいなかった。
「ユウさん」
「うん?」
「今日は中へ入りませんよね」
「野菜もらいに行くからね」
「はい」
少し寂しい。
けれど、今日はそれでよいとも思う。
「お話しできて嬉しかったです」
「俺も。ラウゼンのこと教えてくれてありがとう」
「また何か分かったら、話したいです」
「うん」
「でも、その時に一人で歩きたければ、先に歩くかもしれません」
ユウが笑った。
「いいと思う」
「ユウさんも、何か話したいことがあっても、木を削りたければ先に削ってください」
「そうする」
「忘れてしまったら?」
「忘れたって言うよ」
「それもよいですね」
二人は笑った。
「じゃあ行ってくる」
「はい。行ってらっしゃい」
ユウがガルドの畑の方へ歩いていく。
エレナは今度は長く見送らず、家へ入った。
◇
昼食後、エレナは朝に使った石鹸の影響を確認した。
赤みはない。
痒みも痛みもなく、乾燥してひりつくような感覚もない。
それ以上は触らず、マーサへ結果だけ伝えた。
「今のところ問題ありません」
「じゃあ今日は終わりだね」
「はい」
サナへすぐ報告しに行こうとは思わなかった。
異常が出たわけではない。
次に会った時でもよいだろう。
午後には『暮らしの小さな工夫』を開いたが、新しい章を数ページ読んだところで閉じた。
内容が難しかったわけではない。
ただ、今日はそこまででよいと思った。
◇
その頃、ガルドの畑では、ユウが袋へ野菜を詰めてもらっていた。
「もっと持ってけ!」
「これで十分だよ」
「遠慮すんな!」
「遠慮じゃなくて、食べ切れないから」
「明日食え!」
「明日もその次も野菜だけになるでしょ」
ガルドは不満そうだったが、ユウは袋へ追加しようとする手を止めた。
「腐らせる方がもったいないよ」
「じゃあなくなったらまた来い!」
「それなら来る」
「よし!」
話がまとまると、ガルドは満足そうに頷いた。
ユウは袋の口を閉じながら、先ほどエレナから聞いた話を思い出す。
ラウゼン。
北梟工房。
レグルという荷運び人。
少しずつ進んでいる。
エレナが三軒目の家へ住めるようになるなら、自分も嬉しい。
その気持ちは以前から変わっていない。
けれど、返事が来るまでエレナが何もできないわけではない。
今日も一人で散歩をしていた。
自分と偶然会えば笑ってくれた。
話したいことを話して、それから別れた。
(こういうのでいいんだよな)
ユウは野菜の入った袋を持ち直す。
自分にも帰る家がある。
エレナにも今はマーサの家がある。
いつか三軒目の家へ移るかもしれない。
移れないかもしれない。
まだ分からない。
分からないからといって、今日の暮らしまで止める必要はなかった。
◇
夕方になっても、東の警戒線は鳴らなかった。
ニコがマーサの家へ顔を出し、朝に見た黒い虫について話したが、新しく分かったことはほとんどなかった。
「板の近くにいた!」
「昨日と同じ場所ですか?」
「ちょっと違う!」
「どのくらい?」
ニコは両手を広げて示したが、その幅が昨日の位置との差なのか、虫が動いた距離なのか分かりにくかった。
エレナは笑いそうになるのを堪えながら尋ねる。
「石よりこちらでしたか?」
「石より向こう!」
「草の方?」
「うん!」
「板の下には入りましたか?」
「入ってない!」
「そのあと?」
「草!」
「では、今日分かったのは、黒い虫が板の近くにいて、そのあと草へ入ったことですね」
「うん!」
「昨日と同じ虫かは?」
「分かんない!」
「板があるからそこを通ったかは?」
「分かんない!」
ニコは元気よく答えた。
「よく覚えていますね」
「じいちゃんにも言われた!」
観察したことと、考えたことを分ける。
ニコなりに少しずつ身についているらしい。
「明日も見る!」
「見たいのですか?」
「うん!」
「なら、見てください」
「エレナも?」
「私は、明日になってから決めます」
「分かった!」
ニコは満足すると、ベルの家へ戻っていった。
◇
夜。
エレナは記録帳を開いた。
まず石鹸について書く。
『朝、一度使用。泡は少ない。使用直後、昼、夕方まで赤み、痒み、痛み、刺激なし。今日は自分で使いたいと思ったため使用した。昨日使わなかったこととは別に判断した。』
次に豆については、昨日ベルが調整した内容をすでに書いているため、新しいことはない。
ニコの虫について記す。
『ニコが朝、黒い虫を確認。板の近く、石より草側。その後草へ入った。以前の虫と同一か不明。板との関係も不明。私は現場を見ていない。』
自分が見ていないことも書いておく。
ニコから聞いた情報と、自分で確認した情報を混ぜないためだ。
それから、ラウゼンについて書いた。
『ゼムからローデンさんへ伝言。ラウゼン近くを通る可能性がある荷運び人の名前はレグル。四十歳前後の男性らしく、ゼムの知人商人と仕事をしたことがある。数日のうちに西へ向かう可能性があるが、出発日は未確定。ラウゼンへ立ち寄れるかも未確定。立ち寄れる場合、まず北梟工房が現存するか、名前を知る人がいるかを尋ねてもらう予定。エルドさんの直接捜索、手紙の受け渡しはまだ行わない。レグル本人が引き受けたかどうかも、まだ返事待ち。』
事実を書き終えると、エレナは少し息をついた。
一歩進んだ。
しかし、分からないことは多い。
それを以前ほど怖いとは思わなかった。
最後に、今日ユウと会ったことを書く。
『知らせを聞いた時、ユウさんへ話したいと思った。でも、すぐ会いに行くより一人で歩きたかったので散歩をした。帰り道で偶然ユウさんに会い、家まで一緒に歩きながら話した。』
筆を止める。
昨日なら、話したいと思ったから会いに行った。
今日は、話したいと思いながら一人で歩いた。
どちらも間違いではない。
『話したいことがあっても、すぐに話さなくてよいこともある。会いたい人がいても、一人でいたい時もある。大切なら、あとで話せばよい。急ぐなら会いに行けばよい。その時に決めてよい。』
その下へ、もう一つ書き加えた。
『返事が届くまでの時間も、私の生活。』
エレナはその言葉をしばらく眺めた。
三軒目の家に住みたい。
その気持ちは変わっていない。
エルドのことを知りたい。
北梟工房から何か手がかりが得られたら嬉しい。
早く返事が来てほしいと思う気持ちもある。
けれど、その答えが届くまで、自分の人生が止まっているわけではない。
今日も朝食を食べた。
石鹸を使った。
何もしない時間を過ごした。
ローデンから話を聞いた。
一人で歩いた。
ミレアと話した。
ユウに会った。
話したかったことを伝えた。
ニコの観察を聞いた。
どれも、返事が届くまでの「空いた時間」ではなかった。
(私は今日も、ルーデで暮らしていたのですね)
当たり前のことなのに、そう思えることが嬉しかった。
エレナは記録帳を閉じる。
明日、レグルから返事が来るかは分からない。
数日かかるかもしれない。
別の荷運び人を探すことになるかもしれない。
北梟工房がなくなっている可能性もある。
その先でエルドへ繋がる保証もない。
けれど、それらの答えが届くまでにも朝は来る。
食事をし、本を読み、誰かと話し、歩きたい時には歩く。
ユウに会いたくなる日もあれば、一人でいたい日もあるだろう。
どちらの日も、自分の時間だった。
(待っているだけではありません。私は、待ちながら暮らしているのです)
灯りを落とした部屋の中で、エレナはゆっくり目を閉じた。
遠い町へ向かうかもしれない一人の荷運び人の返事を待ちながら、それでも彼女の明日は、ちゃんとルーデの中で始まろうとしていた。




