第76話 話したくなったこと
朝の光が窓から差し込み始めた頃、エレナはマーサと向かい合って朝食を取っていた。
昨日の夕方に使った石鹸については、起きてから一度だけ両手を確認している。赤みも痒みもなく、指の間にも痛みはなかったため、今日はそれ以上気にしていなかった。
東の警戒線も静かなままだ。
ラウゼンへ繋がる荷運び人については、昨日ローデンから聞いた以上の情報はまだない。ゼムの知人である商人を通して、ラウゼン近くを通る者へ話を繋げられる可能性が出てきたものの、いつ出発するのかも、実際にラウゼンへ立ち寄れるのかも決まっていない。
北梟工房が今も存在するかどうかも分からないのだから、今朝になっただけで何かが判明するとは、エレナも考えていなかった。
「今日は静かだね」
マーサがパンをちぎりながら言った。
「はい。警戒線も鳴っていません」
「そっちじゃないよ」
「では、何でしょう?」
「あんたが朝から外を気にしてないって話さ」
言われてみれば、確かにそうだった。
昨日の朝までは、道を歩くローデンの姿がないか、東から誰かが戻ってこないかと、無意識に窓へ目を向けることが何度かあった。今日は食事を始めてから、ほとんど外を見ていない。
(待っていないわけではありません。でも、今すぐ届くと思っていないからでしょうか)
エレナは自分の感覚を確かめながら、温かいスープを一口飲んだ。
「昨日、少し進んだからかもしれません」
「ラウゼンの話かい?」
「はい。まだ何も決まっていませんが、次に何を待っているのかが分かりましたから」
「荷運び人が本当に向こうへ行けるかどうか、だったね」
「そのあと、北梟工房を知る人がいるかどうかです。ですから、今朝すぐに返事が届かなくても不思議ではありません」
口にしてみると、自分でも納得できた。
待っているものが漠然としていた時は、何かが起こるたびに「もしかしたら」と思っていた。今は次に必要な段階が見えているため、その一つ一つに時間がかかることも想像できる。
「それで今日はどうするんだい?」
マーサに尋ねられ、エレナは少し考えた。
「まだ決めていません」
「ユウのところは?」
「それも、まだです」
「昨日は行ったね」
「はい」
嬉しい知らせを聞いて、ユウの顔を見たいと思った。
その気持ちは今も大切に思っているが、だからといって今朝も同じように会いに行かなければならないわけではない。
「今日は、朝から会いに行きたいという感じではありません」
「嫌になったのかい?」
マーサの声には、本気で心配している様子はなかった。
エレナも小さく笑う。
「いいえ。会えたら嬉しいと思います」
「なら昨日とは違うってだけか」
「はい。たぶん」
昨日の気持ちを今日へ持ち越さなくても、昨日が嘘になるわけではない。
そのことを、エレナは少しずつ理解し始めていた。
◇
朝食の片づけを終えると、マーサは昨日取り込んだ布の一部を畳み始めた。
エレナも手伝おうかと考えたものの、マーサから頼まれる前に手を伸ばすことはしなかった。代わりに、食卓の上に置いてあった『暮らしの小さな工夫』を手に取る。
「今日は読むのかい?」
「今は読みたいです」
「なら読みな」
「布は大丈夫ですか?」
「一人でできるよ。あんたに頼みたくなったら頼む」
「分かりました」
エレナは食卓へ座り、本を開いた。
保存食について書かれた部分を少し読み進めると、乾燥させた食材は見た目だけでは状態を判断しにくい場合があり、保存する前に内部まで十分に乾いているかを確かめる必要がある、と書かれていた。
エレナはその箇所を読み返した。
(知ったからといって、今すぐ何かを乾燥させる必要はありません)
以前なら、本で知ったことを試さなければ覚えた意味がないと考えたかもしれない。
今は、知識として持っておくだけでもよいと思える。
必要になった時に思い出せればよいし、忘れたなら本を開き直してもよい。
何度かページを進めたところで、外から大きな声が聞こえてきた。
「マーサー!」
ガルドだった。
「朝からうるさいね!」
マーサが家の中から負けない声で返す。
エレナは本を閉じた。
戸が開くと、ガルドが顔を覗かせる。
「エレナいるか!」
「います」
「ベルに聞いてきたぞ!」
昨日の豆のことだとすぐに分かった。
「紐のことですか?」
「そうだ!」
ガルドは嬉しそうに頷いた。
「ベルがあとで畑見に来るってよ!」
「まだ答えは聞いていないのですか?」
「見ないと分からんって言われた!」
「そうですよね」
エレナは思わず笑った。
昨日、自分も「判断できない」と答えた。
ベルも実物を見るまでは決めないらしい。
「エレナも来るか?」
ガルドに尋ねられ、エレナは閉じた本を見る。
続きを読みたい気持ちはある。
しかし、豆の紐をどう調整するのかも少し見てみたい。
「ベルさんは、いつ来るのですか?」
「今からだ!」
「それなら、行きたいです」
「よし!」
ガルドは満足そうに頷く。
「マーサ、借りるぞ!」
「あたしの物じゃないよ。本人が行くって言ってるんだから連れてきな」
「はい!」
なぜかエレナが返事をすると、マーサが笑った。
「本は逃げないから、帰ってから読めばいいさ」
「はい。そうします」
エレナは本へ紙を挟み、ガルドと一緒に外へ出た。
◇
畑へ着くと、ベルはまだ来ていなかった。
朝の光を受けた豆の葉が風に揺れている。以前支柱を立てた株は、その時より明らかに高く伸びており、茎も太くなっていた。
エレナは昨日と同じように、紐へ触れずに眺める。
「やはり、少し狭くなっているように見えます」
「だろ?」
「でも、食い込んではいませんね」
「だから昨日は触らなかった!」
「よかったと思います」
自分が正しい調整方法を知っているわけではないため、それ以上は言わなかった。
しばらくすると、道の向こうからベルが歩いてきた。その後ろにはニコもいる。
「じいちゃん遅い!」
「お前が途中で虫見て止まったんだろうが」
「いたんだもん!」
ニコは悪びれた様子もなく答える。
「今日も虫がいたのですか?」
エレナが尋ねると、ニコは大きく頷いた。
「黒いやつ! でも昨日のと同じか分かんない!」
「覚えましたね」
「うん!」
ベルはそんな二人を横目で見ながら畑へ入った。
「どれだ、ガルド」
「こいつだ!」
ガルドが豆を指す。
ベルはすぐに紐へ手を伸ばさず、まず支柱と茎の位置を目で確認した。それから茎を傷つけないよう指先で紐との隙間を確かめる。
「まだ食い込んじゃいないな」
「緩めるか?」
「少しだけな」
「結び直す?」
「全部外す必要はない」
ベルは結び目を指で探りながら、ガルドへ説明する。
「支柱に縛りつけたいんじゃない。倒れすぎないよう助けてるだけだ。育てば太くなるんだから、その分の余裕は要る」
以前聞いた言葉とよく似ている。
支柱へ豆を合わせるのではなく、豆が育つのを支柱が助ける。
ベルは結び目を少しだけ動かし、茎との間に余裕を作った。
「これでいい」
「それだけか?」
「それだけだ」
「もっと緩めなくていいのか?」
「緩すぎりゃ支えにならん」
ガルドはしゃがみ込み、調整された紐を眺めた。
「また太くなったら?」
「また見ろ」
「いつ?」
「日にちで決めるな。茎見ろ」
「毎日?」
「毎日見たいなら見ればいいが、毎日触るな」
ベルの返事に、エレナは思わず頬を緩めた。
確認することと、手を加えることは同じではない。
「ベルさん」
「何だ?」
「昨日、私もガルドさんに聞かれました。でも、分からないのでベルさんに聞いてくださいと言いました」
「それでいい」
「一度支柱を立てるところを見たので、少しは分かると思ったのですが」
「一度見ただけで全部分かったら、俺はいらん」
ベルは平然と言った。
ガルドが大声で笑う。
「そりゃそうだ!」
「お前も笑ってないで覚えろ」
「見てたぞ!」
「なら次は自分で考えて、分からなきゃ聞け」
「おう!」
ベルは立ち上がり、腰についた土を払った。
エレナは支柱に沿って伸びる豆を眺める。
以前は傾いていた。
支えられたあとも、支柱へ固定されたまま同じ形でいるわけではない。成長すれば茎が太くなり、支え方も少し変える必要がある。
(助け方も、ずっと同じではないのですね)
必要な時に支える。
状態が変われば、支え方も変える。
その考え方は、ユウが以前の仕事について話した時にも似たものを聞いた気がした。
◇
豆の確認が終わると、ニコがエレナの袖を軽く引きかけ、触れる直前で手を止めた。
「エレナ、虫見る?」
「今いるのですか?」
「さっきいた!」
「今もいるかは分からない?」
「分かんない!」
答えがずいぶん自然になっている。
エレナは少し考えたが、今日は首を横に振った。
「今日は行きません」
「何で?」
「昨日見ましたから、ではありません」
エレナは先にそこを否定してから、自分の気持ちを確かめる。
「今は家へ戻って、本の続きを読みたいからです」
「虫より本?」
「今はそうです」
「そっか!」
ニコはそれだけで納得した。
「俺は虫見る!」
「板の下を動かすなら、ベルさんに聞くと言っていましたね」
「じいちゃん!」
「聞こえてるよ」
ベルが少し離れたところから返す。
「勝手にひっくり返すな。虫がいるかもしれんからな」
「棒ならいい?」
「まず俺が見る」
「分かった!」
ニコはすぐにベルのところへ走っていった。
エレナはガルドへ挨拶をして畑を離れた。
◇
マーサの家へ戻ると、朝の続きから本を読み始めた。
今度はしばらく集中できた。
保存食の章を読み終えるところまで進めたものの、その先の章へは入らなかった。まだ午前中ではあったが、今日はここまでで十分だと思ったからだ。
本を閉じて伸びをする。
「読み終わったのかい?」
「章の終わりまでです」
「次は?」
「今日は読みません」
「珍しくきりがいいところで止めたね」
「きりがよかったので」
「続きが気にならないのかい?」
「少し気になります。でも、今は別のことをしたくなりました」
「何を?」
尋ねられて、エレナはまだ答えを持っていないことに気づいた。
「それを、これから考えます」
「忙しいねえ」
マーサは笑いながら針仕事へ戻った。
エレナは窓辺へ行く。
外は朝より少し明るくなっている。道には人影が少なく、遠くの畑から話し声が聞こえていた。
ユウは今頃、何をしているのだろう。
木を削っているかもしれない。
ベルのところへ行っているかもしれない。
家で何もしていないかもしれない。
(会いたいでしょうか)
自分へ問いかけてみる。
会えたら嬉しい。
けれど、昨日のように今すぐ顔を見たいというほどではない。
「今日は、まだ行かなくてよいですね」
「何がだい?」
「ユウさんのところです」
「さっきからそれ考えてたのかい?」
「少しだけです」
「行かないって決めた?」
「いいえ。今は行かないだけです」
マーサは針を動かしながら、「そうかい」とだけ答えた。
◇
昼が近づいた頃、戸を叩く音がした。
エレナは食卓に並べる皿を持っていたため、マーサが戸を開ける。
「あら、ユウかい」
その名前を聞いた瞬間、エレナの手がわずかに止まった。
皿を落とすほどではない。
ただ、胸の奥が一度だけ明るく跳ねるような感覚があった。
「こんにちは」
ユウが家へ入ってくる。
「こんにちは、ユウさん」
エレナは皿を置いてから振り返った。
ユウは何も持っていなかった。
卵も本も道具もない。
「今日は、何かご用ですか?」
尋ねてから、以前にも似た質問をしたことを思い出す。
ユウは少しだけ照れたように頬を掻いた。
「用事ってほどじゃないんだけど」
「はい」
「話したくなったことがあって」
エレナの胸が、先ほどより少し強く鳴った。
「私に、ですか?」
「うん」
昨日、二人で話したばかりだった。
何かあった時、毎日報告する義務にはしない。
それでも、話したいと思ったことがあれば話す。
ユウも、エレナへ何かを話したいと思うことが増えたと言っていた。
その翌日に、本当に彼が来た。
「聞きたいです」
エレナがそう答えると、ユウの表情が柔らかくなった。
「大した話じゃないよ」
「大した話でなくても聞きたいと、昨日言いました」
「そうだったね」
「どうぞ座ってください」
マーサが二人を見比べる。
「昼前だけど、ユウも食べるかい?」
「いいの?」
「嫌なら帰んな」
「食べたいです」
「なら座っときな。まだできてないけどね」
ユウは素直に椅子へ座った。
エレナも向かいへ座ろうとしてから、昼食の準備が途中だったことを思い出す。
「私は皿を並べます」
「手伝う?」
「ユウさんは話しに来たのでしょう?」
「話しながらでもできるよ」
「では、布を置いていただけますか?」
「分かった」
二人で食卓を整えながら、ユウが話し始めた。
◇
「今朝、ベルさんのところ行ったんだ」
「ベルさんのところへ?」
「昨日削った木、見せようと思って」
エレナは少し驚いた。
「昨日は、今日行くとは決めていませんでしたよね」
「決めてなかったよ。朝起きたら見せたくなった」
「それで行ったのですか?」
「うん」
ユウは折り畳んだ布を食卓へ置く。
「ベルさん、何と言っていましたか?」
「前よりましだって」
「褒められたのですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「ベルさんだから」
エレナは笑った。
ベルなら、確かに大げさに褒めることはしなさそうだった。
「深く削ってしまったところは?」
「残ってる。でも、無理に消さなくていいって」
「やはり、そうなのですね」
「それで、別のところも少し見てもらったんだけど……」
ユウはそこで少し笑う。
「今度は削らなくていいところを削ろうとして止められた」
「失敗したのですか?」
「削る前だったから、失敗まではしてないかな」
「ベルさんが止めた?」
「うん。そこは今触らなくていいって」
エレナは最後の皿を置き、ユウの向かいへ座った。
「それを、私に話したかったのですか?」
「それもある」
「他にも?」
ユウは少しだけ迷った。
「ベルさんに見せたあと、エレナさんに話したいなって思った」
エレナは何も言わず、続きを待つ。
「昨日、エレナさんが『嬉しい時に俺の顔を見たい』って言ってくれたでしょ」
「はい」
「あれ聞いて、俺もそういうの言っていいのかなって思って」
「もちろんです」
「だから来た」
ユウは少し照れたように視線を食卓へ落とす。
「褒められたのかよく分からないくらいの話だけど、話したかったから」
エレナは胸の前で両手を重ねた。
嬉しい。
昨日、自分がユウへ伝えたかった気持ちと似ている。
大きな知らせではない。
村の未来を変えることでもない。
それでも、ユウが何かを経験した時、そのことを自分へ話したいと思ってくれた。
(私は、こういうことが嬉しいのですね)
胸の内で言葉にすると、その感情がさらに輪郭を持った。
「ありがとうございます」
「そんなに?」
「はい」
「木を削った話だよ?」
「内容だけではありません」
エレナはユウを見る。
「ユウさんが、私に話したいと思ってくださったことが嬉しいです」
ユウはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「じゃあ来てよかった」
「はい。私も、来てくださって嬉しいです」
◇
台所から鍋を混ぜる音が聞こえる。
マーサは二人の会話へ入ってこなかった。
ただ、背中を向けたまま、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
少し前までのエレナなら、誰かが自分を訪ねてきた時、まず「何の用だろう」と身構えていただろう。頼まれること、命じられること、何かを返さなければならないことを先に考えていた。
ユウの方も似たようなものだ。
最初の頃は、誰かの家へ行く時には卵や道具や本など、何かしら理由を持っていることが多かった。
それが今では、話したいことがあるから来る。
会いたいから来る。
来ても、相手が別のことをしたければ帰れる。
マーサには、二人が何と呼ぶ関係になるのかは分からなかった。
今のところ、本人たちも名前をつける気はなさそうだ。
ならば、外から急いで決める必要もない。
「できたよ」
マーサは鍋を食卓へ運んだ。
「今日は残り野菜の煮込みだ。文句あるなら自分で作んな」
「ありません」
「俺もないです」
「じゃあ食べな」
三人の昼食が始まった。
◇
食事の途中で、エレナは朝の豆畑についてユウへ話した。
ガルドに呼ばれて見に行ったこと。
茎が太くなり、紐との隙間が小さくなっていたこと。
ベルが実物を確認し、ほんの少しだけ緩めたこと。
「ベルさんが、『毎日見たいなら見てもよいけれど、毎日触るな』とガルドさんに言っていました」
「言いそう」
「私も昨日、ガルドさんに尋ねられました。でも判断できなかったので、ベルさんに聞いてくださいと答えました」
「それでよかったんじゃない?」
ユウが言ったところで、エレナは笑う。
「また言いました」
「何を?」
「『それでよかったんじゃない』です」
「ああ」
昨日も似た話をした。
ユウも思い出したらしく、苦笑する。
「でも、本当にそう思ったから」
「はい。私も今日は、そう思っています」
エレナは煮込まれた野菜を匙ですくう。
「以前なら、一度見たことがあるのだから何か答えなければ、と思ったかもしれません」
「今は?」
「知らないものは知らないと言った方が、豆にもよいと思いました」
「豆にも?」
「間違ってきつく結び直してしまったら、困るでしょう?」
「確かに」
マーサが横から口を挟む。
「豆にまで責任感を押しつけなくなったなら進歩だね」
「豆へ責任感を押しつけていたわけではありません」
「似たようなもんだよ」
マーサは笑いながらパンをちぎった。
◇
昼食後、ユウはすぐには帰らなかった。
エレナも追い返したいとは思わない。
「このあと、何か予定はありますか?」
「ないよ」
「木は?」
「今日はもう削らないかな」
「ベルさんのところで削ったのですか?」
「少しだけ。見てもらう時に触ったから」
「では、今日はそこまで?」
「今のところは」
ユウはそこでエレナを見る。
「エレナさんは?」
「午前中に本を読みました。午後はまだ決めていません」
「じゃあ、散歩する?」
エレナは少し驚いた。
最近は自分から誘うことも増えていたが、今日はユウからだった。
「行きたいのですか?」
「うん。今は」
「私も行きたいです」
答えるまでに、それほど時間はかからなかった。
「マーサさん、少し歩いてきます」
「好きにしな。暗くなるような時間じゃないだろ」
「はい」
二人は家を出た。
◇
村の中央から少し南へ向かう道を選んだ。
東の警戒線に近づく道ではない。
西へ出る街道でもない。
畑と家の間を抜け、村の南側をゆっくり回るだけの道だった。
風は弱く、昼の光に温められた土の匂いがする。少し離れた場所では、誰かが畑仕事をしている音が聞こえていた。
「今日はどこまで行きますか?」
エレナが尋ねる。
「決めてない」
「では、歩きながら?」
「疲れたか、帰りたくなったら戻る感じで」
「はい」
並んで歩く。
肩が触れるほど近くはない。
それでも、以前より互いの歩幅を気にせず自然に隣を歩けるようになっていた。
「ユウさん」
「ん?」
「今日、私が家にいなかったらどうするつもりでしたか?」
「帰ったと思う」
「待ちませんでしたか?」
「どこ行ったか分からないし」
「探しには?」
「しないかな」
ユウは少し考えてから続ける。
「急ぎの用事じゃないから。話したかっただけだし」
「では、会えなければ?」
「また今度でいいかなって」
エレナはその答えを聞いて、安心した。
自分も同じでありたい。
会いたくて訪ねても、相手がいなければ帰る。
それで相手を責めない。
「私は、ユウさんがいなかった時、少し残念だと思うかもしれません」
「俺もたぶん思うよ」
「それでも、探し回らない?」
「うん」
「よかったです」
「何が?」
「会いたいと思うことと、必ず会わなければならないことが、別のままだからです」
ユウは少しだけ笑う。
「エレナさん、最近そこすごく確認するね」
「大切なので」
「俺も大事だと思うよ」
ユウの声は穏やかだった。
◇
南側の道をしばらく進むと、オルドの鶏が見える場所へ出た。
柵の内側では何羽かが土をつついている。
以前右脚を気にしていた一羽がどれなのか、今日もエレナには見分けられない。
「聞きますか?」
ユウが尋ねる。
オルドは少し離れたところで何かを運んでいる。
エレナは鶏を見てから首を横に振った。
「今日は聞きません」
「気にならない?」
「少しは。でも、先日も普通だと聞きましたし、今はユウさんと歩きたいです」
「そっか」
「ユウさんは聞きたいですか?」
「俺も今はいいかな」
二人はそのまま歩いた。
鶏の状態を気にかけることと、毎回確認することは同じではない。
必要ならオルド自身が見ている。
エレナたちがすべてを見守り続ける必要はなかった。
◇
道の先で、大きな木の影が地面へ落ちていた。
以前にも何度か休んだことのある場所だ。
「座りますか?」
エレナが尋ねる。
「座りたい?」
「はい」
「俺も」
二人は木の根元から少し離れた、平らな草の上へ腰を下ろした。
頭上では葉が風に揺れ、その隙間から落ちる光が地面の上でゆっくり動いている。
しばらく、どちらも話さなかった。
エレナは膝の上で両手を重ねる。
ユウが隣にいる。
今日、自分から会いに行ったわけではない。
それでも、ユウの方から訪ねてきてくれた。
しかも、何かを頼むためでも、物を届けるためでもなかった。
「ユウさん」
「うん?」
「今日来てくださった時、嬉しかったです」
「さっきも言ってたね」
「はい。でも、今もそう思っています」
エレナは木漏れ日の落ちる地面を見る。
「朝は、自分から会いに行くほどではないと思っていました」
「うん」
「でも、ユウさんが来た時は嬉しかったです」
「それって変?」
「以前の私なら、変だと思ったかもしれません」
エレナは少し笑う。
「会いたいなら自分から行くべきで、行かなかったなら会いたくなかったはずだ、と考えたかもしれません」
「今は?」
「どちらでもなかったのだと思います」
言葉を探しながら続ける。
「朝の私は、自分から会いに行くほど強く会いたかったわけではありません。でも、会いたくなかったわけでもありません。だから、ユウさんが来てくださった時には嬉しかった」
「そういうの、普通にあると思うよ」
「ありますか?」
「あるよ。俺も今日、朝起きた瞬間からエレナさんに会いに行こうって決めてたわけじゃないし」
「ベルさんのところへ行ったあとでしたね」
「うん。話したいなって思って、それから行った」
エレナは横を向く。
「では、朝の時点では、私に会いたいとは思っていなかった?」
「考えてなかったかな」
「それを聞いても、嫌ではありません」
「ほんと?」
「はい」
むしろ安心する。
ユウの一日の中心が、いつも自分でなくてよい。
自分の一日の中心も、いつもユウでなくてよい。
それでも、何かがあった時に思い出す。
顔を見たいと思う。
話したいと思う。
その関係が、エレナには心地よかった。
「でも」
エレナは少し迷ってから続けた。
「思い出してくださったことは、とても嬉しいです」
ユウが目を細める。
「俺も、昨日エレナさんが知らせ持ってきてくれた時、そうだったよ」
「では、同じですね」
「たぶんね」
二人の間に、静かな時間が流れた。
◇
ユウは木の幹へ背を預けながら、隣に座るエレナを横目で見た。
初めて会った頃より、彼女の表情はずっと分かりやすくなった。
笑う時は笑う。
分からない時は分からないと言う。
行きたい時には行きたいと言い、帰りたい時には帰る。
もちろん、いつでも迷わずできるわけではない。今でも一度立ち止まり、自分が何をしたいのか確かめることは多い。
けれど、それをユウは面倒だと思わなかった。
(俺も似たようなことしてるしな)
自分も、何かを始める前に「本当にやりたいのか」と考えることが増えた。
仕事をしていた頃は、そんな確認をする余地がほとんどなかった。
必要だからやる。
担当だからやる。
人が足りないからやる。
誰かがやらなければならないから、自分がやる。
それを繰り返しすぎて、自分が何をしたいのか分からなくなった。
今は、木を削るだけでも止まることを考える。
誰かに会いに行く時にも、行きたいのか考える。
その結果、今日はエレナに会いに来た。
理由は小さなものだった。
ベルに木を見せた。
少しだけ褒められたような気がした。
削らなくていい場所を削ろうとして止められた。
それだけだ。
それなのに、エレナへ話したいと思った。
(こういうの、前なら誰かに話したかな)
職場であれば、必要な報告はしていた。
事故。
体調。
食事量。
申し送り。
けれど、「ちょっと嬉しかったから話したい」と思える相手がいたかと聞かれると、すぐには思い浮かばない。
ユウはその答えを無理に出さなかった。
今、隣にはエレナがいる。
それで十分だった。
◇
「そろそろ戻りますか?」
エレナの声で、ユウは顔を上げた。
「帰りたい?」
「少し」
「じゃあ戻ろうか」
二人は立ち上がった。
帰り道も急がない。
途中で東の方角から警戒線の音が聞こえることはなく、村の中にも慌ただしい動きはなかった。
「今日は静かですね」
エレナが言う。
「うん」
「警戒線のことを忘れていたわけではありません」
「分かってるよ」
「でも、ずっと考えてはいませんでした」
「それでいいんじゃない?」
ユウが答えたところで、エレナが笑う。
「またです」
「もう口癖かも」
「私は好きですよ」
今度はユウも意味を取り違えなかった。
「じゃあ、無理に直さなくていいか」
「はい。ユウさんが言いたい時には」
「言いたくなくなったら?」
「言わなくてよいです」
「分かった」
そんな話をしながら、マーサの家へ戻った。
◇
家の前へ着いたところで、ユウは足を止めた。
「俺はここで帰るよ」
「中には入りませんか?」
「今日はもういいかな」
エレナは一瞬だけ寂しいと感じた。
昼食も一緒に食べ、散歩もした。
それでも、もう少しいてくれたら嬉しいと思う。
けれど、その気持ちと、ユウが帰りたいという気持ちは別だ。
「分かりました」
エレナは笑う。
「今日は来てくださって、本当に嬉しかったです」
「俺も話せてよかった」
「次も、話したくなったら来てください」
「うん」
「大したことではなくても」
「エレナさんもね」
「はい」
エレナは少し考えてから続ける。
「何も話すことがなくても、会いたくなったら行きます」
「それもいいね」
「ユウさんも?」
「俺も」
約束というほど固いものではない。
明日必ず会うという意味でもない。
ただ、会うために立派な理由を用意しなくてもよいということを、互いに確かめただけだった。
「では、また」
「またね」
ユウは自分の家へ向かって歩き出した。
エレナは数歩だけその背中を見送り、戸を開けた。
◇
「帰ったかい?」
マーサは食卓で布を畳んでいた。
「はい」
「今日はずいぶん楽しそうだったね」
「分かりましたか?」
「見ればね」
エレナはマーサの向かいへ座る。
「ユウさん、私に話したいことがあって来てくださったそうです」
「木の話だろ?」
「聞こえていたのですね」
「同じ部屋にいたんだから聞こえるよ」
「そうでした」
エレナは少し笑う。
「私は、それがとても嬉しかったです」
「木の話が?」
「ユウさんが、私に話したいと思ってくださったことです」
「そうかい」
マーサはそれ以上からかわなかった。
エレナも、自分の気持ちへ名前をつけようとはしなかった。
嬉しい。
今は、それだけ分かればよい。
◇
夕方、エレナは石鹸を使わなかった。
朝にも使っていないため、今日は一度も使わないことになる。
それでも、サナからは「使いたい日に使えばよい」と言われている。
異常が出たから中止したわけではない。
ただ、今日は使いたいと思う場面がなかった。
「今日は使わないんだね」
マーサが尋ねる。
「はい。今日はこのままでよいと思います」
「明日は?」
「明日決めます」
「もう聞かなくても答えが分かるようになってきたよ」
マーサが笑う。
エレナも笑った。
◇
夜になっても、ラウゼンから新しい知らせはなかった。
東の警戒線も静かなままだ。
エレナは記録帳を開き、今日の出来事を整理した。
『ガルドさんの豆は成長して茎が太くなり、支柱の紐との隙間が小さくなっていた。ベルさんが実物を見て、食い込みはないことを確認したうえで少しだけ緩めた。支柱は豆を固定するためではなく、倒れすぎないよう支えるもの。育てば支え方も変わる。』
続いて、ニコの虫について書く。
『ニコは朝に黒い虫を見た。以前の虫と同じ個体かは不明。私は今日は虫道へ行かなかった。昨日見たからではなく、今日は本の続きを読みたかったため。』
石鹸については短く残す。
『今日は使用なし。赤み、痒み、痛みなし。異常があったから中止したのではなく、今日は使いたいと思わなかった。』
ラウゼンについては、新しい事実がない。
警戒線にも新しい反応はない。
何も増えていないことを毎日詳しく書く必要はないため、そこには触れなかった。
そして、ユウのことを書く。
『ユウさんが、私に話したいことがあって来てくれた。』
その一文を書いたあと、エレナは少しだけ筆を止めた。
短い出来事なのに、今日一番よく覚えている。
『ベルさんに木を見せ、前よりよくなったと言われたらしい。削らなくてよい場所を削ろうとして止められたとも話してくれた。大きな出来事ではないけれど、私に話したいと思ったから来たと言ってくれた。』
エレナは自分が返した言葉も記す。
『私は、内容だけではなく、ユウさんが私に話したいと思ってくれたことが嬉しいと伝えた。』
そこまで書いて、胸の奥へ今日の温かさが戻ってくる。
昨日は、自分が嬉しい知らせをユウへ持っていった。
今日は、ユウが小さな出来事を自分へ持ってきてくれた。
毎日報告する約束はしていない。
だからこそ、話したいと思って来てくれたことが嬉しい。
『朝の私は、自分からユウさんへ会いに行くほどではなかった。でも、ユウさんが来た時は嬉しかった。会いに行かなかったことと、会いたくなかったことは同じではない。』
さらに、散歩のことも書く。
『ユウさんから散歩へ誘ってくれた。南側を歩いた。オルドさんの鶏は見えたが、今日は状態を聞かなかった。今はユウさんと歩きたかったから。』
最後に、少し考えてから一行を加える。
『何かがあった時に話したいと思える人がいることが、私は嬉しい。』
ユウだけとは書かなかった。
マーサにも話したいことがある。
サナにも、ニコにも、村の人たちにも、それぞれ話したいことはある。
それでも、ユウへ話したいと思う時の感覚が、少しずつ他とは違うものになっていることには、エレナ自身も気づき始めていた。
(違うのでしょうか)
問いは浮かぶ。
けれど、今夜も答えを決める必要はない。
好きなルーデの中にユウがいる。
ユウに会いたい日がある。
嬉しい時に顔を見たい。
話したいことができた時に思い出す。
そして、ユウも自分へ同じような気持ちを向けてくれることがある。
今は、その一つ一つを受け取ればよかった。
エレナは記録帳を閉じる。
明日になれば、ラウゼンへの道が少し進むかもしれない。
何も変わらないかもしれない。
警戒線が鳴る可能性もあれば、静かなままかもしれない。
ユウに会いたくなるかどうかも、まだ分からない。
けれど、今日のことなら分かる。
(今日は、ユウさんが私に話しに来てくれたことが、とても嬉しかったです)
その気持ちを無理に別の名前へ変えることなく、エレナは灯りを消した。
答えを急がなくても、誰かを大切に思う時間は、ちゃんと積み重なっていた。




