第75話 届くまでの暮らし
朝食を終えたあと、エレナは洗面に使う物を置いている棚の前で、小さな布包みに目を留めた。
中に入っているのは、サナから預かった試用中の石鹸だ。
昨日まで三度使い、今朝も手には赤みや痒み、痛みはない。サナからは、一日一回までなら自分で使いたい日に使ってよいと言われている。
エレナは布包みへ手を伸ばしかけて、少し考えた。
(今日は、どうしましょう)
使ってはいけない理由はない。
昨日まで問題がなかったので、今日も使って状態を確かめたい気持ちもある。
ただ、今すぐ使いたいかと自分へ尋ねると、答えは少し違った。
「……あとでよいですね」
布包みをそのままにする。
使わないと決めたわけではない。
朝に使わなかったからといって、今日一日使えなくなるわけでもない。
エレナは棚から離れた。
「石鹸使わないのかい?」
後ろからマーサの声がした。
「今は使いません」
「何かあった?」
「いいえ。何もありません。ただ、今は顔を洗ったばかりですし、手も汚れていないので」
「そりゃそうだ」
「あとで使いたくなったら使います」
マーサはそれだけ聞くと、台所へ戻っていった。
エレナも食器の片づけを手伝う。
今日は静かな朝だった。
東の警戒線は鳴っていない。
昨日も新しい反応はなかった。
ラウゼンからの知らせも届いていない。
ユウに会うかどうかは、まだ決めていなかった。
昨日は朝から会いたいと思い、自分から彼の家へ行った。
今日はどうだろう。
会いたくないわけではない。
思い浮かべれば、顔を見たいとも思う。
けれど、今すぐ家を出て会いに行きたいというほど強い気持ちでもなかった。
(昨日と同じでなくてもよいのですね)
昨日会いたかった。
今日も同じ気持ちでなければならない理由はない。
エレナは皿を一枚拭き終え、棚へ戻した。
◇
「エレナ!」
午前の半ば、家の前からニコの声がした。
昨日に続いて今日も元気だった。
エレナが外へ出ると、ニコは何も持たずに立っている。
「おはようございます」
「虫いた!」
「虫道ですか?」
「うん!」
ニコは大きく頷いた。
「板の横から来て、石の手前で止まって、草の方行った!」
「昨日と同じ虫ですか?」
「分かんない!」
「そうですね」
そこを最初から分からないと言えるようになったらしい。
「色は?」
「黒!」
「大きさは?」
ニコが指で幅を示す。
以前聞いたものと大きくは違わないように見える。
ただし、エレナ自身が前の虫を測ったわけではない。
「昨日置いていた枝はどうなりましたか?」
「そのまま!」
「虫は枝の近くへ行きましたか?」
「行ってない!」
「そうですか」
「見に来る?」
エレナは少し考えた。
今日は、今なら見てみたい。
「行きます」
「ほんと!?」
「はい。ただ、虫がまだいるとは限りませんよ」
「いるかも!」
「そうですね。いるかもしれません」
エレナは家の中へ顔を向ける。
「マーサさん、ニコの虫道を見てきます」
「はいよ。昼までには戻るのかい?」
「そのつもりです」
「なら行っといで」
エレナはニコと一緒に歩き出した。
◇
虫道へ着いた時、黒い虫の姿はなかった。
「いない!」
「移動したのでしょうか」
「さっきいたのに!」
ニコは板の周囲を探し始める。
エレナも少し離れた位置から見る。
板。
小さな石。
昨日から置かれている枝。
草。
どれも大きく変わったようには見えない。
「板、動かす?」
ニコが尋ねる。
「私は動かしません」
「何で?」
「ニコが置いた物ですから」
「動かしていいよ!」
「では、ニコが動かしたいなら、ニコが動かしてください」
ニコは板へ手を伸ばしかけ、止めた。
「虫、下にいるかな?」
「いるかもしれません」
「動かしたら逃げる?」
「いるなら、驚くかもしれません」
ニコは考える。
「じゃあやめる」
「そうしますか?」
「うん。あとで出てくるかもしれないから」
板はそのままになった。
エレナは近くへしゃがむ。
「今日は、どのくらい見ますか?」
「いっぱい!」
「いっぱいとは?」
「……分かんない」
「では、見たくなくなるまででしょうか」
「うん!」
ニコは板を見つめる。
エレナも付き合ってみる。
けれど、しばらくしても虫は現れなかった。
鳥の声がする。
道の向こうを村人が一人通り、二人へ「何してるんだ」と声をかけた。ニコが「虫待ってる!」と答えると、村人は笑いながら去っていった。
さらに少し待つ。
虫は来ない。
(私は、もう十分でしょうか)
エレナは自分へ尋ねる。
答えはすぐに出た。
「ニコ、私はそろそろ帰ります」
「もう?」
「はい。虫道は見たかったので来ました。でも、今はもう帰りたいです」
「虫まだ来てないよ?」
「来るまで待つとは決めていませんでしたから」
「そっか」
「ニコはどうしますか?」
「もうちょっと見る!」
「分かりました」
エレナは立ち上がる。
「板の下を見るかどうかも、ニコが決めてください。ただ、虫がいるかもしれないなら、手で直接触らない方がよいと思います」
「棒使う!」
「それなら、ベルさんにも聞いてからの方がよいかもしれません」
「分かった!」
エレナは虫道を離れた。
来たいと思ったから来た。
帰りたいと思ったから帰る。
虫が現れるという結果を得られなくても、それで失敗ではなかった。
◇
家へ戻る途中、ガルドの畑の前を通った。
「おう、嬢ちゃん!」
「おはようございます」
「ちょうどいい!」
ガルドが手招きする。
エレナは畑の外から尋ねた。
「何かありましたか?」
「こいつ見てくれ!」
指されたのは、以前ベルとユウが支柱を立てた豆だった。
エレナは畑へ入ってよいか確認してから近づく。
豆は支柱に沿って伸びている。
結んだ紐も残っていた。
「伸びましたね」
「だろ!」
「紐は大丈夫なのですか?」
「そこ見てたんだよ」
ガルドが指を近づける。
エレナも触れずに見る。
茎が太くなったため、以前より紐との隙間が小さくなっているように見えた。
「きつくなっていますか?」
「まだ食い込んじゃいねえ」
「では、変えないのですか?」
「今日か明日には少し緩めてもいいかと思ってな」
「ベルさんには聞きましたか?」
「まだだ!」
「ユウさんは?」
「まだだ!」
ガルドは胸を張る。
「じゃあ、なぜ私に?」
「通ったからだ!」
「なるほど」
エレナは笑ってしまった。
「私は豆の支柱については、前に一度見ただけですよ」
「知ってる!」
「では、私には判断できません」
「そうか!」
「はい」
「じゃあベルに聞く!」
ガルドはまったく気を悪くしなかった。
エレナは豆をもう一度見る。
「でも、前より伸びているのは分かります」
「そうだろ!」
「支柱を立てた時は、まだこちらまで届いていませんでした」
「育つからな!」
当然のことなのに、ガルドは嬉しそうだった。
エレナも少し嬉しくなる。
「ベルさんに聞いたら、私にも教えてください」
「おう!」
エレナは畑を離れた。
知っていることだけ言う。
知らないことは、知っている人へ聞く。
以前なら、せっかく頼られたのだから何か答えなければならないと思ったかもしれない。
今日は「分からない」と言えた。
◇
マーサの家が見えてきたところで、前方からローデンが歩いてくるのが見えた。
エレナの足が、ほんの少し速くなる。
自分でも気づいた。
(期待しています)
ラウゼン。
北梟工房。
エルド。
三軒目の家。
いくつもの言葉が一度に浮かぶ。
ローデンもエレナへ気づいた。
「ちょうどよかった」
その一言で、胸がさらに高鳴った。
「何か届きましたか?」
「届いた、というほどじゃない」
エレナは歩みを止める。
「では、何でしょう」
「ゼムから追加の伝言だ」
「ラウゼンについて?」
「ああ」
期待してよいのか、それともまだ早いのか分からない。
エレナは一度息を整えた。
「聞かせてください」
「マーサのところでいいか?」
「はい」
二人で家へ向かった。
◇
「今度こそ紙を持ってきたのかい?」
マーサがローデンを見るなり言った。
「今日は口伝だ」
「紙じゃないのかい」
「毎回紙を運んでるわけじゃないぞ」
「前にも似たようなこと言ってたね」
ローデンは苦笑しながら椅子へ座った。
エレナも向かいへ座る。
「ゼムさんから、どのような伝言が?」
「ラウゼンへ行く人間が見つかった」
エレナは一瞬、言葉を返せなかった。
「……見つかったのですか?」
「ああ」
「もう、向かったのでしょうか」
「そこはまだだ」
ローデンは手を上げる。
「順番に話す」
「はい」
エレナは急いで続きを聞こうとする気持ちを抑えた。
「ゼムが知り合いの商人に声をかけた。その商人本人がラウゼンへ行くわけじゃない。ラウゼンの近くを通る荷運び人と取引があるらしい」
「では、その荷運び人へ頼むのですか?」
「そういう話になってる」
「名前は?」
「荷運び人の名前まではこっちに来てない」
「いつ出るのでしょう」
「それもまだ決まってない」
「北梟工房が今もあるかは?」
「分からん」
「エルドさんのことも?」
「まだ何も増えてない」
エレナは一つずつ受け止める。
ラウゼンへ行く人間が見つかった。
正確には、ラウゼン近くを通る荷運び人との繋がりが見つかった。
しかし、まだ出発していない。
北梟工房が存在するかも分からない。
エルドがいるかどうかも分からない。
「では、今分かったのは……」
エレナは自分で整理してみる。
「ゼムさんが、ラウゼンの近くを通る荷運び人と繋がりのある商人を見つけた。その方を通して、荷運び人へ北梟工房のことを尋ねてもらえる可能性がある。ですが、出発時期や、実際にラウゼンへ寄れるかまでは、まだ確定していない」
「そんなところだ」
ローデンが頷く。
「『ラウゼンへ行く人間が見つかった』って言うと、もう明日にも手紙が着きそうに聞こえるからな。実際はまだ間に人がいる」
「はい」
エレナは胸へ手を置いた。
嬉しい。
確実な返事ではない。
それでも、昨日までより一つ先へ進んだ。
「嬉しいです」
「そうか」
「はい」
エレナは素直に笑った。
「まだエルドさんが見つかったわけではありません。それでも、ラウゼンまで繋がるかもしれない人が見つかったことは嬉しいです」
「じゃあ、そのまま喜んどけ」
ローデンは立ち上がろうとした。
「あの」
「ん?」
「私から、何か準備するものはありますか?」
「今はない」
「手紙は?」
「まだ要らん。まず北梟工房があるか、知ってる人間がいるかを聞いてもらう段階だ」
「そうですか」
「エルド本人に繋がりそうなら、その時考えればいい」
「はい」
「それと、急がせるなよ」
「急がせるつもりはありません」
「分かってる。念のためだ」
ローデンは少し笑う。
「荷運びは荷運びの予定がある。エレナの用事だけで走るわけじゃない」
「はい。それで構いません」
むしろ、その方がよいと思えた。
誰かに無理をさせて、自分の返事だけを急いで運ばせたいわけではない。
「知らせてくださって、ありがとうございます」
「また増えたら言う」
「お願いします」
ローデンは今度こそ家を出た。
◇
戸が閉まったあとも、エレナはしばらく座ったままだった。
「よかったじゃないか」
マーサが言う。
「はい」
「家がもらえたわけじゃないけどね」
「分かっています」
「エルドが見つかったわけでもない」
「はい」
「北梟工房が残ってるとも限らない」
「それも分かっています」
「じゃあ何でそんな嬉しそうなんだい」
マーサの口元も笑っている。
「昨日より、次に何を待っているのかが少し分かったからだと思います」
「次に待つもの?」
「はい」
エレナは指を折るように整理する。
「これまでは、ゼムさんがラウゼンへ行く人を探してくださっていました。今度は、繋がりのある方が見つかった。まだ出発はしていませんが、次はその方が実際にラウゼンの近くへ行けるか、北梟工房について尋ねられるかを待つことになります」
「待つことばっかりだね」
「そうですね」
エレナは笑った。
「でも、前より嫌ではありません」
「慣れたかい?」
「少しは。でも、それだけではないと思います」
「じゃあ何だい?」
エレナは窓の外を見る。
「待っている間にも、することがあるからです」
石鹸を試す。
ニコの虫道を見る。
ガルドの豆が育つ。
マーサと食事をする。
本を読む。
ユウに会いたくなれば、会いに行く。
何もしたくないなら、何もしない。
「返事が届くまで、私の暮らしが止まるわけではありません」
「そりゃそうだ」
「以前は、何か大切な結果を待っている間は、それ以外のことを考えてはいけないような気がしていました」
「誰に言われたんだい?」
「誰か一人に言われたわけではありません」
公爵家で暮らしていた頃。
試験の結果。
教師からの評価。
王宮での予定。
婚約者として出席する行事。
何かが決まるまで、そのことを考え続けていなければならないような感覚があった。
少なくとも、エレナ自身はそうしてきた。
「今は、待ちながら別のことをしてもよいと思えます」
「じゃあ今日は何する?」
マーサが尋ねる。
エレナは少し考えた。
「今は……この知らせをユウさんに伝えたいです」
「昨日も会ったね」
「はい」
「一昨日もだろ」
「はい」
「それでも?」
エレナは笑う。
「それでも、伝えたいです」
「じゃあ行ってきな」
◇
家を出てから、エレナは少しだけ足を速めていた。
走ってはいない。
けれど、普段より歩幅が大きい。
(嬉しいのですね)
そう自覚すると、さらに頬が緩む。
昨日は、ただ会いたくてユウの家へ行った。
今日は伝えたいことがある。
用事があるから会う。
それでも、用事だけではない気がした。
もしユウが家にいなかったら、知らせはあとでもよい。
それでも少し残念に思うだろう。
ユウの家へ着き、戸を叩く。
返事はすぐにあった。
「はい」
戸が開く。
「エレナさん」
「こんにちは」
「こんにちは」
ユウは手に布を持っていた。
「掃除中ですか?」
「ちょっとだけ。昨日の木屑がまだ残ってたから」
「今、大丈夫ですか?」
「うん」
「一人でいたいですか?」
ユウは少し笑った。
「今日はそれ毎回聞く?」
「必要かと思って」
「聞いてもらうのは嫌じゃないけど、今は大丈夫」
「では、お話があります」
「どうぞ」
エレナは家の中へ入った。
◇
「ラウゼンへ繋がる方が見つかったそうです」
椅子へ座る前に言ってしまった。
ユウが目を少し見開く。
「ほんと?」
「はい。ただし、まだラウゼンへ出発したわけではありません」
「ああ」
エレナはローデンから聞いたことを、できるだけそのまま伝える。
ゼムが知り合いの商人へ声をかけたこと。
その商人に、ラウゼンの近くを通る荷運び人との取引があること。
荷運び人の名前や出発時期は、まだルーデまで伝わっていないこと。
実際にラウゼンへ寄れるかも確定していないこと。
北梟工房が今も存在するかは分からないこと。
エルドの新しい情報は、まだないこと。
ユウは途中で口を挟まずに聞いた。
「だから、まだ手紙を渡す段階でもないそうです」
「まず工房があるか確認するんだ」
「はい」
「そっか」
ユウは少し笑う。
「進んだね」
「はい」
「エルドさんが見つかったわけじゃないけど」
「分かっています」
「工房がなくなってるかもしれないし」
「はい」
「それでも嬉しい?」
「とても」
エレナは迷わず答えた。
「私、ローデンさんから聞いた時、すぐユウさんに伝えたいと思いました」
「俺に?」
「はい」
「何で?」
尋ねられ、エレナは少しだけ考えた。
以前なら、ここで理由をきれいに説明しようとしただろう。
今は、完全な説明がなくてもよいと思える。
「ユウさんにも、一緒に喜んでほしかったからだと思います」
ユウが黙る。
「……駄目でしたか?」
「いや」
ユウは首を振った。
「嬉しい」
「本当ですか?」
「うん」
「では、よかったです」
「俺も、進んでよかったと思ってるよ」
その言葉を聞いて、エレナの胸がさらに温かくなる。
「前にユウさんが言ってくださいましたよね。距離は遠くなったけれど、手がかりは近づいているかもしれない、と」
「言ったね」
「今日、また少し近づいた気がします」
「今度は人が繋がったからね」
「はい」
ラウゼンまでの距離そのものは変わっていない。
エルドとの距離も分からない。
けれど、そこへ届く可能性のある人の流れが一つ見えた。
それだけで、地図の上に細い道が一本増えたように感じる。
◇
「座る?」
ユウに言われ、エレナはようやく自分が立ったまま話していたことに気づいた。
「すみません」
「謝ることじゃないけど」
二人で食卓へ座る。
「水飲む?」
「いただきます」
ユウが水を用意する。
エレナは待っている間、作業台を見る。
昨日削っていた木片が置かれている。
「今日は削りましたか?」
「まだ」
「削りたいですか?」
「今はあんまり」
「では、今日は削らないかもしれませんね」
「あとでやりたくなるかもしれないけど」
「その時ですね」
「そういうこと」
ユウが杯を置く。
「エレナさん、今日は朝から俺に会おうと思ってた?」
「いいえ」
「違うんだ」
「はい」
エレナは水を一口飲む。
「朝は、会いたくないわけではありませんでした。でも、すぐに会いに行きたいとは思いませんでした」
「うん」
「ニコの虫道を見に行って、ガルドさんの畑を通って、それからローデンさんに会いました」
「虫いた?」
「私が行った時にはいませんでした。ニコはその前に黒い虫を見たそうです。同じ虫かは分かりません」
「そっか」
「ガルドさんの豆は伸びていました。紐が少し狭くなっているように見えましたが、私は判断できないのでベルさんに聞いてもらうことにしました」
「ちゃんと育ってるんだ」
「はい」
そこまで話してから、エレナは続ける。
「そしてローデンさんから知らせを聞いて、ユウさんに会いたくなりました」
「知らせを伝えるため?」
「それもあります」
「他にも?」
エレナはユウを見る。
昨日までなら、ここで少し恥ずかしくなって目を逸らしたかもしれない。
今日も恥ずかしくないわけではない。
けれど、言いたい。
「嬉しい時に、ユウさんの顔を見たいと思ったからです」
ユウの手が杯の横で止まった。
「……そっか」
「はい」
「それ、結構嬉しいね」
「私も、言っていただけると嬉しいです」
二人の間に少しだけ沈黙が落ちる。
気まずい沈黙ではない。
どちらも、今の言葉を急いで別のものへ変えたくなかった。
◇
「エレナさん」
「はい?」
「俺も、何かあったらエレナさんに話したいって思うこと増えたかも」
今度はエレナが黙る番だった。
「何か、とは?」
「大したことじゃなくても」
ユウは少し考える。
「ベルさんに木のこと褒められたとか、失敗したとか。オルドさんの鶏が普通に歩いてたとか。警戒線みたいな話は勝手に全部話せないけど、自分のことなら」
「聞きたいです」
エレナはすぐに答えた。
「よいことだけではなくても?」
「はい」
「失敗でも?」
「はい」
「何も起きなかった話でも?」
「聞きたいです」
ユウが笑う。
「何でもいいんだ」
「ユウさんが私に話したいと思ったことなら」
それから、エレナは少し考えて付け加える。
「ただ、毎日必ず報告しなければならない、にはしたくありません」
「それは俺も嫌だな」
「ですよね」
「話したい時に話すくらいがいい」
「私もです」
エレナは杯を両手で包む。
「昨日まで会ったことを、今日会わなければならない理由にはしない。でも、昨日会ったから今日は会ってはいけない理由にもしたくありません」
「うん」
「話したいことがあれば話す。何もなくても会いたければ会う。今日は一人でいたければ、一人でいる」
「そういうのがいいね」
「はい」
何度も似た話をしている。
それでも、同じ場所を回っているとは感じなかった。
実際に会い、別れ、また会うたびに、少しずつ自分たちの間に合う形を確かめている。
決まりを作るためではない。
互いが楽にいられる方法を知るために。
◇
「そういえば」
ユウがエレナの手を見る。
「石鹸、今日も使った?」
「まだです」
「今日は使わない?」
「まだ決めていません」
「そっか」
「朝は使いたいと思わなかったので、置いてきました」
「何か変だった?」
「いいえ。手には何もありません」
「じゃあ、使う必要がなかったから?」
「それもあります。今は手も汚れていませんでしたし」
エレナは自分の両手を見る。
「サナさんのお手伝いだと思うと、毎日使った方がよいのではないかとも少し考えました」
「うん」
「でも、サナさん自身が『毎日絶対使わなくてよい』と言ってくださいました」
「なら休んでもいいんじゃない?」
「はい。あとで使いたくなれば使います」
「使わなくても?」
「今日は使わなかった、というだけですね」
「それでいいと思う」
ユウはそう言い、水を飲む。
エレナはふと笑った。
「何?」
「ユウさんに『それでいいと思う』と言われることが多いと思いまして」
「言ってる?」
「かなり」
「減らした方がいい?」
「いいえ」
エレナは首を振る。
「私が自分で決めたあとに言ってくださるので、好きです」
「……その言い方、ちょっとびっくりする」
「何がですか?」
「いや、何でもない」
ユウが少しだけ視線を逸らす。
エレナは不思議に思ったが、追及しなかった。
◇
昼が近づき、エレナは窓の外を見る。
「今日はどうしますか?」
「昼?」
「はい」
「俺は何か作るかな」
「私は……」
昨日はマーサと食べたかったので帰った。
今日はどうだろう。
マーサと昼食を取る約束はしていない。
ユウと一緒に食べたいかと尋ねれば、答えはある。
「私も、ここで食べたいです」
「いいよ」
「何を作りますか?」
「まだ決めてない」
「私も手伝ってよいですか?」
「手伝いたい?」
「はい」
「じゃあ何にするか見てから頼む」
「分かりました」
ユウが保存してある食材を見る。
乾燥させた豆。
少量の野菜。
昨日の残りのパン。
「豆のスープでいい?」
「はい」
「野菜切ってもらっていい?」
「もちろんです」
エレナは台所へ移動する。
包丁を借り、野菜を切り始めた。
以前より慣れてきたとはいえ、速く切ろうとはしない。
一つ。
次。
大きさが少し違う。
「これは大きすぎますか?」
ユウへ見せる。
「それくらいなら大丈夫じゃない?」
「では、このままにします」
すべてを揃える必要はない。
食べにくいほど大きくなければよい。
ユウは鍋を用意しながら、ふと窓の外を見る。
「エレナさん」
「はい?」
「もし三軒目の家に住めることになったら、料理どうする?」
「自分で作ります」
「できる?」
「全部はできません」
エレナは正直に答える。
「今、少しずつ覚えているところです」
「そっか」
「マーサさんに毎日作っていただくわけにはいきませんから」
「毎日自炊?」
「……それも、決めなくてよいでしょうか」
ユウが少し笑う。
「いいんじゃない? 誰かと食べる日もあるだろうし」
「ユウさんとも?」
「エレナさんが食べたいなら」
「ユウさんも食べたい時なら、ですね」
「そうだね」
エレナは野菜を切りながら、三軒目の家の台所を思い浮かべる。
まだ使えるかどうかも分からない。
住めるかも分からない。
それでも、そこに暮らせた時のことを考えるのは楽しい。
「毎日一人で作らなければならない、とは考えないようにします」
「うん」
「自分で作る日もあって、マーサさんと食べる日もあって、ユウさんと食べる日もあって」
「村の誰かに捕まって食わされる日もありそう」
「ガルドさんでしょうか」
「ありそう」
二人で笑う。
「それなら、楽しそうです」
エレナは切った野菜をユウへ渡した。
◇
昼食の豆のスープは、少しだけ薄味だった。
ユウが味見をして塩を足そうとする。
「エレナさんも味見る?」
「はい」
小さな匙を借りる。
「私は、このままでも好きです」
「じゃあ鍋には足さないでいいか」
「ユウさんは?」
「俺はもうちょい欲しい」
「では、自分のお皿に足しますか?」
「そうする」
以前にも似たことがあった。
同じ鍋から食べても、最後の味まで同じにしなくてよい。
二人はそれぞれの器へスープを入れる。
ユウは自分の分だけ塩を少し足した。
「どうですか?」
「こっちの方が好き」
「私は、このままが好きです」
「じゃあ両方正解だね」
「はい」
食事を始める。
エレナはスープを一口飲み、窓の外を見る。
静かな昼だった。
「今頃、ラウゼンへ行く方は何をしているのでしょう」
「まだ誰かも分からないからね」
「そうですね」
「別の町にいるかもしれないし、荷物積んでるかもしれないし、普通に飯食ってるかもしれない」
「まだ依頼自体が届いていない可能性もありますね」
「あると思う」
「それでも、いつか届くかもしれない」
「うん」
エレナはスープをもう一口飲む。
「不思議です」
「何が?」
「私がここでお昼を食べている間にも、私の知らない場所で、三軒目の家へ繋がる何かが少しずつ動いているかもしれないことです」
「そうだね」
「私が見ていなくても」
「うん」
「私が急がせなくても」
「たぶんね」
そのことが、以前より怖くなかった。
自分が見ていないところで物事が進む。
自分が管理していない人が動く。
その結果を待つ。
それは、自分の人生を誰かへ丸投げすることとは違う。
必要なところでは、自分の希望を伝えている。
エルドを探してほしいと頼んだ。
急がなくてよいとも伝えた。
三軒目の家に住みたいという気持ちも変わっていない。
そのうえで、自分にはできないところを人へ任せている。
「届くまで、普通に暮らしていてよいのですね」
エレナが言う。
「その方がいいんじゃない?」
「はい」
ユウはパンをちぎる。
「だって、いつ返事来るか分からないし」
「そうですね」
「一週間かもしれないし、もっとかかるかもしれないし」
「その間ずっと待っているだけでは、疲れてしまいますね」
「俺なら疲れる」
「私もです」
エレナは少し笑う。
「ですから、今日もこうして食べていてよいのですね」
「食べないとお腹空くし」
「そういう意味だけではありません」
「分かってるよ」
◇
食後、二人で片づけをした。
エレナが皿を洗い、ユウが拭く。
途中でユウが一枚の皿を受け取り損ねかけ、慌てて掴んだ。
「危なかった」
「大丈夫ですか?」
「うん。落としてない」
「割れなくてよかったです」
「ほんとに」
エレナは次の皿を渡す時、少し慎重になる。
「そんなにゆっくりじゃなくても大丈夫だよ」
「先ほど落としかけました」
「一回ね」
「では、次も落とすとは限らない?」
「限らない」
「でも、少し気をつけるのは?」
「いいんじゃない?」
エレナは笑う。
「また言いました」
「何を?」
「『いいんじゃない』です」
「ほんとだ」
二人で笑った。
◇
片づけを終えたあと、エレナは帰るかどうか考えた。
まだユウといたい。
ただ、朝からずっと一緒だったわけではない。
会いに来たのは午前の途中からだ。
「もう少しいてもよいですか?」
「うん」
「ユウさんは一人になりたくありませんか?」
「今は大丈夫」
「では、何をしましょう」
「エレナさんは?」
また尋ね返される。
エレナは少し考えた。
「今日は、ユウさんが木を削るところを見てみたいです」
「見たいの?」
「はい。今、削りたいですか?」
ユウは作業台を見る。
木片は朝から同じ場所にある。
「……ちょっとだけやりたいかも」
「では、私は見ていてよいですか?」
「いいよ」
ユウは椅子を作業台の近くへ動かした。
エレナは邪魔にならない位置へ座る。
「近すぎますか?」
「そこなら大丈夫」
「分かりました」
ユウは木片を手に取り、表面を見る。
以前深く削ってしまった部分はまだ残っている。
そこを完全に消そうとはしない。
別の場所を少しずつ削る。
刃が木を滑る音が、静かな部屋に響く。
エレナは黙って見ていた。
一度。
二度。
三度。
ユウが木片を持ち替える。
また少し削る。
途中で手を止め、指先で表面を確かめた。
「どうですか?」
「まだちょっと引っかかる」
「直しますか?」
「少しだけ」
もう二度ほど刃を通す。
ユウは再び指で触れた。
「今はこれでいいかな」
「もう終わりですか?」
「うん」
「まだ削れそうに見えます」
「削れるよ」
「でも終わる?」
「今日はね」
エレナは木片を見る。
「疲れたのですか?」
「少し手が重くなってきたのもある。でも、それより今はこれ以上削らなくていいかなって」
「完成ではありませんよね」
「全然」
「それでも止める」
「うん」
エレナは昨日まで何度も聞いてきたことを、また別の形で目の前に見る。
途中でも止めてよい。
完成していないからといって、今日できるところまで全部やらなければならないわけではない。
「見せていただいて、ありがとうございます」
「面白かった?」
「はい」
「地味じゃなかった?」
「私は好きです」
ユウが木片を置こうとして、一瞬止まる。
「……木を削るのが?」
「それもですが」
エレナは少し考える。
「ユウさんが、どこで止めるのかを見るのが」
「そこ?」
「はい」
「変なところ見てるね」
「私には大切です」
エレナは笑った。
「ユウさんも練習中だと分かりますから」
「それはそうかも」
◇
午後の光が少し傾き始めた頃、エレナはユウの家を出た。
今日はユウが引き止める前に、自分から「帰りたい」と思った。
「今日はありがとうございました」
「こっちこそ」
「知らせを一緒に喜んでくださって、嬉しかったです」
「うん」
「お昼もおいしかったです」
「よかった」
「木を削るところも見られました」
「今日は結構いたね」
「はい」
エレナは少し考える。
「長すぎましたか?」
「俺は大丈夫だったよ」
「では、よかったです」
「エレナさんは?」
「私も楽しかったです。でも、今は帰りたいです」
「じゃあまたね」
「はい。また」
エレナは歩き出す。
今日は振り返る前に、ユウの方から声がした。
「エレナさん」
「はい?」
振り向く。
「知らせ、最初に話しに来てくれてありがとう」
エレナは目を瞬いた。
「最初ではありません。ローデンさんとマーサさんが先です」
「そういう意味じゃなくて」
ユウが少し困ったように笑う。
「俺にも話したいって思ってくれたこと」
エレナの胸が温かくなる。
「はい」
自然に笑みが浮かんだ。
「また、話したいことができたら来ます」
「俺も」
「では、今度こそ帰ります」
「うん」
エレナは再び歩き出した。
◇
帰宅すると、マーサは家の裏で干していた布を取り込んでいた。
「ただいま戻りました」
「おかえり。ずいぶん長かったね」
「ユウさんと昼食も食べました」
「そうかい」
「豆のスープでした」
「へえ」
「マーサさん」
「何だい?」
「今日はユウさんと食べたいと思ったので、あちらで食べました」
「聞いてないよ」
「昨日はマーサさんと食べたいと思って帰ってきました」
「それも聞いたね」
「どちらも好きです」
マーサが布を抱えたまま、エレナを見る。
「何の話だい?」
「私が、どちらか一つを選ばなくてもよいという話です」
「また何か考えてきたね」
「はい」
「腹いっぱいならそれでいいよ」
「いっぱいです」
「なら布運んどくれ」
「はい」
エレナはマーサから半分を受け取った。
◇
家の中へ入ると、朝に置いたままの石鹸が目に入った。
エレナは立ち止まる。
「使うのかい?」
マーサが尋ねる。
「今は、使いたいです」
「じゃあ使えばいい」
「はい」
外でユウと昼食を食べ、帰る途中で少し土埃もついた。
今なら手を洗いたい。
エレナは石鹸を取り、いつものように一度だけ使った。
泡は少ない。
洗い流したあとも、痛みや痒みはない。
「朝は使わなかったのにね」
「朝は使いたくありませんでした」
「今は?」
「使いたかったです」
「ならいいんじゃないかい」
マーサが言う。
エレナは笑った。
「ユウさんと同じことを言いました」
「何が?」
「『いいんじゃない』と」
「便利な言葉だからね」
「そうかもしれません」
けれど、エレナはその言葉が好きだった。
命令ではない。
正解を押しつける言葉でもない。
自分が決めたあとに、その選択を置いておける場所を作ってくれる。
◇
夕方になっても、東の警戒線から新しい音は聞こえなかった。
ローデンから追加の知らせもない。
ラウゼンへ向かう荷運び人が、いつ動くのかもまだ分からない。
エレナはそれを確かめに行かなかった。
今日知ったことは、今日知ったところまで。
次に何か分かれば、またその時に聞けばよい。
◇
夜。
エレナは記録帳を開いた。
最初に、ニコの虫道について短く書く。
『ニコが朝、黒い虫を見た。板の横から来て、石の手前で止まり、草へ向かったとのこと。以前見た虫と同じかは不明。私が行った時にはいなかった。板は動かさなかった。昨日の枝はそのまま。』
次にガルドの豆。
『支柱を立てた豆は伸びている。茎が太くなり、紐との隙間が以前より小さく見えた。私は判断できないため、ガルドさんがベルさんへ聞く予定。』
そして石鹸。
『朝は使わなかった。夕方、使いたいと思ったので一度使用。赤み、痒み、痛み、刺激は今のところなし。一日一回までというサナさんの条件内。』
そこで筆を止める。
今日一番大きかった知らせを書く。
『ローデンさんから、ゼムさんがラウゼンへ繋がる人を見つけたと聞いた。』
エレナは、言葉を正確にするため続きを慎重に書く。
『ゼムさんの知人の商人に、ラウゼン近くを通る荷運び人との取引がある。荷運び人本人の名前、出発時期、実際にラウゼンへ寄れるかはまだ不明。北梟工房が現存するかも不明。エルドさんの新しい所在情報もまだない。』
『まず北梟工房が今もあるか、知る人がいるかを尋ねてもらう予定。今は手紙を用意する段階ではない。』
そこまで書き、エレナは少し笑った。
『嬉しかった。』
短い一文を、あえてそのまま残す。
これは事実の記録ではない。
自分の気持ちだから、理由をすべて並べなくてもよかった。
その下へ続ける。
『知らせを聞いて、ユウさんに伝えたいと思った。嬉しい時にユウさんの顔を見たいと思った。』
筆先が少し止まる。
昨日は、ただ会いたかった。
今日は、嬉しいことを伝えたかった。
どちらもユウに会う理由だった。
『ユウさんも、何かあった時に私へ話したいと思うことが増えたと言ってくれた。毎日報告する約束にはしない。話したい時に話す。会いたい時に会う。一人でいたい時は一人でいる。』
エレナは書いた文字を眺めた。
それから、昼食についても少し書く。
『今日はユウさんと昼食を食べた。昨日はマーサさんと食べたかったので帰った。今日はユウさんと食べたかったので残った。どちらか一方だけを選ばなくてもよい。』
最後に、木を削るユウのこと。
『ユウさんは完成していない木を、まだ削れる状態で止めた。疲れだけではなく、今日はここまででよいと思ったから。』
自分も、今日はいろいろなことを途中で終えている。
虫は現れるまで待たなかった。
ガルドの豆については答えを出さなかった。
石鹸は朝に使わず、夕方に使った。
ラウゼンの話は、まだ入口に立っただけだ。
ユウの木も完成していない。
東の警戒線の痕跡も、正体は分からない。
途中のものばかりだった。
それでも、一日はきちんと終わる。
(全部が終わってからでなければ、休んではいけないわけではありません)
ラウゼンへの道は、自分が見ていないところで少しずつ繋がっている。
荷運び人はまだ出発していないかもしれない。
明日も動かないかもしれない。
何日もかかるかもしれない。
それでも、その間にエレナは朝食を食べ、誰かと話し、笑い、本を読み、歩き、眠ることができる。
返事が届くまでの時間も、自分の人生なのだ。
エレナは記録帳の最後に、ゆっくりと書いた。
『待っている間も、私はここで暮らしている。』
筆を置く。
窓の外は静かだった。
東から警戒線の音はしない。
西から誰かが駆け込んでくる音もない。
今日は、今日の分だけ進んだ。
それで十分だと思えた。
エレナは記録帳を閉じ、灯りを消した。
遠いラウゼンへ繋がる細い道の先を思い浮かべながらも、今夜の自分がいる場所は、もう迷わなかった。




