第74話 今日も会いたい
翌朝、エレナが目を覚まして最初に聞いたのは、警戒線の音ではなく、窓の外から聞こえる鳥の声だった。
しばらく布団の中で耳を澄ませる。
昨日の朝は、食事の途中で東の警戒線が鳴った。
外側だけが二度反応し、確認できたのは不完全な獣らしい痕跡が一つと、少し北側で倒れていた草だけだった。何の獣なのか、以前の魔獣と同じなのか、一頭なのか複数なのか、草の倒れ方と関係しているのか、そのどれも分かっていない。
夜の間に新しい音は聞かなかった。
少なくとも、エレナが起きている間には。
(朝になりました)
それだけを確かめ、エレナは起き上がった。
次に両手を見る。
昨日、二度目の試用をしたサナの石鹸についても、今のところ赤みや腫れはない。痒みも痛みも感じなかった。
「大丈夫そうですね」
小さく呟き、それ以上は確かめ続けずに袖を通す。
階下へ降りると、マーサはすでに朝食の支度を始めていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日は静かだね」
「はい」
マーサが何について言っているのかは、聞かなくても分かった。
「夜は何もありませんでしたか?」
「あたしが起きてる間はね。朝も今んとこ静かだよ」
「そうですか」
「気になるかい?」
「気になります」
エレナは素直に答えた。
「でも、今すぐ確認しに行きたいとは思いません」
「なら飯にしよう」
「はい」
昨日と同じように、生活が始まる。
警戒線の向こうに何がいたのか分からなくても、朝食は必要だった。
◇
食事を終えたあと、エレナは食器を片づけながら窓の外へ目を向けた。
村道を通る人の様子に慌ただしさはない。
ケルもドランも見えない。
ローデンが誰かを集めている様子もなかった。
「マーサさん」
「何だい?」
「昨日の警戒線について、今日も確認するのでしょうか」
「知らないね」
「そうですよね」
「聞きたいならローデンに聞けばいいじゃないか」
エレナは少し考える。
昨日は、確認が終わるまで待った。
その結果も聞いた。
今日は新しい反応があったという知らせはない。
「今は聞かなくてもよいです」
「そうかい」
「何かあれば、また知らせてくださると思います」
「ならそうしな」
マーサは洗った皿を布で拭き始める。
エレナも隣で別の皿を拭いた。
任せると決めたあとで、何度も確認しに行けば、それは自分が本当に任せられているのか分からなくなる。
もちろん、聞いてはいけないわけではない。
気になるから尋ねることと、不安を消すために何度も確かめ続けることは、少し違う気がした。
(聞きたくなったら、その時に聞けばよいですね)
今は、まだいい。
◇
朝の片づけが終わる頃、サナがやってきた。
「おはよう」
「おはようございます」
「手、見せて」
エレナは両手を差し出した。
サナは手の甲と手のひらを順番に見る。
「赤くないわね」
「痒みも痛みもありません」
「昨日の夜も?」
「はい」
「じゃあ二回使って、今のところは大丈夫そうね」
サナはそう言ったものの、すぐに「安全」とは言わなかった。
「今日はどうしますか?」
エレナが尋ねる。
「私はもう一回使ってもらってもいいと思ってる。でも、使う?」
昨日と同じ問いだった。
エレナは自分の手を見る。
使いたくない理由はない。
少しずつ試している結果にも興味がある。
「使ってみたいです」
「じゃあ今日も一回だけね」
「はい」
三日目だから回数を増やすのではなく、今日も一度だけ。
家の外で手を濡らし、小さな石鹸片を使う。
泡立ちはやはり控えめだった。
「前より泡が増えたような気がします」
エレナが言うと、サナが石鹸を見る。
「水の量かもしれないし、手の擦り方かもしれないし、石鹸の表面が変わったのかもしれないわね」
「石鹸自体がよくなったとは限らないのですね」
「同じ欠片なんだから、急に出来がよくなることはないと思うけど」
「そうですね」
エレナは少し笑った。
手を洗い流す。
刺激はない。
「今日はこれで終わりですか?」
「終わり。あと、次からは毎日私が見に来なくてもいいと思ってる」
「よいのですか?」
「エレナ、自分で赤いとか痒いとか分かるでしょう?」
「はい」
「マーサもいるしね。何か変だったら使うのやめて、私に言って。明日以降も一日一回くらいなら使っていいと思う」
エレナは少し驚いた。
「私が決めるのですか?」
「使うかどうかは最初からあんたが決めてたでしょう」
「そうでした」
「私は使い方を決めてただけ」
サナは布へ石鹸を包む。
「ただ、まだ村のみんなへ配るつもりはないわ。私と姉とエレナで大丈夫でも、三人だけだからね」
「はい」
「それに、別の欠片は硬さが違うし。こっちが大丈夫だから全部同じとも言えない」
「分かりました」
「じゃあこれは置いていく?」
サナが小さな石鹸片を見せる。
「よいのですか?」
「使いたい日に使えばいいわ。一日一回まで。変だったらやめる」
エレナは受け取った。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどの物じゃないわよ。試してもらってるのはこっちなんだから」
「では、私もサナさんのお手伝いをしているのですか?」
「そうなるわね」
エレナは少し考えた。
「それなら、嬉しいです」
「だからって毎日絶対使わなくていいからね」
「はい」
先回りされた。
サナも分かってきたのかもしれない。
エレナが何かを頼まれると、それを役目にしようとすることを。
「使いたい日に使います」
「それでいいわ」
◇
サナが帰ったあと、エレナは石鹸を洗面に使う物の近くへ置いた。
明日使うかどうかは決めない。
目に入る場所にはある。
それで十分だった。
「さて」
マーサが腰へ手を当てる。
「今日はどうするんだい?」
「今日は……」
エレナは窓の外を見る。
空は明るい。
雨の気配もない。
借りた本の続きを読んでもよい。
ニコの虫道を見てもよい。
ベルのところへ行ってもよい。
ガルドの畑を見ることもできる。
そして、もう一つ。
(ユウさんに会いたいです)
昨日も会った。
一昨日も会った。
だから今日は控えなければならない、とは思わなかった。
以前、ユウ自身が言っていた。
毎日絶対に会うことになると少し苦しい。
けれど、会いたい日に「会いたい」と言われるのは嫌ではない。
今日はどうだろう。
エレナは自分へ問いかける。
答えは変わらなかった。
「ユウさんに会いに行こうと思います」
「そうかい」
「昨日も会いました」
「知ってるよ」
「その前の日もです」
「それも知ってる」
「それでも、今日も会いたいです」
マーサは布巾を干しながら笑った。
「じゃあ行ってきな」
「はい」
「いなかったら?」
「帰ってきます」
「一人でいたいって言われたら?」
「帰ってきます」
「なら問題ないだろ」
エレナは頷いた。
会いたいから会いに行く。
会えるかどうかは、そのあとだ。
◇
ユウの家までの道は、もう迷うことがない。
だからといって、自分の家のように勝手に入ることもしない。
エレナは戸の前で立ち止まり、軽く叩いた。
少し待つ。
返事がない。
もう一度叩こうかと考えた時、中から物音がした。
「はい」
ユウの声。
戸が開く。
今日のユウは、袖を肘のあたりまでまくっていた。
「エレナさん」
「おはようございます」
「おはよう」
「今、何かしていましたか?」
「ちょっと木削ってた」
エレナは家の奥を見る。
以前から使っている作業場所に、削りかけの木片が置かれていた。
「邪魔でしたか?」
「いや」
ユウは首を振る。
「ちょうど止めようかなと思ってた」
「疲れたのですか?」
「少し手が重くなってきたから」
「では、よかったです」
「何が?」
「止める理由ができた、という意味ではありません」
エレナはすぐに訂正した。
「ユウさんが自分で止めようと思えていたことです」
「ああ」
ユウが笑う。
「今日はどうしたの?」
尋ねられ、エレナは迷わなかった。
「会いに来ました」
「うん」
「昨日も会いましたが、今日も会いたかったので」
ユウの表情が少し柔らかくなる。
「そっか」
「迷惑ではありませんか?」
「迷惑じゃないよ」
「一人でいたい日では?」
ユウは少しだけ考える。
「今は違うかな」
「では、入ってもよいですか?」
「どうぞ」
エレナは家の中へ入った。
◇
作業台の上には、以前から削っている木片が置かれていた。
エレナは近づきすぎずに見る。
「前に深く削ってしまったところですか?」
「そう」
「少し形が変わりましたね」
「この前ちょっとだけ整えたから」
「全部は消していないのですね」
「消そうとすると、周りまで削らないといけなくなるからね」
ユウは木片を手に取る。
深く削れた跡はまだ残っている。
けれど、その周囲だけ少し滑らかになり、以前より指が引っかかりにくくなっていた。
「ベルさんに見せましたか?」
「まだ」
「昨日、今度見せろと言われていましたね」
「うん。でも今日持ってく予定はない」
「なぜですか?」
「今は行きたいと思ってないから」
「なるほど」
エレナは素直に頷いた。
ベルに見せることは必要かもしれない。
けれど、今日でなければならない理由はない。
「エレナさんは今日は何か予定ある?」
「ありません」
「俺に会ったあとは?」
「決めていません」
「じゃあ、どうする?」
エレナは少し考える。
「ユウさんは何をしたいですか?」
「今?」
「はい」
「水飲みたい」
あまりにも日常的な答えで、エレナは笑った。
「では、水を飲みましょう」
「エレナさんも飲む?」
「いただきます」
◇
二人で水を飲みながら、エレナは昨日の警戒線について尋ねるべきか少し考えた。
新しいことがあったなら知りたい。
けれど、ユウもまだ家にいた。
朝から確認へ呼ばれてはいないらしい。
「今日は、警戒線から何か知らせがありましたか?」
「俺には来てないよ」
「そうですか」
「気になってた?」
「はい。でも今朝はローデンさんへ聞きに行きませんでした」
「何で?」
「新しい反応があれば知らせてくださると思ったからです」
「うん」
「それに、昨日分からなかったことが、一晩で必ず分かるとも思いませんでした」
「そうだね」
ユウは水を一口飲む。
「昨日のこと、怖かった?」
エレナはすぐには答えなかった。
「少し」
「うん」
「警戒線が鳴ったことも怖かったです。でも、ユウさんたちが見に行ったことも少し心配でした」
「そっか」
「ただ、昨日の夜は眠れました」
「よかった」
「以前なら、分からないことが残っていると、もっと考え続けていたかもしれません」
エレナは自分の杯を両手で包む。
「でも、考え続けても、足跡が何のものか分かるわけではありません」
「そうだね」
「だから、昨日は眠りました」
「それでいいと思う」
「はい」
エレナはユウを見る。
「ユウさんは怖くありませんでしたか?」
「昨日?」
「はい」
ユウは少し考えた。
「警戒線が鳴った時は嫌だったよ」
「嫌?」
「また何か来たのかなって思ったし。前の魔獣みたいなのがいるなら、村に入ってきてほしくないし」
「怖いとは違うのですか?」
「怖くないわけじゃないと思う」
ユウは自分の言葉を探すように間を置いた。
「でも、行く時はケルさんもドランさんもいたし、内側は鳴ってないって分かってたから。怖いから絶対行けない、ってほどじゃなかった」
「怖くても行けるのですね」
「行ける時はね」
「では、怖くても行かなければならない、ではない?」
「それは違うと思う」
ユウはすぐに答えた。
「昨日は俺も行くって決めた。でも毎回絶対行くとは決めてないよ」
「そうですよね」
「怪我してる時とか、疲れてる時とか、俺より別の人の方がいい時もあるだろうし」
エレナは頷く。
「怖くない人だけが動けるわけでもなく、怖くても必ず動かなければならないわけでもないのですね」
「たぶん」
ユウは少し笑った。
「何か難しい話になってるけど」
「私はこういうことを一つずつ考えないと、すぐに『こうしなければならない』へ戻ってしまうので」
「俺も似たようなもんだよ」
「では、一緒に練習中ですね」
「そうかもね」
◇
話が途切れたあと、エレナは部屋を見回した。
以前より何度も来ている場所だ。
本棚の位置も、食卓の形も、窓から入る光も覚えている。
それでも、ここはユウの家だ。
「ユウさん」
「ん?」
「今日は何をしますか?」
「今は何も決めてない」
「外へ行きますか?」
「エレナさんは?」
問い返される。
エレナは窓を見る。
外へ出るのもよい。
けれど、今日はなぜかここにいたかった。
「私は、ここにいたいです」
「ここ?」
「はい」
エレナは少し照れながら続ける。
「今日はユウさんの家で、もう少し一緒にいたいです」
「いいよ」
「ユウさんは?」
「俺も今はここにいたいかな」
「では、ここにいましょう」
目的は決まらなかった。
けれど、場所は決まった。
◇
ユウは先ほどまで削っていた木片を作業台へ戻した。
「削らないのですか?」
「今はいいかな」
「私が来たからですか?」
「それもある」
エレナは少しだけ眉を寄せる。
「私のせいでやりたいことをやめるのは――」
「違うよ」
ユウが穏やかに遮った。
「エレナさんが来たから、エレナさんと話す方を選んだだけ」
「でも、木も削りたかったのでしょう?」
「さっきまで削ってたし」
「途中ですよね」
「途中だね」
「よいのですか?」
「またやりたくなったらやるよ」
ユウは木片を見る。
「それに、手が重くなってきたから止めようと思ってたのも本当だし」
「では、私が来なくても止めていましたか?」
「たぶん」
「私が来たから止めた部分もありますか?」
「あると思う」
どちらか一つではない。
エレナが来たから予定が変わった。
けれど、それをユウ自身が選んだ。
「予定を変えさせてしまった、と考えなくてもよいですか?」
「俺は変えさせられたとは思ってないよ」
「そうですか」
「エレナさんが来ても、削りたかったら『ちょっと待って』って言うと思う」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは『絶対』ではないのですね」
「自信ないから」
ユウが苦笑する。
「昔の癖で、来客いたらそっち優先しそうになることはあるし」
「では、やはり練習中ですね」
「うん」
「私も、もしユウさんが何かをしている時に来たら、待つことを覚えます」
「帰る選択もあるよ」
「はい。待つか、帰るか、その時に決めます」
「それでいいんじゃない?」
エレナは頷いた。
◇
結局、二人は何か特別なことを始めなかった。
エレナはユウの本棚から、以前見た短い物語の本を借りてもよいか尋ねた。
「それならいいよ」
「ありがとうございます」
椅子へ座って読み始める。
ユウは少し離れた場所で、削った木屑を集めていた。
掃除を終えると、彼も別の椅子へ座る。
しばらく会話はなかった。
紙をめくる音と、窓の外の鳥の声だけが部屋にある。
エレナは物語を読みながら、ふと顔を上げた。
ユウは椅子へ深く座り、目を閉じている。
「眠いのですか?」
「ちょっと」
「寝てもよいですよ」
「エレナさんいるけど?」
「私も以前、ユウさんがいる時に眠りました」
「あったね」
「ですから、今度はユウさんが眠ってもよいと思います」
「でもここ俺の家だよ」
「自分の家なら、なおさら眠ってよいのではありませんか?」
ユウは目を開け、少し笑った。
「それもそうか」
「私は本を読んでいます」
「じゃあ少しだけ」
ユウは椅子の背へ体を預けた。
完全に横になるわけではない。
エレナはまた本へ視線を戻す。
数分もしないうちに、ユウの呼吸がゆっくりになる。
本当に眠ったらしい。
(疲れていたのでしょうか)
昨日は警戒線の確認にも行った。
ただし、それだけで疲労の原因を決めることはできない。
今朝は木も削っていた。
単純に眠かっただけかもしれない。
エレナは本を読み続けた。
◇
ユウが目を覚ましたのは、それほど長い時間が経ってからではなかった。
「……寝てた?」
「はい」
「どれくらい?」
「正確には分かりません。私は時間を測っていませんでしたから」
「そっか」
ユウは首を軽く回す。
「起こした方がよかったですか?」
「いや。ありがとう」
「では、眠れてよかったです」
「エレナさん、ずっと読んでた?」
「はい」
「退屈じゃなかった?」
「なぜですか?」
「俺寝てたから」
エレナは本を閉じる。
「私はユウさんを楽しませるために来たわけではありません」
ユウが瞬きをする。
「会いたくて来ました。会えて、少し話して、今は同じ部屋で本を読めました。それで十分です」
「そっか」
「それに、ユウさんが眠っていても、私は本を読めます」
「うん」
「同じことをしなくてもよいと、私たちは話しました」
「そうだったね」
ユウは少しだけ照れたように笑う。
「なんか、俺よりちゃんと覚えてるね」
「大切だと思ったことは覚えています」
エレナはそこで少し考え、言葉を足した。
「ただ、全部を守らなければならない約束としてではありません」
「うん」
「今の私が、そうしたいと思っているからです」
「それならいいと思う」
◇
昼が近づいた頃、エレナは立ち上がった。
「そろそろ帰ります」
「もう?」
ユウが口にしたあと、自分で少し驚いたような顔をした。
エレナも気づく。
「まだいてほしいですか?」
ユウは一瞬迷った。
「……もう少しいてもいいかなって思った」
エレナの胸が温かくなる。
けれど、自分にも尋ねる。
帰ろうと思った理由は何だっただろう。
マーサと昼食を取るつもりだった。
約束はしていない。
空腹は少し感じている。
そして、ユウともう少しいたいかと聞かれれば――いたい。
「では、もう少しいてもよいですか?」
「うん」
「ただ、お昼までには一度帰りたいです」
「分かった」
「マーサさんと約束しているわけではありません。でも、今日は一緒に食べたいと思っています」
「じゃあ、それまで」
「はい」
二人はもう一度座った。
延長した時間に、何か特別なことをする必要はなかった。
少し話し、本の続きを読み、ユウは途中で水を飲んだ。
やがてエレナ自身が「今なら帰りたい」と思ったところで、本を閉じた。
「今度こそ帰ります」
「うん」
ユウも今度は引き止めなかった。
◇
家の前まで見送りに出たユウへ、エレナは振り返る。
「今日、来てよかったです」
「俺も来てもらえてよかった」
「昨日も会いました」
「うん」
「それでも、今日も会えて嬉しかったです」
「俺も」
エレナは少しだけ迷ってから尋ねる。
「明日はどうでしょう」
「会うかってこと?」
「はい」
以前なら、ここで明日の予定を決めようとしたかもしれない。
けれど、問いを口にした時点で、自分の中に別の答えが浮かんだ。
「あ……やはり、今決めなくてもよいですね」
「会いたくなったら?」
「会いに来ます」
「俺もそうする」
「はい」
明日も会いたいかもしれない。
別のことをしたいかもしれない。
ユウも同じだ。
「では、また」
「また」
エレナはマーサの家へ向かって歩き始めた。
数歩進んだところで、後ろを振り返る。
ユウはまだ家の前にいた。
目が合う。
エレナは小さく手を振った。
ユウも手を上げる。
それだけで、また胸が温かくなった。
◇
マーサの家へ戻ると、ちょうど昼食の準備が始まるところだった。
「ただいま戻りました」
「おかえり。会えたかい?」
「はい」
「そりゃよかった」
マーサは鍋へ野菜を入れる。
「何してたんだい?」
「話をして、本を読んで、ユウさんは少し眠りました」
マーサの手が一瞬止まった。
「ユウが?」
「はい」
「あんたがいる前で?」
「はい」
「へえ」
「何ですか?」
「別に」
マーサはまた鍋を混ぜ始める。
エレナは少し不思議に思ったが、それ以上追及しなかった。
「途中で帰ろうとしたら、ユウさんがもう少しいてもよいと思ったと言ってくれました」
「そうかい」
「それで少し残りました。でも、お昼はマーサさんと食べたかったので帰ってきました」
マーサが今度はエレナを見る。
「それも自分で決めたのかい?」
「はい」
「ならいい」
「マーサさん」
「何だい?」
「少し嬉しそうですね」
「気のせいだよ」
「そうでしょうか」
「ほら、皿出しな」
「はい」
エレナは笑いながら食器棚へ向かった。
◇
昼食後、エレナは借りている『暮らしの小さな工夫』を開いた。
今日は保存食の続きを少しだけ読む。
乾燥させる食材の厚みや風の通り方によって、同じ日数でも状態が変わるという記述がある。
エレナは一度読み返した。
(同じ日数でも、同じにはならない)
サナの石鹸もそうだった。
同じ日に作ったものでも硬さが違う。
人も同じなのかもしれない。
昨日会ったから、今日は会わなくてよい。
昨日会いたかったから、今日も同じように会いたいはず。
そんな決まりはない。
今日は、今日の自分がユウに会いたかった。
そして会えたことが嬉しかった。
それだけでよい。
◇
夕方、エレナは少しだけ外を歩いた。
東の警戒線について、新しい知らせはなかった。
ローデンの姿を遠くで見かけたが、呼び止めなかった。
向こうも急いでいる様子はない。
村の東側へ人が集まっている様子もない。
静かな一日だった。
ニコの虫道の近くを通ると、本人がしゃがみ込んでいた。
「ニコ」
「あ、エレナ!」
「何を見ていますか?」
「枝!」
昨日の枝らしい。
今度は板の横へ置かれている。
「また落ちたのですか?」
「違う! 昨日の!」
「なぜ置いているのですか?」
「どこから落ちたか分かるかも!」
「置いておくと分かるのですか?」
「分かんない!」
ニコは元気よく答えた。
エレナは笑う。
「虫は来ましたか?」
「今日は見てない!」
「そうですか」
「エレナも見る?」
エレナは板と石と枝を見る。
少しだけ興味はある。
「少しだけ見ます」
「うん!」
二人で道の脇へしゃがむ。
しばらく待った。
虫は来ない。
板も動かない。
枝も当然動かない。
「来ませんね」
「来ない」
「今日は来ない日かもしれません」
「あとで来るかも!」
「そうですね」
五分ほど経ったところで、エレナは立ち上がった。
「私は帰ります」
「もう?」
「はい。今日は少し見たかったので見ました。今は帰りたいです」
「分かった!」
ニコはまだ残るらしい。
「暗くなる前には帰ってくださいね」
「分かってる!」
エレナは家へ戻った。
◇
夜。
エレナは記録帳を開いた。
最初に石鹸について書く。
『二度目の使用後も、夜から今朝まで赤み、痒み、痛みなし。今日、三度目を一度だけ使用。使用中の刺激なし。サナさんから、今後は一日一回まで、自分で使いたい日に使ってよいと言われた。異常があれば中止して伝える。』
少し考えて、もう一行加える。
『三人で問題がないことと、村のみんなに安全なことは同じではない。別の石鹸片は硬さも違う。サナさんはまだ全員には配らない。』
次に警戒線。
『今日は新しい警戒線の反応を聞いていない。新しい確認結果も聞いていない。昨日分からなかったことは、今日も分からないまま。』
それで終わりにする。
何もなかった日まで、細かく記録を増やす必要はない。
そして、ユウのことを書く。
『今日は私からユウさんの家へ行った。昨日も会ったが、今日も会いたかった。』
筆先が止まる。
昨日までなら、「会いたかった」という言葉だけでも少し恥ずかしかった。
今日は自然に書けた。
『ユウさんは木を削っていたが、少し手が重くなったので止めようと思っていた。私が来たことも、止める理由の一つになった。ただし、私に止めさせられたのではなく、自分で私と話す方を選んだと言った。』
『私はユウさんの家でもう少し一緒にいたいと伝えた。ユウさんも、今は家にいたいと言った。私は本を読み、ユウさんは少し眠った。』
そこまで書いて、エレナは思い出す。
ユウが眠っている間、自分は退屈ではなかった。
何かをしてもらわなくてもよかった。
話し続けなくてもよかった。
同じ場所にいて、それぞれ違うことをしていた。
『ユウさんが眠っていても、私は本を読めた。私はユウさんに楽しませてもらうために会いに行ったのではない。会いたかったから行った。』
そして、帰ろうとした時のこと。
『私が帰ろうとした時、ユウさんは、もう少しいてもよいと思ったと言った。私はもう少しいたいと思ったので残った。ただし、昼はマーサさんと食べたかったので、そのあと帰った。』
一人を選んだから、別の誰かを選べなくなるわけではない。
ユウといたい。
マーサとも食事をしたい。
どちらも自分の気持ちだった。
最後に、エレナは一行だけ書いた。
『昨日会ったことは、今日会いたい気持ちをなくさなかった。』
書いた文字を眺める。
胸の奥が少しだけ熱くなった。
(では、明日は?)
問いが浮かぶ。
エレナはすぐに答えようとしなかった。
明日の朝になった時、ユウに会いたいと思うかもしれない。
本を読みたいと思うかもしれない。
別の誰かのところへ行きたいと思うかもしれない。
何もしたくないかもしれない。
今夜の自分には分からない。
「明日は、明日ですね」
声にしてみる。
それでいい。
エレナは記録帳を閉じた。
窓の外からは、東の警戒線の音も、誰かが走る音も聞こえない。
ラウゼンからの知らせも今日はなかった。
答えを待っているものは、まだいくつもある。
それでも今日、エレナには一つだけ迷わず分かったことがあった。
(今日は、ユウさんに会いたかったです)
そして、会えて嬉しかった。
それだけを今日の答えとして、エレナは灯りを消した。




