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第74話 今日も会いたい



 翌朝、エレナが目を覚まして最初に聞いたのは、警戒線の音ではなく、窓の外から聞こえる鳥の声だった。


 しばらく布団の中で耳を澄ませる。


 昨日の朝は、食事の途中で東の警戒線が鳴った。


 外側だけが二度反応し、確認できたのは不完全な獣らしい痕跡が一つと、少し北側で倒れていた草だけだった。何の獣なのか、以前の魔獣と同じなのか、一頭なのか複数なのか、草の倒れ方と関係しているのか、そのどれも分かっていない。


 夜の間に新しい音は聞かなかった。


 少なくとも、エレナが起きている間には。


(朝になりました)


 それだけを確かめ、エレナは起き上がった。


 次に両手を見る。


 昨日、二度目の試用をしたサナの石鹸についても、今のところ赤みや腫れはない。痒みも痛みも感じなかった。


「大丈夫そうですね」


 小さく呟き、それ以上は確かめ続けずに袖を通す。


 階下へ降りると、マーサはすでに朝食の支度を始めていた。


「おはようございます」


「おはよう。今日は静かだね」


「はい」


 マーサが何について言っているのかは、聞かなくても分かった。


「夜は何もありませんでしたか?」


「あたしが起きてる間はね。朝も今んとこ静かだよ」


「そうですか」


「気になるかい?」


「気になります」


 エレナは素直に答えた。


「でも、今すぐ確認しに行きたいとは思いません」


「なら飯にしよう」


「はい」


 昨日と同じように、生活が始まる。


 警戒線の向こうに何がいたのか分からなくても、朝食は必要だった。


     ◇


 食事を終えたあと、エレナは食器を片づけながら窓の外へ目を向けた。


 村道を通る人の様子に慌ただしさはない。


 ケルもドランも見えない。


 ローデンが誰かを集めている様子もなかった。


「マーサさん」


「何だい?」


「昨日の警戒線について、今日も確認するのでしょうか」


「知らないね」


「そうですよね」


「聞きたいならローデンに聞けばいいじゃないか」


 エレナは少し考える。


 昨日は、確認が終わるまで待った。


 その結果も聞いた。


 今日は新しい反応があったという知らせはない。


「今は聞かなくてもよいです」


「そうかい」


「何かあれば、また知らせてくださると思います」


「ならそうしな」


 マーサは洗った皿を布で拭き始める。


 エレナも隣で別の皿を拭いた。


 任せると決めたあとで、何度も確認しに行けば、それは自分が本当に任せられているのか分からなくなる。


 もちろん、聞いてはいけないわけではない。


 気になるから尋ねることと、不安を消すために何度も確かめ続けることは、少し違う気がした。


(聞きたくなったら、その時に聞けばよいですね)


 今は、まだいい。


     ◇


 朝の片づけが終わる頃、サナがやってきた。


「おはよう」


「おはようございます」


「手、見せて」


 エレナは両手を差し出した。


 サナは手の甲と手のひらを順番に見る。


「赤くないわね」


「痒みも痛みもありません」


「昨日の夜も?」


「はい」


「じゃあ二回使って、今のところは大丈夫そうね」


 サナはそう言ったものの、すぐに「安全」とは言わなかった。


「今日はどうしますか?」


 エレナが尋ねる。


「私はもう一回使ってもらってもいいと思ってる。でも、使う?」


 昨日と同じ問いだった。


 エレナは自分の手を見る。


 使いたくない理由はない。


 少しずつ試している結果にも興味がある。


「使ってみたいです」


「じゃあ今日も一回だけね」


「はい」


 三日目だから回数を増やすのではなく、今日も一度だけ。


 家の外で手を濡らし、小さな石鹸片を使う。


 泡立ちはやはり控えめだった。


「前より泡が増えたような気がします」


 エレナが言うと、サナが石鹸を見る。


「水の量かもしれないし、手の擦り方かもしれないし、石鹸の表面が変わったのかもしれないわね」


「石鹸自体がよくなったとは限らないのですね」


「同じ欠片なんだから、急に出来がよくなることはないと思うけど」


「そうですね」


 エレナは少し笑った。


 手を洗い流す。


 刺激はない。


「今日はこれで終わりですか?」


「終わり。あと、次からは毎日私が見に来なくてもいいと思ってる」


「よいのですか?」


「エレナ、自分で赤いとか痒いとか分かるでしょう?」


「はい」


「マーサもいるしね。何か変だったら使うのやめて、私に言って。明日以降も一日一回くらいなら使っていいと思う」


 エレナは少し驚いた。


「私が決めるのですか?」


「使うかどうかは最初からあんたが決めてたでしょう」


「そうでした」


「私は使い方を決めてただけ」


 サナは布へ石鹸を包む。


「ただ、まだ村のみんなへ配るつもりはないわ。私と姉とエレナで大丈夫でも、三人だけだからね」


「はい」


「それに、別の欠片は硬さが違うし。こっちが大丈夫だから全部同じとも言えない」


「分かりました」


「じゃあこれは置いていく?」


 サナが小さな石鹸片を見せる。


「よいのですか?」


「使いたい日に使えばいいわ。一日一回まで。変だったらやめる」


 エレナは受け取った。


「ありがとうございます」


「礼を言われるほどの物じゃないわよ。試してもらってるのはこっちなんだから」


「では、私もサナさんのお手伝いをしているのですか?」


「そうなるわね」


 エレナは少し考えた。


「それなら、嬉しいです」


「だからって毎日絶対使わなくていいからね」


「はい」


 先回りされた。


 サナも分かってきたのかもしれない。


 エレナが何かを頼まれると、それを役目にしようとすることを。


「使いたい日に使います」


「それでいいわ」


     ◇


 サナが帰ったあと、エレナは石鹸を洗面に使う物の近くへ置いた。


 明日使うかどうかは決めない。


 目に入る場所にはある。


 それで十分だった。


「さて」


 マーサが腰へ手を当てる。


「今日はどうするんだい?」


「今日は……」


 エレナは窓の外を見る。


 空は明るい。


 雨の気配もない。


 借りた本の続きを読んでもよい。


 ニコの虫道を見てもよい。


 ベルのところへ行ってもよい。


 ガルドの畑を見ることもできる。


 そして、もう一つ。


(ユウさんに会いたいです)


 昨日も会った。


 一昨日も会った。


 だから今日は控えなければならない、とは思わなかった。


 以前、ユウ自身が言っていた。


 毎日絶対に会うことになると少し苦しい。


 けれど、会いたい日に「会いたい」と言われるのは嫌ではない。


 今日はどうだろう。


 エレナは自分へ問いかける。


 答えは変わらなかった。


「ユウさんに会いに行こうと思います」


「そうかい」


「昨日も会いました」


「知ってるよ」


「その前の日もです」


「それも知ってる」


「それでも、今日も会いたいです」


 マーサは布巾を干しながら笑った。


「じゃあ行ってきな」


「はい」


「いなかったら?」


「帰ってきます」


「一人でいたいって言われたら?」


「帰ってきます」


「なら問題ないだろ」


 エレナは頷いた。


 会いたいから会いに行く。


 会えるかどうかは、そのあとだ。


     ◇


 ユウの家までの道は、もう迷うことがない。


 だからといって、自分の家のように勝手に入ることもしない。


 エレナは戸の前で立ち止まり、軽く叩いた。


 少し待つ。


 返事がない。


 もう一度叩こうかと考えた時、中から物音がした。


「はい」


 ユウの声。


 戸が開く。


 今日のユウは、袖を肘のあたりまでまくっていた。


「エレナさん」


「おはようございます」


「おはよう」


「今、何かしていましたか?」


「ちょっと木削ってた」


 エレナは家の奥を見る。


 以前から使っている作業場所に、削りかけの木片が置かれていた。


「邪魔でしたか?」


「いや」


 ユウは首を振る。


「ちょうど止めようかなと思ってた」


「疲れたのですか?」


「少し手が重くなってきたから」


「では、よかったです」


「何が?」


「止める理由ができた、という意味ではありません」


 エレナはすぐに訂正した。


「ユウさんが自分で止めようと思えていたことです」


「ああ」


 ユウが笑う。


「今日はどうしたの?」


 尋ねられ、エレナは迷わなかった。


「会いに来ました」


「うん」


「昨日も会いましたが、今日も会いたかったので」


 ユウの表情が少し柔らかくなる。


「そっか」


「迷惑ではありませんか?」


「迷惑じゃないよ」


「一人でいたい日では?」


 ユウは少しだけ考える。


「今は違うかな」


「では、入ってもよいですか?」


「どうぞ」


 エレナは家の中へ入った。


     ◇


 作業台の上には、以前から削っている木片が置かれていた。


 エレナは近づきすぎずに見る。


「前に深く削ってしまったところですか?」


「そう」


「少し形が変わりましたね」


「この前ちょっとだけ整えたから」


「全部は消していないのですね」


「消そうとすると、周りまで削らないといけなくなるからね」


 ユウは木片を手に取る。


 深く削れた跡はまだ残っている。


 けれど、その周囲だけ少し滑らかになり、以前より指が引っかかりにくくなっていた。


「ベルさんに見せましたか?」


「まだ」


「昨日、今度見せろと言われていましたね」


「うん。でも今日持ってく予定はない」


「なぜですか?」


「今は行きたいと思ってないから」


「なるほど」


 エレナは素直に頷いた。


 ベルに見せることは必要かもしれない。


 けれど、今日でなければならない理由はない。


「エレナさんは今日は何か予定ある?」


「ありません」


「俺に会ったあとは?」


「決めていません」


「じゃあ、どうする?」


 エレナは少し考える。


「ユウさんは何をしたいですか?」


「今?」


「はい」


「水飲みたい」


 あまりにも日常的な答えで、エレナは笑った。


「では、水を飲みましょう」


「エレナさんも飲む?」


「いただきます」


     ◇


 二人で水を飲みながら、エレナは昨日の警戒線について尋ねるべきか少し考えた。


 新しいことがあったなら知りたい。


 けれど、ユウもまだ家にいた。


 朝から確認へ呼ばれてはいないらしい。


「今日は、警戒線から何か知らせがありましたか?」


「俺には来てないよ」


「そうですか」


「気になってた?」


「はい。でも今朝はローデンさんへ聞きに行きませんでした」


「何で?」


「新しい反応があれば知らせてくださると思ったからです」


「うん」


「それに、昨日分からなかったことが、一晩で必ず分かるとも思いませんでした」


「そうだね」


 ユウは水を一口飲む。


「昨日のこと、怖かった?」


 エレナはすぐには答えなかった。


「少し」


「うん」


「警戒線が鳴ったことも怖かったです。でも、ユウさんたちが見に行ったことも少し心配でした」


「そっか」


「ただ、昨日の夜は眠れました」


「よかった」


「以前なら、分からないことが残っていると、もっと考え続けていたかもしれません」


 エレナは自分の杯を両手で包む。


「でも、考え続けても、足跡が何のものか分かるわけではありません」


「そうだね」


「だから、昨日は眠りました」


「それでいいと思う」


「はい」


 エレナはユウを見る。


「ユウさんは怖くありませんでしたか?」


「昨日?」


「はい」


 ユウは少し考えた。


「警戒線が鳴った時は嫌だったよ」


「嫌?」


「また何か来たのかなって思ったし。前の魔獣みたいなのがいるなら、村に入ってきてほしくないし」


「怖いとは違うのですか?」


「怖くないわけじゃないと思う」


 ユウは自分の言葉を探すように間を置いた。


「でも、行く時はケルさんもドランさんもいたし、内側は鳴ってないって分かってたから。怖いから絶対行けない、ってほどじゃなかった」


「怖くても行けるのですね」


「行ける時はね」


「では、怖くても行かなければならない、ではない?」


「それは違うと思う」


 ユウはすぐに答えた。


「昨日は俺も行くって決めた。でも毎回絶対行くとは決めてないよ」


「そうですよね」


「怪我してる時とか、疲れてる時とか、俺より別の人の方がいい時もあるだろうし」


 エレナは頷く。


「怖くない人だけが動けるわけでもなく、怖くても必ず動かなければならないわけでもないのですね」


「たぶん」


 ユウは少し笑った。


「何か難しい話になってるけど」


「私はこういうことを一つずつ考えないと、すぐに『こうしなければならない』へ戻ってしまうので」


「俺も似たようなもんだよ」


「では、一緒に練習中ですね」


「そうかもね」


     ◇


 話が途切れたあと、エレナは部屋を見回した。


 以前より何度も来ている場所だ。


 本棚の位置も、食卓の形も、窓から入る光も覚えている。


 それでも、ここはユウの家だ。


「ユウさん」


「ん?」


「今日は何をしますか?」


「今は何も決めてない」


「外へ行きますか?」


「エレナさんは?」


 問い返される。


 エレナは窓を見る。


 外へ出るのもよい。


 けれど、今日はなぜかここにいたかった。


「私は、ここにいたいです」


「ここ?」


「はい」


 エレナは少し照れながら続ける。


「今日はユウさんの家で、もう少し一緒にいたいです」


「いいよ」


「ユウさんは?」


「俺も今はここにいたいかな」


「では、ここにいましょう」


 目的は決まらなかった。


 けれど、場所は決まった。


     ◇


 ユウは先ほどまで削っていた木片を作業台へ戻した。


「削らないのですか?」


「今はいいかな」


「私が来たからですか?」


「それもある」


 エレナは少しだけ眉を寄せる。


「私のせいでやりたいことをやめるのは――」


「違うよ」


 ユウが穏やかに遮った。


「エレナさんが来たから、エレナさんと話す方を選んだだけ」


「でも、木も削りたかったのでしょう?」


「さっきまで削ってたし」


「途中ですよね」


「途中だね」


「よいのですか?」


「またやりたくなったらやるよ」


 ユウは木片を見る。


「それに、手が重くなってきたから止めようと思ってたのも本当だし」


「では、私が来なくても止めていましたか?」


「たぶん」


「私が来たから止めた部分もありますか?」


「あると思う」


 どちらか一つではない。


 エレナが来たから予定が変わった。


 けれど、それをユウ自身が選んだ。


「予定を変えさせてしまった、と考えなくてもよいですか?」


「俺は変えさせられたとは思ってないよ」


「そうですか」


「エレナさんが来ても、削りたかったら『ちょっと待って』って言うと思う」


「本当に?」


「たぶん」


「そこは『絶対』ではないのですね」


「自信ないから」


 ユウが苦笑する。


「昔の癖で、来客いたらそっち優先しそうになることはあるし」


「では、やはり練習中ですね」


「うん」


「私も、もしユウさんが何かをしている時に来たら、待つことを覚えます」


「帰る選択もあるよ」


「はい。待つか、帰るか、その時に決めます」


「それでいいんじゃない?」


 エレナは頷いた。


     ◇


 結局、二人は何か特別なことを始めなかった。


 エレナはユウの本棚から、以前見た短い物語の本を借りてもよいか尋ねた。


「それならいいよ」


「ありがとうございます」


 椅子へ座って読み始める。


 ユウは少し離れた場所で、削った木屑を集めていた。


 掃除を終えると、彼も別の椅子へ座る。


 しばらく会話はなかった。


 紙をめくる音と、窓の外の鳥の声だけが部屋にある。


 エレナは物語を読みながら、ふと顔を上げた。


 ユウは椅子へ深く座り、目を閉じている。


「眠いのですか?」


「ちょっと」


「寝てもよいですよ」


「エレナさんいるけど?」


「私も以前、ユウさんがいる時に眠りました」


「あったね」


「ですから、今度はユウさんが眠ってもよいと思います」


「でもここ俺の家だよ」


「自分の家なら、なおさら眠ってよいのではありませんか?」


 ユウは目を開け、少し笑った。


「それもそうか」


「私は本を読んでいます」


「じゃあ少しだけ」


 ユウは椅子の背へ体を預けた。


 完全に横になるわけではない。


 エレナはまた本へ視線を戻す。


 数分もしないうちに、ユウの呼吸がゆっくりになる。


 本当に眠ったらしい。


(疲れていたのでしょうか)


 昨日は警戒線の確認にも行った。


 ただし、それだけで疲労の原因を決めることはできない。


 今朝は木も削っていた。


 単純に眠かっただけかもしれない。


 エレナは本を読み続けた。


     ◇


 ユウが目を覚ましたのは、それほど長い時間が経ってからではなかった。


「……寝てた?」


「はい」


「どれくらい?」


「正確には分かりません。私は時間を測っていませんでしたから」


「そっか」


 ユウは首を軽く回す。


「起こした方がよかったですか?」


「いや。ありがとう」


「では、眠れてよかったです」


「エレナさん、ずっと読んでた?」


「はい」


「退屈じゃなかった?」


「なぜですか?」


「俺寝てたから」


 エレナは本を閉じる。


「私はユウさんを楽しませるために来たわけではありません」


 ユウが瞬きをする。


「会いたくて来ました。会えて、少し話して、今は同じ部屋で本を読めました。それで十分です」


「そっか」


「それに、ユウさんが眠っていても、私は本を読めます」


「うん」


「同じことをしなくてもよいと、私たちは話しました」


「そうだったね」


 ユウは少しだけ照れたように笑う。


「なんか、俺よりちゃんと覚えてるね」


「大切だと思ったことは覚えています」


 エレナはそこで少し考え、言葉を足した。


「ただ、全部を守らなければならない約束としてではありません」


「うん」


「今の私が、そうしたいと思っているからです」


「それならいいと思う」


     ◇


 昼が近づいた頃、エレナは立ち上がった。


「そろそろ帰ります」


「もう?」


 ユウが口にしたあと、自分で少し驚いたような顔をした。


 エレナも気づく。


「まだいてほしいですか?」


 ユウは一瞬迷った。


「……もう少しいてもいいかなって思った」


 エレナの胸が温かくなる。


 けれど、自分にも尋ねる。


 帰ろうと思った理由は何だっただろう。


 マーサと昼食を取るつもりだった。


 約束はしていない。


 空腹は少し感じている。


 そして、ユウともう少しいたいかと聞かれれば――いたい。


「では、もう少しいてもよいですか?」


「うん」


「ただ、お昼までには一度帰りたいです」


「分かった」


「マーサさんと約束しているわけではありません。でも、今日は一緒に食べたいと思っています」


「じゃあ、それまで」


「はい」


 二人はもう一度座った。


 延長した時間に、何か特別なことをする必要はなかった。


 少し話し、本の続きを読み、ユウは途中で水を飲んだ。


 やがてエレナ自身が「今なら帰りたい」と思ったところで、本を閉じた。


「今度こそ帰ります」


「うん」


 ユウも今度は引き止めなかった。


     ◇


 家の前まで見送りに出たユウへ、エレナは振り返る。


「今日、来てよかったです」


「俺も来てもらえてよかった」


「昨日も会いました」


「うん」


「それでも、今日も会えて嬉しかったです」


「俺も」


 エレナは少しだけ迷ってから尋ねる。


「明日はどうでしょう」


「会うかってこと?」


「はい」


 以前なら、ここで明日の予定を決めようとしたかもしれない。


 けれど、問いを口にした時点で、自分の中に別の答えが浮かんだ。


「あ……やはり、今決めなくてもよいですね」


「会いたくなったら?」


「会いに来ます」


「俺もそうする」


「はい」


 明日も会いたいかもしれない。


 別のことをしたいかもしれない。


 ユウも同じだ。


「では、また」


「また」


 エレナはマーサの家へ向かって歩き始めた。


 数歩進んだところで、後ろを振り返る。


 ユウはまだ家の前にいた。


 目が合う。


 エレナは小さく手を振った。


 ユウも手を上げる。


 それだけで、また胸が温かくなった。


     ◇


 マーサの家へ戻ると、ちょうど昼食の準備が始まるところだった。


「ただいま戻りました」


「おかえり。会えたかい?」


「はい」


「そりゃよかった」


 マーサは鍋へ野菜を入れる。


「何してたんだい?」


「話をして、本を読んで、ユウさんは少し眠りました」


 マーサの手が一瞬止まった。


「ユウが?」


「はい」


「あんたがいる前で?」


「はい」


「へえ」


「何ですか?」


「別に」


 マーサはまた鍋を混ぜ始める。


 エレナは少し不思議に思ったが、それ以上追及しなかった。


「途中で帰ろうとしたら、ユウさんがもう少しいてもよいと思ったと言ってくれました」


「そうかい」


「それで少し残りました。でも、お昼はマーサさんと食べたかったので帰ってきました」


 マーサが今度はエレナを見る。


「それも自分で決めたのかい?」


「はい」


「ならいい」


「マーサさん」


「何だい?」


「少し嬉しそうですね」


「気のせいだよ」


「そうでしょうか」


「ほら、皿出しな」


「はい」


 エレナは笑いながら食器棚へ向かった。


     ◇


 昼食後、エレナは借りている『暮らしの小さな工夫』を開いた。


 今日は保存食の続きを少しだけ読む。


 乾燥させる食材の厚みや風の通り方によって、同じ日数でも状態が変わるという記述がある。


 エレナは一度読み返した。


(同じ日数でも、同じにはならない)


 サナの石鹸もそうだった。


 同じ日に作ったものでも硬さが違う。


 人も同じなのかもしれない。


 昨日会ったから、今日は会わなくてよい。


 昨日会いたかったから、今日も同じように会いたいはず。


 そんな決まりはない。


 今日は、今日の自分がユウに会いたかった。


 そして会えたことが嬉しかった。


 それだけでよい。


     ◇


 夕方、エレナは少しだけ外を歩いた。


 東の警戒線について、新しい知らせはなかった。


 ローデンの姿を遠くで見かけたが、呼び止めなかった。


 向こうも急いでいる様子はない。


 村の東側へ人が集まっている様子もない。


 静かな一日だった。


 ニコの虫道の近くを通ると、本人がしゃがみ込んでいた。


「ニコ」


「あ、エレナ!」


「何を見ていますか?」


「枝!」


 昨日の枝らしい。


 今度は板の横へ置かれている。


「また落ちたのですか?」


「違う! 昨日の!」


「なぜ置いているのですか?」


「どこから落ちたか分かるかも!」


「置いておくと分かるのですか?」


「分かんない!」


 ニコは元気よく答えた。


 エレナは笑う。


「虫は来ましたか?」


「今日は見てない!」


「そうですか」


「エレナも見る?」


 エレナは板と石と枝を見る。


 少しだけ興味はある。


「少しだけ見ます」


「うん!」


 二人で道の脇へしゃがむ。


 しばらく待った。


 虫は来ない。


 板も動かない。


 枝も当然動かない。


「来ませんね」


「来ない」


「今日は来ない日かもしれません」


「あとで来るかも!」


「そうですね」


 五分ほど経ったところで、エレナは立ち上がった。


「私は帰ります」


「もう?」


「はい。今日は少し見たかったので見ました。今は帰りたいです」


「分かった!」


 ニコはまだ残るらしい。


「暗くなる前には帰ってくださいね」


「分かってる!」


 エレナは家へ戻った。


     ◇


 夜。


 エレナは記録帳を開いた。


 最初に石鹸について書く。


『二度目の使用後も、夜から今朝まで赤み、痒み、痛みなし。今日、三度目を一度だけ使用。使用中の刺激なし。サナさんから、今後は一日一回まで、自分で使いたい日に使ってよいと言われた。異常があれば中止して伝える。』


 少し考えて、もう一行加える。


『三人で問題がないことと、村のみんなに安全なことは同じではない。別の石鹸片は硬さも違う。サナさんはまだ全員には配らない。』


 次に警戒線。


『今日は新しい警戒線の反応を聞いていない。新しい確認結果も聞いていない。昨日分からなかったことは、今日も分からないまま。』


 それで終わりにする。


 何もなかった日まで、細かく記録を増やす必要はない。


 そして、ユウのことを書く。


『今日は私からユウさんの家へ行った。昨日も会ったが、今日も会いたかった。』


 筆先が止まる。


 昨日までなら、「会いたかった」という言葉だけでも少し恥ずかしかった。


 今日は自然に書けた。


『ユウさんは木を削っていたが、少し手が重くなったので止めようと思っていた。私が来たことも、止める理由の一つになった。ただし、私に止めさせられたのではなく、自分で私と話す方を選んだと言った。』


『私はユウさんの家でもう少し一緒にいたいと伝えた。ユウさんも、今は家にいたいと言った。私は本を読み、ユウさんは少し眠った。』


 そこまで書いて、エレナは思い出す。


 ユウが眠っている間、自分は退屈ではなかった。


 何かをしてもらわなくてもよかった。


 話し続けなくてもよかった。


 同じ場所にいて、それぞれ違うことをしていた。


『ユウさんが眠っていても、私は本を読めた。私はユウさんに楽しませてもらうために会いに行ったのではない。会いたかったから行った。』


 そして、帰ろうとした時のこと。


『私が帰ろうとした時、ユウさんは、もう少しいてもよいと思ったと言った。私はもう少しいたいと思ったので残った。ただし、昼はマーサさんと食べたかったので、そのあと帰った。』


 一人を選んだから、別の誰かを選べなくなるわけではない。


 ユウといたい。


 マーサとも食事をしたい。


 どちらも自分の気持ちだった。


 最後に、エレナは一行だけ書いた。


『昨日会ったことは、今日会いたい気持ちをなくさなかった。』


 書いた文字を眺める。


 胸の奥が少しだけ熱くなった。


(では、明日は?)


 問いが浮かぶ。


 エレナはすぐに答えようとしなかった。


 明日の朝になった時、ユウに会いたいと思うかもしれない。


 本を読みたいと思うかもしれない。


 別の誰かのところへ行きたいと思うかもしれない。


 何もしたくないかもしれない。


 今夜の自分には分からない。


「明日は、明日ですね」


 声にしてみる。


 それでいい。


 エレナは記録帳を閉じた。


 窓の外からは、東の警戒線の音も、誰かが走る音も聞こえない。


 ラウゼンからの知らせも今日はなかった。


 答えを待っているものは、まだいくつもある。


 それでも今日、エレナには一つだけ迷わず分かったことがあった。


(今日は、ユウさんに会いたかったです)


 そして、会えて嬉しかった。


 それだけを今日の答えとして、エレナは灯りを消した。

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