第73話 任せて待つ
翌朝、エレナは顔を洗ったあと、窓辺へ差し込む朝の光の中で両手を確かめた。
昨日サナの石鹸を使った手には、赤みも腫れも見当たらない。指の間を軽く擦ってみても痒みや痛みはなく、肌の感触も普段と変わらなかった。
(今朝までは、大丈夫そうです)
それ以上は見続けず、エレナは袖を戻した。
昨日一日問題がなかったからといって、これから先も絶対に安全だと決まったわけではない。ただ、昨日の一度の試用については、今朝まで目立った異常がなかった。それだけなら事実としてサナへ伝えられる。
階下へ降りると、マーサは竈の火を整えていた。
「おはようございます」
「おはよう。手は?」
「今朝も何もありません」
「そうかい。ならサナに会ったら言っときな」
「はい」
マーサはそこで話を終え、鍋の蓋を少しずらした。湯気と一緒に野菜の匂いが広がり、エレナの意識も自然と朝食へ移っていく。
食卓へ皿を並べながら、エレナは窓の外を見た。
今日もラウゼンからの知らせが届くかどうかは分からない。昨日はローデンが来ただけで期待したが、それでも夜まで新しい情報はなかった。
今日も同じかもしれない。
あるいは、何か届くかもしれない。
(届いた時に、聞けばよいのですね)
まだ起きていないことを考え続けるより、今は朝食の準備をする。
エレナはパンの籠を食卓の中央へ置いた。
◇
朝食の途中、遠くから細い音が聞こえた。
エレナの手が、パンへ伸びかけたところで止まる。
村で普段聞く鐘とは違う。
高く短い音が一度響き、わずかな間を空けてもう一度聞こえた。二度目は最初より少し長かったが、どちらも長く鳴り続けるものではなかった。
マーサも食事の手を止め、東の方角へ顔を向けた。
「今の……」
「はい」
エレナは椅子から立ち上がらなかった。
以前にも聞いたことがある。
東側へ張られた警戒線が何かに反応した時の音だ。
胸の奥が少し強く鳴り始める。
(外側でしょうか。内側でしょうか)
音だけでは分からない。
何が触れたのかも分からない。
魔獣なのか、獣なのか、それとも別の何かなのか。
分からないことが一度にいくつも浮かんだところで、エレナは自分が立ち上がりかけていることに気づいた。
膝へ力が入っている。
けれど、どこへ行くつもりなのかは決めていなかった。
「エレナ」
マーサの声がする。
「はい」
「行くのかい?」
尋ねられ、エレナはすぐには答えなかった。
警戒線を確認するのは、自分の役目ではない。
ローデンやケル、ドランたちが確認することになっている。必要ならユウも加わるだろう。
自分が行けば何か分かるわけではない。
むしろ、調べている人たちの邪魔になる可能性もある。
それでも、気にはなる。
「……今は、行きません」
エレナは椅子へ座り直した。
「何があったのかは知りたいです。でも、私が今すぐ見に行く必要はないと思います」
「そうかい」
マーサはそれ以上何も言わず、食事へ戻った。
エレナもパンを手に取る。
けれど、先ほどまでと同じようには食べられなかった。耳が無意識に外の音を探し、東の方角へ意識が引かれている。
追加の警告音は聞こえない。
村の中から悲鳴も上がらない。
誰かが走る音は遠くで聞こえたが、それが警戒線へ向かう人なのか、別の用事なのかは分からなかった。
(気になることと、行かなければならないことは違います)
エレナはそう考えながら、少し冷め始めたスープを口へ運んだ。
◇
朝食を終えてしばらくすると、家の前の道をドランが東へ向かって歩いていった。
急いで走ってはいないが、普段より歩幅が大きい。
その少しあとにはケルも通った。
エレナは窓から二人を見ただけで、呼び止めなかった。
「やっぱり見に行くみたいだね」
マーサが言う。
「はい」
「気になるかい?」
「とても」
「なら聞きに行くかい?」
エレナは少し迷った。
警戒線まで行くのではなく、ローデンの家へ聞きに行くという方法もある。
しかし、まだ確認が始まったばかりだろう。
「今聞いても、まだ分からないと思います」
「そうだろうね」
「ですから、少し待ちます」
言葉にしたあとで、自分の胸の中を確かめる。
平気ではない。
何が起きたのか知りたいし、以前見つかった魔獣らしい足跡や人間の足跡を思い出せば、不安もある。
それでも、待つことはできそうだった。
エレナは借りている本を持って食卓へ座った。
開いたのは昨日の続きだったが、最初の数行はほとんど頭へ入らなかった。
一度閉じる。
「読めないかい?」
「今は少し難しいです」
「なら無理に読むことないだろ」
「はい」
エレナは本を脇へ置いた。
読書をやめたからといって、警戒線へ行く必要もない。
「少し外へ出てもよいですか?」
「好きにしな。ただ、東へ見に行くなら一言言っておくれ」
「東へは行きません」
エレナは家の前へ出た。
◇
朝の村は、警戒線が鳴ったからといって、すべてが止まっているわけではなかった。
畑ではガルドが作物を見ている。井戸へ向かう人もいるし、どこかの家から薪を割る音も聞こえてくる。
もちろん、何人かは東を気にしていた。
道端で話している二人の老人が東へ顔を向け、遠くの様子を窺っている。けれど、村中の人間が警戒線へ集まっているわけではない。
それぞれが、自分の場所にいる。
「エレナ!」
呼ばれて振り向くと、ニコがこちらへ歩いてきた。
今日は走っていない。
「おはようございます」
「さっき音した!」
「聞きました」
「見に行く?」
「私は行きません」
「何で?」
「確認する人たちが行っていますから」
ニコは東を見る。
「ベルじいちゃんも行かないって」
「そうなのですか?」
「うん。俺も行くって言ったら、邪魔だからやめろって」
ニコは少し不満そうだった。
「行きたかったのですか?」
「何だったか見たい!」
「私も何だったかは知りたいです」
「じゃあ行こうよ」
「でも、知りたいことと、自分で見に行くことは同じではありません」
ニコは首を傾げる。
エレナも、どう説明すればよいか少し考えた。
「例えば、ベルさんが木を切る時、ニコはいつも全部一緒に行きますか?」
「行かない」
「なぜですか?」
「危ない時あるから」
「では、あとでベルさんに聞きますか?」
「聞く」
「私は今、それと同じようなものだと思っています」
ニコはしばらく考えてから、少しだけ納得したように頷いた。
「じゃああとで聞く?」
「はい。確認が終わってから聞きたいです」
「俺も聞く!」
「では、邪魔にならない時にしましょう」
「分かった!」
今度の返事は、少し分かっているように聞こえた。
◇
ニコと別れたあと、エレナは井戸まで歩いた。
水を汲む必要はなかったので、ただそこまで行って戻るつもりだった。
井戸の近くでは、オルドが別の老人と話している。
「おはようございます」
「おう、エレナか」
「先ほどの音、聞きましたか?」
「聞いたよ」
「オルドさんは行かないのですか?」
「俺が行って何するんだ」
オルドは笑う。
「足跡見るならケルの方が百倍ましだし、森ならドランがいる。俺は鶏見てた方がいい」
「右脚を気にしていた鶏はどうですか?」
「ああ、今日も普通だ」
「そうですか」
「どいつか見たいか?」
エレナは少し考えた。
警戒線のことが気になっている。
だからといって、今は何もできない。
「見たいです」
「じゃあ来るか」
エレナはオルドの家へついていった。
◇
鶏たちは今日も庭を歩いていた。
オルドが指した一羽は、他の鶏と変わらないように見える。
「あれだ」
「普通に歩いていますね」
「今はな」
「もう治ったのでしょうか」
「そもそも何だったか分からんからなあ」
オルドは腕を組む。
「何か踏んだのかもしれんし、ちょっと捻ったのかもしれんし、別の理由かもしれん。今普通だから、今は普通ってだけだ」
「原因が分からなくてもよいのですか?」
「分かるなら知りたいが、鶏に聞いても答えんからな」
オルドが笑う。
「また足かばったら見るよ。腫れたり、餌食わなかったりしたらその時考える」
「はい」
エレナは鶏を眺めた。
警戒線のことも、今は同じなのかもしれない。
何かに反応した。
だから確認している。
まだ原因は分からない。
分からないうちから、頭の中で一つの答えを作る必要はない。
鶏が土をつつき始める。
「ありがとうございました」
「もういいのか?」
「はい。普通に歩いているところを見られました」
「ならよかった」
エレナはオルドの家を出た。
◇
マーサの家へ戻る途中、道の向こうからユウが歩いてくるのが見えた。
エレナは足を止める。
ユウもこちらに気づいた。
いつもの歩き方だったが、今日は腰に小さな袋を下げ、手には短い杖のような棒を持っている。
「ユウさん」
「おはよう」
「警戒線へ行くのですか?」
「うん。ローデンさんに呼ばれた」
やはり、と思う。
胸の奥に小さな不安が生まれた。
「ケルさんとドランさんも、先ほど東へ向かいました」
「もう行ってるみたいだね。俺はあとから呼ばれた」
「何か分かったのですか?」
「まだ。俺も音聞いただけ」
ユウは知らない。
なら、それ以上を尋ねても答えはない。
「そうですか」
「エレナさんは?」
「私は行きません」
ユウが少しだけ目を見開く。
「気にならない?」
「気になります」
「うん」
「とても気になります。でも、私が行っても調べられることはありません。ですから、確認が終わってから聞こうと思っています」
「そっか」
ユウは穏やかに頷いた。
エレナは彼の手にある棒を見る。
「それは?」
「地面触る時に使うやつ。跡の近くを直接踏まないようにしたり、草を少し避けたりする時に」
「戦うためではないのですね」
「違うよ」
「安心しました」
言ってから、エレナは自分の言葉を考える。
ユウが危険な場所へ向かう。
行ってほしくないと思うかと自分へ尋ねると、答えは少し複雑だった。
危険なら行ってほしくない。
けれど、ユウは村の警戒線を確認する役目を一人で背負っているわけではなく、必要な時にローデンたちと一緒に確認している。今回も、すでにケルとドランが向かっている。
「ユウさん」
「ん?」
「少し心配です」
「うん」
「でも、行かないでほしいとは今は思っていません」
ユウは黙って続きを待った。
「ローデンさんに頼まれて、ユウさんも行くと決めたのでしょう?」
「そうだね」
「でしたら、私は待っています」
「分かった」
「ただ」
エレナは少し迷ったあと、言葉を続ける。
「戻ったら、何があったか教えてほしいです」
「うん。俺が話していい範囲なら」
「はい」
すべてを自分へ報告する義務を負わせたいわけではない。
警戒線の記録は村のものだ。
「気をつけてください」
「気をつける」
ユウが歩き出す。
エレナはその背中を見送った。
今日は、見えなくなるまで立っていようとは思わなかった。
ユウが道を曲がる前に、エレナもマーサの家へ向かって歩き始めた。
◇
東側の外周へ着いた時、ユウはすぐに警戒線へ近づかなかった。
先に来ていたケルが、地面へ一本の細い枝を置いている。そこから先へ不用意に踏み込まないための目印だった。
ドランは少し北側に立ち、草の倒れ方を見ている。
ローデンは二人から数歩下がった位置にいた。
「来たか」
「何か分かった?」
「外側だけだ」
ローデンが答える。
「内側は鳴ってない」
「二回?」
「ああ。最初に短く一回、そのあと少し間を置いてもう一回。二回目が少し長かった」
ユウは警戒線そのものを見る。
目立った破損はない。
地面へ埋めた魔法具の位置も、見える範囲では変わっていない。
「触るなよ」
ケルが言う。
「分かってる」
「こっちだ」
ケルが指した場所は、以前足跡を確認した地点より少し北だった。
警戒線の外側。
柔らかい土と草が混じる場所に、一つだけ形の残った跡がある。
ユウは十分に距離を取ったまましゃがんだ。
「足跡?」
「たぶんな」
ケルは断定しなかった。
「獣っぽくは見える。ただ、全部残ってない」
跡の前半分は比較的分かるが、後ろ側は草と重なって崩れている。
「前のやつと同じ?」
「分からん」
「大きさは?」
「これだけじゃ比べにくい。地面も違う」
ユウは頷いた。
以前の足跡と似ているように見える部分はある。
しかし、似ているというだけで同じ種類とは決められない。
「他は?」
「今見てる」
ドランが北側から戻ってくる。
「草が少し寝てる」
「どこまで?」
「五、六歩くらい。そこから先は分からん」
「向きは?」
「北へ続いてるようにも見えるが、草が倒れてるだけなら風でも人でも獣でもなる。これだけじゃ言えん」
ローデンが尋ねる。
「人の足は?」
「今のところ見てない」
「内側は?」
「何もない」
ドランが答えた。
「線を越えた跡も、見える範囲じゃない」
ユウは外側の警戒線を見る。
反応した。
足跡らしいものが一つある。
草が少し倒れている。
それ以上は、まだ分からない。
「追う?」
ユウが尋ねると、ケルが首を横に振った。
「この程度で森まで入る理由はない」
「俺もそう思う」
ドランも同意する。
「外から見られる範囲だけ確認して終わりでいい。内側が鳴ってないなら、村側へ入った証拠も今のところない」
ローデンが警戒線から離れた場所に置いた記録板へ目を向ける。
「じゃあ、書けることだけ書くぞ」
◇
確認には、それほど長い時間をかけなかった。
ケルが足跡らしい痕跡の周辺を調べ、ドランが草の倒れている範囲と外側から見える森の縁を確認する。ユウは警戒線そのものに破損や魔力の乱れがないか、以前ベルたちと確認した手順に沿って見た。
結果として、新しく分かったことは多くなかった。
外側の警戒線が二度反応した。
内側は反応していない。
警戒線の外側に、獣の足跡らしく見える不完全な痕跡が一つ。
そこから少し北寄りに、数歩分ほど草が寝ている場所がある。
新しい人間の足跡は、確認できた範囲ではない。
警戒線の破損もない。
魔力の状態にも目立った異常はない。
痕跡が以前確認した未知の魔獣と同じものかどうかは不明。
一頭なのか複数なのかも不明。
草の倒れ方が足跡と関係するかも不明。
さらに北へ向かったのかどうかも不明。
旧道との関係は、今回の痕跡だけでは分からない。
「これでいいか」
ローデンが記録を読み上げる。
ケルが一箇所を指した。
「『北へ向かった』じゃなくて、『北側に草の倒れあり』にしろ」
「ああ」
ローデンが書き直す。
「向かったとは分からんからな」
「そうだ」
ユウはそのやり取りを聞きながら、エレナが以前から記録を大切にしていた理由を思い出した。
分からないことを、分かったことへ変えない。
記録へ残る言葉は、あとから読む人間の考え方にも影響する。
「ユウ、他にあるか?」
「俺が見た範囲ではないかな。線も壊れてないし、内側も反応なし」
「じゃあ戻るぞ」
ローデンが記録板を閉じた。
誰も森へ入らなかった。
◇
ユウが村へ戻る頃には、昼が近づいていた。
マーサの家へ向かうべきか、自分の家へ戻るべきか少し考える。
ローデンから、村の何人かには簡単に共有すると聞いている。ユウがエレナへ知らせる役目を正式に任されたわけではない。
それでも、朝の彼女の言葉を思い出す。
『戻ったら、何があったか教えてほしいです』
行きたいかどうかを考える。
(……行きたいな)
答えはすぐに出た。
ユウはマーサの家へ向かった。
◇
戸を叩く音が聞こえた時、エレナは食卓でマーサと豆の筋を取っていた。
午前中、何度か外の音へ意識が向いた。
それでもローデンの家へ聞きに行かなかった。
ユウが戻ったか確かめにも行かなかった。
気にならなかったからではない。
任せると決めたからだ。
「出ます」
エレナが立ち上がって戸を開ける。
そこにユウがいた。
朝と同じ服装で、目立った怪我はない。
それを確認した瞬間、エレナの肩から少し力が抜けた。
「おかえりなさい」
自然に出た言葉だった。
ユウが少し目を細める。
「ただいま」
以前にも似た言葉を交わしたことがある。
けれど今日は、ユウの家でもエレナの家でもないマーサの家の前で、その言葉が自然に交わされた。
「怪我はありませんか?」
「ないよ。戦ってないし」
「よかったです」
「中で話す?」
エレナはマーサを見る。
「入ってもらいな。あたしも聞くよ」
「どうぞ」
ユウは家へ入り、食卓の空いた椅子へ座った。
◇
「最初に言うと、何だったかは分からなかった」
ユウがそう切り出したことで、エレナは少し安心した。
無理に答えを作って帰ってきたわけではない。
「分かったことだけ教えてください」
「外側の警戒線が二回反応した。朝聞いた通り。内側は鳴ってない」
「はい」
「外側の線の向こうに、獣の足跡っぽい跡が一つあった。でも全部きれいに残ってるわけじゃないから、何の足跡かは分からない」
「以前の魔獣と同じかも、分からないのですね」
「うん。大きさも地面が違うから単純には比べられないってケルさんが言ってた」
「人の足跡は?」
「確認した範囲ではなかった」
「警戒線は壊れていましたか?」
「壊れてない。魔力も目立った異常なし」
エレナは一つずつ頭の中で整理する。
「他には?」
「足跡っぽい跡より少し北側に、草が寝てる場所があった。五、六歩くらいだったかな」
「北へ向かったのですか?」
「そこは分からない」
ユウはすぐに答えた。
「最初、記録にもそう書きそうになったけど、ケルさんが止めた。北側に草が倒れてるのは事実だけど、それが何かが北へ進んだ跡なのかは分からないって」
「そうですね」
「足跡との関係も分からない。風かもしれないし、別の獣かもしれない。見てないから」
「追わなかったのですか?」
「追ってないよ」
「森にも?」
「入ってない」
エレナは息を吐いた。
自分でも気づかないうちに、そこを心配していたらしい。
「ローデンさん、ケルさん、ドランさん、ユウさんで確認したのですか?」
「うん」
「皆さん、無事ですか?」
「大丈夫」
「よかったです」
マーサが豆の筋を取りながら口を挟む。
「じゃあ結局、何かが外の線に触れたか近づいたらしいけど、何だったかは分からんってことかい?」
「今のところはそんな感じかな」
「村に入った跡は?」
「確認できてない。内側も鳴ってないし」
「なら今日はそれ以上追わない?」
「ローデンさんたちはそのつもり」
「分かったよ」
マーサはそこで豆へ視線を戻した。
エレナは少し驚く。
「マーサさん、それだけですか?」
「他に何聞くんだい?」
「もっと心配ではありませんか?」
「心配はしてるよ。でも、今聞いた以上のことをユウに聞いたって増えないだろ」
「そうですね」
「それに、ローデンたちが見てきたんだ。必要ならまた動くさ」
マーサは筋を取り終えた豆を籠へ入れる。
「今は昼飯の方が近いよ」
エレナは少し笑った。
警戒線が鳴った。
それは無視してよいことではない。
けれど、村の一日すべてを警戒線だけに変える必要もない。
「ユウさん」
「ん?」
「教えてくださって、ありがとうございます」
「うん」
「私は、朝からずっと気になっていました」
「そうだよね」
「でも、見に行かなくてよかったと思います」
「何で?」
「私が行っても、皆さんが確認したこと以上には分からなかったと思うからです。それに、私は足跡を見ることも、森の痕跡を読むこともできません」
エレナは少し間を置く。
「任せることが、何もしないこととは違うのですね」
ユウはエレナを見る。
「そうだと思うよ」
「以前の私は、自分が何かしなければならないと思うことが多かったです」
「うん」
「今日は、何もしなかったわけではありません。行かないと決めて、確認してくださる方を待ちました」
「それも選んだことだね」
「はい」
言葉にすると、胸の中が少し整った。
◇
昼食にはユウも残ることになった。
「食べていくかい?」
マーサに尋ねられたユウが少し考えてから頷く。
「食べたい」
「じゃあ豆運びな」
「はいはい」
「返事が軽いね」
「食べさせてもらう側だから運びます」
ユウが籠を持って立ち上がる。
エレナも何か手伝おうとして、そこで止まった。
「マーサさん、私は何をすればよいですか?」
「皿を出しておくれ」
「はい」
頼まれたことをする。
ユウが豆を運び、マーサが鍋を用意し、エレナが食卓を整える。
警戒線の話をした直後なのに、家の中には豆を煮る匂いが広がっていった。
昼食が始まると、話題は自然と別のことへ移った。
「そういえばエレナ、手はどうなんだい?」
マーサに聞かれ、エレナは自分の手を見る。
「今朝も異常はありませんでした」
「何の話?」
ユウが尋ねる。
「昨日の石鹸だよ」
「ああ」
「今日も使うのかい?」
「サナさんにまだ会っていません。頼まれたら、その時に決めます」
マーサが満足そうに頷く。
「覚えてたね」
「はい」
「何を?」
ユウが尋ねる。
エレナは昨日から考えていたことを説明した。
未来の予定を考えてもよい。
ただし、今の自分が決めたことを、未来の自分へ絶対の命令にしなくてもよい。
「今日の朝、使いたいと思ってた?」
「はい」
「じゃあサナさん来たら使う?」
「その時に、もう一度考えます」
「徹底してるね」
「練習中です」
エレナが答えると、ユウは笑った。
「俺も似たようなことしてるから何も言えないな」
「木を削るかどうかですか?」
「そう。昨日削らなかったし」
「今日は?」
「今は分からない」
「では、あとで決めるのですね」
「そうなるかな」
二人の会話を聞いていたマーサが、呆れたように笑う。
「二人して何でも確認しながら生きてるね」
「駄目ですか?」
「誰も駄目なんて言ってないよ」
マーサは自分の皿へ豆を追加した。
「疲れない程度にやんな」
エレナとユウは顔を見合わせた。
「そこも確認が必要ですね」
エレナが言うと、ユウが吹き出した。
◇
昼食のあと、ユウはすぐには帰らなかった。
食卓の片づけを終え、エレナが本を持ってくる。
「読みますか?」
「俺も?」
「私は読みたいです。ユウさんがここにいたいなら、別のことをしていてもよいと思って」
昨日二人で話したことを、そのまま試すような提案だった。
「じゃあ、少しいようかな」
「何をしますか?」
「何もしないかも」
「それでもよいです」
ユウは窓際の椅子へ座り、エレナは食卓で本を開いた。
同じ部屋にいる。
けれど、同じことはしていない。
エレナは数ページ読み、分からないところへ小さな紙を挟んだ。ユウは窓の外を眺めたり、椅子の背へ体を預けたりしている。
ときどき視線が合う。
そのたびに、どちらかが少し笑う。
話さなくても気まずくはなかった。
エレナは本へ視線を戻す。
(こういう時間が、私は好きです)
昨日、自分が言ったことを思い出す。
一緒にいても、全部を同じにしなくてよい。
今まさに、その通りの時間だった。
◇
しばらくして、戸を叩く音がした。
マーサが出ると、サナが立っていた。
「エレナいる?」
「いるよ」
エレナは本を閉じて立ち上がる。
「こんにちは」
「手、どうだった?」
「今朝も、今も何もありません」
サナはエレナの両手を見る。
「赤くないわね。痒みは?」
「ありません」
「じゃあ、今日もう一度使ってみる?」
昨日なら、今朝の時点では使いたいと思っていた。
今はどうだろう。
エレナは自分へ問いかける。
警戒線のことで少し緊張した朝だったが、今は落ち着いている。石鹸を使うことへの不安は増えていない。
「はい。今日も使ってみたいです」
「分かった」
サナが布包みを出す。
ユウは椅子に座ったまま、口を挟まない。
エレナは昨日と同じように家の外へ出て、手だけを一度洗った。
泡立ちはやはり少ない。
痛みも痒みもない。
水で十分に流し、布で拭く。
「今日はここまで?」
エレナが尋ねる。
「そうね。また様子見」
「分かりました」
「明日も使うかは?」
サナが少し笑いながら聞く。
エレナも笑った。
「明日決めます」
「マーサに何か仕込まれた?」
「自分で練習しています」
「何の練習よ」
「その時の自分で決める練習です」
サナは少し不思議そうな顔をしたあと、声を立てて笑った。
「まあ、石鹸くらい好きに決めて」
「はい」
◇
サナが帰ったあと、ユウもそろそろ帰ると言った。
「今日は木、削るかもしれない」
「決めたのですか?」
「今ちょっとやりたくなった」
「では、やりたいからするのですね」
「うん」
「どのくらい?」
「それは削り始めてから決める」
エレナは笑った。
「分かりました」
家の前まで見送る。
「今日は、戻ってきてくださってありがとうございました」
「うん」
「警戒線へ行く前に、少し心配だと言えてよかったです」
「俺も聞けてよかった」
「なぜですか?」
「何も言われないより、エレナさんがどう思ってるか分かったから」
ユウは少し考えてから続ける。
「心配されるのが嫌なんじゃなくて、それで絶対行くなって言われるのが苦しい時があるんだと思う」
エレナは静かに聞く。
「昔も、ですか?」
「昔は逆かな。行け、やれ、何とかしろって方が多かった」
「そうでしたね」
「だから今は、心配だから行かないでって言われても、それだけで嫌になるわけじゃないよ。ただ、俺が決める余地があると楽」
「私も同じです」
エレナは胸の前で手を重ねる。
「誰かに心配されることと、決めてもらうことは違うのですね」
「たぶんね」
「では、これからも心配した時は言ってもよいですか?」
「いいよ」
「ユウさんも、私を心配したら言ってください」
「うん。ただ、言ったから従って、にはしないようにする」
「はい」
二人の間に、また一つ小さな約束が増えた。
守るために苦しくなる約束ではなく、互いの気持ちを言葉にしてもよいという約束だった。
「また会いたくなったら来ます」
エレナが言う。
「俺も」
ユウはそう答え、自分の家へ帰っていった。
◇
夕方、ローデンが村の何軒かを回り、警戒線の確認結果を簡単に伝えた。
マーサの家にも立ち寄ったため、エレナはユウから聞いた内容と違いがないか確認する。
「外側が二回。内側は反応なし。外に不完全な獣らしい跡が一つ。北側に草が少し寝てる。人の新しい足跡は見つからず、線も壊れてない。今のところはそれだけだ」
「以前の魔獣との関係は?」
「分からん」
「以前の人の足跡や、車輪の跡との関係は?」
「分からん」
「古い道とは?」
「今回そこまで結びつけられるものはない」
ローデンは一つずつ答える。
「追わないのですか?」
「今日は追わない。外から確認できる範囲で終わりだ」
「次にまた鳴ったら?」
「その時の状況で決める」
「分かりました」
エレナはそれ以上尋ねなかった。
分からないものは、今は分からない。
それが正式な確認結果だった。
◇
夜。
エレナは記録帳を開いた。
最初に石鹸のことを書く。
『昨日の試用後、夜から今朝まで赤み、痒み、痛みなし。今日も頼まれた時に使いたいか考え、一度だけ手に使用した。使用中の刺激なし。今のところ異常なし。明日使うかは明日決める。』
次に、今日の警戒線について書こうとして、少し考える。
正式な警戒線の記録はローデンたちが残している。
自分の記録帳へ同じものを詳細に写す必要はない。
それでも、自分が今日どうしたかは残したいと思った。
『朝、東の外側警戒線が二度鳴った。私は確認へ行かなかった。ローデンさん、ケルさん、ドランさん、ユウさんが確認した。』
続けて、分かっていることだけを書く。
『内側は反応なし。外側に不完全な獣らしい跡が一つ。少し北側に数歩分ほど草が寝ていた。新しい人の足跡は確認されず、警戒線の破損や目立った魔力異常もなし。』
『何の獣か不明。以前の魔獣と同じか不明。一頭か複数か不明。草の倒れとの関係不明。北へ進んだか不明。以前の人の足跡、車輪の跡、溝のような跡、古い道との関係も不明。追跡はしていない。』
書いてみると、「不明」が多い。
けれど、それでよかった。
分からないことを埋めるための記録ではない。
分からないことを、分からないまま残すためにも記録は使える。
エレナはさらに書く。
『私はとても気になったが、見に行かなかった。確認できる人に任せて待った。あとでユウさんとローデンさんから聞いた。』
筆が止まる。
(任せて待つ)
以前なら、「何もしなかった」と書いたかもしれない。
けれど今日は、そうは思わなかった。
自分にできないことを、できる人がしている。
その人たちを信じて待つ。
必要な情報が戻ってきたら聞く。
それも一つの行動だった。
最後に、ユウとのことを書く。
『ユウさんが警戒線へ行く前、私は心配していると伝えた。ただし、行かないでほしいとは思っていないとも伝えた。戻ったら教えてほしいと頼んだ。』
『ユウさんは戻ってきて、分かったことと分からなかったことを教えてくれた。』
少し迷ってから、もう一行を加える。
『心配することと、相手の行動を決めることは違う。ユウさんも、私も、心配した時には言ってよい。ただし、相手が決める余地を残したい。』
エレナは筆を置いた。
ラウゼンからの知らせは今日もない。
三軒目の家について、新しいことは分からなかった。
東の警戒線については、新しい反応があった。
けれど、何が来たのかという核心は分からないままだった。
分からないことが二つある。
それでも、今夜のエレナは眠れそうだった。
窓を少し開けると、夜の空気が部屋へ入ってくる。
遠くから虫の声が聞こえた。
村は静かだった。
(明日、何か分かるかもしれません。何も分からないかもしれません)
それでも、明日になれば明日の自分が考えられる。
今日の自分は、必要のない場所へ走らず、必要な人たちへ任せ、戻ってきた話を聞くことができた。
それで十分だった。
エレナは窓を閉め、灯りを落とした。
警戒線の向こうに何がいたのかは、まだ誰にも分からない。
だからこそ、分かったふりをせずに待てばよい。
その夜、エレナは答えのないものを答えのないまま残し、静かに目を閉じた。




