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第72話 好きな場所の中に

翌朝、エレナが階下へ降りると、マーサは食卓の端に小さな籠を置いていた。中には昨日サナへ返したはずのものとは別の布が何枚か入っており、その隣には細い紐と小さな木の札が並んでいる。


「おはようございます」


「おはよう。よく寝たかい?」


「はい」


 エレナは椅子を引きながら、もう一度籠へ目を向けた。


「それは何ですか?」


「あとで分ける布だよ。使えるのと、もう雑巾にするのとね」


「私も見てもよいですか?」


「朝飯食ってからなら好きにしな」


 マーサはそう言って、温めたスープをエレナの前へ置いた。


 昨夜まで頭の中に残っていたラウゼンと北梟工房のことは、朝になっても忘れてはいない。ユウから言われた「ルーデにいてくれたら嬉しい」という言葉も、思い出せば今でも胸の奥が温かくなる。


 けれど、目覚めた瞬間からそれだけを考えていたわけではなかった。


 窓の外が明るいことに気づき、顔を洗い、髪を整え、少し空腹を感じた。


 今日も生活が先に始まっている。


「マーサさん」


「何だい?」


「昨日、サナさんから、いずれ石鹸を試してほしいと頼むかもしれないと言われました」


「聞いてたよ」


「その時になってから決めてよいとも言われました」


「そう言ってたね」


 エレナはパンを小さくちぎる。


「昨日は、それでよいと思いました。でも今朝になったら、もし頼まれたらどうするか少し考えてしまいました」


「使いたくないのかい?」


「嫌ではありません。ただ、まだ頼まれていないのに返事を考えていることに気づきました」


 マーサはスープを一口飲み、少しだけ首を傾けた。


「考えちゃ駄目なのかい?」


「……駄目ではないですね」


「考えたきゃ考えりゃいいさ。ただ、今決めたからって、その時も同じ返事しなきゃならないわけじゃないだろ」


 エレナはパンを持ったまま、マーサを見る。


「変えてもよいのですか?」


「まだ約束もしてないのに、誰に怒られるんだい」


「誰にも」


「なら好きにしな」


 あまりにも簡単に言われて、エレナは少し笑った。


「今のところは、試してみたいと思っています」


「じゃあ今はそう思ってる。それでいいだろ」


「はい」


 未来について考えることまでやめる必要はない。


 ただ、今考えたことを未来の自分へ命令しなければよい。


(その時の私は、その時に決められます)


 エレナはそう考えながら、朝食を続けた。


     ◇


 食後、マーサは先ほどの籠を床へ下ろした。


「見るんだろ?」


「はい」


 エレナも隣へ座る。


 籠に入っているのは、古い布や着なくなった服の一部だった。破れているものもあれば、端が擦れて薄くなっているものもある。


「これは、まだ使えますか?」


 エレナが灰色の布を一枚持ち上げる。


「何に?」


「何に……」


「使い道が決まってないのに、使えるかって聞かれてもね」


 マーサは布を受け取り、指で引っ張ってみせた。


「服に戻すには小さすぎる。繕いの当て布にするには、場所によっちゃ使える。汚れを拭く布なら十分だね」


「一つの布でも、目的によって違うのですね」


「そりゃそうだよ」


 エレナは昨日まで読んでいた『暮らしの小さな工夫』を思い出す。


 本にも、古布の使い道はいくつか載っていた。


 ただ、文章を読んだ時には「古い布はこう使う」と一つずつ覚えようとしていた。実物を前にすると、同じ布でも使い道によって判断が変わる。


「これは?」


 次に持ち上げた布は、中央に小さな穴が開いていた。


「端はまだ丈夫そうですね」


「そうだね。穴のところを避ければ使える」


「穴があるから全部駄目、ではないのですね」


「そんなことしてたら、うちの布は半分なくなるよ」


 マーサが笑う。


 エレナも布を光へ透かしてみる。


 穴の周囲は少し薄い。


 けれど、離れた場所はまだしっかりしている。


「昨日の前掛けに使った当て布も、こういうところから取ったのですか?」


「そうだよ」


「では、私は昨日、誰かの古い服の一部を使ったのですね」


「たぶんあたしのだね。何だったかまでは覚えてないけど」


「それでも、また使えるようになったのですね」


 捨てられるはずだったものが、新しいものへ変わったというほど大げさではない。


 ただ、役目が変わった。


 服だった布が、別の服を支える当て布になった。


「エレナ」


「はい?」


「そんなに感心してるなら、分けるの手伝うかい?」


 エレナは籠を見る。


 興味がある。


「やってみたいです」


「じゃあ、こっちは当て布にできそうなやつ。こっちは拭く布。これはもう捨てる」


「判断に迷ったら?」


「聞きな」


「はい」


 二人で布を分け始めた。


     ◇


 最初の数枚は、マーサへ確認しながら進めた。


 厚すぎるもの。


 薄いが柔らかく、拭く布には使いやすそうなもの。


 端だけ傷んでいて、中央部分はまだ丈夫なもの。


 エレナは次第に、自分で一度考えてからマーサへ見せるようになった。


「これは当て布でしょうか」


「何で?」


「厚さがあり、中央は丈夫です。ただ、端がかなりほつれています」


「じゃあ端を切れば使えるね」


「では、こちらです」


 当て布の山へ置く。


 次の布は全体的に薄くなっていた。


「これは拭く布でしょうか」


「そうだね。水吸いそうだ」


「では、こちらへ」


 作業は単純だったが、思ったより面白い。


 全部に一つの正解があるわけではない。迷うものもあり、マーサへ聞くと「どっちでもいい」と言われることさえあった。


「どちらでもよいのですか?」


「当て布にもなるし、拭くのにも使えるからね」


「では、どちらにしますか?」


「エレナが決めな」


「私が?」


「どっちでもいいんだから、好きな方でいいだろ」


 エレナは布を両手で持った。


 どちらへ置いても間違いではない。


 それなのに、ほんの少し迷う。


(正解がないのではなく、どちらも使えるのですね)


 なら、自分で決めてよい。


「当て布にします」


「はいよ」


 マーサは何の評価も加えなかった。


 正解でも不正解でもなく、ただ一枚の布が当て布の山へ移った。


 それが少し心地よかった。


     ◇


 半分ほど分けたところで、外からニコの声が聞こえた。


「マーサー!」


「朝から何だい」


 マーサが立ち上がる。


 エレナも作業を止めた。


 戸が開くと、ニコは小さな木の枝を片手に持っていた。枝の先には葉が数枚残っている。


「ベルじいちゃんいる?」


「ここにはいないよ。自分の工房だろ」


「いなかった!」


「じゃあどっか行ってるんだろ」


「これ聞きたかったのに」


 ニコが枝を差し出す。


「何ですか?」


 エレナが尋ねると、ニコは待っていましたと言わんばかりに近づいた。


「虫道の板の近くに落ちてた!」


「枝が?」


「うん! 昨日なかった!」


 エレナは枝を見る。


 特別変わったものには見えない。


「どこから落ちたのでしょう」


「分かんない!」


「近くに木は?」


「ある!」


「では、その木から落ちた可能性もありますね」


「でも風なかった!」


 ニコは何か大きな発見をしたような顔をしている。


 エレナは昨日の朝、風が弱かったことを思い出した。しかし、一日中まったく風がなかったかどうかは知らない。


「昨日ずっと見ていましたか?」


「見てない!」


「では、風が吹いた時間があったかもしれません」


「そっか」


 ニコは枝を見る。


「虫が落としたかも?」


「虫がこの枝を?」


 枝はニコの手のひらより長い。


 昨日見たという黒い虫の大きさをエレナは聞いていなかった。


「昨日の虫は大きかったのですか?」


「これくらい!」


 ニコが指で示した幅はかなり小さい。


「その虫がこの枝を運ぶのは難しそうです」


「じゃあ違うか」


「分かりません。でも、今のところ虫が運んだと考える理由は少なそうです」


 ニコは少し考えてから頷いた。


「ベルじいちゃんにも聞く!」


「そうしてください」


「エレナも見る?」


 虫道のことだろう。


 エレナは床に残した布の山を見る。


 今は、こちらをもう少し続けたい。


「今日は今、この布を分けたいです」


「そっか!」


「あとで見たくなったら行きます」


「分かった!」


 ニコは枝を持ったまま走っていった。


「走るなよ!」


 マーサが背中へ声を飛ばす。


「分かったー!」


 返事は遠ざかっていった。


「今日も分かってない走り方ですね」


「毎日同じだよ」


 二人は顔を見合わせて笑い、布のところへ戻った。


     ◇


 最後の一枚を分け終えた頃には、朝より日差しが強くなっていた。


 エレナは三つに分かれた布の山を見る。


「終わりました」


「終わったね」


「思っていたより楽しかったです」


「布分けが?」


「はい。これは何に使えるのか考えるのが」


「じゃあ今度から全部任せようかね」


 エレナは一瞬考える。


「毎回ですか?」


「冗談だよ」


「よかったです」


「そこは『やります』って言わなくなったね」


 マーサは笑いながら当て布の山を籠へ戻す。


 エレナも残りをまとめるのを手伝った。


「今日やるのは楽しかったです。でも、毎回やりたいかは分かりません」


「それでいいんじゃないかい」


「はい」


 やってみたいことが、そのまま新しい役割になるわけではない。


 一度手伝ったことを、今後ずっと担当しなくてもよい。


 その考え方にも、少しずつ慣れてきた。


     ◇


 昼前、エレナは家の外へ出た。


 何か目的があったわけではなく、布を分け続けたあとで少し外の空気を吸いたくなっただけだった。


 家の前には誰もいない。


 道の向こうを一台の小さな荷車が通ったが、村の中で使われているものだった。ラウゼンからの知らせを運んできたわけではないと分かっていても、エレナの目は一瞬だけそちらへ向いた。


(まだ気になるのですね)


 そのこと自体は、昨日ユウと話して受け入れた。


 気になるものは気になる。


 待っているものを忘れなければ待てていない、というわけではない。


 エレナは椅子へ座り、しばらく村道を眺めた。


 すると、向こうからサナが歩いてくるのが見えた。


 片手には小さな布包みを持っている。


「エレナ」


「こんにちは」


「マーサはいる?」


「はい。中にいます」


「ちょうどよかったわ」


 サナが近づく。


 エレナはその手の布包みを見る。


 昨日の話が頭へ浮かんだ。


「石鹸ですか?」


「よく分かったわね」


「布の形が、それらしく見えました」


「それらしい布って何よ」


 サナは笑いながら、包みを少し持ち上げた。


「でも当たり。昨日話してたやつ」


 エレナの背筋がわずかに伸びる。


「私に、ですか?」


「その前にマーサにも話そうと思ってね。使うのはエレナなんだから、本当はあんたが決めればいいんだけど」


「はい」


「ただ、ここで暮らしてるし、何かあった時に一番近くにいるのはマーサでしょう?」


「そうですね」


「だから一応ね」


 サナの言葉には、エレナを子どもとして扱う響きはなかった。


 決めるのはエレナ。


 けれど、もし肌に異常が出た時にはマーサも状況を知っていた方がよい。


 そういう意味なのだと分かる。


「中へどうぞ」


 エレナは戸を開けた。


     ◇


「昨日の今日じゃないか」


 話を聞いたマーサが最初に言った。


「別に昨日作った石鹸じゃないわよ。試してるやつを小さく切ったの」


 サナは食卓へ布包みを置き、中から親指の先ほどの石鹸片を出した。


「私が何度か使って、今のところ赤みも痒みもなし。昨日の夜も今朝も大丈夫だったから、次に少しだけ他の人へ使ってもらおうと思って」


「エレナが最初かい?」


「いいえ。今朝、私の姉にも渡したわ」


「姉さん、村の反対側だろ」


「だから先に行ってきたのよ」


 サナはエレナを見る。


「昨日言った通り、使ってみない?」


 ついに実際に頼まれた。


 エレナは石鹸片を見る。


 昨日の自分は、頼まれたら試してみたいと思っていた。


 今はどうだろう。


 嫌ではない。


 むしろ興味がある。


「どのように使いますか?」


「まず今日は手だけ。水で濡らして、少し泡立てて洗う。何かぴりぴりしたり、痒かったり、変だと思ったらすぐ流してやめる」


「何もなければ?」


「今日はそれで終わり。何度も使わなくていいわ」


「明日は?」


「今日の夜と明日の朝の手を見て、それから決めましょう」


「分かりました」


 サナはまだ石鹸を渡さない。


「使う?」


 改めて聞かれた。


 エレナは自分の手を見る。


 今の気持ちは、昨日と同じだった。


「使ってみたいです」


「じゃあお願いするわ」


 サナが石鹸片を差し出す。


 エレナは受け取った。


「今使いますか?」


「水あるならね」


「あります」


 マーサが立ち上がる。


「外の桶使いな。何かあったらすぐ洗えるように、水は多めにあるよ」


「はい」


 三人で家の外へ出た。


     ◇


 家の脇には水桶が置かれている。


 エレナは袖を少しまくり、サナから教えられた通りに両手を水で濡らした。


「強く擦らなくていいわよ」


「はい」


 小さな石鹸片を手のひらで転がす。


 泡は多くない。


 以前サナが布で試した時と同じだった。


「泡が少ないですね」


「そうなのよ。でも汚れは落ちたの」


「泡の量と、洗えるかどうかは同じではないのでしたね」


「覚えてたのね」


 エレナは手のひらと指の間を軽く洗う。


 香りは強くない。


 草のような匂いがほんの少しする程度だった。


「今、痛みや痒みは?」


「ありません」


「ぴりぴりもしない?」


「はい」


「じゃあ流して」


 エレナは桶から水を汲み、石鹸を丁寧に洗い流した。


 サナが布を差し出す。


「拭いたら少し待ちましょう」


「どのくらいですか?」


「ここでずっと見張るほどじゃないわよ」


 昨日の自分と前掛けのことを思い出し、エレナは笑った。


「分かりました」


 手を拭く。


 見たところ、赤くはなっていない。


 痒みも痛みもない。


 けれど、それだけで「大丈夫」と決める段階ではないことは、もう理解している。


「今のところは何もありません」


「じゃあ今日はそれで終わり」


「もう使わないのですか?」


「使いたい?」


 エレナは考える。


 もう一度使ってみたいというより、どのくらい洗えるのか試してみたい気持ちは少しある。


 しかし、サナが今日一回だけにしているのには理由がある。


「今日は、これでよいです」


「うん。何か変わったらすぐ教えて」


「はい」


「夜にも手を見てね。何もなくても、明日会えたら教えて」


「分かりました」


 サナは残った石鹸片を再び布へ包んだ。


「これは私が持って帰るわ。次に使うかは明日決めるから」


「はい」


 エレナは自分の手を見た。


 いつもと変わらない。


 それでも、今日から一つ新しいことを試した。


     ◇


 サナが帰ったあと、マーサは家の中へ戻った。


 エレナも続こうとしたが、ふと手をもう一度見たくなり、その場で立ち止まる。


「赤くなったかい?」


「いいえ」


「じゃあ見すぎるんじゃないよ」


「前掛けと同じですね」


「そうだよ」


 マーサは笑う。


「でも、何か変ならちゃんと見な。見なくていいって意味じゃないからね」


「はい」


 見すぎないことと、見ないことは違う。


 それも覚えておく。


     ◇


 昼食を終えてからしばらく経っても、手に変化はなかった。


 エレナは一度だけ状態を確認し、それから本を読む。


 今日は昨日より集中できた。


 『暮らしの小さな工夫』の保存食の続きを読み、乾燥させる場所によって仕上がりが変わるという記述へ興味を持つ。


 ただ、実際に何かを干してみたいとまでは思わなかった。


 知ることと、やることは別だ。


 それでよい。


 数ページ読んだところで、戸を叩く音がした。


 今度はマーサが先に出る。


「ユウだよ」


 名前を聞いただけで、エレナの顔が少し緩む。


 それを自覚しながら階下へ降りた。


「こんにちは」


「こんにちは」


 ユウは今日は小さな木箱を持っていた。


「今日は用事がありますね」


 エレナが言うと、ユウは木箱を見る。


「あるね」


「何ですか?」


「ベルさんから借りてた小さい鉋を返しに行くところ」


「ここはベルさんの家ではありません」


「知ってるよ」


「では、なぜ?」


 ユウは少し笑った。


「エレナさんいるかなと思って寄った」


 昨日も会った。


 それでも今日も来た。


 義務ではない。


 会いたいと思ったから寄った。


 そのことが分かり、エレナの胸の奥が温かくなる。


「います」


「うん。いたね」


「私も会えて嬉しいです」


「俺も」


 昨日と同じような言葉なのに、今日も嬉しい。


「ベルさんのところへ行くのですか?」


「このあとね」


「私も一緒に行ってよいですか?」


 言ってから、自分が本当に行きたいか確認する。


 ベルに用事があるわけではない。


 ただ、ユウと歩きたい。


「行きたいです」


「今、自分で確認した?」


「はい」


「顔に出てた」


「マーサさんのようなことを言わないでください」


 ユウが笑う。


「じゃあ行く?」


「はい」


 マーサへ出かけることを伝え、エレナはユウと家を出た。


     ◇


 村道を歩き始めてすぐ、ユウがエレナの手へ目を向けた。


「何かあった?」


「なぜですか?」


「さっきから何回か手見てるから」


 無意識だったらしい。


「サナさんの石鹸を試しました」


「もう?」


「はい。昨日、いずれ頼むかもしれないと言われて、今日実際に頼まれました」


「大丈夫だった?」


「今のところは何もありません。ただ、今日は一度だけ使って、夜と明日の朝まで様子を見るそうです」


「そっか」


「私が何度も見ていたら、マーサさんにも見すぎないよう言われました」


「気になるよね」


「ユウさんなら見ませんか?」


「たぶん見る。でも見すぎると思う」


「同じですね」


 二人は笑った。


「使うの怖くなかった?」


 ユウが尋ねる。


「少し考えました。でも、使ってみたいと思いました。サナさんが先に何度か使っていて、何か変ならすぐやめることも聞いていましたから」


「うん」


「それに、昨日のうちから使うと決めていたわけではありません。昨日は使ってみたいと思っていましたが、今日頼まれた時にもう一度考えました」


「ちゃんとその時に決めたんだ」


「はい」


「いいんじゃない?」


 エレナは頷く。


「ユウさんは、未来の予定を決めるのが嫌いですか?」


「全部?」


「いいえ。例えば、明日これをすると決めることです」


「別に嫌いじゃないよ。必要なら決めるし」


「では、変えてもよいのですか?」


「約束してる相手がいるなら勝手には変えないけど、自分だけの予定なら変えることもあるかな」


「マーサさんと同じですね」


「たぶん普通じゃない?」


「私には、少し難しかったのです」


 決めたことは守る。


 予定通りにする。


 教えられたことを忘れない。


 約束を破らない。


 どれも間違ってはいない。


 ただ、自分一人の予定まで、絶対に変えてはいけないものとして扱っていた。


「今は?」


「少しずつ、違いが分かってきました」


「そっか」


 ユウはそれ以上教えようとはしなかった。


     ◇


 ベルの工房へ着くと、本人は外で木材を削っていた。


「ベルさん」


「おう。二人か」


「これ返しに来た」


 ユウが木箱を差し出す。


 ベルは中を確認する。


「使ったか?」


「少し。前の削りすぎたところを整えた」


「全部消したか?」


「残ってる」


「なら見せてみろ」


「持ってきてないよ」


「じゃあ今度でいい」


 ベルは箱を受け取った。


 エレナは二人のやり取りを聞きながら、工房の脇へ置かれた木片を見る。


「ベルさん」


「何だ?」


「ニコが朝、枝を持って探していました」


「ああ、来たぞ」


「何の枝だったのですか?」


「普通の枝だ」


「なぜ虫道の近くに落ちたのでしょう」


「知らん」


「ニコは虫が落としたかもしれないと言っていました」


「虫より枝の方がでかい」


「私もそう思いました」


「近くの木から落ちたんだろ。風か鳥か、誰かが踏んだか、他にもある。見てないことは分からん」


「ニコは納得しましたか?」


「次は枝がいつ落ちるか見るって言ってた」


 ベルは少し呆れた顔をしている。


「ずっと見るのでしょうか」


「飯になりゃ帰るだろ」


「それなら大丈夫そうですね」


 ベルがユウを見る。


「お前は今日は削らんのか?」


「今はいいかな」


「そうか」


 それだけだった。


 来たから作業しろとも、道具を借りたから練習しろとも言わない。


 ユウも申し訳なさそうにはしなかった。


 エレナは以前より、そのやり取りが自然に見えるようになっていた。


     ◇


 工房を出たあと、ユウとエレナはすぐには別れなかった。


「このあとどうする?」


 ユウが尋ねる。


「まだ決めていません」


「俺も」


「昨日と同じですね」


「また歩く?」


 エレナは一度、自分の体の状態を確かめる。


 疲れてはいない。


 手にも異常はない。


 もう少しユウと一緒にいたい。


「歩きたいです」


 二人は昨日とは違う道を選んだ。


 村の南側へ回る細い道で、片側には低い石垣が続き、その向こうには小さな畑がいくつか並んでいる。


 途中で、オルドの鶏が数羽見えた。


「あの鶏でしょうか」


「どれ?」


「右脚を気にしていた鶏です」


「俺、見分けつかない」


「私もです」


 二人で立ち止まって見たものの、どの鶏も普通に歩いている。


「分からないですね」


「オルドさんに聞けば分かるかも」


「今日は聞かなくてもよいです」


「そっか」


 また歩き出す。


「エレナさん」


「はい?」


「昨日言ったこと、気にしてる?」


 何のことか、一瞬だけ考える。


 すぐに分かった。


「私がルーデにいたら嬉しい、ということですか?」


「うん」


「気にしています」


 ユウの表情がわずかに固くなる。


 エレナはそれに気づいた。


「嫌だったという意味ではありません」


「ああ、うん」


「とても嬉しかったので、何度か思い出しました」


 今度はユウが少し照れたように視線を前へ戻した。


「そっか」


「ユウさんは、言ったことを後悔していますか?」


「してないよ」


 返事は早かった。


「ただ、残れって言ったみたいになってないかなと思って」


「なっていません」


「ならよかった」


「私は、ユウさんが私をルーデへ縛ろうとしているとは思いませんでした」


 エレナは少し歩調を緩めた。


「むしろ、嬉しいと思ってもらえることと、残れと命令されることが違うと分かった気がします」


「うん」


「私も、ユウさんがルーデにいてくださると嬉しいです。でも、もしユウさんがいつか別の場所へ行きたいと思ったら、私が嬉しいからという理由だけで止めてはいけないと思います」


 言葉にしてみると、胸の奥にわずかな寂しさが生まれた。


 ユウがルーデを出ていく未来を想像したからだ。


 今はその予定がないと知っている。


 それでも、絶対にないとは言えない。


「寂しい?」


 ユウが尋ねた。


「少し」


「俺が出てく想像したから?」


「はい」


「今は出る予定ないよ」


「知っています」


 エレナは笑った。


「でも、寂しいと思いました」


「そっか」


「だから、今はいてくださることが嬉しいです」


 ユウはすぐには答えなかった。


 少し歩いてから、穏やかな声で言う。


「俺も、今エレナさんがいるの嬉しいよ」


 昨日よりも短い言葉だった。


 けれど、エレナの胸には十分に届いた。


「はい」


 それ以上の答えは必要なかった。


     ◇


 道の途中に、大きな石があった。


 座るために置かれたものではないが、表面が平らで、少し休むにはちょうどよさそうだった。


「座りますか?」


 エレナが尋ねる。


「疲れた?」


「疲れてはいません。でも、座りたいです」


「じゃあ座ろう」


 二人は少し間を空けて腰を下ろした。


 目の前には畑が広がり、その向こうで誰かが鍬を動かしている。遠くから聞こえる音は小さく、会話を邪魔しない。


「ユウさん」


「ん?」


「私、昨日から少し変なことを考えています」


「どんな?」


「ルーデにいたい理由です」


 ユウは何も言わず、続きを待つ。


「最初は、ここが安全だったからでした。マーサさんが泊めてくださって、村の皆さんがすぐに追い出さなかったから」


「うん」


「それから、ここで暮らしたいと思うようになりました。三軒目の家にも住みたいと思いました」


 エレナは膝の上で両手を重ねる。


「でも今は、場所だけではありません。マーサさんや、村の皆さんがいるから、ここにいたいと思っています」


「うん」


「ユウさんも、その中にいます」


 言った瞬間、胸が少し速く鳴った。


 ユウがこちらを見る。


「俺も?」


「はい」


 エレナは逃げずに頷いた。


「ユウさんだけが理由ではありません。でも、ユウさんが理由ではないと言うのも違います」


 昨日の夜、自分の中で見つけた言葉を、今日は本人へ伝えている。


「それを言ってよいのか、少し迷いました」


「何で?」


「重くありませんか?」


 ユウはしばらく考えた。


「今の言い方なら、俺は重いと思わないかな」


「今の言い方?」


「俺がいるから絶対ここに住むとか、俺がいなくなったら全部駄目になるって言われたら、ちょっと怖いかもしれないけど」


「そこまでは思っていません」


「うん。エレナさん、他にも好きなものいっぱいあるでしょ」


「あります」


 マーサの家。


 村の道。


 井戸。


 本を貸してくれるベル。


 大声で笑うガルド。


 虫を追うニコ。


 石鹸を一つずつ確かめるサナ。


 鶏を見るオルド。


 必要な時には動き、必要のない時には追わない村の人たち。


「その中に俺もいるなら、嬉しいよ」


 ユウの言葉に、エレナはゆっくり息を吐いた。


「はい。います」


 頬が熱い。


 それでも言い直したくはなかった。


「私の好きなルーデの中に、ユウさんもいます」


 今度はユウの方が少し困ったように笑った。


「それ、結構恥ずかしいね」


「言った私も恥ずかしいです」


「じゃあお互い様か」


「はい」


 二人は顔を見合わせ、少し笑った。


 恋だとは、まだ誰も言わない。


 けれど、互いが自分の暮らしたい場所の一部になっていることは、もう隠す必要がなかった。


     ◇


 しばらく座ってから立ち上がり、二人はマーサの家へ向かった。


 途中でエレナは一度だけ手を見る。


「赤くなった?」


 ユウが気づく。


「いいえ。何もありません」


「じゃあよかった」


「まだ夜まで分かりません」


「そうだった」


「でも、今のところは大丈夫です」


 確認したら、それで終わり。


 エレナはもう手を見続けなかった。


 マーサの家が見えてきたところで、ユウが立ち止まる。


「俺、ここから帰るよ」


「今日は中へ入りませんか?」


「うん。そろそろ自分の家戻りたい」


 少しだけ寂しい。


 それでも、エレナは笑った。


「分かりました」


「またね」


「はい。また会いたくなったら」


「うん」


 ユウが歩き出す。


 エレナも家へ向かう。


 同じ道を途中まで歩き、今は別々の場所へ帰る。


 それでよかった。


     ◇


 夕方、サナが一度だけ様子を見に来た。


「どう?」


「何もありません」


 エレナは両手を見せる。


 サナは赤みがないことを確認する。


「痒くない?」


「はい。痛みもありません」


「じゃあ今夜もう一回自分でも見て。明日の朝も何もなかったら、また少し使ってみましょう」


「分かりました」


「嫌になったらやめてもいいからね」


「はい」


 サナが帰ったあと、マーサがエレナを見る。


「明日も使うかい?」


「今は使いたいです」


「じゃあ明日また聞かれたら決めな」


「はい」


 今の気持ちを知っておく。


 けれど、明日の自分を縛らない。


 それが少しずつ自然になってきた。


     ◇


 夜、エレナは記録帳を開いた。


 最初に、朝の布分けについて書く。


『マーサさんと古い布を分けた。服としては使えなくても、当て布や拭く布には使えるものがあった。同じ布でも、何に使うかで「使える」の意味が違った。』


 次に、ニコの枝について書こうとして少し考える。


 これは警戒線の記録ではない。


 虫道の近くに普通の枝が落ちていただけで、ベルも近くの木から落ちた可能性を考えている。原因は見ていないので分からない。


『ニコの虫道の近くに枝が落ちていた。昨日はなかったらしい。原因は不明。虫が運んだという証拠はない。』


 それで十分だった。


 次にサナの石鹸。


『サナさんから試用を頼まれた。頼まれた時にもう一度考え、使ってみたいと思ったので、手だけ一度洗った。使用中の痛み、痒み、刺激なし。夕方まで赤み、痒み、痛みなし。夜と明日の朝も確認する。今日は一度だけ。』


 事実と、まだ分からないことを分けて書く。


『今日問題がなかったことだけで、今後も安全とはまだ決まらない。明日、また使うかは明日決める。』


 エレナはそこで少し笑った。


 以前の自分なら、明日使うと決めたら、その予定を守ることに意識が向いていただろう。


 今は、明日の自分に聞けばよいと思える。


 最後に、ユウとのことを書く。


『ユウさんがベルさんへ道具を返しに行く途中、私がいるかと思って寄ってくれた。私は一緒にベルさんの工房へ行き、そのあと二人で歩いた。』


 そこから先は、少しゆっくり書いた。


『昨日、ユウさんが「私がルーデにいてくれたら嬉しい」と言ったことを、私は何度か思い出していた。今日、ユウさんは言ったことを後悔していないと教えてくれた。』


『私は、ルーデにいたい理由は一つではないと話した。安全だからだけではない。三軒目の家だけでもない。マーサさんや村の皆さんがいることも理由で、その中にユウさんもいる。』


 筆先が少し止まる。


 昼間に本人へ伝えた言葉なのだから、記録帳へ書く方が恥ずかしいはずはない。


 それでも、もう一度文字にすると胸が温かくなる。


『私は、私の好きなルーデの中にユウさんもいる、と伝えた。ユウさんは、その中に自分もいるなら嬉しいと言った。』


 エレナは書いた文字を眺める。


 好き。


 今日は、その言葉を使った。


 ただし、「ユウが好き」と一人だけを指して言ったわけではない。


 自分が好きになった場所の中に、ユウもいる。


 それが今のエレナに言えるところだった。


(それより先は、まだ分かりません)


 分からないことを、急いで決めない。


 ラウゼンからの新しい知らせは今日もなかった。


 東の警戒線にも、新しい反応があったという知らせはない。


 サナの石鹸は試している途中。


 エルドを探す道も途中。


 ユウとの関係も、おそらく途中なのだろう。


 けれど、途中であることは、何もないことではない。


 エレナは記録帳を閉じる前に、自分の両手を確認した。


 赤みはない。


 痒みも痛みもない。


「今日は大丈夫でした」


 小さく呟いてから、今夜の記録を終える。


 明日の朝も同じなら、その時またサナへ伝えればいい。


 明日ユウに会いたくなったなら、その時会いに行くか考えればいい。


 ラウゼンから知らせが届けば、その時続きを考える。


 今夜の自分が、明日以降のすべてを決める必要はなかった。


(今日の私は、今日のことを決められました)


 それで十分だった。


 エレナは灯りを消し、静かな夜の中で目を閉じた。

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