第71話 ここにいてほしい
翌朝、エレナが目を覚ました時、窓の向こうには薄い雲が広がっていた。雨が降りそうな暗さではなく、雲の隙間から淡い朝日も落ちており、村道を歩く人の影がときどき窓の下を横切っていく。
寝台から起き上がったエレナは、机の上に置いた記録帳へ目を向けた。昨夜最後に書いた「ラウゼン」と「北梟工房」という二つの名前は、帳面を閉じていても頭の中へ残っている。
ルーデから何日もかかるという、行ったことのない町。
そこに今も存在しているか分からない工房。
さらに、その工房とエルドの現在がつながっているのかも分からない。
(昨日分かったのは、そこまでです)
エレナは寝台から降りると、着替えを始めた。
次の知らせがいつ届くのかは分からない。ラウゼンへ向かう商人か荷運びを探すところから始まるのだから、今日や明日に返事が来ると期待する方が難しいだろう。
それでも、三軒目の家に住みたい気持ちは変わらなかった。
だからこそ、今日はそのことだけを考え続ける必要もない。
◇
「マーサさん、おはようございます」
「おはよう。今日は早いね」
階下へ降りると、マーサは竈の前で鍋を見ていた。昨日エレナが何度も状態を確認した茶色い前掛けは、今日も腰に巻かれている。
エレナの視線がそこへ向いたことに気づいたらしく、マーサが振り返らないまま口を開いた。
「まだ破れてないよ」
「何も言っていません」
「見てただろ」
「見ただけです」
「なら、好きなだけ見な」
昨日は見張らなくてよいと言われたのに、今日は好きなだけ見てよいらしい。その違いが少しおかしくて、エレナは笑いながら食卓の椅子を引いた。
「今日は何かありますか?」
「朝飯のあと、サナんとこへ行こうと思ってる」
「石鹸ですか?」
「それもあるけど、昨日ガルドからもらった豆を分けたろ。空の籠を返してもらうのを忘れた」
マーサは鍋の中身を木匙で混ぜてから、エレナの方を見る。
「一緒に来るかい?」
エレナはすぐには答えず、自分へ尋ねてみた。
サナの石鹸がどうなったのかは気になっている。昨日、限定的に使っている範囲では赤みや痒みが出ていないと聞いたばかりで、実際に本人から話を聞いてみたい。
「行きたいです」
「じゃあ飯食ったら行こう」
「はい」
今日の最初の予定が決まった。
けれど、その先まで決める必要はない。サナの家から戻ったあとに何をしたいかは、その時になってから考えればよかった。
◇
朝食を終えた二人は、空になった小さな籠を一つ持ってサナの家へ向かった。
朝の空気には少し湿り気が残っているものの、風は弱い。道沿いの畑では何人かの村人が作物を見ており、遠くからガルドらしい笑い声も聞こえたが、姿までは見えなかった。
「昨日のラウゼンって町、まだ気になってるかい?」
隣を歩くマーサが尋ねた。
「気にはなっています。でも、昨日ほど頭の中を占めてはいません」
「そうかい」
「昨日は初めて聞いた名前だったので、どんな町なのか、北梟工房が残っているのか、エルドさんがいるのかと、いろいろ考えました」
「考えて分かったかい?」
「何も分かりませんでした」
エレナが答えると、マーサが笑う。
「そりゃそうだ」
「ですから、考えるのをやめました。知りたい気持ちはありますが、今の私が考えても答えが出ることではありませんから」
「ずいぶん待つのが上手くなったね」
「上手なのでしょうか」
「少なくとも、前みたいに待ってる間ずっと立ってそうな顔はしなくなったよ」
「立って待っていたことはありません」
「顔の話だよ」
また顔らしい。
マーサには、自分でも知らない顔がいくつも見えているのかもしれない。
「今は、座って待っている顔ですか?」
「今は歩いてる顔だね」
エレナは少し考えてから笑った。
「それは見れば分かります」
「そういうこともある」
マーサの返事は適当だったが、不思議と嫌ではなかった。
◇
サナの家へ着くと、本人は家の横にある小さな作業台の前にいた。
台の上には布が敷かれ、その上へ数個の石鹸が間隔を空けて並べられている。以前見た時より表面の湿り気が減り、角も少し硬そうに見えた。
「おはようございます」
「あら、おはよう。二人でどうしたの?」
「籠返してもらうの忘れてたよ」
マーサが言うと、サナは一瞬きょとんとしてから笑った。
「ああ、あれ。私も忘れてたわ」
「似た者同士だね」
「嫌ねえ。一緒にしないで」
「忘れたのは同じだろ」
二人が言い合っている間、エレナは作業台の石鹸を眺めた。
勝手に触れずにいると、サナが視線に気づく。
「気になる?」
「はい。昨日、マーサさんから試し使いを続けていると聞きました」
「そうなの。今のところ、手は大丈夫よ」
サナは両手を見せるように広げた。
エレナが見える範囲では、目立った赤みや腫れはない。
「痒みもありませんか?」
「今のところはね。でも、だから全部大丈夫って決めるにはまだ早いと思ってるの」
サナは作業台に並んだ石鹸のうち、一つを指差した。
「最初に試したのはこれ。何度か布を洗って、それから少しずつ手でも使ってみたわ。洗った直後だけじゃなくて、その日の夜や次の日も見てる」
「時間が経ってから出ることもあるのですか?」
「あるわよ。石鹸じゃなくても、草や薬なんかでそういうことはあるでしょう?」
「はい」
「それに、私の手が平気だからって、村のみんなも平気とは限らないしね」
サナはそう言いながら、自分の手の甲を親指で撫でた。
「まず私がもう少し使う。それで大丈夫そうなら、次に使ってみたい人へ少し渡す。その人にも、何か変だったらすぐやめてもらう。それくらいでいいと思ってるわ」
「全員へ一度に配らないのですね」
「急いで配る理由もないもの」
サナの答えは穏やかだった。
作った石鹸を早く使ってほしい気持ちはあるだろう。それでも、完成したように見えるからといって、すぐ村中へ配ろうとはしていない。
「洗えたことと、安全だと分かったことは別なのですね」
「そうね。少なくとも私はそう考えてる」
サナは別の石鹸を一つ持ち上げ、指先で硬さを確かめる。
「それに、こっちはまだ少し柔らかいのよ。同じ日に作って、同じように置いてるのに違うでしょう?」
「本当ですか?」
「触ってみる?」
「よいのですか?」
「ええ。ただし、こっちと比べてみて」
エレナは言われた二つへ順番に指を当てた。
一方は表面がしっかりしているが、もう一方には指先へわずかな柔らかさが返ってくる。見ただけではほとんど同じなのに、触れば違いが分かった。
「違います」
「でしょう? だから全部まとめて『何日経ったから完成』って決めるのも、私は嫌なの」
「一つずつ見るのですね」
「面倒だけどね」
サナは笑った。
「面倒でも、やりたいのですか?」
エレナが尋ねると、サナは少しだけ考えた。
「そうね。今はやりたいわ。昔から石鹸作るのは好きだし、今度のは今までと少し違うから、どうなるか見たいの」
「では、頑張っているのですね」
「そうなるのかしら」
「私も昨日、服を繕いました。使えるところまで直したあと、一か所だけもう一度縫ってみたくなって、やり直しました」
「あら、裁縫も始めたの?」
「服の繕いは初めてです」
「どうだった?」
「楽しかったです。上手ではありませんでしたが」
サナがマーサの前掛けを見る。
「それ?」
「そうだよ。朝から本人が何度も見てくる」
「昨日だけです」
「今朝も見ただろ」
「見ただけです」
サナが声を立てて笑った。
「ちゃんと使えてるならいいじゃない。私の石鹸もそうだけど、自分で作ったり直したりしたものって、最初は気になるのよ」
「サナさんも見ますか?」
「見るわよ。朝来て触って、昼にも気になって、夕方にも見たりする」
エレナはマーサを見る。
「私だけではありません」
「仲間見つけた顔するんじゃないよ」
三人の笑い声が、静かな朝の庭へ広がった。
◇
しばらく石鹸について教えてもらったあと、マーサは目的だった籠を受け取った。
帰ろうとしたところで、サナがエレナを呼び止める。
「エレナ」
「はい?」
「もし試してみたくなったら、そのうち頼むかもしれないわ」
エレナは石鹸を見る。
「私が使うのですか?」
「もう少し私が使って問題なさそうならね。もちろん、嫌なら断っていいのよ」
昨日ローデンから聞いた言葉を思い出す。
頼むことと、無理にやらせることは違う。
「今決めなくてもよいですか?」
「いいわよ。そもそも、まだ頼んでないもの」
サナは笑った。
「その時になったら聞くから、その時に決めて」
「はい」
エレナも笑って頷いた。
今ここで、未来の自分の返事まで決める必要はない。
◇
サナの家から戻る途中、ニコが道の向こうから走ってきた。
「エレナ!」
呼ばれたエレナは足を止める。
ニコは勢いのまま近くまで来たものの、マーサに「転ぶよ」と言われると最後の数歩だけ速度を落とした。
「虫いた!」
「虫道ですか?」
「うん! 黒いやつ!」
「前に見た虫と同じですか?」
エレナが尋ねると、ニコは口を開いたまま止まった。
「……分かんない」
「では、黒い虫がいたのですね」
「うん!」
「どこを通りましたか?」
「あっち! 板の横から来て、石のとこ行って、草に入った!」
ニコは身振りを交えながら説明する。
以前の虫も板の下を少し通ったことはあるが、今日の虫が同じ個体かどうかは分からない。そもそも、虫道を使ったと言ってよいのかも怪しい。
「見に行く?」
ニコが期待に満ちた顔で尋ねる。
エレナは虫道のある方向を見た。
少し興味はある。
けれど、今は一度マーサの家へ戻りたい気持ちもある。
「あとで行きたくなったら行きます」
「今じゃないの?」
「はい。今は家へ戻りたいです」
「そっか!」
ニコはそれだけで納得した。
「じゃあ俺、もう一回見てくる!」
「走りすぎないでくださいね」
「分かった!」
返事をした直後にはもう走り出している。
マーサがその背中を眺めながら肩をすくめた。
「分かってない走り方だね」
「転ばなければよいのですが」
「転んだら次は少し覚えるだろ」
「怪我をしない程度なら、ですね」
二人は再び歩き出した。
◇
家へ戻ったエレナは、しばらく『暮らしの小さな工夫』を読んだ。
しかし、数ページ進んだところで集中が切れたため、栞を挟んで本を閉じる。以前なら、読み始めた以上は区切りのよいところまで進めようとしたかもしれないが、今日はそこまで読みたいと思わなかった。
階下へ降りると、マーサは野菜を選り分けていた。
「本は終わったのかい?」
「今日はここまでにしました」
「そうかい」
「何か手伝いますか?」
「これから昼にするから、皿出してくれるかい?」
「はい」
頼まれた分だけ動く。
食卓へ皿を並べ、パンを置き、マーサが温め直したスープを運ぶ。サナのところへ行ったことも含めれば、午前中はそれなりに動いたはずなのに、疲れはほとんどなかった。
食事を始めてしばらくすると、家の外から足音が近づいてきた。
急いでいるような音ではない。
やがて戸を叩く音がする。
「誰だい、飯時に」
マーサが立ち上がろうとしたため、エレナが先に腰を上げた。
「私が出ます」
戸を開けると、そこにいたのはローデンだった。
エレナの胸がわずかに強く鳴った。
しかし、ローデンの手には紙がない。
「こんにちは」
「ああ。食事中だったか」
「はい。でも大丈夫です」
「いや、急ぎじゃない。マーサに用があっただけだ」
エレナの胸に浮かんだ期待が、ほんの少しだけ形を失う。
落胆と呼ぶほど強くはない。
ただ、自分が一瞬で「ラウゼンから何か来たのでは」と考えたことには気づいた。
(やはり、待ってはいるのですね)
待つことを一日の中心にしなくなっても、待っているものが消えたわけではない。
「何だい?」
マーサが食卓から声をかける。
「共同の物置の鍵、昨日お前が持ってっただろ」
「ああ」
「戻ってない」
「そうだったかね」
「そうだったかね、じゃない」
マーサが立ち上がり、棚の横に掛けた袋を探る。
「ほら、あったよ」
「あるならいい」
「忘れてたのは悪かったよ」
「珍しいな」
「年寄りだからね」
「都合のいい時だけ年寄りになるな」
ローデンが呆れたように言い、鍵を受け取った。
用事は本当にそれだけらしい。
それでもエレナは、彼が帰る前に一つ聞きたいと思った。
「ローデンさん」
「ん?」
「ラウゼンの件は、まだ何もありませんか?」
「ああ、まだだ」
ローデンはすぐに答えた。
「昨日頼んだばかりだからな。ゼムが人を探し始めてたとしても、こっちへ返事が戻ってくるには時間がかかる」
「はい」
「気になるか?」
「気になります」
エレナは隠さずに答えた。
「でも、急がせたいわけではありません。ただ、ローデンさんがいらしたので、聞きたいと思いました」
「なら聞けばいい。俺も何か来たら知らせる」
「ありがとうございます」
「ただ、俺が来るたびに紙持ってるとは思うなよ」
「今日は鍵でしたね」
「そういう日もある」
ローデンは鍵を軽く持ち上げてから帰っていった。
エレナが戸を閉めて席へ戻ると、マーサはもう食事を再開している。
「聞いたね」
「はい」
「昨日は、すぐ来ないって分かってたんじゃないのかい?」
「分かっています。それでも、ローデンさんが来たら聞きたくなりました」
「なら聞けばいいさ」
「待てていないことにはなりませんか?」
マーサは匙を置かず、スープを一口飲んでからエレナを見る。
「待ってるから聞いたんだろ?」
「……そうですね」
「毎朝ローデンの家の前に立って返事を催促してるなら別だけど、本人が目の前に来て聞きたいなら聞けばいい。待つってのは、何も聞いちゃいけないって意味じゃないよ」
エレナは少し笑った。
「昨日から、頼むことや聞くことについて考えることが増えました」
「考えすぎて飯冷ますんじゃないよ」
「食べます」
エレナは匙を取り直した。
◇
昼食を終えたあと、エレナは外へ出た。
今度は虫道へ行こうと思ったわけではない。
ただ少し歩きたかった。
雲は朝より薄くなり、日差しが村道へ落ちている。強い暑さではないが、歩いていると背中が少し温かくなる程度だった。
行き先を決めずに歩き始める。
ガルドの畑を過ぎ、ベルの工房へ向かう道との分かれ目へ差しかかったところで、前からユウが歩いてきた。
片手には何も持っていない。
エレナはそれに気づいた自分がおかしくなって、少し笑った。
「こんにちは」
「こんにちは。どうしたの?」
「歩いていました」
「どこまで?」
「決めていません」
「そっか」
ユウはそこで立ち止まる。
「ユウさんは?」
「俺も歩いてただけ」
「どこへ?」
「決めてない」
今度はエレナが笑った。
「同じですね」
「同じだね」
道の真ん中に立ち続けるわけにもいかず、二人は自然に道端へ寄った。
すぐ横には低い草が生え、風が通るたびに細い葉が揺れている。
「このあと、どちらへ行きますか?」
エレナが尋ねる。
「まだ決めてないけど、エレナさんは?」
「私もです」
昨日までなら、そこでどちらかが行き先を提案していたかもしれない。
今日は二人とも決めていない。
エレナは少し考え、道の先を見る。
「では、しばらく一緒に歩きませんか?」
「うん」
ユウが頷く。
「行き先は?」
「途中で決めてもよいです」
「それ、この前も言ってたね」
「便利なので」
二人は並んで歩き始めた。
◇
しばらく歩いているうちに、虫道へ続く細い道が見えた。
「ニコが朝、虫がいたと言っていました」
「また?」
「黒い虫だったそうですが、前と同じ虫かは分からないそうです」
「そりゃ分からないよね」
「板の横から石の近くへ行って、それから草へ入ったそうです」
ユウが虫道の方向を見る。
「見に行く?」
朝にもニコから同じことを聞かれた。
その時は家へ帰りたかった。
今はどうだろう。
「今は、少し見たいです」
「じゃあ行こうか」
二人は細い道へ入った。
虫道の近くにはニコの姿がない。朝からずっと見ていたわけではなく、別の遊びへ行ったのだろう。
小さな板と石は、そのまま残っている。
エレナとユウは少し離れたところでしゃがんだ。
「いますか?」
「見える範囲にはいないね」
「朝はいたそうです」
「今いなくても、朝いたことは変わらないしね」
「はい」
エレナは板の下を覗き込もうとして、途中でやめた。
「見ないの?」
「板を動かさないと見えないので」
「そっか」
「ニコが置いたものですし、虫がいるかもしれません。今は動かさなくてよいと思います」
二人はしばらくそのまま眺めた。
虫は現れない。
風が草を揺らし、小さな葉の影だけが地面を行き来する。
「いませんね」
「いないね」
「では、行きましょうか」
「うん」
それだけで虫道を離れた。
◇
村道へ戻ったあと、ユウがエレナを見る。
「家のこと、今日は何か来た?」
「いいえ」
「そっか」
「ローデンさんが来たので、一瞬期待しました」
「来たんだ」
「共同の物置の鍵を取りに」
ユウが笑う。
「全然違った」
「はい。でも、せっかくなので聞きました。何もないそうです」
「聞いたんだ」
「聞きたかったので」
「うん」
「マーサさんには、待つことは何も聞いてはいけないという意味ではないと言われました」
ユウは少し考える。
「確かにそうだね」
「ユウさんなら、何度も聞きますか?」
「内容によるかな」
「家のことなら?」
「俺がエレナさんの立場だったら?」
「はい」
ユウは歩く速度を少し落とした。
「毎日は聞かないと思う。でも、ローデンさんに会って気になったら聞くかも」
「私と同じですね」
「たぶん。ただ、気になりすぎて毎日聞く可能性もあるよ」
「ユウさんでも?」
「あるんじゃない? 俺、別に何でも上手に待てるわけじゃないし」
エレナは少し驚いた。
「ユウさんは、待つのが得意だと思っていました」
「そう見える?」
「はい。少なくとも私よりは」
「仕事してた時は、待つの苦手だったよ」
以前、検査や家族からの返事、病院からの連絡など、待つしかない場面が多かったと聞いたことがある。
「待っている間に、別の仕事をしていたからですか?」
「それもあるけど、返事が来ないと次へ進めないこともあったからね。何回も時計見たり、電話鳴ったらその件かと思ったりしてた」
「今の私と少し似ています」
「ローデンさん来たら家のことかなって思う?」
「はい」
「じゃあ似てるかも」
ユウは苦笑した。
「待ててるように見えても、気になるものは気になるよ」
エレナはその言葉を聞きながら歩く。
待つことができる人は、何も気にしなくなるのだと思っていたわけではない。
それでも、自分はまだラウゼンを気にしているから、うまく待てていないのではないかと少し考えていた。
「気になっていてもよいのですね」
「いいんじゃない? 住みたい家のことなんだし」
「はい」
ユウが隣にいる。
歩く速さはほとんど同じだが、完全に歩幅を合わせているわけではない。少し離れたり、また近づいたりしながら、二人は村道を進んでいく。
◇
やがて、昨日とは別の分かれ道へ出た。
右へ行けばベルの工房に近く、左へ進めば村の西側を回ってマーサの家へ戻れる。
「どっち行く?」
ユウが尋ねる。
エレナは右を見る。
ベルのところへ行けば、借りている本の蝶番について、実物を使ってもう少し聞くこともできる。
左へ行けば、もう少しユウと歩ける。
どちらも嫌ではない。
「ユウさんは?」
「俺は……左かな」
「なぜですか?」
「もうちょっと歩きたいから」
エレナは少し笑った。
「私も左へ行きたいです」
「俺に合わせてない?」
「今、確認しました」
「そっか」
「それに、ベルさんにはまた別の日に聞けます」
二人は左へ曲がった。
西側の道は家が少なく、畑の向こうまで見通せる。遠くには低い丘があり、その向こうにラウゼンがあるわけではないと分かっていても、エレナは自然と西へ目を向けた。
「ラウゼンは、もっとずっと先なのですよね」
「たぶんね。俺も場所知らないけど」
「どんな町でしょう」
「気になる?」
「少し。大きいのか、小さいのか。北梟工房がどのようなところだったのかも」
「そのうち分かるかもね」
「分からないままかもしれません」
「それもある」
ユウは簡単に否定しなかった。
エレナはその返事が好きだった。
何でも最後には分かると約束するのではなく、分からない可能性もそのまま置いてくれる。
「もし北梟工房がなくなっていたら、また別の手がかりを探すのでしょうか」
「探したいなら、そうなるんじゃない?」
「見つからなかったら?」
「その時考える」
予想していた答えに、エレナは笑った。
「やはり、そう言うと思いました」
「他に言いようある?」
「もっと励ましてくださってもよいのですよ」
「絶対見つかる、とか?」
「それは困ります」
「じゃあ言えないじゃん」
二人で笑う。
「でも」
ユウが少し間を置いた。
「見つかるといいとは思ってるよ」
エレナは隣を見る。
ユウは前を向いたまま歩いていた。
「三軒目の家、エレナさん気に入ってるし」
「はい」
「住めたら、俺も嬉しいと思う」
昨日、ユウは自分の家で、エレナがルーデに残るなら嬉しいと一人で考えていた。
けれど、そのことをエレナは知らない。
今初めて、彼の口から自分へ向けて伝えられたのは、「三軒目の家に住めたら自分も嬉しい」という言葉だった。
エレナの足がわずかに遅くなる。
ユウも数歩先で気づき、振り返った。
「どうしたの?」
「今の言葉が、嬉しかったので」
エレナは胸の前で指を重ねた。
「私があの家に住めたら、ユウさんも嬉しいのですか?」
「うん」
「なぜですか?」
尋ねたあとで、少し踏み込みすぎただろうかと思う。
けれど、取り消したいとは思わなかった。
ユウはすぐに答えず、道の先へ目を向けた。風が二人の間を抜け、畑の葉を擦る音が小さく続いている。
「エレナさんが住みたいって言ってる家だから、っていうのもあるけど」
「はい」
「……ルーデにいてくれたら、俺は嬉しいから」
エレナは何も言えなかった。
言葉が理解できなかったのではない。
むしろ、はっきり分かってしまったから、すぐに次の言葉が出てこなかった。
胸の奥が温かくなり、その熱がゆっくり頬へ上がってくる。
(ユウさんは、私にここにいてほしいと思ってくださっている)
命令ではない。
残れとも言われていない。
王都へ戻るなとも、他の町へ行くなとも言われていない。
ただ、いれば嬉しい。
それだけだった。
「……私も」
ようやく声を出すと、少しだけ震えていた。
「ユウさんがルーデにいてくださると、嬉しいです」
ユウがエレナを見る。
「俺は今のところ出る予定ないよ」
「知っています」
「じゃあ安心?」
「はい。でも、今は予定の話をしたかったのではありません」
「ああ」
ユウも意味に気づいたらしい。
少しだけ照れたように視線を外した。
「そっか」
「はい」
それ以上は、どちらも言わなかった。
まだ名前をつけなくてよい気持ちが、二人の間に少しずつ増えている。
エレナは、それを急いで一つへまとめたいとは思わなかった。
◇
歩いているうちに、マーサの家へ戻る道が近づいてきた。
「今日は送ってもらったことになりますね」
「途中から帰る方向だっただけだけど」
「それでも、一緒に帰ってきました」
「まあ、そうだね」
「私は嬉しかったです」
「俺も」
最近、同じ言葉を交わすことが増えた。
それでも、毎回まったく同じには感じない。
その日に何をして、何を話して、どのような気持ちで言ったかによって、「嬉しい」の中身が少しずつ違う。
家の前へ着くと、マーサが外で布を取り込んでいた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
マーサはエレナの隣にいるユウを見る。
「一緒だったのかい」
「途中で会いました」
「そうかい」
それだけ言って、マーサは干していた布を籠へ入れる。
エレナは手伝おうかと思ったが、まず尋ねた。
「手伝いますか?」
「あと二枚だからいらないよ」
「分かりました」
断られたので手を出さない。
ユウが小さく笑った。
「何ですか?」
「いや、ちゃんと聞くんだなって」
「勝手にやらないようにしています」
「うん。いいと思う」
マーサが最後の布を籠へ入れる。
「二人とも、そこで立って話すなら中入るかい?」
エレナはユウを見る。
ユウもエレナを見る。
「どうしますか?」
「今日は帰ろうかな」
その返事を聞いた瞬間、少しだけ残念だと思った。
けれど、引き止めなければならないとは思わない。
「分かりました」
エレナは笑った。
「今日は一緒に歩けて嬉しかったです」
「俺も。家のこと、何か来たらまた教えて」
「はい。伝えたいと思ったら伝えに行きます」
「うん」
「ユウさんも、会いたくなったら来てください」
言ったあと、以前より自然に口から出たことへ自分で気づく。
ユウも驚いた様子はなく、少し笑った。
「そうする」
それで別れた。
◇
マーサは籠を抱えたまま、家の中へ戻っていくエレナの背中を見ていた。
少し前までなら、ユウが帰ったあともしばらく外へ立っていたことがあった。相手が見えなくなるまで見送ること自体が悪いわけではないが、あの頃のエレナには、離れることを惜しむというより、見送りを最後までやらなければならないと思っているような硬さがあった。
今は違う。
ユウが帰ると言えば、少し寂しそうな顔はする。それでも自分の気持ちを隠して無理に笑うわけでも、相手を引き止めるわけでもなく、「また」と言って家へ戻ってくる。
そして、ユウの方も変わっていた。
最初にこの村へ来た頃は、頼まれれば大抵のことを引き受けながら、自分が疲れていることには気づかないふりをしていた男だ。今はエレナと一緒にいても、帰りたい時には帰ると言う。
(似たようなところで、不器用だったんだろうね)
マーサは二人を恋人だと決めつけるつもりはなかった。
本人たちが何と呼ぶかも、いつ決めるかも本人たちのことだ。
ただ、エレナが誰かと一緒にいたいと言えるようになり、ユウも誰かと一緒にいたい時には残るようになった。
それだけなら、悪い変化には見えなかった。
「マーサさん?」
家の中からエレナが呼ぶ。
「何だい?」
「その籠、重くありませんか?」
「布しか入ってないよ」
「では、手伝いません」
「そうしな」
マーサは笑いながら家へ入った。
◇
夕方まで、新しい知らせは届かなかった。
エレナは途中まで読んでいた本を少しだけ読み進めたあと、サナから聞いた石鹸の試し方を記録帳へ簡単に書いた。自分が試用を頼まれる可能性については、まだ頼まれていないため、予定としては書かなかった。
夕食前にはニコが一度やってきて、午後は虫が出なかったと報告していった。
「朝の虫と同じ虫だったかは?」
「分かんない!」
「そうですね」
「でも黒かった!」
「それは分かっているのですね」
「うん!」
ニコは満足そうに頷き、そのままベルの家へ帰っていった。
虫道について分かったことは、朝に黒い虫が板の横から石の近くを通り、草へ入ったことだけだ。
板が役に立ったかは分からない。
石が何かに影響したかも分からない。
前に見た虫と同じかも分からない。
それでもニコは楽しそうだった。
◇
夕食を終えたあと、エレナは自室で記録帳を開いた。
まず、サナの石鹸について書く。
『サナさんは石鹸の試し使いを続けている。今のところ手の赤みや痒みはない。ただし、一度大丈夫だっただけでは全員に使えるとは決めず、自分で何度か使い、時間が経ってからの変化も見る。石鹸ごとに硬さも違う。』
次に、自分へ試用を頼むかもしれないと言われたことを書く。
『もう少し確認したあと、私にも試してほしいと頼むかもしれないと言われた。まだ頼まれていない。その時に決めてよい。』
書いてみると、未来のことを未来のまま置いておけているのが分かる。
次に、ローデンが来たことを書く。
『ローデンさんが来たので、ラウゼンについて新しい知らせがないか聞いた。新しい知らせはなかった。ローデンさんは共同物置の鍵を取りに来ただけだった。』
少し笑いながら続きを書く。
『返事がすぐ来ないと分かっていても、ローデンさんを見ると少し期待した。私はまだ家のことを気にしている。マーサさんは、待つことは何も聞いてはいけないという意味ではないと言った。』
そして、午後の散歩。
ニコの虫道へユウと行ったが、虫はいなかった。
板は動かさなかった。
途中で三軒目の家について話した。
ユウも、何でも上手に待てるわけではないと言った。
そこまで書いたところで、エレナの筆が止まる。
今日一番心に残っている言葉が、その先にある。
『ユウさんは、私が三軒目の家に住めたら自分も嬉しいと言った。』
一度そこで筆を離した。
頬がまた少し熱くなる。
誰に見せるための記録でもないのに、続きを書くのが恥ずかしい。
それでも、残したいと思った。
『理由を聞いたら、私がルーデにいてくれたら嬉しいから、と言った。』
エレナはその文章を読み返した。
やはり嬉しい。
昼間に聞いた時と同じように、胸の奥が柔らかく温かくなる。
『私は、ユウさんがルーデにいてくれると嬉しいと伝えた。』
ここまで書いて、エレナは筆を置いた。
家に住めるかどうかは分からない。
エルドが見つかるかどうかも分からない。
ラウゼンへ向かう人すら、まだ見つかったという知らせはない。
それでも、エレナがルーデにいたい理由は、三軒目の家だけではなくなっている。
マーサがいる。
ガルドがいる。
ベルがいる。
ニコがいる。
サナやローデン、オルドたちもいる。
畑があり、井戸があり、虫道があり、まだ使えるか試している途中の石鹸がある。
そして、ユウがいる。
(ユウさんがいるからルーデにいたい、と言ったら、それは今の私の気持ちなのでしょうか)
エレナはすぐに答えを出さなかった。
ユウだけが理由ではない。
けれど、ユウが理由の一つではないと言えば、それも違う気がする。
以前なら、どちらかへ決めようとしたかもしれない。
今は、いくつも理由があってよいと思える。
誰かのためだけに自分の居場所を決めるのではなく、自分が好きになった場所の中に、好きな人たちがいる。
エレナはそこまで考えたところで、わずかに眉を動かした。
(好きな、人たち)
その言葉なら、まだ自然だった。
マーサも、村の人たちも好きだ。
ユウも、その中にいる。
ただ、ユウへ向けている「好き」が他の人へ向けるものとまったく同じなのかは、まだ分からない。
分からないなら、今夜はそこまででよかった。
最後に、東の警戒線について新しい反応があったという知らせはないことを書き、エレナは記録帳を閉じた。
窓の外では、夜の村が静かに眠り始めている。
遠いラウゼンへ続く道が今夜のうちに短くなることはない。北梟工房の今も、エルドの居場所も、自分にはまだ知りようがなかった。
それでも、知らないことがあるまま眠ることには、もう以前ほどの怖さを感じない。
明日は返事が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
ユウに会うかもしれないし、会わないかもしれない。
サナから石鹸を試してほしいと頼まれるのは、もっと先かもしれない。
決まっていないものを、今夜のうちに決める必要はなかった。
エレナは灯りを落として寝台へ入り、薄い掛け布を胸元まで引き上げる。
(私は、ここにいたいです)
その気持ちだけは、今夜も迷わなかった。
そして、その「ここ」の中にユウの姿が自然に含まれていることを、エレナは否定せずに目を閉じた。




