第70話 次の手がかり
朝食を終えたエレナが食器を片づけていると、家の外からガルドの大きな笑い声が聞こえてきた。
何を話しているのかまでは分からないが、声は村道を挟んだ向こうから響いている。少し遅れてベルの低い声も聞こえたため、朝から何かあったのだろうかと窓へ目を向けると、二人は道端に立ったまま話しているだけだった。
「ガルドさんは、朝から元気ですね」
「夜でも元気だよ、あれは」
マーサは昨日エレナが繕った前掛けを今日も身につけている。
裂けていた場所へ当てた布はきちんと残っており、一晩で糸が緩んだ様子もなかった。近くで見れば不揃いな縫い目が分かるものの、マーサは何も気にせず朝から使っている。
エレナはそれを見るたび、少し嬉しくなる。
「まだ大丈夫そうです」
「朝から三回目だよ、それ言うの」
「そんなに言いましたか?」
「起きて一回、飯の前に一回、今ので三回」
「……気になってしまって」
「破れたら言うから、ずっと見張らなくていいよ」
「はい」
返事をしたものの、エレナはもう一度だけ前掛けを見た。
自分で直したものが実際に使われているというのは、思っていた以上に気になるらしい。
ただ、マーサが困っていないのなら、それ以上確かめ続ける必要はない。
エレナは最後の皿を棚へ戻した。
「今日は何かありますか?」
「午前中に井戸へ行くくらいだね」
「私も行きましょうか?」
「来たきゃ来ればいいよ。水はあたし一人でも運べる」
エレナは少し考える。
井戸へ行くことそのものに強く惹かれているわけではない。
けれど、今朝は外を歩きたい。
「では、一緒に行きます」
「そうかい」
マーサは水桶を準備する。
エレナも自分が持てる方を選んだ。
◇
朝の井戸には、すでに二人の村人がいた。
一人はオルドで、もう一人はエレナも何度か顔を合わせたことのある年配の女性だった。名前はまだ聞いていない。
「おはようございます」
「おう、おはよう」
オルドが片手を上げる。
エレナは井戸の脇にいる彼の足元を見たが、今日は鶏を連れていない。
「鶏はどうですか?」
「どの鶏だ?」
「少し右脚を気にしていた鶏です」
「ああ。昨日も今朝も普通に歩いとる。餌も食っとるよ」
「治ったのでしょうか」
「さあな」
オルドは肩をすくめた。
「たまたま変な踏み方しただけかもしれんし、少し痛かったのが良くなったのかもしれん。鶏に聞いても答えんからな」
「では、もう何もしないのですか?」
「また変なら見る」
「分かりました」
原因は分からないままだ。
けれど、今は普通に歩き、食べている。
だから必要のない治療をしない。
エレナはそれを覚えておくことにした。
順番が来ると、マーサが井戸から水を汲む。
エレナも一桶分を持とうとしたが、持ち上げた瞬間に思ったより重いと感じた。
「少し減らします」
「持てるだろ?」
オルドが尋ねる。
「持てます。でも、家まで運ぶなら少し重いです」
「なら減らせ減らせ。途中でひっくり返す方が面倒だ」
エレナは水を少し戻した。
以前なら、持てるかどうかだけで判断していたかもしれない。
持ち上げられる。
だから運べる。
けれど、家まで歩くことまで含めれば、今の量の方が楽だった。
「それくらいなら大丈夫そうかい?」
マーサが聞く。
「はい」
「じゃあ行こう」
二人は水桶を持って家へ戻る。
エレナの腕には適度な重さがかかっていたが、途中で持ち替えたいと思うほどではなかった。
「全部運ばなくても、水は水なのですね」
「何の話だい?」
「少し減らしたので」
「そりゃそうだろ」
マーサには当然のことらしい。
エレナは小さく笑った。
◇
家へ戻り、水を所定の場所へ置いた。
腕にわずかな疲れがある。
疲労と呼ぶほどではないが、すぐに別のことを始めたいとも思わなかった。
エレナは家の前の椅子へ座る。
マーサは水を使う準備をしているが、手伝いを頼まれてはいない。
しばらくすると、村道の向こうからベルが歩いてきた。
「おはようございます」
「おう」
「ガルドさんと話していましたね」
「見てたのか」
「声が聞こえました」
「あいつは声だけなら村の端まで届く」
ベルは呆れたように言う。
「何のお話だったのですか?」
「昨日支柱立てた豆の紐だ。雨で土が少し緩んだから、棒が傾いてないか見たってだけだ」
「大丈夫でしたか?」
「今のところな」
ベルはそこで足を止めた。
「そういや、本の蝶番のとこはもういいのか?」
「はい。まだ全部理解したわけではありませんが、最初に分からなかったところは分かりました」
「ならいい」
「また分からないところが出たら聞いても?」
「俺に分かることならな」
「ありがとうございます」
ベルは再び歩き始めた。
エレナはその背中を見送り、ふと昨日のことを思い出す。
服の繕いも、一度やっただけだ。
蝶番も、一度教わっただけ。
何かを一度経験すると、以前の自分は「覚えなければ」と考えていた。
今は、忘れたらまた聞けばよいと思える。
(もちろん、覚えていられたらその方が便利ですけれど)
覚える努力をしてはいけないわけではない。
忘れることを恐れすぎなくてもよいだけだ。
◇
昼前になり、エレナは自室で本を読んでいた。
『暮らしの小さな工夫』もかなり読み進めている。
今日開いていたのは、保存食についての短い項目だった。
塩を使う方法。
乾かす方法。
油へ漬ける方法。
それぞれに向く食材があり、保存できる期間も違う。
エレナには知らないことが多い。
王都の公爵家では、保存食がどのように作られているかを考えたことさえほとんどなかった。食卓へ出される料理の背景には、多くの人の仕事があったはずなのに、自分は完成したものしか見ていなかった。
(知らなかったのですね)
それを恥じるより、今知ったことを面白いと思う。
乾燥させた肉について書かれた部分を読んでいると、階下から戸を叩く音が聞こえた。
エレナは本へ栞を挟む。
マーサが先に応対する声がした。
すぐに呼ばれる。
「エレナ。ローデンだよ」
心臓が一度、大きく鳴った。
昨日、三軒目の家について返事が届いたばかりだ。
次の知らせがこんなに早く来るとは思っていなかった。
階段を下りると、ローデンが入口近くに立っていた。
今日は紙を一枚ではなく、小さく折った紙を二枚持っている。
「こんにちは」
「ああ。昨日の続きが来た」
「もうですか?」
「俺も早いと思った」
ローデンは苦笑する。
「昨日の紙を運んできた荷運びが、ゼムから別の紙も預かってたらしい。別の荷物に紛れてて、今朝になって見つけたそうだ」
「それは……大丈夫なのでしょうか」
「大事な正式文書なら困るが、今回は伝言だ。まあ、荷運びには俺から言っといた」
ローデンの表情から、怒鳴りつけたわけではなさそうだ。
「内容は、昨日より少し進んでる」
エレナは椅子へ座る。
マーサも近くへ来た。
「お願いします」
「古い帳面が残ってた」
最初の一言で、エレナの指が膝の上で動いた。
「見つかったのですか?」
「ああ。全部じゃないらしいが、昔の工房の帳面を今の工房主が倉庫に残してた。ゼムと元工房主の娘婿、それから今の工房主の三人で確認したそうだ」
ローデンは一枚目の紙を開く。
「エルドの名前があった」
エレナは息を呑んだ。
「送り先も?」
「ある。ただし古い」
やはり、一度では終わらない。
それでもエレナは落胆せず、続きを待った。
「最後に残ってた送り先は、さらに西の町だ。名前は――ラウゼン」
「ラウゼン……」
聞いたことのない地名だった。
「ここから、どのくらいですか?」
「荷車なら何日かかかる。道と天気次第だな。西の町よりずっと遠い」
「王都の方ですか?」
「方向としては西だが、王都へ向かう街道からは少し北へ外れるらしい。俺も行ったことはない」
ローデンは二枚目の紙を見る。
「帳面によると、エルドはラウゼンの木工房宛てに手紙を受け取ってた。工房名も残ってる」
「今もあるのですか?」
「それは分からん」
「そうですよね」
エレナは自分で答えた。
何年も前の記録だ。
工房が今も存在するとは限らない。
エルドがそこにいるとも限らない。
「工房の名前は?」
「『北梟工房』。読みはこれで合ってると思う」
ローデンが紙を見せる。
エレナは文字を確認した。
確かに『北梟工房』と読める。
「ゼムさんが、ここへも行くのですか?」
「いや」
ローデンは首を振った。
「さすがに遠すぎる。ゼムの仕事を放り出して何日も行ってもらうわけにはいかん」
「はい」
「だから次は、ラウゼンへ向かう商人か荷運びを探す。ゼムが知り合いに声をかけるって書いてある」
「では、また人から人へ?」
「そうなるな」
エレナは紙に書かれた町名を見る。
ルーデから西の町へ。
西の町から元工房主へ。
元工房主の記憶から古い工房へ。
古い帳面からラウゼンへ。
一つずつだ。
「時間がかかりそうですね」
「かかると思う」
ローデンは隠さなかった。
「ラウゼンへ定期的に行く荷運びがすぐ見つかればいいが、見つからなきゃ待つ。見つかっても北梟工房が残ってるか分からん。残っててもエルドがそこにいるとは限らん」
「はい」
「それでも続けるか?」
エレナはすぐに答えようとして、一度止めた。
ここまで多くの人が動いてくれている。
ローデン。
バルト。
ゼム。
元工房主。
その娘婿。
今の工房主。
これからは、さらに別の商人や荷運びへ頼むことになるかもしれない。
「皆さんに、迷惑ではありませんか?」
ローデンは少し眉を上げた。
「それは俺が決めることじゃないな」
「でも――」
「嫌なら断るだろ」
ローデンは紙を折りながら言う。
「ゼムも、できないならできないって言う男だ。今の工房主だって、帳面を見せたくなきゃ断れた。頼むことと、無理やりやらせることは違う」
エレナは黙る。
「エレナが聞くべきなのは、自分がまだ探してほしいかどうかだ」
「私が……」
「ああ。探したくないなら止める。まだ探したいなら、頼める相手に頼む。断られたら別の手を考える。それだけだ」
エレナは膝の上の手を見る。
家に住みたい。
エルドを探したい。
今も変わらない。
「探してほしいです」
「分かった」
「ただ、無理に急いでほしくはありません」
「それも伝える」
「お願いします」
ローデンが頷く。
「それから、昨日話したハルトの家の件については、新しい証拠はない。帳面に家のことは書かれてなかった」
「分かりました」
「だから現状は、エルドが父親から家を残されるつもりだったと昔話していた、って証言だけだ」
「はい」
分かったことと、まだ分からないことを分ける。
その作業にも少し慣れてきた。
「この町の名前を書き留めてもよいですか?」
「もちろん」
エレナは記録帳を持ってきて、『ラウゼン』『北梟工房』と書いた。
知らない町。
知らない工房。
それでも、昨日まで存在すら知らなかった場所が、エルドへ続く可能性のある次の手がかりになった。
◇
ローデンが帰ったあと、エレナは記録帳を閉じず、書いた二つの名前をしばらく眺めていた。
「遠くなったね」
マーサが言う。
「はい」
「諦めるかい?」
「いいえ」
答えは自然に出た。
「時間がかかることは、少し残念です。でも、昨日より探す場所は狭くなりました」
「そうだね」
「それに、私は今ここにいられます」
エレナは顔を上げる。
「三軒目の家に住めるか分かるまで、居場所がないわけではありません」
「追い出す予定もないよ」
「ありがとうございます」
「その代わり、あたしが重い物持つ時は手伝えるなら手伝っておくれ」
「はい。できる時は」
以前なら「何でもします」と答えていただろう。
今は、できる時は手伝う。
できない時や、したくない時には相談する。
マーサもそれで何も言わない。
「ユウに言いに行くのかい?」
不意に尋ねられ、エレナは瞬きをした。
「……まだ何も言っていません」
「顔に書いてあるよ」
「どのような顔ですか?」
「言いたそうな顔」
エレナは自分の頬へ触れる。
「そんな顔があるのですか?」
「あたしには見えるね」
「マーサさんにしか見えないのでは?」
「さあね」
からかわれている気もする。
けれど、ユウへ伝えたいと思っていること自体は本当だった。
「行ってきてもよいですか?」
「昼飯までに戻るのかい?」
エレナは窓から空を見る。
まだ昼までは少し時間がある。
「……分かりません」
「じゃあ、昼をどうするかだけ決めときな」
「遅くなるなら、ユウさんのところで何か食べてもよいでしょうか」
「あっちがいいって言うならね」
「聞いてみます」
「なら好きにしな」
エレナは立ち上がった。
◇
家を出て、ユウの家へ向かう。
途中でガルドの畑が見えた。
支柱を立てた豆は今日も倒れていない。近くにガルド本人の姿はなく、遠くから見ただけでは紐がきつくなっているかどうかまでは分からなかった。
エレナは畑へ入らない。
確認したければ、ガルドへ聞けばいい。
そのまま進む。
ユウの家が見えてきたところで、エレナは少し足を緩めた。
昨日も会った。
一昨日も会った。
最近は、ほとんど毎日のように顔を合わせている。
以前ユウは、毎日必ず会わなければならないと決められるのは少し困ると言った。
エレナも、それは理解している。
今日も会わなければならないから来たわけではない。
(私は、伝えたいから来ました)
なら、戸を叩いてよい。
もしユウが今日は一人でいたいと言ったなら、帰ればいい。
エレナは戸を叩いた。
「ユウさん」
少しして戸が開く。
ユウは手に布を持っていた。
「エレナさん。こんにちは」
「こんにちは。今、大丈夫ですか?」
「大丈夫だけど、どうしたの?」
「三軒目の家について、新しいことが分かりました。お話ししてもよいですか?」
「もちろん。入って」
断られなかったことに安堵しながら、エレナは家へ入った。
◇
ユウは洗っていたらしいカップを片づけてから、エレナの向かいへ座った。
「昨日の続き?」
「はい。昨日の荷運びの方が、ゼムさんから預かった別の紙を荷物の中へ残してしまっていたそうです」
「それは大丈夫なの?」
「ローデンさんも同じような顔をしていました」
「だよね」
「正式な文書ではないので、大きな問題にはならなかったそうです」
「ならよかったけど」
エレナは笑い、それから本題を話した。
古い帳面が残っていたこと。
エルドの名前があったこと。
最後に確認できる送り先が、さらに西にあるラウゼンという町だったこと。
そこに『北梟工房』という工房があったこと。
ただし、何年も前の記録なので、工房が現在も存在するかも、エルドがそこにいるかも分からないこと。
「次はラウゼンへ行く人を探すそうです」
「かなり遠い?」
「ローデンさんも行ったことがなく、荷車で何日かかかるそうです」
「じゃあ、すぐ返事ってわけにはいかなそうだね」
「はい」
エレナは少しだけ笑う。
「でも、探してほしいとお願いしました」
「うん」
「途中で、こんなにいろいろな人へ頼んでよいのか不安になりました」
「それで?」
「ローデンさんに、嫌なら相手が断ると言われました」
ユウは頷いた。
「俺もそう思う」
「頼むことと、無理にやらせることは違う、と」
「うん」
「私は、頼むことも迷惑だと思っていたのかもしれません」
エレナは自分の手を見る。
「何かを頼めば、その人は断りにくいのではないか。私のために時間を使わせてしまうのではないか。そう思うと、自分でできることなら自分でしなければいけないと思っていました」
「立場によっては断りにくいこともあるけどね」
「はい。公爵家にいた頃は、特にそうだったと思います」
自分が命令するつもりでなくても、公爵令嬢から頼まれれば使用人は断りにくかっただろう。
だから、頼むことと強制することが常に同じではないにしても、関係によって重さが変わることは忘れてはいけない。
「今は?」
ユウが尋ねる。
「今は……ローデンさんも、ゼムさんも、嫌なら断ってよいのだと分かっています。だから、私は探してほしいと伝えました」
「よかったんじゃない?」
「はい」
「エレナさんが住みたい家なんだから、探してほしいって言うくらいはいいと思うよ」
「ユウさんも、そう思いますか?」
「うん。もちろん、誰かに無理させろって意味じゃなくてね」
「分かっています」
エレナは笑った。
「それから、ラウゼンという町の名前が分かった時、少し嬉しかったです」
「まだエルドさん見つかってないのに?」
「はい。昨日までは、どこを探せばよいかも分かりませんでしたから」
「そっか」
「ただ、遠くなりました」
「遠く?」
「探す場所がです。最初は西の町でした。その次は元工房主の方。そして今度は、もっと西です」
ユウは少し考える。
「距離は遠くなったけど、手がかりは近づいてるのかもね」
エレナは目を瞬いた。
「距離は遠く、手がかりは近く?」
「変な言い方だけど」
「いいえ」
エレナはその言葉を頭の中で繰り返した。
「好きです、その言い方」
「そう?」
「はい。ラウゼンは遠いですが、エルドさんへは昨日より近いのかもしれません」
「見つかればだけどね」
「はい。まだ分かりません」
二人とも、その部分を曖昧にしなかった。
◇
話し終えたあとも、エレナはすぐには立たなかった。
ユウも帰るよう促さない。
「そういえば、今日は木を削りましたか?」
エレナが机を見る。
例の木片は昨日と同じ場所に置かれている。
「まだ」
「直したいと思わなかったのですか?」
「今朝は見たけど、別に今日はいいかなって」
「そうですか」
「エレナさん、昨日の前掛けは?」
「今日もマーサさんが使っています」
「壊れなかった?」
「今のところは」
「よかったね」
「はい。朝から何度も確認していたら、見張らなくてよいと言われました」
ユウが笑う。
「気になるんだ」
「初めて直したものなので」
「分かる気はする。俺も最初に魔法で作ったものとか、しばらく気になってたし」
「何を作ったのですか?」
「最初の頃?」
「はい」
ユウは天井を見るように考える。
「水を温める簡単な魔法具みたいなの。魔導書庫に載ってたやつを試した」
「便利そうです」
「便利だったけど、最初は壊れないか気になって何回も確認した」
「壊れましたか?」
「壊れなかった」
「私と同じですね」
「たぶん」
エレナは笑う。
初めてやったことは、終わったあとも気になる。
それも悪いことではないのかもしれない。
ただ、気になるからといって一日中見張る必要はない。
「エレナさん、昼どうする?」
ユウが窓の外を見て尋ねる。
思っていたより時間が経っていた。
「マーサさんには、遅くなるならユウさんに聞いてみると言ってきました」
「じゃあ食べてく?」
「よいのですか?」
「簡単なのでよければ」
「食べたいです」
「じゃあ作ろうか」
ユウが立ち上がる。
エレナも立とうとして、一度止まった。
「手伝ってもよいですか?」
「いいよ。何するか決めてから頼む」
「はい」
勝手に仕事を探さない。
ユウが準備するのを待つ。
◇
昼食は、残っていた野菜と干し肉を使った簡単な炒め物になった。
ユウが材料を並べ、エレナには野菜を切ることを頼んだ。
「このくらいの大きさですか?」
「うん。それくらいでいいよ」
「全部同じにしますか?」
「火が通るくらいなら、そこまで揃えなくてもいい」
「マーサさんと同じことを言いますね」
「何が?」
「使えるならよい、と」
「料理だから食べられるなら、かな」
「でも、ユウさんは以前、食べやすい大きさも考えていましたよね」
「それは考えるよ」
ユウは干し肉を切りながら答える。
「食べられれば何でもいいって意味じゃなくて、必要なところは見る。でも必要じゃないところまで全部揃えなくてもいい、くらい」
エレナは包丁を動かしながら頷く。
以前の仕事でも、ユウは食べる人の状態に合わせて大きさや柔らかさを考えていたという。
けれど今日は、二人とも普通に食べられる。
だから、細かな形まで揃える必要はない。
「これは大きすぎますか?」
一つだけ大きく切ってしまった野菜を見せる。
「それは半分にした方が火が通りやすいかな」
「分かりました」
必要なところだけ直す。
エレナはその一切れを半分にした。
◇
食事を始めると、ユウは最初の一口を食べてから少し首を傾げた。
「塩、少なかったかな」
エレナも食べてみる。
「私は、このくらいでも好きです」
「じゃあ俺だけ足そうかな」
「料理全体へ足さないのですか?」
「エレナさんはこれでいいんでしょ?」
「はい」
「なら自分の皿だけでいいよ」
ユウは少量の塩を自分の分へ加えた。
エレナはその様子を見る。
「同じ料理でも、別々でよいのですね」
「味?」
「はい」
「そりゃ好み違うし」
「一緒に食べているのに?」
「一緒に食べるのと、同じ味が好きなのは別じゃない?」
エレナは少し考え、笑った。
「そうですね」
同じ場所にいる。
同じ料理を食べる。
けれど、全部を同じにしなくてもいい。
「ユウさん」
「ん?」
「私は、こういうのが好きです」
「この料理?」
「それも美味しいですけれど」
エレナは少し迷った。
「一緒にいても、全部を同じにしなくてよいところです」
ユウの手が少し止まった。
「……俺も、その方が楽かな」
「楽?」
「相手に全部合わせなきゃとか、全部合わせてもらわなきゃってなると疲れるから」
「はい」
「一緒にいたい時は一緒にいて、別のことしたい時は別のことして。それでもまた会えればいいんじゃないかな」
エレナはゆっくり頷いた。
「私も、そうしたいです」
それがどのような関係なのかは、まだ決めない。
ただ、もしこれからもユウと長く関わっていくなら、そういう関わり方がよいと思った。
◇
昼食を終えたあと、エレナは食器を片づけるのを手伝った。
今度はユウから頼まれたため、洗った皿を拭いて棚へ戻す。
「そこじゃなくて、一段下」
「こちらですか?」
「うん」
「前に来た時とは場所が違いませんか?」
「変えた」
「なぜです?」
「上だと取りにくかったから」
「ユウさんが?」
「うん。毎回ちょっと腕上げるの面倒で」
エレナは一段下の棚へ皿を置く。
「自分の家ですから、自分が使いやすい場所でよいのですね」
「そうだね」
「三軒目の家に住めたら、私も決められるのでしょうか」
「住めたらね」
エレナは一瞬だけ三軒目の家の中を思い浮かべる。
食器を置く場所。
本を置く場所。
寝る場所。
料理をする場所。
まだ何も決まっていない。
「楽しみです」
「うん」
「期待しています」
「うん」
「駄目だったら残念です」
「その時は残念がろう」
「はい」
二人で笑った。
◇
片づけを終えたあと、エレナは帰ることにした。
今日はユウの家へ来た理由があった。
三軒目の家について伝えたかった。
そのあと一緒に昼食も食べた。
まだいたい気持ちは少しある。
けれど、午後は自分の部屋で本も読みたかった。
「帰ります」
「うん」
ユウが戸口まで来る。
「今日は送らなくて大丈夫?」
「はい。一人で帰りたいです」
「分かった」
「でも、また会いたいです」
エレナは少し照れながらも、そのまま言った。
ユウも少しだけ目を細める。
「俺も」
「明日ですか?」
聞いたあと、エレナは自分で笑ってしまった。
「違いますね。決めなくてよいのでした」
「会いたくなった日でいいんじゃない?」
「はい」
毎日会っているから、明日も会わなければならないわけではない。
今日会いたかったから会った。
次も、それでいい。
「では、また」
「またね」
エレナは一人で歩き出した。
◇
マーサの家へ戻る途中、ニコの虫道の近くを通った。
今日はニコの姿がない。
小さな板は昨日と同じ場所に置かれている。
エレナは道から少しだけ眺めた。
板の下に虫がいるかどうかは、この距離では分からない。
近づけば確認できる。
けれど、今はそこまで見たいとは思わなかった。
「また今度ですね」
小さく呟き、そのまま通り過ぎる。
◇
家へ戻ると、マーサは椅子へ座って豆の筋を取っていた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「昼食ったかい?」
「ユウさんの家でいただきました」
「そうかい」
「野菜と干し肉を炒めました」
「うまかったか?」
「はい。ユウさんは塩が足りないと言って、自分の分だけ足していました」
「それで?」
「私は、そのままが好きでした」
「ならちょうどいいじゃないか」
「はい」
エレナは笑う。
「マーサさん」
「何だい?」
「前掛けは大丈夫ですか?」
「四回目」
「今日はまだ一回目です」
「昨日から数えてる」
「それでは数え方がおかしいです」
マーサが声を立てて笑った。
「大丈夫だよ。ほら」
前掛けの繕った部分を見せる。
糸はまだ緩んでいない。
「よかったです」
「これで今日はもう確認しなくていいかい?」
「たぶん」
「たぶんか」
エレナも笑いながら、自室へ戻った。
◇
午後は静かに過ぎた。
エレナは本を読み、途中で一度だけ外へ出て風に当たった。
ローデンのところへ新しい返事が届いていないか確認には行かなかった。
ラウゼンは遠い。
次の荷運びが見つかるだけでも時間がかかるかもしれない。
それを知った今、今日の午後に何度確認しても結果が変わるとは思えなかった。
だから、本を読む。
疲れたら閉じる。
少し横になる。
眠くなかったので眠らず、しばらく天井を眺めてから起きた。
夕方にはマーサと夕食を作った。
それだけだった。
◇
同じ頃、ユウは自宅の机へ置いた木片を手に取っていた。
少し深く削りすぎた場所がある。
何日か、そのままにしていた。
今日も放っておくことはできる。
けれど、今は少し触ってみたい。
「やるか」
道具を準備する。
削りすぎた窪みを完全に消そうとはしない。
ベルから言われたように、残っている部分を見る。
周囲をほんの少しだけ整える。
一度。
二度。
三度目へ進む前に止める。
指で触れると、窪みはまだ残っていた。
けれど、前より引っかかりは小さい。
「これでいいかな」
完全に消えてはいない。
消す必要もない。
この木片は練習用で、傷を隠すことが目的ではない。
ユウは道具を片づけた。
今日は少しやりたかったからやった。
それで終わりにする。
窓を閉めようとして、昼にエレナが言った言葉を思い出す。
『一緒にいても、全部を同じにしなくてよいところです』
ユウは窓枠へ手を置いたまま、しばらく外を見る。
(俺も、そういうのがいいな)
毎日必ず会う必要はない。
会いたい時に会う。
一緒に何かをする日もあれば、同じ部屋で別々の本を読む日もある。
一人でいたい日には一人でいる。
相手にも同じ自由がある。
それでも、また会いたいと思える。
以前の自分なら、人との関係にまで「ちゃんとしなければ」を持ち込んでいたかもしれない。
頼られたら応えなければならない。
困っていたら助けなければならない。
期待されたら、その期待を裏切ってはいけない。
そうやって、自分で勝手に背負っていたものも多かった。
エレナといる時には、それをしたくない。
彼女にも、自分にも。
(会いたい時に会えればいいか)
今は、そのくらいが心地よかった。
◇
夜。
エレナは記録帳を開いた。
今日最初に書くことは決まっている。
『三軒目の家について、新しい手がかりが届いた。』
その下へ、分かった事実を順番に書く。
『昔の工房に古い帳面が一部残っていた。エルドさんの名前が確認できた。最後に記録されていた送り先は、さらに西にあるラウゼンという町。エルドさんは当時、「北梟工房」宛てに手紙を受け取っていたらしい。』
『記録は古い。北梟工房が現在もあるか、エルドさんがそこにいるか、別の場所へ移ったか、生きているかは分からない。』
『ゼムさんはラウゼンへ向かう商人か荷運びを探してくれる。ゼムさん本人が行くわけではない。急がせないようお願いした。』
ここまでは事実。
その下に、自分の気持ちを書く。
『ラウゼンは遠い。返事には時間がかかると思う。それでも、昨日より探す場所は少し分かった。私はまだ探してほしい。』
そして、ローデンとの会話。
『人に頼むことが迷惑ではないか不安になった。ローデンさんは、嫌なら相手が断る、頼むことと無理にやらせることは違うと言った。立場によって断りにくいことはあるので、それは忘れないようにしたい。それでも、今の私は、頼むことそのものまで諦めなくてよいと思う。』
エレナは一度筆を置いた。
公爵令嬢だった自分と、今の自分。
同じ頼み方でも、相手との関係によって意味が変わる。
だから何でも頼めばよいわけではない。
けれど、誰かへ頼ることをすべて悪いものにする必要もない。
次に、ユウとのことを書く。
『ユウさんに伝えたいと思ったので会いに行った。昼食も一緒に食べた。』
少し考え、続ける。
『同じ料理を食べたが、ユウさんは塩を足し、私はそのまま食べた。ユウさんは、一緒に食べることと同じ味が好きなことは別だと言った。』
そこから先は、今日一番残しておきたい言葉だった。
『私は、一緒にいても全部を同じにしなくてよい関係が好きだと思った。ユウさんも、その方が楽だと言った。』
『一緒にいたい時は一緒にいる。別のことをしたい時は別のことをする。それでも、また会えればよい。』
書き終えたあと、エレナはその二行をしばらく眺めた。
それが友情なのか。
もっと別の何かなのか。
今夜も決めない。
ただ、自分がユウとどのように過ごしたいのかは、少しずつ分かってきている。
毎日義務のように会うのではない。
相手にすべて合わせるのでもない。
自分にすべて合わせてもらうのでもない。
会いたい日に会い、一緒にいたい時に一緒にいて、それぞれが別のことをしたい時には別々に過ごす。
そして、また会いたくなる。
(私は、そういうのが好きなのですね)
エレナは最後に、今日の小さなことを書いた。
『井戸の水は、持てる量より少し減らして運んだ。全部でなくても、必要な水は運べた。オルドさんの鶏は今のところ普通に歩き、食べている。原因は分からない。マーサさんの前掛けは今日も使えた。東の警戒線に新しい反応があったという知らせはない。』
そこで筆を置く。
三軒目の家への道は、地図の上では遠くなった。
ラウゼン。
北梟工房。
また知らない名前が増えた。
それでも、何も分からなかった頃よりは、エルドへ続く糸が少しだけ見えている。
細く、何度も途切れそうになりながら、それでも次へ続いている。
エレナは記録帳を閉じた。
その糸を無理に引っ張る必要はない。
向こうから返事が届くまで、自分はここで暮らせばいい。
朝になれば食事をして、やりたいことを探し、誰かに会いたければ会いに行く。疲れたら休み、分からなければ聞き、期待したければ期待する。
そして、いつか次の知らせが届いた時。
その時の自分が、また次を決めればよかった。




