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第69話 繕ってみる



 朝の光が窓から差し込んだ時、エレナが最初に思い出したのは、三軒目の家について昨日届いた知らせだった。


 ゼムは昔の工房主へ会うことができた。工房主はエルドを覚えており、エルドが工房を離れたあとも、しばらく手紙を交わしていたという。最後の送り先が古い帳面へ残されている可能性があり、今度はゼムが現在の工房主へ確認してくれることになった。


 それ以上は、まだ分からない。


 エルドの現在地も、生死も、三軒目の家の正式な権利も、エレナが住んでよいかも決まっていない。


 昨日はもっと先まで分かることを期待していたから、少し残念だった。それでも、期待したことを後悔せず、次の返事にも期待してみようと思えた。


 今朝になっても、その気持ちは変わっていない。


(返事が来たか、朝から確かめに行く必要はありませんね)


 昨日の今日で、新しい知らせが届いている可能性は高くない。


 何より、ローデンは何か分かれば知らせると言っている。


 エレナは窓の外へ目を向けた。東の方角も静かで、警戒線が鳴ったという声は聞こえない。畑へ向かう人たちの話し声と、どこかの家から聞こえる鶏の鳴き声が、いつもの朝を作っていた。


 着替えて階下へ降りる。


「おはようございます」


「おはよう」


 マーサは食卓の上へ二人分の皿を並べていた。


 今朝は焼いた卵とパン、それから昨日の残りらしい野菜の煮込みが少しある。エレナが席へ着くと、マーサも向かいへ座った。


「今日は晴れますか?」


「昼までは大丈夫だろうね。午後は知らないよ」


「昨日より短くなりましたね」


「毎日空の講義するつもりはないからね」


 マーサの返事に、エレナは笑った。


 朝食を食べながら、今日何をしたいか考えてみる。


 ユウに会えたら嬉しい。


 けれど、今すぐ会いに行きたいほどではない。


 ニコの虫道も少し気になるが、朝から確認しに行くほどではない。


 借りている本の続きも読みたい。


 そこまで考えたところで、エレナは以前読んだ箇所を思い出した。


「マーサさん」


「何だい?」


「服を繕う方法を教えていただけますか?」


 マーサがパンを持ったまま目を上げる。


「急にどうした」


「ユウさんから借りている本に、古い服を繕って使う方法が載っていました。以前、今度教えていただこうと思っていたのですが、そのままになっていたので」


「忘れてたのかい?」


「忘れていたわけではありません。ただ、他にしたいことがあったので、今日までやりませんでした」


「ならいいんじゃないかい」


 マーサはパンを食べ終え、茶を一口飲む。


「教えるのは構わないよ。でも、繕いたい物がないと話だけになるね」


「何か破れている服がありますか?」


「探せばあるだろ」


「では、朝食のあとに探してもよいですか?」


「好きにしな。ただし、あたしの服を勝手に切るんじゃないよ」


「しません」


「前より自信のある返事になったね」


「以前も勝手には切らなかったと思います」


「そうだったかね」


「そこは覚えていてください」


 エレナが少し頬を膨らませると、マーサは声を立てて笑った。


     ◇


 朝食の片づけを終えたあと、マーサは寝室の隅に置いてある古い木箱を持ってきた。


 中には普段あまり使わない布や、まだ捨てるほどではない古着が畳んで入っている。エレナは勝手に触らず、マーサが一枚ずつ取り出すのを横から眺めた。


「これはまだ着る。こっちは冬まで使わないね。……ああ、これならいいか」


 マーサが取り出したのは、色の褪せた茶色い前掛けだった。


 腰の少し下に当たる部分が横へ裂けており、完全に穴が開いているわけではないものの、そのまま使えば広がりそうに見える。


「破れています」


「見りゃ分かるよ」


「いつ破れたのですか?」


「覚えてないね。何かに引っかけたんだろ」


 マーサは前掛けを広げ、裂けた場所を指で確認する。


「これなら練習にちょうどいい。失敗しても困らないし」


「失敗してもよいのですか?」


「着られなくなるほど切り刻まなきゃね」


「切り刻みません」


「なら大丈夫だ」


 マーサは別の箱から端切れを何枚か出した。


 色も厚さも違う。


「本には、破れたところより少し大きい布を当てると書いてありました」


「そうだね。でも何でもいいわけじゃないよ。厚すぎるとそこだけごわつくし、薄すぎればまた破れる」


「どれがよいでしょう」


「自分で触ってみな」


 エレナは三枚の布を順番に触った。


 一枚目は前掛けよりかなり厚い。


 二枚目は柔らかいが、向こう側の指が透けそうなほど薄い。


 三枚目は前掛けと完全に同じではないものの、近い厚さだった。


「これでしょうか」


「何でそう思った?」


「前掛けと厚さが近いからです」


「じゃあ、それ使ってみな」


「正解ですか?」


「使えると思うよ。正解が一枚しかないわけじゃないけどね」


 エレナは三枚目の布を手に取った。


 また一つ、答えが一つではないものが増えた。


 以前なら、最も正しい布を選ぼうとしたかもしれない。


 今は、使えるものを選べたなら、それで先へ進める。


「どのくらいの大きさにしますか?」


「破れより一回り大きく。小さすぎると端が弱いところにかかるからね」


 マーサが指で大まかな範囲を示す。


 エレナは鋏を持ったものの、すぐには切らなかった。


「このくらいですか?」


「もう少し外だね。ほつれてるところも中へ入れな」


「はい」


 教えられた範囲を確認し、今度こそ布を切る。


 真っ直ぐ切るつもりだったが、最後の方が少し斜めになった。


「あ……」


「何だい」


「曲がりました」


「使えないほどかい?」


 マーサに問われ、エレナは切った布を破れへ重ねる。


 形は少し歪んでいるが、破れた部分は十分覆える。


「使えます」


「なら次」


「切り直さなくてよいのですか?」


「真っ直ぐにしたいなら切ってもいい。でも、小さくしすぎるなよ」


 エレナは布を見つめた。


 少し斜め。


 気にはなる。


 しかし、前掛けの裏へ当てれば、外から形がそのまま見えるわけではない。


「このまま使います」


「そうかい」


 マーサはそれ以上何も言わなかった。


     ◇


 次は針と糸だった。


 マーサは昨日ベルへ返した太い針とは別に、布用の細い針を取り出す。


「針仕事はしたことあるかい?」


「あります」


「貴族のお嬢様でもやるんだね」


「刺繍は習いました。服を直すためではありませんでしたが」


「なら針は持てるか」


「はい」


 王都で習った刺繍は、布を実用的に直すためのものではなかった。


 決められた模様を、決められた色で、できるだけ美しく仕上げる。


 教師は縫い目の乱れを見逃さず、貴族令嬢として人前へ出せる仕上がりかどうかを厳しく確認した。


 妹は初めて教わった模様でもすぐに要領をつかんだ。


 エレナは何度も練習した。


 刺繍そのものが嫌いだったわけではない。


 ただ、出来上がったものを見るより先に、どこを間違えたか探す癖がついていた。


「糸はこれでいいですか?」


 マーサが前掛けに近い色の糸を渡す。


「はい」


「最初は細かくしすぎなくていい。布がずれないように留めて、それから縫う」


「分かりました」


 エレナは前掛けを裏返し、切った布を当てる。


 マーサが位置を確認してから、仮留めの仕方を見せた。


「強く引っ張りすぎると布が寄るからね」


「しっかり締めた方がよいのでは?」


「取れない程度でいい。締めすぎたら着た時につっぱるよ」


 エレナは頷き、最初の針を通した。


 刺繍とは違う。


 美しい模様を作るのではなく、二枚の布をつないで使えるようにする。


 何針か進めたところで、糸を引きすぎたらしい。


 布が少し寄った。


「……寄ってしまいました」


「そうだね」


「戻せますか?」


「まだそこだけなら、少し緩めてみな」


 マーサに言われた通り、エレナは直前の糸を少し戻した。


 完全に元通りではないが、寄りは小さくなる。


「このくらいですか?」


「十分だよ」


「少し残っています」


「着られないかい?」


 また同じような問いだった。


 エレナは前掛けを広げて見る。


「着られます」


「なら続けな」


 針を進める。


 今度は引っ張りすぎないよう気をつける。


 けれど、慎重になりすぎたせいか、次の縫い目は少し大きくなった。


 エレナは手を止める。


「今度は幅が違います」


「そうだね」


「やり直した方が?」


「エレナがやり直したいなら」


「マーサさんなら?」


「あたしならそのまま」


「なぜですか?」


「前掛けだから」


 あまりにも簡単な答えだった。


「これが人に見せる刺繍なら?」


「見せたい出来にしたいなら直すかもね。でもこれは畑でも台所でも使う前掛けだ。破れが広がらなきゃ十分」


 エレナは自分の縫い目を見る。


 美しくはない。


 けれど、布は留まっている。


(これは、誰かに評価してもらうための刺繍ではないのですね)


 目的が違う。


 なら、求めるものも違う。


「このまま続けます」


「そうしな」


     ◇


 半分ほど縫ったところで、エレナは肩に少し力が入っていることに気づいた。


 一度針を布へ刺したまま止める。


「疲れたかい?」


「少しだけ肩が固くなりました」


「じゃあ休みな」


「まだ半分です」


「半分だから何だい」


 マーサは自分の茶を飲む。


「針仕事は逃げないよ」


 エレナは前掛けを見る。


 ここまで縫った。


 残りはまだある。


 今すぐ終わらせることもできると思う。


 肩の疲れも、それほど強くない。


 それでも、一度休んでみたい。


「では、休みます」


 針を安全な場所へ置き、肩を回す。


 マーサは何も言わない。


「途中で置いても、ほどけませんか?」


「仮留めしてるから大丈夫だよ」


「便利ですね」


「そのためにやったんだ」


 エレナは茶を飲む。


 窓から入る風が、作業で少し熱くなった指先に気持ちよかった。


 途中の前掛けが目の前にある。


 けれど、急かされているようには感じない。


     ◇


 しばらく休んだあと、エレナはもう一度針を持った。


「続けるのかい?」


「はい。今は続けたいです」


「ならやりな」


 今度は先ほどより肩の力を抜く。


 縫い目は相変わらず完全には揃わない。


 それでも、最初より少しだけ布を引く加減が分かってきた。


 最後まで縫い終えると、マーサが裏と表を確認する。


「使えるね」


「きれいではありません」


「使えるよ」


「……はい」


 エレナも表から見る。


 破れていたところは閉じている。


 近くで見れば縫い目が少し不揃いなのは分かるが、前掛けとして使うことに問題はなさそうだった。


「終わりですか?」


「終わりにしたきゃ終わり」


「やり直しても?」


「やり直したいならね。ただ、全部ほどく必要はないよ」


 エレナは一番大きくなった縫い目を見る。


 そこだけ少し気になる。


 使うだけなら問題はない。


 それでも、もう一度やってみたい気持ちがある。


「ここだけ、やり直したいです」


「何で?」


「使えないからではありません。もう少し揃えて縫えるか、試してみたいです」


 マーサは頷いた。


「ならやってみな」


 エレナはその部分だけ糸を戻し、もう一度縫う。


 一度目より少しだけ整った。


 完璧ではない。


 けれど、エレナはそこで針を置いた。


「これで終わりにします」


「満足したかい?」


「はい」


 マーサは前掛けを持ち上げ、腰へ当てる。


「じゃあ今日からまた使えるね」


「本当に使うのですか?」


「使うために直したんだろ」


「そうですが……」


「何だい。自分で直したものが使われるのは嫌か?」


「いいえ。嬉しいです」


 エレナは素直に答えた。


 刺繍を褒められた時とは、少し違う嬉しさだった。


 上手だと言われたわけではない。


 美しいとも言われていない。


 ただ、使えるようになった。


 それで十分だと思える。


     ◇


 マーサは繕ったばかりの前掛けを身につけ、そのまま昼食の準備を始めた。


「本当に今使うのですね」


「だから直したんだって言ってるだろ」


「縫ったところが外れないか心配です」


「外れたらまた直しゃいい」


「私が?」


「やりたきゃね。嫌ならあたしがやる」


 エレナは笑った。


「外れないでほしいですが、もし外れたら、もう一度やってみたい気もします」


「変な期待するんじゃないよ」


「壊れてほしいわけではありません」


 二人で昼食を作る。


 今日は簡単な野菜のスープとパンだった。


 エレナは頼まれた野菜を切り、マーサが鍋へ入れる。


 途中でマーサが前掛けの繕った場所へ手を当てたが、糸は緩んでいない。


「大丈夫そうですか?」


「今のところね」


 エレナはそれだけで少し嬉しくなった。


     ◇


 昼食を終えて少しした頃、家の外からガルドの大きな声が聞こえた。


「マーサー! いるかー!」


「声で家壊す気かね」


 マーサが呆れながら戸を開ける。


 ガルドは片手に籠を持って立っていた。


「豆持ってきたぞ!」


「昨日まで支柱立ててた豆じゃないだろうね」


「違う違う! あれはまだ実なんかならん!」


 籠の中には別の畑で採れたらしい豆が入っている。


 エレナも戸口へ出た。


「こんにちは、ガルドさん」


「おう、エレナ! 昨日の豆も立っとるぞ!」


「今朝は見ていませんでした。大丈夫そうですか?」


「今のところな。紐もきつくなっとらん」


「よかったです」


 ガルドが籠をマーサへ渡そうとして、その前掛けを見る。


「お、直したのか?」


「エレナがやったよ」


「ほう!」


 ガルドが裂けていた場所へ顔を近づけようとしたため、マーサが一歩下がった。


「近いよ」


「見せろ見せろ」


「着てる人間ごと見るんじゃないよ」


 エレナは思わず笑う。


 マーサが前掛けの端を少し持ち上げると、ガルドは縫い目を眺めた。


「初めてか?」


「服の繕いは初めてです」


「十分じゃねえか。穴塞がっとる」


「縫い目は揃っていません」


「豆食う時に鞘の形揃っとらんって怒るか?」


「怒りません」


「じゃあ同じだ!」


「たぶん違うよ」


 マーサが横から言う。


「まあ使えるならいいだろ!」


「それは同じことを言ってるね」


 ガルドは満足そうに笑った。


 エレナは、自分の縫ったところをもう一度見る。


 他人から見ても、使えないほどではないらしい。


「そうだ、エレナ。暇なら畑見るか?」


 ガルドが尋ねる。


 エレナはすぐに答えず、自分が今どうしたいか考えた。


 豆の様子は少し見たい。


 けれど、昼食後で、今はもう少し家にいたい気持ちの方が強い。


「今日は行きません」


「そうか!」


 ガルドは全く気にした様子もなく頷く。


「また見たくなったら来い!」


「はい」


 ガルドは空になった手を振り、そのまま歩いていった。


 エレナは背中を見送る。


「断るのも早くなったね」


 マーサが言う。


「考えましたよ」


「前よりは早いってことさ」


「今日は家にいたかったので」


「ならいい」


 マーサは豆の籠を台所へ運んでいった。


     ◇


 午後になり、エレナは自室で『暮らしの小さな工夫』を開いた。


 服の繕いについて書かれているページへ戻る。


 朝に実際やってみたあとで読むと、最初に読んだ時とは見え方が違った。


 糸を強く引きすぎない。


 当て布は破れより少し大きくする。


 布の厚さを合わせる。


 文章として読んだ時には理解したつもりだったことが、今は指先の感覚と一緒に思い出せる。


 エレナは本を閉じた。


 これで服を繕えるようになった、と言い切る気にはならない。


 今日は一枚できた。


 次は違う布かもしれない。


 破れ方も違うだろう。


 分からなければ、またマーサに聞けばいい。


 それでよい。


 階下から戸を叩く音が聞こえた。


 エレナは本を置き、耳を澄ませる。


 マーサが出る気配がない。


 裏にいるのかもしれない。


 もう一度、控えめな音がする。


 エレナは階段を下りた。


「はい」


 戸を開ける。


 そこに立っていたのはユウだった。


「こんにちは」


「ユウさん。こんにちは」


 昨日のことが一瞬で蘇り、エレナの胸が温かくなる。


 ただ、昨日とは違って、ユウは小さな籠を持っていた。


「今日は用事がありますか?」


 エレナが尋ねると、ユウは籠を少し持ち上げる。


「半分ある」


「半分?」


「オルドさんから卵もらったから、マーサさんに少し持ってきた」


「それが半分ですね」


「うん」


「もう半分は?」


 ユウが少しだけ視線を逸らした。


「エレナさんいるかなと思って」


 昨日より控えめな言い方だった。


 それでも、エレナには十分だった。


「います」


「見れば分かるよ」


「そうではなくて」


 エレナは笑う。


「いてよかった、という意味です」


「ああ」


 ユウも笑った。


「俺も、いてよかった」


 胸の奥がまた温かくなる。


「入りますか?」


「マーサさん大丈夫?」


「確認してきます」


 ちょうど裏から戻ってきたマーサへ尋ねると、卵を受け取りながら「あんたの客なら好きにしな」と言われた。


 エレナはユウを中へ招いた。


     ◇


「何してたの?」


 席へ着いたユウが尋ねる。


「服を繕っていました」


「服?」


「マーサさんの前掛けです」


「エレナさん、裁縫できるんだ」


「刺繍は習いました。でも、破れた服を直したのは今日が初めてです」


「うまくできた?」


 エレナは少し考える。


「使えるようにはなりました」


「じゃあ成功じゃない?」


「マーサさんも似たようなことを言っていました」


「どこ直したの?」


「マーサさんが今つけています」


 台所にいるマーサを見る。


 マーサは二人の会話が聞こえていたらしく、振り返りもせずに言った。


「見たきゃエレナに脱がせてもらいな」


「いや、そこまでしなくていいよ」


「私も脱がせません」


「なら話終わりだね」


 マーサは豆の筋を取り続ける。


 ユウは苦笑した。


「見たかったのに」


「あとで外した時なら見せられます」


「いや、別に作品として鑑賞したいわけじゃないから」


「作品ではありません。修理です」


「そうだった」


 エレナは今日の作業について話した。


 当て布を少し斜めに切ったこと。


 糸を強く引きすぎて布が寄ったこと。


 縫い目の幅が揃わなかったこと。


 それでも前掛けとして使えること。


「一か所だけ、やり直しました」


「使えなかったから?」


「いいえ。もう少し揃えて縫えるか試したかったので」


「そっか」


「全部はやり直しませんでした」


「何で?」


「全部を直したいとは思わなかったからです」


 ユウは少し笑う。


「いいね」


「何がですか?」


「直したいところだけ直すの」


「ユウさんの木と同じですか?」


 ユウの表情が止まった。


「……俺のはまだ直してない」


「そうなのですか?」


「うん。今朝も見たけど、まだ削る気にならなかった」


「では、まだそのまま?」


「そのまま」


「気にはなっていますか?」


「ちょっと」


 エレナは笑った。


「私の前掛けは、気になったところだけやり直しました」


「俺も次にやりたくなったらそうする」


「全部を削り直さないでくださいね」


「削ったら戻らないからね」


 二人で笑う。


 マーサは台所から聞きながら、何も口を挟まなかった。


     ◇


 しばらくして、ユウが窓の外を見た。


「今日は家にいる日?」


「今のところは」


「今のところ?」


「午前中にガルドさんから畑へ誘われましたが、今日は行きませんでした。今は家にいたいと思ったので」


「そっか」


「でも、あとで行きたくなるかもしれません」


「うん」


「ユウさんは?」


「卵持ってきたら帰るつもりだったんだけど」


 そこでユウが言葉を止める。


「今は?」


 エレナが尋ねる。


「もうちょっといたい」


 返事を聞いた瞬間、自然に笑みが浮かんだ。


「では、いてください」


「うん」


 昨日と同じように、特別なことはしない。


 エレナは本を持ってきた。


 ユウは本を読むわけではなく、窓の外を見ながら茶を飲んでいる。


「退屈ではありませんか?」


「今は別に」


「何もしなくても?」


「うん」


 エレナは本を開いた。


 数ページ読み、ふと顔を上げる。


 ユウはまだいる。


 それだけで嬉しい。


 以前なら、その嬉しさの理由をすぐに探しただろう。


 昨日、二人で分からないままでよいと話した。


 だから今日は探さない。


 嬉しいなら、今は嬉しいままにしておく。


     ◇


 マーサは豆の筋を取り終えると、籠を持って立ち上がった。


「エレナ」


「はい」


「サナんとこ行ってくるよ。この豆少し分けてくる」


「分かりました」


「留守番頼めるかい?」


「はい」


 マーサはユウを見る。


「戸閉めるなら鍵だけ忘れんなよ」


「俺に言ってる?」


「二人に言ってる」


「分かった」


 マーサはそれだけ言って家を出た。


 エレナは閉じた戸を見る。


 家の中には、自分とユウだけになった。


 以前にもユウの家で二人だけになったことはある。


 特別珍しい状況ではない。


 それなのに、マーサが出ていった直後だけ、少し空気が変わったように感じた。


(なぜでしょう)


 エレナは本へ視線を戻した。


 文字を一行読む。


 内容が頭へ入らない。


 もう一度読む。


 今度は分かった。


「エレナさん」


「はい」


「読みにくい?」


「なぜ分かったのです?」


「同じところ見てたから」


 見られていたらしい。


 エレナは少し恥ずかしくなった。


「マーサさんが出ていったので、少しだけ落ち着かなくなりました」


「俺、帰った方がいい?」


「いいえ」


 答えはすぐに出た。


「いてほしいです」


「じゃあいる」


 ユウはそれ以上理由を聞かなかった。


 エレナは本を閉じる。


「読むのやめる?」


「今は、ユウさんと話したくなりました」


「うん」


「何を話すかは決まっていません」


「じゃあ、決まってから話す?」


「それでは話したいのに黙っていることになります」


「それもそうか」


 二人で少し笑った。


 話題を探すために無理をする必要はない。


 それでも、今は声を交わしたい。


「ユウさんは、服を繕えますか?」


「ボタンくらいなら。破れた服は……適当に縫ったことはある」


「前のお仕事の時ですか?」


「いや、一人暮らししてた時。靴下とか」


「靴下を繕ったのですか?」


「穴開いたから」


「上手でしたか?」


「人に見せられるものじゃなかったよ」


「履けましたか?」


「履けた」


 エレナは笑う。


「では、今日の私と同じですね」


「たぶんエレナさんの方が上手だと思う」


「見ていないのに?」


「刺繍習ってた人と、穴を閉じればいいと思ってた俺だから」


「でも、目的は達成しています」


「そう言われるとそうだね」


 ユウも笑った。


 話したかったのは、こんなことだったのだろうか。


 たぶん違う。


 けれど、別に構わない。


 話したいと思って話し始め、その結果が靴下の穴の話でも、二人とも楽しければよかった。


     ◇


 やがてマーサが戻ってきた。


「ただいま」


「おかえりなさい」


「まだいたのかい、ユウ」


「もうちょっといたくなったから」


「そうかい」


 マーサはそれ以上何も言わず、空になった籠を置いた。


「サナさんはお元気でしたか?」


「ああ。石鹸の試し使いも続けてるってさ」


 エレナが顔を上げる。


「手は大丈夫だったのですか?」


「今のところ赤くなったり痒くなったりはしてないって。ただ、一回で決める気はないみたいだよ」


「では、まだ試している途中なのですね」


「そういうことだろうね」


 エレナは頷いた。


 石鹸も急がない。


 使えたからすぐ全部を同じように使うのではなく、もう少し様子を見る。


「見に行きたくなったかい?」


 マーサが尋ねる。


「少し」


「行く?」


 エレナはユウを見る。


 ユウは何も言わず、エレナの答えを待っている。


 今、サナのところへ行く。


 それも楽しそうだ。


 けれど、今はまだユウとここにいたい。


「今日は行きません」


「そうかい」


「今は、ここにいたいです」


 言ってから、少しだけ頬が熱くなる。


 ユウがこちらを見る。


「俺も、もう少しいる?」


「はい」


「じゃあそうする」


 マーサは二人を一度だけ見たあと、台所へ向かった。


     ◇


 午後も少し進んだ頃、ユウはようやく立ち上がった。


「そろそろ帰るよ」


「はい」


 エレナも立つ。


 今日は引き止めたいだろうか。


 自分へ尋ねてみる。


 もう少し一緒にいたい気持ちはある。


 けれど、十分一緒にいたとも思う。


「今日は、ここまでで大丈夫です」


「うん」


「来てくれて嬉しかったです」


「俺も来てよかった」


「卵を届ける用事があったからですか?」


 少し意地悪な質問かもしれないと思いながら尋ねる。


 ユウは籠のなくなった手を見るような仕草をしてから、エレナへ視線を戻した。


「卵だけなら、渡して帰ってたと思う」


「では、残ったのは?」


「エレナさんといたかったから」


 昨日より少しだけ自然に言われた。


 エレナは胸元へ手を当てそうになり、途中で止める。


「……嬉しいです」


「うん」


「私も、ユウさんといたかったです」


 今度は自分から言えた。


 ユウが少し照れたように笑う。


「そっか」


「はい」


 その先は言わない。


 言わなくても、今日のところは十分だった。


「またね」


「はい。また」


 ユウが家を出る。


 エレナは戸口から数歩だけ見送り、それから家の中へ戻った。


     ◇


 夕方、マーサは朝に繕った前掛けを外した。


 エレナはすぐに縫った部分を見る。


「どうでしたか?」


「どうって、普通に使えたよ」


「糸は緩んでいませんか?」


「自分で見てみな」


 渡された前掛けを確認する。


 縫い目は朝とほとんど変わっていない。


 最初に少し寄ってしまった場所も、そのままだ。


 エレナは指で触れる。


「大丈夫そうです」


「じゃあ成功だね」


「はい」


 今度は素直にそう言えた。


「でも、次も同じようにできるとは限りません」


「何だい、急に慎重だね」


「布も破れ方も違うのでしょう?」


「そうだね」


「その時は、また教えてください」


「覚えてたらね」


「マーサさんが忘れていたら?」


「あんたが覚えてりゃいい」


「そうですね」


 二人で笑った。


     ◇


 夜、エレナは記録帳を開いた。


 昨日は三軒目の家について多くを書いた。


 今日は、その続きを書く必要はほとんどない。


 新しい返事は届いていない。


 それなら、今日あったことを書く。


『マーサさんに服の繕い方を教えてもらった。』


 当て布を選んだこと。


 少し斜めに切ったこと。


 糸を引きすぎて布が寄ったこと。


 縫い目が揃わなかったこと。


 途中で肩が疲れ、一度休んだこと。


 それから、気になった一か所だけ自分がやりたくて縫い直したこと。


『全部をきれいにする必要はなかった。使えるようにするのが今日の目的だった。私は一か所だけ、もう一度やってみたかったのでやり直した。』


 エレナは筆先を止める。


 ここは忘れたくない。


 使えるなら終わりにしてもよい。


 けれど、終わりにしなければならないわけでもない。


 自分がもう一度やってみたいなら、やってもよい。


 頑張らないということは、何もしないことではない。


 やりたいことまで我慢することでもない。


『頑張らないことと、やってみたいことをやらないことは、同じではないと思う。』


 書いたあと、しばらく文字を見る。


 ユウも木を削る。


 毎日ではない。


 疲れ切るまででもない。


 上手になる義務があるからでもない。


 作ってみたいものがあるから、やりたい日に少しずつやっている。


 自分も同じなのかもしれない。


 次に、午後のことを書く。


『ユウさんが卵を持ってきた。用事は半分で、もう半分は私がいるかと思ったから来たと言った。』


 頬が少し熱くなる。


『卵を渡したあとも、私といたいから残ってくれた。私はサナさんのところへ行くこともできたが、その時はユウさんと一緒にいたかったので行かなかった。』


 さらに一行。


『私も、ユウさんといたかったと伝えた。』


 筆を置く。


 昨日までより、少しだけ言えることが増えている。


 会えると嬉しい。


 会いたい。


 一緒にいたい。


 どれも、自分の気持ちだ。


 それでも、まだ一つの言葉へまとめる必要はない。


 三軒目の家について、新しい情報はない。


 東の警戒線にも、新しい反応があったという知らせはない。


 サナの石鹸は試用を続けており、今のところ手に赤みや痒みは出ていないが、まだ全体を使い始める段階ではない。


 今日一日で、大きな出来事は何も起きなかった。


 それでも、エレナには残しておきたいことがいくつもあった。


 前掛けの小さな破れを繕った。


 ガルドの誘いを断った。


 ユウが来た。


 一緒にいた。


 話した。


 それだけで一日は十分に満ちていた。


(明日は、何をしたくなるでしょう)


 今は分からない。


 エレナは記録帳を閉じた。


 分からないまま眠って、朝になったら、その時の自分へ聞けばよかった。

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