第68話 待っていた返事
朝のルーデには薄い雲が広がっていたものの、雨の気配はなかった。エレナが窓を開けると、湿り気の残る土の匂いと一緒に涼しい風が入り込み、庭先では昨夜のうちに落ちたらしい小さな葉が、地面の上をかすかに転がっている。
昨日の午後、ユウは何の用事もないままマーサの家を訪れた。
朝にも顔を合わせていたのに、もう一度会いたくなったから来たのだと言ってくれた。
思い返すと、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(嬉しかったですね)
それ以上の名前は、まだつけていない。
なぜ嬉しいのかも、すべて説明できるわけではない。
それでも昨日の自分は嬉しかったし、今朝になって思い出しても、その気持ちは変わらなかった。
エレナは窓を閉めず、そのまま少しだけ外を眺める。
今日はユウに会いたいだろうか。
昨日のように自分へ尋ねてみた。
(会えたら嬉しいです。でも、今すぐ会いに行きたいわけではありません)
答えが昨日と違うことにも、もう驚かなかった。
会いたいと思った日に会いに行ったからといって、次の日も同じようにしなければならないわけではない。昨日は昨日で、今日は今日なのだと、最近になってようやく自然に思えるようになってきた。
着替えて階下へ降りると、マーサは台所で鍋をかき混ぜていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日は早いね」
「昨日より少しだけです」
「そのくらいなら誤差だよ」
マーサは鍋の中を一度確かめ、火を弱める。
朝食は豆と野菜を煮たものに、少し硬くなったパンだった。マーサがパンを汁へ浸して食べているのを見て、エレナも真似をすると、表面が柔らかくなって食べやすい。
「こうするとよいのですね」
「硬くなったらね。焼き直してもいいけど、今日は面倒だからこれでいい」
「面倒だから、という理由でもよいのですか?」
「朝飯食うのに毎日大仕事してたら疲れるだろ」
「確かにそうですね」
エレナは汁を吸ったパンを口へ運びながら笑った。
以前なら、食事を用意するなら少しでも丁寧にすることが正しいと思っていたかもしれない。
けれど、今日はこれで十分だとマーサが決めた。
そして実際、美味しい。
食事を終える頃、外から車輪の音が聞こえてきた。
エレナの手がわずかに止まる。
街道を通る荷車は珍しいものではない。
三軒目の家について西へ問い合わせを出してから、以前より車輪の音へ意識が向くようになった。それでも、聞こえるたびに外へ飛び出すことはしないと決めている。
ローデンは知らせが届けば教えてくれると言った。
だから、エレナは残っていた茶を飲んだ。
車輪の音は村の中へ入り、そのまま少しずつ近づいてくる。
「気になるかい?」
マーサに尋ねられ、エレナは素直に頷いた。
「はい。でも、私宛てとは限りません」
「そうだね」
「もし返事なら、ローデンさんが教えてくれます」
「そう言ってたね」
マーサはそれ以上何も言わなかった。
エレナも立ち上がらない。
胸の奥に小さな期待はある。
けれど、期待があることと、今すぐ確かめなければならないことは別だった。
やがて荷車の音は少し離れたところで止まった。
誰かの声が聞こえる。
内容までは分からない。
エレナは食器を片づけ始めた。
◇
朝食の片づけを終えたあと、エレナは昨日ベルから教わった蝶番のことを『暮らしの小さな工夫』の余白には書かず、自分の記録帳へ簡単にまとめた。
本そのものに書き込むのは持ち主であるユウへ確認していないため、しない。
『扉の重さを支えてから蝶番を見る。今回は本の方法で合っていた。ただし、木の歪みや金具そのものの傷みなど、同じ症状でも原因は違うことがある。分からなければベルさんに聞く。』
最後の一文を書いてから、エレナは少し笑った。
以前なら「自分でできるようになる」と書いていたかもしれない。
今は、分からなければ知っている人に聞く。
それも方法の一つだ。
記録帳を閉じたところで、玄関の戸を叩く音がした。
「マーサ、いるか?」
ローデンの声だった。
エレナの背筋が自然に伸びる。
マーサが台所から顔を出した。
「いるよ。開いてる」
戸が開き、ローデンが入ってくる。
その手には、一枚の紙があった。
折り畳まれている。
エレナは立ち上がったものの、すぐに駆け寄ることはできなかった。
「ローデンさん」
「ああ。エレナに話がある」
三軒目の家だ。
そう思った瞬間、胸の鼓動が少し速くなる。
以前届いた知らせでは、西の町の宿『赤屋根亭』を営むゼムが、ハルトの息子エルドを知っている可能性のある元工房主の居場所を把握していることまで分かった。元工房主は存命で、娘夫婦と暮らしており、ゼム自身が会いに行く予定だというところで止まっていた。
「返事が来たのですか?」
「来た。ただ、先に言っとくが、これで全部決まったわけじゃない」
ローデンは落ち着いた声で言う。
エレナは一度息を吸った。
「はい」
「座るか?」
「……はい」
自分では平気なつもりだったが、ローデンからそう言われたことで、立ったまま聞く必要もないと気づいた。
エレナは椅子へ座る。
マーサも向かい側へ座った。
ローデンはその間に立ったまま、折られた紙を開いた。
「これはゼム本人が書いたものじゃない。元工房主の娘婿が書いて、ゼムが預かって戻してきたらしい」
「元工房主の方には、会えたのですね」
「ああ。そこは間違いない」
まず一つ。
前より先へ進んだ。
エレナは膝の上で両手を重ねる。
「元工房主は、ハルトの息子エルドを覚えていた」
ローデンの言葉に、指先へ少し力が入った。
「本当ですか?」
「ああ。昔、エルドが西の工房で働いていたのも間違いないらしい。元工房主がまだ現役だった頃、何年か一緒に働いていたそうだ」
「では、エルドさんの居場所も?」
「そこまではまだだ」
期待で前へ傾きかけた気持ちを、エレナは止めた。
ローデンは紙へ視線を落とす。
「工房を辞めたあと、エルドはさらに西へ移った。理由は仕事だったらしいが、どの町かまでは元工房主も正確に覚えてない。ただ、手紙のやり取りがしばらく続いてたそうだ」
「しばらく、ということは……今は?」
「途切れてる」
「そうですか」
残念ではある。
けれど、手がかりが消えたわけではない。
「最後の手紙は残っていないのですか?」
「元工房主本人は持ってない。ただ、昔の工房の帳面に送り先を書いた覚えがあるらしい」
「帳面……」
「その工房自体はもう別の人間が使ってる。古い帳面が残ってるかどうかも分からん」
ローデンはそこで紙を少し下げた。
「ゼムが、今の工房主に聞いてみると言ってる」
エレナはすぐに答えず、今聞いた内容を頭の中で整理する。
元工房主は生きていた。
エルドを知っていた。
エルドが工房で働いていたことも確認できた。
その後、さらに西へ移った。
手紙のやり取りはあったが途切れている。
古い工房の帳面に送り先が記録されていた可能性がある。
帳面が今も存在するかは不明。
ゼムが確認してくれる予定。
「……エルドさんが今どこにいるかは、まだ分からないのですね」
「ああ」
「生きているかどうかも?」
「分からん」
「三軒目の家を私が使ってよいかも、まだ分からない」
「そうだ」
ローデンは一つずつ答えた。
エレナは膝の上の手を見つめる。
期待していた。
もしかしたら、今度こそ許可まで届くのではないかと、心のどこかで思っていた。
そうならなかった。
胸の奥に、小さな落胆がある。
(残念です)
認めてみる。
思ったより苦しくはない。
期待したから落胆した。
けれど、期待したことそのものを後悔してはいなかった。
「残念そうだな」
ローデンに言われ、エレナは顔を上げる。
「はい。少し」
「そうか」
「でも、前より分かったことは増えました」
「ああ。それは間違いない」
「なら、嬉しくもあります」
残念と嬉しいが同時にある。
どちらか一つへ決めなくてもよい。
エレナはそれを確かめるように、もう一度ゆっくり息を吐いた。
◇
ローデンは紙を机の上へ置いた。
「もう一つある」
「はい」
「元工房主が、ハルトについて少し覚えてた」
エレナは顔を上げる。
「ハルトさんを?」
「直接よく知ってたわけじゃない。エルドが工房にいた頃、父親の話を何度か聞いた程度だそうだ」
ローデンは紙の一部を指で示した。
「エルドは、父親が村の家を自分に残すつもりだった、と話してたらしい」
エレナは息を止めた。
しかし、ローデンはすぐに続ける。
「これも証明にはならんぞ」
「……はい」
「何年も前に聞いた話を、年寄りが思い出してるだけだ。書面もないし、ハルト本人の言葉を聞いたわけでもない」
「それでも、エルドさん自身は、あの家を自分が受け継ぐものだと思っていた可能性があるのですね」
「そうなる」
つまり、三軒目の家は誰のものでもない空き家ではない可能性が、以前より強くなった。
エレナにとって都合のよい情報ではないかもしれない。
それでも、知る必要のあることだった。
「もしエルドさんが家を受け継いでいるなら、やはりエルドさんの許可が必要ですね」
「俺はそう考えてる。正式な権利関係がどうなってるかは別としても、少なくとも本人を探せるだけ探さずに使い始めるのは避けたい」
「私もそうしたいです」
迷いはなかった。
早く住みたい。
あの家で本を読みたい。
棚へ自分の物を置きたい。
いつかユウが昼寝できる椅子を置けたら、という想像もした。
だからこそ、誰かの家を勝手に自分のものにはしたくない。
「待てるか?」
ローデンが尋ねる。
エレナは少し考えた。
すぐに「はい」と答えることもできた。
けれど、自分の本当の気持ちを確かめる。
「早く知りたいです」
「ああ」
「できれば、早く住みたいです」
「そうだろうな」
「それでも、待ちます。待ちたいというより……勝手に使いたくありません」
ローデンが頷いた。
「分かった。ならゼムにはこのまま確認を頼む」
「お願いします」
「急がせるか?」
エレナはまた考える。
古い帳面を探す。
今の工房主へ確認する。
それがどれほど手間なのか、エレナには分からない。
「急がせなければ困る事情は、今の私にはありません」
マーサの家にいられる。
追い出される予定もない。
「でしたら、無理のない範囲でお願いしてください」
「そう伝える」
ローデンは紙を折り直した。
「これは俺が持っておくが、見たければいつでも言え」
「はい。ありがとうございます」
「それと、今日来た荷車はバルトじゃない。西から来た別の荷運びだ」
「バルトさんは、まだ戻っていないのですか?」
「別の仕事も回ってくるらしいからな。今のところ何かあったって話は聞いてない」
「分かりました」
エレナは必要以上に想像を広げないことにした。
戻っていない。
それ以上は分からない。
◇
ローデンが帰ったあと、マーサは何も言わずに湯を沸かし直した。
エレナは椅子へ座ったまま、机の木目を眺めている。
「茶飲むかい?」
「はい」
差し出された茶を受け取る。
温かさが手のひらへ伝わる。
「残念だったかい?」
マーサに尋ねられ、エレナは頷いた。
「少し。でも、前より近づいたとも思います」
「なら両方でいいんじゃないかい」
「はい」
茶を一口飲む。
「以前の私なら、期待しなければよかったと思ったかもしれません」
「今は?」
「期待していましたし、残念です。でも、次の返事にも期待したいです」
「そうかい」
「また残念になるかもしれません」
「なるかもね」
マーサはあっさり言う。
「それでもよいのでしょうか」
「残念になりたくないなら、何にも期待しなきゃいい。けど、それが楽かどうかはあたしは知らないよ」
エレナは茶の表面を見る。
期待しないようにすること。
傷つかないように、先に諦めること。
王都にいた頃には、何度もそうしてきた。
両親に褒められることを期待しない。
妹と比べられない日を期待しない。
婚約者が自分の言葉を信じてくれることを、最後には期待できなくなった。
期待しなければ、落胆は小さくなる。
けれど、喜べる未来まで先に捨てていたのかもしれない。
(今は、期待したいです)
三軒目の家に住みたい。
良い返事が欲しい。
エルドが見つかり、自分が住むことを認めてくれたら嬉しい。
その願いを持つことまでやめる必要はない。
「マーサさん」
「何だい?」
「ユウさんに話してきてもよいですか?」
マーサは口元だけで笑った。
「聞くと思ったよ」
「なぜです?」
「昨日も来てたからね」
「それは関係があるのでしょうか」
「あるかもしれないし、ないかもしれないね」
「マーサさんまで、分からないままにするのですか?」
「便利だろ」
エレナは少し頬を膨らませ、それから自分でもおかしくなって笑った。
◇
ユウの家へ向かう途中、エレナはニコと出会った。
ニコは道の端にしゃがみ、小さな板を抱えている。
「あ、エレナ」
「こんにちは、ニコ。その板は?」
「虫の道の屋根」
以前ユウからもらった端材だった。
ニコはそれを小さな石二つの上へ載せ、地面との間に狭い隙間を作っている。
「置いたのですね」
「昨日置いた。でも、まだ入ってない」
「虫が?」
「うん」
ニコは少し残念そうではあるが、板を外そうとはしていない。
「動かさないのですか?」
「まだ分かんないから」
「どのくらい待つのです?」
「分かんない」
「そうですか」
「エレナ、見る?」
誘われ、エレナは道の先を見る。
ユウの家へ行きたい。
家の返事について話したい。
「今日はユウさんのところへ行きたいので、今は行きません」
「そっか」
「でも、帰りにまだニコがいたら、見てもよいですか?」
「いいよ」
ニコはすぐに地面へ視線を戻した。
断っても関係は変わらない。
エレナはそれを嬉しく思いながら、再び歩き始めた。
◇
ユウの家へ着き、戸を叩く。
「ユウさん」
少しして足音が近づき、戸が開いた。
「エレナさん。こんにちは」
「こんにちは」
「今日はどうしたの?」
「会いに来ました。それと、話したいことがあります」
「うん。入る?」
「はい」
中へ入ると、机の上には昨日の木片が置かれていた。
削りすぎた場所もそのままだ。
「直していないのですね」
「まだ直したくなってないから」
「気にはなっていますか?」
「ちょっとね」
ユウは椅子を勧める。
「お茶でいい?」
「はい。ありがとうございます」
エレナは以前と同じように、手伝うべきか迷ってから、今日は尋ねなかった。
ユウは自分で茶を淹れようとしている。
必要なら言うだろう。
待っている間、机の木片を見る。
気になるものが、気になるまま置いてある。
それでも生活は続いている。
ユウが向かいへ座った。
「それで、話って?」
「三軒目の家について返事が来ました」
ユウの表情が少し変わる。
「来たんだ」
「はい。でも、まだエルドさんは見つかっていません」
エレナはローデンから聞いたことを、順番に話した。
ゼムが元工房主へ会えたこと。
元工房主がエルドを覚えていたこと。
エルドが工房を辞めてさらに西へ移ったこと。
昔の工房の帳面に送り先が残っている可能性があること。
そして、エルドが父ハルトから家を受け継ぐつもりだったらしいという昔の話。
「だから、私が住んでよいかはまだ分かりません」
「そっか」
ユウはしばらく考える。
「でも、エルドさんが本当にいたってところはかなりはっきりしたんだね」
「はい。以前よりは」
「帳面が残ってれば、もう少し進むかもしれない」
「残っていないかもしれません」
「うん」
「エルドさんがもうそこに住んでいないかもしれません」
「うん」
「……亡くなっている可能性もあります」
「それもあるね」
ユウは否定しない。
大丈夫だとも言わない。
そのことが、エレナにはありがたかった。
「残念でした」
エレナは素直に言った。
「もっと分かるかと思っていました」
「うん」
「でも、期待したことは後悔していません」
「そっか」
「次の返事にも期待しています」
ユウが少し笑う。
「いいんじゃない?」
「また駄目だったら?」
「また残念がればいいんじゃない?」
エレナも笑った。
「以前と同じですね」
「何が?」
「駄目だったら、その時考えればよいということです」
「ああ」
ユウは茶を飲む。
「俺、そればっかり言ってる気がする」
「役に立っています」
「ならいいか」
エレナは両手でカップを包む。
「私、あの家に住みたいです」
「うん」
「前にも言いましたが、今もそう思っています」
「うん」
「でも、エルドさんが駄目だと言ったら、住めません」
「そうだね」
胸が少し痛む。
想像しただけでも残念だ。
けれど、その可能性を消して考えることはできない。
「その時は、別の場所を考えるのでしょうか」
「その時のエレナさんが決めればいいんじゃない?」
「今、決めなくても?」
「まだ駄目って言われてないし」
「そうですね」
エレナは息を吐いた。
自分が住みたいと願うこと。
家に関係する人の意思を尊重すること。
どちらか一つを捨てなくてもいい。
◇
「ユウさん」
「ん?」
「昨日、私に会いたくなって来てくれましたよね」
「うん」
「今日は、私が来ました」
「うん」
「もし家の返事がなかったら、私は今日ここへ来たでしょうか」
ユウが少し首を傾ける。
「俺には分かんないよ」
「そうですよね」
エレナは笑う。
「私にも分かりません」
家のことを伝えたいから来た。
それは本当だ。
けれど、ローデンに話を聞いたあと、最初に伝えたいと思った相手がユウだった。
「でも、ユウさんに伝えたいと思いました」
「ありがとう」
「なぜでしょう」
「またそれ考える?」
「少しだけです」
ユウは苦笑する。
「俺は答え持ってないよ」
「知っています」
「じゃあ一緒に分かんないって言う?」
「はい」
二人で笑った。
エレナは、自分の中の分からなさが以前ほど怖くなくなっていることに気づく。
分からない。
だから調べることもある。
分からないまま待つこともある。
分からないまま大切にしてよいものもある。
「今日は、どのくらいここにいてよいですか?」
「俺は特に予定ないよ。エレナさんがいたいだけいていい」
「では、もう少しいます」
「うん」
話すことが途切れる。
ユウは棚から本を一冊取り出し、エレナも持ってきていた『暮らしの小さな工夫』を開いた。
同じ部屋で、別々の本を読む。
時々、外を風が通り過ぎる音がする。
それだけだった。
けれど、エレナはその時間が好きだった。
◇
しばらくして、エレナは本から顔を上げた。
ユウはまだ読んでいる。
机の端には、直していない木片。
棚には何冊かの本。
窓の向こうには小さな村。
ここへ初めて来た頃には、自分がこんな時間を過ごすとは想像していなかった。
何かを証明するためでもない。
誰かの期待へ応えるためでもない。
役に立つためでもない。
ただ、自分がここにいたいからいる。
やがてユウが本を閉じた。
「疲れた?」
「いいえ。そろそろ帰ろうかなと思いました」
「そっか」
「はい。今日は自分で帰りたいです」
「分かった」
ユウは送るとは言わなかった。
それが嫌ではない。
戸口まで一緒に行き、エレナは靴を整える。
「返事、来てよかったね」
「まだ途中ですが」
「途中まで来たって分かっただけでも、前より進んでるでしょ」
「はい」
「次もいい返事だといいね」
ユウがそう言った。
エレナは少し驚く。
「期待してくれるのですか?」
「するよ。エレナさん、あの家に住みたいんでしょ」
「はい」
「なら、住めるといいなって思う」
胸の奥がまた温かくなる。
「ありがとうございます」
「うん」
「では、また」
「またね」
エレナは家を出た。
◇
帰り道で、朝と同じ場所にニコがいた。
「まだ見ているのですか?」
「ずっとじゃないよ。一回ごはん食べた」
「そうですよね」
エレナは笑いながら近づく。
「見てもよいですか?」
「いいよ」
ニコの隣へしゃがむ。
小さな板は二つの石に支えられ、地面との間へ細い影を作っている。
「虫は来ましたか?」
「一匹来た。でも屋根の下には入らなかった」
「そうですか」
「横通って草に行った」
「板はどうするのです?」
「まだ置いとく」
「入らなかったのに?」
「一匹だけだもん」
ニコは当然のように言う。
「次は入るかもしれないし、入らないかもしれない」
「いつまで置くのですか?」
「邪魔になるまで」
エレナは笑った。
ニコのやり方は、何かを証明しようとしているわけではない。
虫が使えば面白い。
使わなくても、それだけだ。
「私も少し見ていてよいですか?」
「うん」
二人で地面を見る。
しばらく待ったが、虫は来なかった。
それでもエレナは、時間を無駄にしたとは思わなかった。
「今日は来ませんね」
「うん」
「私はそろそろ帰ります」
「またね」
「はい。また」
立ち上がり、服についた土を払う。
何も起こらなかった。
けれど、見たかったから見た。
それで十分だった。
◇
夜。
エレナは記録帳を開いた。
『三軒目の家について返事が届いた。』
そこから、分かったことを一つずつ書く。
『ゼムさんは元工房主に会えた。元工房主はエルドさんを覚えており、エルドさんが昔その工房で働いていたことは確認できた。エルドさんは工房を辞めたあと、さらに西へ移ったらしい。』
『昔の工房の帳面に、その後の送り先が書かれていた可能性がある。帳面が残っているかは分からない。ゼムさんが今の工房主へ確認してくれる。』
さらに、重要なことを書く。
『エルドさんは、父ハルトさんが村の家を自分に残すつもりだったと話していたらしい。ただし、元工房主が昔エルドさんから聞いた話であり、証明ではない。エルドさんの現在地、生死、家の正式な権利、私が住んでよいかはまだ分からない。』
書き終え、読み返す。
分かったこと。
分からないこと。
混ぜない。
期待と事実も混ぜない。
そのうえで、自分の気持ちは別に書く。
『私は、もっと先まで分かることを期待していたので、少し残念だった。』
筆を止めずに続ける。
『それでも、期待したことは後悔していない。次の返事にも期待したい。私は、あの家に住みたい。』
その文字を見て、エレナは小さく息を吐いた。
さらに今日のことを書く。
『ユウさんに伝えたかったので、会いに行った。ユウさんは、私があの家に住めるといいと思ってくれている。嬉しかった。』
『帰りにニコの虫の道を見た。板の下には虫は入らなかった。少し待ったが、そのあとも来なかった。見たかったので見た。』
最後に、少し考える。
三軒目の家については、また待つことになった。
待つ期間がどれほどになるかは分からない。
明日返事が来ることは、おそらくない。
だからといって、明日まで今日の続きを待ち続ける必要もない。
『返事を待っている間も、普通に暮らす。』
そう書いた。
記録帳を閉じ、窓の外を見る。
村は静かだった。
東から警戒線の音が響くこともなく、誰かが慌ただしく走る声も聞こえない。
三軒目の家は、まだエレナの家ではない。
ユウとの間にある気持ちにも、まだ名前はない。
森の向こうのことも、王都のことも、妹のことも、分からないままだ。
けれど、分からないことが残っているからといって、今日一日が途中で止まっていたわけではない。
朝食を食べた。
返事を聞いた。
残念だと思った。
それでも期待した。
ユウに会いに行った。
同じ部屋で本を読んだ。
ニコと虫を待った。
何も起こらない時間も過ごした。
(今日も、ちゃんと暮らしていました)
エレナは灯りを消した。
次の返事がいつ届くかは分からない。
だから明日は、返事を待つための日ではなく、明日になってから何をしたいか決める日にすればよかった。




