第67話 聞いてみる
夜のうちにもう一度だけ雨が降ったらしく、朝のルーデには濡れた土と草の匂いが残っていた。エレナが自室の窓を開けると、屋根の端から落ちた雫が庭先の桶へ小さな音を立てて入り、雲の切れ間から差し込む朝の光が、まだ乾ききっていない村道を淡く照らしている。
昨日は何も決めずに眠ったため、今日の予定はまだ一つもない。
それでも、エレナは以前のような落ち着かなさを感じなかった。着替えて階下へ降りれば、台所から焼いたパンの匂いが漂い、マーサが湯を沸かしている音が聞こえてくる。
「おはようございます」
「おはよう。よく寝たかい?」
「はい。雨の音で一度起きた気がしますが、すぐ眠りました」
「夜中にちょっと降ったからね。昼は晴れると思うよ」
マーサはそう言いながら、薄く切ったパンを皿へ載せた。
昨日も天気を言い当てたことを思い出し、エレナは窓の外とマーサを見比べる。
「今日は、どうして分かるのですか?」
「雲の流れが昨日と違う。それと朝の風だね」
「昨日教えてもらったことだけでは、私にはまだ分かりません」
「そりゃ一日で分かったら、あたしが八十年も空見てきた意味がないだろ」
「八十一歳ではありませんでしたか?」
マーサの手が止まった。
「八十だよ」
「以前、八十一歳だと聞いた気がします」
「気のせいだね」
「そうでしょうか」
「そういうことにしときな」
真顔で言われたため、エレナは笑いを堪えきれなかった。
朝食の席へ着き、パンと温めた野菜のスープを食べる。途中でマーサが今日の予定について何も言わないため、エレナも急いで尋ねず、食事そのものをゆっくり味わった。
食べ終えてから、エレナは昨日のことを思い出す。
「マーサさん。今日は何か頼みたいことがありますか?」
「今はないよ。午後に布が乾いてたら取り込むくらいだね」
「分かりました」
「何かしたいことでもあるのかい?」
「まだ決めていません。ただ、ベルさんに本を持っていこうかとは思っています」
「昨日言ってた蝶番かい?」
「はい。分からないところを聞いてよいと言ってもらいました」
「なら行ってきたらいい」
マーサはそれだけ言って、自分の茶を飲んだ。
エレナもすぐに立ち上がらず、食後の茶を少し飲む。
ベルのところへ行く。
それは今日できることの一つだ。
だからといって、朝食を終えた瞬間に向かわなければならないわけではない。
(今、行きたいでしょうか)
自分へ問いかけてみると、答えは少し違った。
「……もう少ししてから行きます」
「誰も急かしてないよ」
「はい」
エレナは笑い、空になった食器を片づけ始めた。
◇
朝食のあと、エレナはすぐに本を持って出かけるのではなく、家の前に置かれた椅子へ座った。
昨夜の雨で庭の土は湿っているが、軒下の椅子は濡れていない。通りを眺めていると、畑へ向かうガルドが遠くから大きく手を振り、エレナも座ったまま手を振り返した。
ガルドはそのまま歩いていく。
呼び止められない。
仕事を頼まれない。
だからといって、何かをし忘れているわけでもない。
エレナは椅子の背へ体を預け、朝の風を感じた。
少し前までなら、こうして座っている時間に何の意味があるのかを考えていたかもしれない。
今は、気持ちがよいから座っている。
それだけでよかった。
やがて家の中からマーサが出てきた。
「まだ行ってなかったのかい?」
「はい。今はここにいたかったので」
「そうかい」
「そろそろ行こうと思います」
「なら、ついでにこれ持ってってくれるかい?」
マーサが手にしていたのは、小さな布包みだった。
「何ですか?」
「ベルに借りてた針。太いやつだよ」
「分かりました」
エレナは受け取ってから、少し考える。
「マーサさん」
「何だい?」
「私は今、ベルさんのところへ行くつもりだったので、これは持っていけます。でも、もし行くつもりがなかったら?」
「あとであたしが持ってくよ」
「そうですか」
「何だと思ってたんだい」
「私がいるなら、私が持っていくものだと思っていました」
「行くなら頼む。行かないなら自分でやる。それだけだよ」
マーサは不思議そうな顔をしている。
エレナにとっては、その「それだけ」が少し嬉しかった。
「では、持っていきます」
「ああ。頼んだよ」
自室から『暮らしの小さな工夫』を持ってきて、マーサから預かった布包みと一緒に抱える。
今日は本を持っている。
けれど、昨日ユウの家へ行った時とは違う。
本を訪ねる理由にしているのではなく、本についてベルへ聞きたいから持っていく。
同じ物を手にしていても、自分が何をしたいのかによって意味は変わるらしい。
◇
ベルの作業小屋へ着くと、戸は半分ほど開いていた。
中から木を叩く音が聞こえる。
「ベルさん、おはようございます」
「おう」
返事があったため、エレナは入口から中を覗いた。
ベルは作業台の前に立ち、小さな木箱の角へ細い板を合わせている。昨日の棚とは別の物らしく、作業台の端には数本の釘と小さな金具が並べられていた。
「入ってもよいですか?」
「いいぞ。そこだけ踏むな」
ベルが足元の木材を顎で示す。
エレナは避けながら中へ入り、まず布包みを差し出した。
「マーサさんからです。借りていた針だそうです」
「ああ、これか。そこ置いといてくれ」
「はい」
指定された棚へ布包みを置く。
そのあとで本を胸の前へ持ち直すと、ベルがちらりと見る。
「持ってきたか」
「はい。昨日のところです」
「ちょっと待て。これ留める」
「分かりました」
エレナは作業を止めさせようとはせず、壁際の椅子へ座った。
ベルが木箱へ板を合わせ、位置を確かめてから釘を打つ。その動作は速いが雑ではなく、何度も見直しているようには見えないのに、板はほとんどずれなかった。
エレナは黙って見ていた。
以前なら、待っている間に何か手伝えることを探したかもしれない。
今はベルが「待て」と言ったので待つ。
しばらくして、ベルは金槌を置いた。
「どこだ」
エレナは本を開き、昨日紙片を挟んだページを見せる。
「ここです。蝶番の緩みを確かめる時に、まず扉の重さを支えてから金具を見る、と書いてあります。なぜ先に金具を見てはいけないのか分かりませんでした」
「別に見てもいいぞ」
「よいのですか?」
「見るだけならな」
ベルは作業小屋の奥へ行き、古い戸棚を指した。
「ちょうどこいつが少し緩んでる。開けてみろ」
エレナは戸棚の前へ移動する。
「普通にですか?」
「ああ。ゆっくりな」
取っ手を引くと、木の扉が少し下へ傾きながら開いた。動かせないほどではないが、途中で小さく引っかかる。
「重いです」
「その重さが蝶番にかかってる。そこで金具だけ締めようとすると、ずれた位置のまま固定することがある」
「では、扉を支えて本来の位置へ戻してから確認するのですね」
「そういうことだ。だが、何でも本に書いてある通りとは限らんぞ。木が歪んでることもあるし、蝶番そのものが駄目なこともある」
ベルは扉の下へ木片を差し込み、少し持ち上げた。
「ほら。これで金具のところ見てみろ」
エレナは顔を近づける。
先ほどより蝶番の位置が揃って見えた。
「少し隙間があります」
「そこが緩んでる」
「本当に書いてある通りですね」
「今回はな」
ベルはすぐに付け加えた。
「本が間違ってるって話じゃないぞ。基本を知るにはいい。だが、実物が全部同じ壊れ方するわけじゃないってだけだ」
「マーサさんも似たことを言っていました」
「何についてだ」
「布です。本に書いてある柔らかくする方法が、すべての布に合うわけではないと」
「そりゃそうだ」
ベルにとっては当たり前のことらしい。
エレナは開いた本を見る。
書いてあることを覚えれば、正しい答えを得られると思っていた時期がある。
けれど、同じ布でも状態が違い、同じ戸棚でも壊れ方が違う。
「では、覚えるだけでは足りないのですね」
「何を直すかによるな。自分で全部やる必要もない」
「それも、ユウさんが言っていました」
「ならあいつに聞きゃよかったじゃねえか」
「ユウさんは、蝶番を直すならベルさんに持ってくると言っていました」
「正解だ」
即答され、エレナは笑った。
◇
ベルはせっかくだからと、緩んだ蝶番を実際に直して見せてくれた。
ただし、エレナへ工具を渡すことはしなかった。
「やってみなくてよいのですか?」
「やりたいのか?」
聞き返され、エレナは手元を見る。
見ているのは面白い。
仕組みを知るのも面白い。
けれど、自分で今すぐ蝶番を修理できるようになりたいかと言われると、少し違う。
「……今は、見たいです」
「なら見とけ」
「それだけでよいのですね」
「何で見たらやらなきゃならんのだ」
ベルは扉の重さを木片で支えたまま、緩んだ部分を確かめる。
「料理見たら料理人になるのか。畑見たら農家になるのか」
「なりません」
「なら同じだ」
エレナは素直に頷いた。
ベルは金具を外さず、まず緩んだ留め具だけを調整した。それから木片を抜き、扉を何度か開閉する。
先ほどの引っかかりが少なくなっている。
「完全には直さないのですか?」
「今はこれで困らんからな。次にもっと緩んだら金具外して見る」
「途中なのですか?」
「修理に途中も何もない。使えて危なくなきゃ今日は終わりだ」
ベルは工具を元の位置へ戻した。
「新品みたいにする必要はない。これは俺が使ってる棚だしな」
エレナは戸棚を見る。
古い傷も残っている。
扉も完全に真っ直ぐではない。
それでも、先ほどより開けやすくなっている。
「ありがとうございました。分かりました」
「本当に分かったか?」
「全部ではありません」
「ならいい」
「全部分かったと言った方がよいのでは?」
「分からんのに分かったって言われる方が困る」
ベルは当然のように答えた。
エレナは少しだけ目を見開き、それから笑った。
「では、今分かったところまで覚えておきます」
「そうしろ」
◇
本を閉じたところで、外から足音が聞こえた。
「ベルさん、いる?」
ユウの声だった。
エレナの顔が自然に入口へ向く。
「いるぞ」
ベルが答えると、ユウが戸口から顔を出した。
「おはよう。……エレナさんもいたんだ」
「おはようございます。昨日の蝶番について教えてもらっていました」
「分かった?」
「少し分かりました」
「少しなんだ」
「全部分かったふりをするとベルさんが困るそうです」
「それはそうだね」
「お前ら、俺を何だと思ってんだ」
ベルが呆れたように言う。
ユウは笑いながら小屋へ入った。
今日は手ぶらではなく、小さな木片を一つ持っている。
「それは、昨日削っていたものですか?」
「うん。昨日ちょっとだけやった」
「昨日はベルさんのところでは削らなかったのに?」
「家帰ってから、やりたくなって」
エレナは昨日の会話を思い出す。
ベルのところへ来なかったから、木工をしたくなかったわけではない。
その時はしなかった。
あとで、したくなった。
「見てもよいですか?」
「いいよ」
ユウが木片を差し出す。
エレナは両手で受け取った。
以前見た時より、一つの角が少し滑らかになっている。
「ここですか?」
「そこ。ちょっとだけ削った」
「きれいになっています」
「俺も今回はちょっと上手くいったと思う」
「今回は?」
「前に削りすぎたから」
ユウは苦笑する。
エレナは木片を返した。
「昨日、ベルさんが『来なくなった理由による』と言っていたことを思い出しました」
「俺も」
「それで削ったのですか?」
「いや、それとは別。削りたくなったから削った」
「そうですか」
エレナは嬉しくなった。
誰かの言葉に動かされたのではなく、自分でやりたくなって道具を出し、自分で十分だと思ったところで止めたのだ。
「今日は続きをするのですか?」
ユウは木片を見る。
「そのつもりで持ってきたけど、まだ分かんない」
「持ってきたのに?」
「持ってきたら絶対やらなきゃいけないわけじゃないし」
「……そうですね」
昨日の自分なら、持ってきた以上はやるものだと考えていたかもしれない。
エレナは少し考えたあと、抱えている本を見た。
自分もベルに聞くために本を持ってきた。
聞きたい気持ちはあったので実際に聞いた。
もし途中で聞きたくなくなっていたなら、そのまま持ち帰ってもよかったのだろう。
◇
ベルはユウの木片を受け取り、削った場所を指でなぞった。
「前より刃が暴れてないな」
「よくなってる?」
「少しな」
「少しか」
「一回うまく削れたくらいで職人になれると思うな」
「思ってないよ」
「ならいい」
ベルは木片を返す。
「今日はどうする」
ユウは作業台の空いている場所を見る。
道具もある。
時間もある。
体調も悪くない。
できない理由はない。
それでも、すぐには始めなかった。
「ちょっと座ってから決める」
「好きにしろ」
ベルは自分の作業へ戻る。
ユウは壁際の椅子へ腰を下ろした。
エレナも隣の椅子へ戻る。
「疲れているのですか?」
「いや。疲労なら一くらい」
「では、なぜ座るのです?」
「今すぐ削りたいか、持ってきたから削ろうとしてるだけか、ちょっと分かんなくて」
「昨日、家でも同じように考えたのですか?」
「うん。少し待ったらやっぱりやりたかったから、ちょっと削った」
エレナは膝の上の本へ視線を落とした。
「私も、今朝すぐにここへ来ませんでした」
「そうなの?」
「朝食のあとに来ようとは思ったのですが、その時は家の前に座っていたかったので、しばらく座っていました」
「いい朝だった?」
「はい」
「じゃあよかったね」
ユウの返事は、それだけだった。
何時にベルのところへ来ても、誰かを待たせていたわけではない。
それなら、家の前で座っていた時間を「遅れ」と呼ぶ必要はない。
「ユウさん」
「ん?」
「もし私が、今日ベルさんのところへ来なかったら?」
「うん」
「どう思いましたか?」
ユウは少し考える。
「別に?」
「別に、ですか」
「来るって約束してたわけじゃないよね」
「はい」
「じゃあ、今日は別のことしてるんだろうなって思うくらいかな」
「会いたくは?」
そこまで聞いてから、エレナの喉が少し詰まった。
質問そのものを取り消したくなるほどではない。
けれど、答えを待つ間、胸の奥が昨日の雨粒を受けた時とは違う形で落ち着かなくなる。
ユウもすぐには答えなかった。
「会いたい日なら、会いに行くかもしれない」
「私のところへ?」
「うん」
ユウは少し照れたように頬を掻く。
「昨日も話したけど、毎日絶対会うって決めるのは、俺はちょっと違うかなって思う。でも、会いたい時に会いに行くのはいいんじゃない?」
「はい」
「エレナさんもそうしてるし」
エレナは以前、自分からユウの家へ行った朝を思い出す。
用事はなかった。
本も持っていかなかった。
ただ会いたかったから行った。
「では、今日私が来なくても、会いたくなったら来てくれたのですね」
「たぶん」
「たぶん?」
「その時にならないと分かんないから」
エレナは少し笑った。
「そうでした。途中で決めるのでしたね」
「そういうこと」
胸の奥にあった小さな緊張が、ゆっくりほどけていった。
◇
少し休んだあと、ユウは木片を手に取った。
「やることにしたのですか?」
「うん。今は削りたい」
「では、見ていてもよいですか?」
「いいよ」
エレナは椅子へ座ったまま、ユウがベルから道具を借りる様子を見る。
ベルは刃の状態だけ確認してから渡した。
「昨日の続きなら、そこから急に深く取るなよ」
「分かった」
「分かったつもりでやるなよ」
「今の言い方、エレナさんに言ったのと似てない?」
「お前は一回削りすぎてるから念押ししてんだ」
ユウは苦笑し、木片を固定した。
最初の一削りは慎重だった。
刃が木の表面を薄く通り、細い削り屑が作業台へ落ちる。
エレナは、以前ならその一回が成功しただけで安心したかもしれないと思う。
けれど、ユウはすぐ次へ進まず、削った場所を指で確かめている。
ベルも口を挟まない。
二度目は少し短く削る。
三度目で、刃がわずかに深く入った。
「あ」
ユウの手が止まった。
以前削りすぎた場所ほどではない。
それでも、予定より少し深くなったことはエレナにも分かった。
「失敗ですか?」
「たぶん、ちょっと」
ユウは木片を持ち上げる。
ベルが横から見る。
「削ったもんは戻らん」
「うん」
「どうする」
ユウはしばらく木片を見る。
「周りを少し合わせたら変じゃなくなる?」
「やってみてもいい。ただし、直そうとして全部削りすぎるなよ」
「そこが怖いな」
「なら今日はここで止めてもいい」
ユウは道具と木片を交互に見た。
エレナも答えを待つ。
「……今日はここまでにする」
「そうか」
ベルは反対しない。
「疲れたのですか?」
「疲労はまだ一くらい。でも、今直そうとすると、たぶん焦って削りそう」
「では、次にするのですね」
「うん。次見た時に、まだ直したかったら」
ユウは道具をベルへ返す。
削りすぎた部分は残っている。
それでも、今日の作業は終わった。
エレナは木片を見る。
「失敗したまま終わってもよいのですね」
「今日はね」
「気になりませんか?」
「気にはなるよ」
ユウは笑う。
「でも、気になるからって今やらなきゃいけないわけじゃないし」
エレナはその言葉を聞きながら、自分の中に残っているものを思い浮かべた。
気になることなら、いくつもある。
三軒目の家。
妹。
王都。
自分を陥れた人々。
森の向こう。
そして、ユウと一緒にいる時に感じる、まだ名前をつけていない気持ち。
気になる。
知りたい。
けれど、全部を今すぐ答えにしなくてもいい。
◇
昼が近づき、エレナは本を抱えてベルの作業小屋を出た。
ユウも今日は木削りを終えたため、一緒に外へ出る。
「エレナさん、昼はマーサさんのところ?」
「はい。そのつもりです」
「そっか」
「ユウさんは?」
「家で食べようかな」
道が分かれる場所まで歩く。
エレナはそこで足を止めた。
昨日は家まで送ってもらった。
今日は雨も降っていない。
もう少し一緒にいたい気持ちがないわけではない。
けれど、お腹も空いてきた。
「今日は、ここで帰ります」
「うん」
「ユウさん」
「ん?」
「会えて嬉しかったです」
昨日までなら、帰る前にわざわざ口にしなかったかもしれない。
今は言いたかった。
ユウは一瞬だけ驚いた顔をしたあと、柔らかく笑った。
「俺も。会えてよかった」
「では、また会いたくなったら」
「うん。また」
エレナはマーサの家へ向かい、ユウは自分の家へ向かう。
振り返らなくても、それぞれが帰る場所を知っている。
◇
昼食を終えたあと、エレナは借りた本を自室へ戻した。
蝶番のページに挟んでいた紙片を抜く。
もう分からないところがなくなったわけではない。
それでも、最初に疑問だった部分はベルの実物を見て理解できた。
紙片を捨てようとして、少し考える。
別のページでまた使えばいい。
机の端へ置いておく。
午後は何をしようか。
窓から外を見ると、朝より明るい日差しが村へ落ちている。
マーサは布が乾いたら取り込むと言っていた。
手伝うこともできる。
けれど、それまでには時間がある。
(何をしたいでしょう)
本の続きを読む。
散歩する。
マーサと話す。
何もしない。
どれでもいい。
エレナは少し考えたあと、今は横になりたいと思った。
眠いわけではない。
ただ、朝から出歩いたため、少し休みたい。
ベッドへ横になる。
以前なら、昼間に横になることへ抵抗があった。
病気でもない。
疲れ切ってもいない。
それなのに横になる理由がないと思っていた。
今は、休みたいから休む。
目を閉じると、ベルの小屋で木を削っていたユウの姿が浮かぶ。
少し削りすぎたあと、彼は直そうと急がなかった。
気になるまま置いて帰った。
(私も、そうしてよいのですね)
答えが出ていないものを、答えが出ていないまま置いておく。
それは忘れることではない。
逃げることでもない。
また考えたくなった時に考えればいい。
エレナはそのまま目を閉じていた。
◇
眠るつもりはなかったが、少しだけ眠っていたらしい。
目を開けると、窓から入る光の角度が変わっていた。
階下からマーサの声がする。
「エレナ、起きてるかい?」
「はい!」
返事をして起き上がる。
急いで階段を下りると、マーサが裏口の近くに立っていた。
「布乾いたから取り込むけど、手伝うかい?」
朝に話していたことだ。
「はい。手伝います」
「眠かったなら寝ててもいいぞ」
「少し眠りました。今は起きたいです」
「なら頼むよ」
二人で裏へ出る。
紐に掛けられた布は、朝の湿り気が嘘のように乾いていた。
エレナは一枚ずつ外し、端を揃えて腕へ載せる。
「マーサさん」
「何だい?」
「昼間に寝てしまいました」
「見りゃ分かるよ。髪が少し跳ねてる」
エレナは慌てて頭へ手をやる。
「直した方がよいですか?」
「誰に見せるんだい?」
「誰に……」
思わずユウの顔が浮かび、エレナは自分でも分かるほど頬が熱くなった。
マーサが横目で見る。
「何だい、その顔」
「何でもありません」
「そうかい」
マーサは追及しなかった。
そのことに安心したような、少し物足りないような、不思議な気持ちになる。
「……あとで直します」
「好きにしな」
布を取り込みながら、エレナは髪へ触れる。
ユウに会う予定はない。
だから、彼に見せるために整える必要もない。
それでも自分が気になるなら直せばいい。
部屋へ戻ったら鏡を見ようと決めた。
◇
その頃、ユウは自宅で昼食の片づけを終えたあと、机の上の木片を見ていた。
削りすぎた場所は、小さな窪みとして残っている。
ベルのところでは、次に見た時にまだ直したければ直そうと思っていた。
今見ると、やはり少し気になる。
ただし、今すぐ刃を持ちたいほどではない。
ユウは木片を机の端へ置く。
「明日でもいいか」
口にしてみると、それで終われた。
代わりに何をしようか考えた時、エレナの顔が浮かぶ。
ベルの小屋で会ったばかりだ。
昼前に別れた。
それでも、もう一度会いたいかと自分へ聞いてみる。
(会いたい……かな)
はっきりしている。
けれど、だからすぐ会いに行くべきかは別だった。
エレナは昼食後に何かしているかもしれない。
休んでいるかもしれない。
マーサと出かけているかもしれない。
行って、いなければ帰ればいい。
寝ているなら邪魔せず帰ればいい。
それだけだ。
ユウは家を出た。
◇
布を取り込み終えたエレナが自室で髪を整えていると、階下からマーサの声がした。
「エレナ、客だよ」
「はい」
誰だろうと思いながら階段を下りる。
戸口にユウが立っていた。
その姿を見た瞬間、エレナの足が一段だけ止まる。
「ユウさん」
「こんにちは」
「こんにちは。どうしたのですか?」
聞いてから、以前自分が彼の家を訪ねた時と同じ問いだと気づく。
ユウも少しだけ困ったように笑った。
「用事はないんだけど」
エレナの胸が小さく跳ねる。
「では……」
「会いたくなったから来た」
その言葉は、特別に飾られたものではなかった。
声も普段と大きく変わらない。
それなのに、エレナはすぐに返事ができなかった。
胸の奥から熱が広がり、さっき整えたばかりの髪へ触れそうになった手を、途中で止める。
(嬉しいです。とても)
朝にも会った。
一緒にベルのところにいた。
別れてから、それほど時間は経っていない。
それでもユウは、もう一度会いたいと思ってここへ来た。
「……私も、会えて嬉しいです」
ようやく言葉にすると、ユウの表情が少し和らいだ。
「よかった」
マーサは二人の間を一度だけ見たあと、戸を大きく開ける。
「立ち話するなら外でしな。入るなら入んな」
「お邪魔していい?」
「エレナに聞きな」
マーサはそう言って台所へ戻った。
エレナはユウを見る。
「入ってください」
「うん」
ユウが家の中へ入る。
◇
特にすることはなかった。
それでも、エレナはユウと向かい合って座る。
マーサが茶だけ置き、そのまま自分の作業へ戻った。
「木は削らないのですか?」
エレナが尋ねる。
「今日はもういいかな」
「気になると言っていたところは?」
「まだ気になる。でも今はやりたくない」
「それで、私に会いに来たのですか?」
「うん」
ユウは茶を一口飲む。
「木を削るより、エレナさんに会いたかったから」
今度こそ、エレナは完全に言葉を失った。
ユウ自身も口にしたあとで少し恥ずかしくなったらしく、視線を茶へ落としている。
「……何か変な言い方した?」
「いいえ」
エレナは首を振る。
「嬉しいです」
「そっか」
「はい」
それ以上の言葉が必要なのか分からない。
けれど、沈黙は苦しくなかった。
窓の外から鶏の声が聞こえる。
マーサが奥で何かを畳む音もする。
ユウは茶を飲み、エレナも同じように茶を飲む。
何かをするために会ったわけではない。
だから、話題が途切れても失敗ではない。
しばらくして、エレナが口を開いた。
「ユウさん」
「ん?」
「今日は、朝にも会いましたね」
「うん」
「それでも、また会いたくなったのですか?」
「なったね」
「なぜでしょう」
問いかけたあと、エレナは少しだけ息を止めた。
ユウもすぐには答えない。
「分かんない」
「分からない?」
「うん。エレナさんと話したいとか、一緒にいると楽とか、そういうのはあるけど」
ユウは少し考え、続ける。
「それを全部足したから会いたくなった、って感じでもないんだよね」
エレナは黙って聞く。
「会いたくなったから来た。それ以上は、まだ分かんない」
その答えは、曖昧だった。
けれど、エレナは嫌ではなかった。
「私も、分かりません」
「何が?」
「ユウさんに会えると嬉しい理由です」
自分の胸元へ手を置く。
「安心するからかもしれません。一緒にいると楽しいからかもしれません。話を聞いてほしい時もあります。でも、何も話すことがなくても会いたい時があります」
「うん」
「全部を足せば答えになるのでしょうか」
「どうだろうね」
「今は、分からなくてもよいですか?」
ユウは少し笑った。
「俺に聞く?」
「ユウさんも分からないと言ったので、ちょうどよいかと」
「それなら、俺は分からないままでいいと思う」
「私も、そう思います」
二人はまた茶を飲む。
まだ名前をつけない。
けれど、何もないわけでもない。
その間にあるものを、急いでどちらかへ決めなくてもいい。
◇
台所から二人を見ていたマーサは、畳んだ布を棚へしまいながら小さく息を吐いた。
少し前のエレナなら、「なぜ」と聞いたあと、答えが出るまで考え続けていただろう。
自分がどう見られているのか、何を期待されているのか、正しい返事は何なのかを探し、分からないことそのものに怯えていた。
今は、分からないと二人で言っている。
それでいて、不安そうではない。
ユウの方も似たようなものだった。
村へ来た頃から他人の様子にはよく気づくくせに、自分のこととなると後回しにしがちな男だった。最近は疲れたか、やりたいか、会いたいかを自分へ聞くようになり、その答えを以前より素直に口へ出している。
マーサには、二人の間に何が育ち始めているのかくらい見当がつく。
けれど、わざわざ名前を教えてやる必要はない。
(自分らで分かるまで、好きにやりゃいいさ)
そう思い、マーサは次の布を手に取った。
◇
ユウは夕方になる前に帰ることにした。
エレナは戸口まで見送る。
「今日は、来てくれてありがとうございました」
「うん」
「また、会いたくなったら来てください」
「エレナさんもね」
「はい」
そこでユウが少し考える。
「でも、来た時に今日は一人でいたいって思ってたら、言ってね」
「一人でいたい?」
「会いたい時に来ていいって言っても、いつでも絶対会わなきゃいけないってなると嫌でしょ」
エレナは目を瞬いた。
自分が会いたい。
相手は一人でいたい。
その二つが同時に起こることもある。
「その場合、断ってもよいのですね」
「もちろん」
「ユウさんも?」
「俺も今日は一人がいいって言うかもしれない」
「その時は、私は嫌われたと思わなくても?」
「思わないでほしいかな」
ユウは少し困ったように笑う。
「一人でいたいのと、嫌いなのは別だから」
エレナはゆっくり頷いた。
「分かりました。私も、そうします」
「うん」
「でも、今日は来てくれて嬉しかったです」
「俺も来てよかった」
二人は笑い合う。
ユウが歩き出したあと、エレナは少しだけその姿を見送った。
今度も最後まで見続けることはしない。
彼が角を曲がる前に家の中へ戻った。
◇
夜になり、エレナは記録帳を開いた。
朝から起きたことをすべて書く必要はない。
それでも、今日は残したいことが多かった。
『朝、すぐにベルさんのところへ行かず、家の前で座っていた。座っていたかったから。あとで本を持ってベルさんのところへ行き、蝶番について教えてもらった。』
『本に書いてあることは基本として役に立つが、実物が全部同じ状態ではない。ベルさんは、全部自分でできるようになる必要もないと言った。私は修理を見たかったので見たが、自分でやってみたいとは思わなかった。』
次に、ユウの木削りについて書く。
『ユウさんは昨日、家で少しだけ木を削った。今日はベルさんのところで続きをしたが、少し深く削りすぎた。直そうとしてさらに削りすぎそうだから、気になるまま止めた。疲れていなくても、今は止めると決めた。』
エレナは筆を置き、少しだけ頬へ触れる。
この次を書くのは、まだ少し恥ずかしい。
それでも書きたい。
『午後、ユウさんが会いに来た。朝にも会っていたが、また会いたくなったと言った。木を削るより、私に会いたかったと言ってくれた。』
文字にすると、胸の奥がまた温かくなる。
『私は、とても嬉しかった。』
理由は書けない。
分からないからだ。
『なぜ会いたいのか、二人ともまだよく分からない。ユウさんは、話したい、一緒にいると楽しい、という理由はあるが、それを全部足したからではない気がすると言った。私も同じだった。何も話すことがなくても、ユウさんに会いたい時がある。』
そこでエレナは長く考えた。
以前なら、ここに答えを書こうとしただろう。
これは友情なのか。
恩なのか。
安心なのか。
別の何かなのか。
けれど、今夜は空欄のままでいい。
『今は、名前を決めなかった。』
最後に、別れ際の会話を書く。
『会いたくなったら会いに行ってよい。ただし、相手がその時一人でいたいなら断ってよい。一人でいたいことと、嫌いなことは別だとユウさんが言った。私もそうする。』
そこまで書き終えると、エレナは記録帳を閉じた。
窓の外は静かだった。
東の警戒線が鳴ったという知らせは今日もなく、三軒目の家について新しい返事も届いていない。妹が今どこで何をしているのかも、王都で自分の名がどう扱われているのかも、森の向こうに何があるのかも分からないままだ。
それでも今日、新しく分かったことはある。
分からないものを、分からないと言ってよい。
気になるものを、今すぐ直さなくてもよい。
会いたい相手へ会いに行ってもよい。
そして、会いたい理由まで、その日のうちに決めなくてもよい。
(ユウさんは、私に会いたくなって来てくれました)
思い出すだけで、また嬉しくなる。
エレナは灯りを消し、寝台へ横になった。
その嬉しさにまだ名前はなかったが、名前がないからといって、胸の中にあるものまで曖昧になるわけではなかった。




