第66話 途中で決める
朝食を終えたエレナが食器を片づけていると、開けていた窓から少し湿った風が入り、台所に残っていた湯気をゆっくり外へ運んでいった。空には昨日より厚い雲が広がっているものの、雨の匂いはまだ遠く、村道には朝の仕事へ向かう人の姿がぽつぽつと見えている。
マーサは使い終えた鍋を水へ浸しながら窓の外を眺め、今日は昼過ぎまで降らないだろうと呟いた。エレナには雲の厚さくらいしか分からなかったため、どうしてそう思うのか尋ねると、マーサは風の向きと雲の流れ、それから朝の空気の湿り方を理由として挙げた。
「でも、外れる時もあるよ。空なんて、こっちの都合に合わせてくれるわけじゃないからね」
「では、雨が降る可能性もあるのですね」
「そりゃあるさ。出かけるなら、濡れたくない物だけ持たなきゃいい」
雨が降るかもしれないから外出をやめるのでも、降らないと決めつけて何の備えもしないのでもない。分からないものは分からないまま、その時に困らない程度のことだけ考えておけばよいらしい。
エレナは洗った器を布で拭きながら、窓の向こうへもう一度目を向けた。
「今日は、何かすることがありますか?」
「今のところはないね。昼から雨が降ったら、外へ出してる物を少し入れるかもしれないけど、その時はあたしがやるよ」
「私がいたら手伝っても?」
「いたら頼むかもしれないね。いなきゃ一人でやるさ」
マーサの返事を聞いて、エレナは手にしていた器を棚へ戻した。自分が家にいることを前提に仕事が組まれているわけではなく、必要な時にそこにいれば手伝い、いなければマーサが別の方法で済ませるだけなのだ。
(それなら、今から何をするかは私が決めてよいのですね)
そう考えたものの、今朝もすぐにはしたいことが浮かばなかった。
昨日は家の前で座っているうちにユウが通りかかり、そこから一日が動き始めた。今日は同じように待つ必要もなければ、昨日と違うことをしなければならない理由もない。
エレナはしばらく考えたあと、まず借りた本を少し読もうと決めた。
◇
自室へ戻ったエレナは、『暮らしの小さな工夫』を机ではなく窓際の椅子へ持っていった。
今日は風が穏やかなので、マーサから教わった通り雨の入りにくい側の窓を少しだけ開けている。ページが勝手にめくれるほどの風ではなく、紙の端が時折かすかに揺れる程度だった。
昨日読んだ古い木製家具の手入れについての続きには、蝶番や留め具の確認方法が簡単な絵とともに載っていた。
エレナは文章を読み、分からない部分では少し戻る。
一度読んでも理解できなければ、もう一度読む。二度でも分からなければ、知っていそうな人に聞けばいい。
以前なら、一度読んだ文章を理解できないこと自体に焦りを覚えていただろう。教師の説明を妹が一度で覚えてしまう横で、自分は何度も復習しなければ同じところへ届けなかったからだ。
けれど、今は読み返すことを恥ずかしいとは思わない。
それどころか、分からない箇所へ紙片を挟み、あとでマーサかベルに聞いてみようと思えるようになった。
「……これは、ベルさんでしょうか」
蝶番についてなら、マーサよりベルの方が詳しいかもしれない。
だからといって、今すぐ聞きに行く必要はない。
次に会った時でもいいし、その前に興味を失ったなら聞かなくてもいい。
エレナは紙片を挟み、続きを読んだ。
しばらくすると、家の外から子どもの声が聞こえた。
「エレナー!」
窓から下を見ると、ニコが家の前に立っている。
「少し待ってください。今、下ります」
本へ栞を挟んで閉じると、エレナは階下へ向かった。
◇
外へ出ると、ニコは何か言いたくて仕方がないらしく、エレナが戸を閉めるのを待ってから身を乗り出した。
「昨日、虫見たんだって!」
「はい。ユウさんと一緒に見ました」
「板の下?」
「少しだけ入って、反対側から出ていきました。ただ、影が好きだったのか、たまたま通っただけなのかは分かりません」
ニコは一瞬だけ考え込んだものの、すぐに笑った。
「じゃあ今日も置いとく!」
「場所は変えないのですか?」
「うん。もう一回来るか見たい」
「よいと思います」
「エレナも見る?」
昨日も似たような誘いを受けた。
エレナはすぐに返事をせず、自分が今どうしたいのか確かめてみる。読みかけの本へ戻ることもできるが、虫道へ行くのも楽しそうだった。
「今からですか?」
「うん!」
「では、行きます」
答えてから、エレナは家の中へいるマーサへ声をかけた。
「ニコと虫道へ行ってきます」
「昼飯までには戻るのかい?」
台所から声が返る。
空を見れば、まだ昼までは時間がある。
「はい。そのつもりです」
「分かったよ。雨降りそうなら早めに戻んな」
「はい」
エレナはニコと並んで歩き出した。
◇
虫道へ着くと、昨日と同じ場所に小さな板が置かれていた。
板の下には薄い影ができているものの、黒い虫の姿はない。ニコはすぐにしゃがみ込み、板の周囲だけでなく、小石や草の根元まで注意深く見始めた。
「いませんね」
「まだ来てない」
「待ちますか?」
「ちょっと待つ」
ニコがそう決めたので、エレナも近くの乾いた場所へ腰を下ろした。
虫が来る保証はない。
昨日は夕方に現れたのだから、朝の今は来ないかもしれない。それでも、ニコが少し待ちたいのなら、その時間に付き合うことを自分も選んだ。
しばらくすると、ニコが草を一本抜こうとして手を伸ばした。
しかし、途中で止める。
「どうしましたか?」
「これ抜いたら、虫の道変わるかな」
「分かりませんね」
「じゃあやめる」
ニコは手を引っ込めた。
エレナはその横顔を見る。
「以前なら抜いていましたか?」
「分かんない」
「そうですか」
「邪魔かなって思ったけど、虫には邪魔じゃないかもしれないし」
ニコは難しいことを言っているつもりではないらしく、すぐ別の場所へ視線を移した。
人間から見れば道の真ん中に生えている草でも、小さな虫にとって何なのかは分からない。だから、困っていると分かるまでは変えないというだけなのだろう。
エレナも虫道を見る。
自分がここへ来たばかりの頃なら、もっと整えた方がよいと考えていたかもしれない。
真っ直ぐな道にして、余計な草を抜き、通りやすそうな形へ揃える。
けれど、それは人間が考える「通りやすそう」だ。
「ニコ」
「なに?」
「この道は、完成するのですか?」
ニコが顔を上げた。
「完成?」
「はい。ここまで作れば終わり、という場所がありますか?」
「ないよ?」
あまりにも簡単に返されたため、エレナは少し驚いた。
「ないのですか?」
「だって虫がどこ行くか分かんないもん。こっち行ったらこっち見るし、草行ったら草見る」
「では、ずっと途中なのですね」
「うん」
ニコは再び地面へ顔を近づける。
「でも楽しいよ」
エレナはその言葉を聞きながら、口元を緩めた。
途中であることと、楽しくないことは同じではない。
それは最近、自分が少しずつ覚えてきたことだった。
◇
黒い虫は結局現れなかった。
ニコはしばらく待ったあと、立ち上がって膝についた土を払う。
「今日はもういい」
「待たなくてよいのですか?」
「うん。お腹減った」
明快な理由だった。
「では、帰りましょうか」
「エレナも帰る?」
「私は……」
エレナは立ち上がりながら空を見る。
家へ帰って本を読むこともできる。
けれど、今は少し歩きたい。
「私は、もう少し散歩をしてから戻ります」
「じゃあまたね!」
「はい。また」
ニコは村の中心へ向かって走っていった。
エレナはその背中を見送ってから、反対方向へゆっくり歩き始めた。
◇
行き先は決めなかった。
畑の間を通る細い道を歩き、時折足を止めて育っている野菜を見る。誰かの畑へ勝手に入ることはせず、道から見える範囲だけを眺めながら進んでいると、昨日支柱を立てた豆が見えてきた。
ガルドの姿はない。
支柱に緩く結ばれた茎は昨日とほぼ同じ角度で立っており、葉が地面へ落ちている様子もなかった。
「大丈夫そうですね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
もちろん、自分には本当に大丈夫なのか判断できない。
見たところ昨日より悪くなってはいない、という程度だ。
エレナは畑へ入らず、そのまま通り過ぎた。
少し先へ進むと、道の向こうからユウが歩いてくる。
手には何も持っていなかった。
「エレナさん」
「ユウさん。おはようございます」
「おはよう。散歩?」
「はい。ニコと虫道を見たあと、もう少し歩きたくなりました」
「虫いた?」
「今日は来ませんでした。ニコはお腹が空いたので帰りました」
「そっか」
「ユウさんは?」
「散歩」
エレナは少し笑った。
「同じですね」
「たぶん」
「どこへ行く予定ですか?」
「決めてないよ。家出てから考えようと思って」
「私も今、行き先を決めていません」
二人は道の真ん中で向き合う。
少し前までなら、どちらかに用事がなければ、挨拶をして別れていたかもしれない。
今日はエレナの方から尋ねた。
「一緒に歩きますか?」
ユウは少しだけ目を見開いたあと、すぐに頷いた。
「うん。歩こうか」
「どちらへ?」
「それも決めてない」
「では、途中で決めましょう」
二人は並んで歩き始めた。
◇
村の西側へ向かう道をしばらく進むと、小さな分かれ道が現れた。
一方は井戸の近くへ続き、もう一方は村の外れにある低い丘の方へ続いている。どちらにも急いで向かう理由はなく、エレナとユウは自然に足を止めた。
「どっちにする?」
ユウが聞く。
エレナは二つの道を見比べる。
「ユウさんは、どちらへ行きたいですか?」
「丘の方かな。今日は暑くないし」
「では、私も丘へ行きたいです」
「俺に合わせてない?」
問われたエレナは、すぐには答えなかった。
以前なら「はい」と言っていたかもしれない。
相手が望む方へ合わせることを当然と考え、それを自分の希望と区別しようともしなかった。
今は一度、自分へ尋ねられる。
(私は、どちらへ行きたいのでしょう)
井戸の方へ行っても構わない。
けれど、今朝は薄曇りで歩きやすく、丘の上から村を見るのも楽しそうだった。
「私も丘へ行きたいです」
今度は、はっきり答える。
「ユウさんが言ったからではなく、考えてみても丘でした」
「そっか。じゃあ丘にしよう」
「はい」
進む道が決まった。
それだけのことなのに、エレナは少し嬉しかった。
◇
低い丘までは、ゆっくり歩いてもそれほど時間はかからなかった。
村を囲むように続く草地の一部が緩やかに高くなっているだけで、山と呼ぶほどの場所ではない。頂上近くには腰ほどの高さの草が広がり、その間に人が何度も通ったことでできた細い踏み跡が残っていた。
ユウは足元を見ながら歩き、湿って滑りやすそうな場所だけ避けて進む。エレナも後ろをついていくのではなく、自分で足場を確認しながら隣を歩いた。
「ここ、来たことありますか?」
「何回か。別に何かあるわけじゃないけど」
「それなら、なぜ来たのです?」
「村見えるから」
頂上近くまで来ると、その意味が分かった。
高い場所ではないが、建物の屋根や畑、村道が普段とは少し違う角度から見える。マーサの家も、ユウの家も、ベルの家も、どれがどれなのか知っていれば見つけられる程度には近かった。
「小さいですね」
「村?」
「はい」
三十人ほどが暮らす村なのだから、当然と言えば当然だ。
それでも、道の上から見る時よりさらに小さく感じる。
エレナはしばらく眺めてから、少し離れた場所に見える三軒目の家を探した。
「あれでしょうか」
「どれ?」
「あの屋根です。少し色が違うところ」
ユウも視線を向ける。
「たぶんそうだね」
「ここからも見えるのですね」
「近いからね」
エレナは家を眺める。
今すぐ自分の家になるわけではない。
昔の工房親方へ話を聞いてもらうところまで進んでいるものの、エルドの居場所も、誰が使用を認められるのかも分かっていない。
それでも、以前より少しだけ近づいた。
「返事、気になる?」
ユウが隣から尋ねる。
「はい。気になります」
エレナは迷わず答えた。
「早く知りたいとも思います。でも、昨日はローデンさんを呼ぶ声が聞こえても、見に行きませんでした」
「何で?」
「その時は本を読みたかったからです」
「そっか」
「気にならなくなったわけではありません」
「うん」
「待てるようになったから、欲しくなくなったわけでもありません」
自分で口にして、エレナは少しだけ驚いた。
待つことと、諦めることは違う。
返事を急かさないことと、その家に住みたい気持ちが弱くなることも違う。
「私は、あの家に住みたいです」
丘から見える小さな屋根へ視線を向けたまま、エレナは続ける。
「でも、今すぐでなくても大丈夫です。きちんと確認して、使ってよいと分かってから入りたいです」
「うん」
「待っている間に、別のことをしていてもよいのだと思えるようになりました」
ユウはしばらく黙っていた。
エレナが横を見ると、彼は村を眺めている。
「俺も、その方がいいと思う」
「家のことですか?」
「家もだけど、待ってる間のこと」
ユウは草の上へ腰を下ろす前に湿り具合を手で確かめ、乾いている場所を選んだ。エレナも隣へ座り、二人の間には手のひら二つ分ほどの距離が残る。
「何か待ってる時って、それだけになりやすいから」
「ユウさんにも、そういうことがありましたか?」
「前の仕事でね。検査の結果とか、家族からの返事とか、病院からの連絡とか。待たないと進まないこと結構あったよ」
「その間は、どうしていたのです?」
「他の仕事」
ユウは苦笑する。
「いっぱいあったから」
「それは、今とは少し違いますね」
「全然違うね。あの頃は待ってる間に休むって感じじゃなかった」
エレナは膝の上で指を組む。
ユウの以前の仕事について聞くたび、誰かを助けることそのものより、その周囲にある仕事の多さが彼を疲れさせていたのだと分かる。
「今は?」
「今は、待ってるなら待ってるでいいかな。返事が来たら、その時考える」
「私もそうしたいです」
エレナは村を見下ろした。
小さな三軒目の家は、ここからでは窓の形さえはっきり見えない。
それでも、そこにあることは分かる。
◇
二人はしばらく丘の上に座っていた。
風が吹くたびに草が一方向へ倒れ、少し遅れて元へ戻る。遠くでは畑を歩く人影が見えたが、誰なのかまでは分からなかった。
「ユウさん」
「ん?」
「この村に来た時、ここへ住み続けるつもりだったのですか?」
エレナの問いに、ユウはすぐには答えなかった。
「最初からずっと?」
「はい」
「そこまでは決めてなかったかな」
「そうなのですか?」
「静かなところに住みたいとは思ってたけど、来る前から一生ここって決めてたわけじゃないよ」
エレナは少し意外に思う。
今のユウは、この村で暮らすことをあまりにも自然に受け入れているように見えたからだ。
「では、いつ決めたのです?」
「決めた日って、たぶんない」
「ない?」
「気づいたら、ここでいいかなって思ってた」
ユウは村を見ながら、ゆっくり言葉を探す。
「最初は休めればよかったし、面倒なことに巻き込まれたくなかった。でも、ガルドさんに畑呼ばれたり、オルドさんの鶏見たり、ベルさんに物直してもらったりしてるうちに、ここ出て別の場所探す理由がなくなったんだと思う」
「住む理由ができたのではなく?」
「それもあるかもしれないけど」
ユウは少し考える。
「理由を並べて決めた感じじゃないんだよね」
エレナはその言葉を胸の中で繰り返した。
自分は三軒目の家に住みたい理由をいくつも挙げられる。
村の人たちがいる。
マーサの家から遠くない。
ユウもいる。
自分で暮らしを作ってみたい。
王都ではなく、エレナとして生きられる場所がほしい。
けれど、理由をすべて説明できなければ選んではいけないわけではないのかもしれない。
「私は、この村にいたいです」
「うん」
「理由もあります。でも、全部を言葉にできる気はしません」
「いいんじゃない?」
「はい」
以前なら、自分の選択を認めてもらうために、誰もが納得できる理由を揃えようとしただろう。
今は、自分がここにいたいと思っていること自体を、理由の一つとして扱ってもよい気がした。
◇
やがて風が少し冷たくなった。
エレナが空を見ると、雲が朝より濃くなっている。
「雨が近いでしょうか」
「たぶん。帰る?」
ユウが尋ねる。
エレナはもう少しここにいたいかどうかを確かめた。
「帰りたいです」
「じゃあ帰ろう」
二人は立ち上がり、服についた草を払った。
丘を下り始めて間もなく、エレナの頬へ冷たいものが一滴だけ触れた。
「降りました」
「まだ一滴だけだけどね」
「マーサさんの予想は当たりそうです」
「急ぐ?」
ユウの問いに、エレナは空と村までの距離を見る。
走らなければならないほどの雨ではない。
「今は歩きます。強くなったら急ぎたいです」
「分かった」
二人は歩く速度を少しだけ上げた。
ぽつり、ぽつりと落ち始めた雨は、すぐには強くならない。
エレナは濡れたくない物を持っていないため、それほど焦らずに済んだ。
「朝、マーサさんが言っていました」
「何て?」
「雨が降るかもしれない日に出かけるなら、濡れたくない物だけ持たなければよいと」
「傘とかないもんね」
「傘?」
エレナが首を傾げる。
「あ、俺のいたところの道具。雨よけ」
「便利なのですか?」
「便利だけど、風強いと面倒」
「魔導書庫にありますか?」
「あるかもしれないけど、今は別に出さなくてもいいかな」
ユウは空を見上げる。
「村だと、雨強かったら近い家に入れてもらうこともあるし」
「誰の家でも?」
「誰でもってわけじゃないけど、知ってる人ならね」
話している間にも、雨粒が少し増えた。
それでも二人は走らず、滑らないよう足元を見ながら村へ戻った。
◇
村の中心近くまで来たところで、雨が一段強くなった。
「エレナさん、マーサさんの家まで行ける?」
「行けますが、少し濡れそうですね」
ちょうど近くにベルの作業小屋がある。
戸は開いており、中から木を削る音が聞こえていた。
「ベルさんのところ、入れてもらう?」
「聞いてみましょうか」
二人は軒下まで移動した。
「ベルさん」
ユウが声をかけると、作業台の奥からベルが顔を上げた。
「何だ。雨宿りか」
「うん。ちょっと入っていい?」
「濡れた足で木屑踏み荒らさなきゃな」
「ありがとうございます」
エレナも礼を言い、靴の泥を軒先でできるだけ落としてから中へ入った。
作業小屋には乾いた木の匂いが満ちており、壁際には板材や道具が整然と並んでいる。外の雨音が屋根を細かく叩き始めると、さっきまで聞こえていた木を削る音は完全に止まった。
「結構降ってきたね」
「すぐ止むかもしれんし、しばらく降るかもしれん」
ベルは作業台の上を片づける。
「天気は俺に聞くな」
「聞いてないよ」
「顔が聞いとった」
ユウが苦笑する。
エレナは小屋の奥に見覚えのある木片を見つけた。
「ユウさんが練習しているものですか?」
「いや、あれはベルさんのじゃない?」
「俺のだ」
ベルが答える。
「今日は何を作っているのです?」
「棚の留め具」
エレナは朝読んだ本を思い出した。
「ベルさん、蝶番について聞いてもよいですか?」
「何だ急に」
「借りている本に、蝶番や留め具を確認する方法が書かれていたのですが、分からないところがありました」
「本持ってんのか?」
「今日は持っていません」
「なら次に持ってこい。文章だけ聞いても分からん」
「はい」
それで話は終わった。
エレナは、今ここで全部教えてもらわなくてもよいことを自然に受け入れられた。
◇
雨はすぐには止まなかった。
ベルは作業を再開し、ユウとエレナは邪魔にならない壁際の椅子へ座る。
しばらくすると、ベルが木材へ小さな金具を合わせながらユウへ声をかけた。
「今日は削らんのか」
「今日は散歩してた」
「そうか」
「それだけ?」
「何がだ」
「いや、昨日も削らなかったから」
「お前が作りたいんだろ。俺が急いでどうする」
ベルは視線も上げずに答える。
ユウは少し笑った。
「それもそうだね」
「ただ、忘れたら最初から教えるぞ」
「忘れても教えてくれるんだ」
「面倒だから忘れるな」
「どっち?」
「できれば覚えとけってことだ」
エレナは二人のやり取りを聞きながら笑う。
「ベルさん」
「何だ」
「ユウさんが来るのを待ってはいないのですよね?」
「何で俺が毎日待つんだ」
「以前もそう言っていました」
「なら聞くな」
「でも、来なくなったらどうしますか?」
ベルの手が一度止まった。
ユウも少しだけ姿勢を変える。
エレナは、聞いてはいけないことだっただろうかと思ったものの、ベルはすぐ作業へ戻った。
「来なくなった理由によるな」
「理由?」
「飽きたならそれで終わりだ。別のことやりたくなったなら、そっちやりゃいい。体壊したとか、やりたいのに来られんってんなら様子見に行く」
ベルは金具の位置を確かめながら続ける。
「やめたくてやめた奴を追っかけて、無理に続けさせてもしょうがないだろ」
ユウが黙ってベルを見る。
「何だ」
「いや。ベルさん、そういうこと考えてたんだなって」
「お前は俺を何だと思ってる」
「木を削ってる人」
「帰れ」
「雨降ってるからもうちょっといさせて」
「なら黙って座っとけ」
ベルは不機嫌そうに言ったが、本当に追い出すつもりはないらしい。
エレナは笑いながら、ベルの横顔を見る。
来ることを義務にはしない。
やめたいなら追わない。
けれど、やりたいのに来られない事情があるなら、様子を見に行く。
同じ「来ない」でも、その理由によって違うのだ。
◇
ベルから見れば、ユウは以前より少しだけ分かりやすくなった。
最初の頃は何かを頼めば大抵引き受け、できることなら先に手を出すくせに、疲れているかと聞けば平気だと言う男だった。最近は「今日はやらない」「ここまでにする」と自分から言うことが増え、昨日も木を削らず釘だけ置いて帰っていった。
それで困ることはない。
ベルが教えているのは仕事ではなく、ユウが自分で作りたいと言った椅子のための練習なのだから、本人が来ない日にまで進める理由はなかった。
そのユウの隣には、エレナが座っている。
こちらも村へ来たばかりの頃とは随分変わった。
何かを頼まれるのを待つように周囲を見ていた娘が、今では虫を見たり、本を読んだり、用もないのにユウと歩いたりしている。今日だって二人とも何かの仕事で一緒にいるわけではなく、散歩の途中で雨に降られて転がり込んできただけだ。
(まあ、いい顔するようになったな)
ベルはそれ以上考えず、ずれていた金具を指で直した。
二人がどういう関係になるのかは、本人たちが決めればいい。
少なくとも、ユウが毎日木を削らなくなったことも、エレナが毎日何か役に立とうとしなくなったことも、ベルには悪い変化には見えなかった。
◇
しばらくすると、屋根を叩いていた雨音が弱くなった。
ユウが戸口から外を覗く。
「これなら帰れそう」
「また強くなるかもしれんぞ」
ベルが言う。
「その時はその時かな」
「転ぶなよ」
「分かってる」
エレナも立ち上がる。
「ありがとうございました、ベルさん。次に本を持ってきてもよいですか?」
「いいぞ。蝶番のところだろ」
「はい」
「実物見せた方が早いかもしれんな」
「楽しみにしています」
「期待するほど面白くないぞ」
「それは見てから決めます」
エレナがそう返すと、ベルは一瞬だけ目を丸くしたあと、口元をわずかに緩めた。
「そうしろ」
二人は礼を言って小屋を出た。
◇
雨上がりの村道は色が濃くなっていた。
土の匂いが強く、屋根の端からはまだ細い水滴が落ちている。雲の切れ間から明るい場所も見え始めているため、このまま止むのかもしれない。
「マーサさんの家まで送る?」
ユウが尋ねる。
エレナは一度考える。
ここからなら一人で帰れる。
危険な道でもない。
けれど、一緒に歩いて帰りたい気持ちもある。
「送ってほしいです」
「うん」
「ただ、危ないからではありません」
「分かってるよ」
「一緒に帰りたいからです」
言葉にすると、やはり少しだけ頬が熱くなる。
それでも取り消そうとは思わなかった。
ユウはすぐには返事をしなかったが、困った顔もしない。
「俺も、もう少し一緒に歩きたいかな」
その答えを聞いた瞬間、エレナの胸の奥が温かくなった。
「では、一緒ですね」
「うん」
二人は水たまりを避けながら、マーサの家へ向かった。
◇
家の前まで来ると、マーサが軒下で雨に濡れた布を確認していた。
「あら、帰ってきたかい」
「ただいま戻りました。途中で雨が強くなったので、ベルさんのところで雨宿りをしていました」
「そうかい。ユウも一緒だったのか」
「うん。散歩の途中で会って、そのまま一緒に歩いてた」
マーサは二人を順番に見る。
「濡れなかったかい?」
「少しだけです」
「なら中で拭きな。ユウも入るかい?」
ユウは空を見る。
雨はほとんど止んでいる。
「俺は帰ろうかな」
「分かったよ」
マーサはそれ以上引き止めなかった。
エレナも、ユウが帰ると言ったことに寂しさを覚えないわけではない。
けれど、今はその気持ちだけで彼を引き止める必要はないと思えた。
「ユウさん」
「ん?」
「今日は、ここまでで大丈夫です」
「そっか」
「でも、一緒に歩けて嬉しかったです」
「俺も楽しかったよ」
「また歩きたいです」
「うん。歩こう」
次の日付は決めない。
何時に、どこへ行くかも決めない。
それでも「また」があることを、今のエレナは信じられる。
「では、また」
「またね」
ユウが村道を歩いていく。
エレナは数歩だけその背中を見送ったあと、最後まで見届けようとはせず、マーサと一緒に家の中へ入った。
◇
「で、散歩はどこまで行ったんだい?」
布で髪の水気を拭きながら、マーサが尋ねる。
「西側の低い丘まで行きました」
「ずいぶん歩いたね」
「はい。上から村を見ました。三軒目の家も見えました」
「そうかい」
「小さかったです」
「そりゃ遠くから見りゃ小さいだろ」
「村全部が、です」
エレナは濡れた外套を椅子へ掛けず、マーサに教わった場所へ広げて干す。
「私は、あの村にいたいのだと思いました」
マーサの手が少しだけ止まった。
エレナは続ける。
「三軒目の家に住みたいです。でも、返事を待っている間も、私はここで暮らしているのですよね」
「そうだね」
「待っている間を、ただ返事が来るまでの時間だと思わなくなりました」
虫を見て、本を読み、ユウと歩き、雨に降られてベルのところで休んだ。
三軒目の家について何も進んでいない日にも、自分の暮らしは進んでいる。
「いいんじゃないかい」
マーサはそれだけ言った。
大げさに褒めることも、何かを教えるように説明することもしない。
エレナには、その返し方が心地よかった。
◇
昼食の後、エレナは午前中に途中まで読んでいた本を開いた。
蝶番の項目には紙片が挟まれている。
ベルへ聞く約束ができたため、今は分からないまま先へ進むことにした。
何ページか読むと、今度は小さな収納箱についての記述が出てきた。壊れた箱を修理する方法ではなく、中身に合わせて仕切りを変える簡単な工夫が紹介されている。
エレナは自分の部屋を思い浮かべた。
持ち物はまだ多くない。
追放された時に持たされた荷物と、村へ来てから少しずつ増えた物がある程度だ。
三軒目の家へ住めることになったら、必要な物は増えるだろう。
食器。
布。
調理道具。
本を置く場所。
以前なら、必要になるものを今から一覧にして準備し始めたかもしれない。
エレナはそこまで考えたところで、手を止めた。
(まだ、住めると決まっていません)
だから考えてはいけない、という意味ではない。
想像するのは楽しい。
ただ、今日すべて決める必要はない。
「本棚は、ほしいですけれど」
小さく呟いて、笑う。
それだけ覚えておけば、今は十分だった。
◇
午後遅く、戸を叩く音がした。
エレナは階下へ下りたが、マーサの方が先に戸を開けている。
外に立っていたのはローデンだった。
エレナの胸が一瞬だけ強く鳴る。
三軒目の家について何か届いたのかもしれない。
けれど、ローデンの手には紙も荷物もない。
「マーサ、ちょっと聞きたいんだが、明日か明後日、共同の干し場使うか?」
「今んとこ予定ないね。何でだい?」
「屋根の端を見たいってベルが言っててな。使わない日なら少し上がるそうだ」
「ああ、それなら好きに見てもらっていいよ」
「分かった」
それだけの用事だった。
ローデンが帰ろうとしたため、エレナは少し迷ってから声をかける。
「ローデンさん」
「ん?」
「三軒目の家については、まだ新しい知らせはありませんか?」
「ああ。まだだ」
ローデンは曖昧にせず答えた。
「ゼムのところから次が来るなら、早くてももう少しかかると思う。親方のところへ行く日そのものが、こっちじゃ分からんからな」
「分かりました」
「急ぐなら別の手も考えるぞ」
以前にも聞かれた言葉だった。
エレナは今の自分へ尋ねる。
早く知りたい。
住めるのか知りたい。
エルドがどこにいるのか、誰が判断できるのか知りたい。
けれど、今すぐ別の手段を使って急がせたいかと問われれば、答えは違った。
「今は、このまま待ちます」
「分かった。何か来たら知らせる」
「お願いします」
ローデンは頷き、村道を歩いていった。
◇
マーサが戸を閉める。
「気になったなら、自分から聞けたね」
「はい」
「昨日は聞きに行かなかったんだろ?」
「昨日は、本を読みたかったので」
「今日は?」
「目の前にローデンさんがいたので、聞きたくなりました」
「なら、それでいいさ」
エレナは頷く。
昨日聞かなかったから、今日も聞いてはいけないわけではない。
待つと決めたから、何度も確認してはいけないという決まりもない。
その時、自分がどうしたいかを考えればいい。
「マーサさん」
「何だい?」
「私、少し前まで、一度決めたことは変えてはいけないと思っていた気がします」
「貴族ってのはそういうもんなのかい?」
「貴族というより、私がそうだったのだと思います。一度口にした予定や約束を変えると、信用を失うような気がしていました」
「約束は勝手に変えたら困ることもあるよ」
「はい。相手がいる約束なら、きちんと相談する必要があります」
そこは混同したくない。
自分だけの予定と、誰かと交わした約束は違う。
「でも、自分で決めただけのことなら、変えてもよいのですよね」
「そりゃね。朝パン食うつもりでも、粥食いたくなったら粥にすりゃいい」
「とても分かりやすいです」
「難しく考えすぎなんだよ、あんたは」
マーサは笑いながら台所へ戻った。
エレナもその後ろをついていく。
「夕食は何ですか?」
「豆と野菜の煮込みにしようと思ってる」
「手伝うことはありますか?」
「人参切るかい?」
「はい。切りたいです」
「なら頼むよ」
エレナは包丁とまな板を準備した。
◇
夕食の準備が進む頃、ユウは自分の家で窓を少し開けていた。
雨上がりの空気が入ってくる。
机の上には、削りかけの木片が置かれていた。
ベルの小屋で見たからだろうか。
少しだけ続きをやりたい気持ちがある。
ユウは木片を手に取り、道具を出そうとしてから一度止まった。
(本当にやりたいのか、それとも見たからやらなきゃって思ってるだけか)
以前、自分でエレナに話したことを思い出す。
分からない時は、少し待つ。
それでもやりたければやる。
ユウは木片を机へ戻し、水を一杯飲んだ。
窓の外を見る。
雨上がりの道をガルドが歩いている。
遠くから何か大声で言っていたが、ここまでは聞こえなかった。
少し経ってから、もう一度木片を見る。
やはり、少し削りたい。
「じゃあ、ちょっとだけやるか」
今度は道具を出した。
ベルから教わった通り、削りすぎた部分ばかりを見るのではなく、残っている形を確かめる。どこまで削れば完成なのかを急いで決めず、今日は一か所だけ刃を入れることにした。
数分ほど作業すると、思ったよりきれいに削れた。
疲労感はほとんどない。
まだ続けられる。
それでも、ユウは木片を角度を変えて眺め、道具を置いた。
「今日はこれでいいかな」
昨日は削らなかった。
今日は少し削った。
明日は分からない。
それでいい。
道具を片づけながら、昼前の丘でエレナと話したことを思い出す。
彼女は、待てるようになったから家を欲しくなくなったわけではないと言った。
それを聞いた時、少し安心した自分がいた。
なぜ安心したのかを考える。
三軒目の家に住めれば、エレナはこの村に残る理由が一つ増える。
いや、本人はすでに村にいたいと言っていた。
(俺、エレナさんにここにいてほしいのかな)
そこまで考えたところで、ユウの手が止まった。
答えは、意外なほど簡単に出た。
(いてほしいんだろうな)
だからといって、彼女をここへ縛りたいわけではない。
王都へ戻ることを選ぶなら止める権利はないし、別の町へ行きたいと言うなら、それも彼女が決めることだ。
それでも、自分の希望としては。
(ここにいてくれたら、嬉しい)
ユウはその気持ちを否定しなかった。
ただし、それが何なのかまで今夜決める必要もない。
木片を机の端へ置き、窓を閉めた。
◇
夜。
エレナはいつものように記録帳を開いた。
朝から順番に出来事を書こうとして、少し考える。
以前は、一日に起きたことを漏らさないように書こうとすることがあった。
今は、残したいことだけでもよいと思える。
『朝、借りた本を読んだ。蝶番について分からないところがあり、紙を挟んだ。雨宿りをした時にベルさんへ聞き、次に本を持っていけば実物と一緒に教えてもらえることになった。』
次に、ニコとのことを書く。
『ニコと虫道を見た。黒い虫は来なかった。道の途中にある草を抜くか迷ったが、虫にとって邪魔か分からないので、ニコはそのままにした。虫道には完成がないらしい。虫がどこへ行くか分からないから、その時に見るそうだ。』
エレナはそこで少し笑う。
ニコにとっては、それほど深い意味のある言葉ではないのだろう。
それでも、自分には面白かった。
『散歩を続けていたら、ユウさんに会った。ユウさんも行き先を決めずに歩いていたので、一緒に歩いた。途中で丘へ行くことを決めた。』
『丘から村を見た。三軒目の家も見えた。私はあの家に住みたいし、この村にいたい。待てるようになったから、欲しくなくなったわけではない。』
ここは大切だと思った。
我慢しているのではない。
諦めているのでもない。
自分が欲しいものを欲しいと思ったまま、急がずに待っている。
エレナは続きを書く。
『雨が降ったのでベルさんの作業小屋で雨宿りをした。ベルさんは、ユウさんが木削りに来なくなった時、飽きたなら追わないが、やりたいのに来られないなら様子を見に行くと言った。』
少し筆を止める。
誰かを放っておくことと、その人に任せることは違う。
けれど、それを今夜きれいな言葉にまとめる必要はない気がした。
見たことだけを書いておけば、後で読み返した時に思い出せる。
『雨が弱くなってから、ユウさんに家まで一緒に来てほしいと頼んだ。危ないからではなく、一緒に帰りたかったから。ユウさんも、もう少し一緒に歩きたいと言った。』
書いたあと、頬が少し熱くなった。
昨日も、一昨日も、ユウに会えたことを嬉しいと記録している。
今日も同じだった。
ただ、まったく同じではない。
今日は自分が一緒に帰りたいと伝え、ユウも同じように思っていたことを知った。
(嬉しかったです)
胸の奥へ残る温かさを感じながら、エレナは最後の出来事を書く。
『午後、ローデンさんがマーサさんの家へ来た。三軒目の家の新しい知らせはまだない。私は自分から尋ねた。急ぐなら別の方法も考えられると言われたが、今はこのまま待つことを選んだ。』
昨日は聞かなかった。
今日は聞いた。
どちらも自分で選んだ。
エレナは最後に一行を書き加える。
『一度決めたことでも、自分だけの予定なら途中で決め直してよい。大切な約束なら、相手と話して決め直せばよい。』
記録帳を閉じる前に、窓の外へ耳を澄ませた。
雨はもう上がっている。
東の警戒線が鳴ったという知らせもなく、西から三軒目の家について新しい返事が届いたわけでもない。分からないことは昨日とほとんど変わっていないのに、今日という一日は、その空白の中で十分に満たされていた。
三軒目の家に住みたい。
この村にいたい。
ユウに会えると嬉しいし、一緒に歩きたいと思う日もある。
そこまでは、今の自分にも分かる。
その先にどんな名前をつけるのかは、まだ決めなくていい。
(途中で決めてもよいのですから)
エレナはそう考えながら記録帳を閉じ、明日の予定を何も書き込まないまま灯りを落とした。




