第65話 選んだ昼
翌朝、エレナが目を覚ますと、窓の向こうには薄い雲が広がっていた。
雨が降りそうな暗さではなく、朝日が雲を透かして村全体を柔らかく照らしている。昨日まで強かった日差しも少し和らいでおり、窓を開けると、冷たすぎない風が頬を撫でた。
エレナはいつものように風向きを確かめてから窓を開け、そのまま机へ向かった。
そこには『暮らしの小さな工夫』と記録帳、そしてゼムから届いた短い伝言が並んでいる。三軒目の家については、昔の親方へ話を聞きに行ってもらうところまで進んだものの、そこから先の知らせはまだ届いていなかった。
エレナは伝言を一度だけ見たあと、手に取らずに視線を外した。
(今日は、何をしたいでしょう)
最近は、朝になると自分へそう尋ねることが増えた。
以前のように、起きた瞬間から今日一日に果たすべき役割を並べるのではなく、まず自分が何をしたいかを考える。それだけのことなのに、今でも時々、何も思いつかない朝がある。
今日は、その何も思いつかない朝だった。
本を読みたい気持ちはある。
けれど、今すぐ読み始めたいほどではない。
ユウに会えたら嬉しいと思う。
だからといって、今すぐ家まで行きたいわけでもない。
ニコの虫道も少し気になるが、昨日見たばかりだ。
(……決まらないですね)
以前なら、何もしたいことが浮かばない自分に焦ってしまったかもしれない。
今は、決まらないなら決まらないままで階下へ行けばいいと思える。
エレナは外套を整え、部屋を出た。
◇
階下では、マーサが朝食用の野菜を切っていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日は曇ったね」
「はい。雨は降らなそうですが、昨日より涼しいです」
「畑にはちょうどいいかもしれないね」
エレナは棚から器を取り出し、二人分を机へ並べる。
以前は、それも「自分がやるべき仕事」として考えていたが、今では朝食の準備をしているマーサの横で、自分がしたいからしているだけだった。もしマーサが先に器を出していたなら、わざわざ別の仕事を探す必要もない。
「今日は何かありますか?」
朝食が始まってから、エレナが尋ねる。
「何かって?」
「私がしておくことです」
「今日は特にないよ」
「分かりました」
そこで質問を終えると、マーサが少しだけ目を細めた。
「本当にそれで終わるようになったねえ」
「以前なら、もう一度聞いていましたか?」
「聞いてたね。『本当にありませんか』って」
「……そうでした」
「それでも何もないって言うと、自分で床を見たり棚を見たりしてたよ」
言われてみれば覚えがある。
何も頼まれていないのに、何かできることを見つけなければ落ち着かなかった。
「今は、ないと言われたので、ないことにします」
「それでいいよ」
「ですが、後で何か必要になったら言ってください」
「それも言えるようになったね」
エレナは少し首を傾げる。
「以前は言っていませんでしたか?」
「前は『何でもします』だったよ」
マーサはパンをちぎりながら、呆れたように笑った。
「何でもなんて言われても、こっちが困るんだよ。できないことまで頼めないし、あんたが嫌なことまで頼みたいわけじゃないからね」
「確かに、何でもは広すぎますね」
「今さら気づいたのかい」
「はい。今さらです」
二人で少し笑う。
エレナは煮込まれた野菜を口へ運びながら、自分の言葉が少しずつ変わっていることを知った。
◇
朝食を終えた後も、すぐにしたいことは決まらなかった。
エレナは家の前へ出て、軒下に置かれた椅子へ腰を下ろした。マーサは台所にいるが、手伝いは必要ないと言われているため、今は本当に何もすることがない。
空を見上げる。
薄い雲がゆっくり流れている。
村道を一人の老人が歩いていき、少し離れた家からは洗い物をする音が聞こえる。鶏の鳴き声も聞こえたが、オルドの家からなのか、別の家からなのかまでは分からなかった。
エレナは膝の上で手を組み、しばらくそのまま座っていた。
(何もしないと決めたわけでもありません)
したいことが決まるまで座っているだけだ。
もちろん、最後まで何も決まらなければ、そのまま過ごしてもいい。
以前なら、それを一日の浪費だと感じただろう。
けれど今は、目の前を流れる雲を眺めているだけでも、それほど悪くない。
「エレナさん?」
不意に名前を呼ばれ、エレナは顔を上げた。
村道にユウが立っていた。
片手には小さな布袋を持っている。
「おはようございます、ユウさん」
「おはよう。何してるの?」
「まだ何もしていません」
「休んでた?」
「それも少し違う気がします。何をしたいか考えていました」
「決まった?」
「まだです」
ユウは少し笑う。
「そっか」
「ユウさんは何をしているのですか?」
「オルドさんのところにこれ返しに行くところ」
持っていた布袋を少し持ち上げる。
「何ですか?」
「釘。前に柵直した時に余った分」
「では、用事の途中だったのですね」
「うん」
エレナは頷き、そのまま見送ろうとした。
しかしユウは歩き出さない。
「どうしましたか?」
「いや、エレナさん暇なのかなと思って」
「暇です」
「すごい即答だね」
「本当に何も決めていませんので」
「じゃあ、一緒に行く?」
エレナは瞬きをした。
「オルドさんのところへ?」
「うん。釘返すだけだけど」
「私が行っても、何もすることはありませんよね?」
「ないと思う」
その答えを聞いて、エレナは少し笑った。
「では、行きたいです」
「いいの?」
「はい。今、行きたいと思いました」
椅子から立ち上がる。
家の中へ向かって、マーサに声をかけた。
「マーサさん、ユウさんとオルドさんのところへ行ってきます!」
「昼までに戻るのかい?」
中から返事が来る。
エレナはユウを見る。
「戻りますか?」
「俺は戻るつもりだけど」
「では、私も戻ります」
「昼前には戻ります!」
「分かったよ!」
エレナは軒先へ置いていた外履きを整え、ユウの隣へ並んだ。
◇
オルドの家までは、それほど遠くない。
二人は村道をゆっくり歩いた。
「昨日、ベルさんのところで木を削ったのですよね」
「うん」
「今日は?」
「今のところはやるつもりないかな」
「明日は?」
「分かんない」
「そうですよね」
エレナが納得すると、ユウが横を見る。
「何で聞いたの?」
「以前の私なら、昨日したことは今日も続けた方がよいと思っていた気がするのです」
「毎日?」
「毎日とは限りませんが、上達したいなら継続しなければならない、と考えていたでしょうね」
「まあ、続けた方が上手くなるのは早そうだけど」
「はい。でも、ユウさんは椅子職人になるわけではありませんよね?」
「ならないよ」
「では、急がなくてもよいのですね」
「俺の椅子が完成するの、すごい先になりそうだけどね」
「それでもよいのではありませんか?」
エレナは少し考え、続ける。
「座る椅子なら、今もありますから」
「確かに」
「作りたい椅子は、作りたい時に作ればよいのでしょう?」
「うん。ベルさんが生きてるうちには教わりたいけど」
「それは本人に言わない方がよいと思います」
「怒られるかな」
「怒られると思います」
二人で笑った。
急いでいないことと、いつでもいいことは少し違う。
ベルから教わりたいと思うなら、教わることのできる時間を大切にする必要はある。それでも、一日も休まず続けなければならないわけではないのだろう。
◇
オルドの家へ着くと、本人は鶏小屋の前にいた。
「おう、ユウ!」
「この前の釘、余った分返しに来たよ」
「持っとけ!」
「何で?」
「また使うだろ!」
「俺の釘じゃないし」
「村で使うなら同じだ!」
いきなり話が噛み合っていない。
エレナは少し離れたところで見ていたが、ユウも困ったように布袋を持ったまま立っている。
「でも、オルドさんが買ったんでしょ?」
「そうだ!」
「じゃあ返すよ」
「いらん!」
「俺もそんなにいらない」
「ならベルにやれ!」
「オルドさんから返してよ」
「面倒だ!」
しばらく聞いていたエレナは、とうとう笑ってしまった。
二人が同時にこちらを見る。
「すみません。でも、どちらも受け取りたくないのですね」
「俺は返したいだけだよ」
「わしはいらんと言っとる!」
「では、ベルさんに渡すことだけ決めて、どちらが持っていくかを決めればよいのではありませんか?」
オルドとユウが顔を見合わせる。
「ユウが持ってけ」
「やっぱり俺?」
「若いんだから歩け!」
「ここからベルさんの家まで大して変わらないでしょ」
「わしより若い!」
「それはそうだけど」
結局、布袋はユウの手元に残った。
エレナは笑いを堪えながら尋ねる。
「最初からベルさんへ持っていけば早かったのではありませんか?」
「俺も今そう思ってる」
「わしは最初から言っとる!」
「今言ったんだよ」
「細かい!」
オルドが豪快に笑い、その声に驚いた鶏が数羽、小屋の中で羽をばたつかせた。
◇
釘の話が終わったところで、一羽の鶏が小屋の外を歩いていることにエレナは気づいた。
「あの子は、出ていてよいのですか?」
「ああ、あいつは今出しとる」
オルドが答える。
「全部は出さないのですか?」
「今日はこいつだけだ」
「なぜです?」
「足見てる」
言われて鶏の足元を見る。
普通に歩いているように見える。
「何かあったのですか?」
「昨日ちょっと右足かばっとった。今朝は普通だが、狭いとこじゃ分からんから出して歩かせてる」
エレナは鶏の動きを注意して見る。
数歩進み、地面をつつき、また歩く。
右足だけを浮かせる様子はない。
「治ったのでしょうか」
「まだ分からん」
「普通に歩いていますが」
「今はな」
オルドは鶏を追い回さず、その場から眺めている。
「もう少し見て、変なら今日は小屋分ける。何もなきゃ戻す」
「何か治療はしないのですか?」
「傷も腫れも見えんからな。分からんうちから何かする方が怖い」
ユウも鶏を見る。
「昨日はどのくらい変だった?」
「時々右だけ早く上げとった。ずっとじゃない」
「食べてる?」
「食っとる。水も飲んどる」
「なら様子見か」
「そのつもりだ」
二人の会話を聞きながら、エレナは鶏を見る。
異変があったから、すぐ何かをするわけではない。
まず見る。
必要なら動く。
必要がなければ、そのままにする。
村へ来てから何度も見てきた考え方だった。
「ユウさんは、何か魔法を使わないのですか?」
「今の話だけなら使わないよ」
「治癒の魔法でも?」
「治すものが何か分からないし」
「そうでした」
ユウは万能ではない。
正確には、できることがあっても、分からないまま何でも使おうとはしない。
エレナはそのことを何度も見てきた。
◇
鶏はしばらく地面を歩き回ったあと、小さな石の横で座り込んだ。
エレナが少し心配になって見ていると、オルドは特に慌てない。
「座りました」
「座ったな」
「大丈夫でしょうか」
「羽広げたろ」
見ると、鶏は片方の羽を少し広げている。
「日ぃ浴びとるだけだ」
「……そうなのですか?」
「そうだ」
エレナはほっとした。
ユウが横で少し笑っている。
「笑いましたか?」
「ちょっと」
「私には分からなかったのですから、仕方ありません」
「うん。俺も最初分かんなかったし」
「本当ですか?」
「オルドさんの鶏見て覚えた」
「では、私も今日覚えました」
「たぶん次は分かるね」
「忘れていたら聞きます」
「それでいいんじゃない?」
以前なら「次は必ず見分けなければ」と思っただろう。
今は、覚えていたら分かるし、忘れていたら聞けばいい。
その程度のこととして受け取れる。
◇
オルドの家を出たあと、ユウの手には結局釘の入った布袋が残っていた。
「ベルさんのところへ行くのですか?」
「どうしようかな」
「返すのでは?」
「別に今日じゃなくてもいいし」
「では、持って帰る?」
「それでもいいんだけど」
ユウは布袋を軽く揺らす。
「エレナさんはどうする?」
「私は昼前にマーサさんの家へ戻ると言いました」
「じゃあ帰る?」
「はい」
エレナは一度頷いたものの、すぐに足を止めた。
「ですが、まだ昼には少し早いですね」
「そうだね」
「ユウさんは、今から何をしたいですか?」
「俺?」
「はい」
聞かれたユウは少し考えた。
ベルの家へ釘を持っていくこともできる。
家へ帰ることもできる。
畑を見に行ってもいい。
エレナは急かさず待つ。
「……ちょっと座りたいかな」
「疲れましたか?」
「いや。疲れは一もない」
「では、座りたいだけ?」
「うん」
エレナは周囲を見る。
少し先に、以前二人で何度か過ごした木陰がある。
「では、あそこへ行きますか?」
「エレナさんも?」
「はい。私も今、座りたくなりました」
二人は木陰へ向かった。
◇
雨の後だからか、木の根元には少し湿っている場所があった。
ユウが地面を確認し、乾いている場所を選んで腰を下ろす。エレナも少し離れた隣へ座ると、背中を木の幹へ預けた。
「涼しいですね」
「今日はちょうどいいね」
「昨日より好きです」
「この天気?」
「はい。暑すぎないので」
「俺もこれくらいがいいかな」
風が葉を揺らす。
村道から少し離れているため、人の声も遠い。
エレナは膝を軽く抱えながら、ぼんやり空を見る。
「ユウさん」
「ん?」
「昨日、私は何をしたいか決めてから動くことが増えたと思ったのです」
「うん」
「でも、今朝は何も思いつきませんでした」
「そうなんだ」
「それで、何も思いつかないのはよくないことなのか、少しだけ考えました」
ユウはすぐには答えない。
エレナも続きを急がず、葉の間から見える空を眺める。
「でも、座っていたらユウさんが来ました」
「うん」
「それで、一緒にオルドさんのところへ行きたいと思いました」
「うん」
「今は、ここに座りたいと思いました」
エレナは自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続ける。
「朝に全部決めなくても、その時になってからしたいことが見つかるのですね」
「俺なんかだいたいそうだよ」
「本当に?」
「朝から絶対これやるって決めてる日の方が少ないかも」
「それで困りませんか?」
「頼まれてること忘れたら困るけど、自分のことなら別に」
「なるほど……」
予定がないことと、何もしないことは同じではない。
何も決めていないからこそ、その時に見つけたものを選ぶこともできる。
「今日、ユウさんが来なかったら、私はどうしていたのでしょう」
「分かんないね」
「本を読んだかもしれません」
「うん」
「ニコのところへ行ったかもしれません」
「うん」
「ずっと椅子に座っていたかもしれません」
「それでもいいんじゃない?」
「はい。今は、そう思います」
エレナは笑った。
◇
しばらく二人で座っていると、ユウが布袋を地面へ置いた。
「これ、邪魔だな」
「釘ですか?」
「うん。座るために持ってきたわけじゃないし」
「ベルさんへ持っていけばよかったのでは?」
「今はこっちがよかったから」
「こっち?」
「座る方」
エレナは少し目を見開き、そのあと笑った。
「では、今日はこっちなのですね」
「うん。ベルさんは逃げないし」
「それは本人に言うと怒られるかもしれません」
「何で?」
「昨日、私が似たようなことを考えたからです」
「ベルさんについて?」
「はい」
エレナは、教えてもらえる時間が永遠にあるわけではないことを思い出す。
「でも、今日一日行かなかったからといって、すぐ何かが失われるわけでもありませんね」
「そうだね」
「急がないことと、大切にしないことは違うのでしょうか」
「たぶん」
ユウは木の幹へ背中を預ける。
「俺、前は何でも後回しにするのは悪いと思ってたけど、今は全部今日やろうとする方が無理だなって思う」
「全部を今日?」
「仕事の時とか、やること残すの嫌だったんだよね。次の人に残すのも嫌だったし、自分が次の日困るのも嫌だったから」
「それで、全部終わらせていたのですか?」
「終わらないよ」
ユウは苦笑した。
「だから疲れるんだと思う」
エレナは少しだけユウを見る。
彼が前の世界でどれほど働いていたのか、自分にはすべて分からない。
ただ、話を聞くたびに、今のユウが「頑張らない」と何度も自分へ言い聞かせる理由が少しずつ見えてくる。
「ユウさんも、今でも全部終わらせたくなることがありますか?」
「あるよ」
「今日の釘も?」
「これは違うかな」
「違うのですね」
「これは単純にオルドさんが受け取ってくれなかっただけ」
エレナは吹き出した。
「確かにそうでした」
「でも、前ならそのままベルさんのところまで持っていったかも」
「今は?」
「今は座りたかった」
ユウは少し笑う。
「だから今日はこっち」
エレナも同じ言葉を口にする。
「今日は、こっち」
大した意味のない言葉のはずなのに、不思議と気に入った。
◇
風に揺れる葉の音を聞きながら、二人はそのまましばらく座っていた。
エレナは話題を探さなかった。
ユウも何も話さない。
以前にも二人で静かな時間を過ごしたことはあるが、今はその沈黙が以前より自然だった。
ふと、エレナはユウの横顔を見る。
目は閉じていない。
「今日は寝ないのですか?」
「寝てほしいの?」
「いいえ。昨日の朝は寝ていたので」
「まだ言うの?」
「目を閉じて横になっていただけでしたね」
「そうそう」
「どのくらいか分からないほど」
「……寝てたかも」
エレナは笑った。
ユウも諦めたように笑う。
その時、村の方から鐘代わりに使われている金属板の音が一度だけ聞こえた。
警戒線の音とは違う。
昼が近いことを知らせる、村のいつもの音だった。
「そろそろ戻ります」
エレナが立ち上がる。
「昼までに戻るって言ったもんね」
「はい。今は戻りたいです」
「俺も帰ろうかな」
「ベルさんのところは?」
ユウは地面の布袋を見る。
「……昼から考える」
「分かりました」
二人は木陰を離れた。
◇
分かれ道へ着くと、エレナは足を止めた。
「今日は、誘ってくださってありがとうございました」
「オルドさんのところ?」
「はい。釘を返すだけなのに誘ってくれました」
「暇そうだったから」
「それでも嬉しかったです」
「そっか」
ユウは少しだけ照れたように視線を逸らす。
エレナはその反応を見ても、以前のように自分の言葉が重かったのではないかとは考えなかった。
嬉しかったから、嬉しかったと伝えただけだ。
「また、何もすることがなくても誘ってください」
「いいの?」
「はい。ただ、その時に私が行きたいかどうかは聞いてください」
「分かった」
「私も、ユウさんを誘う時は聞きます」
「うん」
どちらかが誘ったから、必ず一緒に行くわけではない。
断ってもよい。
途中で気が変わってもよい。
それでも誘うこと自体はできる。
「では、また」
「またね」
エレナはマーサの家へ、ユウは自分の家へ向かって歩き始めた。
◇
マーサの家へ戻ると、昼食の準備はまだ途中だった。
「ただいま戻りました」
「おかえり。オルドのところだけじゃなかったのかい?」
「帰りにユウさんと木陰で座っていました」
「何してたんだい?」
「座っていました」
「それは聞いたよ」
「ですから、座っていました」
マーサが振り返る。
エレナは真面目な顔で答えている。
「……本当にそれだけかい?」
「はい。少し話もしましたが、ほとんど座っていました」
「そうかい」
マーサは一度頷き、再び鍋へ向き直った。
「じゃあ、いい昼前だったね」
「はい」
以前なら、何もしていない時間をそう言われても理解できなかっただろう。
今は素直に頷ける。
「何か手伝いますか?」
「パン切ってくれるかい?」
「はい」
必要なことを頼まれた。
エレナは棚からパンを取り出し、マーサが使っていた包丁とは別のものを手にする。
「このくらいの厚さですか?」
「もう少し厚くてもいいよ」
「分かりました」
言われた通り、少し厚めに切る。
昼食の準備を手伝うことも、木陰で何もしないことも、同じ一日の中にあってよいのだろう。
◇
昼食後、エレナは部屋へ戻った。
机に置かれている『暮らしの小さな工夫』を開き、少しだけ読み進める。
今日のページには、古い木製家具の手入れについて書かれていた。小さな傷なら表面を整えれば使い続けられるが、脚や接合部に異常がある場合は、見た目だけを直して使ってはいけないという。
エレナは少し読み、昨日までならベルやユウの木削りを思い浮かべていただろうと思った。
今日は別のことが浮かんだ。
(椅子なら、座る前に安全か確かめなければいけませんね)
それだけだった。
人生や自分の心へ重ねなくても、本は本として読める。
それが少し嬉しい。
さらに数ページ進めたところで、外から足音が聞こえた。
誰かが家の前で止まる。
エレナは本から顔を上げた。
「マーサー!」
聞き覚えのある声だった。
ローデンではない。
ガルドだ。
エレナは本を閉じず、そのまま耳を澄ませる。
「いるかー!」
「聞こえてるよ! そんな大声出すんじゃないよ!」
階下からマーサの声が返る。
しばらくすると、二人の会話が小さく聞こえてきた。
豆。
支え。
倒れた。
そんな言葉が混じっている。
エレナは本へ視線を戻しかけたが、少し気になった。
(見に行きたいです)
そう思ったため、本へ栞を挟んで立ち上がった。
◇
階下へ行くと、戸口にガルドがいた。
「エレナも来たか!」
「豆に何かあったのですか?」
「一本倒れた!」
ガルドはなぜか嬉しそうだった。
「……嬉しいことなのですか?」
「いや、倒れたのは困る!」
「では、なぜ笑っているのです?」
「支えを立てる時が来たからだ!」
エレナは少し考えた。
以前から見ていた、傾いていた豆のことだろう。
「前に、まだ支えなくてよいと言っていた豆ですか?」
「そうだ! とうとう倒れた!」
「とうとう、と言うことではない気がします」
「細かいことはいい!」
マーサが呆れたように息を吐く。
「それで、何でうちまで来たんだい」
「細い支柱が余ってないかと思ってな!」
「うちに豆の支柱なんてないよ」
「そうか!」
「ベルんとこ行きな」
「そうする!」
ガルドは来た時と同じ勢いで帰ろうとする。
エレナはその背中へ声をかけた。
「ガルドさん」
「何だ!」
「私も見に行ってよいですか?」
「来い来い!」
エレナはマーサを見る。
「行ってきても?」
「いいよ。夕方までには帰っといで」
「はい」
午後の予定がまた一つ増えた。
◇
豆畑へ着くと、以前見た一本が本当に地面へ倒れていた。
根元から折れているわけではない。
茎が伸びたことで重さに耐えられなくなったのか、横へ大きく傾き、葉の一部が土へ触れている。
「これですか?」
「そうだ!」
ガルドは豆の横へしゃがむ。
「前は少し傾いとっただけだったからな。まだ自分で立てると思って放っといた」
「今日は?」
「もう無理だ!」
ガルドは茎を指で軽く支える。
「これなら支えた方がいい」
「前に支えなかったのは、間違いではなかったのですか?」
「何でだ?」
「今、倒れたので」
「前は倒れとらんかっただろ」
エレナは黙った。
「前に支えんかったから今日倒れた、とも言えるかもしれん。でも、前から何でも支えとったら、畑中棒だらけになるぞ」
「確かに……」
「倒れそうなやつ全部が倒れるわけでもないからな」
ガルドは土を少し触る。
「必要になったらやる。それで間に合うなら、それでいい」
エレナは倒れた豆を見る。
葉は傷んでいない。
茎も折れていない。
今から支えれば、まだ育つのだろう。
「では、今は助ける時なのですね」
「そういうことだ!」
ガルドは笑った。
◇
ほどなくして、ベルが細い木の支柱を数本持ってきた。
その後ろにはユウもいる。
「ユウさん?」
「ガルドさんが途中で捕まえた」
「捕まえたとは何だ!」
「ベルさんのところ行こうとしたら、ちょうどガルドさんが来たんだよ」
「釘を渡しに行ったのですか?」
「うん。結局行った」
ユウの手には、もう布袋がない。
「ベルさんは受け取ってくれましたか?」
「釘だからね。普通に受け取ったよ」
「オルドさんとは違いますね」
「全然違った」
エレナが笑う。
ベルは二人の会話を無視し、豆の状態を確認している。
「一本でいいな」
「今んとこはな!」
「なら一本だけ立てろ。残りは持って帰る」
「置いてけ!」
「邪魔だろ」
「また倒れるかもしれん!」
「その時取りに来い」
「面倒だ!」
「知らん」
今度はガルドとベルの間で似たようなやり取りが始まった。
ユウが小声で言う。
「釘と同じだ」
「本当ですね」
二人は顔を見合わせ、笑った。
◇
支柱を立てる場所は、ガルドが決めた。
ベルは木の状態だけ確認し、ユウは地面へ差し込む時に茎を傷つけない位置を一緒に見る。エレナは何か手伝えることがあるか尋ね、ガルドから柔らかい紐を持っていてほしいと頼まれた。
茎を無理に真っ直ぐへ戻すのではなく、自然に立てる位置まで少しだけ起こす。
「もっと真っ直ぐにしなくてよいのですか?」
「折れるぞ」
ガルドが答える。
「今までこっち向いて育っとったんだから、急に真っ直ぐにしたら無理がかかる」
「では、このくらいで?」
「そうだ。支柱は立つための手伝いだ。棒に豆を合わせるんじゃない」
エレナは紐を渡しながら、その言葉を聞いた。
ガルドは茎と支柱の間に少し余裕を残し、きつく締めつけないよう結んでいく。
「これでよいのですか?」
「今日はな。伸びたらまた変える」
「一度支えたら終わりではないのですね」
「育つんだから当たり前だろ!」
ガルドが笑う。
エレナもつられて笑った。
必要な時に必要なだけ手を貸す。
それはユウから何度も聞いた考え方と似ているが、ガルドは介護の仕事を知っているわけではない。
畑でも、人でも、何でも同じなのだと決めつけるつもりはない。
ただ、この豆には今、そのやり方が合っている。
◇
作業を終えたあと、四人は少し離れたところから豆を見る。
完全に真っ直ぐではない。
けれど、葉はもう地面へ触れていなかった。
「これで大丈夫でしょうか」
「今日のところはな」
ガルドが満足そうに頷く。
「明日また見る!」
「毎日見るのですか?」
「畑には来るからな!」
「なるほど」
ベルは余った支柱を持ち直す。
「じゃあ俺は帰るぞ」
「置いてけ!」
「持って帰る」
「一本くらい!」
「必要になったら取りに来い」
二人のやり取りを聞きながら、ユウがエレナへ小声で言う。
「たぶんベルさん勝つね」
「私もそう思います」
結局、余った支柱はベルが全部持ち帰った。
◇
ガルドの畑を出たあと、エレナとユウは途中まで同じ道を歩いた。
「今日は、ベルさんのところへ行ったのですね」
「昼ご飯食べたら、釘がまだ置いてあるの見て、やっぱり持っていこうかなって思って」
「木削りは?」
「してないよ。釘渡しただけ」
「ベルさんは何も言いませんでしたか?」
「『今日は削らんのか』って聞かれたから、『今日はいい』って言ったら終わり」
「それだけ?」
「うん」
エレナは少し笑った。
「ベルさん、本当に待っていないのですね」
「その方がいいよ」
「なぜですか?」
「待たれてたら、行かなきゃって思うかもしれないから」
ユウは歩きながら、少しだけ考える。
「教えてもらえるのは嬉しい。でも、俺が行かない日にベルさんが困るようになったら、たぶん練習が用事になるから」
「したいことではなく?」
「やらなきゃいけないことになるかも」
エレナはその違いを考える。
人との約束が嫌なのではない。
誰かのために動くことが嫌なのでもない。
ただ、自分が望んで始めたものまで、いつの間にか義務だけになってしまうことをユウは避けたいのだろう。
「では、私が毎日『会いに来てください』と言ったら困りますか?」
口にしてから、エレナは自分でも少し驚いた。
ユウも目を瞬かせる。
「毎日?」
「例えです」
「毎日絶対って言われたら、ちょっと困るかな」
「そうですよね」
エレナは素直に頷いた。
胸が痛むわけではなかった。
むしろ聞けてよかった。
「でも」
ユウが続ける。
「会いたい日に、会いたいって言われるのは嫌じゃないよ」
エレナは歩みを少しだけ緩めた。
「……そうですか」
「うん」
「私もです」
「そっか」
「毎日絶対ではなく、その日に会いたかったら、ですね」
「うん。その方がいいかな」
エレナは前を向く。
昨日と同じでなくていい。
明日も同じでなくていい。
その日に会いたければ会い、別のことをしたければ別のことをする。
それでも、会いたいと思った時に相手へ伝えられる関係でいられたら嬉しい。
「では、今日も会えてよかったです」
エレナが言う。
ユウは少し笑った。
「今日は二回目だね」
「朝も会いましたから」
「うん」
「二回会えても、嬉しいです」
「俺も」
今度は、エレナが聞く前に返ってきた。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
◇
分かれ道へ着いたところで、エレナはマーサの家へ戻ろうとした。
しかし数歩進んでから、何かを思い出して振り返る。
「ユウさん」
「ん?」
「今日の木陰で話したことですが」
「どれ?」
「今日はこっち、です」
「ああ」
「私、あの言葉が好きです」
ユウが少し不思議そうな顔をする。
「そんな大した言葉じゃないよ」
「はい。だから好きなのかもしれません」
「そうなの?」
「大きな決断ではなくても、その時にどちらがよいか選んでよいという感じがします」
ユウは少し考えたあと、頷いた。
「じゃあ、明日は?」
「明日は、明日のこっちを選びます」
「そっか」
「ユウさんも」
「うん」
二人は笑い、それぞれの道へ分かれた。
◇
夜、エレナは机に向かい、記録帳を開いた。
ゼムからの伝言は今日も増えていない。
けれど、それを見ても落ち着かなくなることはなかった。
エレナは今日の出来事を思い出しながら、ゆっくり筆を動かす。
『朝、何をしたいか決まらなかった。以前なら、何か決めなければと思ったかもしれない。今日は、決まらないまま家の前に座っていた。』
『ユウさんが来て、オルドさんのところへ誘ってくれた。行きたいと思ったので、一緒に行った。』
少し笑いながら、次を書く。
『オルドさんは釘を受け取らなかった。ユウさんがベルさんへ持っていくことになった。』
『鶏が昨日、少し右足をかばっていたらしい。今日は普通に歩いていた。オルドさんは、分からないうちから何かせず、もう少し見ると言っていた。』
次に、木陰でのことを記す。
『帰りに、ユウさんが座りたいと言った。疲れたからではなく、座りたかったから。私も座りたくなったので、一緒に木陰へ行った。』
『ユウさんは、ベルさんへ釘を持っていくことより、今は座る方を選んだ。』
エレナは少し考えてから、その下へ書く。
『今日はこっち、と言った。』
それだけでは意味が分からなくなるかもしれない。
だから続きを加える。
『全部を今日しなくてもよい。その時に、今したい方を選んでもよいという意味に、私は感じた。』
午後のことも書く。
『ガルドさんの豆が一本倒れた。以前から少し傾いていた豆だった。前は支えず、今日は支えた。前に支えなかったことが間違いだったわけではなく、今日は必要になったから支えた。』
『茎は無理に真っ直ぐにはせず、今育っている向きに合わせて少しだけ起こした。支柱もきつく結ばなかった。』
そこで、エレナは筆を止めた。
豆を自分に重ねようとはしなかった。
これはガルドの畑の豆についての記録であり、自分は自分だ。
ただ、今日見たこととして残しておきたいと思った。
最後に、ユウとの帰り道について書く。
『ユウさんは、毎日絶対に会いに来てほしいと言われたら少し困ると言った。』
書いてみると、少しだけ可笑しくなる。
『でも、会いたい日に会いたいと言われるのは嫌ではないそうだ。私も同じだと思った。』
『今日は二回会った。二回とも嬉しかった。』
筆先を止める。
昨日までは、ユウに会えたことが嬉しいと書くたび、少しだけ恥ずかしかった。
今夜も恥ずかしくないわけではない。
けれど、隠したいとは思わなくなっている。
(私は、ユウさんに会えると嬉しい)
それはもう、自分の中ではかなり確かなことになっていた。
ただ、それが何という名前の気持ちなのかは、まだ決めなくていい。
三軒目の家のことも同じだった。
住みたい。
よい返事がほしい。
それは確かだ。
けれど、まだ許可は出ていない。
分かっているところまでを、大切にすればいい。
エレナは記録帳の最後へ、一行を書き足した。
『明日のことは、まだ決めない。明日は、明日の「今日はこっち」を選ぶ。』
記録帳を閉じ、灯りを少し落とす。
東の警戒線は今日も鳴らなかった。
西から新しい伝言も届かなかった。
それでも、何もなかった一日ではない。
朝には何をしたいか分からなかったのに、終わってみれば、オルドの鶏を見て、ユウと木陰に座り、ガルドの豆を支えた。どれも朝には予定していなかったことであり、それでも自分で選んだ今日の一部になっている。
すべてを先に決めなくても、一日はちゃんと一日になる。
エレナはそのことを少し嬉しく思いながら、明日の予定を空白のまま残して眠りについた。




