第64話 今日はこっち
翌朝、エレナが階下へ下りると、台所には焼いたパンの香りと、いつもより少し強い薬草の匂いが漂っていた。
マーサは小鍋を火にかけながら、その隣で細い葉を束ねている。朝食の準備に使うものには見えなかったため、エレナは食器を机へ並べてから、邪魔にならない位置で手元を覗き込んだ。
「それは何ですか?」
「乾かしてた薬草だよ。昨日の雨で少し湿気たから、傷んでないか見てるところさ」
「使えなくなってしまったものはありますか?」
「今のところはなさそうだね。ただ、こっちはもう少し乾かした方がよさそうだ」
マーサが指した束は、エレナが見ても他との違いがほとんど分からない。色がわずかに濃いような気もしたが、自信がなく、勝手に触らずに顔を近づけて観察した。
「見分け方があるのですか?」
「匂いと触った感じだね。覚えたいなら後で教えるよ」
「はい。教えてほしいです」
「じゃあ朝飯の後だ。今やるとパンが冷めるよ」
マーサは薬草を脇へ寄せ、出来上がった朝食を机へ運んだ。
エレナも席につきながら、今朝の予定が一つ増えたことに気づく。昨日と同じように、起きた時には何も決めていなかったのに、暮らしているだけで「やってみたいこと」が見つかっていく。
以前は、一日の予定というものは自分の希望より先に存在していた。
朝から教師が来る。
午後には王宮へ行く。
礼儀作法、歴史、語学、舞踏、魔法、婚約者として必要な知識を学び、その合間には公爵家の長女として顔を出すべき場所がある。終わらなければ遅れとなり、うまくできなければ不足と見なされた。
今は違う。
薬草を見て、知りたいと思った。
だから教えてもらう。
(予定というのは、こうやって増えてもよいのですね)
エレナはパンをちぎりながら、少しだけ口元を緩めた。
「何笑ってるんだい?」
「今日も、朝になってから予定ができたと思いまして」
「薬草を見るだけだろ?」
「はい」
「大げさだねえ」
「私にとっては、まだ少し珍しいのです」
「そのうち慣れるよ」
マーサはそう言って煮込みを口へ運び、それ以上は気にしなかった。
◇
朝食を終えると、マーサは約束通り薬草の束を二つ持ってきた。
「触ってみな」
「はい」
エレナは一方の葉を指先で挟んだ。
よく乾いており、力を入れれば簡単に折れそうな硬さがある。もう一方にも触れてみると、こちらは少しだけ柔らかく、指へまとわりつくような感触が残っていた。
「こちらの方が、まだ柔らかいです」
「そうだね」
「では、こちらをもう一度乾かすのですか?」
「今日は天気がいいから、昼前まで風に当てるよ。ただし、ずっと日向には置かない」
「なぜですか?」
「種類によっちゃ、強い日に当てすぎると香りが飛ぶからね」
マーサは葉を一枚取ると、エレナの鼻先へ近づける。
「匂ってみな」
エレナは息を吸った。
青っぽい匂いの奥に、少しだけ苦みを思わせる香りがある。
次に乾いている方を嗅ぐと、似てはいるものの、香り方が少し違った。
「こちらの方が強い気がします」
「正解」
「分かりました」
「一回で分かったくらいで覚えたと思うんじゃないよ。天気でも違うからね」
「はい。では、また教えてください」
以前なら、一度で正解できたことに安心し、次も間違えてはいけないと考えていただろう。
けれど今は、マーサが「また」と言ってくれたことの方が嬉しかった。
一度で覚えなくても、次がある。
間違えれば、また聞ける。
エレナは湿り気の残る束を受け取り、マーサに教わった場所へ運んだ。軒下の風が通る場所へ布を広げ、その上に葉が重ならないよう並べていく。
「これくらいですか?」
「いいよ。昼前に一度見れば十分だ」
「分かりました」
エレナが立ち上がった時、村道の方から小さな足音が聞こえてきた。
「エレナー!」
振り向く前に誰なのか分かった。
「おはようございます、ニコ」
ニコは走ってきた勢いのまま軒先まで来ると、息を整えるより先に話し始めた。
「板置いたよ! 昨日ユウにもらったやつ!」
「虫道ですか?」
「うん! じいちゃんと置いた!」
「影はできましたか?」
「できた! でも虫はまだ来てない!」
そこまで一息で言い切り、ようやくニコは大きく息を吸った。
エレナは笑いながら、昨日のことを思い出す。
ニコに誘われたが、自分はユウの家へ残ることを選んだ。だから、板を置いたところはまだ見ていない。
「見に来る?」
当然のように誘われ、エレナは薬草を見る。
昼前に確認すればよいとマーサは言っていた。
今すぐしなければならないことはない。
「はい。今日は見に行きたいです」
「じゃあ行こう!」
「少し待ってください。マーサさんに伝えてきます」
「うん!」
ニコはその場で待つ。
エレナは家の中へ戻り、マーサへ声をかけた。
「ニコと虫道を見に行ってきます」
「昼前には薬草見るんだろ?」
「はい。それまでには戻ります」
「なら行っておいで」
「行ってきます」
外へ戻ると、ニコはすでに歩き始めようとしていた。
「エレナ、早く!」
「虫は逃げませんよ」
「来るかもしれないよ!」
「それなら急ぎましょう」
二人は並んで歩き出した。
◇
虫道の近くでは、ベルが少し離れた場所に腰を下ろしていた。
何か作業をしているわけではなく、膝の上に両手を置いている。エレナたちが近づくと一度だけ顔を上げたが、すぐに地面へ視線を戻した。
「おはようございます、ベルさん」
「おう」
「じいちゃん、エレナ来た!」
「見りゃ分かる」
ニコは気にせず、昨日置いたという板のところまで走っていく。
以前は小石と細い木片だけだった場所に、手のひらを二つ並べたほどの板が斜めに立てられていた。地面との間には狭い隙間があり、朝の日差しを遮って小さな影を作っている。
「これですか?」
「うん! ユウにもらった!」
「昨日、角を少し削っていましたね」
「じいちゃんとここに置いた!」
エレナはしゃがみ込み、板へ手を触れずに様子を見る。
「虫が通りやすくするためですか?」
「分かんない」
「分からない?」
「影があったら入るかなって思っただけ」
ニコは悪びれる様子もなく答えた。
エレナは少し意外に思い、ベルを見る。
「それでよいのですか?」
「何がだ」
「虫が通ると分かっていないのに、置いても」
「ニコが置いてみたいって言ったからな。危ないもんでもないし、嫌なら虫は避けるだろ」
「なるほど……」
「道を塞ぐほど置くなら止めるが、これくらいなら好きにさせりゃいい」
ベルの答えを聞き、エレナは板の下へ目を戻す。
虫にとってよいかどうか、まだ分からない。
だからこそ、少しだけ試す。
昨日見た石鹸と似ているようにも思えたが、今回はそれをわざわざ口にすることはしなかった。
「虫、来るかな」
ニコが地面へ顔を近づける。
「来るとよいですね」
「来なかったら場所変える」
「すぐ変えるのですか?」
「うーん……」
ニコは考え込む。
ベルが横から口を出すことはなかった。
しばらくして、ニコは自分で首を振った。
「今日はこのままにする。明日も来なかったら考える」
「分かりました」
「エレナも明日見る?」
「明日になって、見たかったら来ます」
「うん!」
以前なら、誘われた時点で約束していたかもしれない。
けれど、明日の自分が何をしたいかは、明日の自分に任せてもいい。
◇
しばらく三人で地面を眺めていたが、黒い虫は現れなかった。
ニコは最初こそ何度も周囲を探していたものの、やがて近くの別の小さな虫に興味を移し、草の間を覗き始める。
エレナも立ち上がった。
「今日は来ませんね」
「まだ朝だからな」
ベルが言う。
「昼に来るかもしれんし、夕方かもしれん。来ないかもしれん」
「ベルさんは、気になりませんか?」
「少しはな」
「それでも、ここで待たないのですか?」
「一日中虫を待ってどうする」
ベルは腰を上げ、膝についた草を払った。
「見たい時に見りゃいい。ニコだって、そのうち腹減ったら帰る」
少し離れたところで草を覗いていたニコが顔を上げる。
「まだ減ってない!」
「なら見てろ」
「うん!」
ベルはそれだけ言い、エレナを見る。
「ユウの木削りは、今日はやるかね」
「分かりません。昨日は、まだそんな気分ではないと言っていました」
「そうか」
「ベルさんは教えたいのですか?」
「来りゃ教える。来なきゃ俺の仕事するだけだ」
あまりにも簡単な答えだった。
「待ってはいないのですね」
「何で俺が待つんだ。あいつの練習だろ」
「確かにそうですね」
「やりたくなったら来るだろ。来なくなったら、その時はその時だ」
ベルは家の方へ歩き始める。
数歩進んだところで、少しだけ振り返った。
「ただ、あの削り方のまま椅子作ったら、座る前に壊れるぞ」
「それは困りますね」
「だから来たら教える」
そう言い残し、今度こそ歩いていった。
エレナは思わず笑った。
◇
昼前になり、エレナはマーサの家へ戻った。
ニコはまだ虫を見ていたが、途中で別れた。誘われたから最後まで付き合わなければならないわけではなく、自分には戻って確認したい薬草がある。
軒下へ行くと、朝に並べた葉が風に揺れている。
エレナは一枚を手に取り、朝と同じように指先で確かめた。
「……少し違います」
「どれ」
後ろから来たマーサへ渡す。
マーサは指で揉み、匂いを確かめた。
「だいぶいいね。もう少し置いてもいいけど、昼から日が強くなるなら中へ入れよう」
「今、入れてもよいのですか?」
「いいよ」
「では、入れます」
エレナは布の上の薬草をまとめ始める。
「全部同じくらい乾きましたか?」
「いや。こっちはまだ少し湿ってる」
マーサが端の一束を指した。
「では、それだけ残しますか?」
「そうしようか」
エレナは乾いたものだけを家の中へ運び、残りはもう少し風へ当てることにした。
同じ場所へ並べても、全部が同じにはならない。
だから一つずつ見ればいい。
朝よりも、そのことが自然に感じられた。
◇
昼食を食べ終えたあと、エレナは自室へ戻った。
机の上には、ゼムから届いた伝言が置かれている。
昨夜と同じ場所だった。
当然、朝になったからといって内容が増えているわけではない。昔の親方を数日中に訪ねるというところで、情報は止まっている。
エレナは紙を手に取らず、『暮らしの小さな工夫』を開いた。
数ページ読み進めたところで、外から人の声が聞こえてくる。
誰かがローデンを呼んでいるようだった。
指が一瞬止まる。
(新しい知らせでしょうか)
昨日、返事が届いたばかりだ。
数日中に親方を訪ねると書かれていたのだから、今日すぐ次の情報が来る可能性は高くない。
それでも気になる。
エレナは本を閉じかけた。
だが、立ち上がる前に考える。
(見に行ってはいけないわけではありません)
気になるなら行ってもいい。
待つと決めたからといって、情報を気にしてはいけないわけではない。
では、自分は今どうしたいのか。
エレナは少しだけ耳を澄ませた。
外では、誰かが笑っている。
緊急の様子ではない。
「……今日は、本を読みたいです」
自分で口にしてから、再びページを開いた。
少しすると、外の声は遠ざかっていった。
◇
一方、その頃。
ユウはベルの家の前に立っていた。
手には昨日まで削っていた練習用の木片がある。
「こんにちは」
「来たか」
ベルは作業台の前で板を削っていたが、ユウを見ると手を止めた。
「今日はやる気になったか」
「ちょっとだけ」
「ちょっとか」
「疲れるまでやるつもりはないよ」
「好きにしろ」
ベルは木片を受け取り、角度を変えながら見る。
「ここ削りすぎたな」
「やっぱり?」
「分かってたのか」
「昨日やった瞬間に」
「なら何で持ってきた」
「直せるか聞こうと思って」
ベルは木片を作業台へ置いた。
「直すって言っても、元には戻らんぞ」
「元に戻したいわけじゃないよ。これでまだ使える練習になるなら使いたい」
その答えに、ベルは少しだけ目を細めた。
「なら使える」
「どうするの?」
「削ったところに合わせて全部削るな。まず残ってる方を見ろ」
ベルは木片を指でなぞりながら、削る場所と残す場所を説明していく。
ユウは隣へ立ち、手元を見る。
「ここは触らない?」
「今はな。お前、失敗するとその周りまでいじりすぎる」
「そうなんだよね」
「直そうとして悪くする奴のやり方だ」
「耳が痛いなあ」
ユウが笑うと、ベルも鼻を鳴らした。
「木の話だぞ」
「分かってるよ」
ベルは刃物を一本渡す。
「やってみろ」
ユウは作業台の前へ立った。
◇
しばらく削ったところで、ユウは一度手を止めた。
疲れはほとんどない。
まだ続けられる。
ただ、今日は最初から少しだけやるつもりだった。
「今日はここまでにしようかな」
「もうか」
「うん」
「まだできるぞ」
「できるね」
「なら何でやめる」
昨日エレナから聞かれたのと似た質問だった。
ユウは木片を眺める。
「今日は、もう十分かなって」
ベルは何も言わなかった。
ユウが刃物を片づけ、木屑を集め始めても止めない。
「また来るよ」
「来たけりゃな」
「次はどこ削る?」
「それを次に来た時に聞け」
「分かった」
木片を持って帰ろうとすると、ベルが声をかけた。
「ユウ」
「ん?」
「それ、まだ練習に使えるから捨てるなよ」
「捨てないよ」
「ならいい」
ユウは家へ向かって歩き出した。
午前中にエレナがここで自分の話をしていたことは、もちろん知らない。
ただ、自分の手にある木片がまだ途中で、次に続きをする場所が残っていることを、以前より心地よく感じていた。
◇
午後の本を数ページ読み終えたところで、エレナは階下へ下りた。
マーサは台所で乾かした薬草を束ねている。
「残した分はどうなりましたか?」
「さっき見たら十分だったから入れたよ」
「あ……」
エレナは一瞬、言葉を失った。
自分が確認するつもりだった。
けれど、読書をしている間にマーサが終わらせていた。
胸の奥に、古い焦りがわずかに浮かぶ。
(私がやると言ったのに)
口を開きかけて、止まった。
朝、自分は「昼前に一度見る」と言われて、その確認はした。その時点で一部だけ残すことを二人で決めたが、その後の確認まで自分の仕事として任されたわけではない。
「……マーサさん」
「何だい?」
「残りを入れてくださったのですね」
「ああ。ちょうど外に出たからね」
「ありがとうございます」
謝りかけた言葉を、礼へ変えた。
マーサがちらりとエレナを見る。
「今、謝ろうとしたかい?」
「……少しだけ」
「何で?」
「私が最後まで見るべきだったような気がしました」
「そんな約束したかい?」
「していません」
「ならいいだろ」
「はい」
エレナは少し笑った。
「まだ出てくるねえ、それ」
「はい。まだ途中ですから」
「そうかい」
マーサは薬草を束ねる手を再び動かした。
エレナも隣へ立つ。
「今度は手伝うことがありますか?」
「紐取ってくれるかい」
「はい」
今度は必要な手伝いがあった。
エレナは棚から紐を取り、マーサへ渡した。
◇
夕方近くになると、エレナは少し外を歩きたくなった。
特に行き先は決めず、マーサへ一声かけて家を出る。
村道には長い影が伸び始めており、畑から戻る者の姿も見えた。遠くではガルドの声が聞こえ、そのさらに向こうから鶏の鳴き声が重なっている。
歩いているうちに、道が二つに分かれる場所へ来た。
右へ行けば、ニコの虫道がある。
左へ行けば、ユウの家の近くを通る。
エレナは足を止めた。
どちらへ行ってもいい。
どちらへも行かず、まっすぐ別の道を歩いてもいい。
(今日は、どちらへ行きたいでしょう)
ニコの板がどうなったかは気になる。
虫が来たかもしれない。
ユウにも会えたら嬉しい。
昨日も会ったし、その前の日にも会っているが、それを理由に避ける必要はない。
エレナはしばらく二つの道を見比べた。
その時、左の道の先から人影が現れた。
「あ」
ユウだった。
向こうもエレナに気づく。
「エレナさん」
「ユウさん」
ユウの手には、見覚えのある木片がある。
「ベルさんのところへ行っていたのですか?」
「うん。ちょっとだけ削ってきた」
「今日は、やりたくなったのですね」
「少しね」
ユウが近づいてくる。
「エレナさんは?」
「散歩です。今、どちらへ行こうか考えていました」
「どっち?」
「右へ行けばニコの虫道で、左へ行けばユウさんの家です」
言ってから、エレナは少しだけ笑った。
「でも、ユウさんがこちらから来てしまいました」
「じゃあ左に行っても俺いないよ」
「そうですね」
「虫見る?」
エレナは右の道を見る。
朝は来なかった。
今なら来ているかもしれない。
「見たいです」
「じゃあ俺も行こうかな」
「ユウさんも?」
「昨日、板渡したし。どうなったかちょっと気になる」
「では、一緒に行きますか?」
「うん」
二人は右の道へ歩き始めた。
◇
虫道の近くまで行くと、ニコの姿はなかった。
板は朝と同じ位置に置かれている。
「いませんね」
「ニコ?」
「はい」
「夕飯前だから帰ったのかも」
エレナとユウは並んでしゃがむ。
板の下には、小さな影ができている。
エレナは地面をよく見る。
「……ユウさん」
「ん?」
「あそこ」
板の端近くに、小さな黒いものが見えた。
朝待っていた虫だった。
虫は板の下へ完全に入っているわけではなく、影と日向の境目近くをゆっくり進んでいる。
「来てるね」
「はい」
二人とも手を出さない。
虫はしばらく進んだ後、板の下へ少しだけ入り、そこで止まった。
「影が好きなのでしょうか」
「分かんない」
「そうですね」
「たまたまかもしれないし」
「はい」
エレナは笑った。
分からない。
でも、今日はそれでよかった。
虫はしばらく板の下にいたが、やがて反対側から出て、草の中へ消えていった。
「通りましたね」
「ニコ喜びそう」
「教えますか?」
「本人が見たかったかな」
エレナは少し考える。
「でも、私たちが見たことを隠す必要もありませんよね」
「うん。会ったら言えばいいんじゃない?」
「そうしましょう」
二人は立ち上がった。
◇
そのまま帰ろうとした時、ユウが木片を持ち直した。
「そういえば、これ」
「直せましたか?」
「直ったっていうか、まだ使えるって」
エレナは木片を見る。
昨日より形が少し変わっている。
「削りすぎたところは?」
「戻らないよ」
「では、どうしたのですか?」
「残ってる方を見ろって言われた」
ベルの言葉を聞き、エレナは少し目を細めた。
「ベルさんらしいですね」
「そう?」
「はい。今日、私もベルさんと少し話しました」
「俺のこと?」
「少しだけ」
「何言ってた?」
エレナは一瞬迷い、笑う。
「秘密です」
「え」
「悪いことではありません」
「それならいいけど」
「それから、ベルさんはユウさんが来なければ自分の仕事をするだけだと言っていました」
「うん。ベルさんならそうだろうね」
「待ってはいないそうです」
「それは助かる」
「寂しくありませんか?」
何気なく聞いた。
ユウは少し考える。
「別に。待っててほしいわけじゃないし」
「そうですか」
「でも、行った時に教えてくれるのは嬉しいよ」
エレナはその言葉を聞き、少しだけ歩みを緩めた。
「待っていなくても、来た時にはいてくれる」
「まあ、ベルさんが出かけてなければね」
「それでもよいのだと思います」
いつでも待っていてもらう必要はない。
自分のために相手の時間を止めてもらう必要もない。
会いたい時に会いに行き、いなければ帰る。
また別の日に行けばいい。
「エレナさん?」
「はい?」
「何か考えてた?」
「少しだけです」
「そっか」
ユウは無理に聞かなかった。
◇
分かれ道へ戻る。
ここからマーサの家とユウの家は別方向だった。
「では、私は帰ります」
「うん。またね」
「ユウさん」
「ん?」
エレナは少しだけ迷った。
今日、自分からユウの家へ行ったわけではない。
偶然会った。
それでも、一緒に虫を見られたことが嬉しかった。
「会えてよかったです」
ユウが一度瞬きをする。
昨日なら、その反応を見て不安になったかもしれない。
今日は待てた。
「俺も」
短い返事だった。
けれど、それで十分だった。
「では、また」
「また」
二人はそれぞれの家へ向かって歩き出した。
◇
ユウは数歩進んだところで、何となく後ろを振り返った。
エレナはもうこちらを見ていなかった。
夕方の村道を、マーサの家へ向かって歩いている。
昨日、エレナは自分に会いたくて家まで来たと言った。
今日は偶然会い、別れ際に「会えてよかった」と言った。
その言葉を思い返すと、胸のあたりに少しくすぐったいような感覚が残る。
(俺も、会えてよかったんだよな)
それはすぐに分かった。
では、なぜ嬉しいのか。
そこまで考えようとして、ユウはやめた。
分からないなら、今すぐ答えを出す必要はない。
エレナが自分の気持ちに無理に名前をつけていないように、自分だって同じでいい。
手に持った木片へ目を落とす。
削りすぎた場所は元へ戻らない。
けれど、残っている部分を見れば、まだ続きを作れる。
「……帰るか」
ユウは再び歩き出した。
◇
夜、エレナは記録帳を開いた。
今日も書くことはいくつかある。
『朝、マーサさんに薬草の乾き方を教えてもらった。一度で覚えなくても、また教えてもらえる。』
『ニコの虫道に、ユウさんからもらった板が置かれた。朝は虫が来なかった。ニコは今日はそのままにすると決めた。』
『昼前、薬草を確認した。全部が同じようには乾いていなかった。乾いたものだけ入れた。』
そこで少し筆を止める。
午後のことも書く。
『本を読んでいる時、外からローデンさんを呼ぶ声が聞こえた。三軒目の家について何か届いたのか少し気になったが、今日は本を読みたかったので見に行かなかった。』
『後でマーサさんが残りの薬草を入れてくれていた。最初は謝りそうになったが、私は最後まで見ると約束していなかったので、お礼を言った。』
書いてみると、小さなことばかりだった。
けれど、その小さな選択が以前とは少し違う。
エレナはさらに続ける。
『夕方、散歩へ出た。ニコの虫道へ行くか、ユウさんの家の方へ行くか迷った。』
『その途中で、ユウさんに会った。』
筆先が少し止まる。
思い出すと、自然に口元が緩んだ。
『一緒に虫道を見た。朝にはいなかった黒い虫が、板の下を通った。影が好きなのか、たまたまなのかは分からない。』
『分からないままでも、ニコに教えられることはある。虫が板の下を通った。それだけ。』
森の警戒線について記録する時と同じだと、少しだけ思った。
分かったことと、分からないことを分ける。
そこへ自分の想像を足さない。
ただし、今夜は虫の観察記録を作っているわけではないので、それ以上詳しく書く必要はない。
最後に、今日一番残っていることを書く。
『帰る時、ユウさんに会えてよかったと伝えた。』
『ユウさんも、同じだと言った。』
昨日は自分から会いに行った。
今日は偶然会った。
会い方は違っても、どちらも嬉しかった。
(明日は、どうでしょう)
会いたくなるかもしれない。
別のことをしたくなるかもしれない。
ニコの虫を見たいかもしれないし、本を読みたいかもしれない。薬草について続きを教わりたいかもしれず、三軒目の家について新しい返事が届く可能性だってある。
今夜の自分が、明日の全部を決める必要はない。
エレナは最後に一行だけ書き足した。
『昨日と今日で、選ぶものが違ってもよい。今日は、今日の私が選んだ。』
記録帳を閉じる。
机の上には、ゼムから届いた紙が置かれたままだった。
親方への確認はこれからであり、エルドの現在地も、三軒目の家の使用許可もまだ分からない。東の森についても新しい知らせはなく、警戒線は今日も鳴らなかった。
未解決のものは、何一つ消えていない。
それでも今日は、薬草を触り、虫を待ち、本を読み、ユウと一緒に小さな黒い虫を眺めた。
全部を追いかける必要はなかった。
その時に見たいものを見て、したいことを選べばいい。
(明日は、明日の私が決めればよいのですね)
そう考えながら灯りを落とすと、エレナは答えの出ていないものを今日もそのまま残し、静かな夜の中で目を閉じた。




