第63話 返ってきた言葉
翌朝、エレナが目を覚ました時には、窓の外からすでに鳥の声が聞こえていた。
昨日まで地面に残っていた雨の気配はかなり薄れ、開けた窓から入ってくる風にも湿った土の匂いより、日に温められ始めた草の匂いが強く混じっている。空には薄い雲がいくつか浮かんでいるものの、今日も雨になる様子はなさそうだった。
寝台から起きたエレナは、いつものように窓辺へ立った。風向きを確認してから窓を少し広く開け、そのまま机へ目を向けると、昨夜読み進めた『暮らしの小さな工夫』と記録帳が並んでいる。
記録帳には、昨日のことを書いた。
用事があったからではなく、ユウに会いたいと思ったから会いに行ったこと。そして、ユウも自分が来たことを嬉しいと言ってくれたこと。
思い出しただけで、胸の奥がまた少し温かくなる。
(今日も会いたいでしょうか)
そう考えてみると、会えたら嬉しいとは思った。
けれど、昨日のように今すぐ家へ行きたいというほどではない。今日はまだ朝になったばかりで、何をしたいかも決めていなかった。
(なら、今は行かなくてもよいですね)
会いたいと思ったら必ず会いに行かなければならないわけではないし、昨日行ったから今日も行かなければならないわけでもない。
気持ちがあることと、それを毎回同じ行動にすることは別なのだろう。
エレナは本も記録帳も机へ残したまま、階下へ下りた。
◇
マーサは台所でパンを切っていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日は早いね」
「いつもと同じくらいだと思います」
「そうだったかい?」
「たぶん」
「なら、あたしが遅いのかね」
マーサは特に気にした様子もなく、切ったパンを皿へ並べる。
エレナも棚から器を出し、頼まれる前に机へ置いた。マーサが朝食を運んでくる間に水を用意し、二人でいつもの席につく。
「今日はどうするんだい?」
「まだ決めていません」
「昨日は朝からユウのところへ行ったんだろ?」
「はい。でも、昨日行ったから今日も行く必要はありませんから」
マーサがパンをちぎる手を止め、少しだけエレナを見る。
「誰かに行けって言われたのかい?」
「いいえ」
「じゃあ好きにしな」
「そうします」
それで会話は終わった。
エレナは野菜の煮込みを口へ運びながら、以前なら「昨日行ったのだから、今日も行けば迷惑かもしれない」と考えていたかもしれないと思う。あるいは逆に、一度始めたことを続けなければならないような気持ちになっていた可能性もあった。
今は、昨日は昨日で、今日は今日だと思える。
「マーサさんは、今日は何をしますか?」
「午前はサナのところへ行くよ。石鹸を見に来いって言われてるからね」
エレナの匙が少し止まった。
「石鹸ですか?」
「ああ。前に仕込んだやつだよ」
「もう使えるのですか?」
「さあね。だから見に行くんだろ」
「私も行ってよいでしょうか」
「サナに聞けばいい」
マーサはそう答えたあと、少し考えてから付け加える。
「まあ、嫌とは言わないと思うけどね」
「では、一緒に行きたいです」
「いいよ。朝飯食ったらね」
今日の予定が一つ決まった。
朝起きた時には何もなかった予定が、朝食の途中でできた。それが自然なこととして受け入れられるようになっている自分に気づき、エレナは少しだけ笑った。
◇
朝食を終え、簡単な片づけを済ませてから、エレナはマーサと一緒にサナの家へ向かった。
村の中を歩いていると、昨日より道は乾いており、水溜まりもほとんど残っていない。家々の間では洗った布を干している者もおり、雨で止まっていた日常が少しずつ動き出していた。
サナの家へ着くと、戸口近くに木箱がいくつか並んでいる。
「来たね」
中から出てきたサナは、マーサの後ろにいるエレナを見ると笑った。
「エレナも来たのかい?」
「はい。石鹸を見てもよいですか?」
「見るだけならね。まだ使うかは決めてないよ」
「分かりました」
以前なら、「もうできた石鹸を見に行く」と考えていたかもしれない。
けれど、マーサもサナも「使えるか確認する」と言っている。仕込んだからといって、予定通り完成しているとは限らないらしい。
サナは二人を家の横へ案内した。
日差しを直接受けない場所に、木の板が置かれている。その上には、少し不揃いな四角形に切られた石鹸が並んでいた。
「これですか?」
「ああ」
エレナは近づくが、手は出さない。
「触ってもよいですか?」
「一個ならいいよ」
許可をもらってから、端にある石鹸を持ち上げる。
以前見た時より硬くなっている。
けれど、市場で見たことのある石鹸ほど滑らかではなく、表面には小さな凹凸が残っていた。
「固くなっています」
「そりゃ固くならなきゃ困るよ」
サナが笑う。
「もう使えるのですか?」
「たぶんね。でも、全部じゃない」
「違いがあるのですか?」
「あるよ。ほら、こっち」
サナが別の石鹸を指す。
見比べても、エレナにはよく分からない。
「……同じに見えます」
「触ってみな」
言われた通り、二つ目を持つ。
少しだけ柔らかい。
「こちらの方が、指に力を入れると少し沈みます」
「そうだね」
「では、まだ?」
「もう少し置いとく」
「同じ日に作ったのに、違うのですね」
「置いてた場所も少し違うし、大きさも全部同じじゃないからね」
サナは木の板を指で軽く叩く。
「だから日数だけ見て、全部できたとは決めないよ」
エレナは手の中の石鹸を見る。
同じ日に作った。
同じ材料を使った。
同じように並べた。
それでも、少しずつ違う。
(同じだけ待てば、全部同じになるわけではないのですね)
そう思ったところで、エレナは自分の考えに少し笑った。
また何かへ重ねようとしている。
これは石鹸の話だ。
「何笑ってんだい?」
サナに聞かれる。
「いえ。何でもありません」
「変な子だねえ」
「最近、自分でも少しそう思います」
「前よりいい顔してるけどね」
サナが何気なく言った。
エレナは石鹸を戻しながら、少しだけ目を瞬かせる。
「以前と違いますか?」
「違うよ」
「どのように?」
「最初は、ずっと何か謝りそうな顔してた」
エレナの手が止まる。
マーサは隣で石鹸を見たまま、口を挟まない。
「謝りそうな顔……」
「何か頼まれても、頼まれなくても、ここにいてすみませんって言いそうだったよ」
「実際、言っていましたか?」
「何回かね」
サナは笑う。
「今は、石鹸見せてくださいって自分から来るだろ」
「それは……見たかったので」
「だからだよ」
サナにとっては、それだけのことらしい。
エレナは返す言葉を探したものの、結局何も言わず、もう一度石鹸へ目を向けた。
(見たかったので、来た)
昨日も同じだった。
会いたかったので、会いに行った。
少しずつ、自分のしたいことを理由に動けるようになっている。
◇
石鹸の確認が終わった後、使えそうなものを数個だけサナが別の板へ移した。
「こっちは今日試すよ」
「全部ではないのですね」
「全部試す必要ないだろ」
「一つで分かりますか?」
「使えるかどうかならね。違いがありそうなら、また別のを試す」
サナは一つを小さな桶へ持っていく。
水を入れ、布へ石鹸をこすりつけると、泡は多くないものの、きちんと汚れが浮き始めた。
「使えそうだね」
マーサが言う。
「だね。でも手が荒れないかも見たいから、今日はこれくらい」
「すぐ全部使わないのですか?」
エレナが尋ねると、サナは当たり前のように頷いた。
「作れたからって、一気に全部使う必要ないよ。駄目だった時に全部駄目にするだろ」
「なるほど……」
「少し使って、大丈夫なら次」
その考え方は、村へ来てから何度も見てきたものと似ていた。
警戒線もそうだった。
新しいやり方を試す時もそうだった。
家のことも、木削りも、自分の生活も。
いきなり全部を決めない。
少し試す。
分からなければ待つ。
必要なら直す。
エレナはそのことを口にしようとして、やめた。
今は石鹸を見ている。
何でも大きな意味にしなくてもいい。
「泡は少ないのですね」
「そうだね。もう少し出ると思ったんだけど」
「失敗ですか?」
「洗えてるなら、まだ分からないよ」
サナが濡れた布を持ち上げる。
「泡が多いのが目的じゃないからね」
エレナは思わず笑った。
「何だい?」
「目的を間違えないことは、大事なのですね」
「まあね」
「ユウさんも、記録について似たことを言っていました」
「へえ」
「記録を書くことが目的になったら駄目だと」
「そりゃそうだ」
サナはあっさり頷く。
「石鹸も泡作るために作ってるんじゃないからね」
「はい」
エレナは楽しそうに答えた。
◇
マーサとエレナが帰った後、サナは試した石鹸を棚へ戻しながら、少しだけ考えていた。
最初に村へ来たエレナは、何かを尋ねる時でさえ遠慮が強かった。
知りたいから聞くのではなく、聞いても怒られないか確かめながら言葉を選んでいるように見えたのだ。
今も丁寧な話し方は変わらない。
けれど、知りたい時には知りたいと言うようになったし、見たいものがあれば見せてほしいと頼むようになった。
それだけでも、サナには十分大きな変化に思える。
「前より面白い子になったね」
一人で呟きながら、石鹸の向きを少し変える。
ユウと一緒にいることが増えたのも知っている。
けれど、ユウだけがエレナを変えたとは思わなかった。
マーサも、ガルドも、ベルも、ニコも、村にいる者たちはそれぞれ勝手に暮らし、その中へエレナが少しずつ入ってきた。
何より、本人が自分で選ぶようになったのだ。
「まあ、急がなくていいさ」
石鹸にも、若い二人にも。
サナはそれ以上考えるのをやめ、濡れた布を干しに向かった。
◇
マーサの家へ戻る途中、エレナは村の中央近くでベルとニコに会った。
ベルは細い木材を数本抱え、ニコはその後ろで小さな板を一枚持っている。
「こんにちは」
「おう」
「エレナ、石鹸見てきた?」
ニコが尋ねる。
「なぜ知っているのですか?」
「サナが昨日言ってた」
「そうでしたか。はい、見てきました」
「できてた?」
「使えそうなものはありました。でも、まだ置いておくものもあります」
「同じじゃないの?」
「少し違いました」
「へえ」
ニコは興味深そうに頷く。
その隣で、ベルがエレナを見た。
「ユウの木削り、見たか?」
「昨日、少し見ました」
「また削りすぎてなかったか?」
「少し深く削ったところがありました」
「やっぱりな」
ベルが鼻で笑う。
「でも、途中でやめていました」
「疲れたのか?」
「いいえ。まだ疲れは一くらいだったそうですが、やりたい分はやったからと」
ベルは少し黙った。
「……そうか」
「何かおかしいですか?」
「いや」
ベルは抱えている木材を持ち直す。
「あいつ、最初に来た頃より止まるの上手くなったな」
エレナはベルを見る。
「ベルさんも、そう思いますか?」
「前は何か頼むと、できるところまで全部やろうとしてた。魔法使えば早いことでも、使わない方がいいって決めたら、今度は手で最後までやろうとするしな」
「今は違いますか?」
「最近は『今日はここまで』って勝手に帰る」
「それはよいことですか?」
「俺には分からん」
ベルはぶっきらぼうに答えた。
「でも、次の日また来るなら、それでいいんじゃないか」
エレナはその言葉を静かに受け取った。
一度で全部終わらせなくても、また来ればいい。
ユウも、自分と同じように少しずつ変わっている。
「ユウさんも、途中なのですね」
「何だそれ」
「昨日、そういう話をしたのです」
「本人がそう言ってたなら、そうなんだろ」
ベルはそれ以上興味を示さず、歩き出す。
「ニコ、行くぞ」
「うん!」
ニコも後を追いかけようとして、途中で振り返った。
「エレナ、虫の道、今日はまだ見てないよ!」
「分かりました。見たくなったら行きます」
「うん!」
今度こそ二人は離れていった。
◇
昼食を終えたあと、エレナは部屋で本を読んでいた。
今日は『暮らしの小さな工夫』を数ページだけ進めるつもりだったが、途中で窓の外から荷車の音が聞こえてきた。
村では珍しい音ではない。
それでも、最近は西からの返事を待っているため、以前より少し気になる。
エレナは本から顔を上げた。
(確認に行きたいでしょうか)
自分へ尋ねる。
少しだけ行きたい。
けれど、荷車が来るたびに自分宛ての知らせかもしれないと走っていく必要はない。
何かあれば、ローデンが知らせると言っていた。
エレナは再び本へ視線を戻した。
文字を数行読む。
ところが、今度は家の外から声がした。
「マーサ、いるか?」
ローデンだった。
エレナの指がページの上で止まる。
すぐに立ち上がりかけたが、一度息を整えてから本を閉じた。
階下へ向かう。
◇
玄関にはローデンが立っていた。
その手には、一枚の折り畳まれた紙がある。
マーサも台所から出てきていた。
「エレナ、ちょうどよかった」
「私にですか?」
「ああ」
ローデンは紙をすぐ渡さず、先に説明する。
「バルトが戻ったわけじゃない。西から来た別の荷車が、途中の宿場で預かったものを運んできた」
「バルトさんから?」
「正確には、バルトが西の町でゼムに会って、ゼムが書いた伝言だ。正式な返事じゃない」
エレナはその言葉を一つずつ聞いた。
正式な返事ではない。
つまり、三軒目の家を使ってよいという許可ではない。
「読んでもよいですか?」
「ああ。そのために持ってきた」
ローデンから紙を受け取る。
粗い紙に、短い文章が書かれていた。
エレナはゆっくり読む。
『バルトから話を聞いた。昔の親方の居場所は分かる。本人はまだ元気で、娘夫婦と暮らしている。ハルトの息子エルドについて覚えている可能性がある。数日中に訪ねるつもりだ。急ぎの返事は期待しないでほしい。分かったことがあれば、次の便で送る。――ゼム』
読み終えても、エレナはすぐには口を開かなかった。
新しく分かったことは少ない。
ゼムが昔の親方の居場所を知っている。
親方は生きている。
そして、数日中に訪ねてくれる。
エルド本人が見つかったわけではない。
家の許可が出たわけでもない。
それでも、道は一つ先へ進んだ。
「……親方さんは、ご存命なのですね」
「ゼムが知ってる限りではな」
「エルドさんを覚えているかは、まだ分からない」
「そうだ」
「数日中に訪ねてくださる予定ですが、その後いつ返事が来るかも分からない」
「そうなる」
ローデンは、エレナが紙を見つめているのを黙って待った。
「嬉しいです」
エレナが言う。
「でも、まだ決まってはいません」
「ああ」
「では、待ちます」
以前なら、新しい手掛かりが得られた瞬間に、その先まで考え始めていたかもしれない。
親方がエルドを知っていたら。
エルドが見つかったら。
許可がもらえたら。
三軒目の家へ住めたら。
考えれば、いくらでも先へ進める。
けれど、今分かっているのはそこまでではない。
「この紙は、持っていてもよいでしょうか」
「エレナ宛てみたいなもんだからな。いいぞ」
「ありがとうございます」
エレナは紙を丁寧に折り直した。
◇
「ユウには言うのかい?」
ローデンが帰った後、マーサが尋ねた。
エレナは手の中の紙を見る。
知らせたい。
そう思った。
けれど、昨日とは少し違う。
昨日は、ただ会いたくて会いに行った。
今日は、伝えたいことができた。
「はい。伝えたいです」
「なら行ってきたらどうだい」
「今から?」
「今じゃ駄目なのかい?」
エレナは窓を見る。
まだ午後になったばかりだった。
ユウが何をしているかは分からない。
それでも、行ってみることはできる。
「行ってきます」
「紙落とすんじゃないよ」
「気をつけます」
エレナは外套を取る。
昨日と違い、今日は手に持つものがある。
けれど、それが理由のすべてではないことを自分では分かっていた。
知らせたい相手がユウだった。
だから行く。
◇
ユウの家へ向かう途中、エレナは昨日ガルドと会った場所を通った。
今日は誰もいない。
そのまま進み、ユウの家へ着く。
戸を叩く。
今度はすぐ返事があった。
「はい」
戸が開く。
ユウは起きていた。
「今日は寝ていませんね」
「最初にそれ?」
「昨日は寝ていましたから」
「横になってただけ」
「目を閉じていたのでしょう?」
「今日はちゃんと起きてるよ」
エレナは笑う。
「ならよかったです」
「今日は何かあった?」
「はい」
昨日は「何もありません」と答えた。
今日は違う。
エレナは折り畳んだ紙を見せる。
「三軒目の家について、少しだけ進みました」
ユウの表情が少し変わった。
「入る?」
「はい」
家へ入る。
昨日と同じ椅子へ座るが、今日はまず紙を机へ置いた。
「ローデンさんが持ってきてくださいました。バルトさんが西の町でゼムさんに会って、ゼムさんから途中の宿場を通して戻ってきた伝言だそうです」
「エルドさん見つかった?」
「いいえ。そこまではまだです」
エレナは紙を開き、ユウにも読める向きへ置く。
「昔の親方さんの居場所が分かったそうです。今もご存命で、娘夫婦と暮らしていて、ゼムさんが数日中に訪ねてくださる予定だと」
「そっか」
「エルドさんを覚えているかは、まだ分かりません」
「うん」
「ですから、家を使えるかどうかも、まだ何も決まっていません」
「うん」
ユウは紙を読んだあと、エレナを見る。
「でも、ちょっと進んだね」
「はい」
その一言を聞いて、エレナは笑った。
「私も、そう思いました」
決まっていない。
でも、進んでいないわけでもない。
「嬉しい?」
「嬉しいです」
「怖い?」
聞かれて、エレナは少し考える。
「……一くらいでしょうか」
「何が怖い?」
「期待しすぎて、駄目だった時に落ち込むことです」
ユウは少し考える。
「落ち込んじゃ駄目なの?」
エレナは目を瞬かせた。
「駄目では……ありませんね」
「期待したら絶対叶うわけじゃないけど、期待しないように頑張るのも疲れそう」
「そうですね」
紙へ視線を落とす。
期待している。
三軒目の家に住めたら嬉しい。
自分の部屋だけではなく、自分で選んだ家を持ちたい。
そこへユウや村の人を呼びたい。
本を置きたい。
大きな机を置きたい。
そう思っている。
「私は、あの家に住みたいです」
「うん」
「だから、よい返事が来てほしいと思っています」
「うん」
「駄目だったら、たぶん悲しいです」
「そっか」
「でも、悲しくなるのが嫌だから、今から期待しないようにする必要はないのでしょうね」
ユウが頷く。
「駄目だったら、その時考えればいいんじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、エレナは少しだけ笑った。
「ユウさんらしいです」
「そう?」
「はい。初めて会った頃から、似たことを言っています」
「そうだった?」
「明日になってから考えればよい、と言われました」
ユウはしばらく考えたあと、首を傾げる。
「言った気がする」
「覚えていないのですか?」
「全部は覚えてないよ」
「私は覚えています」
その夜のことは、今でも覚えている。
追放され、歩き続け、ようやく辿り着いた村で、明日のことを明日考えてもよいと言われた。
あの時は、その考え方自体が信じられなかった。
今は、自分から同じように考えられる。
「でも、今日は明日のことを少し楽しみにします」
エレナが言う。
「いいんじゃない?」
「はい」
◇
話し終えたあとも、エレナはすぐには帰らなかった。
紙を折り直して手元へ置き、昨日と同じように少しだけお茶をもらった。
「今日は用事がありましたね」
エレナが言う。
「うん」
「でも、伝え終わりました」
「うん」
「もう帰る理由はありますか?」
「それ俺に聞くの?」
「聞いてみました」
ユウが笑う。
「帰りたいなら帰ればいいし、いたいならいれば?」
「では、もう少しいます」
「うん」
昨日は、用事がなくても来た。
今日は、用事があって来た。
けれど、用事が終わった後まで用事に縛られる必要はない。
エレナはお茶の器を両手で包み、窓の外へ目を向けた。
「今日は木を削らないのですか?」
「今日はまだそんな気分じゃない」
「では、しない?」
「たぶん」
「昨日、ベルさんに会いました」
「何か言ってた?」
「ユウさんは、以前より止まるのが上手くなったそうです」
「ベルさんが?」
「はい。以前は、頼むとできるところまで全部やろうとしていたと」
ユウが少し困ったような顔をする。
「見られてたんだ」
「見ていますよ。皆さん」
「エレナさんも?」
「はい」
エレナは素直に頷いた。
「私も、ユウさんを見ています」
ユウが少しだけ黙った。
エレナは自分が何を言ったのか考え、遅れて頬が熱くなる。
「……変な意味ではありません」
「変な意味って?」
「それを聞かないでください」
「俺、何も言ってないけど」
「なら忘れてください」
「うん」
ユウは笑っている。
エレナは器へ視線を落とした。
恥ずかしい。
けれど、嫌な恥ずかしさではなかった。
◇
少しして、外からニコの声が聞こえた。
「ユウー!」
ユウが窓を見る。
「ニコだ」
「聞けば分かります」
戸が叩かれる。
ユウが開けると、ニコが息を弾ませて立っていた。
「ユウ、木の板ある?」
「どのくらい?」
「これくらい!」
両手で幅を示す。
「何に使うの?」
「虫の道!」
エレナも戸口へ近づく。
「道を変えるのですか?」
「あ、エレナいた!」
「こんにちは」
「こんにちは! 石の横に板置いて、影できるか見たい」
ニコは興奮している。
「ベルさんには聞きましたか?」
「じいちゃんが、ユウにいらない板あったらもらってこいって」
「じゃあ探すか」
ユウは家の横へ回る。
エレナとニコもついていく。
端材がいくつか置かれていた。
「これくらい?」
ユウが一枚持つ。
「もっと小さい!」
「じゃあこれ」
「それ!」
ニコが受け取ろうとする。
ユウはすぐ渡さず、角を確認した。
「ここ尖ってるから、ちょっと削る」
「今?」
「すぐ終わるところだけ」
小さな刃物で角を軽く落とす。
数回で終え、ニコへ渡す。
「ありがとう!」
「置く場所はベルさんと見てね」
「うん!」
ニコは走り出しかけ、エレナを見る。
「エレナも来る?」
エレナはユウを見る。
まだここにいたい気持ちがある。
一方で、ニコの虫道も少し見たい。
「今日は、ユウさんのところにもう少しいたいです」
「分かった!」
ニコはあっさり走っていった。
エレナはその背中を見送る。
「昨日は虫を見に戻ったのです」
「そうなの?」
「今日は、ここにいたいです」
「うん」
「どちらも本当です」
「そうだね」
その日の気持ちで選べばいい。
昨日と今日で選択が違っても、どちらかが間違いになるわけではない。
◇
やがてエレナはマーサの家へ戻った。
紙は大切に持ち帰り、部屋の机へ置く。
まだ正式な返事ではない。
けれど、捨てる気にはならなかった。
夜になり、記録帳を開く。
『サナさんの石鹸を見に行った。同じ日に作ったものでも、少しずつ固さが違った。使えそうなものを一つ試したが、全部は使わなかった。』
『サナさんに、最初の頃はいつも謝りそうな顔をしていたと言われた。今は、見たいものを見たいと言えるようになったらしい。』
次に、午後のことを書く。
『ローデンさんから、西からの伝言を受け取った。』
『ゼムさんは、エルドさんが昔働いていた工房の親方さんの居場所を知っていた。親方さんは今もご存命で、娘夫婦と暮らしている。ゼムさんが数日中に訪ねてくださる予定。』
『エルドさんが見つかったわけではない。三軒目の家を使ってよいという返事でもない。』
そこまで書いてから、エレナは一行空けた。
『それでも、少し進んだ。』
筆先を止め、次にユウのことを書く。
『ユウさんに伝えたかったので、会いに行った。』
『私は、三軒目の家に住みたい。よい返事が来てほしいと思っている。駄目だったら悲しいと思う。』
『でも、悲しくなるのが怖いからといって、今から期待しないようにする必要はないらしい。』
エレナは少し考え、さらに続ける。
『ユウさんは、駄目だったらその時考えればよいと言った。』
『以前も、明日のことは明日になってから考えればよいと言われた。』
あの頃は、明日を考えないことが怖かった。
今は、明日を楽しみにすることもできる。
『今日は、返事を待つのが少し楽しみになった。』
最後に、ニコのことを書く。
『ニコに虫道へ誘われたが、今日はユウさんのところにいたかったので行かなかった。昨日は見たかったので戻った。今日は行かなかった。どちらも自分で決めた。』
そこで筆を置く。
机の上には、ゼムから届いた短い伝言がある。
まだ答えではない。
けれど、答えへ続くかもしれない言葉だった。
エレナは紙をもう一度だけ開き、短い文章を読み返した。
数日中に、昔の親方を訪ねる。
その先は分からない。
(よい返事が来てほしいです)
今度は、その願いを打ち消さなかった。
期待してもいい。
叶わなければ、その時は悲しんでもいい。
そして悲しんだ後に、また次を考えればいい。
エレナは紙を丁寧に畳み、記録帳の隣へ置いた。
窓の外では、今日も警戒線の音はしない。
村は静かな夜を迎えている。
何もかもが決まったわけではないが、今日届いた短い伝言のおかげで、三軒目の家へ続く道だけは、ほんの少し先へ伸びていた。




