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第62話 会いに行く



 雨の翌朝は、いつもより空気が澄んでいた。夜のうちに雲はほとんど流れてしまったらしく、東の空には薄い青が広がり、家々の屋根に残った水滴が朝日を受けるたびに小さく光っている。


 エレナは窓辺まで歩くと、昨日マーサに教わったことを思い出し、まず外の木々がどちらへ揺れているかを確かめた。それから窓を少しだけ開けてみると、冷たく湿った朝の空気だけが部屋へ流れ込み、雨水が入り込んでくることはなかった。


「……今日は大丈夫ですね」


 誰に聞かせるでもなく呟きながら、エレナの口元がわずかに緩む。たった一度教わっただけのことを覚えていたのは嬉しかったが、だからといって、もし忘れていた自分なら駄目だったとはもう思わなかった。


(覚えていたら嬉しい。でも、忘れたなら、また聞けばよいのですよね)


 以前の自分なら、できたことと自分自身の価値を簡単には切り離せなかっただろう。できれば認められ、できなければ努力が足りないと言われる環境に長くいたせいで、何か一つ失敗しただけでも、自分そのものに足りないところがあるように感じてしまっていた。


 けれど、今朝は風向きを覚えていた。それなら今日は、ただ「覚えていてよかった」と思えばよい。


 窓を開けたまま机へ目を向けると、そこにはユウから借りている『暮らしの小さな工夫』が置かれていた。昨夜も途中まで読んだが、まだ半分以上残っており、返却期限を決めていない以上、今日中に読み終える必要もない。


 それでも表紙を見ているうちに、本の内容とは別のことが浮かんできた。


 昨日、ユウが帰る前に交わした言葉だった。


『また来てください』


 卵がなくても、雨でなくても、用事がなくても来てほしいと、自分から伝えた。するとユウは、自分にも来ればいいと言ってくれた。


(行きたかったら、でしたね)


 エレナは本へ伸ばしかけていた手を止め、自分の中にあるものを確かめるように指先を軽く握った。


 今日は、ユウのところへ行きたいだろうか。


 理由を探し始めれば、何もない。借りた本はまだ読み終えていないので返せないし、三軒目の家について新しい知らせが届いたわけでもなかった。畑へ誘いたいわけでも、料理の予定があるわけでも、木削りの続きを見せてもらう約束をしているわけでもない。


 それらを一つずつ考えたあとで、エレナはようやく、理由がないことと行きたくないことは別なのだと気づいた。


(……会いたいです)


 言葉として認めた途端、胸の奥が少しだけ温かくなった。


 昨日はユウが自分のところへ来てくれた。今日は、自分から会いに行ってみたい。


 それだけで十分なのかもしれない。


     ◇


 階下へ下りると、マーサはすでに朝食の準備を始めていた。鍋から立ち上る湯気には野菜の匂いが混じっており、開けられた小窓から入る雨上がりの冷たい空気と重なっている。


「おはようございます」


「おはよう。今日は晴れたね」


「はい。部屋の窓も開けましたが、今日は先に風向きを見ました」


「そりゃよかった。昨日みたいに雨を入れそうにならずに済んだね」


 マーサは鍋を混ぜながら、特別に褒めるわけでもなくそう答えた。エレナも、以前のように「できたのだからもっと評価してほしい」と感じることはなく、その何気ないやり取りのまま席についた。


 朝食の黒パンをちぎり始めてから、エレナは一度マーサの様子を窺った。


「マーサさん。朝食の後、少し出かけてもよいですか?」


「いいよ。どこへ行くんだい?」


「ユウさんの家へ行こうと思います」


 マーサの手がほんの一瞬だけ止まったものの、すぐに鍋へ戻る。


「何か用かい?」


「……ありません」


 口にしてみると、やはり少し不思議な感じがした。けれどマーサは驚いた様子もなく、「そうかい」とだけ答え、煮込みを皿へよそい始める。


 エレナはしばらく待ってみたが、それ以上何も言われない。


「それだけですか?」


「何がだい?」


「用がないのに行くのか、と聞かれると思いました」


「昨日、自分で用がなくても来てくれって言ってたじゃないか。それなのに、自分が行く時だけ用事が必要なのかい?」


 言われてみれば、その通りだった。


 ユウには「用事がなくても来てほしい」と言っておきながら、自分が訪ねる側になった途端、何かもっともらしい理由を用意しようとしていた。


「……必要ありませんね」


「なら食べな。せっかく温かいんだから」


「はい」


 エレナは少し笑いながら煮込みを口へ運んだものの、今度は別の心配が浮かんできた。


「でも、ユウさんが忙しかったらどうしましょう」


「帰ってくりゃいい」


「寝ていたら?」


「帰ってくりゃいいよ」


「では、いなかったら?」


「そりゃもっと簡単だ。帰ってくりゃいい」


 三つとも同じ答えが返ってきたため、エレナは思わず笑ってしまった。


「全部同じではありませんか」


「他にどうするんだい。待ちたいなら待ってもいいけど、それもエレナが決めればいいだろ」


 マーサは黒パンをちぎりながら、何でもないことのように続ける。


「行ったからって、必ず会えるとは限らない。でも、会えなかったからって、行こうと思ったことまで間違いになるわけじゃないよ」


 エレナはパンを持ったまま、しばらくマーサの顔を見つめた。


(会えなくても、行ったことが間違いにはならない)


 会いたいと思ったから行く。相手がいれば会えるし、いなければ帰ってくればよい。


 それだけのことなのに、以前の自分なら、結果が伴わなければ行動そのものが無駄だったように感じていたかもしれない。


「マーサさん、ありがとうございます」


「何がだい?」


「今の言葉です」


「そんな大したこと言ったかねえ」


「……もうよいです」


 マーサが不思議そうに眉を上げるのを見ながら、エレナは笑って朝食を続けた。


     ◇


 食事を終えて使った食器を片づけたところで、エレナはいつものように「何か手伝うことはありませんか」と尋ねそうになった。


 けれど、その言葉を口にする前に、自分が今朝したいと思ったことを思い出す。


 今日はユウに会いに行きたい。


 それなら、出かける前に家中を見回して仕事を探し、それをすべて終わらせてからでなければ自分のしたいことをしてはいけない、ということにはならないはずだ。


「マーサさん、今朝、私がしておくことはありますか?」


「今日はないよ。こっちも急ぐことはないからね」


「分かりました。では、行ってきます」


 一度確認して必要ないと言われたのだから、それで十分だった。念のためにもう一度尋ねることも、自分で新しい仕事を探し始めることもせず、エレナは部屋へ戻って外套を手に取った。


 その時、机に置かれた『暮らしの小さな工夫』が目に入る。


 持っていけば、話のきっかけにはなるだろう。ユウの本なのだから不自然でもない。


 けれど、エレナは本へ伸ばした手を途中で止めた。


(これを持っていったら、本の話をするために訪ねたことにしてしまいそうですね)


 本について話したくないわけではない。ただ、今日はそれを理由にしたくなかった。


 エレナは本を机へ残し、何も持たずに部屋を出た。


     ◇


 雨上がりの村道には、ところどころに浅い水溜まりが残っていた。濡れた草からは土と青葉の匂いが立ち、畑の方から聞こえてくる鳥の声も、雨の前より近く感じられる。


 大きな水溜まりを避けながら歩いていると、向こうから鍬を肩に担いだガルドがやってきた。厚い革靴にはすでに泥がついており、どうやら朝早くから畑へ出ていたらしい。


「おう、エレナ! 今日は晴れたぞ!」


「おはようございます、ガルドさん。昨日は畑へ行けなかったのですか?」


「マーサに止められんでも、あの雨じゃ土を踏み荒らすだけだからな。だから今日は豆を見てくる!」


「マーサさんも、ガルドさんなら昨日から畑へ行きたがっているだろうと言っていました」


「マーサの奴、分かっとるじゃないか!」


 ガルドは腹の底から笑ったあと、エレナが手ぶらで歩いていることに気づいたらしく、その手元へ目を向けた。


「今日は籠も何も持っとらんな。どこへ行くんだ?」


「ユウさんの家です」


「何かあるのか?」


「いいえ。特に用事はありません」


 エレナが自然に答えると、ガルドは一度だけ目を瞬かせた。


「何もないのにユウのところへ行くのか?」


「はい。会いたいので」


 答えてから、自分の言葉が想像していた以上に真っ直ぐだったことに気づき、頬へじわりと熱が集まった。


 けれど、言い直そうとは思わなかった。恥ずかしくはあっても、嘘ではないからだ。


 ガルドはしばらくエレナを見ていたが、やがて豪快に笑った。


「そうか! なら行ってこい!」


「……はい。行ってきます」


 何かをからかわれることも、理由を詳しく聞かれることもなかった。


 エレナは小さく頭を下げ、再びユウの家へ向かって歩き始めた。


 数歩進んだところで、自分の声が頭の中へ戻ってくる。


(会いたいので、ですか……)


 改めて思い返すと、やはり恥ずかしい。


 それでも、胸の奥に残っているのは後悔ではなく、小さな嬉しさだった。


     ◇


 豆畑へ向かう途中、ガルドは一度だけ振り返った。


 エレナはもうこちらを見ておらず、濡れた村道をユウの家の方へ歩いている。足取りは以前より軽く、誰かに許可を求めながら進んでいるような頼りなさもない。


「会いたいから、か」


 思わず口にしてから、ガルドは髭の生えた顎を撫でた。


 最初に村へ来た頃のエレナなら、あんな言い方はしなかっただろう。何か手伝えることはないか、自分がここにいて迷惑ではないかと周囲の顔色を窺い、自分の望みを口にする前に誰かの役に立つ理由を探していた。


 今は、何もないのに誰かへ会いに行ける。


 ガルドには、それで十分な変化に思えた。


 ユウとエレナの間にどんな感情が育っているのかまで、勝手に決めるつもりはない。二人が一緒にいる時間が増えているのは知っているが、本人たちがまだ名前をつけていないものへ、周りの年寄りが先回りして名前をつける必要もないだろう。


「まあ、豆だって芽が出たからって、すぐ実になるわけじゃないからな!」


 誰もいない畑道で一人納得し、ガルドは大きく頷いた。


 その例えが本当に合っているのかを確かめてくれる相手は、近くにはいなかった。


     ◇


 ユウの家へ着くと、エレナは戸の前で一度足を止めた。


 ここへ来ること自体は初めてではない。中へ入ったこともあれば、本を一緒に読んだこともあり、以前ほど緊張する場所ではなくなっている。


 それでも今日は、これまでとは少し違った。


 何かを届けるためでも、相談するためでも、本を借りるためでもない。本当に、ただユウに会いたくて来た。


(いなければ帰ればよいですし、忙しければ邪魔をせず帰ればよいのです)


 マーサの言葉を思い出し、エレナは戸を軽く叩いた。


 少し待ってみたものの返事はなく、もう一度叩こうかと手を上げたところで、中から何かが床へ落ちたような小さな音がする。続いて足音が近づき、ほどなく戸が開いた。


「おはよう」


「おはようございます、ユウさん」


 現れたユウの髪は少し乱れていた。


 エレナがじっと見ていると、ユウは自分でも気づいたらしく、片手で髪を押さえる。


「……寝ていましたか?」


「寝てないよ」


「本当ですか?」


「ちょっと横になってただけ」


「目は開いていましたか?」


「閉じてた」


「どのくらいですか?」


「分かんない」


 エレナは思わず笑った。


「それは寝ていたのではありませんか?」


「たぶん、少しは」


「やはり」


 ユウも諦めたように笑ってから、エレナの手元を見た。何も持っていないことに気づいたのか、少し首を傾げる。


「それで、何かあった?」


「いいえ。何もありません」


「ん?」


「特に用事はありません」


 口にすると、戸を叩く前よりも緊張した。


 それでもエレナは視線を逸らさず、続ける。


「ユウさんに会いに来ました」


 今度はユウが黙った。


 驚いたように目を瞬かせ、そのまま数秒ほど何も言わない。


 その沈黙を前にすると、胸の奥から古い不安が浮かびかけた。


(迷惑だったのでしょうか)


 けれど、そこで答えを決めつけることはしなかった。


 ユウが何を思っているかは、ユウにしか分からない。自分が怖いからという理由で、相手の気持ちまで先回りして決めてしまう必要はない。


「……そっか」


 やがてユウが言った。


「はい」


「じゃあ、入る?」


 その言葉を聞いた途端、エレナの肩から少し力が抜けた。


「よいのですか?」


「会いに来たんでしょ?」


「はい」


「なら、どうぞ」


 ユウが戸を大きく開ける。


 エレナは小さく笑い、「お邪魔します」と言って家の中へ入った。


     ◇


 室内には、以前訪れた時と大きな変化はなかった。棚や机、椅子など生活に必要なものだけが置かれた簡素な部屋だったが、机の端には見覚えのない木片が二つ並んでいる。


「これは、木削りの練習ですか?」


「昨日の続き。帰ってから、ちょっとだけやりたくなって」


 ユウが一つを持ち上げたため、エレナも近づいて覗き込んだ。以前ベルの作業場で見た練習材より小さく、一方の角が少し丸く削られている。


「手は疲れませんでしたか?」


「少しだけ。二になる前にやめたよ」


「それならよかったです。上手くなっていますか?」


「それは分かんない。まだベルさんにも見せてないし」


「では、私にも判断できませんね」


 エレナがそう答えると、ユウは木片を差し出した。


「触る?」


「よいのですか?」


「うん」


 受け取った木片の角を指先で撫でると、一部は滑らかになっていたものの、そのすぐ隣にはまだざらついた場所が残っている。


「ここは滑らかですね」


「そこは何回か削ったから」


「こちらは少し形が違いますが、これは?」


「たぶん失敗。削りたい形と違った」


「直せそうですか?」


「分かんないから、今度ベルさんに聞く」


 昨日も聞いたような答えに、エレナは小さく笑った。


「やはり、分からなければ聞くのですね」


「その方が早いしね」


 木片を返すと、ユウは机へ置き直してから台所の方へ向かった。


「お茶飲む?」


「いただきます」


 ユウが火を起こし始めたため、エレナは一瞬だけ立ち上がりかけた。しかし、薪を扱う手つきに困っている様子はなく、こちらへ助けを求めてもいない。


「何か手伝いますか?」


「大丈夫。座ってていいよ」


「分かりました」


 言われた通り椅子へ戻る。


 以前なら、客として何もせず座っていることに落ち着かなさを覚えただろう。今もその感覚が完全になくなったわけではないが、必要かどうかを確認したのだから、それ以上自分から仕事を作る必要はない。


 窓から差し込む朝日が床の一部を明るく照らし、火のついた薪からは乾いた木の匂いが漂ってくる。小鍋の中で水が温まり始める音を聞いているうちに、エレナは何か特別なことを話しているわけでもないのに、ここへ来てよかったと思った。


     ◇


「そういえば、本は?」


 湯が沸くのを待ちながら、ユウが尋ねた。


「家に置いてきました」


「もう読み終わった?」


「いいえ。まだ途中です」


「じゃあ、なんで持ってこなかったの?」


 エレナは少し迷ったあと、素直に答えることにした。


「持ってこようとは思いました。でも、本を持ってきたら、それをここへ来る理由にしてしまいそうだったので」


「理由?」


「ユウさんの家へ来る理由です」


 ユウは少し不思議そうな顔をした。


「本を持ってきても、別によかったと思うけど」


「はい。私もそう思います。でも、今日は何も持たずに来てみたかったのです」


「何もないのに?」


「何もないから、でしょうか」


 言葉にしてみたものの、自分でも完全には説明できなかった。


 エレナは膝の上で両手を重ねながら、昨日から考えていたことを一つずつ話す。


「昨日、私はユウさんに、用事がなくても来てほしいと言いましたよね」


「うん」


「そうしたら、ユウさんも私に来ればいいと言ってくれました。それで今朝、来たいかどうか考えたら、来たいと思ったのです」


「うん」


「ですから、来ました。それだけです」


 ちょうど湯が沸き始め、ユウが火を少し弱めた。


「じゃあ、本当に俺に会いに来たんだ」


「はい。ユウさんに会いたかったので」


 ユウの手が、ほんの一瞬だけ止まった。


 あまりに小さな変化だったが、向かいから見ていたエレナには分かった。


「……今、止まりましたよね?」


「ちょっとびっくりしただけ」


「嫌でしたか?」


「嫌じゃないよ」


 今度はすぐに返事が来た。


 エレナは知らないうちに浅くなっていた息を、ゆっくり吐いた。


「なら、よかったです」


 ユウは湯を二つの器へ注ぎ、それを机へ運んでくる。エレナはまだ熱い器へ手を伸ばしかけたものの、すぐには持たず、両手を近づけて温かさだけを受け取った。


「ユウさんは、どう思いましたか?」


「何が?」


「私が来たことです」


 聞いた直後、少し欲張りな質問だったかもしれないと思った。


 けれど、知りたいという気持ちは消えなかった。


 ユウは器へ視線を落とし、少し考えてから答える。


「嬉しかったかな」


「……そうですか」


「うん」


「なぜですか?」


「そこまで聞く?」


「聞きたいです」


 エレナが真面目に答えると、ユウは少し困ったように笑った。


「そんな細かく自分の気持ち考えたことないから、上手く説明できないけどさ。戸を開けてエレナさんがいた時も嫌じゃなかったし、会いに来たって言われた時は、ちょっと嬉しかった」


 エレナは器から立つ湯気を見つめた。


(ユウさんも、嬉しかったのですね)


 昨日、自分は記録帳へ「ユウさんが来ると嬉しい」と書いた。


 今日は、ユウも自分が訪ねてきたことを嬉しいと言ってくれた。


 同じ種類の気持ちなのか、それとも少し違うものなのかは分からない。けれど、今すぐ答えを決める必要はないと思えた。


「私も嬉しいです」


「何が?」


「ユウさんが、私が来たことを嬉しいと思ってくれたことです」


「そっか」


「はい」


 それ以上は、どちらも言葉を重ねなかった。


 けれど沈黙は重くなく、窓の外で屋根から落ちた最後の雫が地面を打つ音まで、穏やかに聞こえていた。


     ◇


 お茶を半分ほど飲んだところで、エレナは室内を見回した。


「今日は、この後何をする予定なのですか?」


「特に決めてないよ」


「木削りは?」


「やりたくなったらやる」


「畑へ行く予定もありませんか?」


「今日は誰にも頼まれてないし、自分のところも急ぐことないからね」


 エレナは少し考え、自分も似たようなものだと気づいた。


「私も、ユウさんの家へ来ることしか決めていませんでした」


「それはちゃんと予定じゃない?」


「そうなのでしょうか」


「朝から来ようと思ってたなら、たぶん」


「では、今日は一つだけ予定があったことになりますね」


 朝起きた時から決まっていたわけではない。窓を開け、本を見て、ユウのことを思い出してから決めたことだ。


 一日の予定は、朝より前にすべて決めておかなければならないものではないらしい。


「この後はどうする?」


 ユウに聞かれ、エレナは自分の気持ちを確かめる。


 ここにいてもいいし、帰って本を読んでもいい。村を歩くこともできれば、ニコの虫道やガルドの豆を見に行くこともできる。


「もう少し、ここにいます」


「うん」


「特に何もしなくてもよいですか?」


「いいよ。俺も今はお茶飲んでるだけだし」


「それなら、私もそうします」


 二人で器を持ち、しばらく何も話さなかった。


 以前なら、沈黙が続けば何か話題を探しただろう。客として訪ねた以上、相手を退屈させてはいけないと考え、自分から会話を続けようとしたかもしれない。


 けれど、ユウは黙ったまま窓の外を見ており、退屈そうにも困っているようにも見えない。エレナも無理に言葉を探すのをやめ、鳥の声や遠くの畑から聞こえてくる村人の声へ耳を傾けた。


 しばらくすると、遠くからひときわ大きな声が聞こえてくる。


「ガルドさんでしょうか」


「たぶん。あの声なら」


「姿が見えなくても分かりますね」


「ガルドさんだからね」


 二人で少し笑い、また静かな時間へ戻った。


     ◇


 やがてユウが机の上にあった木片を手に取った。


「ちょっとだけ削ろうかな」


「見ていてもよいですか?」


「いいよ」


「手伝いは必要ですか?」


「今はいらないかな」


「分かりました」


 エレナは向かいの椅子へ座ったまま、ユウの手元を見る。


 ベルの作業場ほど道具は揃っておらず、あくまで小さな木片を使った練習だった。ユウは刃物を木の表面へ浅く当て、力任せに押し込まず、薄い木屑を少しずつ落としていく。


「今日は、あまり深く削りませんね」


「昨日、一回深く入りすぎたから」


「覚えていたのですね」


「頭っていうより、手が覚えてたのかも」


「では、もし忘れたら?」


「また深く削るんじゃない?」


「それでも続けますか?」


「木が全部なくならなければね」


 エレナが笑うと、ユウも手を止めずに笑った。


 しかし数回削ったところで、刃が思ったより深く入ったらしく、ユウの手が止まる。


「あ、やった」


「深くなりましたか?」


「うん。ちょっと削りすぎた」


 ユウは木片を目の高さまで持ち上げ、角度を変えながら確認している。


「やめますか?」


「いや、ここから周りを少し合わせられるか見てみる」


「直せるか分かりますか?」


「分かんない。でも、いきなり全部削るよりはいいかな。駄目ならベルさんに聞く」


 ユウは失敗した場所そのものを一気になくそうとはせず、周囲の形を確かめながら少しずつ刃を入れていった。


 その様子を見ながら、エレナは昔の自分ならどうしただろうと考える。


(間違った場所を、すぐになかったことにしようとしたかもしれません)


 失敗を残したまま先へ進むことが怖かった。


 けれど、木片は削りすぎた場所があっても、そこで全部が駄目になるわけではないらしい。残った形を見て、その先を考えることができる。


 そこまで考えてから、エレナは少し笑った。


 何でも自分の人生へ重ねる必要はない。


 今目の前にあるのは、ユウが木削りの練習をしている光景だ。それだけでも十分に面白かった。


     ◇


「疲れはどうですか?」


 しばらく見ていたエレナが尋ねると、ユウは手を止めて自分の指を軽く動かした。


「一くらいかな」


「本当ですか?」


「たぶん。今日はまだそんなにやってないし」


「では、もう少し続けますか?」


「うん。あとちょっとだけ」


 疲れが一程度なら、止めるかどうかはユウ自身が決めればいい。


 エレナもそれ以上は口を挟まず、薄い木屑が机へ落ちていく様子を眺めた。


 それから少し削ったところで、ユウはまだ途中の木片を机へ置いた。


「今日はここまで」


「疲れましたか?」


「いや。一のままだよ」


「では、なぜやめるのですか?」


「今はもういいかなって思ったから」


 エレナは少し驚いた。


「まだできるのに?」


「できるけど、やりたい分はやったし。別に疲れるまでやらなくてもいいでしょ」


 ユウは刃物を布で拭き、決められた場所へ片づける。


 疲れるまでやる。


 終わるまでやる。


 決めた量までやる。


 エレナにとっては、それらのどれかが作業を終える理由になることが多かった。まだできる状態なのに「今日はここまで」と決める感覚は、今でも少し不思議だった。


「ユウさんは、以前からそうやってやめられたのですか?」


「全然」


 あまりにも早い答えに、エレナは目を瞬かせた。


「そんなにですか?」


「前の仕事の時は、一個終わっても次があったからね。次が終わったらまた次があって、途中で何か起きたらそっちに行って、最後に記録が残ってたら記録してた」


「休む時間はなかったのですか?」


「時間としてはあったよ。でも、その通りに休めるかは日によったかな」


 ユウは少しだけ遠くを見るような目をした。


 エレナはもっと聞いてみたい気持ちもあったが、今すぐ詳しく話してもらう必要はないと思い、黙って次の言葉を待った。


「だから今は、終わってなくてもやめる練習してる感じかも」


「木削りでも?」


「うん。完成させるための練習でもあるけど、途中でやめる練習にもなってるのかもね」


 エレナは机の上の、まだ完成していない木片を見る。


「私と同じですね」


「何が?」


「まだ途中です」


 ユウが少し笑った。


「そうだね。俺も途中」


「では、今日は途中で終わりですね」


「うん。またやりたくなったらやるよ」


 完成していない木片は、そのまま机の端へ置かれた。


 それを見ても、エレナは以前のような落ち着かなさを覚えなかった。


     ◇


 昼が近づき、外の日差しが朝より強くなった頃、エレナは椅子から立ち上がった。


「そろそろ帰ります。昼食までいただいたら、二日続けてマーサさんにお世話になりすぎる気がしますので」


「昨日も別に怒られてなかったけど」


「マーサさんではなく、私が少し気になるのです」


「そっか。じゃあまた」


 エレナは外套を着て戸口まで行ったところで、振り返った。


「今日は来てよかったです」


「うん」


「ユウさんは?」


 聞くと、ユウは今度はそれほど迷わなかった。


「俺も。来てくれてよかったよ」


「本当に?」


「本当」


 エレナは嬉しくなり、自然に笑った。


「では、よかったです」


 戸へ手をかけたところで、背後から名前を呼ばれる。


「エレナさん」


「はい?」


 振り返ると、ユウは机の横に立ったままこちらを見ていた。


「また来ていいよ。用事なくても」


 胸の奥が、ゆっくり温かくなる。


「はい。また来ます」


 そこで一度言葉を切り、今朝から何度も自分の中で確かめてきた気持ちを、そのまま伝える。


「会いたくなったら」


「うん」


「ユウさんも来てくださいね」


「会いたくなったら?」


「はい」


 ユウは少しだけ笑った。


「分かった」


 エレナも笑い返し、今度こそ家を出た。


     ◇


 帰り道では朝より気温が上がり、道に残っていた水溜まりも少しずつ小さくなっていた。


 村の中央近くまで戻ったところで、道端にしゃがみ込んでいるニコを見つける。目の前には、以前から観察している小さな虫道があった。


「エレナ!」


「おはようございます、ニコ」


「もう朝じゃないよ。もうすぐ昼だよ」


「確かにそうですね。では、こんにちは」


「こんにちは!」


 ニコは満足そうに頷くと、すぐに地面へ視線を戻した。


「今日も虫を待っているのですか?」


「うん。でも、まだ来てない。エレナも見る?」


 エレナは少し考えた。


 今日はユウに会いに行き、もうすぐ昼になる。今はマーサの家へ帰りたい気持ちの方が強かった。


「今日は帰ります。また見たくなったら来ますね」


「分かった!」


 ニコはあっさり受け入れ、再び虫道へ顔を近づけた。


 断っても、何も壊れない。


 エレナもそのまま歩き出したが、数歩進んだところで、背後からニコの大きな声が飛んできた。


「あっ、来た! エレナ、虫来たよ!」


 思わず足が止まり、エレナは振り返る。


 ニコが嬉しそうに地面を指していた。


 帰ると決めたばかりだ。


 けれど、今は見たい。


「ニコ、やはり見に戻ってもよいですか?」


「いいよ! 早く!」


 エレナは笑いながら来た道を数歩戻り、ニコの隣へしゃがんだ。


 小さな黒い虫は、細い道の途中に置かれた木片の横を通り、さらに小石の近くまで進んでいる。そこで一度止まったため、ニコが心配そうに眉を寄せた。


「石、邪魔かな。どけた方がいい?」


「どうでしょう。ニコは、どうしたいですか?」


 聞かれたニコはすぐに手を出さず、しばらく虫と小石を見比べた。


「……まだ置いとく」


「では、今日はそのままにしましょう」


「虫が嫌だったら?」


「その時に、また考えてみてはどうですか?」


「うん。そうする」


 小さな虫はしばらく動かなかったが、やがて小石を避けるように横へ進み、そのまま草の中へ消えていった。


「今日は最後まで行かなかったね」


「はい。でも、前より先まで来ましたか?」


「うーん……同じくらいかな。ちょっとだけ先かも。でも分かんない」


「では、分からないままですね」


「うん。でも来たからいいや」


 ニコは満足そうに笑った。


 エレナも立ち上がり、服についた土を軽く払う。


「では、今度こそ帰ります」


「うん。またね!」


「また」


 帰ると決めたあとで、見たいものができたから戻った。


 そして見終えたので、また帰る。


 予定を変えたからといって、最初の判断が間違っていたことにはならないのだろう。


     ◇


 マーサの家へ戻ると、台所から昼食の匂いが漂っていた。


「ただいま戻りました」


「おかえり。ユウには会えたかい?」


「はい。会えました」


「そうかい」


 マーサは鍋を混ぜたまま、それ以上は聞いてこない。


 エレナは外套を脱ぎながら、少しだけ待ってみた。


「……それだけですか?」


「またそれかい。何を聞いてほしいんだい?」


「自分でも分かりません」


「なら、あたしにも分からないよ」


 もっともな答えに、エレナは笑ってしまった。


 するとマーサは鍋へ野菜を加えながら、今度は自分から尋ねる。


「楽しかったかい?」


「はい。楽しかったです」


「ならよかった」


「それから……ユウさんも、私が来て嬉しかったと言ってくれました」


 マーサの手が、ほんの少しだけ止まった。


 けれどエレナにはその変化を気にする余裕はなく、自分で口にした言葉を思い返して頬を赤くしている。


「そうかい」


「はい」


「よかったね」


「……はい」


 マーサはそれ以上、何も言わなかった。


 エレナも無理に説明しようとはしない。


 まだ自分でも、この嬉しさをどう説明すればいいのか分からないのだから。


     ◇


 午後になると、エレナは部屋へ戻り、『暮らしの小さな工夫』の続きを開いた。


 朝はあえて持っていかなかった本を、今は自分の部屋でゆっくり読む。何ページか進むと、古くなった衣服を当て布で繕う方法について書かれていた。


 破れた場所を無理に隠すのではなく、残っている布の強さを確かめ、それに合わせて別の布を当てる。完全に元通りにはならないが、それでもまた着られるようになるのだという。


 エレナは文章の上へ指を置き、少しだけ動きを止めた。


 人生に重ねようと思えば、いくらでも重ねられる気がした。


 失った婚約。


 壊れた家族との関係。


 追放された自分。


 王都に残してきたもの。


 けれど、そこまで考えかけたところで、エレナは本を見つめ直した。


(これは、衣服を繕う話なのですよね)


 何でも自分の過去と結びつけなくてもいい。


「今度、マーサさんに当て布のやり方を聞いてみましょう」


 小さく呟き、次のページをめくる。


 今日はそれで十分だった。


     ◇


 夕方になり、乾かしていた布を家の中へ取り込んでいると、村道をローデンが歩いてきた。


「こんにちは、ローデンさん」


「ああ、エレナ。今日はよく晴れたな」


「はい。布も乾きました」


 何気ない会話を交わしたあと、エレナは少しだけ迷い、三軒目の家について尋ねることにした。


「以前お願いした伝言ですが、何か新しい知らせはありましたか?」


「いや、まだ何もない。バルトが西へ向かったばかりだからな」


「そうでしたね」


「まず西の町でゼムに会えるかどうかだ。そこから先も、ゼムの伝手で昔の親方へ話が届くか確認しないといけない。急ぐなら別の手も考えるが」


 ローデンの説明を聞きながら、エレナは胸の中を確かめた。


 返事が欲しくないわけではない。


 早く分かれば嬉しい。


 けれど、今すぐでなければ耐えられないほどではなかった。


「いいえ。今は、このまま待ちます」


「分かった。何か届いたら知らせる」


「ありがとうございます」


 ローデンは頷き、再び村道を歩いていった。


 いつ返事が来るのかは分からない。


 ゼムから昔の親方へ話が届くのか、その先でエルドにつながるのか、三軒目の家を自分が使えるようになるのかも分からないままだ。


 けれど、返事を待っている間にも今日という一日はあった。


 ユウに会いたいと思い、自分から会いに行った。


 それだけでも、今日には十分な出来事があった。


     ◇


 夜になり、エレナはいつものように記録帳を開いた。


 何を書くか少し考えてから、最初の一行を記す。


『朝、ユウさんに会いたいと思った。』


 書いた瞬間、昼間よりも頬が熱くなった。


 誰かに見せるための記録ではないのに、それでも少し恥ずかしい。けれど、消そうとは思わず、そのまま続きを書いていく。


『特に用事はなかった。借りた本も持っていかなかった。』


『会いたかったので、会いに行った。』


 そこまで書くと、エレナは一度筆を置いた。


 文字になっても意味は変わらない。


 何か別の理由を足して、自分の行動を正当化する必要もなかった。


 再び筆を取る。


『ユウさんは、私が来て嬉しかったと言った。』


『私は、それを聞いて嬉しかった。』


 書いているだけで、胸の奥がまた温かくなる。


 さらに、その後のことも残していく。


『ユウさんは、また用事がなくても来てよいと言った。私は、会いたくなったらまた行くと言った。』


 昨日、自分はユウが来ると嬉しいと書いた。


 今日は、自分から会いに行った。


 少しずつ何かが変わっているのは分かる。


 けれど、それが何なのかまで、今夜決める必要はない。


(名前をつけなくても、感じたことまでなくなるわけではありません)


 エレナは今日の残りを書き足していく。


『帰る途中、ニコの虫が来たので、一度帰ると決めたけれど戻った。予定は途中で変えてもよかった。』


『三軒目の家については、まだ返事がない。ローデンさんから、今はバルトさんが西へ向かっている途中だと聞いた。私はこのまま待つことにした。』


『東の警戒線も、今日は鳴らなかった。』


 最後に何を書くか、少しだけ考える。


 やがてエレナは、今日一日で一番自分の中に残ったものを、そのまま記した。


『何も決まっていないことは多い。でも今日は、会いたい人に会いに行けた。』


 筆を置き、記録帳を閉じる。


 机の上には、まだ読み終えていない本がある。


 三軒目の家については返事を待っており、森の向こうに何があるのかも分からない。妹と再び会うのかどうかさえ決めておらず、ユウへ向けている気持ちにも、まだ名前はついていない。


 途中のものばかりだった。


 けれど、途中だから何もできないわけではない。


 今朝、自分は誰かに会いたいと思った。


 その気持ちを別の理由へ置き換えず、自分で家を出た。


 そして、会いに行った。


(会えて、嬉しかったです)


 今夜は、それだけ分かっていれば十分だった。


 エレナは灯りを落とし、まだ答えの出ていないものを明日へ残したまま、静かに寝台へ入った。

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