第61話 借りた本の続き
朝から、細かな雨が降っていた。
屋根を強く叩くほどではなく、庭の土や道をゆっくり濡らしていく静かな雨だった。窓の向こうに見える家々は薄い灰色の空気に包まれ、いつもなら朝から聞こえてくる村人たちの声も、今日は少し遠く感じられる。
エレナは寝台から起き上がると、しばらく窓辺に立って外を眺めた。
(今日は、あまり遠くへ行かない方がよさそうですね)
そう考えた直後、自分の中にもう一つ別の思いが浮かんだ。
昨日の朝には、今日の予定を決めなかった。
雨が降っているからといって、何もできないわけではない。けれど、雨だから何か室内で役に立つことを探さなければならないわけでもない。
視線を部屋の中へ戻す。
机の上には、ユウから借りた『暮らしの小さな工夫』が置かれていた。
ベルが表紙と綴じを直した古い本だ。
昨夜も少しだけ続きを読もうかと思ったものの、眠気の方が強く、そのまま眠った。
(今日は、これを読みましょうか)
今度はすぐに決められた。
義務ではない。
雨の日だから本を読まなければならないわけでもない。
ただ、読みたい。
エレナは本を手に取ると、まだ少し冷たい表紙を指先で撫でた。
◇
台所へ下りると、マーサは窓を少しだけ開けて外を見ていた。
「おはようございます」
「おはよう。降ったねえ」
「しばらく続きそうでしょうか?」
「さあね。空を見る限り、昼までは降るんじゃないかい」
マーサは窓を閉め、鍋のところへ戻る。
エレナは椅子へ座りながら、外套を掛けてある壁へ目を向けた。
「今日は畑へ行きますか?」
「この雨なら行かないよ。急ぐもんもない」
「ガルドさんは行きそうですね」
「行くだろうね」
「止めなくてよいのでしょうか」
「止めても行くよ」
「それは分かる気がします」
二人で少し笑う。
マーサが朝食を運んでくる。
今日は温かな粥と、塩気のある野菜だった。雨で少し冷えた朝にはちょうどよく、湯気と一緒に穀物の匂いが立ち上っている。
「今日は何するんだい?」
マーサが向かいへ座りながら尋ねた。
「本を読もうと思います」
「昨日持って帰ってきたやつかい?」
「はい。ユウさんから借りました」
「返す期限は?」
「ありません」
「ならゆっくり読めばいい」
「そうします」
匙を動かしながら、エレナはふと昨日読んだ内容を思い出した。
固くなった布を柔らかくする方法。
本にはいくつかの手順が書かれていた。
「マーサさん」
「何だい?」
「固くなった布を柔らかくする時は、どうしていますか?」
「布?」
「はい」
「物によるね」
予想していなかった答えだった。
「物による?」
「何に使う布か、どれくらい古いか、汚れてるかでも違うだろ」
「ああ……」
「何で急に?」
「本に書いてありました」
「どんなやり方だい?」
エレナは覚えている範囲で説明した。
ぬるい湯へ浸し、少量の灰から作った洗浄液を使い、強く絞らず乾かす。乾ききる前に一度手でほぐす。
マーサは聞き終えると、少し考えた。
「間違いじゃないね」
「マーサさんも同じですか?」
「だいたいは。でも、全部の布にやったら傷むよ」
「本には、そこまで書いていなかったと思います」
「本を書いた奴が使ってた布と、うちの布が同じとは限らないだろ」
エレナの匙が止まる。
「……そうですね」
「書いてあることが間違ってなくても、そのまま使えるとは限らないよ」
マーサは粥を一口食べる。
「分かんなきゃ聞けばいい」
「昨日、ユウさんとも似た話をしました」
「なら二回聞いたね」
「二回聞いてもよいのでしょうか」
「別の奴に聞いたなら、答えも違うかもしれないだろ」
「確かに」
エレナは少し嬉しくなる。
本に書いてあること。
ユウが考えること。
マーサが長く暮らしてきた中で知っていること。
全部が同じである必要はない。
(正しい答えが一つだけではないことも、あるのですね)
公爵家で受けた教育では、正解がはっきりしているものが多かった。
礼の角度。
食器の扱い。
貴族の家系。
国の歴史。
舞踏会での順序。
間違えれば、間違いだった。
けれど生活の中には、そうではないことがいくつもあるらしい。
「食べないのかい?」
マーサの声で、エレナは我に返った。
「食べます」
「また考えてたね」
「はい。でも、冷める前に食べます」
「そうしな」
エレナは再び匙を動かした。
◇
朝食の後、マーサは古い布を何枚か持ってきた。
「これ、畳んどいてくれるかい?」
「はい」
「傷んでるのがあったら横に分けといて」
「分かりました」
エレナは机の上へ布を広げる。
以前なら、一枚ずつ端まで確認し、少しでもほつれていれば傷んだものとして分けていたかもしれない。
今はマーサから教わった基準を思い出しながら見る。
小さなほつれ。
薄くなった部分。
まだ十分に使えるもの。
迷った時は、勝手に決めない。
「マーサさん、これは?」
「見せてみな」
渡す。
マーサは指で布を引っ張り、光へ透かした。
「まだ使える」
「こちらは?」
「そっちは分けといて」
「違いは、ここですか?」
「そこもだけど、端も見てみな」
言われた場所を見る。
確かに、糸がかなり弱くなっている。
「分かりました」
次の布へ移る。
一度で全部覚えなくてもいい。
昨日、本を読んでそう思ったばかりだった。
それでも実際に分からないものが出ると、以前の癖が顔を出す。
(これくらい、自分で判断できなければいけないのではないでしょうか)
そんな考えが浮かび、エレナの指が止まった。
すぐに、自分で気づく。
(……またですね)
分からなければ聞けばいい。
一度聞いたことでも、違う布なら分からなくなることはある。
同じ失敗を繰り返さないよう覚えることと、何でも一度で覚えなければならないと思うことは違う。
エレナは息を吐き、次の布を手に取った。
しばらくすると、マーサが横から覗き込む。
「だいぶ分かれてるね」
「間違っていないでしょうか」
「あとで見るよ」
「今ではなく?」
「急がないだろ」
「はい」
「なら終わってからでいい」
マーサはそう言って離れていく。
エレナは積まれた布を見る。
自分が分けたものが正しいかどうか、すぐ確認してもらわなくてもいい。
間違っていれば、後で直せる。
その感覚にも少しずつ慣れてきた。
◇
布を畳み終える頃になっても、雨はまだ降っていた。
マーサに確認してもらうと、傷んだ布へ入れたもののうち一枚だけ、まだ使えると言われた。
「これは大丈夫なのですか?」
「ああ。薄く見えるけど、まだ糸はしっかりしてる」
「間違えました」
「そうだね」
マーサはそれだけ言う。
責める声ではない。
エレナは一枚を元の山へ戻した。
「次は分かると思います」
「分かんなかったら、また聞きな」
「はい」
それで終わった。
失敗した。
でも、今日一日が失敗になったわけではない。
布を一枚、別の山へ移しただけだった。
マーサが台所へ戻った後、エレナはしばらくその布を見ていたが、やがて笑ってしまった。
(本当に、それだけなのですね)
間違えた。
直した。
終わり。
誰かと比較されることもない。
できなかった理由を説明する必要もない。
次は気をつければいい。
エレナは畳んだ布を所定の場所へ戻すと、部屋から『暮らしの小さな工夫』を持ってきた。
◇
窓の近くへ椅子を置く。
雨の日は外が暗いため、少しでも光が入る場所の方が読みやすい。
本を開くと、昨日ユウの家で読んだ木の椅子の手入れについての続きがあった。
木材を乾かすこと。
湿気が多い場所へ長く置かないこと。
脚のぐらつきを放置しないこと。
小さなひびは早めに確認すること。
エレナは一つずつ読む。
(ユウさんの椅子は、まだ木ですらありませんね)
練習用の木片しかない。
それなのに、自分は完成した椅子の手入れ方法を読んでいる。
少し気が早い。
ベルにも昨日そう言われた。
エレナは口元を緩め、次のページをめくった。
そこには、雨の日に家の中へ湿気を溜めすぎないための工夫が載っていた。
「ちょうど今日ですね」
小さく呟く。
窓を少し開ける。
しかし、雨が吹き込みそうになったため、すぐ閉じた。
「……これは違いますね」
「何やってんだい?」
マーサが台所から顔を出す。
「本に、雨の日でも少し空気を入れ替えると書いてありました」
「風向き見な」
「はい」
「反対側なら少し開けても入らないよ」
エレナは立ち上がり、反対側の小さな窓へ行く。
少しだけ開ける。
こちらからは雨が入ってこない。
代わりに、冷たく湿った空気がゆっくり部屋へ流れ込んだ。
「本だけでは足りませんね」
「本が風向きまで見てくれるわけじゃないからね」
「確かに」
エレナは椅子へ戻った。
本に書いてあることを試した。
うまくいかなかった。
マーサへ聞いた。
少し変えた。
今度はできた。
それだけの流れが、妙に楽しい。
◇
昼が近づく頃、戸を叩く音がした。
「誰だい?」
マーサが声をかける。
「俺」
聞き慣れた声だった。
エレナの顔が自然に上がる。
マーサが戸を開けると、外套の肩を濡らしたユウが立っていた。
「雨の中、どうしたんだい?」
「これ」
ユウが小さな包みを持ち上げる。
「オルドさんが卵くれたから、マーサさんのところにもって」
「買ったんじゃないのかい?」
「今日はもらった。昨日ちょっと柵直すの手伝ったからって」
「入んな。そんなとこ立ってたら濡れるよ」
「じゃあ少しだけ」
ユウが中へ入る。
外套を脱ぐ。
髪にも細かな水滴がついていた。
エレナは椅子から立ち上がる。
「おはようございます、ユウさん」
「おはよう、エレナさん」
「濡れています」
「ちょっとね」
「布を――」
言いながら動きかけて、エレナは止まった。
ユウが自分で外套を振り、入口脇へ掛けている。
困ってはいない。
「……必要ですか?」
「何が?」
「髪を拭く布です」
「あったら借りたい」
「持ってきます」
今度は迷わず動く。
必要か確認した。
必要だと言われた。
だから持ってくる。
それだけでいい。
マーサから布を一枚借り、ユウへ渡す。
「ありがとう」
「はい」
ユウが髪を拭く。
エレナはその様子を見ながら、先ほど自分が畳んだ布の山を思い出した。
今渡したものは、あの中の一枚だった。
生活の中で物が使われている。
それが少し面白い。
「本、読んでた?」
ユウが机の上を見る。
「はい」
「どう?」
「面白いです」
「物語じゃないのに?」
「今日は本に書いてあることを一つ試しました」
「何したの?」
「雨の日の空気の入れ替えです」
反対側の窓を指す。
「最初はこちらを開けて、雨が入りそうになりました」
「入った?」
「入る前に閉めました」
「ならよかった」
「マーサさんに風向きを見ろと言われました」
「本に書いてなかった?」
「そこまでは」
「本も万能じゃないね」
「はい」
エレナは笑う。
「それが面白いと思いました」
「失敗したのが?」
「それも少し」
以前なら、自分からそんな言葉を言うとは思わなかった。
ユウも少し意外そうにエレナを見る。
「変ですか?」
「いや」
「今、少し驚きましたよね」
「ちょっと」
「なぜですか?」
ユウは借りた布で髪を拭きながら考える。
「最初に会った頃のエレナさんなら、失敗が面白いとは言わなそうだったから」
エレナは黙る。
最初に会った頃。
追放されたばかりで、何をしてよいのか分からず、休むことさえ許可を求めるようだった自分。
「そうですね」
否定できなかった。
「たぶん、言わなかったと思います」
「うん」
「失敗したら、もっと上手くやらなければと思っていたでしょうから」
ユウは何も言わずに聞いている。
マーサは卵を台所へ運びながら、二人の会話へ割り込まない。
「今日も、布を一枚間違えて分けました」
「何の布?」
「まだ使えるものを、傷んでいると思ってしまいました」
「それで?」
「マーサさんに教えてもらって、戻しました」
「うん」
「終わりでした」
「終わり?」
「はい。間違えたので戻しました。それで終わりです」
エレナは自分でも確かめるように言った。
「以前なら、なぜ分からなかったのか、次は絶対に間違えないようにしなければ、とずっと考えていたと思います」
「今は?」
「次に分からなければ、また聞きます」
「そっか」
「百回は聞きません」
「それなら大丈夫」
「十回は?」
「内容による」
「やはり同じですね」
二人で笑う。
台所からマーサの声が飛んできた。
「百回も同じ布持ってきたら、あたしでも怒るよ」
「マーサさんもですか?」
「当たり前だよ」
「では、気をつけます」
エレナが真面目に答えると、マーサが笑った。
◇
ユウは卵を届けたら帰るつもりだったらしい。
けれど、外を見ると雨脚が少しだけ強くなっていた。
細かな雨粒が屋根から連続して落ち、道にも浅い水溜まりができ始めている。
「少し待ってきな」
マーサが言った。
「でも、そんな遠くないよ」
「急いで帰る理由あるのかい?」
「ない」
「なら待ちな」
「うん」
ユウは素直に椅子へ座った。
エレナは向かいにある『暮らしの小さな工夫』を見る。
「ユウさん」
「ん?」
「一緒に読みますか?」
「また?」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないよ」
「では」
エレナは本を開く。
昨日の続きから少し進んだところ。
雨の日の家の手入れ。
濡れた履物の乾かし方。
薪を湿らせない積み方。
土間へ泥を広げない工夫。
「これ、村の人はだいたいやってそう」
ユウが言う。
「そうなのですか?」
「雨の日に薪を外へ置きっぱなしにしてる家、あんまりないでしょ」
「確かに」
「本に書いてあることが、ここの人には当たり前なのかも」
「では、この本は必要ないのでしょうか」
「知らない人には必要なんじゃない?」
ユウがページの挿絵を見る。
「あと、やり方違うところ比べるのも面白いし」
「私もそう思います」
エレナは次のページをめくる。
そこには、割れた木箱の簡単な補修方法が載っていた。
「これはベルさんなら、もっと上手く直しそうですね」
「うん」
「ユウさんなら?」
「ベルさんに持ってく」
「自分でやらないのですか?」
「物によるかな。練習したいならやるかもしれないけど、急いで使いたい箱ならベルさん」
「できるようになるために、全部自分でやる必要はない?」
「ないと思うよ」
「でも、練習しなければできるようになりません」
「できるようになりたいなら練習すればいいんじゃない?」
「できるようになりたいかどうかから考える?」
「うん」
エレナは本へ視線を戻す。
できることが多いほどよい。
ずっとそう思っていた。
公爵令嬢として必要なことは、何でもできなければならない。
王太子妃になるなら、さらに多くを求められる。
不得意なものがあれば、克服する。
足りなければ補う。
妹にできて自分にできないものがあれば、努力する。
(でも、木箱を直せるようになりたいかと聞かれたら……)
少し考える。
「今は、別に直せるようになりたいとは思いません」
「じゃあベルさんだね」
「はい」
「ベルさん嫌がるかもしれないけど」
「その時は?」
「相談する」
「結局、聞くのですね」
「聞かないと分かんないし」
エレナは笑った。
◇
マーサは台所から、時折二人の会話を聞いていた。
最初にエレナがこの家へ来た頃、少女は何をするにも一度こちらの顔を見ていた。
座っていいか。
食べていいか。
手伝うべきか。
休んでいいか。
聞かない時でさえ、目が答えを探していた。
今も尋ねることは多い。
けれど、意味が違ってきている。
許可を求める質問ではなく、分からないから聞く質問が増えた。
断られても、自分そのものを拒絶されたような顔をしなくなった。
間違えても、長いこと俯かなくなった。
そして何より、ユウと話している時の顔がずいぶん柔らかくなった。
本人はまだ、そこまで気づいていないのかもしれない。
ユウの方も、特別何かをしている顔ではない。
本を一緒に見て、分からないことには分からないと言い、できないことは人に頼めばいいと言っているだけだ。
けれど、その「だけ」がエレナには合っているのだろう。
マーサは鍋の中を一度確認すると、二人へ声をかけた。
「昼、食べてくかい?」
ユウが顔を上げる。
「いいの?」
「卵持ってきたんだから一個くらい食べてきな」
「俺が持ってきた卵なんだけど」
「だからだよ」
「よく分かんないけど、食べる」
「ユウさん」
エレナが少し呆れたように笑う。
「そこはもう少し考えないのですか?」
「ご飯もらえるなら食べたい」
「分かりやすいですね」
マーサは二人を見ながら、小さく笑った。
◇
昼食には、バルトが西へ運んでいった荷車とは何の関係もない、いつもの村の食材が並んだ。
野菜の煮込みとパン。
それから、ユウが持ってきた卵を使った料理。
マーサは卵を少し固めに焼いた。
「今日は柔らかくないのですね」
エレナが言う。
「お前さん、柔らかい方がいいのかい?」
「好きですが、今日はこれでよいです」
「なら食べな」
「はい」
ユウが自分の皿を見る。
「俺のも同じ」
「当たり前だよ。一人ずつ焼き方変えるほど暇じゃない」
「俺は普通でいいよ」
「知ってるよ」
「なぜですか?」
エレナが尋ねる。
マーサがユウを見る。
「前に聞いた」
「いつ?」
「忘れた」
「俺も忘れた」
「二人とも忘れているのに、覚えているのですか?」
「必要なとこだけ覚えてりゃいいんだよ」
マーサは自分の席へ座る。
エレナはその言葉に少し笑った。
「今日、その話ばかりですね」
「何の話だい?」
「全部覚えなくてもよいという話です」
「そうだったかい?」
「マーサさんは意識していないのですね」
「いちいち考えて暮らしてないよ」
エレナは卵を一口食べる。
少し固い。
でも美味しい。
柔らかい方が好きだからといって、固いものが嫌いになるわけではない。
「これも好きです」
「何が?」
「今日の卵です」
「そりゃよかった」
マーサは簡単に答える。
ユウも食べながら頷いた。
「美味しいね」
「はい」
雨の音を聞きながら三人で食べる。
特別な昼食ではない。
ユウがたまたま卵を持ってきて、雨が強くなったから残り、マーサが昼食へ誘った。
予定していたことではない。
それでも、エレナはこの時間が好きだと思った。
◇
昼食を終える頃には、雨脚がまた弱くなっていた。
ユウは窓から空を見る。
「今なら帰れるかな」
「もう帰るのですか?」
エレナは思わず尋ねた。
声に出してから、自分でも少し驚く。
ユウが振り返る。
「まだいた方がいい?」
まっすぐ聞かれた。
エレナはすぐに「どちらでも」と答えそうになった。
けれど、それは本当だろうか。
帰ってもらって困るわけではない。
でも、もう少し一緒にいたい気持ちはある。
自分の中を確かめる。
「……もう少しだけ、いてほしいです」
言うと、胸の奥が少し熱くなった。
以前、木陰でも同じようなことを言った。
あの時より、今日は少し早く答えられた。
ユウは窓から離れる。
「じゃあ、もう少しいる」
「よいのですか?」
「急ぐ用事ないし」
「ありがとうございます」
「本の続き読む?」
「はい」
マーサは食器を片づけながら二人を見たが、何も言わなかった。
ただ、エレナが以前よりずっと自然に自分の希望を口にしたことだけは、しっかり見ていた。
◇
午後。
今度は本を声に出して読むのではなく、それぞれが同じページを覗き込みながら、気になったところだけ話した。
途中には、食べ物を保存するための棚について書かれた箇所があった。
「三軒目の家にも棚がありましたね」
エレナが言う。
「あったね」
「使えるでしょうか」
「分かんない。触ってないし」
「ベルさんに見てもらう必要がありますね」
「家使えるって決まってからかな」
「はい」
以前なら、すぐ見てもらいたいと思ったかもしれない。
住みたい。
なら準備を進めなければ。
使えるものを調べ、必要なものを数え、修理の予定を立てる。
そうしたくなっただろう。
今も、少しはしたい。
けれど、まだ自分の家ではない。
「返事が来てから考えます」
「うん」
「それまでは、本の棚だけ見ておきます」
「本の中の?」
「はい」
エレナは挿絵を見る。
簡素な木の棚だ。
「こういう棚もよいですね」
「本置く?」
「食べ物の棚ですよ?」
「家の棚の話かと思った」
「本棚も欲しいです」
「増えたね」
「まだ想像だけです」
「想像ならいくら増やしてもいいんじゃない?」
「では、大きな本棚にします」
「急に大きくなった」
「ユウさんから本を借りるので」
「全部持っていく気?」
「貸してくださらないのですか?」
「いいけど、俺の家から本なくなるよ」
「では、時々にします」
エレナは笑う。
家はまだ決まっていない。
それでも、想像することまで止める必要はない。
決まっていない未来を、決まったこととして扱わない。
でも、楽しみにすることはできる。
その違いも少し分かってきた。
◇
やがて雨がほとんど止んだ。
屋根から落ちる雫の間隔も長くなり、雲の向こうが少し明るくなっている。
ユウが立ち上がった。
「今度こそ帰ろうかな」
エレナも窓を見る。
今度は、先ほどほど引き止めたいとは思わなかった。
「はい」
「大丈夫?」
「何がですか?」
「もう少しいてほしい?」
聞かれて、エレナは自分の気持ちを確かめる。
「今は、大丈夫です」
「そっか」
「先ほどは、いてほしかったです」
「うん」
「今は、帰っても大丈夫です」
「分かった」
それだけでいい。
一度いてほしいと言ったからといって、ずっといてもらう必要はない。
逆に、一度帰っていいと言ったからといって、もう来てほしくないわけでもない。
気持ちはその時々で変わる。
「ユウさん」
「ん?」
「また来てください」
「うん」
「卵がなくても」
「分かった」
「雨でなくても」
「うん」
「用事がなくても」
ユウが少し笑う。
「行きたかったらね」
「はい」
「エレナさんも来れば?」
「行きたかったら?」
「うん」
「そうします」
ユウが外套を着る。
先ほどより雨は弱い。
「布、ありがとう」
「いえ」
返された布を受け取る。
少し湿っている。
エレナはそれを見て、朝に分けた布のことを思い出した。
「これは洗った方がよいでしょうか」
「マーサさんに聞けば?」
「そうします」
「じゃあまた」
「はい。また」
戸が閉じる。
エレナは窓からユウを追わなかった。
少しだけ見たいと思ったが、見送らなくても帰る場所を知っている。
また会える。
そう思えた。
◇
「マーサさん」
エレナは湿った布を持って台所へ行った。
「これは洗いますか?」
「そのくらいなら干しときゃいいよ」
「洗わなくてよいのですか?」
「水拭いただけだろ」
「髪です」
「なら乾かしな」
「分かりました」
言われた場所へ布を掛ける。
朝なら、本に書いてある方法を探したかもしれない。
今はマーサに聞いた。
次に同じことがあれば、自分で判断できるかもしれない。
できなければ、また聞けばいい。
「エレナ」
「はい?」
「さっき、よく言えたね」
「何をですか?」
「ユウに、いてほしいって」
エレナの動きが止まる。
頬が少し熱くなる。
「……聞いていたのですか?」
「同じ部屋にいたからね」
「そうでした」
「前なら言えなかったんじゃないかい?」
エレナは否定できなかった。
相手を拘束するのではないか。
迷惑ではないか。
自分の希望を言うことで、相手に負担を背負わせるのではないか。
以前は、そこまで考えていた。
「今も少し迷いました」
「そうかい」
「でも、ユウさんは嫌なら帰れます」
「そうだね」
「私は、いてほしいと伝えただけです」
「そうだね」
「それなら、言ってもよいと思いました」
マーサは頷く。
「言わなきゃ分からないこともあるからね」
「はい」
「ユウは特にね」
「……そうでしょうか」
「さあね」
マーサは笑う。
「今のは忘れな」
「気になります」
「なら自分で考えな」
「マーサさん」
「夕飯までまだあるよ。本でも読んでな」
完全に話を終わらせられてしまった。
エレナは少しだけ不満を感じながら、椅子へ戻る。
(ユウさんは特に、とはどういう意味でしょう)
考える。
しかし、すぐには答えが出ない。
マーサへ聞き直しても、たぶん教えてくれない。
(……分からないなら、今は分からないままでよいですね)
そう思う。
けれど、本を開いた後も、しばらく文字が頭へ入ってこなかった。
◇
夕方には雨が完全に止んだ。
雲の隙間から淡い光が差し、濡れた道がところどころ白く光っている。
エレナは少しだけ外へ出た。
遠くへ行くつもりはない。
家の前で、雨上がりの空気を吸いたかった。
土の匂いが強い。
屋根から最後の雫が落ちる。
道の向こうを、サナが籠を持って歩いていた。
「雨止んだね」
「はい」
「ユウ、帰ったかい?」
「少し前に」
「昼までいたのかい?」
「雨が強くなったので」
「そうかい」
サナはそれだけ言って通り過ぎようとした。
エレナは少し迷ってから呼び止める。
「サナさん」
「何だい?」
「石鹸は、まだですか?」
「まだだよ」
「分かりました」
「もう少し待ちな」
「はい」
サナが笑う。
「本当に待てるようになったね」
「今日もマーサさんに似たようなことを言われました」
「前はそんなに待てなかったのかい?」
エレナは少し考える。
「待てないというより、待っている間に何かしなければと思っていました」
「今は?」
「本を読んでいます」
「いいじゃないか」
「はい」
サナは頷き、また歩き出した。
その背中を見送る。
石鹸はまだ。
三軒目の家の返事もまだ。
森の異変も分からない。
自分の将来も決まっていない。
ユウへの気持ちも、まだうまく名前をつけられない。
待っているものは多い。
けれど、待っている間に人生が止まるわけではない。
今日も朝食を食べた。
布を畳んだ。
一枚間違えた。
本を読んだ。
雨の日の窓を開ける向きを教わった。
ユウが来た。
一緒に昼食を食べた。
もう少しいてほしいと言った。
それだけで、十分に一日だった。
◇
夜。
エレナは記録帳を開いた。
外は静かだ。
雨上がりの夜は少し冷え、窓を閉じていても湿った土の匂いがわずかに残っている。
筆を取り、今日のことを書く。
『朝から雨だった。』
『マーサさんに頼まれて布を畳んだ。一枚、まだ使える布を傷んでいる方へ分けた。間違いだったので戻した。』
そこで少し止まり、続きを書く。
『それで終わった。』
その一文を見て、エレナは小さく笑う。
『本に書いてあった雨の日の換気を試した。最初の窓では雨が入りそうになったので閉めた。マーサさんに風向きを見るよう教わり、反対側を少し開けた。』
『本に書いてあることが正しくても、そのまま全部使えるとは限らないらしい。分からないことは人に聞いてよい。』
次。
『ユウさんが卵を届けに来た。雨が強くなったので、昼食も一緒に食べた。』
筆先が止まる。
ここから先を書くか、少し迷う。
けれど、昨日は「会えて嬉しかった」と書けた。
今日も、自分が思ったことを書けばいい。
『雨が弱くなった時、ユウさんが帰ろうとした。』
『私は、もう少しいてほしいと言った。』
胸が少しだけ温かくなる。
『ユウさんは、もう少しいてくれた。』
さらに一行。
『二度目に帰ろうとした時は、大丈夫だと思ったので、帰っても大丈夫だと言った。』
読み返す。
矛盾しているようには見えない。
その時はいてほしかった。
後では帰っても大丈夫だった。
どちらも本当だ。
『気持ちは、途中で変わってもよいらしい。』
そこまで書いて、筆を置く。
少し考えてから、もう一度取る。
『また来てほしいと言った。用事がなくても。』
頬が熱くなる。
誰も見ていないのに、記録帳を一度閉じたくなった。
けれど、閉じない。
その下へ、小さく書き足す。
『私は、ユウさんが来ると嬉しい。』
昨日より少しだけ具体的になった。
なぜ嬉しいのか。
そこまではまだ分からない。
分からないなら、今は決めなくていい。
エレナは記録帳を閉じた。
窓の外から警戒線の音は聞こえない。
西からの返事もまだない。
何かが大きく進んだ日ではなかった。
けれど、自分の希望を一つ、以前より早く口にできた。
(明日も、分からないことがあれば聞けばよいのでしょう)
そして、言いたいことがあれば、自分で言えばいい。
答えがすぐ出ないものは、答えが出るまで暮らしていけばいい。
エレナは灯りを落とした。
雨上がりの静かな夜の中で、今日借りたままの本を机に置き、急いで読み終えることもせずに寝台へ入った。




