第60話 今日の予定
翌朝、エレナはいつもと同じ頃に目を覚ました。
昨日のように、荷車を見送るため早く起きる必要はない。
西へ向かった伝言はもう自分の手を離れている。今頃どこにあるのかは分からず、考えたところで進む速度が変わるわけでもなかった。
寝台の上で身体を起こし、窓の外を見る。
薄い朝の光が村の家々を照らしている。
風は弱い。
雨の気配もない。
東側から警戒線の音も聞こえてこなかった。
(今日は、何をしましょう)
昨夜、明日の朝になってから決めればいいと思った。
だから考える。
けれど、すぐには何も浮かばなかった。
豆畑を見ることもできる。
ニコの虫の道を見に行ってもいい。
昨日借りた『暮らしの小さな工夫』を読んでもいい。
三軒目の家を外から眺めることもできるが、今日は特に見たいとは思わない。
ユウのところへ行くこともできる。
いくつか候補は浮かぶ。
しかし、その中から一つを選びたいほど強い気持ちはまだなかった。
「……分かりませんね」
呟いてから、エレナは寝台を降りた。
分からないなら、分からないまま朝食を食べればいい。
以前なら、一日の予定が決まっていないことに落ち着かなさを感じていただろう。
公爵家にいた頃は、起きる前から予定が決まっていた。
朝食。
教師との勉強。
礼儀作法。
刺繍。
歴史。
王宮へ行く日なら、その準備。
婚約者として出席する予定があれば、衣装や会話の確認まで必要だった。
自分で「今日は何をしよう」と考える日は、ほとんどなかった。
だから今は、予定がないことそのものが少し不思議だった。
(決まっていないのに、困ってはいません)
それが一番不思議なのかもしれない。
◇
台所へ行くと、マーサはすでに朝食の準備を始めていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日は普通だね」
「何がですか?」
「起きる時間」
「ああ」
昨日は早かった。
マーサは鍋を混ぜながらエレナを見る。
「今日は何かあるのかい?」
「ありません」
「そうかい」
「……それだけですか?」
「何がだい?」
「予定がないのです」
「いいじゃないか」
予想どおりの答えだった。
エレナは笑いながら椅子を引く。
「マーサさんは、予定がありますか?」
「朝飯食べて、洗い物して、少し畑見て、昼になったら昼飯食べる」
「それは予定なのですか?」
「予定だろ」
「そうですね」
「腹は予定どおり減るからね」
「確かに」
マーサが朝食を並べる。
パンと、昨日の残りの野菜を使った温かなスープ。
エレナは手を合わせてから食べ始めた。
「昨日の伝言のこと、考えてるのかい?」
「少しは」
「返事は今日来ないよ」
「分かっています」
「ならいい」
「でも、考えてはいけないわけではありませんよね?」
「好きなだけ考えな。ただ、スープ冷ますほど考えるな」
「それも昨日聞いた気がします」
「昨日も考え込んでたからだよ」
エレナは匙を動かす。
温かいうちに食べる。
その途中で、ふと思った。
「マーサさん」
「何だい?」
「今日は何か手伝うことがありますか?」
「あるよ」
即答だった。
エレナは少し姿勢を正す。
「何をすればよいですか?」
「食べ終わったら、裏の籠を一つ中へ入れとくれ」
「一つだけですか?」
「一つだけ」
「他には?」
「今はない」
「……分かりました」
以前なら、もう少しないかと聞いていたかもしれない。
一つだけでは役に立っていないように感じたはずだ。
けれど今は、頼まれた一つをやればいい。
「その後は?」
「知らないよ」
「私が決める?」
「誰の一日だい?」
「私です」
「ならそうだろ」
エレナは頷いた。
朝食を食べる。
籠を一つ運ぶ。
その先は、まだ決まっていない。
それで今日が始まる。
◇
食後。
エレナは言われたとおり、裏に置かれていた籠を一つ家の中へ運んだ。
中には乾かしていた豆が入っている。
それほど重くない。
台所脇の指定された場所へ置く。
「ここでよいですか?」
「ああ」
「終わりました」
「ありがとね」
マーサはそれ以上何も頼まなかった。
エレナは少しだけその場に立っていたが、やがて外を見る。
「少し歩いてきます」
「行っといで」
「行き先は決めていません」
「迷子になるほど広い村じゃないよ」
「それはそうですね」
外へ出る。
朝の村はもう動き始めていた。
家の前を掃く人。
井戸へ水を汲みに行く人。
畑へ向かう人。
遠くからガルドの声も聞こえる。
エレナは歩き出した。
どこへ行くかは決めない。
昨日、西へ荷車を見送りに行った道とは違い、今日は急ぐ理由がなかった。
道の端に小さな石が落ちている。
草の間には朝露が残っている。
何度も歩いた村なのに、急がず歩くと目に入るものが少し違った。
「エレナお姉ちゃん!」
声の方を見る。
ニコが走ってくる。
「おはようございます」
「虫まだ来てない!」
「そうですか」
「見に来た?」
「いえ。歩いていただけです」
「じゃあ見る?」
エレナは少し考える。
見てもいい。
でも、今はもう少し歩きたい。
「後で見たくなったら行きます」
「分かった!」
ニコはあっさり頷いた。
「昨日最後まで行ったから、今日も行くかな?」
「どうでしょう」
「行かなかったら?」
「昨日行ったことは変わりませんよ」
ニコが少し考える。
「そっか」
「はい」
「じゃあ待ってる」
「ずっとですか?」
「ずっとじゃないよ。腹減ったら帰る」
エレナは笑った。
「それがよいと思います」
「エレナお姉ちゃんも腹減ったら帰る?」
「たぶん」
「じゃあ同じ!」
「そうですね」
ニコは虫の道の方へ走っていった。
エレナはその背中を見送り、また歩く。
目的地はまだない。
◇
村の西寄りまで来たところで、ガルドが畑から手を振った。
「エレナ!」
「おはようございます」
「豆見るか!」
昨日は見なかった。
今日はどうだろう。
エレナは畑を見る。
少し見たい。
「見ます」
「来い!」
畑の端を歩き、例の豆のところへ向かう。
以前、少し傾いていた芽も残っている。
「伸びたぞ!」
ガルドが誇らしげに言う。
エレナはしゃがんだ。
「……伸びていますね」
「だろ!」
「昨日は本当に分かるほど伸びていたのでしょうか」
「知らん!」
「やはり」
ガルドが笑う。
エレナも笑った。
傾いている芽を見る。
まだ少し斜めだ。
けれど、前より葉が大きくなっている。
「支えは要りませんか?」
「まだいらん!」
「もっと倒れたら?」
「そん時考える!」
「変わりませんね」
「豆も毎日同じじゃないぞ!」
「そういう意味ではなかったのですが」
ガルドは気にしていない。
別の芽を見ながら土を少し指で崩している。
エレナは立ち上がる。
「今日は、見るだけでよいですか?」
「いいぞ!」
「何か手伝うことは?」
「ない!」
「分かりました」
すぐに受け入れる。
手伝うことがないなら、それでいい。
「では、また」
「昼に伸びたら呼ぶぞ!」
「一日のうちに分かるほど伸びますか?」
「知らん!」
「呼ばなくて大丈夫です」
「そうか!」
ガルドの大きな声を背中に受けながら、エレナは畑を離れた。
◇
そのまま歩いていると、前方にユウがいた。
片手に小さな桶を持っている。
エレナは足を止める。
昨日は朝と夕方に会った。
今朝は会いに行こうと決めていたわけではない。
けれど、見つけると自然に嬉しくなる。
「ユウさん」
声をかける。
ユウが振り返った。
「おはよう、エレナさん」
「おはようございます。何をしているのですか?」
「水汲み」
桶を見る。
「井戸へ?」
「うん」
「お手伝いしましょうか?」
口にしてから、エレナは少しだけ考えた。
以前なら、相手が何かを持っていれば反射的に手伝おうとした。
今も聞いた。
でも、聞くこと自体が悪いわけではない。
相手が断れるならいい。
「大丈夫。そんな重くないし」
「分かりました」
すぐに手を引く。
「エレナさんは?」
「散歩です」
「どこまで?」
「決めていません」
「そっか」
「ガルドさんの豆は見ました」
「伸びてた?」
「伸びていました」
「昨日より?」
「たぶん」
「ガルドさんと同じだ」
「私は『たぶん』を付けました」
「大事だね」
二人で笑う。
ユウは井戸へ向かう。
エレナも同じ方向へ少し歩いた。
「エレナさん、井戸に用事ある?」
「ありません」
「じゃあなんでこっち?」
「……一緒に歩いてもよいですか?」
自分で言ってから、少しだけ胸が鳴る。
ユウは桶を持ち直した。
「いいよ」
「ありがとうございます」
「でも井戸までだよ」
「はい」
「水汲んだら家戻るし」
「それでも」
並んで歩く。
ほんの短い距離。
昨日のように何か大きな話をするわけでもない。
「昨日借りた本、まだ少ししか読んでいません」
「急がなくていいよ」
「はい」
「ベルさんに返す期限もないし」
「ユウさんの本ですよ?」
「俺も急いでない」
「では、ゆっくり読みます」
「うん」
井戸へ着く。
先にサナがいた。
桶へ水を汲んでいる。
「おはようございます」
「おはよう、エレナ。ユウも」
「おはよう」
サナが二人を見る。
「朝から一緒かい?」
エレナの肩がわずかに動いた。
「途中で会いました」
「そうかい」
それだけ言って、サナは自分の桶を持ち上げる。
「石鹸はまだ触るんじゃないよ」
「分かっています」
「前より待てる顔になったね」
「顔で分かるのですか?」
「さあね」
サナは笑って去っていった。
エレナはその背中を見る。
「皆さん、顔で分かると言います」
「分かりやすいんじゃない?」
「ユウさんにも分かりますか?」
「何が?」
「私が何を考えているか」
「全部は分かんないよ」
「では、今は?」
ユウは少しだけエレナを見る。
「散歩してる」
「それは見れば分かります」
「本まだ読み終わってない」
「私が言いました」
「豆見た」
「それも言いました」
「じゃあ分かんない」
「……そうですか」
なぜか少し安心する。
全部を見透かされるわけではない。
自分が言ったことを、ユウは知る。
言っていないことは、勝手に決めつけない。
その距離が好きだった。
ユウが桶へ水を汲む。
エレナは手を出さない。
桶が満ちる。
「重くありませんか?」
「大丈夫」
「無理をしていませんか?」
「してない」
「疲労は?」
「一くらい」
「それなら大丈夫ですね」
ユウが笑う。
「エレナさん、たまに確認するよね」
「以前、四くらいまで黙っていたことがありましたから」
「覚えてるんだ」
「覚えています」
「今日は一」
「分かりました」
そこで終える。
ユウが桶を持つ。
「じゃあ俺、帰るね」
「はい」
エレナも一歩離れる。
それで別れるつもりだった。
けれど、ユウが少し歩いてから振り返った。
「エレナさん」
「はい?」
「今日、何か予定ある?」
「ありません」
「昼くらいにベルさんのところ行こうと思ってるんだけど」
「木削りですか?」
「うん。昨日は見ただけだったから、今日は少しやろうかなって」
「はい」
「見る?」
エレナは瞬きをした。
「私が?」
「前に途中のところ見たいって言ってたから」
覚えていた。
それだけで胸が少し温かくなる。
「見たいです」
「じゃあ昼くらい」
「はい」
「でも、昼になって行きたくなくなったら来なくていいよ」
「ユウさんも?」
「俺も行きたくなくなったら行かない」
「その場合、私はベルさんのところで待つことになります」
「あ」
ユウが止まる。
少し考える。
「それは困るね」
「はい」
「じゃあ行かなくなったら言いに行く」
「私も行かなくなったら伝えます」
「うん」
約束。
けれど、必ず行かなければならない約束ではない。
変えたくなったら、伝えればいい。
「では、昼頃に」
「うん」
ユウは今度こそ家へ戻っていった。
エレナはその背中を見送る。
朝、何をするか分からなかった一日に、一つ予定ができた。
(ユウさんの木削りを見る)
自分で作った予定ではない。
誘われた。
そして、自分で行きたいと答えた。
それが嬉しかった。
◇
昼前。
エレナはマーサ宅へ戻っていた。
『暮らしの小さな工夫』を少し読み、マーサが昼食を作るのを横で見ていた。
手伝うかと聞くと、「今日はいい」と言われたので、本当に手を出していない。
「そわそわしてるね」
マーサが言う。
「していますか?」
「さっきから窓を三回見た」
「時間を確認しているだけです」
「窓に時計はないよ」
「……そうですね」
エレナは本へ視線を戻した。
「昼から何かあるのかい?」
「ユウさんがベルさんのところで木を削るそうなので、見に行きます」
「へえ」
「誘われました」
「そうかい」
「はい」
少しだけ声が弾んだ気がした。
マーサは鍋を混ぜながら、口元をわずかに緩める。
「楽しみかい?」
エレナは答えようとして止まる。
木削りを見ることが楽しみなのか。
ユウに誘われたことが嬉しいのか。
ユウと会うことが楽しみなのか。
どれだろう。
(全部でしょうか)
そう思った瞬間、少し恥ずかしくなった。
「……楽しみです」
結局、それだけ答えた。
「なら飯食べな」
「まだできていません」
「もうすぐできる」
「はい」
マーサはそれ以上何も言わなかった。
◇
昼食を終え、少し休んでからベルの家へ向かった。
時間を厳密に決めてはいない。
昼頃。
それだけだ。
エレナが着いた時、ユウはまだ来ていなかった。
ベルは作業場の中で板を削っている。
「こんにちは」
「おう」
「ユウさんは?」
「まだだ」
「そうですか」
「待つか?」
「はい」
「そこ座っとけ」
作業場の端にある腰掛けを示される。
エレナは座った。
ベルの手元を見る。
木を削る音。
一定ではない。
長く削る時もあれば、短く止める時もある。
削った場所を指で触り、角度を変え、また削る。
以前なら、こういう時間にも何か話さなければと思ったかもしれない。
今は黙って見ていられる。
少しして、ニコが外から入ってきた。
「エレナお姉ちゃん!」
「こんにちは」
「虫、今日まだ来てない!」
「そうですか」
「待ってる?」
「今はユウさんを待っています」
「虫も待てるよ?」
「二つ同時に待つのですか?」
「うん!」
「忙しいですね」
「待ってるだけだよ?」
エレナは笑う。
「そうでした」
待つだけなら、二つあっても忙しくはない。
それでも、エレナは今ユウを待っている。
虫のことはニコに任せる。
さらに少し経った頃、作業場の外から足音がした。
「こんにちは」
ユウが入ってくる。
「来た!」
ニコが先に声を上げる。
「来たよ」
「遅い!」
「時間決めてなかったでしょ」
「エレナお姉ちゃん待ってた!」
ユウがエレナを見る。
「待った?」
「少しだけです」
「ごめん」
「謝らなくて大丈夫です。昼頃としか決めていませんでしたから」
「そっか」
「それに、ベルさんの作業を見ていました」
「面白かった?」
「はい」
ベルが手を止める。
「俺の作業見に来たみたいになってるぞ」
「それも面白かったです」
「そうか」
ベルは少しだけ満足そうだった。
ユウが持ってきた木片を作業台へ置く。
昨日まで練習していたものだ。
「今日はどうする」
ベルが尋ねる。
「ここ、少し削ろうかなって」
ユウが木目の一部を指差す。
「なんでだ」
「昨日触ってたら、こっち向きに削った方が引っかかりにくい気がした」
「やってみろ」
「合ってる?」
「先に答え聞くのか?」
「失敗したくないし」
「なら削るな」
「それも違うんだよね」
「分かってるならやれ」
ユウは苦笑しながら道具を持つ。
エレナは少し離れたところから見る。
最初の一削り。
薄い木片が落ちる。
ユウが指で表面を触る。
もう一度。
今度は少し長く削る。
「昨日より軽く見えます」
エレナが言う。
「力入れすぎないようにしてる」
「以前は深く削りすぎたのですよね」
「うん」
ベルが横から口を挟む。
「今度は怖がって浅くしすぎるなよ」
「難しいな」
「だから練習してんだろ」
ユウがまた削る。
深すぎない。
浅すぎない。
その中間を探す。
エレナは黙って見ていた。
自分にも似ている気がした。
頑張りすぎない。
だからといって、何もしないと決める必要もない。
人に頼る。
でも、全部任せるわけではない。
待つ。
けれど、自分の望みまで押し込めるわけではない。
ちょうどよいところを探している。
最初から分かるものではない。
(私も、練習しているのでしょうか)
生き方を。
そんな大げさな言葉にすると少し恥ずかしい。
けれど、似ていると思った。
ユウの手が止まる。
「どうしたのですか?」
「今の、ちょっと深かった」
見ると、一部分だけ削れ方が大きい。
「失敗ですか?」
「たぶん」
「続けますか?」
「うん。これくらいなら」
ベルは何も言わない。
ユウが自分で決めるのを待っている。
もう一度刃を当てる。
今度は少し角度を変えた。
何度か削った後、ユウが道具を置く。
「今日はここまで」
ベルが木片を見る。
「まだできるだろ」
「できるけど、手ちょっと疲れた」
「なら終われ」
「うん」
昨日と同じ。
できる。
でも、やめる。
エレナはそれを見る。
「どれくらい疲れましたか?」
「二くらい」
「昨日より?」
「昨日より少しやったからね」
「では、やめてよいですね」
「うん」
ニコが木片を覗き込む。
「これ、椅子になる?」
「ならないよ」
「まだ?」
「これは練習だから」
「じゃあいつ椅子作るの?」
「分かんない」
「明日?」
「たぶん作らない」
「明後日?」
「分かんない」
「遅い!」
「急いでないからね」
ニコは不満そうだ。
「昼寝する椅子なのに!」
「今も昼寝できるし」
「どこで?」
「家とか木の下とか」
「じゃあいらないじゃん!」
ユウが止まる。
「……確かに」
「ユウさん」
エレナは思わず笑う。
「作らないのですか?」
「いや、作りたいよ」
「必要ではないのに?」
「うん」
「では、作りたいから作るのですね」
「そうなるね」
その答えに、エレナは少し嬉しくなった。
必要だからではない。
誰かを助けるためでもない。
役に立つからでもない。
ユウ自身が作りたい。
だから作る。
「完成したら、見せてくださいね」
「うん」
「三軒目の家で使うことも、まだ候補に残っていますか?」
「家決まったらね」
「はい」
「エレナさんが置いていいなら」
「置いてよいと思います」
「まだ家じゃないよ」
「……そうでした」
ベルが鼻で笑う。
「気が早い奴らだな」
エレナは少し頬が熱くなる。
「まだ想像しているだけです」
「知ってる」
「ベルさんまで」
「別に悪いとは言ってない」
ユウは気にしていないらしく、木屑を集めている。
ニコも横から手を出そうとする。
「それ捨てる?」
「これは捨てる」
「もらっていい?」
「何に使うの?」
「虫の道!」
「細かすぎない?」
「置く!」
「じゃあいいよ」
ユウが小さな木片をニコへ渡す。
以前から欲しがっていた大きな練習材ではない。
今日出た削り屑に近い端材だ。
ニコはそれでも嬉しそうに持っていく。
「増やすのですか?」
エレナが尋ねる。
「増やさない!」
「では何に?」
「飾る!」
「虫の道に?」
「うん!」
「虫は気にするでしょうか」
「分かんない!」
ニコは走って外へ出た。
「結局、道いじるんだな」
ユウが言う。
「長くはしないそうです」
「なら本人の中では別なんだね」
「たぶん」
ベルが道具を片づける。
「お前らも終わったなら邪魔するな」
「はい」
「うん」
エレナとユウは作業場を出た。
◇
外はまだ明るい。
「エレナさん、この後どうする?」
ユウが尋ねる。
「決めていません」
「俺も」
「では、ここで別れますか?」
「それでもいいよ」
「……」
エレナは少し考える。
朝から予定がなかった。
途中でユウに会い、昼の予定ができた。
その予定は終わった。
ここから先は、また空白だ。
でも今は、一つだけしたいことがある。
「少し歩きませんか?」
「いいよ」
「目的地はありません」
「前もやったね」
「はい」
二人で歩き出す。
どこへ行くかは決めない。
村の道をゆっくり進む。
遠くでニコが何かをしている。
ガルドの畑から声が聞こえる。
家の前で洗濯物を取り込む人がいる。
村の日常の中を、二人で歩く。
「ユウさん」
「ん?」
「朝、今日の予定が何もありませんでした」
「うん」
「少し前なら、落ち着かなかったと思います」
「今は?」
「少し迷いました。でも、困りませんでした」
「そっか」
「朝食を食べて、籠を一つ運んで、歩いて、豆を見ました」
「うん」
「それからユウさんに会って、木削りを見る予定ができました」
「うん」
「今は、その予定も終わりました」
「うん」
エレナは少し笑う。
「一日というのは、最初に全部決めなくても進むのですね」
「そうだね」
「ユウさんは、いつもそうですか?」
「だいたい」
「予定を立てない?」
「必要なら立てるよ。誰かと何かする時とか、森見る時とか」
「それ以外は?」
「起きてから決めること多いかな」
「不安になりませんか?」
「休みの日に予定びっしりの方が嫌だったから」
「元の世界で?」
「うん」
ユウは少し前を見る。
「仕事の日は、仕事行ったらだいたい決まってたしね」
「介護のお仕事」
「うん」
「時間ごとに?」
「かなり」
ユウは歩きながら話す。
「起こす時間、ご飯、薬、風呂、トイレ、記録。予定どおりにいかないことも多いけど、予定自体はいっぱいあった」
「それを全部?」
「一人じゃないけど、人少ない日はきつかったよ」
エレナは黙って聞く。
「休みの日くらい、何も決めたくなかった。でも、昔は何もしないと損した気がする時もあった」
「損?」
「せっかくの休みなのに何もしてない、とか」
「分かる気がします」
「でも疲れてるから寝る。寝たら夕方。夕方になったら、休み終わるって嫌になる」
「休んだのに?」
「うん」
ユウが苦笑する。
「今思うと、ちゃんと休んだならそれでよかったんだけどね」
「その時は思えなかった?」
「思えなかった」
エレナは少しだけ胸が痛くなる。
ユウは今、よく昼寝をする。
何もしない日を選ぶ。
けれど、それが最初から得意だったわけではない。
「今も、何もしないと不安になることはありますか?」
「たまに」
「あるのですか?」
「あるよ」
意外だった。
ユウはもっと完全に「頑張らない」を身につけているように見える時がある。
昨日も、自分はまだ途中だと言っていた。
それでも、エレナはどこかで彼の方がずっと先にいると思っていた。
「その時はどうするのですか?」
「何もしない」
「不安なのに?」
「不安だから何か始めたら、結局同じになる時あるし」
「でも、本当に何かしたい時もありますよね」
「ある」
「どうやって分けるのですか?」
「分かんない時もあるよ」
ユウはあっさり答えた。
「だから、ちょっと待つ」
「待つ?」
「本当にやりたいなら、少し経ってもやりたいこと多いから」
エレナは足元を見る。
なるほどと思う。
すぐ動かなければならないわけではない。
少し待って、それでもしたいならする。
「今日の木削りも?」
「昨日からちょっとやりたかった」
「だから今日?」
「うん」
「私を誘ったのは?」
聞いてから、少し緊張する。
ユウはすぐに答えた。
「見たいって言ってたの覚えてたから」
「それだけ?」
「あと、一人で見るより誰かいた方が、失敗しても話せるかなって」
「私でよかったのですか?」
「エレナさんが見たいって言ったからね」
「……はい」
嬉しい。
自分が以前言ったことを覚えていた。
それを理由に誘ってくれた。
特別だと決めつける必要はない。
ただ、嬉しいことは嬉しい。
「私も、また誘います」
「うん」
「何もなくても」
「うん」
「何かあっても」
「それは普通じゃない?」
「そうですね」
二人で笑う。
◇
歩いているうちに、三軒目の家が見える道へ出た。
エレナは自然と足を止めた。
少し離れた場所から、古い家を見る。
今日は中へ入らない。
ローデンにも頼んでいない。
ただ見るだけだ。
「昨日、名前出ていったね」
ユウが言う。
「はい」
「気になる?」
「気になります」
「見に来たかった?」
「今は、少し」
「じゃあ見よう」
二人で道端に立つ。
三軒目の家は何も変わっていない。
窓は閉じている。
庭もそのまま。
自分が植えたいと思ったものはまだない。
ユウの本棚もない。
昼寝用の椅子もない。
自分の机もない。
何一つ決まっていない。
「昨日、名前を書いてもらった時」
エレナは家を見ながら言う。
「少しだけ、何かが決まった気がしました」
「家が?」
「いえ。私の方が」
「何が?」
「エレナとして、ここに住みたいということです」
ユウは黙って聞く。
「公爵家の娘だった私も、王太子殿下の婚約者だった私も、妹の姉である私も、なくなったわけではありません」
「うん」
「でも、それだけではないと思えるようになりました」
風が庭の草を揺らす。
「以前は、何か一つの役目がなくなったら、自分までなくなるように思っていました」
婚約者でなくなった。
公爵家から追われた。
家族から拒絶された。
何も残っていないと思った。
けれど今は違う。
「昨日、伝言に『エレナ』と書いてもらって、それが少し嬉しかったです」
「うん」
「でも、アルヴェインと書かなかったことも、もう怖くありません」
「そっか」
「必要になれば、自分で言います」
「うん」
「言いたくない時は、言わなくてもよいですか?」
ユウがエレナを見る。
「俺に聞いてる?」
「……そうですね。自分で決めることでした」
「言いたくないなら言わなくていいと思うよ」
「はい」
エレナも家から視線を外し、ユウを見る。
「ユウさんのお名前も」
「ん?」
「まだ、言いたくないなら言わなくてよいです」
「うん」
「でも、いつか聞きたいです」
「覚えてるよ」
「忘れても、また聞きます」
「百回はやめてね」
「十回なら?」
「内容による」
昨日と同じ答えだった。
エレナは声を立てて笑った。
家の前ではない。
少し離れた道の上。
まだ自分の家ではない場所を見ながら笑う。
それで十分だった。
◇
帰り道。
ニコが虫の道のところから手を振っていた。
「来た!」
エレナとユウが近づく。
「虫がですか?」
「うん!」
「最後まで?」
「途中!」
ニコは嬉しそうだった。
「途中で草行った!」
「昨日は最後まででしたね」
「うん!」
「今日は途中でも嬉しいのですか?」
「来たから!」
単純な答えだった。
エレナは小さな道を見る。
昨日、最後まで通った。
今日、途中で降りた。
昨日より悪くなったわけではない。
虫が失敗したわけでもない。
そもそも虫はニコの期待どおりに歩く義務などない。
「飾りは?」
ユウが尋ねる。
「置いた!」
道の脇に、小さな木片が二つ並べられている。
「虫、見た?」
「分かんない!」
「避けた?」
「分かんない!」
「じゃあ何のため?」
「俺がいいから!」
ユウが笑う。
「それならいいね」
「うん!」
エレナも笑った。
役に立つ必要すらないものがある。
ただ、自分がいいと思うから置く。
ユウの椅子も、少し似ている。
必要ではない。
でも、作りたい。
「エレナお姉ちゃんも置く?」
ニコが木片を一つ差し出す。
「私が?」
「うん」
「どこへ?」
「好きなとこ!」
エレナは小さな木片を受け取る。
虫の道の横を見る。
どこが正しいかは分からない。
「ここでもよいですか?」
「いいよ!」
端の方へ置く。
ニコのものとは少し離れている。
「何の意味があるのですか?」
エレナが尋ねる。
「ないよ?」
「ないのですか?」
「飾り!」
「そうでした」
意味を探してしまった自分がおかしくなり、エレナは笑う。
ユウが横で道を見る。
「俺も置く?」
「置いて!」
「じゃあこれ」
ユウは小さな石を一つ拾い、道から少し離れたところへ置いた。
「それは木ではありません」
エレナが言う。
「飾りなら何でもいいかなって」
ニコがじっと見る。
「いい!」
「いいんだ」
「うん!」
三人で小さな道を見る。
木片が三つ。
石が一つ。
虫にとって意味があるかは分からない。
たぶん、ない。
それでもニコは満足している。
エレナも少し楽しい。
「これも、予定にはありませんでした」
「何が?」
ユウが聞く。
「虫の道に木を置くことです」
「予定立てる人いないと思うよ」
「そうですね」
エレナは笑った。
◇
夕方。
マーサ宅へ戻ると、台所からいい匂いがしていた。
「ただいま戻りました」
「おかえり。今日は長かったね」
「散歩の途中で、いろいろありました」
「何してたんだい?」
エレナは指を折りながら考える。
「豆を見て、ユウさんの水汲みを見て、昼食を食べて、ベルさんのところでユウさんの木削りを見て、少し歩いて、三軒目の家を見て、虫の道に木を置きました」
マーサが振り返る。
「最後のは何だい?」
「飾りです」
「何のための?」
「意味はありません」
「……そうかい」
「ニコがよいと言ったので」
「ならいいんじゃないかね」
「はい」
エレナは笑う。
「朝は何も予定がなかったのです」
「結構やったじゃないか」
「そうですね」
「疲れたかい?」
聞かれて、自分の身体を確かめる。
「少し」
「なら座りな」
「何か手伝うことは?」
「ない」
「分かりました」
エレナは椅子へ座った。
手伝える。
でも、疲れている。
頼まれていない。
なら座る。
以前なら、その判断にもっと時間がかかった。
「マーサさん」
「何だい?」
「何も予定がない日でも、いろいろ起きるのですね」
「生きてりゃね」
「何も起きない日もありますか?」
「あるよ」
「その日は?」
「何もないまま終わる」
「それでよいのですか?」
「何が悪いんだい?」
エレナは少し考え、首を横へ振る。
「悪くありません」
「ならいい」
マーサは鍋へ蓋をした。
◇
夜。
エレナは記録帳を開いた。
今日の朝を思い出す。
何も決まっていなかった。
それが、少しだけ不安で、でも困ってはいなかった。
筆を取る。
『朝、今日の予定は決まっていなかった。』
『朝食を食べてから決めようと思った。』
続ける。
『ガルドさんの豆を見た。傾いていた芽も育っている。まだ支えはつけない。』
『ユウさんが木削りをするところを見た。少し深く削ったところもあったが、そのまま続けた。手が疲れたので途中でやめた。』
『昼寝用の椅子は、必要だからではなく、作りたいから作るらしい。』
そこで少し笑う。
『ニコの虫は、今日は道を途中まで使った。昨日は最後まで。今日は途中。それでもニコは嬉しそうだった。』
『虫の道に飾りを置いた。意味はない。』
書いてから、読み返す。
意味はない。
その言葉が、以前なら少し怖かったかもしれない。
意味がないこと。
役に立たないこと。
成果にならないこと。
そういうものを避けてきた。
けれど今日は、自分で木片を置いた。
誰の役にも立たない。
虫のためですらない。
ただ、ニコと一緒にやってみたかったから。
さらに書く。
『朝は予定がなかったが、一日が終わる頃には、いろいろなことをしていた。』
『何も起きなければ、それでもよかったと思う。』
筆を止める。
三軒目の家については、新しい情報がない。
西へ送った伝言も、今どこにあるか分からない。
東の警戒線も鳴っていない。
大きな進展は何もなかった。
それでも今日という日は、空白ではない。
エレナは最後に一行だけ書いた。
『明日の予定は、まだ決めない。』
記録帳を閉じる。
窓の外は静かだった。
明日、何かが起きるかもしれない。
何も起きないかもしれない。
ユウに会うかもしれない。
会わないかもしれない。
虫が道を最後まで歩くかもしれないし、途中で降りるかもしれない。
西から返事が来るには、まだ早い。
だから今は、先に決めなくていい。
エレナは灯りを落とし、寝台へ入った。
(明日のことは、明日になってからでよいですね)
その考えは、もう以前ほど勇気のいるものではなかった。
静かな村の夜の中で、エレナはゆっくり目を閉じた。




