第59話 送り出す朝
翌朝、エレナが目を覚ました時、窓の外はまだ少し白んでいるだけだった。
いつもより早い。
鳥の声もまだ少なく、村全体が完全には目を覚ましていない。遠くから鶏の鳴き声が一度だけ聞こえ、その後には静かな朝の空気が戻ってきた。
(荷車は、朝に出るのでしたね)
目を覚ました理由が、それだったのかは分からない。
昨夜、早く起きようと決めて眠ったわけではなかった。
伝言はローデンに任せてある。
自分が荷車を見送らなければ届かないわけでもない。
それでもエレナは布団の中でしばらく天井を眺めた後、身体を起こした。
「……行きたいですね」
小さく呟く。
義務ではない。
確認しなければならないからでもない。
ただ、自分の名前を書いた伝言が村を出ていくところを見たい。
そう思った。
着替えを済ませて部屋を出ると、台所にはまだ誰もいなかった。
マーサも眠っているらしい。
エレナは少し迷う。
勝手に外へ出てよいか。
もうこの家に来てから何日も経っている。
村の中を一人で歩くことも珍しくなくなった。
それでも、朝早くに黙っていなくなるのは心配させるかもしれない。
紙を一枚取り、小さく書く。
『少し外へ行ってきます。西へ出る荷車を見たいと思いました。村の中にいます。エレナ』
それを台所の机に置く。
以前の自分なら、もっと長く書いただろう。
何時頃戻るつもりか。
どこを通るか。
誰と会う予定か。
なぜ行くのか。
心配をかけないために、できるだけ詳しく説明しようとしたはずだ。
けれど今は、必要なことだけでいいと思えた。
行き先。
理由。
村の中にいること。
戻ること。
それで十分だろう。
戸を静かに開ける。
朝の空気は少し冷たかった。
エレナは一度深く息を吸い、まだ静かな村の道を歩き始めた。
◇
西側の道へ近づくにつれて、人の気配が少しずつ増えてきた。
村の中央近くではオルドが鶏の様子を見ている。別の家では煙突から細い煙が上がり始めており、戸口の前を掃いている女性もいた。
「おはよう、エレナ」
声をかけてきたのは、村の住人であるミレアだった。
六十代半ばほどの小柄な女性で、普段は家の前に小さな菜園を作り、時折マーサへ野菜を持ってくる。エレナも何度か顔を合わせていたが、こうして朝早く話すのは初めてだった。
「おはようございます、ミレアさん」
「早いねえ。散歩かい?」
「西へ出る荷車を見に行こうと思いまして」
「今日だったかね」
「はい」
「何か送るの?」
エレナは一瞬だけ迷い、それから頷いた。
「伝言を一つ」
「そうかい。ちゃんと乗るといいね」
「はい」
ミレアはそれ以上聞かなかった。
箒を動かしながら、「朝はまだ冷えるよ」とだけ言う。
「ありがとうございます」
エレナは頭を下げ、また歩き出した。
何を送るのか。
誰に送るのか。
なぜ送るのか。
聞こうと思えばいくらでも聞けたはずなのに、ミレアは聞かなかった。
(この村の人たちは、聞かないことも多いですね)
興味がないわけではないだろう。
実際、噂が回るのは早い。
自分が三軒目の家を気に入っていることも、いつの間にか何人も知っていた。
それでも、本人が話さないことを無理に聞こうとする者は少ない。
知りたいことと、聞いてよいことを同じにしない。
その距離に、エレナは少しずつ慣れてきていた。
西側の道が見える。
そこに荷車が一台止まっていた。
荷台には布を掛けた箱や袋がいくつか積まれ、茶色い馬が一頭、朝の冷たい空気の中で白い息を吐いている。
荷車の横にはローデンがいた。
もう一人、知らない男が荷紐を確かめている。
年齢は四十代後半ほどだろうか。
濃い茶色の上着を着ており、髪には少し白いものが混じっている。
ローデンがエレナに気づいた。
「来たのか」
「はい。見送りに来ました」
「別に来なくてもよかったぞ」
「分かっています」
エレナは笑う。
「でも、来たかったので」
「そうか」
ローデンはそれだけで納得した。
男の方がエレナを見る。
「この子か?」
「ああ」
「エレナです」
エレナは自分から名乗った。
男は少し驚いたようだったが、すぐに頷く。
「バルトだ。西の町まで行く」
「よろしくお願いします」
「伝言ってのは、あれか」
バルトがローデンの手元を見る。
そこには小さく折り畳まれた紙があった。
「これだ」
「誰に渡しゃいい?」
「町の南側にある『赤屋根亭』の主人、ゼムに。そこから先へ伝手があるか聞いてもらう」
「ゼムなら知ってる」
「無理ならそこで止めていい。別の誰かに適当に渡すな」
「分かってるよ」
ローデンは紙を渡す。
バルトが上着の内側にしまった。
エレナは、その動きを黙って見ていた。
自分の名前が書かれた紙が、他人の手へ渡った。
それだけだ。
まだ村を出てすらいない。
けれど、胸の奥が少しだけ騒がしい。
「内容を確認するか?」
ローデンが尋ねる。
エレナは一度紙が消えた場所を見てから、首を横へ振った。
「昨日、お話しした内容ですよね?」
「ああ。三軒目の家に住みたいと思っているエレナという者がいる。勝手には使っていない。昔の工房の親方まで話が届くなら、エルドについて知っていることがないか確認したい。家について判断できる者が分かれば知らせてほしい」
「それなら大丈夫です」
「アルヴェインは書いてない」
「はい」
「確認しなくていいのか?」
「ローデンさんが、今そう言ってくださいましたから」
ローデンが少しだけ目を細めた。
「信用されたもんだ」
「嫌ですか?」
「いや」
「では、お願いします」
「ああ」
エレナはもう一度バルトへ頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「町まで運ぶだけだぞ」
「はい」
「その先は約束できん」
「分かっています」
「返事もいつになるか知らん」
「はい」
「ならいい」
バルトは馬の首筋を軽く撫でる。
その時、後ろから足音が聞こえた。
「間に合った?」
振り返る。
ユウだった。
「ユウさん?」
「おはよう」
「どうしてここに?」
「ローデンさんに昨日聞いた」
ローデンを見る。
「俺が言った」
「そうだったのですか」
「見送りたいかと思ってな」
「ユウさんが?」
「いや、俺じゃなくてエレナが」
エレナは少し驚く。
「私が来ると思ったのですか?」
ローデンが答える。
「来るかもしれんとは思った」
「なぜ?」
「昨日、二回も『エレナでお願いします』って言ったからな」
「……二回目は必要なかったかもしれません」
「そうだな」
「ローデンさん」
「事実だ」
バルトが小さく笑っている。
エレナは少し恥ずかしくなった。
ユウが隣まで来る。
「出るところ?」
「もうすぐだ」
ローデンが答える。
「ユウさんも見送るのですか?」
エレナが尋ねる。
「うん」
「何か送るのですか?」
「何も」
「では、なぜ?」
ユウは少し考える。
「エレナさんが見送りに来るかもって聞いたから」
エレナは瞬きをする。
「私が?」
「うん」
「それだけで?」
「それだけ」
「……そうですか」
胸の奥がまた少し温かくなる。
ユウは何かを手伝うために来たわけではない。
護衛でもない。
荷車に用事があるわけでもない。
自分がここに来るかもしれない。
だから来た。
(それだけで、来てくれたのですね)
昨日、何もしないために一緒にいた。
今日は、自分が何かを送り出すところを見るために来てくれた。
その違いが、エレナには少し嬉しかった。
「ありがとうございます」
「まだ何もしてないけど」
「来てくれたことに対してです」
「そっか」
ユウはそれ以上否定しなかった。
◇
荷車はすぐには出なかった。
バルトが荷紐をもう一度確認し、馬の脚を見る。
ローデンも荷台の端を押して、積み荷が動かないか確かめていた。
エレナとユウは少し離れたところで待つ。
「寒くない?」
ユウが尋ねる。
「少しだけ」
「戻る?」
「まだ出ていません」
「見送りたい?」
「はい」
「じゃあ待とう」
エレナは頷く。
待つ。
最近、その時間が増えた。
以前なら、待っている間にも何かすることを探していたかもしれない。
けれど今は、荷車が出るのを見たいのだから、ここで待っていればいい。
「ユウさんは寒くありませんか?」
「ちょっと」
「戻りますか?」
「エレナさんが見送るまでいるよ」
「私が帰ったら?」
「帰る」
「分かりやすいですね」
「他に用事ないし」
ユウは欠伸をする。
「眠いのですか?」
「朝早いから」
「私のために早く起きたのですか?」
「たまたま起きた」
「……そうですか」
「ちょっと残念そう?」
「そんなことはありません」
「そう?」
「はい」
エレナは前を向く。
少しだけ残念だったかもしれない。
自分のために早く起きたと言われたら、嬉しかった気がする。
けれど、たまたま起きたとしても、そこからここへ来ることを選んだのはユウだ。
(それで十分です)
そう思うと、本当に十分な気がした。
やがてバルトが御者台へ上がる。
「じゃあ行くぞ」
ローデンが馬から少し離れる。
エレナの背筋が自然と伸びた。
「お願いします」
「ああ。町までは持ってく」
バルトが手綱を動かす。
馬が一歩進む。
車輪が土の上を転がる。
荷車はゆっくりと西へ向かって動き始めた。
エレナはその場から見送る。
大きな出来事ではない。
兵士もいない。
立派な馬車でもない。
王都から公的な使者が出る時のような儀式もない。
ただ、一台の荷車が村を出ていく。
その荷物の中ではなく、御者の上着の内側に、小さな紙が一枚入っている。
そこに自分の名前が書かれている。
エレナ。
それだけ。
荷車が少しずつ遠ざかる。
道の曲がりへ差しかかる。
(行ってしまいます)
胸の奥が落ち着かない。
今なら呼び止められる。
やはり名前を消してほしいと言うこともできる。
反対に、アルヴェインまで書いてほしいと頼み直すこともできる。
もっと詳しく事情を書いてほしいと言うこともできる。
けれど、エレナは声を出さなかった。
昨日決めた。
エレナとして送る。
その選択を、今になって怖くなったからと取り消す必要はない。
怖さがあることと、選択を間違えたことは同じではない。
荷車が曲がる。
最後に車輪の一部が見え、それも消えた。
「行きましたね」
「行ったね」
ユウが隣で答える。
エレナはしばらく道を見ていた。
もう荷車は見えない。
それでも、すぐには動かなかった。
「変な感じです」
「何が?」
「私の名前が、私より先に西へ行きました」
「そうだね」
「私はここにいるのに」
「うん」
「少し怖いです」
「うん」
「でも、少し嬉しいです」
「そっか」
ユウは何も足さない。
怖くなくていいとも、きっと大丈夫とも言わない。
エレナはそれが心地よかった。
「今、何ができるのでしょう」
自分に尋ねるように言う。
「家のことで?」
「はい」
「待つ?」
「やはり、そうなりますね」
「他にやることある?」
「ありません」
「じゃあ待つしかないね」
エレナは笑う。
「ユウさんは、待つのが得意になりましたね」
「そう?」
「以前のお仕事では、待てないことも多かったのでしょう?」
「時間なかったからね」
「今は?」
「時間ある」
「そうですね」
二人はまだ西の道を見ている。
朝の光が少しずつ強くなってきた。
村も本格的に動き始めている。
「帰るか」
ローデンが言った。
「はい」
エレナは頷く。
「ローデンさん」
「何だ」
「ありがとうございました」
「返事来てから言え」
「伝言を出してくださったことへのお礼です」
「昨日も聞いた」
「では、二回目です」
「名前と同じだな」
「……もう言いません」
「別に言ってもいい」
ローデンは笑いながら村の中央へ戻っていった。
エレナとユウも歩き出す。
◇
マーサ宅へ戻る途中、ベルの家の前を通った。
ニコがしゃがみ込み、虫の道を見ている。
「おはようございます」
「エレナお姉ちゃん!」
ニコが振り返る。
「今日も見ているのですか?」
「うん。でもまだ来てない」
「そうですか」
「荷車見てたの?」
「はい」
「何送ったの?」
「伝言です」
「誰に?」
「まだ、誰まで届くか分かりません」
「分かんない人に送ったの?」
「最初に渡す人は決まっています。その先へ届くかは分からないのです」
「変なの」
「そうですね」
ニコは虫の道へ視線を戻す。
「俺も虫来るか分かんない」
「似ていますね」
「エレナお姉ちゃんもここで待つ?」
エレナは少し考える。
虫が来るところを見たい気持ちはある。
しかし、朝食がまだだった。
「今日は帰ります」
「なんで?」
「お腹が空きました」
「じゃあ食べたら来る?」
「その時に見たければ」
「またそれ?」
「はい」
ニコは慣れてきたのか、今度は難しい顔をしなかった。
「分かった。来たら覚えとく」
「お願いします」
「ユウ兄ちゃんは?」
「俺も帰る」
「ご飯?」
「うん」
「二人ともご飯!」
「朝だからね」
ユウが答える。
ニコは何がおかしいのか笑った。
「じゃあまた!」
「はい。また」
二人は再び歩き出す。
少し進んだところで、エレナがユウを見る。
「ユウさんは、朝食を食べていなかったのですか?」
「食べてない」
「では、本当に起きてそのまま来たのですか?」
「水は飲んだよ」
「朝食ではありません」
「そうだね」
「お腹が空いているのでは?」
「空いてる」
「なぜ先に食べなかったのですか?」
「荷車出たら間に合わないかもしれなかったから」
エレナの足が少し遅くなる。
「私が来るかもしれないから?」
「うん」
「……それは」
言葉が続かない。
先ほど、たまたま起きたと言っていた。
それは嘘ではない。
けれど、起きてから朝食を食べずにここへ来た。
自分が見送りに来るかもしれないと思ったから。
「ユウさん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「また?」
「はい」
「朝飯食べなかったこと?」
「それは、むしろ食べてください」
「じゃあ何?」
「……来てくれたことです」
「さっきも聞いたよ」
「二回目です」
「ローデンさんみたいになってる」
「言いたかったので」
「そっか」
ユウは笑う。
「じゃあ、どういたしまして」
エレナも笑った。
胸の奥に残っていた緊張が、少しずつほどけていく。
◇
マーサ宅へ着くと、戸を開ける前にユウが足を止めた。
「じゃあ俺は帰る」
「朝食を食べに?」
「うん」
「何を食べるのですか?」
「パンあるから、それと卵かな」
「卵」
「昨日オルドさんからまた買った」
「焼くのですか?」
「たぶん」
エレナは少し考える。
以前、ユウが卵を買った時にも、焼いて食べると言っていた。
「今度は柔らかくしますか?」
「俺のだから普通でいいかな」
「私の時だけだったのですね」
「エレナさんが柔らかい方がいいって言ったから」
「覚えているのですね」
「それくらいは」
さらりと返される。
それでもエレナは嬉しかった。
「では、また」
「うん。また」
ユウが去っていく。
エレナはその背中を見送ってから戸を開けた。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
マーサはすでに起きていた。
台所には朝食の準備ができている。
机の端には、エレナが残した紙が置かれていた。
「ちゃんと読んでくださったのですね」
「そりゃ読むよ」
「心配しましたか?」
「少しね」
「すみま――」
言いかけて止まる。
マーサがこちらを見る。
エレナは一度息を吸った。
「……書いておいてよかったです」
「そうだね」
「次に朝早く出る時も、必要なら書きます」
「そうしな」
謝る代わりに、次にどうするかを言えた。
それだけのことなのに、少し嬉しい。
「荷車は出たのかい?」
「はい」
「名前も?」
「エレナで」
「そうかい」
「ユウさんも来ました」
マーサの手が一瞬止まる。
「へえ」
「何ですか?」
「何も」
「その顔は何かあります」
「朝飯は?」
「まだです」
「なら座りな」
「話を逸らしましたね」
「腹減ってるんだろ」
「減っています」
「じゃあ食べな」
エレナは少し不満を残しながらも椅子へ座った。
目の前へ朝食が置かれる。
パンと野菜。
温かいスープ。
見慣れてきた食卓。
「マーサさん」
「何だい」
「私の名前が、西へ行きました」
「お前さんはここにいるけどね」
「ユウさんにも同じようなことを言われました」
「そうかい」
「少し変な気持ちです」
「嫌かい?」
「いいえ」
エレナは首を横へ振った。
「怖いですが、嫌ではありません」
「なら食べな」
「それで終わりですか?」
「冷めるからね」
「……はい」
スープを口へ運ぶ。
温かい。
荷車はもう村の外を進んでいるだろう。
自分の名前を載せた伝言も、一緒に遠ざかっている。
けれど、自分はここで朝食を食べている。
待つ時間が始まった。
その最初にすることが朝食なのは、悪くないと思った。
◇
午前の半ば。
エレナはマーサと一緒に野菜を選り分けていた。
傷んでいるものを避け、まだ使えるものを別の籠へ移す。
以前なら、少し傷があるだけで除けていたかもしれない。
今はマーサに教わりながら、使える部分を見るようになっている。
「これは?」
「そこ切れば使える」
「こちらは?」
「柔らかすぎるね。鶏にやる」
「分かりました」
一つずつ確認する。
すべてを一度で覚えられるわけではない。
それでも、何度か繰り返すうちに少しずつ分かるようになってきた。
「これは使えますね」
エレナが一本を持ち上げる。
端に小さな傷があるが、中までは傷んでいない。
「そうだね」
マーサが頷く。
エレナは少し嬉しくなる。
「分かるようになってきました」
「毎日見てりゃね」
「妹なら、一度で覚えたかもしれません」
口に出してから、自分の胸の中を確かめる。
痛みはある。
でも、以前ほどではない。
「でも、私は何度か見れば覚えられます」
「ならいいじゃないか」
「はい」
自分からそう言えた。
妹が早く覚えられることを否定しない。
自分が遅いことも否定しない。
それでも覚えられる。
それでいい。
「エレナ」
「はい?」
「それ、さっきから三回見てるよ」
「え?」
手元を見る。
同じ野菜を持ったままだった。
「……考え事をしていました」
「荷車かい?」
「少し」
「追いかけても戻ってこないよ」
「追いかけません」
「ならその野菜置きな」
「はい」
エレナは笑いながら籠へ入れた。
待つ。
けれど、待つことだけをして一日を使わない。
昨日まで学んできたことを、今日も続ければいい。
◇
昼前になっても、東側の警戒線は鳴らなかった。
誰かがわざわざ報告へ来ることもない。
エレナはそれを「何もない」と受け取った。
自分から見張り帳を確認しに行くこともしなかった。
昼食を終えると、『風待ち亭の小さな話』を持って外へ出る。
今日はどこで読むか少し考えた末、マーサ宅の軒下へ椅子を出した。
遠くへ行きたいわけではない。
ユウのところへ行きたい気持ちも少しあった。
けれど、朝に会った。
だから今日は会わなくてもいい、というわけではない。
反対に、会いたいなら行ってもいい。
そのどちらでも選べる。
(今は、本を読みたいですね)
そう思ったので、本を開いた。
数ページ読む。
物語の中では、風待ち亭へ一人の旅人がやって来ていた。
旅人は目的地へ向かう途中で靴底を傷め、宿へ立ち寄る。
すぐ直ると思っていたが、修理を頼んだ職人から翌日まで待てと言われる。
旅人は苛立つ。
一日遅れる。
予定が崩れる。
早く行かなければならない。
けれど宿の主人は、無理に歩いて靴を完全に壊せばもっと遅れると言う。
旅人は仕方なく一晩泊まる。
その夜、宿で偶然会った行商人から、目的地へ続く橋が増水で通れないと聞く。
結局、急いでも先へ進めなかった。
翌朝。
修理された靴を履いた旅人は、橋が通れるようになるまで宿に残ることを自分で決める。
そこで話は終わっていた。
エレナはページを閉じず、そのまま空を見る。
「待つ話ばかりですね」
思わず呟く。
前に読んだ橋の話も、途中で止まった時間があった。
この本を書いた人は、待つことが好きだったのだろうか。
それとも、昔は今より何でも時間がかかったから、自然とそういう話が増えたのだろうか。
「何待ってんだ?」
突然声がして、エレナは顔を上げた。
ガルドが道に立っている。
「今は何も待っていません」
「本見てただろ」
「本の中の人が待っていたのです」
「そうか!」
ガルドは納得したらしい。
「エレナは?」
「私は……」
言いかけて、少し考える。
「家の返事を待っています」
「まだ来てないのか?」
「今日、伝言を送りました」
「じゃあ今日来るわけないだろ!」
「分かっています」
「なら待て!」
「待っています」
「そうか!」
ガルドは大きく笑う。
それから何か思い出したように畑の方を指した。
「豆、伸びたぞ!」
「昨日も見ました」
「今日も伸びとる!」
「一日で分かるほどですか?」
「知らん!」
「では、なぜ言ったのですか?」
「伸びてる気がする!」
エレナは笑った。
「今日は見に行きません」
「そうか!」
「よいのですか?」
「明日でも伸びとる!」
「たぶん?」
「たぶんだ!」
ガルドは満足そうに去っていった。
エレナは再び本へ目を落とす。
今日見なくても、豆は育つ。
自分が見ているから育つわけではない。
伝言も同じだ。
自分が西の道を眺め続けても、早く届くわけではない。
だから、本を読めばいい。
エレナは次のページをめくった。
◇
午後。
ニコがやって来た。
「エレナお姉ちゃん!」
「はい」
「虫来た!」
本から顔を上げる。
「今日は来たのですね」
「うん!」
「どこまで?」
ニコは両腕を大きく広げた。
「最後!」
「最後まで?」
「うん! 最後まで行った!」
エレナは目を見開く。
「本当ですか?」
「見に来る?」
すぐに立ち上がりかけて、エレナは止まった。
読みかけの本を見る。
今は、虫の道を見たい。
それなら行けばいい。
「行きます」
「やった!」
「本を置いてきますので、少し待ってください」
「うん!」
ニコは待った。
以前なら、エレナが準備する間に先へ走っていたかもしれない。
今日は軒下で足を揺らしながら待っている。
エレナは本を部屋へ置き、戻ってきた。
「行きましょう」
「うん!」
二人でベルの家へ向かう。
「まだ虫はいますか?」
「もういない」
「では、最後まで行ったところは見られないのですね」
「うん」
「それでも見に行くのですか?」
「道あるよ」
「そうですね」
虫そのものはもういない。
見られるのは、昨日までとほとんど変わらない小さな道だけだ。
それでも、ニコが見たことを聞きたい。
その場所を一緒に見たい。
それで十分だった。
虫の道へ着く。
昨日と同じ板。
同じ石。
同じ枝。
最後の板。
見た目は変わっていない。
「ここまで来た!」
ニコが最後の板を指差す。
「それから?」
「向こうの草に行った!」
「道を全部通って?」
「うん!」
「途中で降りずに?」
「うん!」
ニコの顔が誇らしげだ。
「よかったですね」
「うん!」
「では、完成ですか?」
エレナが尋ねると、ニコの顔から笑みが少し消えた。
道を見る。
「……分かんない」
「分からない?」
「一匹通っただけ」
エレナは黙って待つ。
「明日も通るかもしれない」
「はい」
「違う虫も来るかもしれない」
「そうですね」
「もう来ないかもしれない」
「はい」
「じゃあ、まだ置いとく」
「直さずに?」
「うん」
「長くもしない?」
「今日はしない」
ニコはしゃがみ込む。
「見てる」
エレナも隣へしゃがむ。
小さな道を見る。
一匹の虫が最後まで歩いた。
だからといって、すぐ次のものを作らなくていい。
成功したから、すぐ発展させなくてもいい。
「ニコ」
「何?」
「嬉しいですか?」
「うん!」
「なら、それでよいですね」
「うん!」
ニコは迷わず答えた。
エレナは微笑む。
成功した。
だから次へ。
褒められた。
だからもっと。
一つできた。
なら次はさらに難しいものを。
ずっとそうだった。
何かを達成しても、その場所に留まる時間は短かった。
次の課題が待っていた。
(できたことを、できたまま喜んでもよいのですね)
すぐ先を求めなくてもいい。
ニコは道を長くしなかった。
ただ、一匹の虫が最後まで歩いたことを喜んでいる。
「エレナお姉ちゃん」
「はい?」
「笑ってる」
「はい」
「虫好きになった?」
「どうでしょう」
「道?」
「それも少し」
「じゃあ何?」
エレナは小さな道を見る。
「ニコが嬉しそうなので、私も少し嬉しいのだと思います」
「俺が?」
「はい」
ニコは照れたように鼻をこすった。
「じゃあ、また来たら教える」
「お願いします」
「最後まで行かなくても?」
「はい」
「途中でも?」
「途中でも」
ニコは大きく頷いた。
◇
夕方近く。
エレナがマーサ宅へ戻ろうとしたところで、ベルに呼び止められた。
「エレナ」
「はい?」
「これ持ってけ」
差し出されたものを見る。
本だった。
見覚えがある。
「これは……」
表紙に書かれている題名は、『暮らしの小さな工夫』。
ユウの家で見せてもらった五冊のうち、表紙と綴じが傷んでいた一冊だった。
「直ったのですか?」
「一応な」
エレナは両手で受け取る。
以前は浮いていた表紙がきちんと留まり、開きかけていた綴じも整えられている。
ただ、新品のようになったわけではない。
古い擦れ。
角の傷。
紙の色。
それらは残っている。
「きれいになりましたね」
「読めりゃいい」
「新しくはしなかったのですね」
「古い本を新しい本にする仕事じゃない」
ベルは当然のように言う。
「外れそうなところ直して、読めるようにした。それだけだ」
エレナは表紙を撫でる。
傷は残っている。
でも、使える。
「ユウさんへ渡せばよいですか?」
「ああ。どうせ会うだろ」
以前も似たことを言われた。
その時は木片だった。
「またですか?」
「何がだ」
「私がユウさんに会う前提です」
「会わんのか?」
「会うかもしれません」
「なら持ってけ」
「ベルさんが渡してもよいのでは?」
「今から行くの面倒だ」
「正直ですね」
「お前は帰る途中だろ」
「ユウさんの家は、少しだけ方向が違います」
「嫌なら置いてけ」
エレナは本を見る。
今日は朝にユウと会った。
その後は会っていない。
会いたいか。
自分へ尋ねる。
(会いたいですね)
答えはすぐに出た。
「持っていきます」
「そうか」
「ベルさん」
「何だ」
「ありがとうございます」
「俺の本じゃないぞ」
「直したことに対してです」
「仕事だ」
「それでもです」
ベルは面倒そうに手を振った。
「早く持ってけ」
「はい」
本を胸元へ抱える。
ニコが横から覗き込む。
「虫の本?」
「違います」
「何の本?」
「暮らしの工夫についての本だそうです」
「面白い?」
「まだ読んでいません」
「エレナお姉ちゃん読む?」
「ユウさんの本ですから、借りられたら」
「また一緒に読む?」
エレナの足が少し止まる。
「……それもよいですね」
「ユウ兄ちゃん寝るかも」
「その時は、その時です」
ニコが笑った。
◇
ユウの家へ向かう。
夕方の光が村の道を斜めに照らしている。
朝には荷車を見送った。
昼には本を読んだ。
午後にはニコの虫の道を見た。
そして今は、ユウの本を届けに行く。
一日の中に、いろいろなことがあった。
伝言のことだけを考えていたわけではない。
(送り出した後も、一日は続くのですね)
当たり前のことなのに、少し不思議だった。
ユウの家が見えてくる。
戸は閉まっている。
エレナは近づき、軽く叩いた。
「ユウさん」
返事はない。
もう一度だけ待つ。
やはり返事はない。
「いないのでしょうか」
以前なら、裏へ回ってみようかと考えたかもしれない。
どこへ行ったのか気になったかもしれない。
けれど、今日も探さない。
いなければ、また来ればいい。
「では――」
帰ろうとした時、後ろから声がした。
「エレナさん?」
振り返る。
ユウが歩いてくる。
手には小さな布袋を持っている。
「ユウさん」
「来てたの?」
「はい」
「どうしたの?」
「ベルさんから、これを」
本を見せる。
「あ、直ったんだ」
「はい」
ユウが近づく。
エレナは本を渡す。
「表紙と綴じを直したそうです」
「ほんとだ」
ユウは何度か開閉して確かめる。
「ちゃんと開く」
「ベルさんは、読めればよいと言っていました」
「ベルさんらしいね」
「古い傷は残っています」
「別にいいよ。本だし」
「私も、そう思います」
ユウは本を持ったまま、エレナを見る。
「読みたい?」
「……分かりますか?」
「前に見たいって言ってたから」
「はい。読んでみたいです」
「じゃあ貸すよ」
「今ですか?」
「読むなら」
「ユウさんは?」
「一回読んだことあるから」
「でも、せっかく戻ってきたばかりですよ」
「また読めるし」
エレナは本を見る。
借りたい。
けれど、今日はそれだけではない気がする。
「ユウさん」
「ん?」
「今、お時間はありますか?」
「あるよ」
「では……少し、一緒に読みませんか?」
言ってから、自分の胸が少し速くなる。
何度か一緒に本を読んだ。
それでも、自分からこうして誘うことにはまだ少し緊張する。
「いいよ」
ユウは簡単に答えた。
「中入る?」
「よいのですか?」
「外だと暗くなるし」
「では、お邪魔します」
ユウが戸を開ける。
エレナはその後に続いた。
◇
家の中は、以前来た時と変わらなかった。
必要なものだけが置かれている。
派手な装飾はない。
棚には残りの本。
机。
椅子。
窓から夕方の光が入っている。
ユウが本を机へ置く。
「お茶飲む?」
「いただきます」
「火つけるか」
ユウが炉の方へ行く。
「魔法ではなく?」
「急いでないし」
「以前もそう言っていましたね」
「薪も使わないと減らないからね」
ユウが火を起こす。
エレナは椅子へ座り、修理された本を見る。
ベルが直した部分をもう一度確かめる。
壊れていたもの。
直したもの。
けれど、古さまで消したわけではない。
その姿が、少し好きだと思った。
「荷車、ちゃんと出ましたね」
エレナが言う。
「出たね」
「朝は、ありがとうございました」
「三回目?」
「……数えていたのですか?」
「なんとなく」
「では、もう言いません」
「言いたいなら言えばいいのに」
「三回も同じことを言うのは多いでしょう?」
「別に」
ユウは湯を沸かしながら振り返る。
「三回嬉しかったなら、三回言ってもいいんじゃない?」
エレナは少し黙った。
「三回とも、少しずつ違いました」
「何が?」
「最初は、来てくれたこと。次は、朝食を食べずに来てくれたと知ったこと。今は……」
エレナは考える。
「一日過ごしてから、やはり来てくれて嬉しかったと思ったことです」
「じゃあ違うね」
「はい」
「ならいいんじゃない?」
「……ありがとうございます」
「四回目?」
「今のは、その話を聞いてくれたことに対してです」
「増えた」
エレナは笑った。
ユウも笑う。
湯が沸き、二人分の茶が用意される。
机を挟んで座る。
『暮らしの小さな工夫』を開く。
「どこから読みますか?」
「最初でいいんじゃない?」
「一緒に?」
「エレナさん読みたい?」
「はい」
「じゃあお願い」
エレナは最初のページを開いた。
内容は物語ではない。
家の中で使う道具の手入れ。
食材を長持ちさせる方法。
簡単な補修。
火を無駄にしない使い方。
暮らしの中の小さな工夫が、短い文章と簡単な絵でまとめられている。
「これは、実際に使えるのでしょうか」
「ものによるんじゃない?」
「読んだのでは?」
「全部試したわけじゃないよ」
「では、読んだだけ?」
「うん」
「ユウさんでも、読んだことを全部やるわけではないのですね」
「本に書いてあること全部やってたら大変じゃない?」
「それはそうですが」
エレナはページをめくる。
古い鍋の取っ手を補修する方法が載っている。
「これならベルさんに頼んだ方が早そうです」
「たぶん」
「では、この本の意味がありません」
「自分でやりたい人には意味あるんじゃない?」
「ああ」
「あと、ベルさんいない時とか」
「なるほど」
次のページ。
今度は、固くなった布を柔らかくする方法。
「マーサさんなら知っているでしょうか」
「知ってそう」
「聞いてみます」
「本に書いてあるのに?」
「本の方法と同じか、違うか知りたいです」
「そっか」
読み進める。
時々話す。
時々黙る。
全部を理解しようとしない。
役立つところだけ探そうともしない。
ただ、読む。
エレナは途中でふと思った。
「こういう本も、よいですね」
「物語じゃないけど?」
「はい」
「なんで?」
「知らないことがあります」
「それはあるでしょ」
「でも、知らないことを見つけても、全部覚えなければと思わないのです」
ユウが少し考える。
「また読めるから?」
「はい」
エレナは修理された綴じへ指を添える。
「本がここにあるなら、忘れても読み直せます」
「うん」
「人に聞いてもよいですし」
「うん」
「以前は、覚えていなければならないと思っていました」
教師に同じことを二度聞けば、注意された。
一度説明された礼儀を忘れれば、公爵家の長女として恥ずかしいと言われた。
妹なら一度で覚えた。
そう言われるたび、自分も一度で覚えなければならないと思った。
「今は、忘れても少し困るだけかもしれません」
「内容によるけどね」
「百回聞かれたら嫌だと言っていましたね」
「百回は嫌かな」
「十回は?」
「内容による」
「変わりませんね」
「まだ十回聞かれてないし」
エレナは笑った。
「では、いつか試します」
「やめて」
「冗談です」
「よかった」
二人でまた本を見る。
窓の外は少しずつ暗くなってきている。
そろそろ帰る時間だ。
けれど、エレナはすぐには本を閉じなかった。
もう一ページだけ読む。
そこには、古くなった木の椅子を長く使うための簡単な手入れが書かれていた。
「あ」
「何?」
「椅子です」
ユウが覗く。
「ほんとだ」
「昼寝用の椅子にも使えますか?」
「まだ作ってないけど」
「作った後です」
「先が長いね」
「でも、いつか」
「そうだね」
エレナは挿絵を見る。
「作ったら、長く使いたいですか?」
「せっかく作るなら」
「では、覚えておいた方がよいですね」
「忘れたら本読めばいいよ」
「……そうでした」
また覚えようとしていた。
エレナは自分で気づき、笑う。
「では、この本が必要ですね」
「また壊れたらベルさんに直してもらう?」
「その時は、直せるなら」
「直せなかったら?」
エレナは少し考える。
「その時に考えます」
「うん」
本を閉じる。
今日はここまででいい。
「借りてもよいですか?」
「いいよ」
「今読んだ続きを?」
「どこからでも」
「ありがとうございます」
エレナは本を抱える。
「そろそろ帰ります」
「暗くなる前にね」
「はい」
立ち上がる。
戸口まで行ったところで、エレナは振り返った。
「ユウさん」
「ん?」
「今日は、朝も夕方も会いましたね」
「そうだね」
「明日は、会わないかもしれません」
「そうだね」
「でも、それで何かが変わるわけではありませんね」
ユウは少し首を傾げた。
「何が?」
「……いえ」
エレナは笑う。
「変わらないなら、それでよいのです」
「明日会いたくなったら来れば?」
「はい」
「俺も何かあったら行くし」
「何もなくても?」
聞いてから、少しだけ緊張する。
ユウは普通に答えた。
「行きたかったら」
「……はい」
それが嬉しい。
理由がなくても来る。
理由がなくても会いに行く。
毎日でなくてもいい。
会わない日があってもいい。
それでも、また会える。
「では、また」
「うん。また」
エレナは外へ出た。
◇
夜。
記録帳を開く。
今日一日を思い返す。
朝。
荷車。
西へ向かった伝言。
ニコの虫。
ベルが直した本。
ユウの家。
エレナは筆を取る。
『朝、西へ向かう荷車が出た。』
『三軒目の家についての伝言も一緒に出た。』
『エレナと書いてある。』
少し間を置く。
『見えなくなるまで見送った。少し怖かった。でも、呼び止めなかった。』
次。
『ニコの虫が、初めて道を最後まで通った。ニコは道を長くせず、もう少しそのまま見ることにした。』
『できたからといって、すぐ次へ進まなくてもよいらしい。』
さらに続ける。
『ベルさんが、ユウさんの本を直した。古い傷は残っている。読めるようになった。』
『ユウさんと少し読んだ。借りた。』
最後に何を書くか迷う。
朝、ユウが来てくれた。
朝食を食べずに。
夕方にも会った。
一緒に本を読んだ。
明日は会わないかもしれない。
それでも、不安ではない。
エレナはゆっくり書く。
『今日、ユウさんに二度会った。』
そこで止まり、少し考えてから付け足す。
『会えて嬉しかった。』
簡単な一文だった。
理由は書かない。
まだ自分でも分からない部分がある。
ただ、嬉しかったことだけは分かる。
だから、それだけ残せばいい。
記録帳を閉じる。
西へ出た荷車は、今頃どこまで進んでいるのだろう。
もう町へ着いたか。
途中で休んでいるか。
分からない。
東側の警戒線も、今日一日鳴らなかった。
それ以上の情報はない。
三軒目の家も、まだ自分の家ではない。
何も解決していない。
けれど今日、一匹の虫は小さな道を最後まで歩いた。
壊れていた本は、古い傷を残したまま読めるようになった。
自分の名前を書いた伝言は、西へ向かった。
そして自分は、ここにいる。
(明日は、何をしたいでしょう)
すぐには浮かばない。
それでいい。
明日の朝になってから決めればいい。
エレナは灯りを落とした。
外では静かな風が吹いている。
警戒線の音は聞こえない。
その静けさを確かめるために起き上がることもなく、エレナは目を閉じた。




