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第58話 書く名前


 昼食の席についてからも、エレナはローデンに渡された問いを何度か思い出していた。


 西へ向かう荷車へ、三軒目の家についての伝言を託せるかもしれない。


 その伝言に、自分の名前を書くか。


 書くなら、どこまで書くか。


「冷めるよ」


 向かいから聞こえたマーサの声に、エレナは顔を上げた。


「すみません」


「謝る前に食べな」


「はい」


 手元を見る。


 今日の昼食は、薄く切ったパンと野菜を煮込んだものだった。考え事をしている間に、湯気は少し弱くなっている。


 エレナは匙を動かした。


 一口食べる。


 味は分かる。


 朝とは違い、不安で食事が喉を通らないわけではない。ただ、考えたいことが一つ増えただけだった。


 マーサは自分の器を手にしながら、エレナをちらりと見る。


「ローデンに何か言われたのかい?」


「はい」


「東かい?」


「いえ。東側は、今のところ変わりないそうです」


「じゃあ家か」


 エレナは少し驚いた。


「分かるのですか?」


「最近のお前さんが考え込むのなんて、大体その二つだからね」


「そんなに分かりやすいでしょうか」


「分かりやすいよ」


 昨日はニコにも顔で分かると言われた。


 自分では、もう少し表情を隠すことができると思っていたのだが、少なくともこの村ではそうでもないらしい。


「明日の朝、西へ向かう荷車が出るそうです」


「へえ」


「ダリオさんが話していた方のところまで直接行くわけではありません。ただ、途中の町までは行くので、そこから先へ伝言が渡る可能性があると」


「なら、また少し進むかもしれないね」


「はい」


 エレナは頷く。


「それで、伝言に私の名前を書くかどうかを聞かれました」


「名前?」


「家を使いたい者がいる、とだけ伝えることもできるそうです。でも、私の名前を入れてもよいと」


「なるほどね」


「エレナとだけ書くか、アルヴェインまで書くか。それとも、名前を書かないか」


 マーサはすぐには何も言わなかった。


 パンをちぎり、煮汁へ少し浸してから口へ運ぶ。


 エレナも続きを急かさない。


 やがてマーサが尋ねた。


「お前さんはどうしたいんだい?」


「それを考えています」


「名前を出すのが怖い?」


「少し」


「何が?」


 エレナは匙を置いた。


 怖い。


 けれど、その中身をまだきちんと分けていなかった。


「アルヴェインという名前が、どこまで伝わるのか分からないことです」


「公爵家の名前だからかい?」


「はい」


 村の中では、自分の素性を知る者が増えても、扱いはほとんど変わらなかった。


 マーサはマーサのまま。


 ローデンはローデンのまま。


 ユウも、名前を伝えた後から自分を「エレナさん」と呼ぶようになっただけだった。


 それが嬉しかった。


 けれど、西の町にいる知らない誰かが同じとは限らない。


「私は、王都から追放されています」


「そうだね」


「正式な命令書を持っているわけではありませんし、今の扱いがどうなっているのかも分かりません。それでも、アルヴェイン公爵家の娘がこの辺りにいると知られれば、何か起こる可能性はあります」


「あるかもしれないね」


「それに……」


 エレナは言葉を止めた。


 もう一つある。


 危険とは少し違う。


 もっと、自分自身に近いものだった。


「アルヴェインと書けば、家を使いたいのが『公爵家の娘』になる気がするのです」


 マーサは黙って聞いている。


「もちろん、私はアルヴェイン公爵家の娘です。それをなかったことにしたいわけではありません」


 両親との関係も。


 妹との関係も。


 王都で生きてきた十九年間も。


 どれほど苦しい記憶が混じっていても、自分の過去そのものを消すことはできないし、消したいわけでもない。


「でも、三軒目の家に住みたいと思っているのは、公爵家の娘だからではありません」


「そうだね」


「身分を使って譲ってもらいたいわけでもありません」


「それもそうだね」


「だから……」


 そこまで言って、エレナは止まる。


 答えが見えた気がした。


 けれど、まだ言葉にする前に確かめたい。


 マーサは急かさない。


「食べな」


 代わりにそう言った。


 エレナは少し笑う。


「はい」


 匙を取り直した。


 食事はまだ終わっていない。


 名前について考えることと、昼食を食べることは両立する。


 どちらか一つを終わらせなければ、もう一つへ進めないわけではない。


 しばらく二人で食べる。


 窓の外では、干した布が風に揺れていた。


 朝、エレナが少し斜めに留めた布も落ちていない。


 直さなくても大丈夫だった。


「マーサさんなら、どうしますか?」


 食事が半分ほど進んだところで、エレナは尋ねた。


「何を?」


「名前です」


「知らないね」


「……相談しているのですが」


「お前さんの名前だろ」


「そうですが」


「あたしが決めてどうするんだい」


 予想していたような、していなかったような答えだった。


「意見もありませんか?」


「あるよ」


「では、それを聞きたいです」


 マーサは少し考えた。


「エレナって名前を出すくらいなら、別にいいんじゃないかと思う」


「アルヴェインは?」


「今はいらないんじゃないかと思う」


 エレナは黙って聞く。


「でも、それはあたしがそう思うってだけだよ。お前さんが全部書きたいなら書けばいいし、何も書きたくないなら書かなきゃいい」


「危険だから、ではなく?」


「それも少しはあるさ」


 マーサは器を置いた。


「知らないところへ公爵家の名前を出すんだ。何がどう伝わるか分からないなら、必要ないものまで出さなくていいとは思う」


「はい」


「でも一番は、お前さんがどう名乗りたいかだね」


「どう名乗りたいか」


「前に自分から名前を言ったんだろ?」


「はい」


「なら、その時と同じように考えりゃいい」


 エレナは指先を重ねる。


 あの日。


 自分はユウに名前を伝えた。


 公爵家の長女としてではなく、自分を知ってほしかった。


『エレナ・フォン・アルヴェイン』


 すべてを伝えた。


 けれど、ユウが選んだ呼び方は「エレナさん」だった。


 その呼び方を、自分は好きだと思った。


(私は、何と伝えたいのでしょう)


 家を使いたい人。


 追放された公爵令嬢。


 元王太子の婚約者。


 アルヴェイン公爵家長女。


 どれも嘘ではない。


 けれど、三軒目の家を見て、そこへ置く机や椅子を考え、本棚を置きたいと思い、庭にシロネ草を植えることまで想像したのは、その肩書きではなかった。


 自分だ。


「エレナ、と書きたいです」


 言葉にすると、思っていたより自然だった。


 マーサが頷く。


「じゃあそうすりゃいい」


「でも、まだローデンさんには伝えません」


「なんでだい?」


「少しだけ、考えてからにします」


「もう決めたんじゃないのかい?」


「今は、そうしたいと思っています。でも、夕方まで時間があると言われました」


「なら好きにしな」


 マーサは残ったパンを食べる。


「ただ、考えすぎて夕飯忘れるんじゃないよ」


「忘れません」


「本当かねえ」


「昨日は昼寝をしても夕食を忘れませんでした」


「それは自慢になるのかい?」


「……なりませんね」


 エレナは笑い、食事を続けた。


     ◇


 昼食を終えてから、エレナは『風待ち亭の小さな話』を持って外へ出た。


 どこで読むかは決めていない。


 マーサ宅の前でもよかったが、風が少し強くなってきていた。


 ページがめくれそうなので、家々の間を歩きながら場所を探す。


 東側へ向かう道には行かない。


 意識して避けたというより、今日はそちらへ行く理由がなかった。


 村の中央近くまで来たところで、ユウの姿が見えた。


 家の前に座り、何かを手にしている。


 近づいてみると、朝ベルの作業場で削っていた木片だった。


「ユウさん」


「ん?」


 ユウが顔を上げる。


「また削っているのですか?」


「いや、見てただけ」


「見ていた?」


「ここ」


 ユウが木片の一部を示す。


 朝、ささくれができたところだ。


「もうちょっと削った方がいいかなって思って」


「それで削らないのですか?」


「今日はもうやらないって決めたし」


「でも、持って帰ってきたのですね」


「ベルさんが、触って木目見とけって」


 エレナは少し笑った。


「宿題ですか?」


「宿題だったら嫌だな」


「違うのですか?」


「期限ないし、やらなくても怒られないから違うと思う」


「では、何なのでしょう」


「知らない」


 ユウは木片を指で撫でる。


「でも、さっきより分かる気がする」


「木目が?」


「ちょっとだけ」


「私には、まだ模様にしか見えません」


「俺も大体模様だよ」


「そうなのですか?」


「ベルさんみたいには分かんない」


 ユウは木片を膝の上へ置いた。


「本読むの?」


「はい。場所を探していました」


「ここで読む?」


 あまりに自然に言われ、エレナは少しだけ瞬きをした。


「よいのですか?」


「嫌なら言わないよ」


「それは、そうですね」


 ユウの家の前には、簡単な腰掛けがある。


 以前、彼の家の中で本を見せてもらった時とは違う。


 今日は外だ。


「では、お邪魔します」


「外だけど」


「ユウさんの家の前ですから」


「じゃあどうぞ」


 エレナは少し離れたところへ座った。


 本を膝に置く。


 すぐ開こうとして、ユウを見る。


 彼はまた木片を眺めている。


「ユウさん」


「ん?」


「少し相談してもよいですか?」


「いいよ」


 エレナは本の表紙へ手を置いたまま、少し考える。


 マーサには聞いた。


 けれど、ユウにも聞いてみたいと思った。


 答えを決めてもらうためではない。


 自分の考えを言葉にしてみたい。


「三軒目の家のことで、明日の朝、西へ伝言を送れるかもしれないそうです」


「へえ。進んだね」


「まだ途中の町までです」


「そっか」


「その先へ届くかも、返事が来るかも分かりません」


「うん」


「ローデンさんから、その伝言に私の名前を書くか聞かれました」


 ユウの手が止まる。


「名前?」


「はい。家を使いたい者がいる、とだけ伝えることもできるそうです」


「なるほど」


「エレナと書くか、アルヴェインまで書くか、何も書かないか」


 ユウは木片を膝の上に置いた。


「エレナさんはどうしたいの?」


 マーサと同じ問いだった。


 エレナは少し笑う。


「皆さん、最初にそれを聞くのですね」


「他に聞くことある?」


「危険かどうか、とか」


「それはローデンさんの方が詳しいでしょ」


「そうですね」


「俺は王都のこと詳しくないし」


「はい」


 エレナは本の角を指でなぞる。


「今のところ、エレナとだけ書きたいと思っています」


「じゃあそうすれば?」


「やはり、それだけですか?」


「何か問題ある?」


「いえ」


 エレナは笑う。


 やはりユウは、理由を先に求めない。


「理由を聞かないのですね」


「言いたいなら聞くよ」


「では、聞いてください」


「うん」


 エレナは少し姿勢を整えた。


「アルヴェインという名前を隠したいわけではありません。私が公爵家の娘だったことも、なかったことにしたいわけではありません」


「うん」


「でも、あの家に住みたいのは、公爵家の娘としてではないのです」


 言葉にしながら、三軒目の家を思い浮かべる。


 古い壁。


 固かった窓。


 光の入る部屋。


 少し大きな机。


 何脚かの椅子。


 本棚。


 庭。


 そこに植えるかもしれないシロネ草。


 そして、窓辺で昼寝をするかもしれないユウ。


 それは、公爵家の屋敷とは何も似ていない。


「エレナとして、住みたいと思っています」


 ユウは黙って聞いている。


「だから、伝えるならエレナがよいと思いました」


「いいんじゃない?」


「……はい」


「俺は好きだよ。エレナさんって呼ぶの」


 あまりにも何気なく言われたので、エレナは一瞬意味を取り損ねた。


「え?」


 ユウも自分が何を言ったのか分かっていないような顔をしている。


「名前の話でしょ?」


「そ、そうです」


「前にエレナさんも、その呼び方がいいって言ってたし」


「はい」


「だから、いいと思う」


「……はい」


 胸の奥が妙に騒がしい。


 ユウが言った「好き」は、呼び方についてだ。


 分かっている。


 自分のことを好きだと言われたわけではない。


(分かっています)


 なのに、頬が少し熱い。


 エレナは本を開くふりをして視線を落とした。


「どうしたの?」


「何でもありません」


「暑い?」


「少し」


「風あるけど」


「そうですね」


 ユウは不思議そうだったが、それ以上は追及しなかった。


 それがありがたいような、少し物足りないような気がして、エレナはさらに困る。


(何を考えているのでしょう、私は)


 まだ分からない。


 なら、今は分からないままでいい。


 昨日、自分でそう書いたばかりだ。


「ユウさんは」


「ん?」


「ご自分の名前を、どう考えているのですか?」


 聞いてから、エレナは少し緊張した。


 以前、ユウの名前について尋ねた。


 彼は「ユウ」がすべてではないと教えてくれた。


 けれど、全部はまだ言わないと決めた。


 自分も、それを待つと決めている。


「全部を教えてほしいという意味ではありません」


「うん」


「以前、今日はまだいいと仰ったでしょう?」


「言ったね」


「今も、聞くつもりはありません」


「そっか」


「ただ、名前を書くか考えていたら、少し気になりました」


 ユウはしばらく木片を見た。


 拒まれたら、それでいい。


 エレナは待つ。


「ユウって呼ばれるのは、もう慣れたかな」


 やがてユウが言った。


「この世界に来てから?」


「うん」


「元のお名前が嫌なのですか?」


「嫌じゃないよ」


「では、なぜ全部を?」


「んー……」


 ユウは空を見上げる。


 雲がゆっくり流れている。


「まだ、こっちでその名前を使う感じがしないからかな」


「使う感じ」


「日本にいた時の俺の名前だから」


「ユウさんも同じユウさんなのでは?」


「同じなんだけどね」


 ユウは少し笑う。


「仕事してた俺とか、家に帰って疲れてた俺とか、朝起きて仕事行きたくないって思ってた俺とか。そういうのと一緒にある名前って感じがする」


 エレナは黙って聞く。


「捨てたいわけじゃないよ」


「はい」


「でも、今はユウでいいかなって」


「いつか、教えてもよいと思ったら?」


「その時は教える」


「私にも?」


「聞きたい?」


「はい」


 今度は迷わなかった。


「聞きたいです」


 ユウがエレナを見る。


 数秒、視線が重なる。


 エレナは逸らさなかった。


「じゃあ、そのうち」


「はい」


「いつかは分かんないけど」


「待ちます」


「家と一緒だね」


「……そう言われると、ずいぶん待つものが増えました」


「嫌?」


 エレナは少し考えた。


「いいえ」


 不思議だった。


 以前は待つことが苦手だった。


 答えが出ない時間は、不安な時間だった。


 けれど今は、待っているものの中に楽しみなものもある。


 三軒目の家。


 ユウの椅子。


 借りている本の続き。


 ニコの虫が道を最後まで歩くかどうか。


 そして、いつか聞くかもしれないユウの名前。


「楽しみに待てるものもあるのですね」


「あるんじゃない?」


「はい」


 エレナは本を開いた。


 今度こそ読み始める。


 ユウは木片を触っている。


 二人の間に会話はない。


 それでも、沈黙は気まずくなかった。


 数ページ読んだ頃、道の向こうをオルドが通りかかった。


「おう」


「こんにちは」


「何しとる」


「本を読んでいます」


「俺は木見てる」


「そうか」


 オルドは一度ユウの木片を見る。


「食えんぞ」


「知ってるよ」


「ならいい」


 そのまま歩いていく。


 エレナは本から顔を上げた。


「なぜ食べ物かどうかを確認したのでしょう」


「オルドさんだからじゃない?」


「説明になっていますか?」


「たぶん」


 エレナは笑って、また本へ戻った。


     ◇


 午後も半ばを過ぎた頃、エレナはマーサ宅へ戻った。


 名前については、もう決めている。


 それでもすぐローデンのところへ向かわず、一度自室へ入った。


 机に座る。


 白い紙を一枚取り出した。


 自分で伝言を書くわけではない。


 ローデンが必要な内容をまとめると言っていた。


 ただ、一度書いてみたかった。


 筆を持つ。


『エレナ・フォン・アルヴェイン』


 慣れた名前だった。


 何度書いたか分からない。


 幼い頃から、手紙にも、課題にも、公式な書類にも書いてきた。


 字の形まで身体に染みついている。


 それを見る。


 嫌いではない。


 苦しいだけでもない。


 母の顔も、父の声も思い出す。


 妹の笑顔も思い出す。


 王都の屋敷の窓。


 勉強机。


 庭。


 図書室。


 すべて、自分が生きてきた場所だった。


(これも私です)


 否定する必要はない。


 けれど、その下へもう一度筆を置く。


『エレナ』


 たった四文字。


 それを見る。


 村で呼ばれる名前。


 ニコが「エレナお姉ちゃん」と呼ぶ。


 マーサが呼ぶ。


 ローデンが呼ぶ。


 ガルドが呼ぶ。


 そして、ユウが「エレナさん」と呼ぶ。


 胸の奥が少し温かくなる。


(今、家に住みたいと思っている私は、こちらです)


 公爵家を捨てるためではない。


 過去を消すためでもない。


 ただ、今の自分が選ぶ名前。


 エレナは二つの名前をしばらく眺めた。


 その紙は伝言には使わない。


 折り畳むこともせず、記録帳の間へ挟んだ。


 いつか見返した時、自分が何を思うのかは分からない。


 それも今は決めなくていい。


「行きましょう」


 立ち上がる。


 今度は迷わなかった。


     ◇


 ローデンは自宅脇で、古い縄をまとめていた。


「ローデンさん」


「決めたか」


「はい」


 エレナが近づくと、ローデンは作業を止めた。


「名前を書いてください」


「どこまで?」


「エレナ、と」


「それだけでいいのか?」


「はい」


 エレナは頷く。


「アルヴェインは、今は書かないでください」


「分かった」


 ローデンは余計な理由を聞かなかった。


 それが少しありがたい。


「ただ、隠してほしいという意味ではありません」


「ん?」


「もし調査の途中で、私が誰なのかを説明しなければならない場面が来たら、その時はまた私に聞いてください」


「分かった」


「勝手に名乗らないでほしい、ということです」


「ああ」


 ローデンは頷く。


「今回の伝言は、三軒目の家を使いたがってるエレナって女がいる。それだけでいいか」


「女……」


「何だ」


「いえ、間違ってはいません」


「十九なら子どもでもないだろ」


「はい」


「じゃあそれでいく」


 ローデンは再び縄をまとめ始める。


 エレナはその場に立ったまま、少し考えた。


「家を譲ってほしい、とは書かないのですよね?」


「書かん」


「住みたい、とは?」


「そこまで書くか?」


「……どうでしょう」


「お前が決めろ」


 また自分へ戻ってきた。


 エレナは考える。


 ただ使いたがっている。


 住みたい。


 二つは少し違う。


 自分はもう、あの家に住みたいとはっきり思っている。


 ローデンにも言った。


 ユウにも言った。


 マーサも知っている。


 それなら、知らない相手にだけ曖昧にする理由はあるだろうか。


「住みたい者がいる、としてください」


「いいのか?」


「はい」


「許可を求めてるって形になるぞ」


「そのための伝言ですよね?」


「まあな」


「なら、そうしてください」


 エレナは一度息を吸った。


「三軒目の家に住みたいと思っているエレナという者がいる。家について確認したいので、エルドさんの現在の居場所か、家について分かることがあれば知らせてほしい」


「そんな感じだな」


「勝手に使ってはいないことも、必要でしょうか」


「それは俺が入れる」


「お願いします」


「他には?」


 エレナは考えた。


 家を大切に使う。


 修理する。


 庭も整える。


 そういったことを書きたくなる。


 けれど、まだ何も許されていない。


 条件を並べて相手を説得しようとする段階でもない。


「ありません」


「いいんだな?」


「はい」


「じゃあ出す」


 その言葉に、エレナの胸が小さく高鳴った。


「明日の朝ですね」


「ああ」


「荷車が出れば?」


「出ればな」


「天候などで出ない可能性も?」


「ある」


「分かりました」


 やはり確定ではない。


 それでもいい。


「ありがとうございます」


「まだ礼を言われるほど何もしてない」


「伝言を送ってくださることに対してです」


「なら受け取っとく」


 ローデンは縄を抱えて立ち上がる。


「あと、東は変わりなしだ」


 エレナは少し目を見開いた。


「聞こうとしていた顔だったか?」


「……少しだけ」


「今のところ線は鳴ってない。新しい痕跡の報告もない」


「分かりました」


「それ以上はない」


「はい」


 エレナは頷いた。


 聞きに行く必要が一つなくなった。


「では、戻ります」


「ああ」


 数歩歩いてから、エレナは振り返る。


「ローデンさん」


「何だ」


「エレナでお願いします」


「聞いたよ」


「はい」


 それでも、もう一度言いたかった。


 ローデンは少しだけ笑い、手を振った。


     ◇


 夕方。


 エレナはマーサ宅の庭で、朝干した布を取り込んでいた。


 少し斜めに留めた一枚も、結局落ちなかった。


 乾いた布を外し、籠へ入れる。


「決めたのかい?」


 戸口からマーサが尋ねる。


「はい」


「どうした?」


「エレナ、とだけ書いてもらいます」


「そうかい」


「家に住みたい者がいる、と伝えてもらうことにしました」


「そうかい」


「……それだけですか?」


「他に何を言うんだい」


 昼にも似たやり取りをした。


 エレナは笑う。


「ユウさんも同じような反応でした」


「じゃあ二人分聞けてよかったじゃないか」


「はい」


 布をもう一枚外す。


「マーサさん」


「何だい」


「アルヴェインと書かなかったことを、逃げたとは思いませんか?」


 マーサはすぐには答えなかった。


 エレナの手元を見る。


「お前さんは逃げたと思ってるのかい?」


「少しだけ、考えました」


「なら、なんで書かなかった?」


「今、あの家に住みたいのは、公爵家の娘としてではないからです」


「答え出てるじゃないか」


「……そうですね」


「それに、必要になったら言うんだろ?」


「はい」


「じゃあ隠してるわけでもない」


「はい」


「ならいいじゃないか」


 マーサは庭へ出て、残っていた布を一枚外す。


「名前なんて、使いたい時に使えばいいんだよ」


「そんな簡単なものですか?」


「少なくとも、あたしの名前はそうだね」


「マーサさんはマーサさんでしょう?」


「だからだよ」


 エレナは少し考え、それから笑った。


「よく分かりません」


「あたしも説明する気はないよ」


「そうですか」


 二人で布を取り込む。


 全部終える頃には、空が少し赤くなっていた。


 東から警戒線の音は聞こえない。


 村では夕食の支度が始まり、どこかの家から煙が上がっている。


 鶏の声。


 誰かが桶を置く音。


 ニコの声。


 遠くでガルドが笑っている。


 いつもの夕方だった。


     ◇


 夜。


 エレナは記録帳を開いた。


 今日のことを書く。


『ニコの虫の道を見た。虫は昨日より少し先まで進み、途中で草へ降りた。ニコは道を直さず、もう少し見ることにした。』


『ユウさんの木削りを見た。失敗したところも、そのまま練習に使っていた。途中で手が疲れたので、まだできてもやめた。』


 そこまで書いてから、少し笑う。


 今日は「途中」ばかり見た気がする。


 虫の道も途中。


 木片も途中。


 三軒目の家も途中。


 自分も途中。


 けれど、途中だから悪いわけではない。


 次の行へ進む。


『明日の朝、西へ伝言を出してもらう予定。』


『家に住みたい者として、エレナと書いてもらうことにした。』


 筆が止まる。


 その下へ、少しだけ時間を置いて書く。


『アルヴェインを書かなかったのは、捨てたいからではない。』


『今、あの家に住みたいと思っている私は、エレナだから。』


 書き終えた文字を見る。


 不思議と怖くない。


 公爵家の名を捨てたわけではない。


 いつか必要なら、自分で名乗る。


 妹に会う時が来れば、自分は姉でもある。


 両親と向き合う時が来れば、公爵家の長女として生きてきた過去も消えない。


 けれど、それだけではない。


(私は、エレナです)


 以前なら、その言葉の後ろに何かを足さなければならないと思っていた。


 アルヴェイン公爵家長女。


 王太子の婚約者。


 淑女。


 姉。


 誰かより劣っている者。


 誰かに恥じられないよう努力しなければならない者。


 今は、何も足さずに終えてもよい気がした。


 エレナ。


 それだけでも、自分の名前だった。


 記録帳を閉じようとして、ユウとの会話を思い出す。


『俺は好きだよ。エレナさんって呼ぶの』


「……」


 また頬が熱くなる。


「呼び方です」


 誰もいない部屋で、小さく呟く。


「呼び方が好きだと言っただけです」


 もちろん分かっている。


 それなのに思い出す。


 自分が「エレナ」と書いてほしいと決めた日に、ユウがその呼び方を好きだと言った。


(……嬉しかったのですから、仕方ありません)


 そう結論づける。


 理由をこれ以上調べる必要はない。


 記録帳には書かない。


 少し迷ってから、最後に別のことを一行だけ足した。


『ユウさんの名前も、いつか聞きたい。本人が話したくなった時に。』


 今度こそ帳面を閉じる。


 明日の朝、荷車が予定どおり出るかは分からない。


 伝言が途中の町へ届くかも、そこから先へ渡るかも分からない。


 昔の工房の親方まで届いたとして、エルドのことが分かるとも限らない。


 返事がいつ来るのかも分からない。


 けれど、自分が伝える言葉は決めた。


 三軒目の家に住みたいと思っている、エレナという者がいる。


 今は、それで十分だった。


 窓の外から風の音が聞こえる。


 警戒線は鳴らない。


 エレナは明かりを少し落とし、寝台へ向かった。


 明日の朝になれば、伝言は村を離れるかもしれない。


 離れないかもしれない。


 どちらであっても、朝になってから分かる。


 だから今夜は、眠ればよかった。

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