第57話 見ているだけ
翌朝、エレナが目を覚ました時、最初に聞こえたのは鳥の声だった。
窓の外から二度、短い鳴き声が聞こえ、その後で羽ばたく音がする。昨日の朝なら、その音に混じって別の何かを探していたかもしれないが、今日は布団の中でしばらく耳を澄ませても、東側の警戒線が鳴ることはなかった。
(鳴っていませんね)
それだけを確認して、エレナは身体を起こした。
鳴っていない。
だからといって、昨日見つかった足跡の正体が分かったわけではない。危険がなくなったと決まったわけでもない。
ただ、今朝は鳴っていない。
それで十分だった。
着替えを済ませて部屋を出ると、台所から焼いたパンの匂いが漂ってくる。マーサはすでに起きており、鍋の中で何かを温めながら、エレナの顔を見るなり顎を上げた。
「起きたね」
「おはようございます」
「よく眠れたかい?」
「はい」
「昨日あれだけ昼寝したのに?」
エレナは椅子を引こうとしていた手を止める。
「……昼寝をすると、夜は眠れなくなるものなのですか?」
「人によるね」
「私は眠れました」
「ならいいじゃないか」
マーサはあっさり言って、温めていた野菜のスープを器へ注いだ。
エレナは座りながら、自分でも少し不思議に思う。
昨日は木陰で眠った。
それでも夜も普通に眠れた。
以前なら、昼間に眠ったという事実そのものを気にしていたかもしれない。夜に眠れなかったらどうしようと考え、それがかえって眠りを遠ざけていた可能性すらある。
「東は静かだったみたいだよ」
マーサがパンを置きながら言う。
エレナは顔を上げた。
「夜の間もですか?」
「あたしが聞いた限りじゃね。見回りした連中が何か言ってたわけでもない」
「そうですか」
胸の奥が少し軽くなる。
だが、そこで立ち上がってローデンへ確認しに行こうとは思わなかった。
マーサが知っている範囲では何もなかった。
もし村として知らせる必要がある変化があれば、ローデンたちが伝えるだろう。
今は朝食を食べる時間だ。
「今日はどうするんだい?」
「まだ決めていません」
「そうかい」
「ニコの虫の道は、少し見たいと思っています」
「昨日見なかったやつかい?」
「はい。昨日より少し先まで虫が来たと言っていましたから」
「じゃあ見ればいい」
「でも、朝食を食べてから考えます」
マーサが片方の眉を上げた。
「ずいぶん余裕が出たねえ」
「そうでしょうか」
「前なら、見たいと思った時点でもう半分立ち上がってたよ」
言われて、エレナは自分の姿勢を確認する。
きちんと椅子に座っている。
手にはスプーン。
目の前にはスープ。
たしかに、急いでいない。
「……そうかもしれません」
「別に遅くなったって虫は怒らないだろ」
「虫がどこかへ行ってしまう可能性はあります」
「その時は?」
「見られませんね」
「じゃあ?」
エレナは少し考えた。
「ニコに聞きます」
「それでいいじゃないか」
「はい」
スープを口へ運ぶ。
昨日の朝、警戒線が鳴った時には味を感じる余裕がほとんどなかった。
今日は根菜の甘さが分かる。
それだけの違いが、妙に嬉しかった。
◇
朝食の後、エレナはすぐには外へ出なかった。
食器を片づけ、マーサが干そうとしていた布を二枚だけ持つ。
全部ではない。
マーサも何も言わない。
二人で庭先へ出て、一枚ずつ広げて紐へ掛けた。
「今日は風がありますね」
「昼にはもう少し出るかもね」
「飛びませんか?」
「そのために留めるんだよ」
マーサが木製の留め具を一つ渡す。
エレナは布の端へ取り付けた。
一度で少し斜めになった。
直そうとして、手を止める。
布は落ちない。
風が吹いても外れそうにはない。
(これで大丈夫ですね)
そのままにした。
もう一枚も干し終えたところで、道の向こうからニコが走ってくる。
「エレナお姉ちゃん!」
「おはようございます」
「虫!」
「おはようございます、ニコ」
「あ、おはよう!」
挨拶を済ませた少年は、その場で足踏みするように身体を揺らした。
「来てる!」
「虫がですか?」
「うん! 今いる!」
「道に?」
「いる!」
エレナはマーサを見る。
マーサは布の端を引っ張って確かめながら、顎で行けと示した。
「行ってきな」
「はい」
「走らなくていいよ」
「はい」
「ニコもだよ」
「俺は走る!」
「転んだら自分でベルに説明しな」
ニコの足が止まった。
「……早歩きにする」
「そうしな」
エレナは笑いながら、ニコと一緒に歩き出した。
少年の早歩きは、ほとんど小走りに近い。
それでも昨日よりは速度を抑えているらしく、時々エレナを振り返っては、ちゃんとついてきていることを確認する。
「どこにいるのですか?」
「昨日の板!」
「昨日より先ですか?」
「見た時は先だった!」
「今も同じところに?」
「分かんない!」
「では、行ってからですね」
「うん!」
ベルの家の脇へ回る。
そこには、ニコが少しずつ作っている小さな「虫の道」があった。
細い板切れや小枝、平たい石が、草の間を縫うように並べられている。人間から見れば数歩にも満たない距離だが、小さな虫にとっては随分長い道に見える。
「ここ!」
ニコがしゃがみ込む。
エレナもその隣へ膝を曲げた。
指差された先を見る。
最初は何も分からなかった。
しかし目を凝らすと、板の端近くに小さな黒い虫がいる。
「……いました」
「いるでしょ!」
「はい」
虫はゆっくり進んでいた。
昨日、ニコが示していた場所より先だ。
小さな板を渡り、その先に置かれた平たい石へ移る。
ニコが息を呑む。
「行け」
小声だった。
「行け、行け……」
エレナも自然と虫を見る。
石の先には細い枝があり、その向こうにもう一枚の板がある。
そこまで行けば、ニコが作った道のかなり先になる。
虫は石の上で止まった。
「止まった」
「止まりましたね」
「なんで?」
「分かりません」
「疲れた?」
「虫が疲れるのか、私には分かりません」
「ユウ兄ちゃんなら分かるかな」
「どうでしょう」
虫はしばらく動かなかった。
ニコが顔を近づける。
エレナは反射的に「触ってはいけませんよ」と言いそうになったが、ニコは手を出していない。
ただ見ているだけだ。
だから何も言わない。
やがて虫が再び動く。
「あっ」
石の端へ進み、枝の方へ向かう。
ニコの顔が明るくなる。
しかし虫は枝へ乗らなかった。
その手前で方向を変え、石から草へ降りていく。
「ああー……」
ニコの肩が落ちた。
「また途中」
「そうですね」
「昨日より先だけど」
「はい」
「最後まで行かなかった」
「はい」
エレナは虫が草の中へ消えるまで見送った。
ニコは道を見つめている。
「枝が嫌なのかな」
「どうでしょう」
「ここ変える?」
少年の手が枝へ伸びる。
けれど触れる直前で止まった。
「……でも、一匹だけだよね」
エレナは隣を見る。
「そうですね」
「昨日のと同じ虫かも分かんない」
「はい」
「じゃあ、まだ分かんない?」
「私はそう思います」
「じゃあ今日は変えない」
ニコは枝から手を離した。
「また来るか見る」
「よいと思います」
「エレナお姉ちゃんも?」
「何がですか?」
「また見る?」
エレナはすぐに頷きかけ、少し考える。
「見たくなったら」
「明日?」
「明日、見たくなるかは明日にならないと分かりません」
「今日見たいのに?」
「今日は見たかったので来ました」
「明日は違うかも?」
「はい」
ニコは難しそうな顔をした。
「昨日は見たくなかった?」
「見たかったですよ」
「でも帰った」
「帰りたい気持ちの方を選びました」
「今日は?」
「今朝は見たい気持ちを選びました」
「どっちが本当?」
「両方です」
ニコがさらに難しい顔になる。
「大人、難しい」
「私もそう思います」
「子どもは?」
「ニコも、虫の道を直したいけれど今日は直さないのでしょう?」
「あ」
「直したい気持ちは嘘ですか?」
「違う」
「でも、もう少し見たい気持ちもありますね?」
「ある」
「なら、似ているのではないでしょうか」
ニコは道を見た。
それからエレナを見る。
「じゃあ俺も難しい?」
「少し」
「そっか」
なぜか嬉しそうだった。
「じいちゃんにも言おう!」
「何をですか?」
「俺も難しいって!」
「たぶん違う意味で返されると思いますよ」
「言ってくる!」
ニコは立ち上がり、ベルの作業場へ向かって走りかける。
「ニコ」
「走ってない!」
「まだ何も言っていません」
「顔!」
「昨日も言われましたね、それ」
ニコは笑いながら作業場へ消えていった。
エレナは一人、虫の道の前に残る。
小さな道。
昨日より少し先まで進んだ虫。
それでも最後までは行かなかった。
ニコは直さなかった。
(見ているだけでも、よいのですね)
何かを見つけたら、すぐ手を入れる。
問題らしいものがあれば、すぐ直す。
そうしなければならないと思っていた自分には、意外と難しいことだった。
虫の道も。
東側の足跡も。
自分自身も。
見つけたからといって、すぐ答えを出す必要はない。
「エレナお姉ちゃん!」
作業場からニコの声が飛んでくる。
「じいちゃんが、俺は前から難しいって!」
「やはりそうなりましたか」
「どういう意味!?」
ベルの大きな笑い声が聞こえた。
エレナも笑いながら立ち上がった。
◇
「来たのか」
作業場へ顔を出すと、ベルはいつもの椅子に座り、小さな木材を削っていた。
足元には細かな木屑が散っている。
「おはようございます」
「ああ」
「ニコから聞きました。私が来る前に、何か言ったそうですね」
「何も言っとらん」
「俺は難しいって言った!」
「前から難しいだろ」
「ほら!」
「それはお前の性格の話だ」
「性格?」
「じいちゃん!」
何が不満なのか分からないが、ニコがベルの膝を軽く叩く。
ベルは気にも留めず、手元の木材を一度眺めた。
「道はどうだった」
「また途中!」
「そうか」
「昨日より先!」
「そうか」
「もっと驚いてよ!」
「虫が道を使ったくらいで毎回驚いてたら、仕事にならん」
「じいちゃん見に来ないの?」
「暇になったらな」
「いつ?」
「知らん」
ニコは頬を膨らませた。
その横で、エレナは作業台の端に置かれた木片へ目を向ける。
見覚えがあった。
昨日、ベルから預かってユウへ渡したものと似ている。
ただし、こちらは少し長い。
「それも練習用ですか?」
エレナが尋ねると、ベルは視線だけを動かした。
「ああ。ユウが使うやつだ」
「今日、来るのですか?」
「知らん」
「約束していないのですか?」
「してない」
ベルは削っていた木材を置く。
「あいつは来たい時に来る。こっちも仕事がある時は仕事する。それだけだ」
「では、これは?」
「前に来た時に置いてった」
「途中なのですね」
「途中だな」
エレナは木片を見る。
触れてよいか迷い、ベルへ視線を向ける。
「見ても?」
「見るだけなら好きにしろ」
「持っても?」
「落とすなよ」
「はい」
両手で持ち上げる。
昨日の木片より少し重い。
表面には削られた跡があり、場所によって滑らかさが違う。
「ここは、昨日のものよりきれいですね」
「少し慣れたんだろ」
「でも、こちらはまだ角があります」
「そこまでやってないからな」
「失敗したのではなく?」
「途中だ」
ベルの答えは簡単だった。
エレナは木片をゆっくり回す。
どこまで削る予定なのか、自分には分からない。
何をもって完成なのかも分からない。
それでも、昨日見たものより手の跡が整っていることだけは分かる。
「上手になっていますか?」
「前よりはな」
「どのくらい?」
「知らん」
「測らないのですか?」
「何を測る」
「上達を」
「削った木を見りゃ分かるだろ」
「数字には?」
「いらん」
ベルは面倒そうに答えた。
「椅子が作れるようになるまで、あと何日ですか?」
「知らん」
「いつから作り始めるのですか?」
「知らん」
「……全部分からないのですね」
「本人が作りたくなった時に、作れそうなら始める」
「ベルさんが決めるのではなく?」
「俺の椅子じゃない」
エレナは木片へ視線を戻す。
ユウが昼寝をするための椅子。
作ると言い出したのはユウだ。
ベルは教えている。
けれど、完成する日を決めてはいない。
(これも、急がないのですね)
自分なら、作ると決めた時点で期限を考えていたかもしれない。
いつまでに何を覚える。
何日までに練習を終える。
その後、材料を準備する。
何日で形にする。
完成日から逆算する。
公爵家では、それが当たり前だった。
予定があること自体が悪いとは思わない。
必要な場面もある。
けれど、昼寝用の椅子にまで期限は必要ない。
「楽しみです」
「なら待っとけ」
「はい」
木片を元の場所へ戻す。
その時、外から足音が聞こえた。
「おはよう」
聞き慣れた声だった。
エレナが振り返る。
作業場の入口にユウが立っている。
「ユウさん」
「エレナさんもいたんだ」
「はい。ニコの虫の道を見に来ました」
「どうだった?」
「昨日より少し先まで虫が進みました。でも、最後までは行かず、草へ降りました」
「そっか」
「ニコはまだ道を直さないそうです」
「待つんだ」
「はい」
ユウがニコを見る。
「偉いね」
「俺、難しいんだって!」
「何が?」
「分かんない!」
「そっか」
「ユウ兄ちゃんまで!」
ニコが抗議する。
ベルが笑い、エレナもつられて笑った。
「ユウ、やるか」
ベルが顎で作業台を示す。
「うん。ちょっとだけ」
「ちょっとか」
「今日はちょっと」
「ならちょっとやれ」
ベルは立ち上がり、作業台の端を空けた。
ユウがそこへ移動する。
エレナは一歩下がった。
「私は戻りますね」
そう言ったところで、ユウが振り返る。
「帰るの?」
「ユウさんは練習するのでしょう?」
「うん」
「邪魔をしてはいけませんから」
「見たいって言ってなかった?」
エレナは口を閉じた。
たしかに言った。
完成したものだけではなく、途中も見たい。
失敗したものも見たい。
昨日はその木片を見た。
けれど、実際に練習しているところを見るのは、邪魔になるのではないかと思ったのだ。
「見てもよいのですか?」
「別にいいよ」
ユウはベルを見る。
「いい?」
「俺に聞くな。邪魔なら追い出す」
「だって」
「では……見てもよいですか?」
「どうぞ」
エレナは作業場の壁際へ移動した。
ニコも隣へ来る。
「俺も見る!」
「お前は静かにしてろ」
「分かった!」
「今の時点でうるさい」
「じいちゃん!」
またベルが笑う。
ユウは作業台の前へ座った。
先ほどエレナが見ていた木片を手に取る。
「これ、続き?」
「ああ。今日はそこの角だ」
ベルが一か所を指す。
「一気に落とすなよ」
「分かった」
「前にやりすぎただろ」
「覚えてる」
「ならやれ」
ユウは小さな刃物を持つ。
エレナは自然と背筋を伸ばした。
木工を見るだけなのに、なぜか自分まで緊張する。
ユウが刃を木へ当てる。
一度。
薄い木屑が落ちる。
二度目。
今度はほとんど削れていない。
ユウが手を止める。
「弱すぎた」
「そうだな」
ベルはそれだけ言う。
ユウがもう一度刃を当てる。
少し厚めの木屑が落ちた。
「今のは?」
「悪くない」
「じゃあこれくらい?」
「木目見ろ。ずっと同じ力じゃ駄目だ」
「難しいな」
「だから練習してんだろ」
ユウは木片を見る。
エレナも見る。
しかし、何が違うのかよく分からない。
ベルが指摘した木目も、自分にはただの模様にしか見えなかった。
(ユウさんには、分かるのでしょうか)
そう思った直後、ユウが首を傾げた。
「どっち向き?」
「分からんなら指で触れ」
ベルが言う。
ユウは木の表面を指先でなぞる。
「こっち?」
「やってみろ」
「正解教えてくれないの?」
「削れば分かる」
「失敗するかもしれないじゃん」
「そのための木だ」
ユウは少し笑った。
「それもそうか」
刃を入れる。
今度は途中で少し引っかかった。
「あ」
エレナの口から声が漏れる。
木の表面に、小さなささくれが立った。
ユウが止まる。
「逆?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「場所による。今のは逆だったな」
「じゃあ失敗か」
「そうだな」
ベルは平然としている。
ユウも大きく落ち込まない。
「ここ、どうする?」
「考えろ」
「削り直す?」
「それでもいい」
「別のやり方ある?」
「ある」
「教えて」
「まず考えろ」
「厳しいな」
「椅子作りたいのはお前だろ」
「そうだった」
ユウは木片を持ち上げ、角度を変えて見る。
エレナは黙ってその様子を見つめていた。
失敗した。
けれど、誰も責めない。
ベルは「失敗したな」と言っただけだ。
ユウもそれを否定しない。
そして、そのまま次を考えている。
(失敗しても、そこで終わりではない)
当たり前のことかもしれない。
けれど、エレナにはその光景が新鮮だった。
失敗は評価だった。
一度できなければ、妹ならできたと言われた。
失敗した事実よりも、「なぜできないのか」を問われることが怖かった。
だから失敗しないように慎重になった。
慎重になりすぎて遅くなれば、それも注意された。
目の前のユウも、慎重すぎてほとんど削れなかった跡を残している。
反対に、削りすぎた跡もある。
どちらも捨てられていない。
「エレナさん」
「はい?」
「そんな真剣に見られると緊張する」
「えっ」
ユウがこちらを見ていた。
「す、すみません」
「謝らなくていいけど」
「でも、邪魔をしてしまいましたか?」
「邪魔っていうか、試験受けてるみたい」
「そんなつもりでは」
「分かってる」
ユウが笑う。
エレナは少し頬が熱くなる。
「もう少し普通に見ます」
「普通って?」
「……どう見るのでしょう」
「知らない」
「難しいですね」
「見るだけなのにね」
ベルが鼻を鳴らした。
「見られて困るなら一人でやれ」
「それもそうなんだけど」
「エレナも、見たいなら好きに見ろ。こいつが削り損なってもお前のせいじゃない」
「はい」
「俺が失敗する前提?」
「練習で失敗しないつもりか?」
「それは無理」
「なら同じだ」
ユウは再び木片へ向き直る。
エレナは先ほどより肩の力を抜いた。
見る。
ただ見る。
評価するためではない。
間違いを探すためでもない。
ユウが何をしているのか知りたいから見る。
それだけでいい。
ユウはささくれた部分を指で触り、刃の向きを変えた。
少しずつ削る。
今度は引っかからない。
「こう?」
「まあな」
「直った?」
「完全にはな」
「じゃあもうちょい?」
「やりすぎるなよ」
「難しいなあ」
その言葉に、ニコが反応した。
「ユウ兄ちゃんも難しい!」
「俺も?」
「俺も難しい!」
「何の話?」
「分かんない!」
「そっか」
「またそれ!」
作業場に笑い声が広がる。
エレナも笑った。
ユウの手元では、木屑が少しずつ増えていく。
一度に大きく形が変わるわけではない。
削る。
触る。
見る。
ベルに聞く。
また削る。
途中で止まる。
少し戻すことはできないから、削りすぎないように考える。
それでも時々失敗する。
その繰り返しだった。
「疲れた」
しばらくして、ユウが刃物を置いた。
「もう終わりか」
ベルが言う。
「今日はちょっとって言ったし」
「まだできるだろ」
「できるけど、今日は終わり」
「そうか」
ベルは引き止めなかった。
ユウは木片を作業台へ置く。
エレナはそれを見る。
「もう少しで、そこがきれいになりそうでした」
「たぶん」
「続けないのですか?」
「今日はいいかな」
「疲れたから?」
「ちょっと手が疲れたのと、集中切れてきたから」
「でも、まだできると」
「できるよ」
ユウは自分の右手を開いたり閉じたりする。
「できるけど、やらない」
エレナはその言葉を聞きながら、昨日の自分を思い出した。
眠れるけれど眠らなければならないわけではない。
起きたから何かしなければならないわけでもない。
できる。
でも、やらない。
それも選択だった。
「ベルさんは、止めないのですね」
「何をだ」
「まだできるのに、ユウさんが終わることを」
「俺の椅子じゃない」
昨日と同じ答えだった。
「こいつが手ぇ痛めたら、明日も削れんだろ」
「そこまで疲れてないよ」
「ならなおさら、好きにしろ」
「うん」
ユウは道具を片づけ始める。
エレナは作業台の木片へ目を落とした。
ささくれは完全には消えていない。
角もまだ途中だ。
それでも、昨日より少し形が整っている。
「これも、残すのですか?」
「うん」
「失敗したところも?」
「削り直してる途中だし」
「もし最後まできれいにならなかったら?」
「ニコにあげる?」
「やった!」
即座にニコが両手を上げた。
「虫の道にする!」
「まだあげないよ」
「いつ?」
「いらなくなったら」
「いついらなくなる?」
「分かんない」
「みんな分かんない!」
ニコが叫ぶ。
ベルが笑い、ユウも笑う。
エレナも声を立てて笑った。
「本当ですね」
分からないことばかりだ。
虫が明日も道を使うか分からない。
ユウがいつ椅子を作り始めるか分からない。
三軒目の家に住めるか分からない。
東側の足跡が何だったのか分からない。
それでも、全部が同じ重さではない。
危険に関わる分からないことは、必要な警戒をする。
家については、返事を待つ。
虫については、見たければ見る。
椅子については、楽しみにする。
分からないという一つの言葉の中にも、いろいろな待ち方がある。
(全部に同じように構えなくてもよいのですね)
エレナはようやく、それが少し分かってきた気がした。
◇
作業場を出ると、ユウも一緒だった。
「帰りますか?」
エレナが尋ねる。
「一回家に戻ろうかな」
「一回?」
「昼どうしようか考える」
「まだ朝ですよ」
「もう結構経ってるよ」
空を見る。
たしかに太陽は少し高くなっている。
虫の道を見て、ベルの作業場でユウの練習を眺めていた。
思っていたより時間が経っていたらしい。
「エレナさんは?」
「私は……」
言いかけて、考える。
マーサ宅へ帰る。
少し歩く。
本を読む。
ガルドの畑を見に行く。
いくつか浮かぶ。
その中で、今一番したいことは何か。
「少し歩こうと思います」
「どこまで?」
「決めていません」
「そっか」
「ユウさんは?」
「家帰る」
「分かりました」
ここで別れる。
昨日なら、少し寂しく感じたかもしれない。
今日もまったく何も感じないわけではない。
けれど、引き止めたいほどではない。
「では、また」
「うん。また」
ユウが自宅の方へ向かう。
エレナは別の道へ進んだ。
村の中央から少し外れ、畑の間を歩く。
東へは行かない。
警戒線を確認するつもりもない。
足跡を見に行くつもりもない。
昨日のことを忘れたわけではない。
ただ、自分が見に行っても分からないから行かない。
それだけだ。
畑ではガルドが土を触っていた。
「おう、エレナ!」
「おはようございます」
「散歩か?」
「はい」
「何しに?」
「散歩です」
「そうか!」
ガルドは笑う。
「いい天気だぞ!」
「見れば分かります」
「お、言うようになったな!」
「以前、ガルドさんに似たことを言われましたから」
「俺が?」
「忘れたのですか?」
「覚えとらん!」
「そうですか」
エレナは笑った。
ガルドの畑の端には、以前見た豆が育っている。
少し傾いていた一本も、まだそこにある。
「倒れていませんね」
「何が?」
「あの豆です」
「ああ」
ガルドはちらりと見る。
「まだ立っとるな」
「直さなくてよかったのですね」
「今のところはな」
「もし倒れたら?」
「その時考える」
「やはりそうなのですね」
「何がだ?」
「いえ」
エレナは豆を見る。
あの時も、ガルドはもっと倒れたら考えると言った。
虫の道も。
木工も。
警戒線も。
何もかも同じではないのに、この村の人たちは「今すぐ決めなくてもよいこと」を、そのまま置いておくのが上手い。
自分はまだ練習中だ。
「エレナ」
「はい?」
「それ、ずっと見てても急には伸びんぞ」
「分かっています」
「ならいい」
ガルドはまた土へ視線を戻す。
エレナは少しだけ豆を眺めてから、歩き出した。
今日は測らない。
昨日よりどれだけ伸びたかも確かめない。
ただ、育っているのを見た。
それで十分だった。
◇
昼前にマーサ宅へ戻ると、戸口の近くにローデンがいた。
エレナの足が一瞬だけ止まる。
胸の奥が、わずかに強く打った。
ローデンがここへ来る理由はいくつもある。
それでも昨日のことがある以上、最初に東側を思い浮かべてしまう。
(決めつけない)
エレナは息を整えた。
ローデンは自分を見つけると、軽く手を上げる。
「ちょうどよかった」
「何かありましたか?」
「東のことなら、今のところ何もない」
先に言われた。
エレナは肩から少し力が抜ける。
「警戒線も?」
「鳴ってない。朝にケルが離れたところから見たが、新しいものも確認してない」
「追跡は?」
「してない」
「そうですか」
そこで止める。
さらに細かく聞きたい気持ちは少しある。
だが、ローデンの言葉で必要なところは分かった。
新しい反応はない。
追跡もしていない。
それなら今はそれでいい。
「では、別のご用ですか?」
「ああ」
ローデンが手にしていた小さな紙片を上げる。
「西へ行く荷車が、明日の朝に出るらしい」
エレナは瞬きをした。
「西へ?」
「ダリオが話してた、あの先の集落まで直接行くわけじゃない。ただ、途中の町までは行く」
三軒目の家。
エルド。
そして、昔の工房を知っているという人物。
エレナの胸が、今度は別の理由で速くなる。
「何か、送るのですか?」
「まだ決めてない」
「手紙を?」
「それも考えてる」
ローデンは紙片を指で軽く叩いた。
「ダリオが次にいつ動けるか分からんからな。途中の町まで行く荷車に、向こうの知り合い宛ての短い伝言を持たせることはできるかもしれん」
「では、工房の方へ?」
「そこから先に届く保証はない」
ローデンはすぐに釘を刺した。
「町まで行く。それだけだ。その先で誰かが動けるかは分からんし、昔の工房の親方まで話が届くかも分からん」
「はい」
「返事が来るとも限らん」
「はい」
「エルドが分かるとも限らん」
「……はい」
エレナは一つずつ受け取った。
町まで。
その先は分からない。
返事も分からない。
エルド本人へ届くわけではない。
それでも。
「少しだけ、進むかもしれないのですね」
「そういうことだ」
エレナの口元が自然に緩んだ。
「嬉しいです」
「まだ何も決まってないぞ」
「分かっています」
以前にも似たことを言った気がする。
決まっていなくても、少し嬉しい。
期待してもよい。
ただし、期待を事実にはしない。
「それで、一つ聞きたい」
「はい」
「もし伝言を出すなら、お前の名前を入れるかどうかだ」
エレナは表情を止めた。
「私の……名前ですか?」
「家を使いたがってる者がいる、とだけ伝えることもできる」
ローデンの声はいつもと変わらない。
「だが、誰が使いたがってるのか聞かれる可能性もある。最初から名前を入れるなら、それでもいい」
「エレナ、と?」
「そうだ」
「……アルヴェインは?」
「そこまで入れるかどうかも、お前が決めろ」
エレナは紙片を見る。
名前。
以前、自分から村の人たちへ伝えた名前。
ユウにも伝えた。
あの時、自分は公爵家の長女としてではなく、自分自身として名前を知ってほしいと思った。
けれど、西へ送られる伝言に名前を書くことは、少し違う。
知らない人へ届く。
どこまで伝わるか分からない。
自分がアルヴェイン公爵家の娘だと分かれば、それがどんな形で広がるかも分からない。
追放された身であることもある。
王都から遠く離れているとはいえ、慎重に考えるべきことだった。
ローデンは急かさない。
「今決めなくてもいい。荷車は明日の朝だ」
「明日の朝」
「ああ」
「それまでに決めればよいのですね」
「名前を入れないってのも選べる」
「分かりました」
エレナは息を吐いた。
すぐに正解を出そうとする癖が顔を出しかけている。
けれど、今は時間がある。
「少し考えます」
「そうしろ」
「ローデンさん」
「ん?」
「私が決めるまで、待っていただけますか?」
「そのために聞きに来たんだ」
ローデンは当然のように答えた。
「分かりました。ありがとうございます」
「昼までに決めろとは言ってないからな」
「はい」
「夕方でもいい」
「はい」
「夜中に起こすのはやめろ」
エレナは思わず笑った。
「それはしません」
「ならいい」
ローデンは帰っていく。
その背中を見送りながら、エレナは胸元へ手を添えた。
新しい問題ではない。
家についての調査が、ほんの少し先へ進むかもしれないだけだ。
それでも、自分で決めることが一つ増えた。
名前を書くか。
書かないか。
書くなら、どこまで書くか。
(すぐに決めなくてもよい)
今朝から何度も見た「途中」が、今度は自分の前に置かれている。
エレナはマーサ宅の戸を開けた。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
台所からマーサの声が返ってくる。
「昼にするかい?」
「はい」
エレナは答えた。
名前のことを考えるのは、食べながらでも、食べた後でもいい。
明日の朝までには決める。
けれど、今すぐでなくていい。
だからまず、昼食を食べる。
その選択をしてから、エレナは自分でも少しだけ笑った。




