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第56話 起きるまで

 西側の木陰には、葉の擦れ合う柔らかな音が絶えず流れていた。


 朝には空を覆っていた薄い雲もかなりほどけ、枝葉の隙間から落ちる光が、風に合わせて草の上をゆっくり移動している。村の東側で警戒線が鳴ったのと同じ日だというのに、ここから見える景色は昨日までとほとんど変わらなかった。


 エレナは木の幹に背を預けたまま、隣で眠っているユウへ目を向ける。


 先ほどまで話していたのに、今はもう目を閉じている。昼寝が上手だと自分で言っていただけあって、眠りへ入るまで大して時間はかからなかった。


(本当に、上手なのですね)


 少しおかしくなって、口元が緩む。


 以前、同じようにユウが自分のそばで眠ろうとした時には、少し寂しいと思った。


 話していた相手が眠ってしまえば、自分だけが取り残されるような気がしたからだ。


 けれど今日は違う。


 ユウは眠っている。


 それでも、いなくなったわけではない。


 目を覚ませば、また話せる。


 もしかすると起きた後、そのまま別々に帰るかもしれない。それでも、一緒にいた時間までなくなるわけではない。


(だから、今日は大丈夫なのですね)


 自分の中に生まれた違いを、エレナはゆっくり確かめた。


 安心している。


 けれど、ユウがいるから何も怖くないというわけでもない。


 東側で見つかった足跡のことを考えれば、胸の奥にはまだ小さな引っかかりがある。


 外側の警戒線が二度鳴った。


 不鮮明な足跡が三つあった。


 種類も、何頭分なのかも、その後どちらへ進んだのかも分からない。


 内側の警戒線は鳴らず、人の新しい足跡も見つからなかった。警戒線そのものにも異常はなかった。


 そこまでは分かっている。


 その先は分からない。


(分からないものを、今ここで考え続けても分からないままです)


 以前の自分なら、それでも考え続けていたかもしれない。


 自分が何か見落としていないか。


 何かできることがないか。


 誰かに確認した方がよいのではないか。


 そんなふうに、自分が関われる場所を探していた。


 けれど、現場を見たのはケルやドランたちだ。警戒線についてはユウが確認し、ローデンも判断に加わっている。


 自分は何も見ていない。


 だから、今は任せてよい。


 エレナは膝の上に置いていた両手から力を抜いた。


 すると、それまで意識していなかった風の冷たさが指先へ触れる。


 暑くも寒くもない。


 昼寝をするには、たしかにちょうどよさそうだった。


「……少しだけなら」


 誰に聞かせるでもなく呟き、エレナも目を閉じてみる。


 眠るつもりはなかった。


 ただ、目を閉じて風の音を聞く。


 葉が揺れる。


 少し遠くで鶏が鳴く。


 さらに遠くからは、畑で誰かが話しているらしい声が聞こえる。


 村の日常の音だった。


 警戒線が鳴っても、村全体が息を止めるわけではない。


 必要な者が確認へ行き、必要な記録を残した。


 その後でガルドは畑へ戻り、オルドは鶏の世話をし、ベルはきっと何かを削っている。


 マーサも午後の仕事をしているだろう。


 ニコは虫の道を見に行ったかもしれない。


 そして自分は、木の下にいる。


(これも、この村の一日なのですね)


 何も起きない日だけが日常なのではない。


 少し怖いことがあっても、分からないことが残っていても、その中で食事をして、話して、休んで、一日を続けていく。


 そんな当たり前のことを、以前の自分は知らなかった気がする。


 王都にいた頃は、一つの失敗があれば、その日のすべてが失敗になった。


 教師に注意されれば、できなかったことを夕食の席まで引きずった。


 母から妹と比べられれば、その日の朝に褒められたことなど簡単に消えた。


 婚約者との会話で一つ答えを間違えたと思えば、寝るまで何度も言葉を思い返した。


 よいことと悪いことを、同じ日に置いておくことができなかったのだ。


(嫌なことが一つあれば、その日は嫌な日だと思っていました)


 今日の朝は怖かった。


 それは本当だ。


 けれど昼食では笑った。


 今は心地よい風が吹いている。


 隣ではユウが眠っている。


 どれか一つが、ほかの全部を消す必要はない。


 エレナは目を開けた。


 木漏れ日の位置が、先ほどより少し動いている。


 どれくらい時間が経ったのかは分からない。


 隣を見ると、ユウはまだ眠っていた。


「本当に起きませんね」


 返事はない。


 もちろんである。


 エレナは小さく笑い、また前を見る。


 何もしないために誘ったのだから、起こす理由もない。


 自分も何かをしなければならないわけではない。


 そう思ったところで、村の方から小さな足音が聞こえてきた。


「エレナお姉ちゃー……」


 途中まで大きかった声が、急に小さくなる。


 振り返ると、ニコがこちらへ歩いてきていた。


 その視線がエレナからユウへ移る。


「寝てる?」


 ニコが声を潜めた。


「はい」


「また?」


「また、とは?」


「ユウ兄ちゃん、よく寝てる」


「本人も上手だと言っていました」


「昼寝が?」


「はい」


 ニコは妙に納得した顔で頷くと、ユウから少し離れた場所へしゃがんだ。


「起こさないの?」


「起こす理由がありませんから」


「いつ起きる?」


「分かりません」


「夕方まで寝たら?」


「その時に考えます」


 エレナが答えると、ニコは草を一本抜きかけて手を止めた。


 結局抜かず、指先で揺らすだけにする。


「何してたの?」


「何もしていません」


「ずっと?」


「はい」


「なんで?」


「何もしないために来たからです」


 ニコは明らかに理解できない顔をした。


「何もしないのに来たの?」


「そうです」


「家でもできるよ?」


「できますね」


「じゃあなんでここ?」


 エレナは少し考えた。


 木陰が気持ちよかったから。


 東側から離れたかったから。


 以前ここでユウと本を読んだことがあるから。


 いくつか理由はある。


 けれど、一番近いものは別だった。


「ユウさんと、ここに来たかったからでしょうか」


「寝てるよ?」


「寝ていますね」


「一緒に何もしてないよ?」


「一緒に何もしないでいます」


「同じ?」


「どうでしょう」


 エレナ自身、少しおかしくなって笑う。


「私もまだ、よく分かりません」


「分かんないの?」


「はい」


「大人なのに?」


「大人でも分からないことはあります」


「ユウ兄ちゃんも?」


「たくさんあると思います」


 眠っている本人の代わりに答えてよいのか少し迷ったが、少なくともユウは分からないことを分からないと言う。


 それなら間違ってはいないだろう。


「朝の足跡も?」


 ニコの声が少しだけ小さくなった。


「分からないそうです」


「魔物じゃない?」


「魔物かもしれませんし、違うかもしれません。今は分かりません」


「ユウ兄ちゃん、魔法で分かんないの?」


「何でも分かる魔法ではないそうです」


「いっぱい本あるのに?」


「たくさんあっても、何でもできるわけではないのでしょう」


 エレナは眠っているユウを見る。


 十冊の魔導書を扱えるという力が、どれほど珍しいのか。


 自分はまだ完全には理解していない。


 ただ、ユウ自身がその力を万能なものとして扱っていないことだけは知っている。


「魔法で全部分かってしまったら、ケルさんやドランさんが一緒に確認する必要もなくなってしまいます」


「そっか」


「でも、実際には皆さんで行きました」


「ユウ兄ちゃん一人じゃなかった」


「はい」


 ニコは少し考え、それからユウの寝顔を見た。


「じゃあ寝ていいの?」


「どういう意味ですか?」


「まだ分かってないのに」


 エレナはすぐには答えなかった。


 その問いは、自分にも向けられるものだった。


 分からないことが残っている。


 それなのに休んでよいのか。


 答えが出るまで考え続けなくてよいのか。


「よいのだと思います」


 エレナはゆっくり答えた。


「今できる確認はしたそうです。危ないから追いかけないとも決めました。ですから、何か新しいことが起きるまでは、休んでもよいのではないでしょうか」


「何か起きたら?」


「その時に、また考えます」


「寝てたら?」


「起こします」


「俺が?」


「近くにいるなら、お願いします」


「分かった」


 ニコは大きく頷いた。


 重要な役目を任されたような顔になったので、エレナは少し不安になる。


「ただし、警戒線が鳴ったからといって、一人で東へ行ってはいけませんよ」


「行かないよ。じいちゃんに怒られる」


「それならよいです」


「エレナお姉ちゃんも行っちゃ駄目だよ」


「はい」


「一人で」


「一人では行きません」


「ユウ兄ちゃんとなら?」


「それは、その時に必要かどうか考えます」


「今は?」


「行きません」


「じゃあいい」


 どうやらニコなりに納得したらしい。


 しばらく三人で木陰にいる。


 正確には、ユウは眠り、ニコは草の上を歩く小さな虫を眺め、エレナはその二人を時々見ていた。


 やがてニコが顔を上げる。


「そうだ。虫の道」


「見に行くのですか?」


「うん。昨日のところ、今日も通るか見る」


「直すのではなく?」


「今日は見るだけ」


 昨日、小さな黒い虫は作った道の途中まで進み、その後で草の方へ逸れた。


 ニコはその場ですぐ道を直そうとせず、しばらくそのままにすると決めていた。


「では、見てきてください」


「エレナお姉ちゃんは?」


「今日はここにいます」


「ユウ兄ちゃん起きるまで?」


「たぶん」


「分かった。虫来たら後で教える!」


「お願いします」


 ニコは走り出しかけ、二歩目で速度を落とした。


 エレナは何も言っていない。


 少年は振り返る。


「走ってない!」


「今日は言っていませんよ」


「でも言いそうだった」


「そうですか?」


「顔!」


 そう言い残し、今度は早歩きで村へ戻っていった。


 エレナは思わず口元を押さえる。


「……私も分かりやすいのでしょうか」


「結構」


「きゃっ」


 突然隣から返事があり、エレナの肩が跳ねた。


 見ると、ユウが目を開けている。


「起きていたのですか?」


「今起きた」


「いつからです?」


「走ってない、くらい」


「それならほとんど今ですね」


「うん」


 ユウはまだ眠そうな目で空を見る。


「どれくらい寝た?」


「分かりません」


「そっか」


「時間を測っていませんから」


「まあいいか」


 ユウは大きく伸びをする。


 その様子を見ながら、エレナはふと思う。


「本当に気にならないのですね」


「何が?」


「どれくらい眠ったのか」


「夕方じゃなければいいかな」


「夕方だったら困るのですか?」


「腹減る」


「そこですか」


「大事だよ」


 あまりに真面目な顔で言うので、エレナは笑った。


「まだ夕方ではありません」


「なら大丈夫」


「ニコが来ましたよ」


「なんか話してたね」


「足跡のことを少し聞かれました」


 ユウの眠気が少し薄れる。


「怖がってた?」


「少し。でも、ベルさんに東へ行くなと言われたので行かないそうです」


「なら大丈夫かな」


「それと、まだ足跡の正体が分からないのに寝てもよいのかと聞かれました」


「なんて答えた?」


「今できる確認をして、追わないと決めたのだから、何か新しいことが起きるまでは休んでもよいのではないかと」


 ユウは一度瞬きをしてから、小さく頷いた。


「いいと思う」


「ユウさんが寝ていたので、説得力はありました」


「役に立った?」


「寝ていただけですが」


「じゃあ昼寝も役に立つことあるんだ」


「そういう結論になりますか?」


「ならない?」


「……今回は、少しだけ」


 エレナは認める。


 ユウが笑った。


 風がまた枝を揺らす。


 先ほどより日差しが増え、木陰の輪郭が少し濃くなっていた。


「エレナさんは何してた?」


「何もしていません」


「成功したね」


「成功?」


「何もしないために来たんでしょ?」


「ああ」


 エレナはそこで初めて気づく。


 確かに、何もしないために誘った。


 そしてユウが眠っている間、自分は何か仕事を探すことも、本を読むことも、記録を整理することもしなかった。


 ニコとは話したが、それも予定していたことではない。


「……成功と言ってよいのでしょうか」


「自分で誘って、自分で何もしなかったんだからいいんじゃない?」


「でも、何もしないことに成功というのも変ですね」


「じゃあ失敗?」


「それも違います」


「難しいね」


「先ほども同じことを言っていました」


「そうだっけ」


「忘れたのですか?」


「寝たから」


「便利ですね、昼寝」


「おすすめだよ」


 エレナは少し迷った後、尋ねる。


「私も、ここで眠ってみてもよいでしょうか」


「いいんじゃない?」


「でも、ユウさんは起きたところですよね」


「うん」


「私が眠ったら、今度はユウさんが待つことになります」


「帰りたいなら帰るけど」


「……帰るのですか?」


 思わず聞き返してから、エレナは自分の声に混じった落胆へ気づいた。


 ユウも少しだけ首を傾げる。


「待っててほしい?」


 問いかけは静かだった。


 からかう響きもない。


 エレナはすぐに答えず、自分の中を確かめる。


 眠ってみたい。


 そして目を覚ました時、ユウがまだここにいたら嬉しい。


 それは、自分が先ほどユウに対して感じていた安心と似ている。


「……はい」


 エレナは小さく息を吸った。


「できれば、いてほしいです」


「じゃあいるよ」


 あまりにも簡単な返事だった。


 エレナはしばらくユウを見る。


「それだけですか?」


「何が?」


「いえ……」


 もっと理由を聞かれると思った。


 なぜいてほしいのか。


 どれくらい眠るのか。


 何をすればよいのか。


 けれど、ユウは何も尋ねない。


「嫌ではないのですか?」


「別に。俺もさっき寝てたし」


「でも、ユウさんは今は眠くないのでしょう?」


「たぶん」


「暇では?」


「何もしないために来たんだから、暇でいいんじゃない?」


 エレナは言葉を失い、それからゆっくり笑った。


「そうでしたね」


「うん」


「では……少しだけ」


 エレナは木の幹へ背を預け直した。


 目を閉じる前に、一度だけユウを見る。


 彼は座ったまま、草の向こうを眺めている。


 特に何かを始める様子はない。


(起きても、まだいる)


 そう思うと、不思議なくらい肩から力が抜けた。


 エレナは目を閉じる。


 けれど、すぐには眠れなかった。


 普段昼間に眠る習慣などない。


 公爵家にいた頃なら、日中に眠るなど考えもしなかった。


 体調を崩しているのでなければ、昼間は何かを学ぶか、務めを果たす時間だった。


 眠くても姿勢を正し、予定をこなした。


 少し休みたいと思っても、それは予定が終わった後に許されるものだった。


(今は、何も終わっていません)


 三軒目の家のことも途中。


 自分の立場も途中。


 王都で何が起きているのかも分からない。


 森のことも途中。


 今日見つかった足跡の正体すら分からない。


 それでも、眠ってよい。


 すべて終わらなければ休めないのなら、きっと永遠に休めない。


 その考えが浮かんだ時、エレナは自分の中で何かがゆるむのを感じた。


 風の音が近くなる。


 地面から伝わる草の匂い。


 少し離れたところに誰かがいる気配。


 それが不安ではない。


 むしろ、安心する。


 いつの間にか、エレナの意識は途切れていた。


     ◇


 ユウは隣から聞こえる呼吸が変わったことに気づき、少しだけ顔を向けた。


 エレナは目を閉じている。


 最初は眠ろうとしているだけかと思ったが、数分もすると肩の力が抜け、呼吸が一定になった。


「寝たか」


 小さく呟く。


 起こす必要はない。


 ユウは前へ視線を戻した。


 自分が起きた後で、エレナが眠る。


 変な交代だと思う。


 けれど、嫌ではなかった。


 木陰は涼しい。


 何か急ぎの用事があるわけでもない。


 警戒線については確認を終え、記録も残した。


 もしまた反応すれば、村まで音は届く。


 今すぐ東へ戻って線を眺めていても、分かることが増えるわけではない。


(気になるからって見張り続けたら、結局また同じなんだよな)


 前の仕事でも似たようなことはあった。


 気になる利用者がいる。


 転倒の危険が高い。


 体調がいつもと違う。


 だから何度も様子を見に行く。


 もちろん必要な観察はある。


 けれど、気になるからと一人のことだけをずっと見ているわけにはいかなかった。


 環境を整える。


 ほかの職員と情報を共有する。


 必要な時に気づけるようにする。


 その上で、別の仕事へ戻る。


 今の警戒線も、それに少し似ている。


 異常があれば知らせるために線を張った。


 反応したから確認した。


 記録もした。


 なら、次の反応がない間まで自分が東側へ張り付く必要はない。


 ユウは木の幹へ後頭部を軽く預ける。


 隣でエレナが眠っている。


 少し前までなら、彼女が昼間にこうして眠ることはなかった気がする。


 疲れていても、自分に何ができるかを探していた。


 誰かが作業していれば手伝えるか尋ね、分からないことがあればすぐ答えを得ようとした。


 最近は、それが少しずつ変わっている。


(俺がどうこうしたっていうより、本人が決めるようになったんだろうな)


 それでいいと思う。


 自分が誰かを変えた、などと思いたくはない。


 介護の仕事をしていた頃も、本当はそうだった。


 できるようにするのではなく、その人ができることを続けられるようにする。


 選べることを、できるだけ奪わない。


 けれど現実には、時間や人手の都合で、本人がやるより職員がやった方が早い場面が多かった。


 急いで食事を配る。


 急いで着替えを手伝う。


 急いで移動させる。


 急いで記録を書く。


 急いで次へ行く。


 待てばできるかもしれないことを、待てない日もあった。


 そんな毎日の中で、自分まで「早く終わらせること」に慣れていった。


 この村へ来てから、待つ時間が増えた。


 作物が育つのを待つ。


 石鹸が使えるようになるのを待つ。


 返事が届くのを待つ。


 分からない痕跡について、次の情報が出るのを待つ。


 そして今は、エレナが起きるのを待っている。


(待つのも、悪くないか)


 ユウは目を細める。


 眠くはない。


 だから寝ない。


 何かしたいわけでもない。


 だから何もしない。


 しばらくすると、村の方から人影が近づいてきた。


 今度はニコではない。


 大きな籠を腕に下げたサナだった。


「あら、ユウ」


 少し離れたところから声をかけられ、ユウは口元へ指を当てる。


 サナが足を止めた。


「何だい?」


「寝てる」


 ユウが隣を示すと、サナは目を丸くした。


 エレナの姿を確認し、声を落とす。


「珍しいねえ」


「そうなの?」


「昼間に外で寝てるところなんて初めて見たよ」


「俺も」


「お前さんはよく寝てるけどね」


「俺はいいんだよ」


「何がいいんだか」


 サナは籠を持ち直し、エレナをもう一度見る。


 からかうような笑みではない。


 どちらかといえば、少し嬉しそうだった。


「眠れるようになったなら、いいことじゃないか」


「たぶん」


「起こすんじゃないよ」


「起こさないよ」


「ならいい」


「サナさんどこ行くの?」


「西の草を少し摘みにね。石鹸に使う分じゃないよ、夕飯だ」


「そっか」


「お前さんも寝るなよ。二人とも寝たら夕方までいるだろ」


「さっき寝たから大丈夫」


「信用ならないねえ」


 サナは笑いながら通り過ぎていった。


 その声でもエレナは起きなかった。


 ユウは少しだけ驚く。


 思ったより深く眠っているらしい。


 けれど顔色は悪くない。


 呼吸も穏やかだ。


 わざわざ魔法で確認する必要はない。


 そのまま待つ。


 どれくらい経ったのか、正確には分からない。


 木漏れ日がさらに傾き、影の形が変わった頃、エレナの指が少し動いた。


 まぶたがゆっくり開く。


 最初はぼんやり空を見ていた。


 やがて何かを思い出したように顔を動かし、ユウを見る。


「……ユウさん」


「おはよう」


 エレナは何度か瞬きをする。


「まだ、いたのですね」


「いてほしいって言ったから」


「そうでした」


 声に、まだ眠気が残っている。


 エレナは少し姿勢を直した。


 髪の一部が頬へかかっているが、自分では気づいていないようだった。


「どれくらい眠りましたか?」


「分からない」


「ユウさんもですか?」


「時間見てないから」


「……そうでしたね」


「結構寝てたと思う」


「結構」


 エレナの顔に少しだけ焦りが浮かぶ。


「そんなに?」


「たぶん。でも夕方じゃないよ」


「何かしなければ」


 言いかけたところで、エレナ自身が止まった。


 ユウは何も言わず待つ。


 エレナは口を閉じ、周囲を見る。


 空。


 木。


 村。


 それから自分の手。


「……何かする予定は、ありませんでした」


「うん」


「昼寝をしたからといって、遅れたこともありません」


「うん」


「では、大丈夫ですね」


「大丈夫なんじゃない?」


 エレナは長く息を吐いた。


「起きた瞬間、何かしなければと思いました」


「癖?」


「たぶん」


「俺もあるよ」


「ユウさんにも?」


「昼寝した後に、寝すぎたかなって思う時はある」


「それは少し違う気がします」


「違う?」


「ユウさんの場合、夕食の心配ではありませんか?」


「それもある」


 エレナは笑った。


 眠気が少しずつ抜けていく。


「サナさん来たよ」


「サナさんが?」


「西の方に夕飯の草取りに行った」


「私、寝ていました?」


「寝てた」


「何か言っていましたか?」


「眠れるようになったならいいことだって」


 エレナは黙った。


 少し恥ずかしそうに頬へ触れる。


「外で眠っているところを見られたのは、初めてかもしれません」


「嫌だった?」


「……少し恥ずかしいです。でも、嫌ではありません」


「そっか」


「以前なら、もっと恥ずかしかったと思います」


「なんで?」


「昼間に眠るなんて、怠けているように思っていたからです」


 ユウは少し考える。


「眠かった?」


「眠かったのだと思います」


「なら寝ればいいんじゃない?」


「今は、そう思えます」


 エレナは立ち上がろうとして、途中で動きを止めた。


「どうした?」


「いえ」


 自分が立とうとした理由を考えているらしい。


「もう帰る?」


「それを考えていました」


「帰りたい?」


「まだ、急いで帰りたいわけではありません」


「じゃあもうちょっといる?」


「はい」


 エレナは立ち上がらず、座り直した。


 起きたから帰る。


 昼寝が終わったから次のことをする。


 そうしなければならない理由はない。


 二人は再び木陰に座る。


 今度はどちらも起きている。


「ユウさん」


「ん?」


「待っている間、何をしていましたか?」


「何も」


「本当に?」


「サナさんと少し話した」


「それ以外は?」


「座ってた」


「退屈ではありませんでしたか?」


「ちょっとは」


「……すみません」


 反射的に謝ってから、エレナは眉を寄せる。


 ユウも何も言わない。


 自分で気づくまで待っているようだった。


「今のは、違いますね」


「何が?」


「私がいてほしいと頼んで、ユウさんはいてもよいと自分で決めました」


「うん」


「ですから、退屈だった時間まで私が責任を取る必要はありません」


「そうだね」


「それに、嫌なら帰ってもよいと言っていました」


「うん」


「……まだ、すぐ謝ってしまいます」


「途中なんでしょ?」


 エレナは一瞬目を見開いた。


 昨日、自分が言った言葉。


 そしてユウも、自分について使った言葉。


 エレナはゆっくり頷く。


「はい。途中です」


「じゃあいいんじゃない?」


「よいのでしょうか」


「今気づいたし」


「そうですね」


 少しだけ胸が軽くなる。


 直すべき癖が出た。


 それを失敗として一日中引きずるのではなく、その場で気づいた。


 それだけでも、以前とは違う。


「ユウさん」


「ん?」


「ありがとうございます」


「待ってたこと?」


「それもです。それと、今すぐ『謝らなくていい』と言わなかったことです」


「言おうか迷った」


「迷ったのですか?」


「でも、自分で気づきそうだったから」


「……そうですか」


 その言葉が、エレナには嬉しかった。


 助けられなかったからではない。


 できると思って待ってもらえたからだ。


 何でも先回りして正されるのではなく、自分で気づく時間を残してもらえた。


「前のお仕事でも、そうしていたのですか?」


「待てる時はね」


「待てない時も?」


「いっぱいあったよ」


 ユウの声が少しだけ変わった。


 暗くなるほどではない。


 けれど、遠い場所を見るような響きが混じる。


「本当は自分でできる人でも、時間ないからこっちでやっちゃうこととか。ゆっくりなら立てる人でも、急いでると手を出しすぎたり」


「ユウさんは、それが嫌だったのですか?」


「嫌っていうか……」


 ユウは少し考えた。


「仕方ない時もあるって分かってた。でも、仕方ないのが毎日になると、何のためにやってるんだろって思うことはあったかな」


 エレナは黙って聞く。


 ユウが前の世界の仕事について話す時、彼は仕事そのものを嫌っていたとは言わない。


 人を助けることも、その人ができることを続けられるようにすることも、嫌いではなかった。


 だからこそ、思うようにできない日々が苦しかったのだろう。


「今は、待てますね」


 エレナが言う。


「そうだね」


「私が起きるまで」


「うん」


「豆が育つまで」


「うん」


「石鹸ができるまで」


「うん」


「家の返事も」


「それは早く来てもいいけど」


 エレナは笑った。


「そこは待ちたくないのですか?」


「エレナさんは?」


「……早く知りたいです」


「じゃあ一緒だ」


「でも、待ちます」


「うん」


 三軒目の家。


 住みたいと思っている場所。


 けれど、エルド本人が今どこにいるのかも、家について誰がどこまで決められるのかも、まだはっきりしていない。


 待つしかない。


 待っている間も、今日のような一日は過ごせる。


「森のことも、待つのでしょうか」


 エレナが尋ねる。


「何もなければ」


「怖くありませんか?」


「ちょっとは」


「それでも?」


「怖いからって追いかけたら、もっと危ないかもしれないし」


 ユウは東ではなく、村の方を見る。


「警戒線は、何かあった時に気づくために作ったんだし。ずっと俺たちが見張るなら、線を作った意味が減るでしょ」


「確かに」


「また鳴ったら、その時は今日の記録と比べればいい。別の跡が出たら、それも比べる」


「何もなければ?」


「普通に暮らす」


 エレナはその言葉を胸の中で繰り返す。


(何もなければ、普通に暮らす)


 何かあるかもしれないからと、起こっていないことまで今日の生活へ持ち込まない。


 簡単そうで難しい。


 けれど、今日すでに少しできた。


「私も、そうしたいです」


「うん」


「怖いものが全部なくなってから暮らし始めるのではなくて」


「それだと、いつになるか分からないしね」


「はい」


 エレナは笑う。


「私のことも、いつ全部終わるか分かりません」


「王都のこと?」


「それもあります。家のことも、妹のことも……自分のことも」


 妹の顔が脳裏に浮かぶ。


 幼い頃、本を抱えて自分の後ろを追いかけてきた少女。


 一度見ただけで覚えてしまうことが多くて、周囲から褒められていた少女。


 自分が勝手に苦しくなり、少しずつ距離を取ってしまった相手。


 今、妹がどうしているのか。


 噂はいくつか聞いた。


 けれど、どれがどこまで本当なのかは分からない。


 会いたいかどうかも、まだ決められない。


(それでも、今日を止めなくてよい)


 その考えは、以前より自然に胸へ収まった。


「全部終わるまで、ここで待っていたら大変ですね」


「木の下で?」


「そういう意味ではありません」


「夕方にはマーサさんが探しに来るかも」


「それは困ります」


「じゃあその前に帰ろう」


「はい」


 二人はまた少し笑った。


 それからしばらくして、エレナは自分から立ち上がった。


 今度は「何かしなければ」と思ったからではない。


 そろそろ帰りたいと思ったからだ。


「帰りますか?」


「帰る?」


「はい」


 ユウも立ち上がる。


 木陰から出ると、午後の日差しが少し眩しい。


 二人は村へ向かって歩き始めた。


 来た時と同じ道なのに、エレナには少し違って見えた。


 朝の自分は、東から響いた音に身体を固くした。


 今も、あの音を忘れたわけではない。


 それでも、こうして西側から村へ戻っている。


 昼寝までした。


 ユウと話した。


 笑った。


 何もしない時間を過ごした。


「ユウさん」


「ん?」


「今日は、誘ってよかったです」


「何もしなかったけど?」


「だから、です」


「そっか」


「次も、何もしないために誘ってよいですか?」


「いいよ」


「ユウさんから誘ってもよいのですよ?」


「何もしないのに?」


「はい」


 ユウは少し考える。


「じゃあ、何もしない予定ができたら」


「それは予定なのでしょうか」


「難しいね」


「また言いましたね」


 エレナは笑う。


 村へ入ると、ベルの家の近くからニコが飛び出してきた。


「エレナお姉ちゃん!」


 手には小さな板切れを持っている。


「見て! 虫来た!」


「道を通りましたか?」


「途中まで!」


 ニコは嬉しそうだった。


「昨日より先まで行った!」


「最後までではないのですね?」


「うん。でも昨日より先!」


 エレナはその言葉に足を止める。


 最後まで行かなかった。


 それでもニコは嬉しそうだ。


 昨日より少し先へ進んだ。


 それだけでいいらしい。


「見ますか?」


 ニコが尋ねる。


 エレナは一度ユウを見る。


 ユウは何も言わない。


 自分で決めればいい。


「今日は見ません」


「え?」


「少し眠ったので、マーサさんのところへ戻りたいです」


「虫来たのに?」


「はい」


「見たくない?」


「見たいです。でも、今日は帰ります」


 ニコは少し不満そうに口を尖らせた。


 以前なら、その顔を見ただけで予定を変えていたかもしれない。


 けれどエレナは待つ。


 やがてニコが板切れを抱え直した。


「じゃあ明日?」


「明日、見たければ」


「分かった!」


「どこまで来たのか、覚えておいてください」


「覚えてる! ここ!」


 ニコは板の半分より少し先を指で示す。


「昨日はここ!」


 今度は少し手前。


「少し進みましたね」


「うん!」


「よかったですね」


「明日は最後まで行くかな?」


「分かりません」


「行かなかったら?」


「また途中かもしれませんね」


「そっか」


 ニコはそれで満足したようだった。


「じゃあまたね!」


「はい。また」


 少年はベルの家へ戻っていく。


 エレナも歩き出した。


「見なくてよかった?」


 ユウが尋ねる。


「はい」


「見たかったんでしょ?」


「見たかったです」


「じゃあなんで?」


「今日は帰りたかったからです」


「そっか」


「両方本当でもよいのでしょう?」


「いいんじゃない?」


「では、大丈夫です」


 エレナは前を見る。


 マーサの家が見えてくる。


 戸口近くには洗った布が干され、風に揺れている。


「ユウさんはどうしますか?」


「家帰る」


「椅子の練習を?」


「今日はやらないかも」


「なぜですか?」


「今はそんな気分じゃないから」


「では、何を?」


「帰ってから決める」


 エレナは微笑む。


「私も、そうします」


「本読むんじゃないの?」


「朝は読めませんでした」


「警戒線気になって?」


「はい。でも今なら読めるかもしれません」


「じゃあ読む?」


「帰ってから決めます」


「真似した?」


「少し」


 マーサ宅の前で足を止める。


「では、また」


「うん。また」


 ユウは自分の家の方へ歩いていく。


 エレナはその背中を少しだけ見送った。


 呼び止める理由はない。


 今日の時間は、もう十分に楽しかった。


 また会いたくなれば、その時に誘えばいい。


 ユウも誘ってよいと言った。


 それでいい。


「ただいま戻りました」


 戸を開けると、マーサが台所にいた。


「おかえり。ずいぶん長かったね」


「少し眠ってしまいました」


 マーサの手が止まる。


「誰が?」


「私です」


「外で?」


「はい」


「ユウは?」


「先に眠って、その後起きました。私が眠っている間は待っていてくれました」


 マーサは何とも言えない顔でエレナを見る。


「何ですか?」


「いや」


「何かありますよね?」


「別に」


「その顔は、別にではありません」


「昼寝できるようになったなら、いいことだと思ってるだけだよ」


「サナさんにも同じことを言われたそうです」


「あの子、見られたのかい?」


「はい」


「じゃあ夕方には村中知ってるかもね」


「そんなに珍しいことですか?」


「お前さんが昼間に外で寝るのはね」


 エレナは少し頬が熱くなるのを感じた。


「……恥ずかしくなってきました」


「嫌なら次から家で寝な」


「いえ」


 エレナは少し考える。


 木陰。


 風。


 隣にいたユウ。


 目を閉じても大丈夫だと思えた時間。


「また眠りたくなったら、外でも眠るかもしれません」


「ならいいじゃないか」


「はい」


「で、東のことは?」


 マーサが尋ねる。


 エレナは一瞬だけ黙った。


 朝なら、その問いだけで身体に力が入っただろう。


 今は違う。


「まだ分かりません」


「そうかい」


「新しいことは何も聞いていません。警戒線も、あれから鳴っていません」


「じゃあ今日はそれまでだね」


「はい」


 エレナは素直に頷いた。


 自室へ戻る。


 机の上には、朝途中で閉じた『風待ち亭の小さな話』が置かれている。


 手に取る。


 今なら読めそうな気がした。


 けれど、その前に記録帳を開く。


 東側の警戒線について書くためではない。


 それは現場を確認した人たちが見張り帳へ残している。


 エレナは自分が今日経験したことだけを書く。


『朝、東の警戒線が鳴った。怖さは四くらいだった。』


 そこで一度、筆を止める。


『私は確認には行かなかった。行っても分からないと思ったから。』


『皆さんが戻って、分かったことと分からないことを聞いた。怖さは二くらいになった。』


 さらに少し考える。


『午後、ユウさんを何もしないために誘った。』


『ユウさんが眠った後、私も眠った。起きた時も、ユウさんはいた。』


 その一文を書いたところで、胸の奥が少し温かくなる。


 エレナは筆先を見つめる。


 なぜそれが嬉しいのか。


 答えを探しかけて、やめた。


(これも、まだ途中でよいのでしょう)


 無理に名前をつけなくていい。


 今は、嬉しかった。


 それだけ分かっていれば十分だった。


 最後にもう一行書く。


『分からないことが残っていても、今日を全部それに使わなくてよい。』


 エレナは筆を置いた。


 窓の外を見る。


 東の森はここからでは見えない。


 警戒線の向こうに何がいるのかも分からない。


 三軒目の家について、次の知らせがいつ来るのかも分からない。


 王都のことも、家族のことも、自分がこれからどうなるのかも、まだ答えは出ていない。


 それでも、今日はもう十分に今日だった。


 怖かった。


 安心した。


 笑った。


 眠った。


 ユウと一緒にいた。


 ニコの虫は、昨日より少し先まで進んだ。


 全部が途中のまま、夕方へ向かっている。


 エレナは『風待ち亭の小さな話』を開いた。


 朝には頭へ入らなかった文章を、今度はゆっくり読み始める。


 数行進んでも、東側のことを確かめに行こうとは思わなかった。


 窓の外からは、いつもの村の音が聞こえている。


 その中に警戒線の音はない。


 なら今は、本を読めばいい。


 何か起きたら、その時に考える。


 何も起きなければ、このまま今日を暮らしていけばいい。


 エレナはページを一枚めくった。

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