第55話 東からの音
翌朝、エレナが目を覚ました時、窓の外には薄い雲が広がっていた。
雨が降りそうなほど暗くはないものの、昨日までの柔らかな日差しはなく、村全体が白っぽい光に包まれている。開けた窓から入ってくる風も少し冷たく、季節がほんの少し先へ進んだことを感じさせた。
寝台から起き上がったエレナは、いつものように身支度を整える。
昨夜、机の上へ置いたままにしていた『風待ち亭の小さな話』が目に入った。
まだ続きはある。
けれど、今朝すぐに読みたいとは思わなかった。
(今日は、朝食の後で考えましょう)
読みたくなれば読む。
外へ出たくなれば出る。
何もしたくなければ、しばらく何もしなくてもいい。
そんなふうに一日の始まりを考えられるようになったことを、エレナ自身はまだ時々不思議に思う。
部屋を出ると、台所ではマーサが朝食の準備をしていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日は少し冷えるね」
「そうですね」
「窓開けっぱなしにして寝なかったかい?」
「寝る前に閉めました」
「ならいい」
マーサは鍋の蓋を開け、中を確認する。
昨夜の残りに少し手を加えたスープらしい。
「パン切ってくれるかい?」
「はい」
エレナは手を洗い、パンを切り始めた。
以前なら、すべて同じ厚さになるよう慎重に刃を入れていたかもしれない。
今朝はマーサと自分が食べる分だけを切り、大きさが少し違ってもそのまま皿へ置く。
「ずいぶん早くなったね」
マーサが言った。
「パンを切るのがですか?」
「諦めるのが」
「諦めたわけではありません」
「その厚さ、違うじゃないか」
「食べられます」
「そういうことを言うようになったって話だよ」
エレナは皿の上を見る。
確かに、一枚だけ少し厚い。
「では、厚い方を私が食べます」
「なんでだい?」
「私が切りましたから」
「ほら、まだ残ってる」
「何がですか?」
「自分がやったことは自分で引き受けなきゃってやつ」
エレナは手を止めた。
そこまで深く考えたわけではなかった。
ただ、自分が厚く切ったのだから自分が食べようと思っただけだ。
「マーサさんは、どちらがよいですか?」
「厚い方」
「では、どうぞ」
皿を差し出す。
「いいのかい?」
「はい。私は薄い方でも構いません」
「じゃあもらうよ」
マーサは何でもないことのように厚い一枚を取った。
それだけだった。
自分が厚く切った。
だから自分が食べなければならない。
そんな決まりは、どこにもない。
(本当に、まだ途中ですね)
昨日ユウと話したことを思い出し、エレナは少し笑った。
「なんだい?」
「いえ。少し思い出しただけです」
「ユウかい?」
「どうして分かるのですか?」
「顔」
「そんなに分かりやすいでしょうか」
「前よりはね」
マーサはそれ以上何も言わず、スープを二つの器へ分けた。
エレナも追及しない。
朝食を食べ始める。
今日は何をしよう。
本を読むのもいい。
昨日見た三軒目の家について、もう一度記録を整理してもいい。
鳥の餌台を見るのもいい。
ガルドの豆は昨日見たから、今日は行かなくてもいい。
ユウにも昨日会った。
今日も会いたいかどうかは、まだ分からない。
そんなことを考えながらスープを口へ運んだ、その時だった。
遠くから、澄んだ音が響いた。
エレナの手が止まった。
金属を強く叩いたような音ではない。
村で誰かが道具を落とした音でもない。
一度。
短い音が東から届く。
間を置いて、もう一度。
今度は先ほどよりわずかに長く聞こえた。
エレナの指が、木の匙を握ったまま固まる。
「……警戒線」
マーサが呟いた。
胸の奥が急に冷たくなった。
長い間、聞いていなかった音だった。
東側に張られた警戒線。
ユウが魔導書を使って設けたもの。
外側の補助的な警戒線は、以前にも反応したことがある。
獣らしい足跡が見つかった時もあった。
けれど、その後は大きな反応がなく、雨の後に見つかった筋のような跡についても原因は分からないままだった。
エレナは立ち上がりかけた。
その瞬間、昨日まで何度も積み重ねてきたことが頭をよぎる。
(走って確認しに行く必要はありません)
誰かが確認する。
警戒線の反応だけで、何が来たのかは分からない。
敵だとも限らない。
獣かもしれない。
枝や何か別の原因かもしれない。
以前、一頭分と思われる獣の足跡が見つかったこともある。
警戒線が鳴ったという事実と、自分の想像を混ぜてはいけない。
エレナはゆっくり息を吐いた。
「マーサさん」
「座ってな」
「でも」
「お前さんが行って分かることかい?」
その問いに、エレナは口を閉じる。
森の痕跡を見分けられるのはケルだ。
地形や木々に詳しいのはドラン。
ローデンが全体を判断する。
警戒線そのものについてはユウがいる。
自分が急いで東へ向かったところで、できることはほとんどない。
「……分かりません」
「なら、まず飯食いな」
「はい」
エレナは椅子へ座り直した。
けれど、先ほどまでと同じようには食べられない。
耳が東側へ向いているような感覚がある。
もう一度鳴るのではないか。
誰かが走ってくるのではないか。
そんなことばかり考えてしまう。
「怖いかい?」
マーサに尋ねられる。
エレナは少し考えた。
「はい」
「どのくらい?」
以前から使うようになった聞き方だった。
怖いか、怖くないか。
それだけに分けないための数字。
「……四、くらいです」
「そうかい」
「音がしただけですから」
「うん」
「まだ、何があったのか分かりません」
「そうだね」
「でも、気になります」
「そりゃ気になるさ」
マーサは普通にパンをちぎる。
「気になっちゃいけないなんて、誰も言ってないよ」
「はい」
エレナも匙を取る。
スープはまだ温かい。
一口飲む。
味も分かる。
なら、食べられる。
急いで流し込むのではなく、普段より少し時間をかけながら朝食を続けた。
その間、警戒線の音はもう聞こえなかった。
朝食を終えた頃、家の外から足音が聞こえてきた。
エレナの肩がわずかに強張る。
戸が叩かれた。
「マーサ!」
ローデンの声だった。
「開いてるよ!」
マーサが答える。
戸が開き、ローデンが顔を出した。
走ってきた様子ではない。
息も乱れていない。
その姿を見ただけで、エレナの胸の緊張が少し下がる。
「エレナもいるな」
「はい」
「今の音、聞こえたか?」
「聞きました」
「外側だ。内側は反応してない」
エレナは小さく息を吐いた。
少なくとも、何かが村側まで入り込んだと分かったわけではない。
「確認へ行かれるのですか?」
「ああ。ケルとドランはもう準備してる。ユウにも声をかける」
「私も――」
そこまで言って、エレナは止まった。
ローデンは待っている。
否定も肯定もしない。
自分で続きを決めるのを待っているようだった。
(私は、行って何をするのでしょう)
警戒線を調べることはできない。
足跡も見分けられない。
戦えるわけでもない。
ただ、ユウが行くなら近くにいたいという気持ちはある。
危険なことをしてほしくない。
無事に戻ってほしい。
けれど、その気持ちと、自分も現場へ行くことは同じではない。
「……私は、ここにいます」
エレナは言った。
ローデンが頷く。
「その方がいい」
「確認が終わったら、教えていただけますか?」
「ああ。何か分かればな」
「分からなかった場合も、分からなかったと教えてください」
「分かった」
ローデンは戸口から離れかけた。
「ローデンさん」
「なんだ?」
「ユウさんも行くのですよね」
「声はかける」
エレナは一度唇を結ぶ。
言ってよいのか迷った。
以前なら、胸の中にしまったかもしれない。
けれど、ユウ自身が言ってくれた。
行かないでほしいと思うなら、そう言ってもいい。
願うことと、相手を支配することは違う。
「もし会ったら……無理をしないでほしいと伝えてください」
「自分で言わなくていいのか?」
「今から追いかけるのは違うと思います」
「そうだな」
「でも、伝えたいです」
「分かった」
ローデンは今度こそ出ていった。
戸が閉まる。
エレナはしばらくその場に立っていた。
「座るかい?」
マーサに言われる。
「はい」
「何する?」
「……何を、でしょう」
「待ってる間だよ」
エレナは考える。
本を読む。
洗い物をする。
餌台を見る。
何もしない。
いくつか浮かぶ。
「まず、片づけます」
「そうかい」
「片づけたいので」
「ならやりな」
二人で朝食の器を片づける。
エレナは洗った器を拭き、棚へ戻した。
手は動いている。
それでも耳は外の音を拾おうとしている。
誰かが走れば気づく。
東から音がすれば気づく。
完全に普段通りではない。
(それでもいいのでしょう)
怖さが四あるのに、怖くないふりをする必要はない。
器を戻し終える。
「本、読みます」
「読めるのかい?」
「分かりません。読んでみます」
「そうかい」
自室へ戻る。
机の前へ座り、『風待ち亭の小さな話』を開いた。
昨日止めた次の物語。
数行読む。
意味は分かる。
さらに読む。
けれど、外で鳥が鳴くたびに視線が窓へ向かう。
ページへ戻る。
今度は誰かの話し声が遠く聞こえ、また顔を上げる。
「……今日は難しいですね」
小さく呟く。
無理に読んでも、頭に入らない。
エレナは栞を挟み、本を閉じた。
(読みたいと思ったのに読めない日もあるのですね)
だからといって、読み切る必要はない。
立ち上がり、外へ出る。
マーサは家の横で干していた布を確認していた。
「読まないのかい?」
「今日は気が散ります」
「そりゃそうだ」
「少し外にいます」
「好きにしな」
裏へ回る。
鳥の餌台には何もいない。
エレナは少し離れた場所へ腰を下ろした。
昨日なら、鳥が来るかもしれないと待つことを楽しめただろう。
今日は東側が気になる。
それでも、ここにいる。
しばらくすると、ニコがベルの家の方から歩いてきた。
珍しく走っていない。
「エレナお姉ちゃん」
「おはようございます」
「音したね」
「聞こえましたか?」
「うん。じいちゃんが東に行くなって」
「ベルさんの言う通りです」
「ユウ兄ちゃん行った?」
「分かりません。ローデンさんが声をかけると言っていました」
「大丈夫かな」
ニコの声が少し小さくなる。
エレナはすぐに「大丈夫」とは言わなかった。
まだ分からない。
だからこそ、根拠のない言葉で安心させたくはなかった。
「ケルさんとドランさんが確認に行っています。ローデンさんもいます」
「ユウ兄ちゃんも?」
「たぶん」
「強いから大丈夫?」
「ユウさんは強いと思います。でも、一人では行きません」
「なんで?」
「一人で全部する必要がないからです」
昨日、本人から聞いたばかりの言葉を思い出す。
「森のことは、ケルさんやドランさんの方が分かることもあります。だから一緒に確認するのだと思います」
「じゃあみんな強い?」
「得意なことが違うのではないでしょうか」
「俺は?」
「ニコは……」
エレナは少し考える。
「虫の道を作れます」
「それ強い?」
「森の確認にはあまり役立たないと思います」
「えー」
「でも、今は森へ行かないことができます」
「それも強い?」
「少なくとも、大切なことだと思います」
ニコは納得したような、していないような顔をする。
「虫の道見る?」
「今日はどうしましょう」
「見たくない?」
「見たくないわけではありません。ただ、今はここにいたいです」
「なんで?」
「ローデンさんが戻ってきた時、すぐ話を聞けるかもしれないので」
「じゃあ俺もここいる」
「ベルさんに言いましたか?」
「……言ってない」
「戻って伝えた方がよいのでは?」
「すぐ戻る!」
ニコが駆け出しかける。
「ニコ」
「走ってない!」
「まだ言っていません」
昨日と同じ返事だった。
エレナは思わず笑う。
ニコも笑い、それから今度こそ少し速度を落としてベルの家へ戻っていった。
ほんの短いやり取りだった。
それでも、胸の中に詰まっていたものが少し緩む。
待つ時間は長かった。
実際には一時間も経っていないのかもしれない。
けれど、何かを待っている時の時間は普段より遅く感じる。
エレナは途中で一度だけ家へ戻り、水を飲んだ。
マーサは縫い物をしている。
「まだかい?」
「はい」
「ならまだなんだろ」
「そうですね」
エレナも椅子へ座った。
何か手伝おうかと考えたが、マーサは一人でできる作業をしている。
「手伝いましょうか?」
「やりたいのかい?」
「……今は、何かしていたいだけかもしれません」
「なら別のことにしな」
「はい」
断られて、少し安心した。
役に立つことを探して不安を紛らわせる。
以前の自分なら、そうしていたかもしれない。
今は、それをしなくてもいい。
「では、お茶を淹れてもよいですか?」
「飲みたいのかい?」
「はい」
「なら頼むよ」
今度は立ち上がる。
自分も飲みたい。
マーサも飲む。
それなら作る。
湯を沸かしている間、警戒線は鳴らなかった。
二人で茶を飲み始めてしばらくした頃、外から複数の足音が聞こえてきた。
エレナは立ち上がった。
今度はマーサも止めない。
戸を開ける。
道の向こうからローデン、ケル、ドラン、そしてユウが歩いてくるのが見えた。
誰も走っていない。
誰も怪我をしているようには見えない。
その事実を確認した瞬間、エレナは自分でも分かるほど大きく息を吐いた。
ユウがこちらに気づく。
片手を上げた。
エレナも小さく手を上げ返した。
「おかえりなさい」
四人が近づいてから言う。
「ただいま」
ユウが答えた。
以前より自然に、その言葉が返ってくる。
「怪我はありませんか?」
「ないよ」
「皆さんも?」
「ああ」
ローデンが答える。
「何があったのですか?」
すぐに尋ねたい。
けれど、エレナは四人の様子を見る。
服に多少の草や土はついているが、緊迫した表情ではない。
ケルは何か考えているように眉を寄せている。
ドランは腕を組んでいた。
「中で話すか」
ローデンが言った。
「マーサも聞いといた方がいい」
「どうぞ」
マーサが家の中から答える。
全員で入るには少し狭いので、戸を開けたまま、マーサ宅の前に集まることになった。
エレナはユウの近くへ立つ。
触れるほどではない。
けれど、無事に戻ったことを確かめられる距離だった。
「まず、外側の警戒線が二回反応した」
ローデンが説明を始める。
「内側は一度も反応してない。村側へ何かが入った痕跡も、今のところ確認できなかった」
エレナは頷く。
朝に聞いた音と一致する。
「足跡は?」
「ある」
ケルが答えた。
エレナの背筋に少し力が入る。
「何の足跡でしょうか」
「そこが分からん」
「分からない?」
「ああ」
ケルは地面を指でなぞるような仕草をした。
「残ってたのは三つだけだ。地面が硬い場所を挟んでるから、続きが取れない」
「大きさは?」
マーサが尋ねる。
「前に見た獣の跡より少し小さく見える。ただ、地面の状態が違う。大きさだけで別物とは言えん」
「一頭ですか?」
エレナが尋ねる。
「それも分からん」
ケルは即答した。
「三つの跡が一頭分なのか、複数なのかも決められん。形は似てるが、全部きれいに残ってない」
分からない。
今日もその言葉が増える。
けれど、エレナは以前ほど不安に押されなかった。
「警戒線を越えたのですか?」
「そこが少し変なんだ」
今度はユウが答えた。
「跡があるのは外側の線の近く。二つは外側にあったんだけど、一つだけ、線とほとんど重なる場所にある」
「内側ではないのですね?」
「内側だとは言えない。線そのものって幅が完全にゼロじゃないから」
ユウは地面へ指で線を描くようにする。
「ここに境目があるとして、足跡がこの辺。反応したのはおかしくない位置なんだけど、その後どっちへ行ったかが分からない」
「内側の線は反応していない」
ローデンが補足する。
「だから少なくとも、二本とも越えて村へ入ったと考える材料はない」
「では、外側へ戻った可能性も?」
「ああ。そっちもある」
「横へ移動した可能性もある」
ケルが言う。
「硬い地面へ出た後は取れん」
エレナはゆっくり息を吐いた。
怖さはまだある。
けれど、事実を一つずつ分ける。
警戒線が二回反応した。
内側は反応していない。
足跡が三つ見つかった。
何の足跡かは不明。
一頭か複数かも不明。
その後の方向も不明。
それ以上は、まだ分からない。
「以前見つかった筋のような跡とは、関係がありますか?」
「分からん」
ドランが答えた。
「あっちは草の上に二本の筋だった。今回は足跡だ。近い場所ではあるが、それだけで同じものとは言えねえ」
「古い道は?」
「今日は見てない」
ケルが答える。
「追いかけることになるからな」
その言葉に、エレナはユウを見る。
ユウもこちらを見た。
「行ってないよ」
「……まだ何も言っていません」
「顔」
「マーサさんにも同じことを言われました」
「分かりやすくなった?」
「それはよいことなのでしょうか」
「たぶん」
少しだけ空気が緩む。
ローデンが咳払いした。
「今日はこれ以上追わない。線の状態だけ確認して戻った」
「壊れてはいないのですか?」
エレナが尋ねる。
「壊れてない」
ユウが答える。
「魔力の流れも見たけど、変なところはなかった。感度も変えてない」
「変えなくてよいのですか?」
「今の時点では」
「一回反応したからってすぐ敏感にすると、今度は何でも鳴るかもしれないから」
以前にも聞いた考え方だった。
一度の出来事だけで仕組みを大きく変えない。
記録して、次があれば比べる。
「見張り帳には?」
「これから書く」
ローデンが言う。
「ケルとドランに確認しながらな」
エレナは一瞬、書くのを手伝おうかと思った。
けれど、自分は現場を見ていない。
「私は、書かない方がよいですね」
「ああ。見てないからな」
「はい」
それでいい。
自分ができることと、しない方がいいことを分ける。
「怖さ、どう?」
ユウが小さな声で尋ねた。
エレナは少し考える。
「二、くらいです」
「朝は?」
「四でした」
「下がったね」
「皆さんが無事に戻りましたから。それと、分からないことが何なのか分かったので」
「そっか」
「ユウさんは?」
「何が?」
「怖くありませんでしたか?」
ユウは少し考えた。
「二くらい?」
「私より低いですね」
「現場見たからかも」
「何もいなかったから?」
「うん。でもゼロではないかな。前の獣と関係あるか分からないし」
エレナは頷いた。
強いから怖くないわけではない。
魔法があるから不安がないわけでもない。
「ローデンさんから聞きましたか?」
「何を?」
「無理をしないでほしいと」
「ああ、聞いた」
「……そうですか」
「ありがとう」
エレナは視線を少し下げる。
「伝えてよかったです」
「うん」
「行かないでほしいとは、今日は言いませんでした」
「なんで?」
「必要な確認だと思ったからです」
「そっか」
「でも、心配はしました」
「うん」
「それは、言っておこうと思いました」
ユウは少しだけ笑った。
「分かった」
それだけだった。
けれど、胸の奥に残っていた最後の硬さが少しほどけた。
やがてローデンたちは見張り帳を書くために移動した。
ケルとドランも一緒に行く。
ユウも警戒線の反応時刻について確認されるらしく、最初はついていこうとした。
エレナは呼び止めなかった。
けれど、数歩進んだところでユウが振り返る。
「エレナさん」
「はい?」
「終わったら戻ってくる?」
「ここへですか?」
「うん。マーサさんが嫌じゃなければ」
「私は構わないよ」
マーサが先に答えた。
エレナは少し笑う。
「では、待っています」
「うん」
ユウたちは歩いていく。
今度の「待つ」は、朝とは少し違った。
何があったか分からないまま待つのではない。
分かっている範囲を聞いた上で、記録が終わるのを待つ。
エレナは家の前に残った。
「鳥、来るかもしれないね」
マーサが言う。
「見ますか?」
「私は仕事あるよ」
「では、私が少し見ています」
「好きにしな」
餌台から少し離れたところへ座る。
しばらくすると、ニコが戻ってきた。
今度はベルへ伝えてきたらしい。
「どうだった?」
すぐに聞かれる。
「足跡が三つあったそうです」
「魔物?」
「分かりません」
「三匹?」
「それも分かりません」
「村に入った?」
「入ったと分かる跡はありません。内側の警戒線も鳴らなかったそうです」
ニコは眉を寄せる。
「分かんないの多い」
「はい」
「怖くない?」
「少し怖いです」
「俺も」
「そうですか」
「でもじいちゃんが東行くなって言ったから行かない」
「それがよいと思います」
「虫の道なら見ていい?」
「東側ではありませんから、ベルさんがよいと言うなら」
「じゃあ後で見る」
ニコは餌台の近くへしゃがむ。
二人で鳥を待つ。
来ない。
少し待つ。
まだ来ない。
「来ないね」
「そうですね」
「昨日は来た?」
「朝に一羽見ました」
「俺いなかった」
「はい」
「呼んでよ」
「探しに行っている間に飛んでしまうと思いました」
「次は?」
「近くにいたら呼びます」
「遠かったら?」
「呼びません」
「えー」
「その時は私が見ます」
ニコは不満そうだったが、しばらくすると諦めた。
「じゃあ俺も一人で見たら呼ばない」
「それでよいと思います」
「エレナお姉ちゃん見たいって言っても?」
「見たいですが、全部見ることはできません」
「そっか」
「ニコが見た鳥の話を、後で聞かせてください」
「うん!」
それで納得したらしい。
やがて一羽の小鳥が屋根へ止まった。
二人とも声を小さくする。
鳥はしばらく屋根の端にいたが、餌台へは降りず、そのまま別の家の方へ飛んでいった。
「来なかった」
「屋根には来ました」
「餌食べてない」
「今日は食べたくなかったのかもしれません」
「鳥も?」
「たぶん」
ニコはしばらく考えた。
「じゃあしょうがない」
「はい」
昼近くになり、ローデンたちが戻ってきた。
記録を書き終えたらしい。
ユウだけがマーサ宅へ向かってくる。
「終わった?」
ニコが尋ねる。
「終わったよ」
「何て書いた?」
「見たい?」
「うん!」
「じゃあローデンさんに見せてもらえば?」
「行ってくる!」
ニコが走り出す。
「ニコ!」
エレナが呼ぶ。
少年はすぐに速度を落とした。
「走ってない!」
「今は走っていました」
「ちょっとだけ!」
「転ばないでくださいね」
「うん!」
そのまま去っていく。
ユウが笑った。
「最近あれ毎日やってる?」
「なぜか同じ会話になります」
「走るからね」
「ベルさんに歩くよう言われているのですが」
「子どもには難しいか」
「途中ですね」
「あ、昨日の続き」
「はい」
エレナは立ち上がる。
「見張り帳はどうなりましたか?」
「事実だけ書いたよ。朝、外側が二回反応。内側なし。外側付近に不鮮明な足跡三つ。種類と頭数と進行方向は不明。人の足跡は確認できず。線の異常なし。追跡せず」
「以前の筋の跡との関係は?」
「不明って備考に入れた」
「古い道との関係も?」
「今日は確認してないから、関係不明」
エレナは頷く。
「それなら、後から読んでも分かりやすいですね」
「たぶん」
「今日のことで、明日も見に行くのですか?」
「今のところは行かない」
「そうですか」
「線がまた鳴るとか、別の跡が見つかるとかしたら考えるって」
「分かりました」
エレナはそこで質問を止めた。
聞きたいことは聞いた。
それ以上は、今のところ誰にも答えがない。
「ユウさん、お昼は?」
マーサが戸口から尋ねる。
「まだです」
「食べてくかい?」
「いいんですか?」
「一人増えたくらいで変わらないよ」
ユウがエレナを見る。
「エレナさんは?」
「私は食べます」
「じゃあ俺も」
「私に聞く必要があったのですか?」
「なんとなく」
「そうですか」
三人で家へ入る。
朝の警戒線の音から始まった緊張が、昼食の匂いの中へ少しずつ溶けていく。
何かが解決したわけではない。
森に何がいるのかも分からない。
足跡の正体も不明。
以前見つかった筋の跡や、さらに前の獣の痕跡と関係があるのかも分からない。
それでも、今すぐ答えを得るために森へ入る必要はない。
昼食は豆と野菜を煮たものだった。
ユウは一口食べてから、マーサを見る。
「これ、ガルドさんの豆?」
「違うよ」
「あの豆じゃないんだ」
「まだ食えるほど育ってないよ」
「そっか」
エレナは笑った。
「今朝も畑へ行っていないのですか?」
「行ってない」
「昨日は一緒に見ましたものね」
「毎日見なくても育つし」
「ガルドさんが聞いたら、毎日見ろと言いそうです」
「言いそう」
マーサが呆れたように二人を見る。
「朝あれだけ音で固まってたのに、もう豆の話かい」
エレナは匙を止めた。
「……変でしょうか」
「誰が変だって言った」
「いえ」
「むしろ飯の時くらい飯の話しな」
「今は豆の話です」
「食ってるだろ、豆」
「確かに」
ユウが頷く。
マーサが笑う。
エレナもつられて笑った。
朝、警戒線が鳴った。
それは消えない。
記録にも残った。
今後、何か別の反応があれば重要になるかもしれない。
けれど、その出来事だけで一日全部を埋めなくてもいい。
昼食を終える頃には、空の薄い雲が少し切れていた。
ところどころ青空が見える。
ユウが食後の茶を飲みながら、窓の外を見た。
「午後どうする?」
エレナは尋ねられて少し考える。
「まだ決めていません」
「俺も」
「では、何もしないために誘ってみてもよいですか?」
昨日、自分で言ったことを思い出す。
ユウがこちらを見る。
「今日?」
「はい」
「何する?」
「何もしません」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ何もしようか」
「言葉がおかしくありませんか?」
「何もしないことをする」
「それでは、していることになります」
「難しいね」
エレナは笑った。
「場所はどうしますか?」
「どこでも」
「では……」
少し考える。
東側へ近づく気分ではない。
かといって、家の中にこもりたいわけでもない。
「以前、本を読んだ西側の木のところへ行きませんか?」
「いいよ」
「今日は本を持っていかなくてもよいですか?」
「何もしないんだから」
「そうでした」
マーサが二人を見ている。
「昼寝しに行くのかい?」
「たぶん」
ユウが答える。
「私は寝るとは言っていません」
「じゃあエレナさんは何もしない」
「ユウさんは?」
「寝る」
「それは何かしています」
「寝るのは何もしないに入ると思う」
「入りません」
「じゃあ俺だけ別のことする」
「……まあ、よいです」
昼食の片づけを手伝った後、二人は西側へ向かった。
村を横切る途中、見張り帳の置かれている場所が見える。
エレナは一瞬だけ視線を向けた。
新しい記録が加わっている。
けれど、立ち寄らない。
内容は聞いた。
必要なら後で見ればいい。
今は西へ行く。
村の外れ近くにある木まで歩くと、以前と同じように枝が広く影を落としていた。
風が通る。
東側の警戒線からは十分に離れている。
ユウが幹へ背を預けて座った。
エレナも少し横へ座る。
本は持ってきていない。
道具もない。
食べ物もない。
本当に、何かをするために来たわけではなかった。
「……何もしないって、意外と難しいですね」
エレナが言う。
「そう?」
「何か話した方がよいのかと考えてしまいます」
「話したかったら話せばいいし、なかったら黙ってれば?」
「それでよいのでしょうか」
「何もしないために来たんでしょ?」
「そうでした」
風が葉を揺らす。
遠くで畑仕事をする誰かの声が聞こえる。
鳥が鳴く。
警戒線の音はしない。
エレナは膝の上で手を組んだ。
朝から何度も東側を気にしていた。
今も、完全に忘れたわけではない。
けれど、ここから確認しに行こうとは思わない。
隣にいるユウを見る。
「眠りますか?」
「まだ眠くない」
「珍しいですね」
「俺を何だと思ってるの?」
「昼寝が上手な方です」
「昨日自分で言ったけど」
「自信があるのでしょう?」
「ある」
エレナは少し笑う。
それから、また沈黙する。
しばらく経っても、ユウは眠らなかった。
エレナも話さなかった。
ただ木陰にいる。
何も起きない。
何も進まない。
それでも、不安ではない。
(こういう時間を、自分から誘ったのですね)
以前、用事が終わった後に帰りたくないと言った。
その後、ユウがいるからそこで本を読みたいとも言った。
今日はさらに一つ進んでいる。
本すら必要ない。
ただ一緒にいるために誘った。
その事実に気づくと、少しだけ頬が熱くなる。
けれど、それが何という感情なのか、今決める必要はない。
「エレナさん」
「はい?」
「朝より大丈夫?」
ユウは前を向いたまま尋ねた。
エレナは自分の胸の内を確かめる。
「はい」
「何くらい?」
「一、でしょうか」
「ゼロじゃない?」
「まだ足跡のことは分かっていませんから」
「そっか」
「でも、今はここにいても大丈夫だと思えます」
「うん」
「ユウさんがいるから、というのもあると思います」
言ってから、エレナは少しだけ緊張した。
ユウがこちらを見る。
「俺?」
「はい」
「何かしてないけど」
「それでよいのだと思います」
エレナは木の幹へ少しだけ背を預ける。
「朝は、ユウさんが確認へ行ったと聞いて心配しました。でも戻ってきて、何が分かって何が分からないのかを聞けました」
「うん」
「それから今、隣にいます」
「いるね」
「ですから、今は大丈夫です」
ユウは少し考えた後、頷いた。
「じゃあよかった」
それだけ。
特別な言葉はない。
けれど、それがユウらしかった。
エレナもそれ以上求めなかった。
しばらくして、ユウが目を閉じる。
「眠いのですか?」
「ちょっと」
「寝てもよいですよ」
「寂しくない?」
以前のことを覚えていたらしい。
エレナは一瞬だけ驚き、それから微笑んだ。
「今日は大丈夫です」
「なんで?」
「起きたら、まだここにいるのでしょう?」
「たぶん」
「なら、大丈夫です」
「そっか」
ユウはそのまま目を閉じた。
すぐに眠ったのかは分からない。
呼吸が少しずつゆっくりになる。
エレナは隣で空を見上げた。
雲の切れ間が広がっている。
青空が少しずつ増えていた。
朝、東から警戒線の音がした。
その事実は残っている。
新しい足跡も見つかった。
何かが森の外側を動いている可能性はある。
けれど、何なのかはまだ分からない。
答えを急いで作る必要はない。
怖さをゼロにする必要もない。
今できる確認をして。
記録を残して。
危険な追跡はせず。
次に何かあれば、その時また考える。
エレナは隣のユウを見る。
どうやら本当に眠ったらしい。
「……昼寝は上手ですね」
小さく呟く。
返事はない。
それでいい。
午後の風が二人の間を通り抜けた。
遠くで、村の日常の音が続いている。
誰かが鍬を使う音。
鶏の声。
ニコらしい笑い声。
ベルが何かを叱る声。
そのどれもが、警戒線が鳴った朝と同じ一日の中にある。
エレナは膝を抱えることもなく、ただ楽な姿勢で座っていた。
何かが起きても、日常のすべてが消えるわけではない。
不安があっても、穏やかな時間を選んでいい。
そのことを、今日は昨日までより少し深く理解できた気がした。
しばらくすると、一羽の小鳥が近くの枝へ降りた。
餌台へ来る鳥と同じ種類かは分からない。
エレナは確かめようとはしなかった。
ただ、その鳥が枝の上で羽を整える姿を眺める。
やがて鳥は飛んでいった。
ユウはまだ眠っている。
エレナは起こさなかった。
空を見上げる。
(途中でも、不安でも、今日を過ごしてよい)
昨日書いた言葉に、もう一つ加えられる気がした。
怖いことが起きた日でも、笑っていい。
誰かと一緒にいていい。
何もしない時間を過ごしていい。
それは、危険を忘れることとは違う。
必要なことをした後で、生活へ戻るということなのだろう。
エレナは木の葉が揺れる音を聞きながら、ユウが目を覚ますまでそこにいることにした。




