第54話 途中まで
ニコに呼ばれてベルの家まで来たエレナは、草の間に作られた小さな木の道の前でしゃがんでいた。
昨日より少し長くなった道は、細い木片をいくつも並べて作られている。鳥の餌台を作ろうとして割れてしまった板も途中に混ざっており、幅も高さも揃っていないため、人が見ればずいぶん不格好な道だった。
「ここ!」
ニコが一本の木片を指差した。
「ここまで来た!」
「この先ではなく?」
「ここで草に行った!」
指差された場所は、道の終わりからはまだ遠い。
半分より少し先まで来たところで、虫は横の草へ移ったらしい。
「では、途中まで使ったのですね」
「うん!」
「何の虫でしたか?」
「黒いやつ!」
「もう少し詳しくは?」
「ちっちゃい黒いやつ!」
「……分かりました」
それ以上の情報は出てきそうになかった。
エレナは木の道を見る。
虫が歩いた痕跡など残っていない。ニコが見たと言わなければ、ここを何かが通ったことなど分からなかっただろう。
「最後まで行かなかった」
ニコが少しだけ残念そうに言った。
「そうですね」
「道、長すぎた?」
「分かりません」
「曲がってるから?」
「それも分かりません」
「じゃあ直した方がいい?」
エレナはすぐには答えなかった。
ニコの横へ座ったまま、木片の並びを見る。
途中まで使った。
最後までは行かなかった。
それだけだ。
「ニコは直したいですか?」
「うーん」
ニコは腕を組んだ。
子どもなりに真剣に考えているらしい。
「もう一匹来るかもしれない」
「そうですね」
「次は最後まで行くかも」
「行かないかもしれません」
「うん」
「では、今すぐ直さなくてもよいのではありませんか?」
「じゃあ待つ」
「はい」
「でも明日も来なかったら?」
「その時、直したければ直せばよいと思います」
「明日決める?」
「明日決めてもよいですし、もっと後でもよいですよ」
ニコは少し考えた後、木の道の端を指で押した。
「じゃあ今日はこれでいい」
「はい」
「途中まで使ったし」
その言葉に、エレナは小さく笑った。
「そうですね。途中まで使いました」
最後まで行かなければ意味がないわけではない。
途中まででも、虫は確かにその道を使った。
ニコはそれだけで納得したらしく、すぐ別の木片を手に取った。今度は道ではなく、小さな木の欠片を二つ重ねて何かを作り始める。
「それは何ですか?」
「まだ分かんない」
「分からないまま作るのですか?」
「うん」
「何になるのでしょう」
「できてから決める」
ベルの作業台から低い笑い声が聞こえた。
「そいつはお前より適当だぞ」
「じいちゃんよりはちゃんと作る!」
「俺は仕事で作る時はちゃんとやってる」
「虫の道作らないじゃん!」
「大工の仕事に虫の道はねえよ」
「作ればいいのに」
「金払う虫連れてこい」
ニコが本気で周囲を探し始める。
エレナは思わず笑った。
「虫からお金をいただくのは難しいと思います」
「なら作らん」
「じいちゃんけち!」
「木もただじゃねえんだぞ」
そう言いながらも、ベルは作業台の端にある小さな端材をいくつかニコの方へ押しやった。
ニコはすぐに拾う。
「これ使っていい?」
「そこに出した分だけな」
「全部?」
「全部だ」
「やった!」
結局、かなり甘い。
エレナはそんな二人を眺めながら、近くの切り株へ腰を下ろした。
先ほどまで三軒目の家にいた。
自分のものになるかもしれない家で、机や椅子、本棚、庭の花まで想像した。
そして今は、虫が途中まで通っただけの木の道を見ている。
どちらも同じ一日の出来事だった。
(大きいことと、小さいことを、どちらか一つにしなくてもいいのですね)
家の返事を待ちながら、虫の道を見てもいい。
将来を考えながら、今日のことを楽しんでもいい。
その感覚は、以前よりずっと自然になっていた。
「エレナ」
ベルに呼ばれ、顔を上げる。
「はい?」
「これ、ユウに渡しといてくれるか」
差し出されたのは、手のひらより少し長い木片だった。
表面には削った跡がいくつも残っている。
「これは?」
「あいつの練習の続きだ」
「椅子の?」
「椅子を作る前のな」
エレナは木片を受け取らず、まずベルを見る。
「ユウさんから、私に渡してほしいと頼まれたのですか?」
「いや」
「では、ベルさんが?」
「ああ。昨日置いてったから、次に来た時渡してもいいんだが、お前どうせ会うだろ」
あまりにも当然のように言われ、エレナは一瞬返事に詰まった。
「……どうせ、ですか」
「会わんのか?」
「会うかもしれません」
「ならついででいい」
「今日会うとは決めていません」
「じゃあ会った時でいい」
ベルはそれ以上気にしていない。
エレナは木片を見る。
昨日、ユウが自宅の前で削っていたものとは別らしい。片側は少し深く削られ、反対側には刃を浅く入れた跡が残っている。
以前、失敗した練習の木も見せてほしいと自分から頼んだ。
それを思い出す。
「これは、失敗したものですか?」
「失敗ってほどでもねえ」
ベルが答える。
「最初は力入れすぎて削りすぎた。次は怖がってほとんど削らなかった。これはその間を探してる途中だ」
「途中」
「ああ」
エレナは木片を受け取った。
確かに、場所によって削れ方が違う。
「完成した練習ではないのですね」
「練習に完成も何もあるか」
「なるほど」
「椅子作るなら、まだ先だな」
「ユウさんは急いでいません」
「知ってる。あいつ、急がなさすぎる」
「ベルさんが急かすのですか?」
「急かしゃしねえよ。来た時にやらせるだけだ」
ベルは自分の作業へ戻る。
「来なきゃ来ないで、俺は困らん」
「ユウさんも困らないと思います」
「だからちょうどいい」
エレナは木片を両手で持った。
削りすぎたところ。
ほとんど削れていないところ。
その中間を探した跡。
完成品ではない。
それでも、ユウが何を試したのかが分かる。
(こういうものも見たいと思ったのは、私でしたね)
上手くできたものだけではなく、途中のものも。
失敗したものも。
ユウが何をしているのか、その結果だけではなく過程も知りたいと思った。
「エレナお姉ちゃん、それ何?」
ニコが覗き込む。
「ユウさんが木を削る練習をしたものです」
「椅子?」
「まだ椅子ではありません」
「何になるの?」
「たぶん、何にもなりません」
「捨てるの?」
「どうでしょう」
エレナはベルを見る。
「捨ててもいいぞ」
「だそうです」
「じゃあ虫の道に――」
「それはユウさんに聞いてからです」
「なんで?」
「ユウさんが練習したものだからです」
「いらないって言ったら?」
「その時は、ニコがもらってもよいか聞けばよいと思います」
「聞いてくる!」
「今すぐ行くのですか?」
「うん!」
ニコが立ち上がる。
「待ちなさい」
「なんで?」
「ユウさんが家にいるとは限りません。それに、私はこの木を預かっただけです」
「じゃあエレナお姉ちゃんが持ってく?」
「会った時に渡します」
「今日?」
「分かりません」
「いつ?」
「分かりません」
「分かんないこと多いね」
「そうですね」
エレナは笑った。
「でも、それで困ってはいません」
ニコはよく分からないという顔をしたが、すぐに木片へ興味を失い、自分の作業へ戻った。
エレナはしばらくベルの家にいた。
何かを手伝うわけでもない。
ベルの作業を邪魔しない程度に眺め、ニコが正体不明の木の塊を作るのを見ていた。
やがて昼が近づく。
「そろそろ戻ります」
「おう」
ベルは手を止めずに答えた。
「木、お願いします」
「はい」
「ニコに取られるなよ」
「取らないよ!」
「さっき虫の道にしようとしていましたよ」
「いらないなら!」
「ユウさんに聞いてからです」
「分かってる!」
本当に分かっているのか少し不安だった。
エレナは木片を持ち、マーサの家へ戻る。
途中、ユウの家へ向かう道が見えた。
木を渡すなら、今行ってもいい。
けれど、ベルから急いで渡すよう頼まれたわけではない。
ユウとも今日は会う約束をしていない。
(どうしましょう)
立ち止まって考える。
会いたいか。
木を渡したいか。
それとも、今はマーサの家へ帰りたいか。
どれが正しいかではない。
自分が今どうしたいのか。
エレナは少しだけユウの家の方を見た後、マーサ宅へ向かって歩き出した。
(今は、お昼を食べたいです)
それでよかった。
会いたくないわけではない。
後で会ってもいい。
明日でもいい。
木は逃げない。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
マーサは台所で昼食の準備をしていた。
鍋から湯気が上がっている。
「家はどうだった?」
「住みたいと思いました」
「それは聞いたよ」
「……いつ聞いたのですか?」
「さっきガルドが来た」
「ガルドさんが?」
「『エレナがあの家に住みたいって言ってたぞ』って」
「なぜガルドさんが報告するのですか」
「知らないよ」
マーサは何でもないように鍋を混ぜる。
「村では秘密にできませんね」
「秘密にしたいのかい?」
「いえ」
「ならいいじゃないか」
「そうなのですが」
エレナは手に持っていた木片を机へ置いた。
マーサが気づく。
「なんだい、それ」
「ユウさんが木を削る練習をしたものだそうです。ベルさんから預かりました」
「椅子のかい?」
「はい。まだ椅子そのものを作る段階ではないそうですが」
「ユウが大工仕事ねえ」
「意外ですか?」
「魔法でやった方が早いだろ」
「本人も分かっていると思います」
「じゃあなんでやってるんだい?」
「作ってみたいからではないでしょうか」
エレナは答えた。
それ以外に理由は必要ない。
「ふうん」
マーサは木片を一度見ただけで、また鍋へ向き直った。
「昼、手伝うかい?」
「何をすればよいですか?」
「そこの葉物切ってくれる?」
「はい」
エレナは手を洗い、包丁を取った。
今度は木片ではなく、昼食のための野菜を切る。
大きさを揃える。
けれど、完璧に同じでなくてもいい。
「そのくらいでいいよ」
マーサに言われ、手を止める。
「もう少し揃えられます」
「煮りゃ同じだ」
「本当に?」
「だいたいね」
「では、やめます」
「素直になったねえ」
「以前なら続けていましたか?」
「続けてたよ」
マーサが即答する。
「端っこの一枚まで同じ幅にしようとしてた」
「そこまででしたか?」
「そこまでだった」
自覚はあまりなかった。
エレナはまな板の上を見る。
少し幅の違う葉物が並んでいる。
「これでも食べられますね」
「当たり前だよ」
「なら、十分です」
「そういうこと」
二人で昼食を食べる。
食後、エレナは自室へ戻り、借りている『風待ち亭の小さな話』を開いた。
読みかけの続き。
今日の話は、村の外れで小さな橋を直す男の話だった。
男は橋を一日で直そうとはせず、晴れた日に少しずつ板を替えていく。途中まで直したところで雨の季節が来て、しばらく作業は止まる。
エレナはページをめくる。
雨が止んだ後、男は橋へ戻る。
ところが、途中まで直した部分だけでも村人たちは使っていた。
全部直っていないから使えないと思っていたのは、男だけだった。
エレナはそこで少し手を止めた。
(今日は、途中という言葉をよく聞きますね)
虫の道。
ユウの木の練習。
三軒目の家の調査。
どれも途中だ。
自分自身も、きっと途中なのだろう。
追放されて。
村へ来て。
何もしなくてもよいと知って。
少しずつ自分で選ぶようになって。
それでも、昔の考え方が完全になくなったわけではない。
誰かに頼まれれば応えなければと思うこともある。
知らない人が来れば怖くなる。
ユウに何かを言う時、断られたらどうしようと考える。
全部直ってはいない。
(でも、途中でも暮らせるのですね)
エレナは本へ視線を戻した。
男は橋を最後まで直した。
けれど、それは「途中では意味がなかったから」ではない。
続けたいと思ったから続けた。
最後のページには、直った橋の上で男が昼寝をしているという一文があった。
エレナは思わず笑う。
「ユウさんみたいですね」
声に出してしまった。
部屋には自分しかいない。
それでも少し恥ずかしくなり、ページを閉じかける。
しかし、続きを隠す相手もいない。
エレナはもう一度本を開き、残りを読んだ。
話を読み終えたところで、今日は本を閉じる。
まだ次の話がある。
けれど、今は満足した。
窓の外を見る。
午後の日差しが庭へ落ちている。
机の上にはベルから預かった木片。
エレナはそれを手に取った。
ユウへ渡しに行こうか。
今度は、先ほどより行きたい気持ちがあった。
(行きましょう)
理由は木を渡すため。
でも、それだけではない。
読んだ話のことも少し話したい。
今朝見た三軒目の家について、帰ってから考えたこともある。
そして、ユウの練習の途中を本人と一緒に見てみたい。
エレナは部屋を出た。
「マーサさん」
「なんだい?」
「ユウさんのところへ行ってきます」
「木渡しに?」
「はい。それと、少し話をしに」
「そうかい」
「夕方までには戻ります」
「好きな時に帰ってきな」
「はい」
外へ出る。
朝より風が少し強くなっている。
それでも空は明るい。
ユウの家まで歩く。
途中、東へ続く道が視界に入った。
警戒線の音はない。
見張り帳のところにも人はいない。
エレナはそれを確認しただけで、足を止めなかった。
何も起きていないなら、わざわざ確認しに行く必要はない。
ユウの家へ着く。
戸を叩く。
「ユウさん」
返事がない。
もう一度待つ。
やはり返事がない。
(お留守でしょうか)
戸へ近づきすぎず、周囲を見る。
家の横にもいない。
裏へ回るのはやめた。
以前なら、せっかく来たのだから探そうとしたかもしれない。
けれど、いないなら仕方がない。
「またにしましょう」
独り言を言い、戻ろうとする。
「エレナさん?」
後ろから声がした。
振り返る。
ユウが道の向こうから歩いてきていた。
片手に小さな袋を持っている。
「ユウさん」
「来てた?」
「はい。今、帰ろうとしていました」
「ごめん。オルドさんのとこ行ってた」
「何かあったのですか?」
「卵もらった」
袋を少し持ち上げる。
「買ったんですか?」
「うん。一個だけ」
「一個」
「食べたくなったから」
エレナは思わず笑った。
「私と同じですね」
「柔らかく茹でる?」
「ユウさんもですか?」
「今日は焼こうかな」
「では違いました」
「卵食べたいところは同じ」
「そうですね」
ユウが戸を開ける。
「入る?」
「よいのですか?」
「うん」
「では、お邪魔します」
家へ入る。
以前来た時と変わらない。
椅子。
机。
棚の本。
少し欠けたカップ。
初めて来た時より、見慣れたものが増えている。
エレナは机の上へ木片を置いた。
「ベルさんからです」
「あ、それ」
「置いていったそうですね」
「忘れてた」
「ベルさんが、次に来た時でもよいけれど、私ならどうせ会うだろうからと」
言ってから、少しだけ声が小さくなる。
ユウは特に気にした様子もなく木片を持ち上げた。
「ベルさん、そんなこと言ってたんだ」
「はい」
「実際会ったね」
「……そうですね」
「エレナさんが来たからだけど」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなる。
「迷惑ではありませんでしたか?」
「なんで?」
「特に約束をしていませんでしたから」
「家にいたら入れるし、いなかったら会えないだけでしょ」
「今日は会えました」
「うん」
それでいいらしい。
ユウは木片を眺める。
「これ、結構削りすぎてるな」
「ベルさんも言っていました」
「どこ?」
「こちらです」
エレナは隣へ立ち、深く削れた部分を指差した。
「ここは力を入れすぎたところで、こちらは逆に慎重になりすぎてほとんど削れていないそうです」
「本人より詳しい」
「ベルさんから聞きましたから」
「じゃあ先生だ」
「違います」
「教えて」
「私は削れません」
「じゃあ駄目か」
「そんなに簡単に諦めないでください」
ユウが笑う。
エレナも笑った。
「それで、これを見てどう思いますか?」
「どうって?」
「失敗したところも見せてほしいと以前お願いしました」
「うん」
「見られました」
「感想は?」
エレナは木片を見る。
上手ではない。
少なくとも、ベルの作るものとは比べられない。
でも、削り方の違いが見える。
「面白いです」
「失敗が?」
「途中が、です」
ユウが木片を見直す。
「途中?」
「はい。ここから上手になるかもしれませんし、椅子を作らないかもしれません」
「作らない可能性も入ってるんだ」
「ありますよね?」
「まあ、途中で面倒になるかも」
「それでも、今ここまでやったことはなくなりません」
ニコの虫の道を思い出す。
「今日、ニコの道を虫が途中まで歩いたそうです」
「へえ」
「最後までは行きませんでした」
「ニコ残念がった?」
「少し。でも、途中まで使ったから今日はこのままでよいと言っていました」
「成長してるね」
「ニコがですか?」
「うん」
「私もそう思います」
少し間を置き、エレナは続ける。
「それから、借りている本にも途中まで橋を直す話がありました」
「今日は途中の日?」
「そうかもしれません」
「何でも途中に見えそう」
「三軒目の家のことも途中です」
「確かに」
「ユウさんの椅子も途中です」
「まだ椅子ですらないけどね」
「私も途中です」
自然に出た言葉だった。
ユウがエレナを見る。
「何の?」
「……何でしょう」
言ってから自分で困る。
それでも、言葉を引っ込めたくはなかった。
「昔のことを全部気にしなくなったわけではありません。知らない方が村へ来れば、今でも少し怖くなります」
「昨日の人?」
「はい。最初は王都から来た人かもしれないと思いました」
「そっか」
「でも、すぐ確認しに走らずにいられました」
「うん」
「それでも、結局気になって自分からローデンさんのところへ行きました」
「行きたかったんでしょ?」
「はい」
「ならいいんじゃない?」
「私も今はそう思います」
怖くならなくなることが完成ではない。
気にならなくなることでもない。
怖いなら怖いまま、どうするかを自分で選べる。
それでいいのかもしれない。
「だから、まだ途中なのだと思います」
エレナは言った。
「でも、途中でも以前より暮らしやすいです」
「そっか」
「はい」
ユウは木片を机へ戻した。
「俺も途中かな」
「何がですか?」
「頑張らないの」
エレナは少し驚いた。
ユウは最初から、もう頑張らないと決めていた人だと思っていた。
「まだ途中なのですか?」
「たぶん」
ユウは椅子へ座る。
エレナも向かいへ座った。
「前の仕事してた時の癖、結構残ってるし」
「例えば?」
「誰かが困ってると、最初に何ができるか考えるところとか」
「それは悪いことですか?」
「悪くないよ。でも、何でも俺がやらなきゃってなると前と同じだから」
「今もなりますか?」
「たまに」
ユウは少し考える。
「森で何かあった時とか」
エレナは東側の異変を思い出す。
ユウは一人で行かないようになった。
ローデンやドラン、ケルと確認する。
疲れも以前より口にする。
「だから、ローデンさんたちと一緒に行くのですか?」
「それもある。俺一人で全部見るより、あの人たちの方が分かること多いし」
「ユウさんでも?」
「魔法あるだけだよ」
「だけ、ではないと思います」
「でも森の足跡はケルさんの方が詳しいし、木とか地形はドランさんの方が分かる」
「はい」
「俺が全部できる必要ないでしょ」
エレナは頷いた。
何度も聞いてきた考え方。
けれど、今日は少し違って聞こえる。
ユウも最初から全部できていたわけではない。
頑張らないと決めた後も、その選び方を続けている途中なのだ。
「ユウさん」
「うん?」
「少し安心しました」
「なんで?」
「ユウさんは最初から全部できているように見えることがありますから」
「全然だよ」
「昼寝は上手です」
「それは結構上手くなった」
「自信があるのですね」
「ある」
エレナは笑った。
ユウも笑う。
「お茶飲む?」
「いただいてもよいですか?」
「うん」
ユウが立ち上がる。
火を使う。
今日も魔法ではなく、普通に薪へ火をつけた。
湯が沸くまで少し時間がある。
エレナは棚を見る。
「この前借りた本、まだ全部読んでいません」
「ゆっくりでいいよ」
「返す期限は?」
「ない」
「なくすと困りますか?」
「それは困る」
「では、大切にします」
「うん」
湯が沸く。
ユウが二つのカップへ茶を注ぐ。
以前見た、縁が少し欠けたカップがエレナの前へ置かれた。
「このカップ、いつから使っているのですか?」
「分かんない」
「この村へ来た時から?」
「たぶん。最初に誰かにもらった気がする」
「誰から?」
「覚えてない」
「覚えていないことも多いですね」
「エレナさん、よく覚えてるよね」
「覚えなければならないことが多かったので」
言った後、少しだけ空気が変わる。
公爵家での教育。
王太子の婚約者として覚えなければならなかったこと。
名前。
家系。
礼儀。
予定。
会話。
失敗しないための情報。
「忘れると怒られた?」
ユウが静かに尋ねる。
「はい」
エレナはカップを両手で包む。
「同じことを二度尋ねるのも、あまりよくありませんでした」
「なんで?」
「一度で覚えるべきだと」
「大変だね」
「妹は、一度で覚えることが多かったので」
昔なら、その先にすぐ痛みが来た。
自分はできなかった。
妹はできた。
だから自分は足りない。
けれど今日は、そこまで一気に落ちていかない。
「妹はすごかったです」
エレナは言う。
「本当に覚えるのが早くて。幼い頃から、一度読んだものをよく覚えていました」
「エレナさんは?」
「何度か繰り返せば覚えられました」
「じゃあ覚えられるじゃん」
「……そうですね」
あまりにも単純な答えだった。
エレナは少し笑う。
「当時は、それでは駄目だと思っていました」
「今は?」
「必要なら何度でも見ればよいと思います」
「本もあるしね」
「記録もあります」
「忘れたら聞けばいいし」
「怒られませんか?」
「俺に?」
「はい」
「同じこと百回聞かれたらちょっと嫌かも」
「百回」
「十回くらいなら内容による」
「急に現実的ですね」
「何回でもいいって言うと嘘になるから」
エレナは声を立てて笑った。
「そこは優しいことを言うところでは?」
「嘘つく方が優しくないでしょ」
「そうかもしれません」
茶を一口飲む。
温かい。
家の中には、薪の燃える小さな音がある。
外から誰かの声が遠く聞こえる。
何かをしに来たはずだった。
木を渡す。
それはもう終わっている。
話したかった本のことも話した。
それでも、まだ帰ろうとは思わなかった。
以前と同じだ。
用事が終わった後にも、ここにいたいと思う。
エレナはその感覚を、もう無理に別の理由へ置き換えなかった。
「ユウさん」
「うん?」
「もう少しここにいてもよいですか?」
「いいよ」
「何もしませんが」
「俺も今は何もしない」
「椅子の練習は?」
「今日はもういいかな」
「まだ少ししかしていないのでは?」
「昨日やったし」
「途中ですよ?」
「途中だから、明日でもいいでしょ」
エレナは少し考え、頷いた。
「そうですね」
二人で茶を飲む。
話さない時間が続く。
以前なら沈黙に何か言わなければと思ったかもしれない。
今は、薪の音を聞いていられる。
ユウは椅子へ深く座り、窓の外を見ている。
眠そうではない。
ただ何もしていない。
エレナも同じように窓を見る。
空を雲がゆっくり流れている。
「何もしないために誘うって、こういうことですか?」
エレナが尋ねる。
「誘ってないけどね、今日」
「私が勝手に来ました」
「でも結果は同じかも」
「では、今度は最初から何もしないために誘ってみましょうか」
「いいよ」
「本当に何もしませんよ?」
「それ得意」
「知っています」
また笑う。
何かを成し遂げるためではない時間。
役に立つためでもない。
ただ同じ場所にいる。
それだけで、以前よりずっと満たされる。
しばらくして、エレナはカップの茶を飲み終えた。
「そろそろ戻ります」
「うん」
「今日はありがとうございました」
「木持ってきてくれたのエレナさんだけどね」
「お茶をいただきました」
「じゃあ半分ずつ?」
「何がですか?」
「ありがとう」
「分けるものなのですか?」
「分かんない」
二人で立ち上がる。
戸口まで行き、エレナは一度振り返った。
机の上には、途中まで削られた木片がある。
「捨てますか?」
「木?」
「はい」
「まだ置いとく」
「ニコが虫の道に欲しがっていました」
「じゃあ俺がいらなくなったらあげる」
「伝えておきます」
「うん」
「でも、その前にもう少し見せてください」
「そんなに面白い?」
「はい」
「じゃあ取っとく」
エレナは頷いた。
「また来ます」
「うん」
外へ出る。
午後の日差しは少し傾き始めていた。
マーサの家へ戻る途中、エレナは三軒目の家がある方角を見た。
今朝見た家。
まだ誰も住んでいない。
調査も途中。
許可も途中。
何も決まっていない。
けれど、以前ほど「途中」という状態が怖くない。
すべてが完成するまで生き始められないわけではない。
家が決まるまで、今日を待機時間にしなくていい。
自分自身も同じなのだろう。
完全に立ち直ってから笑う必要はない。
昔のことを全部整理してから誰かと過ごす必要もない。
怖さがなくなってから外へ出る必要もない。
途中のままでも、今日を選んでいい。
マーサの家へ戻ると、餌台の近くにニコがいた。
「エレナお姉ちゃん!」
「また来ていたのですか?」
「鳥待ってる!」
「来ましたか?」
「まだ!」
「そうですか」
「木渡した?」
「はい」
「いらないって?」
「まだ取っておくそうです」
「えー」
「いらなくなったら、ニコに渡してもよいそうです」
「ほんと?」
「はい」
「じゃあ待つ!」
ニコはすぐ機嫌を直した。
「いついらなくなる?」
「分かりません」
「また分かんない」
「待てますか?」
「うん。虫の道も待ってるから」
エレナは笑った。
「では、一緒ですね」
「何が?」
「いろいろです」
ニコには分からなかったらしい。
それでも気にせず、餌台へ視線を戻した。
エレナも少しだけ隣に立つ。
鳥は来ない。
けれど、今はそれでもよかった。
夕方、自室へ戻ったエレナは机に向かった。
日々の記録を開く。
『ニコの木の道を、黒い小さな虫が途中まで使った。種類は分からない。最後までは行かず、途中で草へ入った。ニコは今日は直さず、もう少し待つことにした。』
次に、ベルから預かった木について書く。
『ユウさんの木を削る練習も途中。削りすぎたところと、ほとんど削れなかったところがある。ベルさんによると、その間を探している。』
『ユウさん本人は、今日は続きをしないことにした。』
そこで一度、筆を止める。
そして三軒目の家。
『家についての確認も途中。エルドさんの現在地はまだ分からない。次に尋ねられるかもしれない人が見つかっただけ。』
さらに少し間を空けた。
『私も途中。』
その文字を見つめる。
以前なら、そんな書き方は嫌だったかもしれない。
完成していない。
足りない。
まだできない。
それらと同じ意味に感じただろう。
今は違う。
『途中でも、暮らしていてよい。』
エレナはそう書いた。
さらに、今日ユウと話したことを思い出す。
『ユウさんも、頑張らないことはまだ途中らしい。』
少しだけ笑う。
『昼寝は上手だと言っていた。』
そこまで書いてから、筆を置いた。
窓の外では、夕方の風に木の葉が揺れている。
東側から警戒線の音はない。
誰かが走って知らせに来ることもない。
三軒目の家について、新しい返事もない。
今日一日で大きく進んだものは、何もなかったのかもしれない。
虫は道を途中まで歩いた。
ユウの木も途中まで削られた。
家の調査も途中。
自分も途中。
けれど、それらは止まっているのとは違う。
エレナは机の上の本へ手を伸ばした。
次の物語を読むこともできる。
けれど今日は、もう十分読んだ気がした。
本を開かず、そのまま置く。
(続きは、また読みたくなった時でいいですね)
明日でもいい。
もっと後でもいい。
読み終えなくても、今日読んだ話はなくならない。
エレナは椅子から立ち、窓を少しだけ開けた。
涼しい風が部屋へ入る。
どこかで鳥が一度鳴いた。
餌台へ来た鳥なのかは分からない。
確かめには行かなかった。
分からないまま、エレナはしばらく夕暮れの空を眺めていた。




