第53話 三軒目の家
ダリオが西へ戻った翌朝、エレナはマーサの家の前で空を見上げていた。
昨夜まで薄く広がっていた雲はほとんど消え、東の空から朝の光が村へ差し込んでいる。雨の気配はなく、風も弱い。洗濯物を干すにも、畑へ出るにも、村の中を歩くにも困らない穏やかな朝だった。
三軒目の家を見に行くなら、今日でもよい。
そう思ったのは、朝食を終えて器を洗っている時だった。
昨日、ローデンからは見るだけなら構わないと言われている。ユウにも、一緒に行かないかと誘い、日にちが決まったら知らせることになっていた。
今日でなければならない理由はない。
明日でも、数日後でもいい。
けれど、エレナは今朝、行ってみたいと思った。
(それなら、今日でよいのでしょうね)
以前なら、もっと理由を探したかもしれない。
天気がいいから。
返事の一部が届いたから。
家の状態を再確認する必要があるから。
そんな説明を並べなければ、自分の希望だけで行動してはいけないように感じていた。
今は、「行きたい」で足りる気がする。
「マーサさん」
洗った器を拭きながら声をかけると、マーサは保存していた豆を袋へ移していた手を止めた。
「なんだい?」
「今日、三軒目の家を見に行こうと思います」
「そうかい」
「ユウさんにも声をかけてきます」
「そうかい」
「……それだけですか?」
「何を言えばいいんだい」
「いえ。止められるかと思いました」
「見るだけなんだろ?」
「はい」
「なら見てくりゃいい」
マーサは豆を一粒拾い、袋へ落とした。
「ただし、掃除始めるんじゃないよ」
「ローデンさんにも言われました」
「床板剥がしたりするんじゃないよ」
「しません」
「家具動かしたりも」
「しません」
「庭の草を全部抜くとか」
「……少しなら」
「駄目だよ」
「まだ何もしていません」
「しそうな顔したから言ったんだ」
エレナは口を閉じた。
庭を見るくらいなら、伸びすぎた草を少し抜いてもよいのではないかと思ったのは事実だった。
「見るだけにします」
「それがいい」
「でも、窓を開けて空気を入れるくらいは?」
「ローデンに聞きな」
「はい」
自分で勝手に決めない。
住みたい家ではあるが、まだ自分の家ではない。
その区別は必要だった。
片づけを終えると、エレナは外へ出た。
マーサ宅の裏へ回ると、鳥の餌台には一羽の小鳥が止まっていた。
茶色い背中をした小さな鳥が、板の上に残っている種をついばんでいる。
エレナは足を止めた。
鳥はこちらに気づいたようで、一度だけ顔を上げる。
逃げるかと思ったが、すぐには飛ばなかった。
エレナも近づかない。
少し離れたところから見ている。
(今日は来ているところを見られました)
それだけで嬉しい。
ニコへ知らせに行こうかとも思ったが、やめた。
今、ニコがどこにいるのか分からない。
探している間に鳥は飛んでいくだろう。
それなら、自分だけで見てもいい。
しばらくして、鳥は種を一つ咥え、羽を広げた。
屋根を越えて飛んでいく。
「また来てくださいね」
聞こえるはずもない相手へ言い、エレナはユウの家へ向かった。
昨日よりも戸を叩くことへの緊張は少ない。
それでも、まったく何も感じないわけではなかった。
自分から訪ねる。
自分から誘う。
それが少しずつ普通になっていく感覚は、不思議だった。
「ユウさん」
戸を叩く。
少しして、中から返事があった。
「はーい」
戸が開く。
ユウは普段着のままで、髪が少しだけ乱れていた。
「おはようございます」
「おはよう、エレナさん」
「もしかして、まだ寝ていましたか?」
「起きてた」
「本当ですか?」
「起きてからちょっと横になってた」
「それは寝ていたのでは?」
「目は開いてたよ」
「では、起きていたことにしておきます」
「ありがとう」
何に対する礼なのだろう。
エレナは少し笑った。
「今日、三軒目の家を見に行こうと思います」
「あ、今日にしたんだ」
「はい。ご都合はいかがですか?」
ユウは家の中を一度振り返った。
「特に何もないから大丈夫」
「では、一緒に来ていただけますか?」
「うん」
返事を聞き、エレナは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
「ローデンさんにも声をかけます。窓を開けてよいか確認したいので」
「鍵も必要じゃない?」
「そうですね」
三軒目の家は完全に封鎖されているわけではないが、勝手に出入りするものでもない。以前確認した時も、ローデンたちと一緒だった。
「じゃあローデンさんのところ行こうか」
「はい」
二人で歩き始める。
朝の村では、すでに何人かが畑へ出ていた。
ガルドの畑の横を通ると、本人が腰を曲げて豆の芽を見ている。
「おーい!」
こちらに気づき、大きく手を振った。
「どこ行くんだ!」
「三軒目の家を見に行きます」
エレナが答える。
「住めるようになったのか?」
「まだです」
「じゃあなんで見るんだ?」
「見たいからです」
ガルドが一瞬黙った。
「そうか!」
納得したらしい。
「豆も見てけ!」
「帰りに見たくなったら見ます」
「最近そればっかだな!」
「駄目ですか?」
「別に!」
ガルドはまた豆へ戻った。
ユウが横で笑っている。
「何ですか?」
「いや。前なら見てったのかなと思って」
「そうですね」
エレナは少し考える。
「以前なら、声をかけられたのだから見なければ失礼だと思ったかもしれません」
「今は?」
「今は家を見に行きたいです」
「じゃあそっちだね」
「はい」
ローデンの家へ着く。
事情を話すと、ローデンは少し考えた後で鍵を持ってきた。
「俺も行く」
「お忙しくありませんか?」
「鍵を渡して終わりでもいいんだが、昨日話が動いたばかりだ。俺も一度見ておきたい」
「分かりました」
「ただし、見るだけだぞ」
「マーサさんにも言われました」
「なら二人分守れ」
「二人分とは何ですか」
「二人から言われたってことだ」
「はい」
ローデンはユウを見る。
「お前もだ」
「俺?」
「魔法使うなよ」
「使わないよ」
「直したくなっても我慢しろ」
「俺、そこまで修理好きじゃないけど」
「そうだったな」
ローデンが少し考え、頷いた。
「むしろ面倒がる方だった」
「信用されてるのかされてないのか分からない」
「余計なことをしないという意味では信用してる」
「それならいいか」
三人で三軒目の家へ向かう。
村の端に近い場所にある古い家だ。
人が住まなくなって何年も経っている。
以前見た時より季節が進んだせいか、周囲の草は少し高くなっていた。
屋根の一部は傷んでいる。
壁も新しいとは言えない。
けれど、今にも崩れそうな家ではない。
エレナは少し離れた場所で立ち止まった。
最初にここを見た時、自分は何を考えていただろう。
空いている家。
自分が一人で暮らせるかもしれない場所。
マーサに迷惑をかけ続けずに済む場所。
そんな考えが強かった。
今は少し違う。
「エレナさん?」
ユウに呼ばれ、顔を上げる。
「すみません。見ていました」
「うん」
「前に見た時と、少し違って見えます」
「家が?」
「たぶん、私がです」
ローデンが鍵を開ける。
「中、暗いぞ。足元気をつけろ」
「はい」
戸を開けると、閉じ込められていた空気が流れ出してきた。
埃と古い木の匂い。
湿気はあるが、ひどい腐敗臭はない。
「窓、開けてもいいですか?」
エレナが確認する。
「ああ。閉めて帰ればいい」
ローデンの許可を得て、エレナは一番近い窓へ向かった。
固い。
少し力を入れる。
「無理するなよ」
ユウが言う。
「まだ大丈夫です」
もう一度。
窓がゆっくり動いた。
外の光が入る。
風も入ってきた。
室内の埃が光の筋の中で舞う。
エレナは少し咳をした。
「大丈夫?」
「はい。埃です」
「全部開ける?」
「いえ。まずはこれだけで」
一つ開いた。
だからといって全部開ける必要はない。
少し待つ。
空気が動く。
それからもう一つ、反対側の窓もローデンが開けた。
室内が明るくなる。
「前よりよく見えますね」
「前も昼だったけどな」
「その時は家の傷んでいるところばかり見ていました」
エレナは部屋の中央に立つ。
床。
壁。
窓。
古い棚。
使われなくなった小さな炉。
今も残っている家具は多くない。
「ここに住むなら……」
言いかけて、止まる。
住めるとは決まっていない。
けれど、想像してはいけないわけでもない。
「ここに住めることになったら、この部屋で食事をするのでしょうか」
「たぶん」
ローデンが答える。
「昔もここが居間だったはずだ」
「食卓は?」
「処分したか、誰かが引き取ったんじゃないか。覚えてないな」
エレナは部屋の中央を見る。
「小さな机があれば十分だと思っていました」
「今は?」
ユウが尋ねる。
「少し大きくてもよいかもしれません」
「なんで?」
「一人で食べるとは限らないので」
言った後、ユウと目が合った。
少しだけ頬が熱くなる。
「マーサさんやニコが来ることもあるでしょうし、ガルドさんも来るかもしれません」
「俺は?」
不意に尋ねられた。
「……来てくださるのでしょう?」
「行くって言ったから」
「では、ユウさんもです」
「じゃあちょっと大きい方がいいね」
「はい」
それだけの会話なのに、胸の奥に小さな温かさが残った。
以前のエレナなら、自分一人が生活できる最低限のものを考えただろう。
椅子一脚。
小さな机。
必要な食器だけ。
迷惑をかけないための家。
今は、人が来ることを想像している。
(私は、一人になるためにここへ住みたいわけではないのですね)
自分の場所が欲しい。
自分で朝を迎え、自分で食べるものを選び、自分で眠る時間を決められる場所。
けれど、誰も入れない場所が欲しいわけではない。
エレナは窓際へ近づいた。
外には小さな庭がある。
草が伸びている。
さらに奥には、かつてミナが薬草を育てていたという場所がある。
「庭も見てもよいですか?」
「もちろん」
三人で裏へ回る。
以前確認した時と同じく、薬草畑だった場所はほとんど草に覆われている。
どれが昔からある植物で、どれが後から生えた雑草なのか、エレナには分からない。
「抜きたそうな顔してる」
ユウが言った。
「……分かりますか?」
「ちょっと」
「一本くらいなら」
「駄目だぞ」
ローデンがすぐに止めた。
「まだお前の庭じゃない」
「はい」
エレナは素直に手を引っ込めた。
「でも、もし住めたら、ここを全部畑にする必要はありませんよね?」
「好きにすりゃいいだろ」
ローデンが答える。
「ミナは薬草を育ててたが、お前が同じことする必要はない」
「そうですよね」
「薬草やりたいならやればいい。花でもいいし、何も植えなくてもいい」
エレナは草に覆われた地面を見る。
前の住人が薬草を育てていた。
だから自分も薬草を育てる。
そうする必要はない。
受け継ぐということは、同じ暮らしを繰り返すことではないのだろう。
「シロネ草を植えてもいいですか?」
思いついて尋ねる。
「なんであれなんだ?」
ローデンが怪訝な顔をする。
「昨日、ユウさんと見たので」
「花ならもう少し見栄えするのがあるだろ」
「シロネ草もきれいでした」
「好きならいいんじゃない?」
ユウが言う。
「でも植え替えできるか知らないよ」
「その時はガルドさんに聞きます」
「ガルドさん、花詳しいのかな」
「少なくとも名前は知っていました」
「村での名前だけだけど」
「それで十分です」
まだ自分の庭ではない。
それでも、何を植えるか考えるのは楽しかった。
家の中へ戻る。
奥には小さな部屋が二つある。
一つは寝室にできそうだった。
もう一つは物置に近い。
「ここに本を置けるでしょうか」
エレナが小さな部屋を見る。
「棚置けば」
ユウが答える。
「大きな棚でなくてもよいですね」
「本どれくらい持ってるの?」
「今は自分のものは、ほとんどありません」
借りている本はある。
マーサの家にあった古い冊子も読ませてもらった。
けれど、王都から持ってきた本はない。
妹と読んだ本も、ここにはない。
「これから増えるかもしれません」
エレナは言った。
「ハインさんが来た時にも、どんな本があるか聞いてみたいです」
「前言ってたね」
「はい。買うかは見てから決めます」
「本棚だけ先に大きいの置いたら?」
「まだ本がないのに?」
「増えるかもしれないし」
「増えなかったら?」
「別のもの置けばいいんじゃない?」
エレナは少し考える。
「それもよいですね」
用途を最初から一つに決めなくてもいい。
棚なら、本以外のものも置ける。
「ユウさんの本も置きますか?」
口から出た後、エレナは瞬きをした。
ユウもこちらを見る。
「俺の?」
「……いえ。今のは少し変でした」
「貸した本?」
「そうではなく……」
どうしてそんな言葉が出たのだろう。
自分の家に、ユウの本がある。
それを自然に想像してしまった。
(なぜでしょう)
分からない。
けれど、嫌な想像ではなかった。
「何冊か置いといてもいいなら置くよ」
ユウが何でもないことのように言った。
「よいのですか?」
「読むなら」
「読みます」
「じゃあ住めるようになったらね」
「はい」
まだ決まっていない未来の話。
それでも、エレナは笑った。
「ここ、日当たりはどうだ?」
ローデンが窓を見る。
「午前は入る。午後は少し陰るな」
「本にはその方がよいのでしょうか」
「ずっと日が当たるよりはいいんじゃない?」
ユウが答える。
「たぶん」
「植物の本で分かりますか?」
「本の保存は載ってないと思う」
「では、ベルさんに聞きましょうか」
「大工に本の保存聞くの?」
「本も直せる方です」
「確かに」
そんな話をしながら、部屋を出る。
最後に炉のある居間へ戻った。
エレナは部屋を見回す。
最初に来た時より、空間が狭く感じる。
悪い意味ではない。
置きたいものや、ここで過ごす人を想像したからかもしれない。
「椅子は何脚いる?」
ユウが尋ねた。
以前、自分が考えていたことを覚えていたらしい。
「一脚では足りませんね」
「何脚?」
「まだ分かりません」
「じゃあ決まってから」
「はい」
エレナは少し笑う。
「でも、ユウさんが作る昼寝用の椅子は、ここには置きませんよ」
「なんで?」
「ユウさんの家で使うための椅子でしょう?」
「そうだけど」
「ここへ持ってきたら、ユウさんが昼寝できません」
「ここで昼寝すればいいんじゃない?」
エレナは言葉を失った。
ユウは何かおかしなことを言った自覚がないらしい。
「……ここで?」
「住めるようになったらだけど」
「私の家でですか?」
「嫌ならしないよ」
「嫌とは言っていません」
すぐに答えてしまった。
自分でも驚く。
ユウも少しだけ目を瞬いた。
エレナは視線を外す。
「ただ……」
「うん」
「まだ、家も椅子もありません」
「確かに」
「ですから、今考えても仕方がありません」
「じゃあその時考えよう」
「はい」
胸の奥が妙に落ち着かない。
けれど、不快ではない。
自分の家になるかもしれない場所で、ユウが昼寝をしている。
そんな光景を想像してしまう。
窓の近く。
日差しが強すぎない場所。
本を読む自分。
眠っているユウ。
(……前にも似たことがありましたね)
木陰で本を読んでいる間、ユウが眠っていた。
あの時は、起きたらまだそこにいると分かっていたから寂しくなかった。
もしここが自分の家になったら。
そんな時間が、特別な約束ではなくなるのだろうか。
「エレナさん?」
「はい」
「帰る?」
ユウに呼ばれ、我に返る。
「もう少しだけ見てもよいですか?」
「いいよ」
ローデンも急かさなかった。
三人でしばらく家の中にいた。
何かを測るわけでもない。
修理箇所を詳しく調べるわけでもない。
エレナが窓の位置を見たり、棚を置けそうな壁を眺めたり、庭へ続く戸を確認したりするのを、二人は待っていた。
やがて、エレナ自身が満足する。
「もう大丈夫です」
「閉めるか」
開けた窓を閉める。
戸を確認する。
最後に外へ出る。
ローデンが鍵をかけた。
家はまた静かになった。
けれど、エレナには先ほどまでと少し違って見えた。
「どうだった?」
ローデンが尋ねる。
「住みたいです」
エレナは答えた。
以前よりはっきりと。
「そうか」
「でも、まだ待ちます」
「それでいい」
「次の返事が来るまで、何もしません」
「庭も?」
「……草一本くらい」
「駄目だ」
「はい」
ユウが笑う。
「そんなに抜きたいの?」
「見ていると気になります」
「住めたらいっぱい抜けるよ」
「そうですね」
「抜かなくてもいいけど」
「それも、その時決めます」
三人で村の中央へ戻る。
途中でローデンとは別れた。
「鍵は俺が持って帰る。次に見たい時はまた言え」
「ありがとうございます」
「毎日見るなよ」
「毎日は見ません」
「二日に一回もだぞ」
「しません」
「三日に――」
「ローデンさん」
「冗談だ」
本当に冗談なのか分からない。
ローデンが去った後、エレナとユウは並んで歩く。
「豆見る?」
ユウがガルドの畑を指した。
朝、帰りに見たくなったらと言った。
エレナは畑を見る。
芽は道からでも見える。
「今日は、近くで見てみたいです」
「じゃあ行こうか」
二人で畑へ入る。
ガルドがすぐに気づいた。
「来たな!」
「はい」
「家どうだった!」
「まだ古い家でした」
「そりゃそうだ!」
「でも、住みたいと思いました」
ガルドがにっと笑う。
「なら住めるようになるといいな!」
「はい」
それ以上は言わなかった。
いつ住めるのか。
本当に許可が出るのか。
そんなことを聞かず、豆の方へ案内する。
「見ろ! でかくなったぞ!」
「本当ですね」
以前傾いていた芽も、完全に真っ直ぐではないが伸びている。
「この子、まだ少し傾いていますね」
「育ってるだろ」
「はい」
「ならいい!」
ガルドらしい。
エレナはしゃがみ込み、少し離れたところから芽を見る。
触らない。
直さない。
ただ育っているのを見る。
「家もこれくらい勝手に直ればいいのにね」
ユウが言う。
「それは怖いです」
「魔法みたいで?」
「ユウさんが言いますか?」
「あ」
ガルドが大声で笑った。
「ユウが魔法みたいって言ってるぞ!」
「忘れてた」
「忘れるものなのですか?」
「普段そんなに使わないし」
「もっと使え!」
「面倒」
「もったいねえ!」
いつものやり取りが始まる。
エレナはその横で笑った。
家の話をした後なのに、村は何も変わらない。
返事を待っている途中でも、豆は育つ。
鳥は餌台へ来る。
ニコは虫の道を伸ばす。
ユウは椅子を作るために木を削っている。
自分も本を読み、料理をし、誰かを誘う。
待つというのは、止まることではないのだろう。
豆を見終えた後、二人は畑を出た。
「ユウさん」
「うん?」
「今日は一緒に来てくださってありがとうございました」
「うん」
「家の中で、いろいろ考えられました」
「本棚とか?」
「はい。机と、椅子と、食器と……庭も」
「シロネ草」
「植えられるなら」
「ガルドさんに聞く?」
「住めると決まってからにします」
「そっか」
「それから」
エレナは少し迷う。
「ユウさんが来ることも考えました」
ユウがこちらを見る。
「俺?」
「はい」
「本置くから?」
「それもあります」
「昼寝?」
「……それもです」
エレナは自分でも何を言っているのか分からなくなりそうだった。
けれど、途中でやめたくなかった。
「以前は、一人で暮らすための家だと思っていました」
「うん」
「今も、自分の家が欲しいという気持ちは変わりません。でも、一人でいるためだけの家ではなくてよいのだと思いました」
ユウは何も言わず聞いている。
「誰かが来てもよい家にしたいです」
「うん」
「私が来てほしいと思った人を、自分で呼べる家に」
言葉にすると、胸の奥へ静かに落ちていった。
公爵家にいた頃、自分の部屋でさえ完全に自分のものではなかった。
妹が入ってくることもあった。
侍女が入る。
両親に呼ばれる。
王太子の婚約者として、誰と会うか、何を読むか、どう過ごすかにも意味がついた。
けれど、自分の家なら。
来てほしい人を、自分で呼べる。
今日は一人でいたいと思えば、一人でいてもいい。
「いいんじゃない?」
ユウが言った。
「家なんだし」
「はい」
「俺も呼んでね」
エレナの足が一瞬だけ止まりかけた。
「……呼ばなくても来るのではなかったのですか?」
「それもそうだった」
「忘れたのですか?」
「ちょっと」
「では、来てください」
「うん」
「でも、私が一人でいたい日は――」
「帰る」
「まだ言い終わっていません」
「たぶんそれで合ってるでしょ?」
「合っています」
二人で笑う。
マーサの家が見えてきた。
その手前で、ユウは自分の家へ戻る道へ向かう。
「じゃあまた」
「はい。また」
エレナは数歩進んでから振り返った。
「ユウさん」
「うん?」
「椅子の練習、今日もしますか?」
「分かんない」
「そうですか」
「見たい?」
「少し」
「じゃあ気が向いたらやる」
「私のために無理にしなくてよいですよ」
「分かってる」
「はい」
ユウが手を上げて去っていく。
エレナはマーサの家へ戻った。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
マーサは家の前で干した野菜を裏返していた。
「どうだった?」
「住みたいと思いました」
「前から言ってただろ」
「前より、です」
「そうかい」
「でも、まだ何もしません」
「偉い偉い」
「子ども扱いしていませんか?」
「草抜かなかったかい?」
「抜いていません」
「なら偉い」
「やはり子ども扱いしていますね」
マーサが笑う。
エレナも少し笑い、自室へ戻った。
机に向かう。
今日は書きたいことが多かった。
『三軒目の家を、ローデンさんとユウさんと一緒に見た。』
『窓を二つ開けた。埃はあった。屋根も壁も直すところがある。まだ何も触らない。』
『居間には少し大きな机があってもよいと思った。椅子も一脚だけでなくてよい。』
『本を置く棚が欲しい。今は本をほとんど持っていないが、これから増えるかもしれない。ユウさんが何冊か本を置いてもよいと言った。』
そこで一度筆を止める。
書きながら、また胸が温かくなる。
『庭は、ミナさんと同じ薬草畑にしなくてもよい。花でも、何も植えなくてもよい。シロネ草を少し植えてみたいと思った。』
さらに続ける。
『ユウさんが昼寝できる場所があってもよいと思った。』
書いてから、エレナは筆を止めた。
少し考える。
消す必要はない。
誰に見せるものでもない。
自分がそう思ったのだから、そのままでいい。
『私は、一人になるための家が欲しいのではないらしい。』
『自分で、一人でいるか、誰かといるかを選べる家が欲しい。』
その二行をゆっくり読み返した。
これが今の自分の気持ちなのだと思う。
公爵家から追放された時、何もなくなったと思った。
部屋も。
立場も。
婚約も。
家族との関係も。
未来も。
けれど今、自分は古い小さな家を見ながら、そこへ何を置くか考えている。
以前持っていたものを取り戻すためではない。
公爵家の部屋を再現したいわけでもない。
豪華な家具も、大勢の使用人もいらない。
まだ自分のものですらない古い家。
それでも、そこに置きたいものが少しずつ増えている。
本。
食器。
少し大きな机。
何脚かの椅子。
庭の花。
そして、そこへ来てほしい人。
(まだ、私の家ではありません)
エレナは自分へ言い聞かせる。
けれど、それは期待してはいけないという意味ではない。
(住めたら、嬉しいです)
素直にそう思えた。
窓の外から、ニコの声が聞こえてきた。
「エレナお姉ちゃん!」
何かあったのかと窓から顔を出す。
「どうしました?」
「虫、道通った!」
「本当ですか?」
「途中まで!」
「途中までですか?」
「途中で草に行った!」
ニコはそれでも嬉しそうだった。
「見に来る?」
エレナは机の上の記録を見る。
まだ少し書きたい。
けれど、虫が途中まで道を通ったところも見てみたい。
「今行きます」
答える。
記録は後でも書ける。
エレナは筆を置き、部屋を出た。
まだ決まっていない家のことも大切だった。
今、途中まで木の道を歩いた虫のことも大切だった。
どちらかを選んだからといって、もう一方が消えるわけではない。
外へ出ると、ニコが待っている。
「早く!」
「走りませんよ」
「俺も走らない!」
そう言いながら、ニコの足はすでに速い。
「ニコ」
「走ってない!」
「まだ何も言っていません」
二人でベルの家の方へ向かう。
途中、エレナは三軒目の家がある方角を一度だけ見た。
屋根はここから見えない。
返事もまだ先だ。
それでいい。
自分の一日は、返事が来るまで止まってはいない。
エレナは前を向き直り、ニコの後を歩いた。




