第52話 届いた返事
シロネ草をユウと見た翌朝、エレナはマーサの家の裏で鳥の餌台を眺めていた。
空には薄い雲が広がっているものの雨の気配はなく、東から吹いてくる風も穏やかだった。餌台には鳥の姿こそなかったが、昨日入れておいた種が少し減っており、木の縁には小さな爪で引っかいたような跡が残っている。
「来たのでしょうか」
エレナは小さく呟いた。
けれど、すぐに首を傾げる。
種が減っているだけでは、鳥が食べたと決めることはできない。風で落ちたのかもしれないし、別の小動物が持っていった可能性もある。
(分からないなら、分からないままでいいですね)
以前なら、確かめるために周囲を調べたかもしれない。
今はそこまでしたいとは思わなかった。
鳥が来ていたなら嬉しい。
来ていなかったとしても、餌台が失敗したことにはならない。
すでに何度か鳥が使っているところを見ているのだから、今日まで毎日証明し続ける必要などなかった。
エレナは餌台から離れ、家へ戻ろうとした。
その時だった。
村の中央へ続く道から、馬の蹄が地面を叩く音が聞こえてきた。
エレナは足を止める。
ルーデでは馬の音そのものが珍しいわけではない。荷を運ぶ時に使うこともあるし、商人が訪れることもある。
それでも、朝のこの時間に聞こえてくるのは少し珍しかった。
道の先を見る。
一頭の馬が、ゆっくり村へ入ってくる。
荷車はない。
馬に乗っているのは、見覚えのない男だった。
年齢は四十前後だろうか。
旅装を身につけ、背中には小さな荷物を括りつけている。武装らしいものは腰の短剣程度で、少なくとも兵士には見えなかった。
エレナの身体が、ほんの少しだけ強張った。
王都から来た人間。
追手。
自分を探している者。
頭の中に浮かびかけたものを、エレナは一つずつ止めた。
(まだ何も分かりません)
見知らぬ人が村へ来た。
今分かっているのは、それだけだ。
「エレナ?」
背後からマーサの声がした。
振り返ると、戸口からマーサが顔を出している。
「馬が来ました」
「見りゃ分かるよ」
「知らない方です」
「私も知らないね」
マーサは慌てた様子もなく道を見る。
馬上の男は二人に気づいたようだったが、そのまま家の前へ来ることはなかった。村の中央付近で馬を止め、近くにいた住人へ何かを尋ねている。
少しして、相手がローデンの家の方角を指した。
「ローデンさんに用があるようですね」
「ならローデンに任せりゃいい」
「はい」
エレナは答えたものの、視線は男の方へ向いたままだった。
胸の奥に残った緊張は、すぐには消えない。
マーサが隣へ立つ。
「気になるかい?」
「少し」
「見に行く?」
エレナは考える。
知りたい。
けれど、自分に関係があると決まったわけでもない。
「……今は行きません」
「そうかい」
「もし私に関係があるなら、ローデンさんが教えてくださると思います」
「そうだろうね」
マーサはそれだけ言って家へ戻った。
エレナも後に続く。
朝食の支度を始める。
昨日の煮込みはもう残っていないため、今日はパンと野菜、それから少量の卵料理だった。
卵を見た時、以前自分で茹でた一個を思い出す。
今日はマーサが料理する。
それでいい。
エレナは野菜を切る役だけ引き受けた。
けれど、包丁を動かしている途中でも、時折外へ意識が向いた。
「指切るよ」
マーサに言われ、エレナは手を止めた。
「すみません」
「気になるなら見てきたっていいんだよ」
「いえ」
「我慢するのと、行かないと決めるのは違うからね」
その言葉に、エレナは少しだけ黙った。
自分はどちらだろう。
知らない人が来た。
怖い。
だから気になる。
けれど、気になっている自分を「待てるようになったのだから見に行ってはいけない」と押さえているのなら、それもまた別の義務になってしまう。
「朝食が終わったら、ローデンさんのところへ行ってみてもよいでしょうか」
「好きにしな」
「はい」
決めると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
朝食を済ませ、片づけを終える。
その頃には馬の姿は村の中央から消えていた。
エレナはマーサへ一声かけてから家を出た。
道を歩く。
東側から警戒線の音は聞こえていない。
村の様子にも異常はなく、ガルドはいつものように畑へ出ている。少し離れた場所ではニコがしゃがみ込み、虫の道を眺めていた。
「エレナお姉ちゃん!」
すぐに見つかった。
「おはようございます」
「馬来たよ!」
「見ました」
「知らない人!」
「そうですね」
「ローデンおじさんのとこ行った!」
「私も今から行くところです」
「俺も行く!」
「どうしてですか?」
「気になる!」
あまりにも素直な理由だった。
エレナは少し困る。
「ローデンさんのお仕事のお話かもしれませんよ」
「じゃあ外で待つ」
「待ってどうするのです?」
「終わったら聞く」
「教えてもらえるとは限りません」
「じゃあ聞くだけ聞く」
以前の自分なら、相手が答えてくれるか分からないのに尋ねることをためらったかもしれない。
ニコはそうではないらしい。
「迷惑をかけないようにしてくださいね」
「うん!」
二人で歩き始める。
ローデンの家へ近づくと、例の馬が柵のそばにつながれていた。
やはりここにいる。
エレナの足が少しだけ遅くなる。
ニコが二歩ほど先へ進み、振り返った。
「どうしたの?」
「何でもありません」
「怖い?」
子どもは時々、こちらが隠したいところへ簡単に触れてくる。
エレナは否定しかけた。
けれど、やめる。
「少しだけ」
「馬?」
「馬ではありません」
「人?」
「知らない人が来ると、少し緊張することがあります」
「なんで?」
説明しようとして、言葉を選ぶ。
ニコはエレナが追放されてここへ来たことの細かな事情までは知らない。
知る必要もない。
「昔、知らない人が来ると、あまりよくない知らせを持っていることが多かったのです」
「今日も?」
「分かりません」
「じゃあ聞けば分かる?」
「聞いても、すぐ全部分かるとは限りません」
「難しい」
「そうですね」
ニコは少し考えた後、馬を見た。
「でも馬は普通だよ」
「そうですね」
確かに普通の馬だった。
茶色い毛。
少し疲れているのか、柵のそばで大人しく立っている。
それを見ていると、少しだけ肩の力が抜けた。
家の戸が開く。
出てきたのはローデンだった。
「おや」
二人に気づく。
「どうした?」
「朝、見慣れない方がいらしたので」
エレナは正直に答えた。
「気になって来ました」
「そうか」
ローデンはそれを咎めなかった。
「ちょうどよかった。あとでマーサのところへ行こうと思っていた」
エレナの胸が一度大きく鳴った。
「私に関係がありますか?」
「ある」
ローデンは頷く。
「三軒目の家の件だ」
エレナは目を見開いた。
「返事が来たのですか?」
「返事そのものではない」
すぐに続けられた言葉で、浮き上がりかけた気持ちが少し落ち着く。
「中で話すか?」
「はい」
「俺も!」
ニコが手を上げる。
ローデンはニコを見る。
「お前は何の用だ?」
「気になる」
「帰れ」
「えー!」
「家の話だ。遊びじゃない」
「エレナお姉ちゃんの家?」
「まだ決まってない」
「じゃあ決まったら教えて!」
「その時な」
ニコは不満そうだったが、ローデンに追い返されると素直に引き下がった。
「虫の道見てくる!」
「転ぶなよ」
「転ばない!」
走っていく。
ローデンがため息をつく。
「走るなと言ったんだがな」
「言っていませんでしたよ」
「言った気になっていた」
エレナは少し笑った。
緊張がわずかに和らぐ。
家の中へ入る。
先ほどの男が椅子に座っていた。
エレナを見ると立ち上がる。
近くで見ると、やはり四十歳前後に見えた。
日に焼けた顔。
服装は質素だが、旅慣れているのか荷物のまとめ方が整っている。
「こちらが?」
男がローデンへ尋ねる。
「ああ。今、三軒目の家について確認している本人だ」
ローデンが答える。
「エレナだ」
公爵令嬢。
元王太子の婚約者。
追放された者。
そうした言葉は続かなかった。
ただ、エレナ。
その紹介に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
「初めまして」
エレナは頭を下げる。
「エレナと申します」
「ダリオだ。西の宿場と町の間で荷と手紙を運んでる」
男――ダリオも軽く頭を下げた。
「今回はローデンから出てた問い合わせの一部を、向こうで知ってる人間に聞いてきた」
「ありがとうございます」
「いや。まだ大したことは分かってない」
ダリオは先にそう言った。
エレナは椅子へ座る。
ローデンも向かいへ腰を下ろした。
机の上には一枚の紙がある。
正式な文書には見えない。
何人かの名前と場所、それから短い文章が書かれている。
「まず確認だ」
ローデンが言う。
「前に分かっていたのは、ハルトの息子エルドが西へ出て、職人の手伝いをしていたというところまでだった」
「はい」
「その後、家族を持って西に住んだらしいという話もあった。ただ、今どこにいるかは分からなかった」
「覚えています」
「今回分かったのは、その途中だ」
ローデンが紙の一箇所を指差す。
「エルドがいたと言われていた町で、昔の工房を知っている人間が見つかった」
エレナは紙を見る。
「エルドさん本人を知っていたのですか?」
「直接か?」
ローデンがダリオを見る。
「いや」
ダリオが答える。
「その人が知ってたのは工房の親方だ。エルド本人と話した記憶はないらしい。ただ、親方のところに東の村から来た若い男がいたって話は覚えてた」
「それがエルドさんかもしれない?」
「ああ。ただし、名前まで覚えてない」
エレナは頷いた。
似た境遇の別人である可能性もある。
「工房そのものは?」
「もうない」
ダリオが言う。
「親方は何年か前に仕事をやめた。建物も別の人間が使ってる」
「親方はご存命なのですか?」
「そこが今回の新しいところだ」
ローデンが紙の別の箇所を示した。
「親方本人は生きているらしい」
エレナは顔を上げた。
「では、その方に尋ねれば――」
「まだ会えてない」
ローデンが止める。
「今は町を離れて、娘夫婦のところで暮らしているそうだ」
「場所は?」
「おおよそは分かった」
ダリオが答える。
「町からさらに西へ半日ほど。小さな集落らしい。ただ、俺は今回はそこまで行ってない」
「では、次にその方へ確認できれば、エルドさんについてもう少し分かるかもしれないのですね」
「可能性はある」
ローデンは言葉を慎重に選んでいた。
「親方がエルドを覚えていればな」
エレナは紙を見つめる。
返事が来た。
そう思った。
けれど、実際にはまだ返事ではない。
一つ先へ進むための場所が分かっただけだ。
「それからもう一つ」
ダリオが言う。
「工房の近くに昔住んでた人間から、東から来た男が結婚したって話を聞いたという人もいた」
「それがエルドさん?」
「分からない」
すぐに否定される。
「時期は近い。ただ、名前が残ってない。子どもがいたって話もあるが、それも同じ男か確認できない」
「そうですか」
エレナはゆっくり息を吐いた。
分からないことが多い。
けれど、何もないわけではない。
「この情報だけで、家について何か決めることはできますか?」
自分から尋ねる。
ローデンは首を振った。
「できない」
「やはり、そうですよね」
「エルド本人か、その家族に権利が残っている可能性がある。村の古い帳面には村で使っていいような記録があるが、あれだけで『好きに住んでいい』とは俺は言えん」
「はい」
「親方がエルドのその後を知っていれば、次へ進めるかもしれない」
「知らなければ?」
「別を探す」
ローデンの答えは簡単だった。
「それでも分からなければ、その時また考える」
エレナはその言葉を聞き、少しだけ笑った。
「どうした?」
「いえ。ユウさんも似たようなことを言いそうだと思いまして」
「そうか?」
「分からなければ、その時考える、と」
「普通だろ」
ローデンまでそう言う。
「この村では普通なのですね」
「他じゃ違うのか?」
「私が以前いた場所では、分からないままにしておくことをあまり好まない人が多かった気がします」
「俺だって分かるなら分かった方がいい」
ローデンは紙を指先で軽く叩く。
「ただ、分からんものを分かったことにはできん」
「はい」
それは見張り帳でも同じだった。
人か獣か分からない跡。
古いのか新しいのか分からない痕跡。
関係があるか分からない車輪跡。
分からないものは、分からないと書く。
家のことも同じだった。
「次はどうするのですか?」
エレナが尋ねる。
「ダリオが次に西へ戻る時、親方のいる集落へ寄れるかもしれない」
「かもしれない?」
「俺にも仕事があるからな」
ダリオが苦笑する。
「荷の行き先が近ければ寄る。遠回りになりすぎるなら、別の運び手に頼むことになる」
「どのくらいかかりますか?」
尋ねた後、エレナは少しだけ身体を固くした。
期限を知りたい。
いつ返事が来るのか。
いつ家へ住めるのか。
以前なら、その日を決めたくて仕方がなかったかもしれない。
「早くても十日以上」
ダリオが答える。
「長ければもっとだ」
「一月くらい?」
「それもあり得る」
「分かりました」
エレナは頷いた。
思っていたより長い。
でも、胸の奥に以前のような焦りは広がらなかった。
「待ちます」
「いいのか?」
ローデンが尋ねる。
「よいかどうかと言われても、今できることはありませんから」
「まあな」
「それに、マーサさんの家からすぐ出なければならないわけでもありません」
自分で言って、改めてその事実を確認する。
マーサは追い出そうとしていない。
村の誰かから期限を決められたわけでもない。
三軒目の家に住みたい。
その気持ちは変わらない。
けれど、今日住めないから困るわけではなかった。
「ただ……」
エレナは少し考える。
「家を見に行くことはできますか?」
「三軒目を?」
「はい」
「見るだけなら今までだってできるぞ」
「そうではなくて……」
自分が何をしたいのか整理する。
「住めると決まったつもりで何かを変えるのではなく、今の状態をもう一度見ておきたいです。以前見た時より、私自身が家について考えることが増えたので」
椅子。
食器。
本。
入口に名前を置くかどうか。
どこで食事をするのか。
どこで本を読むのか。
最初に見た時には考えられなかったことが増えている。
「構わんよ」
ローデンが答える。
「ただし、勝手に直し始めるなよ」
「しません」
「屋根も触るな」
「分かっています」
「床も」
「何もしません」
「ユウ連れてって魔法で直すとかもなしだ」
「ユウさんもやらないと思います」
「それはそうだな」
ローデンは納得した。
ダリオが二人を見比べる。
「魔法?」
「気にするな」
「気になるだろ」
「話が長くなる」
ローデンに切られ、ダリオは肩をすくめた。
エレナは少し笑う。
「それで、ダリオさん」
「ん?」
「今回、わざわざありがとうございました」
「仕事のついでだ」
「それでもです」
「礼なら、ちゃんとエルドまで辿れた時にしてくれ」
「では、今日は途中までのお礼にします」
「途中までのお礼?」
「はい」
ダリオは少し考え、笑った。
「変わった嬢ちゃんだな」
その呼び方に、エレナの身体が一瞬だけ反応した。
公爵令嬢。
令嬢。
昔なら、そこに続く意味をすぐに考えただろう。
けれどダリオの声には、身分を示す意図はない。
単に年下の女性をそう呼んだだけらしい。
「エレナで構いません」
「そうか。じゃあエレナ」
「はい」
「まだ期待しすぎるなよ」
「分かっています」
エレナは答えた。
「でも、少し嬉しいくらいならよいですよね?」
ダリオが目を瞬く。
ローデンが先に笑った。
「好きにしろ」
「では、少し嬉しいです」
エレナも笑った。
話が終わり、家を出る。
外にはもうニコはいなかった。
馬だけが柵のそばで草を食んでいる。
エレナはその横を通り、マーサの家へ戻ろうとした。
途中で、ふと足が止まる。
ユウの家へ続く道が見えた。
昨日、自分から誘った。
シロネ草を一緒に見た。
そして昨夜より少し前へ進んだ家の話を、今度は誰かに話したいと思った。
(ユウさんに話したいです)
そう思った。
けれど、すぐには歩き出さない。
ユウへ報告する義務はない。
ユウもこの家の権利確認を進めている当事者ではない。
ローデンから後で聞くかもしれない。
それでも、自分から伝えたい。
理由はそれで十分なのだろう。
エレナは道を曲がった。
ユウの家へ向かう。
昨日よりは、戸を叩く前の緊張が少なかった。
「ユウさん」
返事を待つ。
すぐに戸が開いた。
「エレナさん」
ユウの手には小さな木片がある。
「椅子の練習ですか?」
「うん。今度は削る前に止まってる」
「それは練習になっているのですか?」
「失敗したくなくて考えてた」
「削らなければ完成しませんよ」
「そうなんだよね」
ユウが困った顔をする。
エレナは思わず笑った。
「今、お時間ありますか?」
「あるよ」
「少しお話ししたいことがあります」
「じゃあ入る?」
昨日なら、そのまま中へ入ったかもしれない。
けれど今日は空を見た。
薄い雲。
風も弱い。
「外でもよいですか?」
「いいよ」
ユウは木片を家の中へ置き、戸を閉めた。
二人で家の脇にある木箱へ腰掛ける。
椅子ではない。
座れれば十分だった。
「朝、知らない方が村へ来たのを見ましたか?」
「見てない」
「ダリオさんという方でした」
「商人?」
「荷物と手紙を運んでいるそうです」
エレナは順番に話した。
三軒目の家について調べてくれたこと。
エルドが働いていた可能性のある工房を知る人が見つかったこと。
工房の親方がまだ存命らしいこと。
今は娘夫婦のいる別の集落で暮らしていること。
ただし、まだ親方本人へ確認できていないこと。
「じゃあ、エルドさんがどこにいるか分かったわけじゃないんだ」
「はい」
「でも次に聞けそうな人は分かった」
「そうです」
「進んだね」
ユウが言った。
エレナはその言葉を聞き、頷く。
「はい。私もそう思います」
「家に住めるかは?」
「まだ何も決められません」
「そっか」
「次の確認まで、早くても十日以上。長ければ一月以上かもしれないそうです」
「結構かかるね」
「はい」
「大丈夫?」
ユウが尋ねる。
何に対しての「大丈夫」なのか、エレナは少し考えた。
「待てるか、という意味ですか?」
「うん」
「待てます」
今度は迷わなかった。
「住みたい気持ちは変わっていません。でも、今すぐでなければならないわけではありませんから」
「マーサさんのところもあるしね」
「はい」
「マーサさん、エレナさんが出てったらちょっと寂しがりそう」
「そうでしょうか」
「たぶん」
「でも、三軒目はそれほど遠くありません」
「村の中だし」
「近所になります」
以前、ユウへ尋ねたことを思い出す。
家を移ったら、話すことが変わるのか。
あの時、ユウは「近所になるだけじゃない?」と答えた。
今なら、その言葉の意味が以前より分かる気がした。
「ユウさん」
「うん?」
「もし三軒目に住めることになっても、今までと同じように来てくださいますか?」
口にしてから、少しだけ心臓が速くなる。
以前にも似たことを尋ねた。
それでも、もう一度聞きたくなった。
「行くよ」
ユウはあっさり答える。
「遊びに?」
「何もなくても?」
「はい」
「じゃあ何もなくても行く」
エレナは膝の上で指を重ねた。
「ありがとうございます」
「でも毎日は行かないかも」
「分かっています」
「寝てる日もあるし」
「それも分かっています」
「エレナさんが一人でいたい日もあるでしょ」
「はい」
「じゃあその時は行かない」
「どうやって分かるのですか?」
「行って聞く?」
「それでは、すでに来ています」
「あ」
ユウが少し考える。
「難しいね」
「難しいですね」
二人で笑った。
「その時に考えましょう」
エレナが言う。
「うん」
まだ住めると決まっていない。
それなのに、住んだ後のことを話している。
以前なら「決まっていないのに期待してはいけない」と自分を止めたかもしれない。
今は違う。
期待してもいい。
叶わなかったら、その時に悲しんでもいい。
別の方法を考えてもいい。
「家をもう一度見に行こうと思います」
「三軒目?」
「はい。ローデンさんから、見るだけなら構わないと言われました」
「いつ?」
「まだ決めていません」
「そっか」
「……ユウさん」
「うん?」
エレナは少しだけ迷った。
昨日、自分から誘った。
今日もまた誘うのは多すぎるだろうか。
そう考えたところで、昨日ユウが言ったことを思い出す。
『また誘ってもいいですか?』
『昨日も言ったけど、いいよ』
回数を数える必要はない。
「一緒に見に行きませんか?」
「いいよ」
返事はやはり早かった。
「まだ日にちは決めていません」
「決めたら教えて」
「はい」
「屋根は触らない?」
「ローデンさんにも言われました」
「床も?」
「それも言われました」
「魔法で直すのも?」
「それまで言われました」
「信用ないなあ」
「ユウさんならやらないだろうとも言っていました」
「じゃあ信用あるじゃん」
「ありますね」
エレナは笑った。
家へ住めるかは分からない。
でも、もう一度見に行く。
今度は以前とは違う目で見られる気がする。
「ユウさんの椅子はどうですか?」
エレナが木片の話へ戻す。
「まだ練習」
「先ほど、削る前に止まっていましたね」
「止まりすぎも駄目らしい」
「ベルさんに聞いたのですか?」
「昨日言われた。失敗しないように何もしないなら、練習にならないって」
「ベルさんらしいですね」
「だから今日は削る」
「見てもよいですか?」
「今?」
「嫌でなければ」
「いいよ」
ユウが家の中から木片と道具を持ってくる。
木箱の前へ座り直し、削り始める。
エレナは少し離れて眺めた。
最初の数回は慎重すぎるほど浅い。
「全然削れていませんね」
「分かってる」
「もう少し力を入れてもよいのでは?」
「前それで削りすぎたんだよ」
「では、その中間ですね」
「簡単に言うね」
「見る側ですから」
「ずるい」
ユウがもう一度刃を動かす。
今度は少しだけ木が削れた。
薄い木屑が落ちる。
「あ」
「今のは?」
「よいのでは?」
「じゃあこれくらいか」
もう一度。
同じような木屑が落ちる。
エレナはその手元を見る。
魔法なら、もっと早い。
灰色の魔導書を使えば、木を整えることも補強することもできる。
けれどユウは、わざわざ失敗しながら手で削っている。
「楽しいですか?」
エレナが尋ねる。
「まだ分かんない」
「分からない?」
「上手くできた時はちょっと面白い。失敗すると面倒」
「では、続けたいですか?」
ユウの手が止まる。
少し考えてから答えた。
「今は、もうちょっとやってみたい」
「それなら十分ではありませんか?」
「そうかも」
また刃が動く。
木屑が落ちる。
少しして、ユウが止めた。
「今日はここまで」
「もうですか?」
「手が疲れた」
「まだできそうですが」
「できるけど、やめる」
エレナは一瞬だけ続きを期待した。
けれど、すぐに頷く。
「そうですね」
「エレナさん、もっと見たかった?」
「少し」
「じゃあまた今度」
「はい」
続きがある。
今日全部見なくてもいい。
家のことも同じだった。
次に聞ける人が見つかった。
でも、今日すべて分からなくてもいい。
エレナは立ち上がった。
「そろそろ戻ります」
「うん」
「お話を聞いてくださってありがとうございました」
「聞いただけだけど」
「話したかったので」
その一言に、ユウがエレナを見る。
「そっか」
「はい」
「じゃあまた何かあったら聞くよ」
「私も話しに来ます」
「うん」
エレナはマーサの家へ戻った。
途中、ローデンの家の前を通る。
ダリオの馬はもういなかった。
西へ戻ったのだろう。
今度、その先でエルドを知るかもしれない人へ話が届く。
それがいつになるかは分からない。
どんな答えが返ってくるのかも分からない。
もしかすると、期待した情報は得られないかもしれない。
それでも、昨日まで何もなかった場所に一本だけ細い道が伸びた。
エレナはそう感じた。
マーサの家へ戻ると、昼食の準備が始まっていた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「ユウのところ行ってたのかい?」
「どうして分かるのですか?」
「帰ってくる方向」
「なるほど」
今日はニコではなかった。
少し安心する。
「家の話をしてきました」
「そうかい」
「今度、三軒目をもう一度見に行こうと思います。ユウさんも一緒に来てくださるそうです」
「住めるって決まったわけじゃないんだろ?」
「はい」
「なら、勝手に掃除始めたりするんじゃないよ」
「ローデンさんにも似たことを言われました」
「みんなエレナがやりそうだと思ってるんだよ」
「そんなに信用がないのでしょうか」
「逆だよ」
マーサが野菜を切りながら答える。
「やれること見つけると、やりすぎる方の信用があるのさ」
「それは信用と言うのでしょうか」
「さあね」
マーサは笑う。
エレナも手を洗い、昼食の準備を少しだけ手伝った。
午後は借りている物語集を読むことにした。
今日はユウの家へ行かず、マーサの家の前へ椅子を出す。
ベルから借りた本に出てきた老人のようだと思い、少し可笑しくなった。
誰かが来るかもしれない。
来ないかもしれない。
それでも、自分がここで本を読みたいから椅子を出す。
数ページ読んだところで、ガルドが道を通った。
「何してんだ?」
「本を読んでいます」
「見りゃ分かる」
「では、なぜ聞いたのですか?」
「挨拶だ!」
「そうでしたか」
ガルドは畑へ向かっていく。
さらにしばらくすると、ニコが来た。
「家どうだった?」
「まだ決まっていません」
「馬の人、何持ってきたの?」
「次に話を聞けそうな人が見つかったという知らせです」
「家くれる人?」
「違います」
「じゃあまだ?」
「まだです」
「長いね」
「そうですね」
「いつ決まる?」
「分かりません」
「そっか」
ニコはそれだけ言い、餌台を見に行った。
エレナは本へ視線を戻す。
分からない。
まだ。
待つ。
以前なら、その三つの言葉はどれも嫌いだった。
今は少し違う。
分からないなら、分からないまま次を待てる。
まだなら、今できる別のことをしていられる。
待つ時間にも、本を読んだり、料理をしたり、誰かを花へ誘ったりできる。
夕方になり、エレナは自室へ戻った。
机へ向かい、日々の記録を開く。
『西からダリオさんが来た。』
『エルドさんが働いていた可能性のある工房の親方が、今も存命らしい。現在は娘夫婦と別の集落で暮らしている。』
そこで一度筆を止める。
分かっていることだけを書く。
『親方本人にはまだ確認できていない。エルドさんを覚えているかも不明。』
『エルドさん本人、家族、現在地、三軒目の家の権利については、まだ分からない。』
次に、
『次の確認には十日以上、長ければ一月以上かかる可能性がある。』
と書いた。
その下へ少し間を空ける。
『待てると思った。』
短い一文だった。
けれど、今夜はそこを長く説明する必要を感じなかった。
自分には、その意味が分かる。
別の紙を出す。
『ユウさんに家の話をしに行った。』
『報告しなければならないからではなく、話したかったから。』
エレナはその文字を見つめた。
昨日は一緒に花を見たかった。
今日は話を聞いてほしかった。
どちらも義務ではない。
理由として十分なのだと、少しずつ分かってきた。
『今度、三軒目の家を一緒に見に行く。』
書いてから、さらに一行。
『住めるかどうかは、まだ分からない。』
それでよかった。
期待と事実を分ける。
楽しみにすることと、決まったと思い込むことも違う。
エレナは筆を置き、窓を開けた。
夕方の風が入ってくる。
遠くで鳥の声がした。
東側から警戒線の音は聞こえない。
村の誰かが慌ただしく走る様子もない。
今日届いたのは、大きな答えではなかった。
家を自分のものにできるという許可でもなければ、エルド本人からの返事でもない。
ただ、次に尋ねられるかもしれない相手が見つかった。
それだけだった。
(それでも、昨日より少し先へ進みました)
エレナはそう思った。
全部分かるまで、今の生活を止めて待つ必要はない。
明日は本を読んでもいい。
餌台を見てもいい。
ユウの椅子作りの続きを見てもいい。
三軒目の家を見に行く日を決めてもいいし、まだ決めなくてもいい。
返事は、返事が来る時に来る。
それまで、自分の時間は自分のところにある。
エレナは窓を閉じた。
机の上には、途中まで読んだ本が置かれている。
今夜もう少し読むか、それとも眠るか。
まだ決めていない。
そのことが、今日は少し嬉しかった。




