第51話 誘ってみる
翌朝、エレナが台所へ下りると、昨夜の鶏肉の煮込みが小さな鍋に残されていた。
窓から差し込む朝日はまだ弱く、火の入っていない台所には夜の冷たさがわずかに残っている。マーサはすでに起きており、湯を沸かしながら固くなったパンを薄く切っていた。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れたかい?」
「はい」
エレナは答えながら鍋へ目を向けた。昨夜、皆で食卓を囲んだ時にはずいぶん減ったと思っていたが、二人分の朝食にするには十分な量が残っている。
「温めますか?」
「食べたいならね」
「食べたいです」
「じゃあ頼むよ。私はパンを焼くから」
「はい」
エレナは鍋を火へかけた。
昨日は料理本を何度も確認し、マーサへ尋ね、ユウにも味を見てもらいながら作った料理だった。けれど今朝は、残ったものを焦がさないようゆっくり温めるだけでいい。
木べらで鍋底から静かに混ぜていると、鶏肉と香草の匂いが再び台所へ広がっていった。
「昨日より匂いが馴染んでいる気がします」
「煮込みは一晩置くと変わるからね」
「悪くなるのではなく?」
「置き方が悪けりゃ悪くなるよ。ちゃんと冷やしておいたなら、味が馴染むものもあるってことさ」
「なるほど」
エレナはもう一度鍋を混ぜた。
昨日と同じ料理なのに、少し違う。
それが面白かった。
「次に作る時も、少し残してみましょうか」
「もう次のこと考えてるのかい?」
マーサが振り返る。
からかうような声だったため、エレナは少しだけ考えてから首を振った。
「いえ。次に作りたくなった時、覚えていたらです」
「それならいい」
「マーサさんは、私が次も作ると言ったら止めるのですか?」
「止めやしないよ。ただ、一回褒められたからって毎回作らなきゃいけないみたいな顔し始めたら、鍋を取り上げるかもしれないね」
「……それは困ります」
「なら、作りたい時だけ作りな」
「はい」
昨夜、ニコから「また作って」と言われた時にも似た話をした。
美味しいと言われた。
ユウにも、マーサにも、ニコにも。
それは嬉しい。
けれど、嬉しかったから次も作らなければならないわけではない。
(また作ってみたい気持ちはあります。でも、それは頼まれたからではありませんね)
次は香草を少し減らしてみたい。
肉を焼かない方法も試してみたい。
別の根菜ならどうなるのかも気になる。
そうした興味は、昨日料理を作った後から自分の中に残っている。
エレナは火を弱め、煮込みを器へよそった。
マーサが焼いたパンも並べ、二人で朝食にする。
「どうだい?」
マーサに尋ねられ、エレナは鶏肉を一口食べた。
昨日より少し味が濃く感じられる。
「美味しいです」
「自分で言えるなら上等だ」
「昨日も美味しいと思いました」
「ユウの顔ばっかり見てたけどね」
エレナの手が止まった。
「……見ていましたか?」
「見てたよ」
「そんなにですか?」
「そんなにだね」
マーサは何でもないことのようにパンをかじっている。
エレナは反論しようとして、やめた。
ユウが食べるところを見ていたのは事実だった。
美味しいと思ってもらえるか気になっていた。
(ユウさんに食べてほしかったのですから、気になるのは当然です)
そう考えたところで、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
以前なら、その感覚を何か別の理由で消そうとしたかもしれない。
けれど今は、分からないものを無理に決めなくてもいいと思える。
嬉しかった。
それだけは分かっている。
「マーサさん」
「なんだい?」
「今日、何かする予定はありますか?」
「洗濯くらいだね。あとは知らないよ」
「知らないのですか?」
「朝から一日分決める必要もないだろ」
「そうですね」
エレナは煮込みを食べながら、今日のことを考えた。
三軒目の家について返事が来る予定は聞いていない。
東側の確認へ行く予定もない。
鳥の餌台には昨日も鳥が来たが、今日も見張らなければならないわけではない。
借りている本もある。
料理本と、『風待ち亭の小さな話』。
本を読んでもいい。
何もしなくてもいい。
そこで昨夜、自分が記録へ書いた言葉を思い出した。
『次は、私からも誘う。』
エレナは匙を持ったまま、少しだけ黙った。
「どうした?」
「いえ」
「煮込みに何か入ってたかい?」
「入っていません」
エレナは食事を再開した。
自分から誘う。
そう決めた。
しかし、何に誘うのかまでは決めていなかった。
(誘うために、何か特別なものを探す必要があるのでしょうか)
ユウが誘ってくれた時のことを思い返す。
卵。
変な形の芋。
どちらも大きな出来事ではなかった。
特に芋など、見て笑って、ガルドからもらい、マーサと食べただけだ。
それでも楽しかった。
なら、自分も何か珍しいものを見つけなければならないわけではない。
食事を終え、器を洗う。
外へ出ると、朝の空気は昨日より少し冷たかった。
風は弱い。
餌台の下には、昨日ニコが撒いてしまったらしい小さな種がいくつか落ちている。
鳥はいなかった。
エレナは少しだけ餌台を眺め、そのまま洗濯の準備を始めた。
マーサと二人で布を運び、水を使う。
作業そのものはもう珍しくない。
エレナも最初の頃より手際がよくなっていた。
「そっちは絞りすぎなくていいよ」
マーサに言われ、エレナは手の力を緩める。
「まだ強いですか?」
「前よりはいい」
「洗濯物にも加減が必要なのですね」
「何でも力入れりゃいいってもんじゃないさ」
「木も同じでした」
「料理もね」
「私もでしょうか」
口から出てから、エレナは自分で少し驚いた。
マーサは洗濯物を広げる手を止めずに答える。
「自分で分かってるなら、そうなんじゃないかい?」
「もっと否定してくださるかと思いました」
「なんで私が否定するんだい」
「いえ……」
エレナは濡れた布を広げた。
昔は、力を抜くことが怖かった。
勉強も礼儀も魔法も、少しでも手を抜けば妹との差がさらに広がると思っていた。
公爵家の長女なのだから。
王太子の婚約者なのだから。
できて当然なのだから。
そう言われるたび、できないことを隠すためにさらに力を入れた。
けれど、力を入れすぎれば布は傷む。
木は削りすぎる。
香草は強くなりすぎる。
人も、同じなのかもしれない。
(全部に力を入れなくてもいいのでしょうね)
最後の布を干し終える。
マーサが腰へ手を当てた。
「終わり」
「はい」
「茶でも飲むかい?」
「そうします」
家へ戻ろうとした時、道の向こうからニコが走ってきた。
昨日、ユウに「走るな」と言われていたことなど完全に忘れているらしい。
「エレナお姉ちゃん!」
「ニコ、転びますよ」
「転ばない!」
言った直後、小さな石につまずきかけた。
どうにか踏みとどまり、そのまま何事もなかった顔で近づいてくる。
「今、転びかけましたね」
「転んでない」
「そうですね。転んではいません」
「鳥来た?」
「今朝は見ていません」
「なんで?」
「洗濯をしていましたから」
「餌台あるのに?」
「餌台があっても、ずっと見ている必要はありません」
ニコは不思議そうに餌台を見る。
「でも来たかもしれないよ」
「そうですね」
「見たくない?」
「見たい時もあります」
「今は?」
エレナも餌台を見る。
鳥はいない。
「今は、別のことをしようかと思っています」
「何するの?」
「まだ決めていません」
「じゃあ虫の道見る?」
ニコがすぐに提案した。
「伸びたのですか?」
「昨日より長い!」
「それは昨日、折れた板を使ったからでは?」
「そう!」
得意そうだ。
エレナは少し笑う。
「では、後で見に行きます」
「今じゃないの?」
「今はマーサさんとお茶を飲みます」
「お茶のあと?」
「その時に行きたければ」
「分かった!」
ニコは走り出しかけ、エレナを振り返った。
「走ると転ぶんだっけ?」
「転ぶことがあります」
「じゃあ速く歩く!」
結局かなり速い。
エレナはその背中を見送り、マーサと家へ戻った。
温かいお茶を飲みながら、窓の外を見る。
ニコに誘われた。
後で虫の道を見るかもしれない。
でも、それとは別に自分が誰かを誘ってもいい。
「マーサさん」
「うん?」
「誰かを誘う時というのは、何か理由が必要でしょうか」
マーサが湯飲みを置いた。
「何に誘うんだい?」
「それが、まだ決まっていません」
「決まってないのに誘うのかい?」
「……おかしいですか?」
「別に。『暇なら一緒に何かしないか』でもいいだろ」
「何か、とは?」
「知らないよ」
あっさり返される。
「誘ってから決めることもあるのですか?」
「あるだろ。若い頃なんか、友達の家行ってから何するか決めてたよ」
「マーサさんにも、そのような頃があったのですね」
「どういう意味だい」
「いえ」
マーサが目を細める。
エレナは慌ててお茶を飲んだ。
「でも、ユウを誘いたいんだろ?」
危うくむせそうになった。
「なぜ分かるのですか?」
「他に誰のことでそんなに考えるんだい」
「ニコに誘われた時も考えました」
「ニコ相手に朝からそんな顔してないだろ」
「どんな顔ですか?」
「自分で鏡見な」
エレナは頬へ手を当てた。
熱くはない。
たぶん。
「ユウさんを誘いたいとは思っています」
「なら誘えばいい」
「何に?」
「だから知らないよ」
「マーサさんは時々、途中で考えることをやめますね」
「人の誘い方まで私が決める方がおかしいだろ」
それもそうだった。
エレナは湯飲みの中を見る。
誘いたい。
けれど、何に誘うか決まっていない。
なら、今すぐ誘わなくてもいい。
何かしたいことが浮かんだ時でもいい。
お茶を飲み終えた後、エレナはニコの虫の道を見に行くことにした。
ベルの家の近くへ行くと、ニコが地面へしゃがみ込んでいる。
以前より長くなった小さな木の道が、草の間を縫うように伸びていた。
途中から板の色が変わっている。
鳥の餌台を作ろうとして割った板だ。
「ここが新しいところですか?」
「うん!」
ニコが指を差す。
「昨日より長いでしょ?」
「長いですね」
「でも虫いない」
「いつも使うわけではないでしょう」
「昨日も来なかった」
「以前、一匹は渡ったのでしょう?」
「うん」
「なら、一度は使われていますね」
自分で言ってから、エレナは笑った。
鳥の餌台と同じだ。
今日使われなくても、昨日使われたことはなくならない。
「エレナお姉ちゃんも作る?」
「虫の道をですか?」
「うん」
「今日は作りません」
「なんで?」
「今は作りたいと思っていないからです」
以前なら、子どもに頼まれれば断る理由を探したかもしれない。
けれど、やりたくないわけではない。
ただ、今日は作りたいわけでもない。
「じゃあ見るだけ?」
「はい」
「いいよ」
ニコは気にした様子もなく、また道を直し始めた。
エレナは近くの切り株へ座る。
手伝わない。
ただ見ている。
ニコは何度か木片の向きを変え、草が邪魔だと少しだけ抜いた。
ベルは作業台で別のものを削っている。
誰もエレナに何かを求めない。
しばらくすると、小さな黒い虫が草の中から出てきた。
「あ!」
ニコが声を抑えきれない。
「来た!」
「静かにした方がよいのでは?」
「虫って声聞こえる?」
「分かりません」
二人で少し離れて見る。
虫は木の道へ乗らなかった。
端まで近づいたものの、そのまま草の中へ消えていく。
「あー」
ニコが肩を落とす。
「行かなかった」
「そうですね」
「道あるのに」
「虫にも行きたい場所があるのでしょう」
「じゃあいらない?」
ニコが道を見る。
エレナも見る。
「ニコは作りたいですか?」
「作りたい」
「なら、今はそれでよいのではありませんか?」
「虫通らなくても?」
「通ったら嬉しいでしょうけれど」
エレナは少し考え、続ける。
「ニコが作りたいから作っているなら、虫が毎回使わなくても、全部が無駄になるわけではないと思います」
「じゃあもっと長くする」
「それはベルさんに木を使ってよいか聞いてからにしてください」
「聞いてくる!」
ニコが立ち上がる。
「じいちゃん!」
「走るな!」
今度はベルの方から声が飛んだ。
ニコが急停止する。
エレナは笑いをこらえきれなかった。
「エレナお姉ちゃん笑った!」
「すみません」
「じいちゃん怖くないよ」
「知っています」
「声でかいだけ」
「聞こえてるぞ」
「ほら!」
「自分から聞こえるように言ったのでしょう」
ベルまで笑っている。
その空気の中で、エレナはふと木の道の向こうへ目を向けた。
少し離れた場所に、背の低い草がまとまって生えている。
その先に、小さな白い花が咲いていた。
珍しい花ではない。
村のあちこちで見たことがある。
けれど、その一角だけ白い点が集まっていて、朝の光を受けると少しきれいに見えた。
エレナは立ち上がる。
「どうした?」
ベルが尋ねる。
「あそこに花が咲いていますね」
「ああ」
「何という花ですか?」
「名前?」
ベルが目を細める。
「知らんな」
「ベルさんでも知らないのですか?」
「木ならもう少し分かる」
「そうですよね」
「ガルドなら知ってるかもしれんぞ」
「聞いてみましょうか」
そう言ってから、エレナは白い花をもう一度見た。
名前を知りたい。
でも、それだけではない。
誰かと一緒に見たいと思った。
(ユウさんを誘ってみましょうか)
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が少しだけ弾む。
特別な花ではない。
珍しい場所でもない。
名前すら分からない。
それでも、見てみないかと誘っていいのだろうか。
昨日、自分からも誘うと言った。
ユウは「誘って」と答えた。
なら、これでいいのかもしれない。
「ニコ」
「なに?」
「私は少し行ってきます」
「どこ?」
「ユウさんのところです」
「なんで?」
「花を見に誘ってみようと思いまして」
「花?」
「はい」
ニコが白い花を見る。
「そこにあるよ?」
「ありますね」
「ユウ兄ちゃん連れてくるの?」
「嫌でなければ」
「なんで?」
三度目だった。
エレナは答えに迷う。
「一緒に見たいからです」
「ふーん」
ニコはそれだけ言うと、ベルのところへ木をもらいに行った。
あまりにも簡単な反応だった。
エレナは少し拍子抜けする。
けれど、そのくらいでいいのかもしれない。
一緒に見たいから誘う。
それだけだ。
ユウの家へ向かう。
歩いている間に、少し緊張してきた。
(断られたら、どうしましょう)
そう思い、足がわずかに遅くなる。
ユウにもやりたいことがあるかもしれない。
昼寝をしたいかもしれない。
木を削っているかもしれない。
断られる可能性はある。
けれど、それは自分と一緒にいたくないという意味ではない。
以前なら、そう考えられただろうか。
約束を断られる。
誘いを断られる。
それだけで、自分に価値がないように感じていたかもしれない。
(誘うことと、受けてもらうことは別なのですね)
エレナは歩調を戻した。
ユウの家へ着く。
今日は家の横を先に見ない。
普通に戸を叩く。
「ユウさん」
すぐに返事があった。
「はーい」
中から足音が近づき、戸が開く。
ユウは眠そうではなかった。
手にも木材はない。
「エレナさん。どうしたの?」
「今、お時間ありますか?」
「あるよ」
それだけで少し安心する。
「何かしていましたか?」
「本読んでた」
「邪魔ではありませんでしたか?」
「別に。後で続き読めるし」
「そうですか」
エレナは一度息を整える。
「ベルさんの家の近くに、白い花がまとまって咲いているところがありました」
「花?」
「はい。名前は分かりません。ベルさんも知らないそうです」
「うん」
「それで……」
ここまで言ってから、自分が妙に説明を重ねていることに気づいた。
花が珍しいわけではない。
何か役に立つわけでもない。
名前が分からなくても困らない。
理由を足さなくてもいい。
「一緒に見に行きませんか?」
言った。
ユウは少しだけ目を瞬いた。
その間が、エレナには長く感じられた。
「いいよ」
返事は短かった。
けれど、それで十分だった。
「本当ですか?」
「うん。ちょっと待って」
ユウは家の中へ戻り、戸を閉めるために出てくる。
「今から?」
「はい」
「分かった」
二人で歩き始める。
エレナはユウの横を歩きながら、胸の奥に残っていた緊張が少しずつほどけていくのを感じた。
「エレナさんから誘うの、初めてだっけ?」
ユウが尋ねる。
「豆畑へは誘いました」
「あ、そうか」
「ですが、あれは豆を見るという目的がありました」
「今日は花見るんでしょ?」
「そうなのですが……」
「同じじゃない?」
「少し違う気がします」
「どう違うの?」
エレナは考える。
豆の時も、一緒に行きたかった。
けれど今日は、昨夜自分から誘うと決めたことを覚えていた。
花を見つけた時、最初に「ユウと一緒に見たい」と思った。
「今日は、花を見たいというより……」
言葉が途中で止まる。
ユウは急かさなかった。
歩調も変えず、隣を歩いている。
「ユウさんと見たいと思いました」
言ってから、頬が少し熱くなった。
けれど、言い直さなかった。
ユウは前を見たまま、少しだけ笑う。
「そっか」
「はい」
「じゃあ見よう」
それだけだった。
理由を聞き返されない。
意味を決められない。
エレナも、それ以上説明しなくてよかった。
ベルの家へ戻ると、ニコがすぐに二人を見つけた。
「ほんとに連れてきた!」
「連れてきたという言い方はやめてください」
「ユウ兄ちゃん、花だよ!」
「聞いたよ」
「そこ!」
ニコが指を差す。
白い花は変わらず咲いていた。
エレナとユウは草の近くまで歩く。
小さな花だ。
五枚ほどの白い花びらがあり、中心は淡い黄色をしている。
「知っていますか?」
エレナが尋ねる。
「知らない」
「ユウさんもですか」
「花はあんまり詳しくない」
「そうでしたか」
「魔導書で調べれば分かるかもしれないけど」
ユウはそう言ったものの、《魔導書庫》を出そうとはしなかった。
「調べますか?」
「エレナさんは知りたい?」
問い返される。
エレナは花を見る。
名前を知りたいと思った。
でも、今すぐでなくてもいい。
「少し知りたいです」
「じゃあガルドさんに聞く?」
「魔導書ではなく?」
「ガルドさんが知ってるかもしれないんでしょ?」
「はい」
「なら先にそっちでいいんじゃない?」
エレナは笑った。
「そうですね」
魔法を使えば早いかもしれない。
けれど、早く知る必要はない。
「ガルドさんを探しますか?」
「今から?」
「……どうしましょう」
ユウは花の前へしゃがみ込んだ。
「もうちょっと見てからでいいんじゃない?」
「はい」
エレナも隣へしゃがむ。
近くで見ると、花びらの一枚だけ少し欠けているものがあった。
別の花には小さな虫が止まっている。
「きれいですね」
「うん」
「珍しくはないと思います」
「珍しくなくてもきれいならいいでしょ」
「そうですね」
風が吹く。
小さな白い花がまとめて揺れる。
エレナはその様子を眺めながら、ユウの横顔を一度だけ見た。
ユウも花を見ている。
自分が誘ったから、ここにいる。
その事実が、思っていたより嬉しかった。
(来てくれました)
胸の内で言葉にすると、また少し嬉しくなる。
けれど、もし断られていたとしても、きっと花はここに咲いていた。
自分は一人でも見られた。
ニコやベルと見ることもできた。
それでも今日は、ユウと見られて嬉しい。
その二つは矛盾しない。
「エレナさん」
「はい?」
「誘うの緊張した?」
不意に尋ねられた。
「……分かりましたか?」
「ちょっと」
「そんなに変でしたか?」
「変じゃないけど、家の前で説明長かったから」
エレナは顔を覆いたくなった。
「忘れてください」
「無理じゃない?」
「そこは忘れると言ってください」
「じゃあ忘れる」
「今言われても信じられません」
ユウが笑う。
エレナも少し遅れて笑った。
「断られたらどうしようとは思いました」
笑いが収まってから、正直に言う。
「用事があるかもしれませんし、休みたいかもしれませんから」
「その時は断るよ」
「……はい」
ユウの答えは簡単だった。
「でも今日は暇だったから来た」
「はい」
「エレナさんも、俺が誘って行きたくない時は断っていいからね」
「分かっています」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「以前よりは、分かっています」
エレナは膝の上で手を重ねる。
「誘われると、応えなければならないと思ってしまうことがあります。でも、最近は少し違います」
「うん」
「誘う方も、断られたら自分が否定されたように感じるのではないかと思っていました」
「俺はそこまで考えないかな」
「ユウさんらしいですね」
「行けないなら行けないだけでしょ」
「はい」
それが簡単にできなかった。
でも今は、その考え方を少し借りられる。
「また誘ってもいいですか?」
エレナが尋ねる。
「昨日も言ったけど、いいよ」
「花でなくても?」
「何でも」
「何もしなくても?」
ユウが少し考える。
「何もしないのに誘うって、どうするの?」
「分かりません」
「じゃあ今度試す?」
エレナは目を瞬いた。
「何もしないことをですか?」
「うん。どっか座るとか」
雨の日、マーサの家の軒下で二人で座った時間を思い出す。
あの時も、何かをするためではなかった。
「それなら、もうしたことがありますね」
「ああ、雨の日」
「はい」
「じゃあできるね」
「そうですね」
何もしないために誘ってもいい。
その発想に、エレナは少し笑った。
「二人で何もしないというのも、不思議ですね」
「一人で何もしないのもいいけど」
「ユウさんは得意そうです」
「得意だよ」
「自慢することですか?」
「俺には大事」
「そうでしたね」
白い花がまた風に揺れた。
しばらく二人で眺めていると、向こうからガルドが歩いてきた。
手には小さな籠を持っている。
「何してんだ?」
「花を見ています」
エレナが答える。
「花?」
「これです」
ガルドが近づき、白い花を見る。
「ああ。シロネ草だな」
「シロネ草?」
「たぶん」
「たぶんですか?」
「昔からそう呼んでる」
「正式な名前ではないのですか?」
「知らん」
ガルドは胸を張った。
「でも村じゃシロネ草だ」
「何かに使うのですか?」
「別に」
「薬草では?」
「俺は使わん」
「食べられますか?」
「食ったことない」
「では、本当にただの花なのですね」
「花なんだから花だろ」
エレナはユウを見る。
ユウも笑っていた。
「シロネ草」
エレナは名前を口にする。
知らなくても困らなかった。
知ったから何かに使えるわけでもない。
それでも、名前を知ると少し嬉しい。
「教えてくださってありがとうございます」
「こんなんでいいのか?」
「はい」
「変なやつだな」
「ガルドさんに言われたくありません」
「なんでだ!」
三又の芋を面白がっていた人である。
ユウが横で笑う。
「ユウも笑うな!」
「ごめん」
「全然悪いと思ってねえだろ」
ガルドはぶつぶつ言いながら畑の方へ歩いていった。
籠の中には小さな葉物が入っている。
エレナはその背中を見送ってから、もう一度花を見る。
「名前、分かりましたね」
「村での名前だけど」
「それで十分です」
「魔導書で調べなくていい?」
「はい」
エレナは迷わず答えた。
「今日は、これでよいです」
シロネ草。
それが世界中で通じる名前なのかは分からない。
正式な植物名が別にあるかもしれない。
けれど、ルーデではそう呼ばれている。
今は、それでいい。
「誘ってよかったです」
エレナが言う。
「俺も来てよかったよ」
「本当ですか?」
「うん。花見たし、名前知ったし、ガルドさん怒ったし」
「最後は必要でしたか?」
「面白かった」
「ガルドさんに聞かれたら怒られますよ」
「その時は逃げる」
「魔法は使わないでください」
「使わないよ」
二人で立ち上がる。
ニコは虫の道作りへ戻っている。
ベルは作業台で木を削っている。
エレナは少し考えた。
「この後、どうしますか?」
「決めてない」
「私もです」
「じゃあどうする?」
今までは、そこで別れたかもしれない。
用事は終わった。
花を見た。
名前も分かった。
誘った目的は達成した。
それでも、エレナはすぐに帰りたいとは思わなかった。
「少し歩きませんか?」
自分から二度目の提案をした。
「どこまで?」
「決めずに」
「いいよ」
ユウはまた簡単に答えた。
二人で村の道を歩き始める。
目的地はない。
東側へ向かう必要もないので、村の中央から畑の方へゆっくり進む。
途中でオルドの鶏が柵の中を歩いていた。
「昨日の鶏肉、美味しかったです」
エレナが言う。
「鶏見ながら言う?」
「……確かに少し申し訳ないですね」
「でも美味しかった」
「はい」
鶏は二人の会話など気にせず地面をつついている。
その先では、洗濯物を干している家がある。
遠くから槌の音も聞こえた。
村の中では、それぞれがそれぞれの一日を過ごしている。
「ユウさん」
「うん?」
「私、昨日まで、自分から誘うなら何か理由が必要だと思っていました」
「うん」
「でも、今日の花は、特別なものではありませんでした」
「シロネ草」
「はい。ガルドさんが名前を知っていただけの花です」
「でも誘った」
「誘いました」
エレナは前を見ながら歩く。
「楽しかったです」
「ならよかったんじゃない?」
「はい」
短い答えだった。
でも、それ以上はいらない。
理由が立派でなくてもいい。
結果が役に立たなくてもいい。
一緒に見たいと思ったから誘った。
楽しかった。
それで今日の出来事は十分だった。
村を半周ほどしたところで、二人は分かれた。
「俺、昼どうしようかな」
ユウが空を見ながら言う。
「まだ決めていないのですか?」
「うん」
「朝から決める必要はないとマーサさんも言っていました」
「じゃあ昼になったら考える」
「もうすぐ昼ですよ」
「じゃあもうすぐ考える」
エレナは笑った。
「私はマーサさんの家へ戻ります」
「うん」
「午後は本を読むかもしれません」
「どっち?」
「まだ決めません」
「そっか」
「ユウさんは椅子の練習をしますか?」
「気が向いたら」
「途中の木も、今度見せてください」
「覚えてたら持ってく」
「忘れていたら?」
「言って」
「分かりました」
少しだけ間が空く。
今度は、その沈黙を埋めなければならないとは思わなかった。
「では、また」
「うん。また」
ユウが自分の家の方へ歩いていく。
エレナはマーサの家へ戻った。
戸を開けると、マーサが台所にいる。
「ただいま戻りました」
「おかえり。花はどうだった?」
エレナは靴を整えながら顔を上げた。
「どうして花だと知っているのですか?」
「ニコが来た」
「何をしにです?」
「『エレナお姉ちゃんがユウ兄ちゃんを花に誘った』って報告しに」
エレナはその場で固まった。
「……なぜ報告する必要があるのですか?」
「知らないよ」
「ニコはどこですか?」
「もうベルのところへ戻った」
「そうですか」
少しだけ安心する。
今すぐ問いただしたら、また村中へ話しそうだった。
「で?」
マーサが尋ねる。
「何がですか?」
「誘えたのかい?」
「ニコから聞いたのでしょう?」
「本人から聞くのは別だよ」
エレナは少しだけ迷い、それから頷いた。
「誘えました」
「断られなかった?」
「はい。一緒に見てくれました」
「よかったじゃないか」
「シロネ草というそうです」
「何が?」
「花です」
「ああ、あれか」
「マーサさんも知っていたのですか?」
「そこらに咲くよ」
「……そうですか」
ますます特別な花ではなかった。
けれど、不思議とがっかりしない。
「その後、少し一緒に歩きました」
「そうかい」
「目的地を決めずに」
「そうかい」
「それだけです」
「十分じゃないか」
マーサは鍋をかき混ぜながら答えた。
エレナは自室へ戻る前に、借りた物語集を手に取った。
午後は読むかもしれない。
読まないかもしれない。
昼食を食べてから決めればいい。
その前に、机へ向かう。
朝ではなく、まだ昼にもなっていない時間だったが、少しだけ書いておきたいことがあった。
日々の記録を開く。
『ベルさんの家の近くに白い花が咲いていた。』
『ガルドさんによると、村ではシロネ草と呼ぶらしい。正式な名前かは分からない。』
そこまで書き、別の紙を取り出した。
ユウについて書いている紙だ。
筆先を整える。
『今日、私からユウさんを誘った。』
少し考えて、続ける。
『白い花を一緒に見たいと言った。ユウさんは来てくれた。』
『花は珍しいものではなかった。薬草でも、食べるものでもなかった。』
そこで筆が止まる。
以前なら、その後に「役に立たなかった」と書いていたかもしれない。
けれど、今日は違う。
『でも、一緒に見られて楽しかった。』
エレナはその一文を読み返した。
さらに、もう一行。
『誘う理由は、それでもよいらしい。』
筆を置く。
窓の外を見ると、干した洗濯物が風に揺れていた。
餌台にはまだ鳥がいない。
東側から警戒線の音も聞こえない。
三軒目の家について誰かが知らせに来る様子もない。
大きな出来事は起きていなかった。
それでも今日は、自分から一つ選んだ。
誰かと一緒にいたいと思った時、その気持ちを相手へ渡してみた。
相手には断る自由があり、自分には誘う自由がある。
今日は受けてもらえた。
(次も、同じように受けてもらえるとは限りません)
そう考えても、胸は以前ほど冷たくならなかった。
断られる日があってもいい。
別々に過ごす日があってもいい。
それで昨日までの時間が消えるわけではない。
エレナは記録を閉じた。
午後に何をするかは、まだ決めていない。
けれど、それで困らなかった。
窓の向こうで風が吹き、白い洗濯物がゆっくり揺れている。
どこかに咲いているシロネ草も、きっと同じ風に揺れているのだろう。
それを思い浮かべると、エレナは少しだけ笑った。
今日は、自分から誘えた。
今は、それだけで十分だった。




