第50話 一緒に作る日
鶏肉の知らせが来たのは、エレナがオルドへ尋ねてから三日目の朝だった。
その日は目を覚ました時から空が明るく、窓を開けると冷たさの残る風が部屋へ入ってきた。昨日までより雲が少なく、村の向こうに広がる空も高く見える。
エレナは寝台を整え、着替えてから机の上へ目を向けた。
借りた本が三冊重なっている。
ベルから借りた『丘を越えたパン屋』は、昨日ようやく最後まで読み終えた。ユウから借りた物語集はまだ半分ほどで、料理本には小さな紙片が何枚か挟まれている。
『最初は肉を焼く。次は焼かない方法も試す』
『根菜は少し大きめ』
『香草はマーサさんにも聞く』
最初は一枚だけだった紙片が、少し増えていた。
けれど、それらは守らなければならない予定ではない。
作る時に見て、変えたければ変えるためのものだった。
部屋を出ると、台所にはすでにマーサがいた。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日はよい天気ですね」
「洗濯にはちょうどいいね」
マーサが鍋へ水を入れる。
エレナも朝食の準備を手伝い始めた。
鶏肉はまだだろうかと思ったが、口には出さない。
二、三日後と言われた。
今日は三日目だが、必ず今日だと約束されたわけではない。
(来なければ、また明日ですね)
そう思える。
少し楽しみにしていることまで否定する必要もない。
「気になるのかい?」
マーサが突然言った。
「何がですか?」
「鶏」
エレナは手を止めた。
「……少しは」
「朝から二回、外見てるよ」
「そうでしたか?」
「自分で気づいてなかったのかい」
「はい」
マーサが笑う。
「楽しみなら楽しみでいいじゃないか」
「分かっています」
「なら外見たっていい」
「でも、見ても鶏肉は来ません」
「それもそうだね」
二人で笑った。
朝食を終え、食器を片づけている時だった。
家の外から、聞き慣れた声がする。
「エレナいるか!」
オルドだった。
エレナは持っていた皿を置き、戸口へ向かった。
「はい」
外へ出る。
オルドは小さな包みを持っていた。
「用意できたぞ」
その一言で、何のことか分かった。
「鶏肉ですか?」
「他に何待ってたんだ」
「家の返事も待っています」
「そっちは俺の仕事じゃねえ」
「そうですね」
エレナは笑った。
オルドから包みを受け取る。
想像していたより重い。
「少し多くありませんか?」
「マーサとお前とユウとニコだろ」
「ニコまで確定しているのですか?」
「あいつ、昨日も俺のところ来たぞ」
「何をしにです?」
「鶏いつ食うんだって」
エレナは額へ手を当てたくなった。
「まだ作る日も決めていなかったのですが」
「今日作ればいい」
「私が今日作りたいかもしれないとは考えないのですか?」
少し冗談めかして言う。
オルドは一度瞬きをした後、笑った。
「じゃあ明日でもいい。肉は今日渡す」
「今日は作りたいです」
「なら今日じゃねえか」
「結果としては、そうなりました」
包みを持ち直す。
「ありがとうございます。お代は?」
「マーサに聞け。いつもの分け方でいい」
「分かりました」
村では金銭だけでやり取りしないことも多い。
野菜や手伝い、別の品物と合わせて調整することもあるため、エレナが勝手に決めない方がよい。
「オルドさん」
「なんだ」
「出来上がったら、少し持っていきましょうか?」
「いらん」
「即答ですね」
「自分で鶏食ってる」
「それもそうですね」
「美味かったら次も作れ」
「作りたくなったら、そうします」
エレナが答える。
オルドは少しだけ笑った。
「それでいい」
彼が帰っていく。
エレナは包みを持ったまま、しばらくその背中を見送った。
「来たのかい?」
後ろからマーサが尋ねる。
「はい」
振り返る。
「今日、作ってもよいですか?」
「エレナが作りたいならね」
「作りたいです」
「なら決まりだ」
マーサはそれだけ言い、再び台所へ戻った。
エレナも後に続く。
包みを開き、鶏肉を確認する。
料理本に書かれている量より少し多い。
「これならニコの分もありそうですね」
「最初からそのつもりでオルドが持ってきたんだろ」
「ユウさんにも知らせないと」
口にしてから、エレナは少し考えた。
ユウは根菜を切ると言っていた。
忘れていたら呼びに来て、とも言っていた。
「行ってきてもよいですか?」
「肉は逃げないよ」
「では、行ってきます」
「本も持ってくのかい?」
料理本へ手を伸ばしかけていたことに気づく。
「……必要ありませんね」
「ユウを呼ぶだけだろ?」
「はい」
本から手を離す。
エレナは家を出た。
道へ出ると、餌台の近くに鳥が一羽いた。
今度は台の上ではなく地面をつついている。
以前なら立ち止まったかもしれないが、今日は軽く眺めるだけで歩き続けた。
鳥を見られた。
それは嬉しい。
けれど今は、ユウを呼びに行きたい。
どちらが大事かを比べる必要はなかった。
ユウの家へ向かう途中、ベルの家の前を通る。
ニコがいた。
木片を手にしている。
「エレナお姉ちゃん!」
「おはようございます」
「今日、鶏?」
挨拶の直後だった。
「どうして知っているのですか?」
「オルドじいちゃんが肉持って歩いてた」
「それだけで分かったのですか?」
「エレナお姉ちゃんの家の方行ってた」
「よく見ていますね」
「今日作る?」
ニコの目が期待で輝いている。
エレナは少し考えたふりをした。
「どうしましょう」
「作って!」
「まだ何も言っていません」
「食べたい!」
「分かりました」
あまり待たせる意味もない。
「今日作ります」
「やった!」
「ただし、夕方です」
「今じゃないの?」
「今はまだ朝です」
「昼じゃだめ?」
「煮込む時間もありますし、夕食にします」
「長い」
「待ってください」
「何時?」
「夕方です」
「夕方のいつ?」
エレナは困った。
細かい時間など決めていない。
「できたら呼びます」
「忘れない?」
「忘れません」
「ほんと?」
「そんなに心配なら、マーサさんの家の近くで匂いを確認してください」
「分かった!」
本当にやりそうだった。
「ずっと待っていては駄目ですよ」
「虫の道作る」
「そうしてください」
ニコと別れ、ユウの家へ向かう。
戸を叩く。
返事がない。
もう一度叩く。
「ユウさん?」
しばらく待つ。
やはり返事はなかった。
(寝ているのでしょうか)
朝だ。
けれど、ユウならあり得る。
昨日言われたことを思い出す。
『寝てたら?』
『戸叩いて起きたら』
『起きなかったら?』
『諦めて』
エレナは少し笑った。
「ユウさん」
もう一度だけ呼ぶ。
返事はない。
それなら、今は諦めればいい。
根菜を切るのはユウでなくてもできる。
マーサもいるし、エレナ自身も切れる。
約束したからといって、絶対にユウが参加しなければ料理を作れないわけではない。
「では、また後で来ます」
聞こえているか分からない相手へそう言い、踵を返そうとした。
その時、家の横から物音がした。
「あれ、エレナさん?」
振り返る。
ユウが家の裏から出てきた。
「起きていたのですか?」
「起きてたよ」
「何度も戸を叩きました」
「裏にいたから聞こえなかった」
ユウの手には、削りかけの木材がある。
表面はまだ粗く、片側が少しだけ細くなっていた。
「椅子ですか?」
「その練習」
エレナの視線が木材へ向く。
「見せてください」
「これ?」
「はい。失敗したものも見たいと言いました」
「まだ失敗って決まってないけど」
「では、途中のものですね」
ユウが木材を差し出す。
エレナは両手で受け取った。
ベルのところで何度か木を触っているので、以前より表面の違いが分かる。
「ここだけ少し深いですね」
「力入れすぎた」
「私も餌台でやりました」
「ベルさんに言われたよ。削った木は戻らないって」
「同じことを言われました」
「だから周り合わせようとしたら、もっと削りすぎた」
エレナは思わず笑った。
「笑った?」
「すみません。私と同じだと思いまして」
「エレナさんは途中で止めたんだろ?」
「はい」
「俺は止めるの遅かった」
「次は早く止めればよいのでは?」
「そうする」
ユウは木材を受け取る。
捨てる様子はない。
「これはどうするのですか?」
「練習用だから、このまま使う」
「椅子には?」
「まだ使わない」
「そうですか」
エレナは少しだけ残念に思った。
けれど、完成品を見る約束はまだ先に残っている。
「ところで、どうしたの?」
ユウが尋ねる。
「あ」
本来の目的を思い出した。
「鶏肉が届きました」
「今日?」
「はい」
「じゃあ作る?」
「作りたいです」
「根菜切る日か」
「覚えていたのですね」
「さすがに三日前だから」
「忘れていたら呼びに来てと言っていました」
「覚えてたよ」
「では、夕方にマーサさんの家へ来ていただけますか?」
「夕方?」
「はい。夕食にします」
「分かった」
「ニコも来ます」
「やっぱり?」
「すでに見つかりました」
「見つかったんだ」
「オルドさんが鶏肉を持って歩いていたところを見ていたそうです」
ユウが笑う。
「村、小さいから隠せないね」
「隠していたわけではありません」
「確かに」
「それから……」
エレナは少し考える。
「マーサさんと私だけで作るのではなく、ユウさんにも手伝ってもらいます」
「根菜でしょ?」
「はい」
「それだけ?」
「何か他にもしたいですか?」
「別に。言われたことやるよ」
その答えに、エレナは少しだけ首を傾げた。
「言われたことだけですか?」
「何かやってほしい?」
「いえ。ただ、一緒に何かした方が面白そうだと言っていたので」
「ああ」
ユウは少し考える。
「じゃあ、行ってから何かあったらやる」
「はい」
「でも料理はエレナさんが作りたいんだろ?」
「そうです」
「なら俺がやりすぎない方がいいでしょ」
エレナは目を瞬いた。
それから、ゆっくり頷く。
「……はい」
全部を手伝ってもらうことと、一緒に作ることは同じではない。
自分がやりたい部分まで誰かに渡す必要はない。
「では、根菜をお願いします」
「了解」
「少し大きめです」
「覚えてる」
「本当に?」
「疑われてる」
「冗談です」
ユウが笑った。
「夕方行くよ」
「待っています」
その言葉を口にした時、エレナは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
待っています。
以前なら、誰かを待つことは不安と結びついていた。
来るのか。
約束は守られるのか。
自分は忘れられていないか。
けれど、今は少し違う。
ユウは夕方に来ると言った。
だから、その頃まで自分は自分の時間を過ごせばいい。
「では、また後で」
「うん。また後で」
エレナはマーサの家へ戻った。
午前中は、特に料理の準備をしなかった。
肉は冷える場所へ置き、根菜もそのままにする。
今から切ってしまえば早いのだろうが、夕方にユウが来てから切ると決めている。
だから今は別のことをした。
ベルから借りた本を返すため、最後にもう一度好きだった話を読む。
家の前へ椅子を出す老人の話。
誰かが来る日もあれば、来ない日もある。
それでも老人は、天気がよければ椅子を出す。
読み終えると、本を閉じた。
「返すのかい?」
マーサが尋ねる。
「はい。一度全部読みました」
「もう一度読みたいなら借りとけばいいじゃないか」
「好きなお話は読み直しましたので、今は返そうと思います」
「そうかい」
「また読みたくなったら、ベルさんに聞きます」
持っていれば安心するからと、いつまでも抱えておく必要はない。
読み終えた。
返したい。
なら返せばいい。
エレナは本を持ってベルの家へ向かった。
作業台の前にはベルがいた。
ニコは少し離れたところで虫の道を作り続けている。
「ベルさん」
「おう」
「本を返しに来ました」
「もういいのか?」
「はい。全部読みました」
「早いな」
「時間がありましたから」
ベルへ本を差し出す。
彼は受け取る前に、表紙と角をざっと確認した。
「破れてねえな」
「破っていません」
「ならいい」
「とても面白かったです」
「そうか」
「特に、家の前へ椅子を出す老人のお話が好きでした」
ベルの手が一瞬だけ止まった。
「婆さんもそれ好きだったな」
エレナは目を上げた。
以前、ベルはこの本を「婆さんのだ」と言っていた。
詳しいことは聞かなかった。
今日も、聞くつもりはなかった。
「そうだったのですね」
「ああ」
ベルはそれだけ言って、本を受け取った。
けれど、少ししてから自分から続ける。
「よく家の前に椅子出してた」
「その方もですか?」
「ああ。誰も来なくてもな」
エレナは黙って聞く。
「ニコが小さい頃は、横に座らせてた」
「覚えてねえ!」
離れたところからニコが叫んだ。
「お前は寝てたからな」
「寝てない!」
「寝てた」
ベルが言う。
ニコは納得していない顔をしていたが、すぐ虫の道へ戻った。
エレナは少し笑った。
「素敵ですね」
「普通だ」
「普通でも、素敵なものはあると思います」
ベルは返事をしなかった。
ただ、本を持つ手が少しだけ優しくなったように見えた。
「また読みたくなったら、借りてもよいですか?」
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
エレナはそれ以上、本の持ち主について尋ねなかった。
ベルが話したいところまで話した。
それで十分だった。
帰り際、ニコが顔を上げる。
「夕方、呼んでね!」
「忘れていません」
「何時?」
「できたらです」
「まだ決まってない?」
「料理ですから、少し前後します」
「匂いしたら行っていい?」
「走らないなら」
「分かった!」
信用してよいのかは分からない。
エレナは笑いながら家へ戻った。
昼食を終えた後は、ユウから借りた物語集を少しだけ読んだ。
一つ読み終えたところで閉じる。
今日は料理を作る。
だからといって、それまでずっと料理のことを考えている必要はなかった。
午後の半ばには、マーサと一緒に洗濯物を取り込んだ。
餌台の種を一羽の鳥が食べているところも見た。
少し離れた場所から二人で眺め、飛び去った後にマーサが「ちゃんと使われてるね」と言った。
「はい」
エレナはそれだけ答えた。
鳥が来た。
嬉しい。
でも、それを記録しなければならないとは思わなかった。
夕方が近づくと、いよいよ料理の準備を始めた。
料理本を開き、必要なものを台所へ並べる。
鶏肉。
ガルドからもらった根菜。
マーサが保存していた別の野菜。
乾燥させた香草。
塩。
油。
「まず、お肉を焼くのですよね」
「本にはそう書いてあるんだろ?」
「はい」
「なら今日はそうしてみな」
マーサは手を出さず、少し離れたところに立っている。
「マーサさんは?」
「聞かれたら答えるよ」
「一緒には作らないのですか?」
「エレナが作りたいんだろ?」
「はい」
「なら、まずやってみな」
ベルと少し似ている。
全部はやってくれない。
必要なら聞ける。
エレナは頷いた。
「分かりました」
肉を扱う前に手を洗う。
道具を確認する。
料理本をもう一度見る。
そこへ戸を叩く音がした。
「来たんじゃないかい?」
マーサが言う。
エレナは手を拭き、戸口へ向かった。
「はい」
開ける。
ユウが立っていた。
「来たよ」
「はい。待っていました」
自然に答えられた。
「もう始めてる?」
「今からです」
「ちょうどよかった」
「入ってください」
「お邪魔します」
ユウが入る。
台所を見る。
「結構あるね」
「ニコの分もありますから」
「ニコは?」
「できたら呼ぶことになっています」
「来るまで待てるかな」
「待ってもらいます」
ユウが手を洗う。
「俺、根菜?」
「はい」
ガルドからもらった二本を渡す。
「少し大きめです」
「分かってる」
「どのくらいか確認しますか?」
「最初の一個切ったら見て」
「分かりました」
ユウが包丁を持つ。
エレナは鶏肉へ向き直った。
自分の作業がある。
それでも、隣でユウが根菜を切る音が聞こえている。
マーサはさらに離れたところで、別の野菜を整理していた。
一人ではない。
けれど、自分が作っている。
その感覚が心地よかった。
「エレナさん」
「はい?」
「これくらい?」
ユウが切った根菜を見せる。
エレナは確認する。
自分が思っていたより、少し小さい。
「もう少し大きくてもよいです」
「これより?」
「はい」
「煮えるの時間かかるよ」
「今日は時間があります」
「じゃあ大きくする」
ユウは次から少し大きく切る。
最初に切った一つだけが小さい。
「これはどうします?」
「そのまま入れれば?」
「大きさが違います」
「一個くらいならいいんじゃない?」
エレナは少し考えた。
全部同じ大きさに揃えたい気持ちが、ほんの少しだけ出る。
けれど、小さいから食べられないわけではない。
「……そのままにします」
「了解」
最初の一つだけ小さい。
それでいい。
エレナは肉へ軽く塩を振り、鍋へ油を入れた。
「火は?」
ユウが尋ねる。
「このくらいでしょうか」
「俺に聞いてる?」
「はい」
「マーサさんに聞いた方が確実じゃない?」
「ユウさんにも聞いてみました」
「じゃあ、ちょっと強いかも」
「マーサさんは?」
「私なら少し落とすね」
二人とも同じ意見だった。
エレナは火を弱める。
「聞いてよかったです」
肉を鍋へ入れる。
音が立つ。
思っていたより大きな音に少し驚いたが、慌てずに本の手順を思い出す。
表面を焼く。
すぐ動かさない。
焦げそうなら火を調整する。
途中で一度、焼き色が足りない気がして動かそうとした。
「まだじゃない?」
ユウが言う。
「そう思いますか?」
「たぶん」
「マーサさん?」
「もう少し待ってみな」
「分かりました」
待つ。
何もしない。
鍋の中で肉が焼ける音だけを聞く。
少しして裏返すと、思っていたよりきれいな焼き色がついていた。
「あ」
「いいじゃん」
「はい」
嬉しい。
けれど、まだ料理は終わっていない。
ユウが切った根菜と、別の野菜を入れる。
水を加える。
香草を少し。
「これくらいでしょうか」
「最初は少なくていいよ」
マーサが言う。
「足りなきゃ後で足せるからね」
「入れすぎたものは戻せませんものね」
「木と同じだね」
ユウが言った。
「確かに」
三人で笑う。
鍋が温まり始める。
ここからは煮込む時間だった。
「……することがなくなりました」
エレナが言う。
「煮えるの待つだけだからね」
マーサが答える。
「ずっと見ていなくてもよいのですか?」
「時々見りゃいい」
「焦げませんか?」
「火が強すぎなきゃね」
エレナは鍋を見る。
待つ。
また待つ。
料理にも、何もしない時間があるらしい。
「座る?」
ユウが尋ねる。
「料理中なのですが」
「鍋見えるところにいればいいでしょ」
マーサも頷く。
「立ってても早く煮えないよ」
「……そうですね」
エレナは台所の端にある椅子へ座った。
ユウも向かいへ座る。
マーサは自分の作業へ戻った。
「椅子の練習、どうでした?」
エレナが尋ねる。
「今日の?」
「はい」
「昨日よりはマシ」
「また削りすぎましたか?」
「今日は途中で止めた」
「見たいです」
「今度持ってくる」
「はい」
「エレナさんは?」
「何がですか?」
「今日、料理以外に何してた?」
何気ない問いだった。
エレナは少し考える。
「ベルさんに本を返しました」
「読み終わったんだ」
「はい。好きなお話をもう一度読んでから返しました」
「どれ?」
「家の前へ椅子を出す老人のお話です」
ユウが少し笑う。
「椅子の話?」
「ユウさんが作ろうとしているから好きなのではありません」
「言ってないけど」
「……そうですね」
先に否定してしまった。
少し恥ずかしくなる。
「どんな話?」
ユウは気にした様子もなく尋ねる。
エレナは内容を説明した。
老人は天気のよい日に椅子を出す。
誰かが来れば話す。
誰も来なければ一人で空を見る。
それだけの話。
「いいね」
ユウが言う。
「ユウさんも好きですか?」
「たぶん」
「読んでいないのに?」
「話聞いた感じ」
「そうですか」
少し嬉しい。
「ベルさんの大切な方も、そのお話が好きだったそうです」
「へえ」
「家の前に椅子を出していたそうです。ニコが小さい頃は隣に座らせていたと」
「ニコ覚えてる?」
「覚えていないそうです」
「だろうね」
「どうしてです?」
「ニコだし」
「理由になっていません」
話しているうちに、鍋からよい匂いがし始めた。
エレナは立ち上がる。
「見てきます」
蓋を開ける。
湯気が上がる。
根菜はまだ少し硬い。
「まだですね」
「じゃあもう少し」
マーサが言う。
蓋を戻す。
また座る。
待つ。
以前のエレナなら、この待つ時間に何か別の仕事を探したかもしれない。
手が空いているなら、何かしなければならない。
けれど今日は、ユウと話しながら鍋が煮えるのを待っている。
それも料理の時間だった。
しばらくして、外から足音が聞こえた。
戸が叩かれる。
「まだ!?」
ニコだった。
マーサが大きなため息をつく。
「匂いで来たね」
エレナは笑いながら戸を開けた。
「まだです」
「もう匂いする!」
「匂いがしても完成ではありません」
「あとどれくらい?」
「分かりません」
「分かんないの?」
「根菜が柔らかくなったらです」
「じゃあ見る」
「何をです?」
「根菜」
「見ても柔らかさは分かりませんよ」
「触る」
「熱いので駄目です」
「じゃあ待つ」
ニコは勝手に家へ入りそうになり、途中で止まる。
「入っていい?」
ちゃんと聞いた。
「マーサさん?」
「入んな。邪魔しなきゃね」
「やった!」
ニコが入ってくる。
椅子はもうないので、床の端へ座った。
「ユウ兄ちゃんもいる」
「根菜切ったから」
「俺もなんかやる」
「もう煮ています」
「何もない?」
エレナは考える。
何か仕事を作る必要はない。
「今はありません」
「じゃあ待つ」
「はい」
ニコも加わって、四人で鍋を待つことになった。
マーサは作業。
ユウは椅子。
エレナも椅子。
ニコは床。
誰も急いでいない。
少しして、ニコが口を開く。
「まだ?」
「まだです」
さらに少しして、
「まだ?」
「まだです」
三度目に聞かれた時、エレナは笑ってしまった。
「ニコ」
「なに?」
「聞いても早くはできません」
「分かってる」
「では、少し待ってください」
「分かった」
ニコは今度こそ黙った。
その後、鍋を確認すると根菜がかなり柔らかくなっていた。
エレナは小さな皿へ煮汁を取り、味を見る。
少し薄い。
「マーサさん」
「自分ではどう思う?」
「少し薄いと思います」
「ならどうする?」
「塩を少し足します」
「やってみな」
少量だけ加える。
混ぜる。
もう一度味を見る。
「……今度はよいと思います」
「私にも」
マーサが味を見る。
「うん。これならいい」
「ユウさんも」
「俺も?」
「食べるのですから」
ユウにも小さな匙で渡す。
「美味しい」
「本当ですか?」
「うん」
「まだ完成前ですよ」
「もうほぼ完成じゃない?」
「根菜を確認します」
今度は一つ取り出す。
ユウが最初に切った、小さい一つだった。
柔らかくなりすぎて少し端が崩れている。
「あ」
エレナが声を漏らす。
「俺の最初のやつだ」
「崩れました」
「食べられる?」
「食べられます」
「じゃあいいんじゃない?」
エレナは崩れた根菜を見る。
一つだけ形が違う。
でも、味は同じだろう。
「そうですね」
鍋へ戻す。
「完成にします」
「できた!?」
ニコが立ち上がる。
「はい。たぶん」
「たぶん?」
「初めてですから」
「食べれば分かるよ」
マーサが笑う。
食卓へ料理を運ぶ。
エレナが作った鶏肉の煮込みが、大きな器の中央に置かれた。
湯気と一緒に、鶏肉と香草の匂いが広がる。
ニコはすぐに手を伸ばそうとして、マーサに止められた。
「全員座ってからだよ」
「もう座ってる!」
「ユウがまだだ」
ユウが最後の皿を運び、席へ着く。
四人で食卓を囲む。
エレナは自分の皿へ料理を取った。
少し緊張する。
作っている途中で何度か味を見た。
食べられることは分かっている。
それでも、料理として食卓へ出して誰かに食べてもらうのは違う。
「エレナお姉ちゃん、食べていい?」
「どうぞ」
ニコが最初に食べた。
「熱っ」
「だから気をつけてください」
息を吹きかけ、もう一度口へ入れる。
「うまい!」
あまりにも早い感想だった。
「ちゃんと味わいましたか?」
「食べた!」
「それは見ていました」
マーサも食べる。
「うん。いいじゃないか」
「本当ですか?」
「最初なら十分だよ。肉も硬くない」
「よかったです」
そして、ユウが食べる。
エレナは無意識にその様子を見ていた。
一口。
噛む。
飲み込む。
「美味しいよ」
ユウが言った。
胸の奥が、ふっと軽くなる。
「……よかったです」
「根菜大きいのもいいね」
「私が大きめにしてほしいと言いました」
「俺が切った」
「知っています」
「俺の仕事も成功?」
「はい」
エレナは笑う。
「最初の一つだけ崩れましたけれど」
「それも食べられる」
「そうですね」
食事が始まる。
ニコは鶏肉を先に食べ、根菜を後へ残した。
マーサに「野菜も食べな」と言われ、渋々口へ運ぶ。
ユウは普通に食べている。
エレナも自分の料理を食べる。
美味しい。
けれど、次に作るなら香草をもう少し少なくしてもよい気がした。
「マーサさん」
「なんだい?」
「次は香草を少し減らしてみたいです」
「いいんじゃないかい」
「肉を焼かない方法も試してみたいです」
「作りたくなったらね」
「はい」
次があると決まったわけではない。
でも、次を考えてもいい。
「また作って!」
ニコが言う。
「次があるとは言っていません」
「今言ってた!」
「作りたくなったら、です」
「じゃあ作りたくなって」
「それは私が決めます」
「えー」
「ニコ」
マーサが名前を呼ぶ。
「作ってもらったもんに次も頼むんじゃないよ」
「でも美味しい」
「なら今日は美味しいって食べな」
ニコは少し考えた。
「美味しい!」
「それでいい」
エレナはそのやり取りを聞きながら、自分の皿を見る。
今日美味しい。
それだけでいい。
次も作らなければならない理由にはならない。
けれど、また作りたいと思うなら作っていい。
ユウがこちらを見る。
「どうしたの?」
「いえ」
エレナは首を振る。
「楽しいと思いまして」
「料理?」
「それもです」
食卓を見る。
「一緒に作って、こうして食べることが」
言葉にしても、恥ずかしくなかった。
マーサがいる。
ニコがいる。
ユウがいる。
誰かのために完璧な料理を用意したのではない。
みんなが少しずつ関わった。
オルドが鶏肉を用意した。
ガルドが根菜をくれた。
マーサが教えた。
ユウが切った。
ニコは待った。
自分が作った。
「またやればいいじゃん」
ニコが言う。
「だから、次はまだ――」
「料理じゃなくても」
エレナは言葉を止めた。
ニコは根菜を食べながら続ける。
「なんか一緒にやればいいじゃん」
子どもらしい、単純な言葉だった。
エレナは少しだけ目を細める。
「……そうですね」
料理でなくてもいい。
豆を見る。
本を読む。
鳥を待つ。
変な芋を見る。
何かを作る。
何もしないで話す。
一緒にできることは、思っていたよりたくさんある。
食事を終える頃には、鍋の中身はほとんどなくなっていた。
少しだけ残った分は、マーサが明日の朝に食べると言った。
「私も食べます」
「作った本人が残り物食べなくてもいいんだよ」
「食べたいからです」
「なら食べな」
「はい」
ニコは満腹になったらしく、椅子にもたれている。
「眠い」
「帰れる?」
ユウが尋ねる。
「帰れる」
「走るなよ」
「走らない」
今日は本当に走れそうになかった。
少し休んでから、ニコは帰っていった。
「じいちゃんに美味しかったって言う!」
「ベルさんによろしくお伝えください」
「うん!」
戸の外へ出た後も、今度は走らず歩いていく。
エレナはその背中を見送った。
食器を片づける。
ユウも立ち上がった。
「俺もやるよ」
「お客様なのですから、座っていてもよいですよ」
「根菜切ったから客じゃないんじゃない?」
「そういうものですか?」
「知らないけど」
ユウは使った皿を運ぶ。
エレナも止めなかった。
二人で食器を台所へ運び、マーサが洗い、エレナが拭く。
ユウは机を拭いた。
全部を一人でやる必要はない。
誰がどこまでと厳密に決める必要もない。
その時にできる人が、できることをする。
片づけが終わると、ユウは帰ることになった。
外はすでに夕暮れに近い。
エレナは戸口まで見送る。
「今日はありがとうございました」
「俺、根菜切っただけだけど」
「それがよかったです」
「そう?」
「はい。一緒に作った感じがしました」
ユウは少しだけ笑った。
「俺も面白かったよ」
以前、彼が言った言葉と同じだった。
一緒に何かした方が面白そう。
実際にやってみて、面白かった。
「また何か、一緒にできたらよいですね」
エレナは自然に言った。
「うん」
「料理でなくても」
「ニコと同じこと言ってる」
「今、私もそう思ったのです」
「じゃあ何かあったら」
「はい」
少し間が空く。
エレナは昨日までなら「何か見つけたら誘ってください」と続けたかもしれない。
けれど、今日は違う言葉が浮かんだ。
「私も、何かあったら誘います」
ユウがエレナを見る。
「うん。誘って」
「はい」
片方だけではない。
ユウが見つけたものへ誘ってもらうだけではなく、自分が見つけたものへユウを誘ってもいい。
当たり前のことなのに、今まで明確には考えていなかった。
「じゃあ、また明日」
ユウが言う。
「明日、会う約束をしていましたか?」
「してない」
「では、会わないかもしれませんよ」
「村小さいから、たぶん会うでしょ」
「そうですね」
二人で笑う。
「おやすみ、エレナさん」
「おやすみなさい、ユウさん」
ユウが歩いていく。
エレナは少しの間、その背中を見送った。
それから家へ戻る。
夜、自室の机へ向かう前に、借りた料理本を開いた。
挟んでいた紙片を取り出す。
『最初は肉を焼く。次は焼かない方法も試す』
その下へ、新しい一行を書き足した。
『香草は、次に作るなら少し少なくてもよい。』
さらに、
『根菜は大きめが好き。小さい一つは崩れたが、食べられた。』
と書く。
正解を書いているのではない。
今日、自分がそう思ったことを残している。
次に作った時、気が変わってもいい。
紙片を本へ戻す。
次に、日々の記録を開いた。
『オルドさんから鶏肉を受け取った。』
『ガルドさんの根菜を使った。』
『マーサさんに教えてもらいながら、鶏肉の煮込みを作った。』
『ユウさんが根菜を切った。最初の一つだけ小さかった。』
そこまで書き、エレナは笑う。
『ニコも食べた。美味しいと言ってくれた。』
さらに書く。
『私は、また作りたくなったら作る。』
筆を止める。
今日一日を振り返る。
料理が成功したことだけではない。
もっと残したいものがあった。
『一人で全部やらなくても、自分が作ったと言ってよいと思った。』
エレナはその一文をしばらく見た。
鶏を育てたのはオルド。
根菜を育てたのはガルド。
料理を教えたのはマーサ。
切ったのはユウ。
それでも、自分は今日「料理を作った」と思っている。
誰かに助けてもらったから、自分がしたことではなくなるわけではない。
(昔は、そう思えなかったかもしれません)
助けられれば、自分の力ではない。
教えられれば、一人ではできない証拠。
妹なら一度でできる。
自分は何度も教わらなければならない。
そんなふうに考えていた。
今は少し違う。
教わった。
手伝ってもらった。
それでも、自分でやった。
その両方が同時にあっていい。
次に、ユウについての紙を取り出す。
『ユウさんと一緒に料理を作った。』
書いてから、少し考える。
『ユウさんは根菜を切った。私が思っていたより最初の一つが小さかった。次から大きくしてくれた。』
少しだけ可笑しい記録だった。
でも残す。
『美味しいと言ってくれた。嬉しかった。』
さらに続ける。
『また何か一緒にできたらよいと言った。ユウさんも、うん、と言った。』
最後に、
『次は、私からも誘う。』
と書いた。
そこまで書いて、エレナは筆を置いた。
今日は、東側の警戒線から音はしなかった。
新しい痕跡が見つかったという話もない。
三軒目の家についての返事も来なかった。
自分の追放がこれからどうなるのかも、分からないままだ。
大きなことは、何も解決していない。
けれど、机の上には借りた本があり、台所には明日の朝に食べる煮込みが少し残っている。
家の外には、自分が作った鳥の餌台がある。
ベルのところでは、ニコの虫の道が少しずつ伸びている。
ユウは、昼寝用の椅子を作るために木を削る練習をしている。
どれも小さなことだった。
それでも、それぞれが途中にある。
終わっていないことが、必ずしも不安とは限らない。
(続きがあるということでも、あるのですね)
エレナは窓辺へ立った。
夜の村には、いくつかの灯りが見える。
どの家が誰のものなのか、以前より分かるようになった。
マーサの家。
ベルとニコのいる方角。
少し離れたガルドの家。
そして、ユウの家。
その灯りを見つけた時、エレナの口元が自然に緩んだ。
明日、会う約束はしていない。
それでも、たぶん会う。
会わなければ、その次の日でもいい。
もし自分が何か見つけたなら、今度は自分から誘えばいい。
エレナは窓を閉じた。
明日何をするのかは、まだ決めない。
今夜は今日作った料理が美味しかったことだけ覚えて、眠ればいい。
それで十分だった。




