↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
50/90

第50話 一緒に作る日

鶏肉の知らせが来たのは、エレナがオルドへ尋ねてから三日目の朝だった。


 その日は目を覚ました時から空が明るく、窓を開けると冷たさの残る風が部屋へ入ってきた。昨日までより雲が少なく、村の向こうに広がる空も高く見える。


 エレナは寝台を整え、着替えてから机の上へ目を向けた。


 借りた本が三冊重なっている。


 ベルから借りた『丘を越えたパン屋』は、昨日ようやく最後まで読み終えた。ユウから借りた物語集はまだ半分ほどで、料理本には小さな紙片が何枚か挟まれている。


『最初は肉を焼く。次は焼かない方法も試す』


『根菜は少し大きめ』


『香草はマーサさんにも聞く』


 最初は一枚だけだった紙片が、少し増えていた。


 けれど、それらは守らなければならない予定ではない。


 作る時に見て、変えたければ変えるためのものだった。


 部屋を出ると、台所にはすでにマーサがいた。


「おはようございます」


「おはよう」


「今日はよい天気ですね」


「洗濯にはちょうどいいね」


 マーサが鍋へ水を入れる。


 エレナも朝食の準備を手伝い始めた。


 鶏肉はまだだろうかと思ったが、口には出さない。


 二、三日後と言われた。


 今日は三日目だが、必ず今日だと約束されたわけではない。


(来なければ、また明日ですね)


 そう思える。


 少し楽しみにしていることまで否定する必要もない。


「気になるのかい?」


 マーサが突然言った。


「何がですか?」


「鶏」


 エレナは手を止めた。


「……少しは」


「朝から二回、外見てるよ」


「そうでしたか?」


「自分で気づいてなかったのかい」


「はい」


 マーサが笑う。


「楽しみなら楽しみでいいじゃないか」


「分かっています」


「なら外見たっていい」


「でも、見ても鶏肉は来ません」


「それもそうだね」


 二人で笑った。


 朝食を終え、食器を片づけている時だった。


 家の外から、聞き慣れた声がする。


「エレナいるか!」


 オルドだった。


 エレナは持っていた皿を置き、戸口へ向かった。


「はい」


 外へ出る。


 オルドは小さな包みを持っていた。


「用意できたぞ」


 その一言で、何のことか分かった。


「鶏肉ですか?」


「他に何待ってたんだ」


「家の返事も待っています」


「そっちは俺の仕事じゃねえ」


「そうですね」


 エレナは笑った。


 オルドから包みを受け取る。


 想像していたより重い。


「少し多くありませんか?」


「マーサとお前とユウとニコだろ」


「ニコまで確定しているのですか?」


「あいつ、昨日も俺のところ来たぞ」


「何をしにです?」


「鶏いつ食うんだって」


 エレナは額へ手を当てたくなった。


「まだ作る日も決めていなかったのですが」


「今日作ればいい」


「私が今日作りたいかもしれないとは考えないのですか?」


 少し冗談めかして言う。


 オルドは一度瞬きをした後、笑った。


「じゃあ明日でもいい。肉は今日渡す」


「今日は作りたいです」


「なら今日じゃねえか」


「結果としては、そうなりました」


 包みを持ち直す。


「ありがとうございます。お代は?」


「マーサに聞け。いつもの分け方でいい」


「分かりました」


 村では金銭だけでやり取りしないことも多い。


 野菜や手伝い、別の品物と合わせて調整することもあるため、エレナが勝手に決めない方がよい。


「オルドさん」


「なんだ」


「出来上がったら、少し持っていきましょうか?」


「いらん」


「即答ですね」


「自分で鶏食ってる」


「それもそうですね」


「美味かったら次も作れ」


「作りたくなったら、そうします」


 エレナが答える。


 オルドは少しだけ笑った。


「それでいい」


 彼が帰っていく。


 エレナは包みを持ったまま、しばらくその背中を見送った。


「来たのかい?」


 後ろからマーサが尋ねる。


「はい」


 振り返る。


「今日、作ってもよいですか?」


「エレナが作りたいならね」


「作りたいです」


「なら決まりだ」


 マーサはそれだけ言い、再び台所へ戻った。


 エレナも後に続く。


 包みを開き、鶏肉を確認する。


 料理本に書かれている量より少し多い。


「これならニコの分もありそうですね」


「最初からそのつもりでオルドが持ってきたんだろ」


「ユウさんにも知らせないと」


 口にしてから、エレナは少し考えた。


 ユウは根菜を切ると言っていた。


 忘れていたら呼びに来て、とも言っていた。


「行ってきてもよいですか?」


「肉は逃げないよ」


「では、行ってきます」


「本も持ってくのかい?」


 料理本へ手を伸ばしかけていたことに気づく。


「……必要ありませんね」


「ユウを呼ぶだけだろ?」


「はい」


 本から手を離す。


 エレナは家を出た。


 道へ出ると、餌台の近くに鳥が一羽いた。


 今度は台の上ではなく地面をつついている。


 以前なら立ち止まったかもしれないが、今日は軽く眺めるだけで歩き続けた。


 鳥を見られた。


 それは嬉しい。


 けれど今は、ユウを呼びに行きたい。


 どちらが大事かを比べる必要はなかった。


 ユウの家へ向かう途中、ベルの家の前を通る。


 ニコがいた。


 木片を手にしている。


「エレナお姉ちゃん!」


「おはようございます」


「今日、鶏?」


 挨拶の直後だった。


「どうして知っているのですか?」


「オルドじいちゃんが肉持って歩いてた」


「それだけで分かったのですか?」


「エレナお姉ちゃんの家の方行ってた」


「よく見ていますね」


「今日作る?」


 ニコの目が期待で輝いている。


 エレナは少し考えたふりをした。


「どうしましょう」


「作って!」


「まだ何も言っていません」


「食べたい!」


「分かりました」


 あまり待たせる意味もない。


「今日作ります」


「やった!」


「ただし、夕方です」


「今じゃないの?」


「今はまだ朝です」


「昼じゃだめ?」


「煮込む時間もありますし、夕食にします」


「長い」


「待ってください」


「何時?」


「夕方です」


「夕方のいつ?」


 エレナは困った。


 細かい時間など決めていない。


「できたら呼びます」


「忘れない?」


「忘れません」


「ほんと?」


「そんなに心配なら、マーサさんの家の近くで匂いを確認してください」


「分かった!」


 本当にやりそうだった。


「ずっと待っていては駄目ですよ」


「虫の道作る」


「そうしてください」


 ニコと別れ、ユウの家へ向かう。


 戸を叩く。


 返事がない。


 もう一度叩く。


「ユウさん?」


 しばらく待つ。


 やはり返事はなかった。


(寝ているのでしょうか)


 朝だ。


 けれど、ユウならあり得る。


 昨日言われたことを思い出す。


『寝てたら?』


『戸叩いて起きたら』


『起きなかったら?』


『諦めて』


 エレナは少し笑った。


「ユウさん」


 もう一度だけ呼ぶ。


 返事はない。


 それなら、今は諦めればいい。


 根菜を切るのはユウでなくてもできる。


 マーサもいるし、エレナ自身も切れる。


 約束したからといって、絶対にユウが参加しなければ料理を作れないわけではない。


「では、また後で来ます」


 聞こえているか分からない相手へそう言い、踵を返そうとした。


 その時、家の横から物音がした。


「あれ、エレナさん?」


 振り返る。


 ユウが家の裏から出てきた。


「起きていたのですか?」


「起きてたよ」


「何度も戸を叩きました」


「裏にいたから聞こえなかった」


 ユウの手には、削りかけの木材がある。


 表面はまだ粗く、片側が少しだけ細くなっていた。


「椅子ですか?」


「その練習」


 エレナの視線が木材へ向く。


「見せてください」


「これ?」


「はい。失敗したものも見たいと言いました」


「まだ失敗って決まってないけど」


「では、途中のものですね」


 ユウが木材を差し出す。


 エレナは両手で受け取った。


 ベルのところで何度か木を触っているので、以前より表面の違いが分かる。


「ここだけ少し深いですね」


「力入れすぎた」


「私も餌台でやりました」


「ベルさんに言われたよ。削った木は戻らないって」


「同じことを言われました」


「だから周り合わせようとしたら、もっと削りすぎた」


 エレナは思わず笑った。


「笑った?」


「すみません。私と同じだと思いまして」


「エレナさんは途中で止めたんだろ?」


「はい」


「俺は止めるの遅かった」


「次は早く止めればよいのでは?」


「そうする」


 ユウは木材を受け取る。


 捨てる様子はない。


「これはどうするのですか?」


「練習用だから、このまま使う」


「椅子には?」


「まだ使わない」


「そうですか」


 エレナは少しだけ残念に思った。


 けれど、完成品を見る約束はまだ先に残っている。


「ところで、どうしたの?」


 ユウが尋ねる。


「あ」


 本来の目的を思い出した。


「鶏肉が届きました」


「今日?」


「はい」


「じゃあ作る?」


「作りたいです」


「根菜切る日か」


「覚えていたのですね」


「さすがに三日前だから」


「忘れていたら呼びに来てと言っていました」


「覚えてたよ」


「では、夕方にマーサさんの家へ来ていただけますか?」


「夕方?」


「はい。夕食にします」


「分かった」


「ニコも来ます」


「やっぱり?」


「すでに見つかりました」


「見つかったんだ」


「オルドさんが鶏肉を持って歩いていたところを見ていたそうです」


 ユウが笑う。


「村、小さいから隠せないね」


「隠していたわけではありません」


「確かに」


「それから……」


 エレナは少し考える。


「マーサさんと私だけで作るのではなく、ユウさんにも手伝ってもらいます」


「根菜でしょ?」


「はい」


「それだけ?」


「何か他にもしたいですか?」


「別に。言われたことやるよ」


 その答えに、エレナは少しだけ首を傾げた。


「言われたことだけですか?」


「何かやってほしい?」


「いえ。ただ、一緒に何かした方が面白そうだと言っていたので」


「ああ」


 ユウは少し考える。


「じゃあ、行ってから何かあったらやる」


「はい」


「でも料理はエレナさんが作りたいんだろ?」


「そうです」


「なら俺がやりすぎない方がいいでしょ」


 エレナは目を瞬いた。


 それから、ゆっくり頷く。


「……はい」


 全部を手伝ってもらうことと、一緒に作ることは同じではない。


 自分がやりたい部分まで誰かに渡す必要はない。


「では、根菜をお願いします」


「了解」


「少し大きめです」


「覚えてる」


「本当に?」


「疑われてる」


「冗談です」


 ユウが笑った。


「夕方行くよ」


「待っています」


 その言葉を口にした時、エレナは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。


 待っています。


 以前なら、誰かを待つことは不安と結びついていた。


 来るのか。


 約束は守られるのか。


 自分は忘れられていないか。


 けれど、今は少し違う。


 ユウは夕方に来ると言った。


 だから、その頃まで自分は自分の時間を過ごせばいい。


「では、また後で」


「うん。また後で」


 エレナはマーサの家へ戻った。


 午前中は、特に料理の準備をしなかった。


 肉は冷える場所へ置き、根菜もそのままにする。


 今から切ってしまえば早いのだろうが、夕方にユウが来てから切ると決めている。


 だから今は別のことをした。


 ベルから借りた本を返すため、最後にもう一度好きだった話を読む。


 家の前へ椅子を出す老人の話。


 誰かが来る日もあれば、来ない日もある。


 それでも老人は、天気がよければ椅子を出す。


 読み終えると、本を閉じた。


「返すのかい?」


 マーサが尋ねる。


「はい。一度全部読みました」


「もう一度読みたいなら借りとけばいいじゃないか」


「好きなお話は読み直しましたので、今は返そうと思います」


「そうかい」


「また読みたくなったら、ベルさんに聞きます」


 持っていれば安心するからと、いつまでも抱えておく必要はない。


 読み終えた。


 返したい。


 なら返せばいい。


 エレナは本を持ってベルの家へ向かった。


 作業台の前にはベルがいた。


 ニコは少し離れたところで虫の道を作り続けている。


「ベルさん」


「おう」


「本を返しに来ました」


「もういいのか?」


「はい。全部読みました」


「早いな」


「時間がありましたから」


 ベルへ本を差し出す。


 彼は受け取る前に、表紙と角をざっと確認した。


「破れてねえな」


「破っていません」


「ならいい」


「とても面白かったです」


「そうか」


「特に、家の前へ椅子を出す老人のお話が好きでした」


 ベルの手が一瞬だけ止まった。


「婆さんもそれ好きだったな」


 エレナは目を上げた。


 以前、ベルはこの本を「婆さんのだ」と言っていた。


 詳しいことは聞かなかった。


 今日も、聞くつもりはなかった。


「そうだったのですね」


「ああ」


 ベルはそれだけ言って、本を受け取った。


 けれど、少ししてから自分から続ける。


「よく家の前に椅子出してた」


「その方もですか?」


「ああ。誰も来なくてもな」


 エレナは黙って聞く。


「ニコが小さい頃は、横に座らせてた」


「覚えてねえ!」


 離れたところからニコが叫んだ。


「お前は寝てたからな」


「寝てない!」


「寝てた」


 ベルが言う。


 ニコは納得していない顔をしていたが、すぐ虫の道へ戻った。


 エレナは少し笑った。


「素敵ですね」


「普通だ」


「普通でも、素敵なものはあると思います」


 ベルは返事をしなかった。


 ただ、本を持つ手が少しだけ優しくなったように見えた。


「また読みたくなったら、借りてもよいですか?」


「好きにしろ」


「ありがとうございます」


 エレナはそれ以上、本の持ち主について尋ねなかった。


 ベルが話したいところまで話した。


 それで十分だった。


 帰り際、ニコが顔を上げる。


「夕方、呼んでね!」


「忘れていません」


「何時?」


「できたらです」


「まだ決まってない?」


「料理ですから、少し前後します」


「匂いしたら行っていい?」


「走らないなら」


「分かった!」


 信用してよいのかは分からない。


 エレナは笑いながら家へ戻った。


 昼食を終えた後は、ユウから借りた物語集を少しだけ読んだ。


 一つ読み終えたところで閉じる。


 今日は料理を作る。


 だからといって、それまでずっと料理のことを考えている必要はなかった。


 午後の半ばには、マーサと一緒に洗濯物を取り込んだ。


 餌台の種を一羽の鳥が食べているところも見た。


 少し離れた場所から二人で眺め、飛び去った後にマーサが「ちゃんと使われてるね」と言った。


「はい」


 エレナはそれだけ答えた。


 鳥が来た。


 嬉しい。


 でも、それを記録しなければならないとは思わなかった。


 夕方が近づくと、いよいよ料理の準備を始めた。


 料理本を開き、必要なものを台所へ並べる。


 鶏肉。


 ガルドからもらった根菜。


 マーサが保存していた別の野菜。


 乾燥させた香草。


 塩。


 油。


「まず、お肉を焼くのですよね」


「本にはそう書いてあるんだろ?」


「はい」


「なら今日はそうしてみな」


 マーサは手を出さず、少し離れたところに立っている。


「マーサさんは?」


「聞かれたら答えるよ」


「一緒には作らないのですか?」


「エレナが作りたいんだろ?」


「はい」


「なら、まずやってみな」


 ベルと少し似ている。


 全部はやってくれない。


 必要なら聞ける。


 エレナは頷いた。


「分かりました」


 肉を扱う前に手を洗う。


 道具を確認する。


 料理本をもう一度見る。


 そこへ戸を叩く音がした。


「来たんじゃないかい?」


 マーサが言う。


 エレナは手を拭き、戸口へ向かった。


「はい」


 開ける。


 ユウが立っていた。


「来たよ」


「はい。待っていました」


 自然に答えられた。


「もう始めてる?」


「今からです」


「ちょうどよかった」


「入ってください」


「お邪魔します」


 ユウが入る。


 台所を見る。


「結構あるね」


「ニコの分もありますから」


「ニコは?」


「できたら呼ぶことになっています」


「来るまで待てるかな」


「待ってもらいます」


 ユウが手を洗う。


「俺、根菜?」


「はい」


 ガルドからもらった二本を渡す。


「少し大きめです」


「分かってる」


「どのくらいか確認しますか?」


「最初の一個切ったら見て」


「分かりました」


 ユウが包丁を持つ。


 エレナは鶏肉へ向き直った。


 自分の作業がある。


 それでも、隣でユウが根菜を切る音が聞こえている。


 マーサはさらに離れたところで、別の野菜を整理していた。


 一人ではない。


 けれど、自分が作っている。


 その感覚が心地よかった。


「エレナさん」


「はい?」


「これくらい?」


 ユウが切った根菜を見せる。


 エレナは確認する。


 自分が思っていたより、少し小さい。


「もう少し大きくてもよいです」


「これより?」


「はい」


「煮えるの時間かかるよ」


「今日は時間があります」


「じゃあ大きくする」


 ユウは次から少し大きく切る。


 最初に切った一つだけが小さい。


「これはどうします?」


「そのまま入れれば?」


「大きさが違います」


「一個くらいならいいんじゃない?」


 エレナは少し考えた。


 全部同じ大きさに揃えたい気持ちが、ほんの少しだけ出る。


 けれど、小さいから食べられないわけではない。


「……そのままにします」


「了解」


 最初の一つだけ小さい。


 それでいい。


 エレナは肉へ軽く塩を振り、鍋へ油を入れた。


「火は?」


 ユウが尋ねる。


「このくらいでしょうか」


「俺に聞いてる?」


「はい」


「マーサさんに聞いた方が確実じゃない?」


「ユウさんにも聞いてみました」


「じゃあ、ちょっと強いかも」


「マーサさんは?」


「私なら少し落とすね」


 二人とも同じ意見だった。


 エレナは火を弱める。


「聞いてよかったです」


 肉を鍋へ入れる。


 音が立つ。


 思っていたより大きな音に少し驚いたが、慌てずに本の手順を思い出す。


 表面を焼く。


 すぐ動かさない。


 焦げそうなら火を調整する。


 途中で一度、焼き色が足りない気がして動かそうとした。


「まだじゃない?」


 ユウが言う。


「そう思いますか?」


「たぶん」


「マーサさん?」


「もう少し待ってみな」


「分かりました」


 待つ。


 何もしない。


 鍋の中で肉が焼ける音だけを聞く。


 少しして裏返すと、思っていたよりきれいな焼き色がついていた。


「あ」


「いいじゃん」


「はい」


 嬉しい。


 けれど、まだ料理は終わっていない。


 ユウが切った根菜と、別の野菜を入れる。


 水を加える。


 香草を少し。


「これくらいでしょうか」


「最初は少なくていいよ」


 マーサが言う。


「足りなきゃ後で足せるからね」


「入れすぎたものは戻せませんものね」


「木と同じだね」


 ユウが言った。


「確かに」


 三人で笑う。


 鍋が温まり始める。


 ここからは煮込む時間だった。


「……することがなくなりました」


 エレナが言う。


「煮えるの待つだけだからね」


 マーサが答える。


「ずっと見ていなくてもよいのですか?」


「時々見りゃいい」


「焦げませんか?」


「火が強すぎなきゃね」


 エレナは鍋を見る。


 待つ。


 また待つ。


 料理にも、何もしない時間があるらしい。


「座る?」


 ユウが尋ねる。


「料理中なのですが」


「鍋見えるところにいればいいでしょ」


 マーサも頷く。


「立ってても早く煮えないよ」


「……そうですね」


 エレナは台所の端にある椅子へ座った。


 ユウも向かいへ座る。


 マーサは自分の作業へ戻った。


「椅子の練習、どうでした?」


 エレナが尋ねる。


「今日の?」


「はい」


「昨日よりはマシ」


「また削りすぎましたか?」


「今日は途中で止めた」


「見たいです」


「今度持ってくる」


「はい」


「エレナさんは?」


「何がですか?」


「今日、料理以外に何してた?」


 何気ない問いだった。


 エレナは少し考える。


「ベルさんに本を返しました」


「読み終わったんだ」


「はい。好きなお話をもう一度読んでから返しました」


「どれ?」


「家の前へ椅子を出す老人のお話です」


 ユウが少し笑う。


「椅子の話?」


「ユウさんが作ろうとしているから好きなのではありません」


「言ってないけど」


「……そうですね」


 先に否定してしまった。


 少し恥ずかしくなる。


「どんな話?」


 ユウは気にした様子もなく尋ねる。


 エレナは内容を説明した。


 老人は天気のよい日に椅子を出す。


 誰かが来れば話す。


 誰も来なければ一人で空を見る。


 それだけの話。


「いいね」


 ユウが言う。


「ユウさんも好きですか?」


「たぶん」


「読んでいないのに?」


「話聞いた感じ」


「そうですか」


 少し嬉しい。


「ベルさんの大切な方も、そのお話が好きだったそうです」


「へえ」


「家の前に椅子を出していたそうです。ニコが小さい頃は隣に座らせていたと」


「ニコ覚えてる?」


「覚えていないそうです」


「だろうね」


「どうしてです?」


「ニコだし」


「理由になっていません」


 話しているうちに、鍋からよい匂いがし始めた。


 エレナは立ち上がる。


「見てきます」


 蓋を開ける。


 湯気が上がる。


 根菜はまだ少し硬い。


「まだですね」


「じゃあもう少し」


 マーサが言う。


 蓋を戻す。


 また座る。


 待つ。


 以前のエレナなら、この待つ時間に何か別の仕事を探したかもしれない。


 手が空いているなら、何かしなければならない。


 けれど今日は、ユウと話しながら鍋が煮えるのを待っている。


 それも料理の時間だった。


 しばらくして、外から足音が聞こえた。


 戸が叩かれる。


「まだ!?」


 ニコだった。


 マーサが大きなため息をつく。


「匂いで来たね」


 エレナは笑いながら戸を開けた。


「まだです」


「もう匂いする!」


「匂いがしても完成ではありません」


「あとどれくらい?」


「分かりません」


「分かんないの?」


「根菜が柔らかくなったらです」


「じゃあ見る」


「何をです?」


「根菜」


「見ても柔らかさは分かりませんよ」


「触る」


「熱いので駄目です」


「じゃあ待つ」


 ニコは勝手に家へ入りそうになり、途中で止まる。


「入っていい?」


 ちゃんと聞いた。


「マーサさん?」


「入んな。邪魔しなきゃね」


「やった!」


 ニコが入ってくる。


 椅子はもうないので、床の端へ座った。


「ユウ兄ちゃんもいる」


「根菜切ったから」


「俺もなんかやる」


「もう煮ています」


「何もない?」


 エレナは考える。


 何か仕事を作る必要はない。


「今はありません」


「じゃあ待つ」


「はい」


 ニコも加わって、四人で鍋を待つことになった。


 マーサは作業。


 ユウは椅子。


 エレナも椅子。


 ニコは床。


 誰も急いでいない。


 少しして、ニコが口を開く。


「まだ?」


「まだです」


 さらに少しして、


「まだ?」


「まだです」


 三度目に聞かれた時、エレナは笑ってしまった。


「ニコ」


「なに?」


「聞いても早くはできません」


「分かってる」


「では、少し待ってください」


「分かった」


 ニコは今度こそ黙った。


 その後、鍋を確認すると根菜がかなり柔らかくなっていた。


 エレナは小さな皿へ煮汁を取り、味を見る。


 少し薄い。


「マーサさん」


「自分ではどう思う?」


「少し薄いと思います」


「ならどうする?」


「塩を少し足します」


「やってみな」


 少量だけ加える。


 混ぜる。


 もう一度味を見る。


「……今度はよいと思います」


「私にも」


 マーサが味を見る。


「うん。これならいい」


「ユウさんも」


「俺も?」


「食べるのですから」


 ユウにも小さな匙で渡す。


「美味しい」


「本当ですか?」


「うん」


「まだ完成前ですよ」


「もうほぼ完成じゃない?」


「根菜を確認します」


 今度は一つ取り出す。


 ユウが最初に切った、小さい一つだった。


 柔らかくなりすぎて少し端が崩れている。


「あ」


 エレナが声を漏らす。


「俺の最初のやつだ」


「崩れました」


「食べられる?」


「食べられます」


「じゃあいいんじゃない?」


 エレナは崩れた根菜を見る。


 一つだけ形が違う。


 でも、味は同じだろう。


「そうですね」


 鍋へ戻す。


「完成にします」


「できた!?」


 ニコが立ち上がる。


「はい。たぶん」


「たぶん?」


「初めてですから」


「食べれば分かるよ」


 マーサが笑う。


 食卓へ料理を運ぶ。


 エレナが作った鶏肉の煮込みが、大きな器の中央に置かれた。


 湯気と一緒に、鶏肉と香草の匂いが広がる。


 ニコはすぐに手を伸ばそうとして、マーサに止められた。


「全員座ってからだよ」


「もう座ってる!」


「ユウがまだだ」


 ユウが最後の皿を運び、席へ着く。


 四人で食卓を囲む。


 エレナは自分の皿へ料理を取った。


 少し緊張する。


 作っている途中で何度か味を見た。


 食べられることは分かっている。


 それでも、料理として食卓へ出して誰かに食べてもらうのは違う。


「エレナお姉ちゃん、食べていい?」


「どうぞ」


 ニコが最初に食べた。


「熱っ」


「だから気をつけてください」


 息を吹きかけ、もう一度口へ入れる。


「うまい!」


 あまりにも早い感想だった。


「ちゃんと味わいましたか?」


「食べた!」


「それは見ていました」


 マーサも食べる。


「うん。いいじゃないか」


「本当ですか?」


「最初なら十分だよ。肉も硬くない」


「よかったです」


 そして、ユウが食べる。


 エレナは無意識にその様子を見ていた。


 一口。


 噛む。


 飲み込む。


「美味しいよ」


 ユウが言った。


 胸の奥が、ふっと軽くなる。


「……よかったです」


「根菜大きいのもいいね」


「私が大きめにしてほしいと言いました」


「俺が切った」


「知っています」


「俺の仕事も成功?」


「はい」


 エレナは笑う。


「最初の一つだけ崩れましたけれど」


「それも食べられる」


「そうですね」


 食事が始まる。


 ニコは鶏肉を先に食べ、根菜を後へ残した。


 マーサに「野菜も食べな」と言われ、渋々口へ運ぶ。


 ユウは普通に食べている。


 エレナも自分の料理を食べる。


 美味しい。


 けれど、次に作るなら香草をもう少し少なくしてもよい気がした。


「マーサさん」


「なんだい?」


「次は香草を少し減らしてみたいです」


「いいんじゃないかい」


「肉を焼かない方法も試してみたいです」


「作りたくなったらね」


「はい」


 次があると決まったわけではない。


 でも、次を考えてもいい。


「また作って!」


 ニコが言う。


「次があるとは言っていません」


「今言ってた!」


「作りたくなったら、です」


「じゃあ作りたくなって」


「それは私が決めます」


「えー」


「ニコ」


 マーサが名前を呼ぶ。


「作ってもらったもんに次も頼むんじゃないよ」


「でも美味しい」


「なら今日は美味しいって食べな」


 ニコは少し考えた。


「美味しい!」


「それでいい」


 エレナはそのやり取りを聞きながら、自分の皿を見る。


 今日美味しい。


 それだけでいい。


 次も作らなければならない理由にはならない。


 けれど、また作りたいと思うなら作っていい。


 ユウがこちらを見る。


「どうしたの?」


「いえ」


 エレナは首を振る。


「楽しいと思いまして」


「料理?」


「それもです」


 食卓を見る。


「一緒に作って、こうして食べることが」


 言葉にしても、恥ずかしくなかった。


 マーサがいる。


 ニコがいる。


 ユウがいる。


 誰かのために完璧な料理を用意したのではない。


 みんなが少しずつ関わった。


 オルドが鶏肉を用意した。


 ガルドが根菜をくれた。


 マーサが教えた。


 ユウが切った。


 ニコは待った。


 自分が作った。


「またやればいいじゃん」


 ニコが言う。


「だから、次はまだ――」


「料理じゃなくても」


 エレナは言葉を止めた。


 ニコは根菜を食べながら続ける。


「なんか一緒にやればいいじゃん」


 子どもらしい、単純な言葉だった。


 エレナは少しだけ目を細める。


「……そうですね」


 料理でなくてもいい。


 豆を見る。


 本を読む。


 鳥を待つ。


 変な芋を見る。


 何かを作る。


 何もしないで話す。


 一緒にできることは、思っていたよりたくさんある。


 食事を終える頃には、鍋の中身はほとんどなくなっていた。


 少しだけ残った分は、マーサが明日の朝に食べると言った。


「私も食べます」


「作った本人が残り物食べなくてもいいんだよ」


「食べたいからです」


「なら食べな」


「はい」


 ニコは満腹になったらしく、椅子にもたれている。


「眠い」


「帰れる?」


 ユウが尋ねる。


「帰れる」


「走るなよ」


「走らない」


 今日は本当に走れそうになかった。


 少し休んでから、ニコは帰っていった。


「じいちゃんに美味しかったって言う!」


「ベルさんによろしくお伝えください」


「うん!」


 戸の外へ出た後も、今度は走らず歩いていく。


 エレナはその背中を見送った。


 食器を片づける。


 ユウも立ち上がった。


「俺もやるよ」


「お客様なのですから、座っていてもよいですよ」


「根菜切ったから客じゃないんじゃない?」


「そういうものですか?」


「知らないけど」


 ユウは使った皿を運ぶ。


 エレナも止めなかった。


 二人で食器を台所へ運び、マーサが洗い、エレナが拭く。


 ユウは机を拭いた。


 全部を一人でやる必要はない。


 誰がどこまでと厳密に決める必要もない。


 その時にできる人が、できることをする。


 片づけが終わると、ユウは帰ることになった。


 外はすでに夕暮れに近い。


 エレナは戸口まで見送る。


「今日はありがとうございました」


「俺、根菜切っただけだけど」


「それがよかったです」


「そう?」


「はい。一緒に作った感じがしました」


 ユウは少しだけ笑った。


「俺も面白かったよ」


 以前、彼が言った言葉と同じだった。


 一緒に何かした方が面白そう。


 実際にやってみて、面白かった。


「また何か、一緒にできたらよいですね」


 エレナは自然に言った。


「うん」


「料理でなくても」


「ニコと同じこと言ってる」


「今、私もそう思ったのです」


「じゃあ何かあったら」


「はい」


 少し間が空く。


 エレナは昨日までなら「何か見つけたら誘ってください」と続けたかもしれない。


 けれど、今日は違う言葉が浮かんだ。


「私も、何かあったら誘います」


 ユウがエレナを見る。


「うん。誘って」


「はい」


 片方だけではない。


 ユウが見つけたものへ誘ってもらうだけではなく、自分が見つけたものへユウを誘ってもいい。


 当たり前のことなのに、今まで明確には考えていなかった。


「じゃあ、また明日」


 ユウが言う。


「明日、会う約束をしていましたか?」


「してない」


「では、会わないかもしれませんよ」


「村小さいから、たぶん会うでしょ」


「そうですね」


 二人で笑う。


「おやすみ、エレナさん」


「おやすみなさい、ユウさん」


 ユウが歩いていく。


 エレナは少しの間、その背中を見送った。


 それから家へ戻る。


 夜、自室の机へ向かう前に、借りた料理本を開いた。


 挟んでいた紙片を取り出す。


『最初は肉を焼く。次は焼かない方法も試す』


 その下へ、新しい一行を書き足した。


『香草は、次に作るなら少し少なくてもよい。』


 さらに、


『根菜は大きめが好き。小さい一つは崩れたが、食べられた。』


 と書く。


 正解を書いているのではない。


 今日、自分がそう思ったことを残している。


 次に作った時、気が変わってもいい。


 紙片を本へ戻す。


 次に、日々の記録を開いた。


『オルドさんから鶏肉を受け取った。』


『ガルドさんの根菜を使った。』


『マーサさんに教えてもらいながら、鶏肉の煮込みを作った。』


『ユウさんが根菜を切った。最初の一つだけ小さかった。』


 そこまで書き、エレナは笑う。


『ニコも食べた。美味しいと言ってくれた。』


 さらに書く。


『私は、また作りたくなったら作る。』


 筆を止める。


 今日一日を振り返る。


 料理が成功したことだけではない。


 もっと残したいものがあった。


『一人で全部やらなくても、自分が作ったと言ってよいと思った。』


 エレナはその一文をしばらく見た。


 鶏を育てたのはオルド。


 根菜を育てたのはガルド。


 料理を教えたのはマーサ。


 切ったのはユウ。


 それでも、自分は今日「料理を作った」と思っている。


 誰かに助けてもらったから、自分がしたことではなくなるわけではない。


(昔は、そう思えなかったかもしれません)


 助けられれば、自分の力ではない。


 教えられれば、一人ではできない証拠。


 妹なら一度でできる。


 自分は何度も教わらなければならない。


 そんなふうに考えていた。


 今は少し違う。


 教わった。


 手伝ってもらった。


 それでも、自分でやった。


 その両方が同時にあっていい。


 次に、ユウについての紙を取り出す。


『ユウさんと一緒に料理を作った。』


 書いてから、少し考える。


『ユウさんは根菜を切った。私が思っていたより最初の一つが小さかった。次から大きくしてくれた。』


 少しだけ可笑しい記録だった。


 でも残す。


『美味しいと言ってくれた。嬉しかった。』


 さらに続ける。


『また何か一緒にできたらよいと言った。ユウさんも、うん、と言った。』


 最後に、


『次は、私からも誘う。』


 と書いた。


 そこまで書いて、エレナは筆を置いた。


 今日は、東側の警戒線から音はしなかった。


 新しい痕跡が見つかったという話もない。


 三軒目の家についての返事も来なかった。


 自分の追放がこれからどうなるのかも、分からないままだ。


 大きなことは、何も解決していない。


 けれど、机の上には借りた本があり、台所には明日の朝に食べる煮込みが少し残っている。


 家の外には、自分が作った鳥の餌台がある。


 ベルのところでは、ニコの虫の道が少しずつ伸びている。


 ユウは、昼寝用の椅子を作るために木を削る練習をしている。


 どれも小さなことだった。


 それでも、それぞれが途中にある。


 終わっていないことが、必ずしも不安とは限らない。


(続きがあるということでも、あるのですね)


 エレナは窓辺へ立った。


 夜の村には、いくつかの灯りが見える。


 どの家が誰のものなのか、以前より分かるようになった。


 マーサの家。


 ベルとニコのいる方角。


 少し離れたガルドの家。


 そして、ユウの家。


 その灯りを見つけた時、エレナの口元が自然に緩んだ。


 明日、会う約束はしていない。


 それでも、たぶん会う。


 会わなければ、その次の日でもいい。


 もし自分が何か見つけたなら、今度は自分から誘えばいい。


 エレナは窓を閉じた。


 明日何をするのかは、まだ決めない。


 今夜は今日作った料理が美味しかったことだけ覚えて、眠ればいい。


 それで十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。