第49話 作ってみたい料理
翌朝、エレナが台所へ入ると、マーサはすでに芋を洗っていた。
窓から差し込む朝の光が桶の水へ反射し、濡れた芋の表面を明るく照らしている。外では鶏の鳴き声が遠くから聞こえていたが、餌台へ鳥が来ているかどうかは、まだ確認していなかった。
「おはようございます」
「おはよう。今日は早いね」
「いつもと、それほど変わらないと思います」
「私より先に台所へ来る日が増えたってことさ」
マーサは芋を一つ持ち上げると、土が残っていないか確かめてから籠へ移した。
エレナは棚から朝食用の皿を出しながら、昨夜机の上へ置いた料理本を思い出す。ユウの家から借りてきた本には、村で手に入りやすい材料を使った料理がいくつも載っていた。
その中でも、昨日から気になっているものがある。
「マーサさん」
「なんだい?」
「昨日お話しした、鶏肉の煮込みなのですが」
「ああ。ユウから借りた本に載ってたやつかい」
「はい」
エレナは一度言葉を止めた。
作りたいと思っている。
それ自体は、もう迷っていない。
「今日、作ってみてもよいでしょうか」
マーサが芋を洗う手を止める。
「今日?」
「はい。材料があれば、ですが」
「鶏肉がないね」
「やはり、そうですよね」
昨日のうちに分かっていたことだったので、落胆するほどではない。
オルドのところへ行けば、卵については聞けるかもしれない。けれど、鶏肉はいつでも好きな時に手に入るものではなく、肉にする予定の鶏がいるかどうかも自分には分からなかった。
「オルドさんに、次に鶏肉を分けてもらえる時があるか聞いてみようと思っています」
「聞くのはいいんじゃないかい」
「今日あるか、ではなくて?」
「今日あるなら今日でもいいだろうけど、なきゃ待てばいいだけさ」
「そうですね」
エレナは頷いた。
作りたいと思った。
だからといって、今日必ず作らなければならないわけではない。
「では、朝食の後に聞いてきます」
「そうしな」
「マーサさんの作り方も、その時に教えてください」
「本の通りに作らなくていいのかい?」
「本も読みます。でも、同じ料理でも作る人によって違うのでしょう?」
「そりゃ違うよ。家にあるもので作るんだからね」
「でしたら、両方知りたいです」
マーサは少しだけ口元を緩めた。
「欲張りになったね」
「……そうでしょうか」
「いい意味でさ」
エレナは皿を並べる手を止め、少し考えた。
以前なら、何か一つ正しい方法を知ろうとしていたかもしれない。
料理なら正しい切り方、正しい火加減、正しい味。
礼儀作法なら正しい姿勢、正しい言葉、正しい順序。
間違えないために一つの答えを覚え、その通りにできるようになることを求められてきた。
(でも、ここでは違うやり方があってもよいのですね)
本の作り方。
マーサの作り方。
自分が実際に作ってみて、次に変える作り方。
最初から一つに決めなくてもいい。
朝食を終える頃には、外から聞こえる人の声も増えていた。
エレナは片づけを済ませると、借りた料理本を部屋から持ってきた。オルドへ材料を聞くだけなら本を持っていく必要はないが、どの部位をどれくらい使うのか自分でも確認しておきたかった。
「本まで持ってくのかい?」
「途中で忘れるかもしれませんから」
「真面目だねえ」
「忘れて二度往復するよりはよいと思います」
「それもそうか」
マーサに見送られ、外へ出る。
餌台には鳥はいなかった。
種が少し減っているようにも見えたが、エレナは立ち止まって確かめなかった。
今日はオルドのところへ行きたい。
それで十分だった。
道を歩いていると、ベルの家の前にニコがいた。
しゃがみ込み、細い木片を地面へ何本も並べている。
「おはようございます、ニコ」
「おはよう、エレナお姉ちゃん!」
「今日は何を作っているのですか?」
「道」
「道?」
「虫の」
エレナはニコの足元を見る。
昨日まで作っていた小さな橋から続くように、細い木片が地面へ並べられていた。どうやら虫が通るための道を作っているらしい。
「虫は、この道を使うのでしょうか」
「分かんない」
「分からないのに作るのですか?」
「うん」
迷いのない返事だった。
「通るかもしれないから」
エレナは少し笑う。
「通らなかったら?」
「別の虫が通るかもしれない」
「それでも通らなかったら?」
「またなんか作る」
ニコにとっては、虫が必ず通ることが目的ではないらしい。
作りたいから作る。
通ったら嬉しい。
通らなくても、次を考える。
「よいと思います」
「エレナお姉ちゃんも作る?」
「今日はやめておきます」
「なんで?」
「鶏肉を聞きに行くからです」
「鶏食べるの?」
「煮込み料理を作ってみたいのです」
「俺も食べたい」
「まだ作れるかも分かりませんよ」
「作ったら食べたい」
「たくさんできたら考えます」
「やった!」
「まだ考えると言っただけです」
ニコはすでに食べられるつもりらしく、木片を並べる作業へ戻った。
エレナは苦笑しながら歩き出す。
オルドの家へ近づくにつれ、鶏の声が大きくなった。
囲いの中では何羽もの鶏が地面をつつき、時折羽を広げて場所を移動している。オルド本人は囲いの外で水入れを洗っていた。
「おはようございます、オルドさん」
「おう、エレナか」
名前を呼ばれる。
もう村の人から「エレナ」と呼ばれることには、少しずつ慣れてきた。
それでも、嫌ではない。
むしろ、以前より自然に振り返れるようになっている。
「今日は卵か?」
「いえ。今日は少し違うことを聞きに来ました」
「鶏は追うなよ」
「追いません」
名前を知った後も、オルドが最初に言うことはほとんど変わらない。
それが少し嬉しかった。
「鶏肉を使った料理を作ってみたいのですが、次にお肉を分けていただけるのはいつ頃でしょうか」
「肉?」
「はい。急ぎではありません」
オルドは水入れを置き、囲いの中を見る。
「何作る」
「根菜と一緒に煮る料理です」
「どれくらいいる?」
エレナは料理本を開き、該当する頁を見る。
「本では、このくらいと書いてあります。ただ、マーサさんと私の分、それから……」
言葉が止まる。
「それから?」
オルドが聞く。
「ユウさんにも食べてもらいたいと思っています」
「あいつ鶏好きだからな」
「ご存じなのですか?」
「前に分けた時、喜んでた」
「そうだったのですね」
「ニコも食いたがるぞ」
「もう言われました」
オルドが笑った。
「なら多めだな」
「無理のない範囲で構いません」
「今日じゃなくていいんだな?」
「はい」
「なら二、三日待て」
エレナは顔を上げる。
「分けていただけるのですか?」
「肉にする予定のがいる。今日じゃねえ」
「分かりました」
「明日でもねえぞ」
「はい」
「二、三日だ」
「その頃に、また聞きに来ます」
「俺が言う」
「え?」
「用意できたら言う。毎日来なくていい」
エレナは少し驚き、それから笑った。
「分かりました。では、待っています」
「そうしろ」
オルドは再び水入れを洗い始めた。
用意ができるまで待つ。
毎日確認しなくていい。
エレナは本を閉じた。
「ありがとうございます」
「まだ肉渡してねえぞ」
「予定を教えていただいたお礼です」
「そうか」
オルドはそれ以上何も言わなかった。
帰ろうとしたところで、一羽の鶏が囲いの内側からエレナの方へ近づいてきた。
以前なら、もう少し近くで見ようとして動いたかもしれない。
今日はその場に立ったまま眺める。
「追うなよ」
「追っていません」
「追いそうな顔してる」
「どのような顔ですか、それは」
オルドが笑った。
エレナも笑いながら、その場を離れた。
料理は今日ではない。
それなら今日は何をしようか。
道を戻りながら考えていると、向こうからガルドが籠を抱えて歩いてきた。
「おう、エレナ!」
「おはようございます、ガルドさん」
「ちょうどいい!」
ガルドが大きな声を出す。
何がちょうどいいのか分からないまま、エレナは足を止めた。
「これ見ろ」
差し出された籠の中には、土のついた根菜が入っている。
「立派ですね」
「だろう!」
「収穫したのですか?」
「朝な。こっちはちょっと小さいが、食うには問題ねえ」
ガルドは籠の中から一本を取り出す。
確かに他より細い。
「エレナ、いるか?」
「いただいてよいのですか?」
「持ってけ」
「では、一つだけ」
「三つ持ってけ」
「一つで十分です」
「二つ」
「なぜ交渉になっているのですか?」
「一つじゃ寂しいだろ」
「根菜は寂しがるのですか?」
「知らん!」
ガルドが豪快に笑う。
結局、エレナは二本受け取った。
「ありがとうございます」
「何にする?」
「鶏肉と煮る料理を作ろうと思っています。ただ、お肉が用意できるのは二、三日後だそうです」
「ならちょうどいい!」
「何がでしょう」
「根菜ある!」
「確かにありますね」
「足りなきゃ言え!」
「まずはこの二本を使います」
「そうしろ!」
ガルドは満足したように歩いていった。
エレナは両手の根菜を見る。
料理を作るのは数日後。
けれど、材料の一部はもう手元にある。
(なんだか、少しずつ準備が進んでいますね)
だからといって急ぐ必要はない。
根菜が傷まないよう保存しておけばいい。
マーサの家へ戻ろうとしたところで、横道からユウが出てきた。
手には小さな木片と削るための道具を持っている。
「おはよう、エレナさん」
「おはようございます、ユウさん」
やはり、ユウに名前を呼ばれると、他の人とは少し違う。
その理由はまだ考えないことにした。
「それ、ガルドさんの?」
「はい。二本いただきました」
「何作るの?」
「昨日の料理本に載っていた、鶏肉の煮込みです」
「もう作るの?」
「いいえ。オルドさんに聞いたところ、お肉を分けていただけるのは二、三日後だそうです」
「そっか」
「用意できたら教えてくださるそうなので、それまで待ちます」
「いいね」
「はい」
エレナはユウの手元を見る。
「ユウさんは、それをどうするのですか?」
「椅子」
「もう作るのですか?」
「まだ作らないよ」
「では、その木は?」
「ベルさんのところ行ったら、まず小さい木で削る練習しろって渡された」
「昼寝用の椅子ですね」
「そう」
エレナは少し驚いた。
昨日話していた、いつか作りたいもの。
それを今日、もう始めている。
「急がないのではなかったのですか?」
「急いでないよ」
「でも、もう始めています」
「やりたくなったから」
ユウは当たり前のように答えた。
エレナはその言葉を少し考える。
急がないことと、今やってはいけないことは違う。
いつかやるものでも、今日やりたくなれば始めていい。
「なるほど」
「何?」
「いえ。私も、鶏肉が今日あったら今日作っていたかもしれないと思いまして」
「なかった?」
「二、三日後です」
「じゃあ二、三日後だね」
「はい」
簡単な話だった。
「ところで」
エレナは少しだけ声を整える。
「煮込みができたら、食べていただけますか?」
「昨日も聞かなかった?」
「確認です」
「食べるよ」
「ありがとうございます」
「でも俺の分のために肉増やさなくていいからね」
「オルドさんが、ニコも食べたがるだろうから多めだと言っていました」
「ニコも?」
「もう本人から予約されています」
「早いな」
「まだ作ってもいないのですが」
二人で笑う。
「エレナさん」
「はい?」
「作る時、俺も何か持ってこうか?」
思っていなかった言葉だった。
「何か、とは?」
「材料とか。食べるだけだと悪いし」
エレナは少し考える。
以前の自分なら、きっと断った。
自分が作ると言ったのだから、自分で全部用意しなければならないと思っただろう。
けれど、村で暮らしているうちに、そうではないことを何度も知った。
ガルドから根菜をもらった。
鶏肉はオルドから分けてもらう。
作り方は本とマーサから教わる。
自分一人だけで完成させる必要はない。
「では、何か合いそうなものがあればお願いします」
「何がいい?」
「まだ分かりません」
「じゃあ本見て考える?」
「はい」
ユウが少し考えた後、木片を持ち直す。
「今、本ある?」
「マーサさんの家です」
「後で見に行っていい?」
エレナは一瞬、返事が遅れた。
昨日は自分がユウの家へ行った。
今日はユウが、自分のいる場所へ来ると言っている。
もちろんマーサの家であり、自分だけの家ではない。
それでも、胸の内側が少し温かくなる。
「はい。もちろんです」
「じゃあ、これベルさんに返してから行く」
「練習は?」
「ちょっとやった」
「もう終わりですか?」
「今日はね」
「そうですか」
「やりすぎて嫌になると困るし」
ユウらしい理由だった。
「では、後ほど」
「うん」
別れてマーサの家へ戻る。
根菜を見せると、マーサは「ガルドらしいね」と笑った。
「二本で済んだのかい?」
「最初は三本と言われました」
「よく減らしたね」
「交渉しました」
「成長したもんだ」
「そこが成長なのですか?」
マーサと話しながら、根菜の土を軽く落として保存する。
すぐ使わない。
けれど、数日後に使う。
その程度の未来なら、今は楽しみにしてもよい気がした。
午前の残りは、ベルから借りた『丘を越えたパン屋』を読んだ。
五つ目の話は、毎日同じ場所へ椅子を出す老人の話だった。
老人は誰かを待っているわけではない。
ただ、天気のよい日に家の前へ椅子を出して座る。
ある日は隣に子どもが座り、別の日には旅人が座る。
誰も来ない日は一人で空を見る。
最後まで大きな出来事は起こらなかった。
エレナはその話を二度読んだ。
(好きですね)
理由を説明しろと言われると難しい。
何も起こらないからかもしれない。
誰かが来てもいい。
来なくてもいい。
老人はそれでも椅子を出す。
読み終えたところで、戸が叩かれた。
「はい」
立ち上がる。
戸を開けると、ユウがいた。
「こんにちは、エレナさん」
「こんにちは、ユウさん」
名前を呼ばれたことに、やはり小さく胸が動く。
「入っても?」
「はい。マーサさんもいます」
「知ってる」
「そうですね」
自分でも変なことを言ったと思い、エレナは少し笑った。
「ユウかい?」
奥からマーサの声がする。
「お邪魔します」
「好きに入りな」
ユウが中へ入る。
手には何も持っていなかった。
「木片は?」
「ベルさんに見せて置いてきた」
「どうでした?」
「力入れすぎだって」
「削りすぎたのですか?」
「少し」
「難しいのですね」
「魔法でやった方が百倍楽」
「でも、手で作りたいのでしょう?」
「今のところは」
今のところ。
その言葉も、エレナは好きになり始めていた。
変わってもいい余地がある。
「料理本はこちらです」
机の上に置いていた本を開く。
ユウも隣の椅子へ座った。
マーサは台所で何かを繕っているらしく、こちらへ口を出してこない。
「これです」
鶏肉の煮込みの頁を見せる。
「根菜、香草、塩、油……」
「香草ある?」
「マーサさん?」
エレナが声をかける。
「あるよ。乾かしたのが少しね」
「だそうです」
「じゃあ俺いらなくない?」
「そうなりますね」
「何か持ってきたいんだけど」
「どうしてですか?」
エレナが尋ねると、ユウは少し考えた。
「食べるから?」
「それだけですか?」
「あと、エレナさんが作るなら一緒に何かした方が面白そうだから」
エレナはユウを見る。
その言葉が、予想していたより嬉しかった。
対価として材料を持ってくるのではない。
食べる分を返さなければならないからでもない。
一緒に何かしたら面白そうだから。
「では……」
料理本へ視線を戻す。
「ユウさんは、何ができますか?」
「料理で?」
「はい」
「切るくらい」
「本当ですか?」
「そのくらいはできるよ」
「以前、料理をしていたのでしたね」
「適当にね」
「では、根菜を切っていただきますか?」
「いいよ」
「でも、ガルドさんからいただいたものなので、失敗しないでくださいね」
「急に責任重くなった」
「冗談です」
「エレナさん、そういう冗談言うようになったね」
言われて、エレナは少し驚いた。
「以前は言っていませんでしたか?」
「あんまり」
「そうですか」
自分では意識していなかった。
この村へ来たばかりの頃は、冗談を言う余裕などなかった。
誰かの言葉の裏を読み、自分の返事が失礼ではないかを考え、何をすれば追い出されずに済むのかばかり気にしていた。
今は、ユウが根菜を失敗するかもしれないなど、本気では考えていない。
だから軽く言える。
「嫌でしたか?」
「全然」
「では、また言うかもしれません」
「どうぞ」
ユウが笑う。
エレナも笑った。
マーサが台所からこちらを見ていたが、何も言わなかった。
「ユウさん」
「ん?」
「この料理なのですが、本には肉を最初に焼くとあります」
「うん」
「マーサさんは?」
「私は焼かない時もあるよ」
台所からすぐ答えが返ってきた。
「違うのですか?」
「肉によるし、時間にもよるし、その日の気分にもよる」
「気分でも変えるのですか?」
「料理なんてそんなもんだよ」
エレナは本を見る。
そこには、肉の表面を焼いてから水と根菜を加えると書いてある。
「どちらが正しいのでしょう」
「どっちも食えるなら正しいんじゃない?」
ユウが言う。
「ユウさんまで」
「俺は適当だから参考にしない方がいいけど」
「それでは困ります」
エレナは少し考えた。
「最初は本の通りにしてみます」
「いいんじゃない?」
「次に作りたくなったら、マーサさんの方法も試します」
「それでいいさ」
マーサが答える。
正しいものを一つ選ばなくてもいい。
まず一つ試す。
次は変えてみる。
エレナは料理本の余白へ何か書こうとして、手を止めた。
「どうしたの?」
「借りた本でした」
「書こうとした?」
「はい」
「紙挟めば?」
「あ」
昨日見つけた、ユウの一行だけの紙片を思い出す。
「そうします」
小さな紙を用意し、
『最初は肉を焼く。次は焼かない方法も試す』
と書いた。
それを頁へ挟む。
「ユウさんと同じですね」
「俺?」
「窓の隙間へ布を詰める、と書いていたでしょう?」
「ああ」
「真似しました」
「いいと思う」
エレナは紙片を少しだけ奥へ入れ、落ちないようにする。
その後もしばらく三人で料理の話をした。
マーサは根菜を大きく切りすぎると火が通るまで時間がかかると言い、ユウは「小さすぎると崩れる」と付け加えた。
「では、どのくらいがよいのですか?」
「好きな大きさ」
「また答えが増えました」
「食べたい大きさでいいんだよ」
マーサが笑う。
「最初から完璧な大きさなんて分からないさ。作って、次に変えればいい」
エレナは頷いた。
「では、少し大きめにしてみます」
「なんで?」
ユウが聞く。
「煮込んだ根菜を食べた時、大きい方が好きだからです」
「もう答えあるじゃん」
「……確かに」
自分がどう食べたいか。
それも料理の決め方になる。
以前なら、教わった通りに切ることしか考えなかっただろう。
「では、少し大きめです」
「了解」
「ユウさんが切るのですよ?」
「分かってる」
「大きさは私が確認します」
「厳しいな」
「冗談です」
今度は自分から言えた。
ユウが笑う。
マーサまで声を立てて笑った。
その日の昼食をユウも一緒に食べることになった。
鶏肉の煮込みではない。
残っていた野菜と豆を使った簡単なスープだったが、料理本を開いたまま三人で食卓を囲んでいると、数日後の料理がすでに少し始まっているような気がした。
食後、ユウは帰る前に本を指差した。
「作る日決まったら教えて」
「はい」
「俺、根菜切るから」
「忘れないでくださいね」
「たぶん覚えてる」
「たぶんですか?」
「忘れてたら呼びに来て」
エレナは少し笑った。
「分かりました」
戸口まで見送る。
ユウが道へ出たところで、エレナは一つ思い出した。
「ユウさん」
「ん?」
振り返る。
「椅子の練習も、見せてくださいね」
「ああ」
「忘れていませんよ」
「俺より覚えてるね」
「昨日のお話ですから」
「じゃあ、もう少し上手く削れたら見せる」
「失敗したものも見たいです」
「そっち?」
「はい」
「なんで?」
エレナは考える。
「最初から上手にできたものだけ見るより、面白そうです」
ユウが少し笑った。
「じゃあ取っとく」
「お願いします」
今度こそ別れた。
午後、エレナはベルから借りた本の続きを読んだ。
朝に読んだ老人の椅子の話が気に入り、また少し戻って読み直す。
誰も来ない日にも椅子を出す老人。
けれど、誰かが来たら隣に座ることを拒まない。
エレナは頁の端へ指を置いたまま、ふと考えた。
三軒目の家に住めるようになったら、自分も椅子を置くだろうか。
一人で使う椅子。
誰かが来た時に使う椅子。
(……ユウさんが来た時の椅子も、あった方がよいでしょうか)
そこまで考えてから、エレナは本を閉じかけた。
なぜ最初にユウを思い浮かべたのだろう。
以前、自分から「遊びに来てほしい」と言ったからかもしれない。
それなら不自然ではない。
(マーサさんも来るでしょうし、ニコも来るかもしれません。ベルさんやガルドさんだって……)
心の中で理由を並べていることに気づき、エレナは小さく息を吐いた。
「……別に、誰を最初に考えてもよいですよね」
誰もいない部屋で呟く。
家の返事すらまだ来ていない。
椅子を何脚置くか考えるには、ずいぶん早い。
それでも、考えるだけならいい。
決める必要はない。
エレナは本を開き直した。
夕方になっても、東側から警戒線の音は聞こえなかった。
見張り帳へ新しい記録が増えたという話もない。
三軒目の家についても、ローデンから知らせはなかった。
何も進まないものは、今日はそのまま進まなかった。
夜。
エレナは机へ向かい、日々の記録を開いた。
『オルドさんに鶏肉のことを聞いた。二、三日後に分けてもらえる予定。用意できたら知らせてくれるので、毎日確認しなくてよい。』
次に、ガルドから根菜を二本もらったことを書く。
『三本と言われたが、二本にしてもらった。』
書いてから、少し笑った。
続ける。
『料理本とマーサさんの作り方は少し違う。最初は本の通りに作る。次に作りたくなったら、違う方法も試してよい。』
その下へ、
『ユウさんが根菜を切る。』
と書く。
少し考え、
『本人がやると言った。』
と付け加えた。
なぜわざわざ書いたのか自分でも分からず、エレナは笑ってしまう。
次に、ユウについての紙を取り出した。
『ユウさんが、料理を作る時に自分も何かしたいと言った。』
筆を止める。
正確には、「一緒に何かした方が面白そう」と言った。
エレナはその言葉も書いた。
『食べる分を返すためではなく、一緒に何かした方が面白そうだから、と言っていた。嬉しかった。』
そこまで書いて、頬が少し熱くなる。
けれど消さない。
『鶏肉の煮込みを作ったら、食べてもらう。ニコも食べたがっている。』
最後に、
『ユウさんの椅子作りは、まだ木を削る練習。失敗したものも見せてもらう。』
と書いた。
紙を閉じる前に、昼間考えたことが頭へ戻ってくる。
三軒目の家。
まだ自分のものではない。
住めるかどうかも決まっていない。
それでも、もし住めるようになったら。
エレナは少し迷い、日々の記録の方へ戻った。
『もし三軒目の家に住めたら、椅子は一つだけではなくてもよいと思った。』
そこまで書く。
誰のためとは書かなかった。
書かなくても、自分には分かっている気がした。
エレナは筆を置き、窓の外を見る。
明日はまだ鶏肉は来ないかもしれない。
明後日かもしれない。
もう一日後かもしれない。
分からない。
けれど、今はそれが楽しみだった。
早く来てほしいと思う気持ちと、待てる気持ちは、一緒にあってもいい。
借りた料理本を手に取り、挟んだ紙片が落ちていないことを確認する。
『最初は肉を焼く。次は焼かない方法も試す』
一度作る前から、もう次のことまで書いている。
以前の自分なら、それを予定として守らなければならないと思ったかもしれない。
今は違う。
次も作りたくなったら、試す。
作りたくならなければ、そのままでもいい。
(でも、一度目は作ってみたいですね)
エレナは本を閉じる。
そして、ほんの少しだけ考えた。
ユウが切った根菜を、自分が煮込む。
マーサに味を見てもらう。
ニコがきっと待ちきれずに覗きに来る。
それから、ユウに食べてもらう。
想像すると、自然に口元が緩んだ。
誰かの期待へ応えるための料理ではない。
公爵家の長女として身につけるべき教養でもない。
失敗してはいけない試験でもない。
自分が作ってみたいから作る。
その料理を、食べてほしい人がいる。
今は、それだけで十分だった。




