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第48話 ユウの家の本

 翌朝、エレナは借りた本を開かなかった。


 昨夜、眠る前には続きを読みたいと思っていたし、朝食を終えた後も机の端に置かれた『丘を越えたパン屋』へ何度か目が向いた。それでも、今すぐ続きを読まなければならないわけではなく、窓から入ってくる柔らかな日差しを眺めているうちに、今日は少し外を歩きたいと思った。


(昨日は、読みたければ読めばいいと思いました。なら、今日は読まずに出かけてもいいのでしょうね)


 読みたいと思ったことを、翌日の予定へ変える必要はない。


 エレナは本を机へ残したまま部屋を出ると、朝食に使った食器をマーサと一緒に片づけた。洗った皿を拭き終えたところで、マーサが戸口の方へ顎を向ける。


「今日は本を読まないのかい?」


「後で読むかもしれません。でも、今は少し歩きたいです」


「なら歩いてきな。昼まで帰ってこなくても、腹が減ったらどこかで何か食べるだろ」


「さすがに誰かの家で勝手には食べませんよ」


「そんなことしたら、あんたより先に私が驚くよ」


 マーサが笑ったので、エレナもつられて笑う。


 外へ出ると、昨日より風があった。強い風ではないものの、道端の草が同じ方向へゆっくり傾き、干されている布が時折大きく膨らんでいる。


 東側から警戒を知らせる音は聞こえない。


 家の前にある餌台へ目を向けると、一羽の小さな鳥が縁へ止まっていた。エレナが戸口から出た気配に気づいたらしく、すぐ近くの枝へ移ったものの、飛び去りはしない。


 エレナは立ち止まった。


 昨日なら、ニコを呼ぼうかと思ったかもしれない。


 鳥が来たことを教えれば喜ぶだろう。


 けれど、今この瞬間に伝えなければならないわけではない。


「おはようございます」


 小さな声で鳥へ挨拶する。


 当然、返事はなかった。


 エレナは少し笑い、そのまま道へ出た。


 特に行き先は決めていない。


 ガルドの畑へ豆を見に行ってもよいし、ベルのところへ行って本のお礼を改めて言ってもよい。オルドの鶏を眺めてもよかった。


 そうやって考えているうちに、前方からニコが歩いてきた。


 今日は走っていない。


「おはようございます、ニコ」


「おはよう、エレナお姉ちゃん!」


「今日は走っていませんね」


「じいちゃんに朝から怒られた」


「何をしたのですか?」


「走った」


「やはり走ったのですね」


 エレナが笑うと、ニコは気にした様子もなく隣へ来た。


「鳥来た?」


「今、一羽来ていましたよ」


「ほんと!?」


 途端に駆け出そうとしたニコの身体が前へ傾く。


 しかし、一歩踏み出したところで止まった。


「……走るなって言われた」


「そうですね」


「でも鳥逃げる」


「もう私が外へ出た時に枝へ移りましたから、急いでも同じではないでしょうか」


「そっか」


 ニコは少しだけ考え、早歩きでマーサの家へ向かっていった。


 走ってはいない。


 少なくとも本人としては、そのつもりなのだろう。


 エレナはその背中を見送り、また歩き始めた。


 村の中をゆっくり進む。


 ガルドの畑が見えるところまで来ると、豆の芽も視界へ入った。以前より明らかに葉が大きくなっており、少し傾いていた一本も枯れることなく育っている。


 見に行こうかと思ったが、今日は道から眺めるだけで十分な気がした。


 成長を測らなくてもいい。


 毎日近くまで行かなくてもいい。


 見たい日に、見たい距離から見ればいい。


 そのまま通り過ぎようとしたところで、別の道からユウが現れた。


 手には何も持っていない。


 エレナに気づくと、少しだけ進む方向を変えてこちらへ来る。


「おはよう、エレナさん」


「おはようございます、ユウさん」


「散歩?」


「はい。今のところは」


「今のところ?」


「歩いている途中で何かしたくなれば、変えてもよいかと思いまして」


「ああ。それいいね」


 ユウはエレナの横に並んだ。


「ユウさんは?」


「ベルさんのところ行こうかなって思ってた」


「何か壊れましたか?」


「いや。昨日、本の話しただろ?」


 エレナは瞬きをする。


「ユウさんの家にある本ですか?」


「うん。帰ってから少し探したんだけど、棚の奥に何冊かあった」


「もう探してくださったのですか?」


「帰ってから暇だったから」


 いつものように、ユウは大したことではないように言う。


「一冊、表紙が外れかけてるのがあってさ。読むなら先にベルさんに見てもらおうかなって」


「私が読むために?」


「俺、たぶんそのままにしてたから。エレナさんが読むかもしれないなら、直せるなら直しといた方がいいかなって」


 胸の奥に、小さな温かさが広がった。


 昨日、ユウの家にも本があると聞いた。


 いつか見せてもらえたら嬉しいと思った。


 けれど、その「いつか」のために、ユウが帰った後で本を探していたとは思わなかった。


(また、覚えていてくれたのですね)


 昨日の変な形の芋とは違う。


 今回は、エレナが読みたいと言ったものを、自分の家の中から探してくれた。


「ありがとうございます」


「まだ読める本か分からないよ」


「それでも、探してくださったことが嬉しいです」


「暇だったからだけど」


「暇でも、別のことはできたでしょう?」


「まあ、それはそうだけど」


 ユウが少し困ったように視線を逸らす。


 エレナはそれ以上言わなかった。


 何度も礼を言えば、今度はユウを困らせるだけだろう。


「では、私もベルさんのところへ行ってよいですか?」


「いいけど、散歩は?」


「行き先が決まりました」


「そっか」


 二人でベルの家へ向かう。


 途中、ユウが道端へ落ちていた細い枝を跨いだ。エレナも同じように避けたところで、昨日の会話を思い出す。


「ユウさん」


「ん?」


「曲がった枝です」


 エレナが道端を指差す。


 ユウは足を止め、枝を見る。


「……ほんとだ」


「昨日、曲がった枝でも呼ぶかもしれないと言っていましたよね」


「言ったけど」


「どうですか?」


「普通の枝だね」


「はい」


「見たい?」


 エレナは少し考えた。


「もう見ました」


「じゃあいいか」


「はい」


 二人で笑い、そのまま歩き出した。


 何の意味もないやり取りだった。


 それなのに楽しい。


 エレナは自分の口元に残る笑みを意識しながら、隣を歩くユウを見る。


 彼はすでに枝のことなど気にしていないようだった。


 ベルの家へ着くと、今日は作業台の前に本人の姿がなかった。


「ベルさん?」


 エレナが声をかける。


 少しして、家の裏からベルが出てきた。


「なんだ」


「おはようございます」


「おう」


「本、直せる?」


 ユウが尋ねる。


「見なきゃ分からん」


「だよね」


「持ってきたのか?」


「いや、まだ家」


「じゃあ何しに来た」


 もっともな問いだった。


 ユウが少し黙る。


「……先に聞こうかなって」


「持ってこい」


「はい」


 ベルはそれだけ言うと、また家の裏へ戻ろうとした。


「ベルさん」


 エレナが呼び止める。


「昨日の本、ありがとうございました」


「もう読んだのか?」


「まだ途中です。四つ目のお話まで進みました」


「ならまだ礼はいらん」


「借りたことへのお礼です」


「そうか」


 ベルは短く返した。


「大切に読みます」


「読めるうちに読め。古い紙は置いとくだけでも傷む」


「はい」


 それだけ話すと、ベルは今度こそ家の裏へ戻っていった。


 ユウがその背中を見る。


「本、持ってくればよかった」


「先に聞きたかったのですよね?」


「うん」


「では、聞けたのですからよいのではありませんか?」


「結局、見なきゃ分からないって言われただけだけど」


「それも答えです」


「そうかな」


「はい」


 エレナは少し考え、それから尋ねる。


「これから、本を取りに戻るのですか?」


「そのつもり」


「私も行ってよいですか?」


 言った後で、ほんの少し緊張した。


 ユウの家には、これまで何度か近くまで行ったことがある。朝に訪ねたこともあれば、用事があって立ち寄ったこともある。


 けれど、今日は違う。


 何かを届けるためでも、異変を知らせるためでもない。


 ただ、本を見たいから行きたい。


「いいよ」


 ユウは特に驚きもせず答えた。


「散らかってるけど」


「以前もそう言っていませんでしたか?」


「言ったかも」


「では、今さらです」


「確かに」


 二人は来た道を戻り、途中で分かれてユウの家へ向かった。


 村の中では特別大きくも小さくもない家だ。


 ユウが暮らし始める前からあった建物を使っているため、壁や柱には古さが残っている。灰色の魔導書を使えば、もっと簡単にきれいにできる場所もあるのだろうが、ユウは必要のないところまで直そうとはしていない。


 戸を開けると、ユウが先に中へ入った。


「どうぞ」


「お邪魔します」


 エレナも後へ続く。


 室内には朝の光が入っていた。


 以前見た時と大きく変わってはいない。


 必要な家具はある。


 けれど、飾りはほとんどない。


 椅子と机、簡単な棚、生活道具。部屋の隅には薪が積まれ、壁際には《魔導書庫》から取り出したものとは違う普通の紙の束や、小物が置かれている。


「本はどちらに?」


「こっち」


 ユウが棚へ向かう。


 下段には何冊かの本が横向きに積まれていた。


「昨日までここにあるの忘れてた」


「忘れていたのですか?」


「うん」


「本がかわいそうです」


「そう?」


「少しくらいは」


 エレナがしゃがみ込む。


 全部で五冊あった。


 厚いものが二冊。


 薄いものが三冊。


 一番上に置かれている本は、確かに表紙の片側が外れかけていた。


「触っても?」


「どうぞ」


 エレナは慎重に一冊ずつ確認する。


 最初の本は、この地方の植物について書かれたものだった。絵が多く、薬草や食べられる草について簡単な説明が載っている。


「これは読んだのですか?」


「それは結構読んだ」


「珍しいですね」


「珍しいって何」


「途中で寝なかったのだと思いまして」


「必要だったから」


「なるほど」


 ユウがこの世界へ来たばかりの頃、周囲にある植物を知るために手に入れたらしい。


 二冊目は、簡単な料理の本だった。


 エレナの手が止まる。


「料理……」


「それは途中まで」


「どこまで読んだのです?」


「最初の方」


「作ったものはありますか?」


「あると思う」


「覚えていないのですか?」


「本見ながら何回か作ったけど、今は適当だから」


 エレナは頁を開く。


 煮込み料理。


 焼いた肉。


 野菜を使った簡単なスープ。


 どれも豪華な料理ではない。


 村で手に入りやすい材料を使うものが多かった。


「鶏肉もあります」


「ある?」


「はい。鶏肉と根菜の煮込みです」


「ああ。それ作ったかも」


「どうでした?」


「覚えてない」


「そこは覚えていてください」


 思わず言うと、ユウが笑った。


「また作れば分かるよ」


 その言葉に、エレナは料理本へ視線を戻した。


 以前、自分もいつか鶏肉を煮る料理を覚えたいと思った。


 ユウが鶏肉を好きだと知っているから。


 けれど、そのためだけではない。


 自分が作れる料理が少しずつ増えること自体も楽しくなっている。


「これ、少し読んでみてもよいですか?」


「いいよ」


「借りても?」


「好きに持ってっていいよ」


「好きに、は困ります。借ります」


「じゃあ貸す」


「はい」


 エレナは少し笑いながら料理本を脇へ置いた。


 三冊目は、近隣地域の古い地誌だった。


 街道や村、川について書かれているが、かなり古いものらしい。エレナは少し興味を持ったものの、今すぐ読みたいとは思わなかった。


 四冊目は、短い物語を集めた本だった。


「あ……」


 思わず声が漏れる。


「それ、何?」


「物語です」


「読んでないかも」


「一度も?」


「たぶん」


「なぜ買ったのですか?」


「もらったんじゃなかったかな」


「誰に?」


「町で世話になった人だったと思う」


 ユウの答えは曖昧だった。


 この世界へ来てから村へ落ち着くまでの間に、いくつかの町を通っている。その頃にもらったものらしい。


 エレナは表紙を見る。


『風待ち亭の小さな話』


 宿屋を舞台にした短編集のようだった。


「これも借りてもよいですか?」


「もちろん」


「二冊になってしまいますね」


「別にいいけど」


「ベルさんからも一冊借りています」


「三冊だね」


「そうですね」


「読みたいなら借りれば?」


 簡単に言われ、エレナは三冊の本を思い浮かべる。


 全部をすぐ読まなければならないわけではない。


 返す日も決められていない。


「では、お借りします」


「どうぞ」


 最後の一冊が、表紙の外れかけている本だった。


 エレナは特に慎重に手を伸ばす。


「これは……」


 題名を読む。


「『暮らしの小さな工夫』」


「それも最初の方だけ読んだ」


「また最初だけですか?」


「必要なところだけ読んだ気がする」


 中には、衣類の簡単な繕い方、道具の手入れ、食材の保存、寒い時期の家の工夫などが書かれていた。


「面白そうです」


「そう?」


「はい」


「物語じゃないよ?」


「物語しか読まないわけではありません」


 頁をめくると、途中に細い紙片が挟まっていた。


 エレナは勝手に抜かないよう、そのまま頁を止める。


「ユウさん、ここに何か挟まっています」


「ん?」


 ユウが横から覗く。


 紙片には、短い文字が書かれていた。


『窓の隙間 布を詰める』


 エレナはユウを見る。


「これは?」


「ああ」


 ユウが少し考える。


「俺が書いたやつだと思う」


「ユウさんが?」


「最初の冬の前かな。窓から風入って寒かったから」


「この本で調べたのですか?」


「たぶん」


 エレナは紙片を見た。


 たった一行。


 けれど、それはユウがこの村で暮らし始めた頃の痕跡だった。


 異世界へ来て、何でも魔法で解決したわけではない。


 本を読み、村の人へ聞き、自分で試しながら暮らしてきた。


「これ、残しておいてもよいですか?」


「捨ててもいいけど」


「残しましょう」


「なんで?」


「ユウさんが使ったものだからです」


 口にしてから、エレナは少しだけ戸惑った。


 ユウが使ったものだから残したい。


 それでは、まるで大切なもののように聞こえる。


 けれど、紙片そのものを欲しいわけではない。


「……この本が、実際にユウさんの役に立ったことが分かりますから」


 言い足すと、ユウは特に気にした様子もなく頷いた。


「じゃあ挟んどけばいいよ」


「はい」


 エレナは元の位置へ戻した。


「これはベルさんへ持っていきましょうか」


「うん」


 五冊の確認を終える。


 エレナが借りるのは料理本と物語集の二冊。


 修理が必要な一冊はベルへ。


 残り二冊は棚へ戻す。


 それで終わるはずだった。


 けれど、エレナはすぐに立ち上がらなかった。


 借りる二冊を膝の上へ重ねたまま、ユウの部屋を見回す。


 昨日、木陰でユウは眠った。


 今日はそのユウの家にいる。


 用事らしい用事は、もう終わっている。


「どうしたの?」


 ユウが尋ねる。


「いえ……」


 エレナは少し迷った。


「もう、本を見る用事は終わりましたね」


「そうだね」


「ベルさんへ持っていく本も決まりました」


「うん」


「ですから、帰ってもよいのですが」


「帰りたい?」


 その聞き方に、エレナはユウを見る。


 帰るべきかではない。


 帰りたいか。


「……まだ、帰りたくはありません」


 素直に答えた。


「じゃあ、いれば?」


「よいのですか?」


「別にいいよ」


 ユウは何でもないことのように答える。


「何する?」


「それを今、考えています」


「本読む?」


「それでもよいですね」


「お茶飲む?」


「それもよいです」


「じゃあお茶にする?」


「はい」


 あまりにも簡単に決まった。


 ユウが湯を沸かし始める。


 赤い魔導書を使えば一瞬なのだろうが、今日は小さな炉へ火を入れた。薪が燃え始めると、乾いた音とともに室内へわずかな熱が広がる。


「魔法は使わないのですか?」


「急いでないから」


「なるほど」


「薪も使わないと減らないし」


「減らす必要があるのですか?」


「置きすぎると邪魔」


「それは確かに」


 エレナは椅子へ座り、料理本を開いた。


 ユウが湯を用意している間に、先ほど見つけた鶏肉の煮込みを読む。


 材料は特別なものではない。


 鶏肉。


 根菜。


 香草。


 塩。


 少量の油。


「ユウさん」


「ん?」


「この料理、本当に作ったのですか?」


「どれ?」


 エレナが本を持ち上げる。


 ユウが近づき、頁を覗き込んだ。


 肩が触れるほどではない。


 けれど、思っていたより近い。


 エレナは一瞬だけ文字から意識が外れた。


(近いですね)


 そう思った途端、自分の方が気にしていることまで意識してしまい、視線を頁へ戻す。


「これ」


「ああ。たぶん作った」


「たぶん」


「似たようなの作ったから」


「美味しかったですか?」


「食べられたよ」


「それは、美味しかったとは違います」


「じゃあ普通」


「評価が曖昧です」


 エレナが少し不満そうに言うと、ユウが笑った。


「エレナさんが作ってみる?」


「私が?」


「前、鶏肉煮る料理覚えたいって言ってなかった?」


 エレナの指が止まった。


「……それも覚えていたのですか?」


「言ってたよね?」


「言いました」


「なら、これで作ってみれば?」


 また覚えていた。


 卵をもう少し柔らかくしたいと言ったこと。


 本を読みたいと言ったこと。


 何かを見つけたら誘ってほしいと言ったこと。


 そして、いつか鶏肉を煮る料理を覚えたいと言ったこと。


 どれも、ユウが覚えていなければ困ることではない。


 約束として守らなければならないことでもない。


 それなのに残っている。


「……ユウさんは、よく覚えていますね」


「そう?」


「はい」


「全部は覚えてないよ」


「それは分かっています」


 全部覚えていてほしいわけではない。


 何でも記録され、忘れないよう管理されたいわけでもない。


 むしろ、そういうものとは違うから嬉しいのだと、エレナは少しずつ分かってきた。


 ユウは自分を観察対象として覚えているのではない。


 役に立つ情報だから覚えているわけでもない。


 ただ、話した時に聞いていて、いくつかが残っている。


(覚えられているのに、見張られているような感じがしないのですね)


 王都にいた頃は、何をしたか、何ができなかったか、何を間違えたかを周囲に覚えられていることが怖かった。


 次に失敗した時、以前の失敗まで並べられる。


 妹との比較にも使われる。


 けれど、ユウが覚えているのは、柔らかい卵を食べたいと言ったことや、本を読みたいと言ったことだった。


「作ってみたいです」


 エレナは料理本を見る。


「今すぐ?」


「いえ。今日は鶏肉がありません」


「確かに」


「オルドさんに、次に分けてもらえる時があるか聞いてみます」


「無理に俺のために作らなくていいよ」


 エレナは顔を上げた。


「ユウさんのためだけではありません」


「うん」


「私も作ってみたいのです」


「ならいいね」


「ただ……」


「ただ?」


 少し迷う。


「作ったら、ユウさんにも食べてほしいです」


 言った瞬間、胸がわずかに速くなる。


 けれど、以前ほど慌てなかった。


 これはもう、何度か話していることだ。


 自分が作ったものをユウに食べてほしい。


 それがどうしてなのか、まだ全部を説明できるわけではない。


「いいよ」


 ユウは普通に答えた。


「食べる」


「失敗しても?」


「食べられるなら」


「そこは以前と同じなのですね」


「食べられないのは困るから」


「それは私も困ります」


 二人で笑った。


 湯が沸き、ユウがお茶を淹れる。


 エレナの前へ置かれたカップは、少し縁が欠けていた。


 けれど、触れて危険なほどではない。


「このカップ、ずっと使っているのですか?」


「たぶん最初の頃から」


「欠けていますね」


「飲めるから」


「ベルさんなら、使えると言いそうです」


「言いそう」


 エレナは両手でカップを包む。


 温かい。


 部屋の中には、薪の燃える音が小さく続いている。


 ユウも向かいへ座った。


 少しの間、二人とも話さなかった。


 エレナは料理本を閉じ、今度は物語集を開く。


「読んでいいよ」


「ユウさんは?」


「お茶飲んでる」


「また寝ませんか?」


「まだ眠くない」


「まだ、なのですね」


「眠くなったら寝る」


 昨日と同じだった。


 エレナは笑いながら最初の話を読み始める。


 宿屋へ、雨の日だけやってくる旅人の話だった。


 旅人は毎回違う土地の話をし、宿の主人はいつか自分も旅へ出たいと思う。けれど、晴れた日になると宿の仕事が楽しくなり、旅へ出たい気持ちを忘れてしまう。


 次の雨の日、また旅人が来る。


 宿の主人はまた旅へ出たいと思う。


 そんなことを何年も繰り返す話だった。


 途中で、エレナは顔を上げた。


「この人は、本当に旅へ行きたいのでしょうか」


「どうだろう」


「雨の日だけ行きたくなるようです」


「じゃあ、雨の日は行きたいんじゃない?」


「晴れたら?」


「宿にいたい」


「両方本当ということですか?」


「たぶん」


 ユウはカップを持ったまま答える。


「気分変わることくらいあるでしょ」


「昨日したかったことを、今日はしたくなくなることも?」


「あるよ」


「それでもよいのでしょうか」


「困る約束してるなら別だけど、自分のことならいいんじゃない?」


 エレナは本へ目を落とした。


 今朝の自分を思い出す。


 昨夜は本の続きを読みたいと思った。


 けれど、朝になると外を歩きたくなった。


 どちらかが嘘だったわけではない。


 昨夜は読みたかった。


 今朝は歩きたかった。


「……この本も、好きかもしれません」


「早いね」


「まだ一つ目の途中でした」


「うん」


「でも、好きになりそうです」


「なら借りてけば?」


「そのつもりです」


「もう決めてたんだ」


「はい」


 エレナは続きを読んだ。


 物語の最後まで、宿の主人は旅へ出なかった。


 けれど、最後の雨の日、主人は旅人に一枚の紙を渡す。


 そこには、自分がいつか行ってみたい場所がいくつも書かれていた。


 行く日付は、一つも書かれていない。


 物語はそこで終わっていた。


「……終わりました」


「結局行かなかった?」


「はい」


「でも行きたい場所はあるんだ」


「そうですね」


 エレナは最後の頁をもう一度見る。


 予定ではない。


 約束でもない。


 ただ、いつか行きたい場所。


「私にも、そういうものがあってよいのでしょうね」


「行きたい場所?」


「場所だけではなくて、いつかしてみたいことです」


「あるの?」


 エレナは考えた。


「本をもっと読みたいです」


「うん」


「鶏肉の煮込みを作ってみたいです」


「うん」


「三軒目の家に住めるようになったら、自分で使う食器を少し選びたいです」


「いいね」


「入口に名前を置くかどうかも、その時に決めたいです」


「前言ってたね」


「はい」


 そこまで話してから、エレナは少し笑う。


「でも、いつまでにするかは決めたくありません」


「決めなくていいんじゃない?」


「はい」


 いつかしたい。


 それだけで残しておくこともできる。


 昔のエレナにとって、未来の予定は義務に近かった。


 何歳までに何を学ぶ。


 いつまでに何を身につける。


 王太子妃になるために、次は何が必要か。


 決められた未来へ間に合うように、自分を合わせ続ける。


 けれど、今考えている「いつか」は違う。


 できなくても叱られない。


 変わってもいい。


 やめてもいい。


(こんな未来の考え方もあるのですね)


 エレナはカップへ口をつけた。


 お茶は少し冷めていた。


「ユウさんは?」


「何が?」


「いつか、してみたいことはありますか?」


 ユウはしばらく黙った。


 難しいことを聞いたつもりはなかったが、本気で考えているらしい。


「……もうちょっと昼寝しやすい椅子欲しい」


 エレナは思わず吹き出しそうになった。


「それですか?」


「だめ?」


「いえ。ユウさんらしいと思っただけです」


「今の椅子、寝るには微妙なんだよ」


「寝台で眠ればよいのでは?」


「昼寝と夜寝るのは違う」


「違うのですか?」


「違う」


 妙に真剣だった。


「では、ベルさんに頼むのですか?」


「自分で作ってみてもいいかなって思ってる」


「ユウさんが?」


「灰の本使えば簡単だけど、それじゃなくて」


 エレナは少し驚いた。


「手で作るのですか?」


「ベルさんに教えてもらって。急がないけど」


「いいですね」


「そう?」


「はい」


 エレナは少し考える。


「できたら、見せてください」


「椅子を?」


「はい」


「普通の椅子だよ?」


「変な芋でも見せてくださったでしょう?」


「ああ」


 ユウが笑った。


「じゃあ見せる」


「お願いします」


 また一つ、期限のない約束が増えた。


 それが嬉しかった。


 しばらくして、ユウが修理する本を持って立ち上がった。


「そろそろベルさんのところ持ってく?」


「はい」


 エレナも借りる二冊を重ねて立ち上がる。


 しかし、玄関へ向かう前に少しだけ振り返った。


 さっきまで座っていた椅子。


 カップ。


 炉の火。


 棚。


 特別なものは何もない。


 それでも、今日はこの部屋で本を読み、お茶を飲み、これからしたいことを話した。


「エレナさん?」


「はい」


「忘れ物?」


「いいえ」


 エレナは首を振る。


「また、本を読みに来てもよいですか?」


 ユウが一度瞬きをした。


「ここに?」


「はい」


「マーサさんの家でも読めるよ?」


「分かっています」


「木陰もあるし」


「それも分かっています」


「じゃあ、なんで?」


 問われて、エレナは少し困った。


 理由を考えていなかった。


 この家でなければ本が読めないわけではない。


 静かな場所なら他にもある。


 それでも、また来たいと思った。


(どうしてでしょう)


 考えてみる。


 そして、一つだけ確かなことを見つけた。


「ユウさんがいるから、だと思います」


 言葉にした途端、胸が強く鳴った。


 エレナは自分でも驚き、持っている本へ視線を落とす。


「……一人で読みたい時もあります。でも、昨日みたいにユウさんが近くにいるところで読みたい時もあります。ですから、また来てもよいですか?」


 ユウはすぐには答えなかった。


 ほんの短い沈黙だったはずなのに、エレナには少し長く感じられる。


「いいよ」


 やがて、いつもと変わらない声が返ってきた。


「読みたい時に来れば?」


「突然でも?」


「俺がいなかったら入れないけど」


「それはもちろんです」


「寝てたら?」


「起こしてよいですか?」


「戸叩いて起きたら」


「起きなかったら?」


「諦めて」


「分かりました」


 エレナは笑った。


「では、そうします」


 二人で家を出る。


 ベルのところへ向かう道の途中、見張り帳のある場所が遠くに見えた。


 誰かが慌ただしく動いている様子はない。


 警戒線も鳴っていない。


 ユウもそちらへ向かおうとはしなかった。


 エレナも同じだった。


 今は、ベルへ本を持っていく。


 それでいい。


 ベルの家へ戻ると、今度はニコもいた。


 昨日折った木片を使って、新しい虫の橋を作っている。


「エレナお姉ちゃん!」


「ただいま戻りました」


「何それ?」


 ニコが本を指差す。


「ユウさんから借りた本です」


「また本?」


「はい」


「そんなに読むの?」


「読みたい時に読みます」


「全部今日読む?」


「読みません」


「なんで?」


「今日全部読む必要がないからです」


 ニコは分かったような分からないような顔をしたが、すぐに興味を失って木片へ戻った。


 ユウが修理したい本をベルへ渡す。


「ここ」


「見せろ」


 ベルは外れかけた表紙を確認し、糸の部分を指で触った。


「直せる」


「どれくらい?」


「今日やるとは言ってねえ」


「急がないよ」


「なら置いてけ」


「お願いします」


 ベルは本を作業台の端へ置いた。


 エレナが覗き込む。


「私も修理するところを見てもよいですか?」


「いる時にやったらな」


「はい」


 約束ではない。


 見られたら見る。


 それでよい。


 帰り道、ユウとは途中で別れた。


「本、重くない?」


「二冊ですから大丈夫です」


「じゃあまた」


「はい。また」


 ユウが自分の家へ戻っていく。


 エレナはその背中を見送ってから、マーサの家へ向かった。


 以前なら、「また」という言葉に何か予定を続けたくなったかもしれない。


 次はいつなのか。


 何をするのか。


 約束は確かなのか。


 けれど今は、それで十分だった。


 また会う。


 この小さな村に住んでいるのだから、おそらく明日も、その次の日も顔を合わせる。


 そして、いつか読みたくなったらユウの家へ行ってもいい。


 マーサの家へ戻ると、ニコから聞いたのか、餌台の種が少し足されていた。


「鳥、また来たよ」


 マーサが言う。


「そうなのですか?」


「ああ。二羽」


「見たかったかい?」と尋ねられる前に、エレナは餌台を見た。


 少しだけ残念だった。


 けれど、その残念さは不快ではない。


「次に来た時に見られたら嬉しいです」


「そうかい」


「はい」


 エレナは借りた二冊をマーサへ見せた。


 料理本を開くと、マーサも興味を示した。


「鶏の煮込みかい」


「作ったことはありますか?」


「似たようなのならあるよ」


「今度、教えていただけますか?」


「本に書いてあるんじゃないのかい?」


「書いてあります。でも、マーサさんのやり方も知りたいです」


「本と違うかもしれないよ」


「違ってもよいです」


 マーサが少し笑う。


「なら、そのうちね」


「はい。そのうち」


 また一つ増えた。


 期限のない「そのうち」。


 エレナはそれを重荷だとは感じなかった。


 夜になり、いつものように机へ向かう。


 今日は日々の記録より先に、ユウについての紙を取り出した。


『ユウさんは、昨日帰ってから本を探してくれていた。』


 そこで少し考え、続きを書く。


『私が読みたいと言ったことを覚えていた。料理の本と物語の本を借りた。』


 さらに筆を進める。


『鶏肉を煮る料理を覚えたいと言ったことも覚えていた。』


 エレナは一度手を止めた。


 今日感じたことを、どう書けばよいのか迷う。


 しばらく考えてから、ゆっくり書いた。


『覚えていてくれることが嬉しい。でも、見張られているようには感じない。』


 少し変な文章かもしれない。


 それでも、今の自分には一番近い。


『ユウさんの家で本を読んだ。お茶を飲んだ。また行ってもよいと言ってくれた。』


 最後の一文を書く前に、エレナは少しだけ躊躇した。


 けれど、結局そのまま書く。


『ユウさんがいるところで、本を読みたい時がある。』


 昨日までなら、もう少し恥ずかしかったかもしれない。


 今日は、その一文を見ても紙を伏せようとは思わなかった。


 次に、日々の記録へ今日のことを書く。


『鳥が朝に一羽来ていた。ニコは走らないようにしていたが、途中で走りそうになった。豆は道から見た。近くまでは行かなかった。』


 少し笑いながら続ける。


『曲がった枝をユウさんと見た。普通の枝だった。』


 書く必要などない。


 誰かへ報告する記録でもない。


 だからこそ、書きたいものを書いてよい。


『いつかしたいことを考えた。本を読む。鶏肉の煮込みを作る。家に住めたら食器を選ぶ。名前を置くかは、その時に決める。』


 その下に、少し空間を空けた。


 そして、もう一つ加える。


『増えても、全部やらなくていい。』


 エレナは筆を置いた。


 机の端には、ベルから借りた本と、今日ユウから借りた二冊が重なっている。


 三冊もある。


 全部読むには時間がかかるだろう。


 それが、少し嬉しかった。


 読み終わるまでの時間がある。


 料理を作る日も、まだ決まっていない。


 三軒目の家の返事も来ていない。


 東側に残った分からないことも、そのままだ。


 ユウの本当の名前も、まだ知らない。


 けれど、エレナはどれも今夜答えを出そうとは思わなかった。


(知らないままでも、待っていられるものが増えましたね)


 窓の外を見る。


 村の灯りがいくつか見える。


 その中の一つがユウの家なのだと、今は分かっている。


 少し前まで、その灯りはただ村にある家の一つだった。


 今は、その中に椅子があり、縁の欠けたカップがあり、途中までしか読まれていない本があり、昼寝には少し向かない椅子があることを知っている。


 エレナは小さく笑った。


 いつか、ユウが自分で昼寝用の椅子を作るかもしれない。


 作らないかもしれない。


 それでもいい。


 もし作ったなら、見せてもらえばいい。


 エレナは灯りから視線を外し、借りた物語集の表紙をそっと撫でた。


 今夜は続きを読まないことにした。


 読みたい本が目の前にあっても、明日へ残しておける。


 そう思えることまで、今のエレナには少し嬉しかった。

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