第47話 借りた本
翌朝、エレナが目を覚ました時、最初に耳へ届いたのは鳥の声だった。
窓の向こうから、短く高い鳴き声が何度か続いている。昨日作った餌台へ来ているのだろうかと考えた途端、まだ寝台の中だというのに身体を起こしかけたが、エレナはそこで動きを止めた。
(……急がなくてもいいですね)
昨日、一羽の鳥が使ってくれた。それだけですでに嬉しかったのだから、今日も来ているかどうかを今すぐ確かめる必要はない。
そもそも、聞こえている鳥が餌台へ来た鳥と同じなのかも分からなかった。
エレナはもう一度枕へ頭を戻し、薄い布団の中で少しだけ目を閉じた。眠り直すほどではなかったが、朝になったからといって即座に起きなければならない理由もなく、窓の外から聞こえる鳥の声をしばらく聞いている。
やがて廊下の向こうからマーサが動く音が聞こえ始めたところで、ようやく寝台から降りた。
着替えて部屋を出ると、マーサはすでに朝食の準備をしていた。鍋からは薄く湯気が上がり、昨日ガルドからもらった芋の残りが、他の野菜と一緒に煮込まれている。
「おはようございます」
「おはよう。よく寝てたね」
「少しだけ、起きてから鳥の声を聞いていました」
「餌台かい?」
「分かりません。まだ見ていませんから」
そう答えると、マーサがちらりとこちらを見る。
「見に行かないのかい?」
「朝食の後で、見たくなったら見ます」
「そうかい」
マーサはそれ以上何も言わず、鍋をかき混ぜた。
エレナは食器を並べる。
以前なら、何か気になるものがあれば確かめずにはいられなかったかもしれない。鳥が来ているのか、来ていないのか。餌は減っているのか。昨日作ったものは今日も役に立っているのか。
けれど、鳥が来ることは自分の成果を証明する試験ではない。
来てもいいし、来なくてもいい。
昨日は昨日で、もう十分に楽しかった。
朝食を終えて外へ出ると、餌台の下には昨日より少し多く種が落ちていた。台の上に置かれていた分もわずかに減っているように見えるが、風で落ちたのか鳥が食べたのかは分からない。
エレナは少しだけ眺めた後、そのままにした。
「おはよう、エレナお姉ちゃん!」
背後から声が聞こえた。
振り返ると、ニコが道からこちらへ入ってくるところだった。
「おはようございます、ニコ」
「鳥来た?」
「分かりません」
「なんで?」
「ずっと見ていたわけではありませんから」
ニコは餌台へ近づき、台の上と地面を交互に見る。
「減ってる」
「そうですね」
「来たんじゃない?」
「そうかもしれません」
「じゃあ来た!」
「風で落ちたかもしれませんよ」
「でも来たかもしれないだろ?」
「はい」
「じゃあ来たかもしれない!」
ニコはそれで満足したらしい。
断定したいのか、したくないのか分からない言葉だったが、エレナは笑った。
「ニコの餌台はどうでした?」
「じいちゃんの家のやつ?」
「はい」
「分かんない。朝見たら減ってた」
「同じですね」
「うん」
ニコはしばらくエレナの餌台を見ていたが、すぐに別のことを思い出したらしく顔を上げた。
「エレナお姉ちゃん、今日暇?」
「暇……」
その言葉を、自分に当てはめて考える。
今日しなければならない仕事はない。誰かと約束もしていない。
「今のところは、何も決めていません」
「じゃあ暇じゃん」
「そういうことになるのでしょうか」
「じいちゃんが呼んでた」
「ベルさんが?」
「うん。本あるって」
エレナは瞬きをした。
「……本?」
「エレナお姉ちゃん、本読みたいんだろ?」
「どうしてニコが知っているのですか?」
「マーサばあちゃんがじいちゃんに言った」
「マーサさんが?」
思わず家の方を見る。
ちょうど戸口から出てきたマーサと目が合った。
「何だい?」
「ベルさんに、私が本を読みたいとお話ししたのですか?」
「ああ。昨日ちょっとね」
「そうだったのですか」
「嫌だったかい?」
マーサの声には、ほんの少しだけ確認するような響きがあった。
エレナは考える。
自分が本を読みたいと言ったことは、隠したい話ではない。以前ユウにも話しているし、商人のハインが次に来た時には、値段を聞いてみようとも考えていた。
「いいえ。嫌ではありません」
「ならいい。ベルが昔の本なら一冊あったはずだって言ってたよ」
「ベルさんが本を?」
「持ってちゃ悪いか」
「いえ、そういう意味では」
作業場にいるベルと本を読む姿が、すぐには結びつかなかっただけだ。
「じいちゃん、字読めるぞ」
ニコが得意そうに言う。
「それは知っています」
「俺も読める」
「それも知っています」
「じゃあ行こう」
「今からですか?」
「うん」
ニコは当然のように頷いた。
エレナはマーサを見る。
「行ってきな。朝の片づけくらい私一人でできるよ」
「ですが――」
言いかけて、止める。
自分が食器を片づけることはできる。
だからといって、毎日必ず自分がしなければならないわけではない。
「……では、お願いします」
「ああ」
「帰ってきてから、何かあれば手伝います」
「何かあればね」
マーサが笑った。
エレナはニコと一緒に道へ出る。
昨日と同じように並んで歩き始めたが、今日はニコの手に折れた木片はない。
「どんな本か聞きましたか?」
「知らない」
「ベルさんは何と?」
「エレナに見せろって」
「それだけですか?」
「うん」
ニコに詳しい説明を期待した自分が間違っていたらしい。
村の中央近くまで来たところで、向こうからユウが歩いてきた。
エレナは自然に足を緩める。
「おはようございます、ユウさん」
「おはよう、エレナさん。ニコもおはよう」
「おはよう!」
名前を呼ばれる。
昨日も何度か呼ばれているのに、ユウの口から「エレナさん」と聞こえる時だけ、まだ胸の内側が少しだけくすぐったい。
けれど、それを不自然に隠そうとはしなくなっていた。
「どこ行くの?」
「ベルさんのところです」
「また木工?」
「今日は本だそうです」
「本?」
ユウが足を止めた。
「マーサさんが、私が本を読みたいと言っていたことをベルさんへ話したそうで、古い本が一冊あるかもしれないと」
「ああ」
ユウが小さく頷く。
「そういえば言ってたね。本読みたいって」
「覚えていたのですか?」
「話したからね」
「そうですけれど」
昨日の芋のことが頭をよぎる。
ユウは、自分が話した小さなことを思っていたより覚えているらしい。
「ユウさんは、今日は何を?」
「特に決めてない。朝飯食べて歩いてただけ」
「では、暇なのですか?」
先ほどニコに言われた言葉を使ってみる。
ユウは少し考えてから頷いた。
「まあ、暇かな」
「じゃあ一緒に行こう!」
ニコが勝手に決めた。
「俺も?」
「暇なんだろ?」
「暇だけど」
「なら来ればいいじゃん」
昨日、自分が言われたものとよく似た理屈だった。
エレナは笑いを堪えながらユウを見る。
「私は、一緒でも構いません」
「じゃあ行こうかな」
「はい」
それだけで、三人になった。
ベルの家へ着くと、本人は昨日と同じ作業台の近くにいた。ただし今日は木を削っておらず、古い金具を布で拭いている。
「じいちゃん、連れてきた!」
「見りゃ分かる」
「ユウ兄ちゃんも来た」
「それも見りゃ分かる」
「おはようございます」
「おう」
ベルは金具を置き、家の中を顎で示した。
「中だ」
「本ですか?」
「ああ。探したらあった」
エレナは少し緊張しながら家へ入る。
ベルの家の中へ入る機会はこれまでにもあったが、今日は目的が違うせいか、普段より室内へ目が向いた。
壁際には工具や木材だけでなく、古い棚も置かれている。棚の上には布に包まれたものや小箱が並び、その一番下に、数冊の薄い帳面のようなものが重ねられていた。
「本はどこですか?」
「そこの布」
ベルが指したのは、棚の上段に置かれた茶色い布包みだった。
エレナが手を伸ばす前に、ベルが自分で取り上げる。
「古いぞ」
「はい」
「破れてるところもある」
「構いません」
「字もところどころ薄い」
「読めないほどですか?」
「そこまでは知らん。俺はずっと読んでねえ」
ベルが布を開く。
中から現れたのは、エレナが想像していたより小さな本だった。
革張りではなく、厚い紙を何枚も重ねて糸で綴じた簡素な作りで、表紙の角は丸く擦れている。題名らしい文字も薄くなっており、すぐには読み取れない。
エレナは無意識に両手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触ってもよいですか?」
「そのために出したんだ」
「ありがとうございます」
両手で受け取る。
思ったより軽い。
表紙を傷めないよう、ゆっくり開いた。
最初の頁には大きな文字で題名が書かれていた。
「『丘を越えたパン屋』……」
「面白そう?」
ニコが横から覗き込む。
「まだ題名しか読んでいません」
「パン屋の話?」
「おそらく」
「パン作るの?」
「読まなければ分かりません」
「じゃあ読んで」
「今ですか?」
「うん」
ニコは完全に聞くつもりらしい。
エレナはベルを見る。
「ここで読んでもよいのでしょうか」
「好きにしろ」
「じいちゃんも聞く?」
「聞かん」
そう言いながらベルは外へ出ず、先ほどの金具を再び手に取った。
エレナは少し迷った末、窓の近くにある椅子へ座る。
ユウは入口近くの壁に寄り、ニコは床へ座った。
「声に出すのですか?」
「うん」
「私、自分で読むつもりだったのですが」
「俺も聞きたい」
「ニコが読みたいのではないのですか?」
「読むの疲れる」
「……正直ですね」
エレナは苦笑した。
最初の頁へ目を落とす。
文字は確かに少し薄れているが、十分に読める。
「では、少しだけですよ」
「うん!」
エレナは物語を読み始めた。
丘の麓に、小さなパン屋があった。
店を営んでいるのは年老いた男で、毎朝まだ暗いうちに起き、村の人々が目を覚ます頃には焼きたてのパンを棚へ並べている。
ある日、丘の向こうから旅人がやってきた。
旅人はパンを一つ買い、「丘の向こうには、あなたのパンを知らない人がたくさんいる」と言った。
そこで老人は考える。
自分のパンをもっと多くの人へ届けるべきなのだろうか、と。
エレナはそこまで読み、頁をめくった。
話は単純だった。
けれど、思っていたより面白い。
老人は丘を越えるか迷いながら、いつもの客へパンを売り続ける。村人たちは「行けばもっと売れる」と言う者もいれば、「ここにいてくれ」と言う者もいた。
「パン屋、行くの?」
ニコが我慢できずに尋ねた。
「今から読むところです」
「行かないと思う」
「どうしてです?」
「じいちゃんみたいだから」
突然名前を出されたベルが顔を上げる。
「誰がだ」
「パン屋」
「知らん」
「じいちゃんも町行かないだろ?」
「用がなきゃ行かん」
「ほら」
「何がほらだ」
エレナは笑いを堪えながら、続きを読む。
老人は結局、すぐには丘を越えなかった。
けれど、旅人の言葉が気にならなかったわけではない。
数日後、老人はいつもより一つだけ多くパンを焼いた。それを袋へ入れ、自分で丘を越えるのではなく、次に来た旅人へ持たせる。
そのパンがどこで誰に食べられたのか、老人は知らない。
ただ、次の朝もいつも通り自分の店でパンを焼いた。
そこで一つ目の短い話は終わった。
「終わり?」
ニコが尋ねる。
「この話は、ここまでのようです」
「丘越えないの?」
「越えませんでしたね」
「なんで?」
「どうしてだと思います?」
「面倒だったから」
あまりにも即答だった。
ユウが小さく笑う。
「それもあるかもね」
「ユウさんは、どう思いますか?」
エレナが尋ねる。
「俺?」
「はい」
ユウは少し考える。
「別に、丘を越える必要がなかったからじゃない?」
「必要がなかった」
「パンを遠くの人にも食べてもらう方法はあったし、本人は今の店をやめたいわけじゃなかったんだろ?」
「そうですね」
「だったら、行かなくてもいいんじゃないかな」
いかにもユウらしい答えだった。
エレナは本へ目を落とす。
老人は、遠くに自分のパンを欲しがる人がいると知った。
それでも、もっと多くの人へ届けるために自分の暮らしを変えなければならないとは考えなかった。
できることを増やすことと、それを全部することは別なのだ。
(このお話、好きかもしれません)
そう思った瞬間、昔読んでいた本のことが頭をよぎった。
年老いた夫婦が旅をしながら、さまざまな土地で食事をする物語。妹も好きで、自分の部屋へ勝手に入り、本を読んでは栞の位置を動かしていた。
以前なら、その記憶の後には必ず苦しさが続いた。
妹の方が何でも早く覚えたこと。
両親が妹を褒め、自分と比べたこと。
自分が距離を置くようになったこと。
けれど今日は、少し違った。
(あの子は、あの本が本当に好きでしたね)
最初に思い出したのは、妹が勝手に栞を動かしていたことへの小さな苛立ちと、それでも二人で同じ場面について話した夜だった。
胸の奥に痛みがないわけではない。
ただ、温かい記憶まで一緒に捨てる必要はないのだと、少しずつ思えるようになっていた。
「エレナさん?」
ユウの声で顔を上げる。
「すみません。少し昔のことを思い出していました」
「大丈夫?」
「はい」
エレナは本を閉じなかった。
「妹も本が好きだったのです」
ニコが首を傾げる。
「エレナお姉ちゃん、妹いるの?」
「はい。三歳下の妹がいます」
「村に来る?」
あまりにも真っ直ぐな問いだった。
エレナはすぐには答えなかった。
妹が今どこにいるのか、正確には知らない。
商人から聞いた話が本当なら、自分が追放された後に何かを調べているらしい。けれど、それがどこまで事実なのかも分からないし、自分自身が妹に会いたいのかどうかも、まだ決めていなかった。
「分かりません」
だから、そのまま答えた。
「そうなの?」
「はい。今は分かりません」
「じゃあ来たら考える?」
エレナは少し驚いてニコを見る。
「……そうですね」
会うかどうか。
何を話すか。
許すものがあるのか、そもそも妹に許されるべき何かがあるのか。
今ここで決める必要はない。
「その時になったら、考えます」
「ふーん」
ニコはそれで納得したらしく、本へ興味を戻した。
「次の話は?」
「まだ読むのですか?」
「うん」
「エレナが疲れるだろ」
ベルが作業台の向こうから言った。
「疲れた?」
ニコが尋ねる。
エレナは自分の喉と身体の具合を確かめた。
疲れてはいない。
けれど、まだ読みたい気持ちと、声に出して読むことは別だった。
「読むことには疲れていませんが、次は自分で読みたいです」
「声出さないの?」
「はい」
「じゃあ俺読めないじゃん」
「ニコも自分で読めると言っていましたよね?」
「疲れる」
「では、今日はここまでです」
「えー」
「私が読みたい本なのですから、私が読みます」
エレナが笑いながら言うと、ニコは不満そうな顔をしたものの、それ以上は頼まなかった。
ベルがちらりとこちらを見る。
「持ってけ」
エレナは意味が分からず瞬きをした。
「よいのですか?」
「ここに置いてても読まん」
「ですが、ベルさんの本でしょう?」
「俺のじゃねえ」
「違うのですか?」
「婆さんのだ」
ニコが顔を上げた。
「ばあちゃんの?」
「ああ」
ベルは短く答えた。
「ずっと前にな」
それ以上は説明しなかった。
エレナも無理には聞かなかった。
ベルの妻が今ここにいないことは知っている。ただ、亡くなったのか、別の場所にいるのか、その詳しい事情までは聞いていない。
知らないことを、今すぐ知る必要はない。
「では、お借りしてもよいですか?」
「ああ」
「大切に読みます」
「破れたら直せ」
「私がですか?」
「本くらいなら教える」
ベルがそう言った。
エレナは本を両手で持ち直した。
「ありがとうございます」
その言葉は、自然に出た。
新しい本ではない。
自分が王都で失った本でもない。
誰かが長く持っていた、角の擦れた古い本。
それでも、今のエレナが自分で読みたいと思える本だった。
ベルの家を出ると、ニコは自分の餌台を確認すると言って裏へ走っていった。
「走るな!」
すぐにベルの声が飛ぶ。
「走ってない!」
「走ってる!」
昨日からほとんど同じやり取りだった。
エレナは笑いながら本を胸の前で持つ。
隣ではユウも少し笑っていた。
「借りられてよかったね」
「はい」
「面白そうだった?」
「最初のお話は好きでした」
「パン屋の?」
「はい。ユウさんらしいお話でもありました」
「俺?」
「丘の向こうへ行けばもっと売れると言われても、行かなかったところが」
「俺、パン屋じゃないけど」
「そこではありません」
エレナは笑った。
「もっとできると言われても、自分がしたいところまでしかしないところです」
「ああ」
ユウは納得したように頷いた。
「それなら、ちょっと分かる」
「でしょう?」
二人で道を歩く。
急ぐ理由はない。
マーサの家へ戻って本を読んでもいいし、途中で別の場所へ寄ってもいい。
少し歩いたところで、ユウが足を緩めた。
「エレナさん」
「はい」
「本、どこで読むの?」
「マーサさんの家へ戻って読もうかと思っています」
「外で読むのは?」
エレナはユウを見る。
「外ですか?」
「今日は風そんなに強くないし。村の西側に、昼くらいまで木陰になるところがあるから」
「ユウさんは、そこで読んだことがあるのですか?」
「本は読んでないけど、寝たことはある」
「寝たのですか」
「うん」
「ユウさんらしいですね」
「そう?」
「はい」
エレナは本へ視線を落とした。
外で本を読む。
王都にいた頃にも、庭で読書をしたことはある。けれど、あの頃は使用人が椅子を用意し、日除けを整え、時間になれば次の予定を知らせに来た。
今ユウが言っているのは、おそらくもっと簡単なことだ。
木陰へ行き、座って、本を読む。
「ユウさんも来ますか?」
尋ねてから、少しだけ胸が騒ぐ。
また自分から誘った。
けれど、今はそれを後悔しなかった。
ユウは少し考えた後、頷く。
「行こうかな。俺も暇だし」
「では、一緒に行きましょう」
「マーサさんには?」
「本を借りたことを伝えてからにします」
「じゃあ待ってる」
マーサの家へ戻ると、エレナは本を借りたことと、ユウと少し外へ行くことを伝えた。
「どこへ?」
「西側の木陰だそうです」
「昼飯までには戻るのかい?」
エレナはユウを見る。
「どうします?」
「腹減ったら戻ればいいんじゃない?」
「だそうです」
「そうかい」
マーサは呆れたように笑った。
「なら行っておいで。腹減ったら帰ってきな」
「はい」
本だけを持ち、ユウと一緒に再び歩き始める。
村の西側は、東側よりさらに穏やかだった。
街道はあるものの、商人が来る日でもなければ人通りはほとんどない。家々から少し離れた場所には低い草地が広がり、その端に大きな木が一本立っている。
「あそこ」
ユウが指した。
「本当に木だけですね」
「木陰って言ったからね」
「椅子などがあるのかと思いました」
「ないよ」
「では、どこへ座るのです?」
「地面」
予想していた答えだった。
エレナは木の下まで行き、草地を見る。
昨日まで雨が降っていた場所もあるので、念のため手で触れて確かめる。木の根元から少し離れたところなら乾いていた。
「ここなら大丈夫そうです」
「座れる?」
「はい」
スカートを整えながら腰を下ろす。
最初の頃なら、地面へ直接座ることにももっと抵抗があったかもしれない。今は服が多少汚れる程度なら、後で払えばよいと思える。
ユウも少し離れた場所へ座った。
近すぎず、遠すぎない。
エレナは本を開く。
木の葉を通った光が頁の上で揺れていた。
「読みますね」
「どうぞ」
「ユウさんは?」
「寝るかも」
「寝るのですか?」
「眠くなったら」
以前、マーサの家で「寝られたら少し寂しい」と言ってしまったことを思い出し、エレナの頬がわずかに熱くなる。
今日はどうだろう。
自分が本を読んでいる間なら、ユウが眠っていてもよい気がする。
「今日は寝てもよいですよ」
「今日は?」
「本がありますから」
「本があれば俺はいらない?」
「そういう意味ではありません」
思ったより早く言葉が出た。
ユウがこちらを見る。
エレナは少し困りながら本を閉じかけ、また開いた。
「……一緒に来てくださったことは嬉しいです。でも、私が本を読んでいる間にユウさんが眠ることまで止める必要はないと思っただけです」
「ああ」
「ですから、眠ければ寝てください」
「分かった」
ユウは木の幹へ背を預けた。
エレナは本へ目を戻す。
二つ目の話は、川辺で靴を直す職人の話だった。
古い靴を持ってくる客へ、職人は何度も「新しいものを買った方が早い」と言う。それでも客が直したいと言うので、使える部分を残しながら少しずつ直していく。
途中で一度、エレナは頁から顔を上げた。
ユウはまだ起きている。
「何?」
「いえ」
「面白くない?」
「面白いです」
「じゃあ読めば?」
「はい」
再び本へ戻る。
少しすると、風が吹いた。
頁が勝手にめくれそうになり、エレナは指で押さえる。葉が擦れる音の中に、村から聞こえてくる遠い話し声が混じった。
さらに読み進める。
次に顔を上げた時、ユウは目を閉じていた。
眠ったのだろうか。
エレナは本を閉じず、そのまま横目で様子を見る。
呼吸は穏やかだった。
以前なら、同じ場所にいるのに眠られることを少し寂しいと感じた。
今も、まったく何も感じないわけではない。
話したいと思えば、起きていてほしい。
自分を見てほしいと思う時もある。
けれど今日は、違う感覚もあった。
(ユウさんがここで眠れるということは、安心しているということなのでしょうか)
自分がそばにいるから安心している、とまで考えるのは都合がよすぎる気がする。
もともとユウはどこでも昼寝をする人だ。
それでも、少なくとも自分が隣にいることを嫌がってはいない。
エレナはそれで十分だと思った。
起こさないように頁をめくる。
本を読む。
隣ではユウが眠っている。
時折風が吹き、草が揺れる。
何も起こらない時間が続いた。
どれほど経ったのか分からない。
エレナが三つ目の話へ入ったところで、ユウが小さく動いた。
「……寝てた?」
「はい」
「どれくらい?」
「分かりません」
「本、進んだ?」
「二つ目を読み終えて、三つ目の途中です」
「じゃあ結構寝たな」
「そうかもしれません」
ユウは身体を起こし、首を軽く回した。
「寂しかった?」
不意に聞かれた。
エレナは本を持つ手を止める。
「覚えていたのですか?」
「前に言ってたから」
まただ。
この人は、どうしてそんな小さなことを覚えているのだろう。
エレナは少し考えた。
嘘をつく必要はない。
「今日は、大丈夫でした」
「本があったから?」
「それもあります」
「他には?」
問い返され、エレナは少しだけ迷った。
「ユウさんが、起きたらまだここにいると分かっていたからだと思います」
言葉にすると、胸が少し速くなる。
ユウは何も言わなかった。
ただ、エレナを見る。
その沈黙に耐えられなくなりそうになって、エレナは本へ目を落とした。
「……変なことを言いましたか?」
「いや」
ユウの声はいつもと変わらない。
「じゃあ、次も寝ていい?」
「毎回寝るつもりなのですか?」
「眠かったら」
「それなら仕方ありません」
「よかった」
あまりにも普通に返され、エレナは力が抜けた。
けれど、その普通さが嫌ではなかった。
「エレナさん」
「はい?」
「今度、俺の家にも何か本ないか探してみる?」
「ユウさんの家に本があるのですか?」
「こっち来てから手に入れたのが何冊かあった気がする。魔導書じゃなくて普通のやつ」
「読んだのですか?」
「最初の方だけ読んだのもある」
「最後まで読んでいないのですか?」
「眠くなって」
エレナは思わず笑った。
「本当にユウさんらしいですね」
「そうかな」
「はい」
けれど、その提案は嬉しかった。
「見せていただいてもよいですか?」
「いいよ。今度ね」
「はい。今度」
今日すぐに行く必要はない。
約束したからといって、日時を決める必要もない。
そのうち、二人とも行きたい時に行けばいい。
エレナは再び本を開いた。
少しだけ読み進めたところで、遠くから昼を知らせる声が聞こえた。誰かが畑から戻るらしく、村の方で人の動きも増えている。
「お腹空きましたか?」
エレナが尋ねる。
「ちょっと」
「私もです」
「戻る?」
「はい」
栞代わりに細い葉を挟もうとして、エレナは手を止めた。
昔、妹が自分の本の栞を勝手に動かしていたことを思い出す。
少し考え、葉ではなく、持っていた細い布の端を挟んだ。
「それ栞?」
「はい。今度、きちんとしたものを作ってもよいかもしれません」
「ベルさんに?」
「自分で作ってみます」
「紙?」
「布でもよいかもしれません」
「じゃあニコが作りたがりそう」
「……ありそうですね」
二人で笑いながら立ち上がる。
草を払い、村へ戻った。
途中、東側へ続く道が見える場所を通ったが、警戒線の音は聞こえない。誰かが慌ただしく動いている様子もなく、見張り帳のところへ寄る理由もなかった。
エレナはそのまま歩いた。
マーサの家へ戻ると、昼食の準備が始まっていた。
「遅かったね」
「本を読んでいました」
「ユウは?」
「寝ていました」
「やっぱりね」
「どうして分かったのですか?」
「ユウだからさ」
マーサは当然のように答えた。
ユウも否定しない。
「昼、食べてくかい?」
「いいの?」
「一人増えたくらいで変わらないよ」
ユウはエレナを見た。
なぜ自分を見るのだろうと思ったが、すぐに分かった。
ここはマーサの家だが、今はエレナも暮らしている場所だ。
「私は構いません」
「じゃあ食べようかな」
「はい」
三人で昼食を取る。
食事の途中、エレナは借りた本の最初の話をマーサへ説明した。マーサはパン屋が丘を越えなかったところで「賢いじゃないか」と言い、ユウと似た感想だったので、エレナはまた笑った。
午後、ユウは自分の家へ戻った。
「本、今度探しとく」
別れ際にそう言った。
「無理に探さなくてもよいですよ」
「暇な時に見るだけ」
「では、お願いします」
「うん」
ユウが去っていく。
エレナはその背中を少しだけ見送り、家へ戻った。
午後は一人で本を読んだ。
誰かに聞かせるためではなく、自分が読みたい速度で頁をめくる。
途中で疲れたら閉じ、お茶を飲む。
また読みたくなったら開く。
最後まで読まなければならない理由はない。
夕方までに四つ目の話の途中まで進んだところで、今日は終わりにした。
夜、自室の机へ向かう。
日々の記録へ、まず本のことを書いた。
『ベルさんから『丘を越えたパン屋』を借りた。ベルさんのお婆様の本だったらしい。古いけれど読める。最初のお話が好きだった。』
少し考え、「お婆様」ではなく「奥様」と書き直そうとして手を止めた。
ベルは「婆さん」としか言っていない。
妻だと自分が勝手に決めてはいけない。
エレナはその部分を消し、書き直した。
『ベルさんの大切な人が持っていた本らしい。詳しいことは聞いていない。』
これなら、自分が知っている範囲だけだった。
続けて書く。
『昔、妹と読んだ本を思い出した。前より、少しだけ楽しい方を先に思い出せた。』
筆が止まる。
妹に会いたいのかは、まだ分からない。
だから、それ以上は書かなかった。
次に、ユウについての紙を出す。
『ユウさんと外で本を読んだ。ユウさんは途中で寝た。』
そこまで書いて、少し笑う。
『今日は、寝られても寂しくなかった。』
さらに続ける。
『起きたら、まだそこにいると分かっていたからだと思う。』
書いた後、昨日と同じように少し恥ずかしくなる。
けれど、消さなかった。
『ユウさんの家にも本があるらしい。今度、見せてもらう。』
そこで筆を置いた。
窓の外には、今日も静かな村の夜が広がっている。
家の返事はまだない。
東側にも新しい動きはない。
妹が今どこで何をしているのかも分からない。
分からないことは、まだたくさん残っていた。
それでも今日、エレナは一冊の古い本を借りた。
木陰で本を読み、隣でユウが眠り、昼になったから二人で帰ってきた。
それだけの一日だった。
(明日は、続きを読みたいですね)
そう思ってから、エレナは少し考える。
明日になって別のことをしたくなったなら、それでもいい。
読みたい本は逃げない。
エレナは借りた本を机の端へ丁寧に置き、灯りを落とした。




