↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
46/97

第46話 頼まれたこと

 朝食を終えたエレナがマーサの家を出ると、昨夜の冷え込みをわずかに残した空気が頬に触れた。空は薄い雲に覆われているものの雨の気配はなく、家々の煙突から上がる細い煙も、ほとんど風に乱されず真っ直ぐ伸びている。


 村の朝はすでに始まっていた。遠くでは鶏の鳴き声が聞こえ、畑の方からは土を踏む音がする一方、東側から警戒を知らせる音は聞こえてこない。


 道へ出たエレナは、さて今日はどちらへ行こうかと少しだけ迷った。昨日はユウが訪ねてきてくれたので、一緒にオルドのところへ卵を買いに行き、以前より少し柔らかく茹でて食べた後、午後にはマーサの家で見つかった古い冊子を読んで過ごしている。


 けれど、今日はまだ何も決めていない。


(豆を見に行ってもいいですし、ベルさんのところへ行ってもいい。でも、昨日読んだお話をもう一度読んでもいいですね)


 選べるものを頭の中へ並べてみても、以前のように「どれをすべきか」とは考えなかった。どれも今日中に済ませなければ困るものではなく、選ばなかったものを明日に回したところで、誰かが困るわけでもない。


 そんなことを考えながら歩き始めたところで、前方から小さな影が駆けてきた。


「エレナお姉ちゃん!」


 元気な声とともに近づいてきたのは、ベルの孫のニコだった。以前、虫が渡るための小さな橋を作っていた子で、エレナが名前を明かしてからは、会うたびに嬉しそうに「エレナお姉ちゃん」と呼んでくる。


 片手に何かを握っているらしく、走るたびに腕が大きく揺れていた。エレナは反射的に足を止めたが、ニコはそのままぶつかってくることはなく、少し手前で速度を落としてから息を整える。


「おはようございます、ニコ」


「おはよう!」


 元気よく挨拶を返したニコの手には、小さな木片が握られていた。細長い板のような形をしているものの、片方の端が不自然に欠けており、割れたばかりなのか断面だけ色が明るい。


「それはどうしたのですか?」


「これ? 折れた」


 見れば分かる説明だった。


 エレナが思わず笑うと、ニコは少し不満そうに口を尖らせる。


「笑うなよ」


「すみません。でも、あまりにもそのままの説明でしたので」


「だって折れたんだもん」


「それは見れば分かります」


「じゃあ聞くなよ」


 もっともな反論に、エレナはもう一度笑った。


 ニコが持っているのは、以前作っていた虫のための小さな橋とは違うようだった。表面には浅い線が何本か引かれ、端には穴らしいものも開いている。


「何を作っていたのですか?」


「鳥の餌置くやつ。ここに餌置いて、こっちに刺すの」


 ニコは木片を両手で持ち直し、身振りを交えながら説明した。どうやら木の枝か柵へ取りつける、小さな餌台を作ろうとしていたらしい。


「でも、穴開けてたら折れた」


「そうなのですね」


「じいちゃんに言ったら、自分で考えろって」


「ベルさんらしいですね」


 エレナが苦笑すると、ニコは折れた木片をこちらへ差し出した。


「エレナお姉ちゃん、直せる?」


 唐突に尋ねられ、エレナは木片へ視線を落とした。


 最近はベルから鑿の扱いを少しずつ教わっている。籠の修理も経験したし、簡単な木工作業なら以前より分かることが増えた。


 だからこそ、ほんの一瞬だけ「直せると言いたい」という気持ちが胸の中に浮かんだ。


 頼られたのだから応えたい。教わっているのだから、以前よりできるようになっていなければならない。


 そんな考えが、昔から染みついている癖のように顔を出す。


 けれど、目の前の木片をどう直せばよいのか、今のエレナには本当に分からなかった。


「……分かりません」


「分かんない?」


「はい。私も木の扱いはまだ教わっている途中ですから、これをどう直せばよいのかは分かりません」


 そう答えてみると、思っていたよりずっと簡単に「分からない」と言えた。


 知らないことを知らないと言っても、何かを失うわけではない。目の前のニコも落胆している様子はなく、折れた木片をひっくり返して眺めている。


「じゃあ、じいちゃんとこ行く?」


「私もですか?」


「うん」


「どうしてです?」


「エレナお姉ちゃんも分かんないんだろ?」


 あまりにも当然のように言われ、エレナは一瞬言葉に詰まった。


「確かに、分かりませんね」


「じゃあ聞けばいいじゃん」


「……そうですね」


 分からない者同士で、分かる人のところへ聞きに行く。


 ただ、それだけのことだった。


「では、一緒に行きましょうか」


「うん!」


 ニコが先に歩き始める。エレナもその隣へ並び、二人でベルの家へ向かった。


 道の途中で畑の近くを通ると、ガルドが腰を曲げて土を見ていた。声をかけようか迷ったものの、こちらに気づいたガルドの方が先に顔を上げる。


「おう、エレナ!」


「おはようございます」


「今日は豆を見ねえのか?」


「まだ決めていません」


「そうか!」


 ガルドはそれだけ言うと、再び畑へ視線を戻した。来いとも、見ていけとも言わないので、エレナも足を止めずにニコと歩き続ける。


「豆、見ないの?」


「見てもよいのですけれど、今はニコとベルさんのところへ行くことにしましたから」


「あとで見れば?」


「見たくなったら、そうします」


「ふーん」


 ニコはそれ以上興味を示さず、折れた木片を振りながら歩いていく。その気軽さが、今のエレナには心地よかった。


 ベルの家へ着くと、本人は家の脇に置かれた作業台の前にいた。木材の表面を削っているらしく、二人が近づいてもすぐには顔を上げない。


「じいちゃん!」


「走るな」


「走ってない!」


「今走ろうとした」


「してない!」


「ならいい」


 手を止めたベルが、ようやく二人を見る。


「おはようございます」


「おう、エレナ」


 ごく自然に名前を呼ばれ、エレナも「はい」と返した。


 最初の頃ほど胸が大きく動くことはなくなっている。それでも、ベルの口から当たり前のように自分の名前が出てくると、ここで「エレナ」と呼ばれることが少しずつ日常になっているのだと感じられた。


「じいちゃん、これ直したい」


 ニコが折れた木片を差し出した。


「見りゃ分かる」


「どうやって?」


「自分で考えろって言っただろ」


「考えたけど分かんなかった」


「何考えた?」


 ベルが問い返すと、ニコは黙った。


「……くっつける」


「どうやって?」


「分かんない」


「じゃあ、そこからだ」


 ベルは木片を受け取ると、折れた場所を指でなぞった。穴を開けようとした位置が端へ寄りすぎており、薄く残った部分から割れてしまったらしい。


「これを元通りにくっつけるより、別の板で作り直した方が早い」


「直せないの?」


「直せる。だが、直す方が面倒だ」


「じゃあ直さない?」


「それを決めるのはお前だ」


 ニコはしばらく折れた木片を見つめた。


 エレナも横から覗き込みながら、気になったことを尋ねる。


「作り直した場合、この木はどうするのですか?」


「捨ててもいいし、別のもんに使ってもいい」


「別のものに?」


「これだけしか木がねえわけじゃない」


 ベルはそう言って、作業台の下に積まれている端材を顎で示した。大小さまざまな木片があり、きれいな長方形のものばかりではなく、曲がったものや端が欠けたものも混じっている。


「使えなくなったわけではないのですね」


「鳥の餌台には使いにくくなった。それだけだ」


 エレナは折れた木片を見た。


 目的に合わなくなったことと、価値がなくなったことは同じではない。


(前なら、何とか直して元に戻すことばかり考えていたかもしれません)


 以前、自分が鑿の練習で傷だらけにした木片を、ベルが捨てずに渡してくれたことを思い出す。あの木片も、きれいな板としては使えなくなったが、今もマーサの家に置いてあった。


 ニコはしばらく考えた末、折れた木片を指差した。


「これ、虫の橋にする」


「また橋か」


「前のより長いやつ」


「なら勝手にしろ」


「新しい板ちょうだい」


「自分で選べ」


 ベルが端材の山を指差すと、ニコはすぐにしゃがみ込み、木片を一枚ずつ探し始めた。


 エレナはその様子を眺めていたが、ふとベルから声をかけられる。


「エレナもやるか?」


「何をですか?」


「餌台」


 思っていなかった誘いだった。


 エレナはニコが探している木片と、ベルの作業台を交互に見る。


「私も作ってよいのですか?」


「作りたいならな」


「……作ったものは、どうするのです?」


「鳥に聞け」


「鳥にですか?」


「使うかどうかは鳥が決める」


 ベルは真顔だった。


 冗談なのか本気なのか分からず、エレナはしばらく見つめた後で笑った。


「では、作ってみたいです」


「なら板選べ」


 ニコの隣へしゃがみ込む。


 端材を一枚ずつ見ていくと、どれを選べばよいのか迷った。厚さも幅も違い、木目の向きもさまざまである。


「どれがよいのでしょう」


「エレナお姉ちゃん、自分で選ぶんだぞ」


「今、ニコに言われるとは思いませんでした」


「じいちゃんが言った」


「聞いていました」


 ニコは得意そうに笑った。


 エレナは何枚か手に取り、その中から比較的厚みのある板を選んだ。これなら穴を開けても、先ほどの木片ほど簡単には割れなさそうに見える。


「これにします」


 ベルへ見せる。


「なんでだ?」


「厚いからです。穴を開けるなら、薄いものより割れにくいかと思いました」


「それだけか?」


 問い返され、エレナは板を見る。木目についてはよく分からない。


「それ以外は分かりません」


「なら今日はそれでいい」


 ベルは板を受け取らず、作業台の一角を空けた。


「まず何を作るか決めろ。鳥が乗る場所と、餌を置く場所。それから、どこへ付けるかだ」


「先に穴を開けるのではないのですね」


「穴を開ける場所が決まってねえだろ」


「確かにそうです」


 隣でニコが「俺、先に開けた」と呟いた。


「だから折れたんだ」


「分かってるよ!」


 ベルの言葉にニコが頬を膨らませ、エレナは笑いを堪えながら板を作業台へ置いた。


 それからしばらく、三人で小さな餌台について考えた。


 正確には、ベルが最初から答えを教えるのではなく、エレナとニコが考えたことへ必要な時だけ口を挟んだ。鳥が立つ場所が狭すぎれば乗りにくく、餌を置く場所が平らすぎれば風で落ちるが、だからといって深く削りすぎれば雨水が溜まりやすくなる。


「全部ちょうどよくするのは難しいですね」


「だから作ってみるんだろ。最初から分かるなら、試す必要もねえ」


 ベルは自分の作業へ戻りながら答えた。


「失敗してもよいのですか?」


「怪我しなきゃな」


 エレナはその言葉に頷いた。


 ニコが最初に作った板は折れた。それでも作業そのものが終わったわけではなく、折れた板は別のものへ使い、新しい板でもう一度試すことができる。


 エレナは自分の板へ浅く印をつけた。


 鳥が乗る場所と、餌を置く場所。それから、取りつけるための穴の位置を順番に決めていく。


 ベルに確認してもらうと、一つだけ穴の位置をもう少し内側へ動かした方がよいと言われた。


「理由は分かるか?」


「端に近いと、先ほどと同じように割れやすいからでしょうか」


「そうだ」


 エレナは印をつけ直す。


 隣ではニコも新しい板へ線を引いていた。エレナより大胆に描いており、左右の幅も揃っていない。


「ニコ、曲がっていますよ」


「いいんだよ」


「よいのですか?」


「鳥は真っ直ぐかどうか気にしないだろ」


 ニコが言う。


 エレナは反論しようとして、止まった。


「……確かに、そうかもしれません」


「だろ?」


「でも、私は少し真っ直ぐにしたいです」


「じゃあすれば?」


「そうします」


 同じものを作っていても、同じ形にしなくてよい。


 エレナは自分の板へ視線を戻し、納得できるところまで線を引き直した。


 作業を始めてしばらくすると、通りかかったローデンが足を止めた。


「何をしてる?」


「鳥の餌台を作っています」


 エレナが答えると、ローデンは作業台の上を見た。


「ベルに頼まれたのか?」


「いいえ。作りたいなら作れと言われました」


「そうか」


 ローデンはニコの板も見てから、ベルへ視線を向けた。


「東は今朝も変わりなしだ。警戒線も鳴ってないし、昨日までのところにも新しく見るもんはない」


「そうか」


 ベルは短く頷いただけだった。


 エレナも手を止めて聞いていたが、それ以上尋ねなかった。東側の筋跡について必要な確認はすでに行われており、新しいものがないなら、今日はそれでよい。


「家の方も、まだだ」


 ローデンが今度はエレナを見る。


「はい」


「一応言っとこうと思ってな」


「ありがとうございます」


 返事はまだ来ていない。


 エルドが昔いたという町の情報が見つかったからといって、すぐに現在の居場所へつながるわけではない。今はローデンたちが問い合わせの流れを確認している途中なのだから、自分にできることは待つことだった。


「急いでいません」


「前より本当にそう言うようになったな」


 ローデンが少し笑った。


「以前は違いましたか?」


「来たばっかりの頃は、何でもすぐ答えを出さなきゃいけない顔してた」


 エレナは言葉を失った。


 自分では気づいていなかったが、そう見えていたのだろう。


(答えが出ないまま待つことが、怖かったのでしょうね)


 王都では、分からないことを残すほど不安になった。正解を見つけ、失敗しないよう準備し、それでも足りないと言われれば、もっと早く答えへたどり着かなければならないと思っていた。


 今は少し違う。


「待っている間にも、することがありますから」


 エレナは手元の板を見る。


「今日はこれを作っています」


「鳥の餌台か」


「はい」


「家の返事より大事か?」


 ローデンの問いに、エレナは少し考えた。


「比べなくてもよいのではないでしょうか」


 口にしてから、自分でも少し驚いた。


 家の返事は大事だ。自分がこの村でどこに住むのかに関わることなのだから、どうでもよくなったわけではない。


 けれど、その返事を待っている間に鳥の餌台を作ることが、無意味になるわけでもなかった。


「家の返事は待ちます。でも、餌台は今作りたいので作ります」


「そうか」


 ローデンはそれ以上何も言わず、満足したように頷いた。


「じゃあ邪魔したな」


「邪魔ではありません」


「それならいい」


 彼が去っていくのを見送り、エレナは作業へ戻った。


 ベルに道具の使い方を確認しながら、少しずつ板を削っていく。以前より手元は安定していたが、まだ力の入れ方を誤ることがあり、一度だけ予定より深く削ってしまった。


「あ……少し削りすぎました」


「そうだな」


「どうしましょう」


「どうしたい?」


 また、ベルから答えそのものは返ってこなかった。


 エレナは溝をよく見る。餌を置く場所として使えないほどではないが、一部分だけ深いので、このままではそこへ餌が集まりやすくなるかもしれない。


「周りを少しだけ合わせることはできますか?」


「できる」


「では、そうします」


「削りすぎんなよ」


「気をつけます」


 慎重に道具を動かしていく。


 完全に均一にはならなかったが、最初より違和感は減った。エレナは指先で表面を確かめたところで、これ以上触らないことにする。


「ここで止めます」


「なんで?」


 ニコが横から覗き込む。


「もっときれいにしようとすると、今度は別の場所を削りすぎそうですから」


「じゃあ終わり?」


「まだ穴があります」


「あ、忘れてた」


「私は覚えています」


「さっき失敗したくせに」


「失敗したから覚えているのです」


 二人で言い合っていると、ベルが鼻で笑った。


 穴を開ける作業は、ベルが最初に見本を見せた。力を一気にかけず、位置をずらさないよう少しずつ進めていくのを、エレナは手元までよく見てから、自分の板へ道具を当てる。


 緊張はしたが、以前のように「絶対に失敗してはいけない」とは思わなかった。


(割れたら、その時にどうするか考えればいい)


 そう考えられるだけで、手に入る余計な力が少し抜けた。


 ゆっくり進め、途中で一度止める。ベルに見てもらうと「そのまま」と言われたので続きを進め、やがて穴が通った。


「できました」


「もう一個あるぞ」


「……そうでした」


 喜ぶには少し早かった。


 エレナが苦笑しながら二つ目へ取りかかる横で、ニコも自分の板と格闘している。こちらは最初より手が安定し、二人とも板を割ることなく穴を開けられた。


「できた!」


 ニコが先に声を上げた。


「私もできました」


「どっちが上手い?」


「比べるのですか?」


「うん」


 ニコが自分の板とエレナの板を並べた。


 エレナの方が線は真っ直ぐで、溝も比較的整っている。一方、ニコの板は少し歪んでいるものの、鳥が乗る場所はエレナのものより広かった。


 少し前までの自分なら、どちらが優れているかを探したかもしれない。


「どちらも鳥が使ってくれればよいのでは?」


「それじゃ勝負にならないじゃん」


「勝負だったのですか?」


「今決めた」


「それはずるいです」


「じゃあ今から勝負」


「もう作り終わっています」


 エレナが呆れると、ニコは楽しそうに笑った。


 ベルが二つの餌台を確認し、それぞれを軽く指で押してから「使える」とだけ告げる。


「どっちがいい?」


「鳥に聞け」


「またそれ!」


 ニコが声を上げ、エレナは堪えきれずに笑った。


 作った餌台は、すぐに村の中へ設置することになった。


 ニコのものはベルの家の裏にある木へ取りつけるらしい。エレナは置く場所を決めていなかったため、自分の餌台を両手で持ったまま道へ出た。


「エレナお姉ちゃんの、どこに置く?」


「そうですね……」


 村を見渡す。


 自分の家はまだない。


 マーサの家へ勝手に取りつけるわけにもいかないし、誰かの畑へ置くなら許可が必要だ。


「マーサさんに聞いてみます」


「じゃあ俺も行く」


「ニコも来るのですか?」


「見る」


「自分のものはよいのですか?」


「あとで鳥来るから」


 鳥がいつ来るか分からないのに、ニコは妙に自信満々だった。


 二人でマーサの家へ戻ると、彼女は外で洗濯物を干していた。エレナの手にある木の板を見るなり、少し眉を上げる。


「今度は何を作ったんだい?」


「鳥の餌台です」


「鳥を飼うのかい?」


「いえ、野鳥です」


「勝手に食べに来るやつか。それで?」


「家の近くへ置いてもよいでしょうか」


 マーサは洗濯物を干す手を止め、家の周囲を見回した。


「畑の近くはやめときな。鳥が寄りすぎても面倒だからね」


「そうなのですね」


「裏の木ならいいんじゃないかい。洗濯物の真上じゃなけりゃ」


「では、そこにします」


 設置場所を決め、ニコと一緒に家の裏へ回る。


 適当な高さの枝を探したが、二人だけでは取りつけ方に迷った。そこへマーサがやってきて、家にあった古い紐を一本渡してくれる。


「これ使いな」


「ありがとうございます」


「ちゃんと落ちないようにしなよ」


「はい」


 エレナは結び方に自信がなかったため、ニコと二人で試してみたものの、最初の結び目は簡単に緩んだ。


「これでは落ちますね」


「もっと強く結べば?」


「強く引くだけでは駄目な気がします」


「ユウ兄ちゃん呼ぶ?」


 ニコが言った。


 エレナは一瞬だけ考えた。


 ユウなら、何か方法を知っているかもしれない。


 けれど、何でもユウへ聞く必要はない。


「ベルさんに聞きましょうか」


「戻るの?」


「作り方を教えてくださったのですから、取りつけ方も知っているでしょう」


「じいちゃんに聞いたら、自分で考えろって言うぞ」


「その可能性はありますね」


 二人が顔を見合わせていると、背後から聞き慣れた声がした。


「何してるの?」


 振り返ると、道の向こうからユウが歩いてきていた。手には小さな布袋を持っており、特に急いでいる様子もない。


「ユウ兄ちゃん!」


「おはようございます」


「おはよう。二人で木に何つけてるの?」


「鳥の餌台です」


 エレナが答えると、ユウは近づいて板を眺めた。


「作ったの?」


「はい。ベルさんに教わりながらですが」


「へえ」


 ユウが餌台を見る。


 その視線が、深く削りすぎて調整した場所で少し止まった。


「ここ、ちょっと形違うね」


「削りすぎました。周りを少し合わせたのですが、これ以上触るとまた削りすぎそうでしたので、途中でやめました」


「いいんじゃない?」


「はい。ベルさんも使えると言ってくださいました」


 ユウは頷いた。


「それで、今は取りつけられない?」


「結び方が分からなくて」


「やる?」


 ユウが紐へ手を伸ばしかけた。


 エレナは反射的に渡しそうになり、少しだけ止まった。


「……教えてもらえますか?」


「結び方?」


「はい。できるなら、自分でやってみたいです」


「いいよ」


 ユウは紐を受け取らず、自分の手で別の短い紐を取り出した。布袋を結んでいたものらしく、それを使って簡単な結び方を見せてくれる。


「こう回して、こっち通してから締めると、さっきより緩みにくいと思う」


「もう一度お願いします」


「いいよ」


 二度目はゆっくりだった。


 エレナは指の動きを追い、今度は自分の紐で同じように試す。最初は途中で順番が分からなくなったが、ユウに一箇所だけ教えてもらうと、最後まで自分の手で結ぶことができた。


「これでどうでしょう」


 餌台を軽く揺らしてみる。


 先ほどより安定していた。


「大丈夫そう」


「できました」


 エレナは少し離れて眺めた。


 木の枝へ取りつけられた小さな餌台は、決してきれいな出来ではない。左右も完全には揃っておらず、削った溝にもわずかな凹凸が残っている。


 それでも、自分で作ったものだった。


「餌入れよう!」


 ニコが声を上げる。


「何を入れるのです?」


「知らない」


「そこは考えていなかったのですか?」


「じいちゃんとこに何かある」


「また戻るのですね」


 エレナが笑うと、ニコはもう走り出しかけていた。


「ニコ、走ると転びますよ」


「分かってる!」


 返事だけは立派だった。


 ニコが去った後、エレナは餌台を見上げる。隣にはユウが残っていた。


「今日は何してたの?」


「特に決めずに外へ出たところで、ニコに会いました。折れた木を直せるかと聞かれたのですが、分からなかったので一緒にベルさんへ聞きに行ったのです」


「直したの?」


「いいえ。新しく作りました。折れた方は、また虫の橋にするそうです」


「虫の橋増えるんだ」


「増えるようです」


 二人で少し笑う。


 エレナは餌台を見ながら、今日の出来事を思い返した。


「最初に頼まれた時、少しだけ考えました」


「何を?」


「直せるようにならなければいけないのではないか、と」


 ユウは急かさず、続きを待っている。


「最近、ベルさんから木のことを教わっています。籠も少し直せるようになりました。ですから、ニコに『直せる?』と聞かれた時、できないと答えるのが少しだけ嫌でした」


「うん」


「でも、分からなかったので、分からないと言いました」


「それで一緒に聞きに行った?」


「はい」


 エレナは自分の手を見る。


 木を削ったせいで、指先に少しだけ木の粉が残っていた。


「以前なら、頼られたのに答えられないことを、もっと恥ずかしいと思っていた気がします」


「今は?」


「少しは思いました。でも、知らないものは知らないですから。それに、私が直せなくてもベルさんは知っていました」


 口にすると、それは当たり前のことだった。


「私ができなければ終わるわけではありませんでした」


「うん」


 ユウが穏やかに頷く。


 それだけで十分だった。


 何か特別な答えをもらわなくても、エレナ自身が今日経験したことを言葉にできた。


「あと、ベルさんに餌台を作るかと聞かれたので、作りました」


「頼まれたんじゃなくて?」


「はい。作りたいなら、と」


「楽しかった?」


 エレナは餌台を見上げた。


「楽しかったです」


「じゃあよかったね」


「はい」


 風が少し吹き、木の葉が揺れた。餌台もわずかに動いたが、紐は緩まない。


「ユウさん」


「ん?」


「昨日、次に何か見つけたら誘うと言っていましたね」


「言ったね」


「今日は何か見つけましたか?」


 少しだけ期待しながら尋ねる。


 ユウは考えるように視線を上へ向けた。


「見つけたっていうか……昼に、ガルドさんの畑の近くで変な形の芋があった」


 エレナはしばらく黙った。


「……芋ですか?」


「うん。三つに分かれてるみたいなやつ」


 想像してみる。


 よく分からない。


「それを、私に見せようと思ったのですか?」


「昨日そう言ったから」


 ユウは何でもないことのように答えた。


「でも、ガルドさんが昼に掘るって言ってたから、まだあるか分からない」


 エレナの口元が自然に緩んだ。


 珍しい宝石でもなければ、魔法に関係するものでもない。ただ形の変わった芋である。


 それでも、ユウは見つけた時に自分を思い出したのだ。


「見たいです」


「芋だよ?」


「昨日、普通のものでも構わないと言いました」


「じゃあ行く?」


「はい」


 答えてから、エレナは餌台を見る。


 ニコはまだ戻ってきていない。餌を置くところまで見届けることもできるが、それは自分がいなければできないことではない。


「マーサさんに、少し出てくると伝えてきます」


「待ってる」


 エレナは家の表へ回り、洗濯物を干していたマーサへ声をかけた。


「ユウさんとガルドさんの畑へ行ってきます」


「何しに?」


「変な形の芋を見るそうです」


 マーサの手が止まった。


「……何だって?」


「変な形の芋です」


「そうかい」


 マーサはそれ以上聞かなかったが、口元が少し笑っている。


「何ですか?」


「別に。行っておいで」


「はい」


 エレナは少し不思議に思いながらユウのところへ戻った。


 二人で畑へ向かう。


 昨日は卵だった。


 今日は芋である。


 それだけを考えると、何をしているのだろうと思わなくもない。


(でも、こういうのも楽しいですね)


 胸の中で言葉にすると、それだけで足取りが少し軽くなった。


 ガルドの畑へ着くと、本人は畑の端で土を掘り返していた。


「ガルドさん」


「おう!」


 ガルドが顔を上げる。


「変な芋、まだありますか?」


 ユウが尋ねると、ガルドは大きく笑った。


「お前、本当にエレナを連れてきたのか!」


「見たいって」


「私が見たいと言いました」


 エレナが補足する。


「そんな面白いもんじゃねえぞ!」


「それは見てから決めます」


「そうか!」


 ガルドは楽しそうに畑の端へ向かい、籠の中から土のついた芋を一つ取り出した。


 確かに変な形だった。


 普通なら一つの塊になるはずの部分が三方向へ伸び、それぞれが丸く膨らんでいる。見る角度によっては、小さな三本脚の生き物が座っているようにも見えた。


 エレナは受け取らず、ガルドの手の中を覗き込んだ。


「……本当に変ですね」


「だろ!」


「これは、よくあるのですか?」


「たまにある!」


「食べられる?」


 ユウが尋ねる。


「芋だからな!」


「じゃあ食べるんだ」


「食うぞ!」


 エレナはもう一度芋を見る。それからユウへ視線を移した。


「これを見て、私を思い出したのですか?」


「変な意味じゃないよ」


「分かっています」


 思わず笑ってしまう。


「昨日、何か見つけたら誘うって言ったから」


「はい」


「それで見つけた」


「芋を」


「芋を」


 ユウも少し笑った。


 エレナはもう一度、三本脚のような芋へ目を向けた。


 昨日なら、次に誘われる時は何だろうと少しだけ想像していた。きれいな花かもしれないし、珍しい鳥かもしれない。何か村でしか見られないものかもしれないと、具体的でもない期待を抱いていた。


 実際に待っていたのは、土まみれの変な芋だった。


 けれど、不思議と期待外れではない。


「ありがとうございます」


「芋見せただけだけど」


「それでもです」


 エレナは笑ったまま答えた。


「約束を覚えていてくださったので」


 ユウが少しだけ視線を逸らした。


「約束ってほどでもないけど」


「私にとっては、楽しみにしていたことです」


 そう言うと、ユウは少し困ったような顔をした後、また芋を見る。


「じゃあ、次はもう少しちゃんとしたもの探す」


「いいえ」


「え?」


「普通のものでよいと言いました」


 エレナはガルドの手の中にある芋を指差した。


「これで十分です」


「変な芋だぞ?」


 ガルドが笑う。


「はい。変な芋でした」


「そこは否定しねえのか!」


 三人の笑い声が畑へ広がった。


 その時、背後から足音が近づいてくる。


「エレナお姉ちゃん!」


 振り返ると、ニコが小さな袋を抱えて走ってきていた。


「ニコ、走らないでください」


「走ってない!」


「今は走っていました」


「ちょっとだけ!」


 ニコは息を弾ませながら立ち止まり、袋を掲げた。


「餌もらった!」


「ベルさんからですか?」


「うん。種の残り!」


「では、餌台へ置けますね」


「一緒に来る?」


 尋ねられ、エレナは少し考えた。


 今はユウと芋を見に来ている。芋を見るという目的はもう果たしたが、すぐに戻らなければならないわけでもない。


「ユウさんはどうしますか?」


「俺?」


「はい。私は餌台へ戻ろうと思いますが」


「じゃあ俺も行こうかな」


 自然に返ってきた言葉に、エレナは少しだけ目を細めた。


「では、一緒に行きましょう」


「おう、持ってけ!」


 ガルドが突然、変な形の芋を差し出した。


「よいのですか?」


「食えるぞ!」


「それは聞きました」


「マーサに煮てもらえ!」


「私も手伝います」


「好きにしろ!」


 エレナは両手で芋を受け取った。土が少し手についたが、それも気にならなかった。


 三人でマーサの家へ戻ると、ニコが餌台へ種を入れた。入れすぎて少しこぼし、エレナとユウで拾っていたが、全部を元へ戻そうとしたところでマーサから「地面の分は鳥が勝手に食べるよ」と言われたため、途中でやめた。


「来るかな?」


 ニコが木を見上げる。


「すぐには来ないのでは?」


「待つ」


「ずっとですか?」


「ちょっと」


 ニコは庭の端へしゃがみ込んだ。


 エレナも少し離れた場所へ腰を下ろす。ユウは最初立っていたが、やがて家の壁際に置かれた古い木箱へ座った。


 誰も話さない時間が流れていく。


 風が葉を揺らし、干された洗濯物がかすかに動く。餌台には何も来ず、時折遠くから聞こえる鶏の声だけが静かな庭へ届いていた。


 ニコが一度姿勢を変える。


「来ない」


「まだ置いたばかりですから」


「虫の時も来なかった」


「橋の時ですか?」


「うん」


「それでも待つのですか?」


「次が来るかもしれない」


 以前と同じ答えだった。


 エレナは餌台を見る。


 自分たちが作ったからといって、鳥が使うとは限らない。今日来なければ明日かもしれないし、結局一度も使われないかもしれない。


 それでも、作った時間まで無駄になるわけではない。


 しばらくすると、遠くの屋根へ小さな鳥が一羽止まった。


「あ!」


 ニコが声を上げかけ、慌てて自分の口を押さえる。


 鳥はこちらを警戒するように首を動かしていたが、餌台へは来なかった。やがて飛び立ち、別の屋根の向こうへ消えてしまう。


「行っちゃった」


 ニコが残念そうに呟く。


「また来るかもしれません」


「うん」


 それだけで立ち直り、ニコは再び餌台を見る。


 エレナも同じ方向を見ていたが、隣の木箱に座るユウの気配を意識した。


 昨日は、古い冊子を読む自分の近くにユウがいた。今日は、鳥が来るかどうかも分からない餌台を一緒に眺めている。


 何かを成し遂げているわけではない。


 誰かの役に立っている時間でもない。


 けれど、退屈ではなかった。


「ユウさん」


「ん?」


「今日は、変な芋を見つけてくださってありがとうございました」


「また言うの?」


「はい」


「そんなに嬉しかった?」


 エレナはすぐには答えず、餌台を見た。


 嬉しかった理由は、芋そのものではない。


 昨日の言葉を覚えていたこと。


 何かを見つけた時、自分のことを思い出してくれたこと。


 そして、それを一緒に見ようと思ってくれたこと。


(私は、ユウさんの中に自分の居場所が少しあることが嬉しいのでしょうか)


 そこまで考えたところで、胸の奥が少しだけ熱くなった。


 まだ、その感情へ名前をつける必要はないと思った。


「はい。嬉しかったです」


 代わりに、それだけを口にする。


 ユウは少し黙った後、餌台へ視線を戻した。


「じゃあ、また何かあったら呼ぶ」


「はい」


「でも本当に普通のものだよ」


「構いません」


「曲がった枝とかでも?」


「少し考えます」


「芋はよくて枝は駄目なんだ」


「見てみなければ分かりません」


 エレナが笑うと、ユウも小さく笑った。


 しばらくして、ニコが「あ」と小さな声を漏らす。


 今度は誰もすぐに動かなかった。


 家の屋根へ、小さな鳥が二羽止まっている。一羽がこちらを見ているように首を傾け、もう一羽は屋根の端を跳ねるように移動した。


 ニコが息を潜める。


 エレナも声を出さずに待った。


 やがて一羽が飛んだ。


 餌台ではなく、すぐ近くの枝へ止まる。そこからさらに一度だけ羽ばたき、木の幹に近い枝へ移った。


 餌台までは、まだ少し距離がある。


「来るかな」


 ニコが囁く。


「分かりません。でも、待ってみましょう」


 エレナも小さな声で答えた。


 鳥はしばらく枝の上で周囲を見回していた。


 そして、もう一度羽ばたく。


 小さな足が、エレナの作った餌台の縁へ触れた。


 ニコが両手で口を塞ぐ。


 エレナも思わず身体を前へ傾けかけたが、驚かせたくなくて途中で止まった。


 鳥は数度首を動かした後、置かれていた種を一粒ついばんだ。


 ほんの短い時間だった。


 すぐに飛び去ってしまったが、餌台の上には一粒分だけ減った種が残った。


「食べた!」


 鳥が十分離れてから、ニコが立ち上がった。


「食べたぞ!」


「見ていました」


「エレナお姉ちゃんの使った!」


「はい」


 エレナも立ち上がり、餌台を見る。


 少し歪んでいる。


 削りすぎた場所もある。


 結び目も、一人では作れなかった。


 それでも鳥は使った。


「よかったね」


 ユウの声が横から聞こえる。


「はい。使ってもらえました」


 エレナは笑った。


「じゃあ成功?」


 ニコに尋ねられ、エレナは少し考えた。


「今日のところは、そういうことにしましょうか」


「なんで今日だけ?」


「明日も来るかは分かりませんから」


「来なくても今日食べたじゃん」


 ニコの言葉に、エレナは瞬きをした。


 それから、ゆっくり頷く。


「……そうですね」


 一度役に立ったものは、次も役に立ち続けなければ意味がないわけではない。


 今日一羽の鳥が使った。


 それだけで、今日作った餌台には十分な出来事があった。


「では、成功です」


「やった!」


 ニコが嬉しそうに跳ねる。


 エレナも笑いながら、もう一度餌台を見上げた。


 夕方になると、エレナはガルドにもらった芋をマーサと一緒に料理した。


 三つに分かれた部分をどう切るか少し迷ったが、形が変わっているだけで中身は普通の芋だった。煮込んでしまえば元の形は分からなくなり、夕食の皿へ盛られた頃には、朝からの出来事を知らない者なら変な芋だったとは気づかないだろう。


「普通の芋だね」


 マーサが一口食べて言う。


「普通ですね」


「形が変でも味は同じか」


「はい」


「残念かい?」


「いいえ」


 エレナは自分の皿から一切れ取った。


「見る時は面白かったですから」


「ならよかったね」


 食後、自室へ戻ったエレナは机へ向かった。


 今日は書くことが多い。


 最初に、日々のことを記している紙を広げる。


『ニコに、折れた木を直せるか聞かれた。分からなかったので、一緒にベルさんへ聞きに行った。』


 そこで一度手を止める。


 以前なら、「直せなかった」と書いたかもしれない。


 今日は少し違う。


『分からないと言っても、困らなかった。』


 その下へ続ける。


『鳥の餌台を作った。削りすぎたところがあった。穴は二つとも開けられた。ユウさんに結び方を教えてもらった。鳥が一羽使った。』


 エレナはそこまで書き、少し笑った。


 鳥が使ったことは、思っていた以上に嬉しかった。


 次に、別の紙を取り出す。


 ユウについて書いている紙だった。


『ユウさんが変な形の芋を見つけて、私を誘ってくれた。』


 書いてみると、少し可笑しい。


 けれど消さない。


『昨日言ったことを覚えていてくれた。』


 その次を書こうとして、手が止まった。


 今日、自分が一番嬉しかったことは何だったのだろう。


 変な芋を見たこと。


 誘われたこと。


 一緒に餌台を見たこと。


 どれも楽しかった。


 けれど、その奥にもう一つある。


(ユウさんが何かを見た時、私を思い出してくれた。それが嬉しかった)


 今度は、胸の中で言葉になった。


 エレナは少し迷った後、そのまま紙へ書く。


『ユウさんが何かを見た時、私を思い出してくれたことが嬉しい。』


 書き終えた途端、急に恥ずかしくなった。


 紙を折ろうとして、やめる。


 自分しか読まないものなのだから、隠す必要はない。


 エレナはもう一度その一文を読み、消さずに残した。


 窓の外は、すでに暗くなり始めていた。


 東側から警戒を知らせる音は聞こえず、三軒目の家について新しい知らせもなかった。今日も、自分のこれからを大きく変えるような答えは何一つ出ていない。


 それでも、分からないことを分からないと言えた。


 作りたいものを作り、失敗したところは直し、直しきらなくても使えるところで止められた。鳥が一羽来て、ニコは喜び、ユウは変な形の芋を見つけた時に自分を思い出してくれた。


 それで十分だった。


 エレナは紙を折り、いつもの場所へしまった。


 明日になれば、鳥は来ないかもしれない。


 家の返事も、まだ来ないかもしれない。


 ユウが何かを見つけるとも限らない。


 けれど、それを今日のうちに決める必要はなかった。


 寝台へ入る前、エレナは窓の向こうにある暗い村を少しだけ眺めた。遠くの家から漏れる灯りと、夜の静けさに包まれた道を眺めているうちに、今日一日の小さな出来事がゆっくり胸の中へ馴染んでいく。


「おやすみなさい」


 誰に聞かせるでもなく呟いてから、窓を閉じた。


 明日のことは、明日になってから考えればいい。


 今夜のエレナには、それで十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。