第45話 覚えていたこと
翌朝、エレナは自分の名前を呼ばれて目を覚ました。
「エレナ。起きてるかい?」
扉の向こうから聞こえたマーサの声に、寝台の中で目を開ける。昨日一日で何度も呼ばれたはずなのに、眠りから覚めた直後に聞く自分の名前はまだ少し新鮮で、エレナは布団の中で小さく笑ってから返事をした。
「起きています。今行きます」
「ならいいよ。朝飯にするからね」
マーサの足音が遠ざかっていく。エレナは身体を起こし、窓から差し込む朝の光を眺めながら、昨日までなら「お嬢さん」や「あんた」と呼ばれていた朝を思い出した。
不思議なものだった。
エレナという名前は十九年間ずっと自分のものだったのに、この村では昨日から始まったばかりだ。それでも、マーサの声で呼ばれた名前には、王都で聞いていたものとは違う温かさがあるように感じられた。
寝台から下り、着替えを済ませる。
右の踵については、今朝もすぐには思い出さなかった。部屋を出ようとしたところでようやく気づき、痛みがないことだけ確かめると、それ以上触らずに廊下へ出た。
台所では、マーサが朝食の支度をほとんど終えていた。
「おはようございます」
「おはよう、エレナ」
「……やはり、まだ少し変な感じがします」
「昨日より返事は早かったよ」
「そうですか?」
「ああ。そのうち気にもならなくなるさ」
マーサはそう言ってパンの入った籠を卓へ置いた。
エレナもスープを運び、二人で朝食を始める。昨日名前を伝えたからといって、朝の仕事が変わるわけでも、食事が豪華になるわけでもない。
それが心地よかった。
「今日はどうするんだい?」
マーサに尋ねられ、エレナはパンをちぎりながら考えた。
「まだ決めていません。ベルさんのところへ昨日行きましたから、今日は行かなくてもよいでしょうし、石鹸もまだ出来上がる頃ではありませんよね」
「まだだね。気になるからって毎日触ったら、サナに怒られるよ」
「それは避けたいです」
エレナは笑いながらスープを口へ運んだ。
豆の芽を見に行くことも考えたが、昨日までのように毎朝行かなければならないわけではない。行きたいなら行けばよいし、今日は別のことをしてもよい。
「本を読めたらよいのですけれど」
「本?」
「はい。以前、ユウさんと話したのです。昔は本を読むのが好きだったと」
妹と一緒に読んだ古い物語のことを思い出す。
老夫婦が旅をしながら土地ごとの料理を食べていく話だった。妹が勝手に部屋へ入り、先に読んでは栞を動かしてしまったことまで、今では少し懐かしく思える。
「ハインさんが次に来たら、何か本を持っていないか聞いてみようと思っています」
「まだ先だろう?」
「はい。でも、待てます」
そう答えると、マーサが少し考えるように首を傾けた。
「うちには本らしい本はないねえ。昔、息子が使ってた文字の練習板ならどっかにあるかもしれないけど」
「それは本ではありませんね」
「だからないって言ってるだろ」
「そうでした」
二人で笑い、朝食を続ける。
食事を終えた後、エレナは食器を洗いながら今日のことを考えた。予定が決まっていない朝にも、以前ほど不安を感じなくなっている。
何も決めていないことと、何もすることがないことは同じではない。
やりたいことが見つかれば、その時にすればよい。
片づけを終え、エレナが洗った布巾を干そうとしていると、玄関の戸を叩く音がした。
「誰だい?」
「俺」
聞き慣れた声だった。
マーサがエレナを見る。
「ユウだね」
「……はい」
「私が出るかい?」
「なぜ私を見るのですか?」
「別に」
明らかに何か含んでいるような顔をされたが、エレナは追及しなかった。手を拭いて玄関へ向かい、戸を開ける。
「おはようございます、ユウさん」
「おはよう、エレナさん」
昨日から聞き始めた呼び方に、まだ胸が少しだけ反応する。
エレナはそれを顔へ出さないようにしながら、ユウが手ぶらで立っていることに気づいた。何かを届けに来たわけでも、誰かに呼ばれている様子でもない。
「どうしたのですか?」
「今、暇?」
「はい。特に予定はありません」
「じゃあ、ちょっと行かない?」
エレナは瞬きをした。
「どこへですか?」
「オルドさんのところ」
「何かあったのですか?」
「卵があるって」
予想していなかった答えだった。
「卵?」
「うん。朝、オルドさんに会ったら今日は少し多く採れたって言ってたから」
「そうなのですね」
エレナはそこまで答えたところで、なぜユウがわざわざ自分を誘いに来たのか分からなくなった。
卵が多く採れた。
それは分かる。
しかし、エレナが卵を買わなければならない理由はない。
「……それを、なぜ私に?」
尋ねると、ユウは少しだけ首を傾けた。
「前に言ってたから」
「何をですか?」
「次はもう少し柔らかい茹で卵にしてみたいって」
エレナは何も言えなくなった。
確かに言った。
最初に自分で茹で卵を作った時、前より柔らかくできたことを喜びながら、次はもう少しだけ柔らかくしてみたいと話した。
けれど、それは何日か前の何気ない会話だった。
「……覚えていたのですか?」
「言ってたから」
「それは、そうなのですが」
ユウは不思議そうな顔をしている。
エレナにとっては、「言っていたから覚えていた」で簡単に終わらせられることではなかった。
自分が何気なく口にしたことを、ユウが覚えていた。
しかも、卵があると知って、自分からここまで来た。
「買うかどうかはエレナさんが決めればいいけど、あるうちに言っとこうかなって」
その言葉で、さらに胸の奥が温かくなる。
買ってきたわけではない。
勝手に用意したわけでもない。
卵があることだけを教えに来て、買うかどうかは自分へ残してくれている。
「買いたいです」
「じゃあ行く?」
「はい」
即答した後で、エレナは少しだけ待ってもらい、マーサへ声をかけた。
「マーサさん。オルドさんのところへ行ってきます」
「卵かい?」
「なぜ分かったのです?」
「さっき聞こえてたよ」
「……そうでしたか」
マーサが楽しそうに笑っている。
「財布忘れるんじゃないよ」
「持っています」
「なら行っておいで」
エレナは玄関へ戻り、ユウと一緒に外へ出た。
朝の村は穏やかだった。
昨日見つかった東道脇の筋跡について騒いでいる人はいない。警戒線も鳴っておらず、見張り帳へ新しい記録が加わったという知らせもなかった。
それなら、今日は卵を買いに行けばよい。
二人で道を歩き始める。
しばらくして、エレナは隣のユウを見た。
「ユウさん」
「ん?」
「今日は、ユウさんから誘ってくださいましたね」
「そうだね」
「……そうですね」
自分から言っておいて、それ以上何を続ければよいのか分からなくなった。
ここ最近、豆を見るのも、もう少し一緒にいてほしいと言うのも、自分から声をかけることが多かった。それを嫌だとは思っていなかったが、今朝はユウの方から自分を訪ねてきた。
「嬉しい?」
突然尋ねられ、エレナは少し驚いた。
「どうしてそう思うのです?」
「何となく」
「……はい」
隠す理由を探したが、必要ないと思い直す。
「嬉しいです」
「そっか」
「はい。私ばかり誘っているのではないかと考えたことはありましたから」
「そうなの?」
「少しだけです」
エレナは前を向きながら続けた。
「でも、誘いたい時に誘えばよいのだとも思っていました。それでも今日は、ユウさんから来てくださったので……嬉しいです」
言葉にすると、やはり少し恥ずかしい。
けれど、昨日名前を伝えた時ほどではなかった。
ユウはしばらく黙って歩いてから、何でもないことのように答えた。
「俺も、誘いたかったから来たんだけどね」
エレナの足がわずかに遅くなった。
「卵があったから、ではなく?」
「卵があったから思い出したのはそうだけど、別に伝えなくても困らないでしょ」
「……そうですね」
「だから、エレナさんと行こうかなって」
胸の奥が、また温かくなる。
昨日から、自分の名前がユウの声で呼ばれるたびに、少しずつ違う感情が積み重なっている気がした。
それが何なのかは、まだ考えない。
「ありがとうございます」
「卵買いに行くだけだよ」
「それでもです」
二人がオルドの家へ着くと、柵の向こうで鶏が何羽も歩いていた。
オルドは餌を撒いているところだった。こちらに気づくと、手を止めずに顎だけを上げる。
「来たか」
「おはようございます」
「卵ならあるぞ」
「一つ、いただきたいです」
「一つでいいのか?」
エレナは少し考えた。
前なら、多めに買っておいた方がよいのではないかと考えたかもしれない。しかし今日は、一つを茹でて食べたいと思って来ただけだ。
「はい。一つで十分です」
「なら待ってろ」
オルドが家の中へ入り、しばらくして卵を一つ持って戻ってくる。
エレナは自分の財布から代金を出した。村へ来た当初は「今すぐ返さなくてもよい」と言われることばかりだったが、今は自分で払えるものについては普通にやり取りすることも増えている。
「ありがとうございます」
「落とすなよ、エレナ」
「落としません」
「前もそう言ってなかったか?」
「前は買った後にかなり緊張しましたが、今日は少し慣れています」
「卵持つのに慣れも何もあるか」
オルドは笑いながら再び鶏へ餌を撒き始めた。
エレナは両手で卵を包み、少しだけその重さを確かめる。前に買った時と同じ卵なのに、今日は別の理由で嬉しかった。
「ユウさん」
「ん?」
「これから茹でてみます」
「うん」
「見ますか?」
口にしてから、エレナは少し考える。
「……いえ、見てほしいです」
以前なら、「もし暇でしたら」と付け加えたかもしれない。
今日は自分がどうしたいのかを先に言えた。
「いいよ」
ユウもすぐに答える。
二人はマーサの家へ戻った。
台所へ入ると、マーサはエレナの手にある卵を見てすぐに事情を察したらしい。鍋を使ってよいか尋ねると、「割らなきゃ好きにしな」と場所を空けてくれた。
「前は、どのくらい茹でましたっけ」
「私に聞くのかい?」
「覚えていませんか?」
「自分でやったんだから自分で思い出しな」
「そうでした」
エレナは苦笑しながら鍋へ水を入れた。
ユウは台所の入口近くに立っている。
「ユウさんのいたところでは、卵を柔らかく茹でる方法は決まっていたのですか?」
「時間測る人は多かったと思うよ」
「時間」
「何分茹でるとか」
「なるほど」
エレナは少し考えた後、首を横へ振った。
「でも、こちらには同じように正確に時間を測るものがありませんね」
「砂時計とか?」
「家にはありません」
「じゃあ前と比べて少し早く出すとかでいいんじゃない?」
「そうしてみます」
前回とまったく同じ条件を再現できなくてもよい。
少し早く取り出してみる。
それで柔らかすぎれば、次にまた変えればよい。
湯が沸き始めるのを待つ間、エレナは卵を手にしたままユウを見る。
「落とさないでね」
「オルドさんと同じことを言わないでください」
「大事だから」
「分かっています」
慎重に卵を湯へ入れる。
殻が割れなかったことを確認すると、エレナは小さく息を吐いた。
「ここからですね」
「うん」
正確な時計はない。
そこでエレナは、前回より少し短いと思えるところで取り出すことにした。鍋を見つめ続けていると長く感じるため、途中でマーサに「見つめても早く茹で上がらないよ」と笑われる。
「分かっています。でも、見ていないと遅くなりそうで」
「なら見てな」
「はい」
ユウが隣で少し笑っている。
「何ですか?」
「いや。卵一個に真剣だなって」
「真剣ですよ。前より柔らかくしたいのですから」
「頑張れ」
「ユウさんは何もしていませんね」
「見ててって言われたから見てる」
確かにその通りだった。
エレナは笑い、再び鍋へ目を向けた。
しばらくして、前回より少し早いと思ったところで卵を取り出す。冷たい水へ移し、十分に触れる温度になるまで待ってから、慎重に殻を剥き始めた。
殻は途中で少し白身へ食い込んだ。
「あ」
「失敗した?」
「少し欠けました。でも、食べられます」
「なら大丈夫じゃない?」
「はい」
前なら、きれいに剥けなかったことを失敗として気にしたかもしれない。
今日は白身が少し欠けただけだ。
食べることに問題はない。
全部の殻を剥き終えると、エレナは卵を皿へ置いた。包丁で半分に切る前に、一度ユウとマーサを見る。
「切ります」
「切りな」
「どうぞ」
二人の返事を聞き、エレナは包丁を入れた。
半分に分かれた卵の中心で、黄身が前回より柔らかく残っている。完全に流れ出すほどではないが、中央部分には少しとろりとした艶があった。
「……できました」
思わず声が弾む。
「前より柔らかいです」
「狙い通り?」
ユウに聞かれ、エレナはしばらく断面を見つめた。
「もう少しだけ柔らかくても好きかもしれません」
「また次だね」
「はい」
そこでエレナは笑った。
「また次がありますね」
卵一つのことなのに、その言葉が妙に嬉しかった。
一度で完璧にしなくてもよい。
今日できたものを食べて、次にまた試せばよい。
エレナは半分を口へ運んだ。
白身はしっかり固まっているが、黄身は以前より柔らかい。口の中でほどける感覚も違い、エレナはゆっくり味わってから頷いた。
「おいしいです」
「よかったね」
「はい」
残り半分を食べようとして、エレナは一瞬だけユウを見る。
「食べますか?」
「エレナさんが食べたくて買ったんでしょ?」
「はい」
「じゃあ食べなよ」
「……そうですね」
分けた方がよいのではないかと、反射的に考えていた。
ユウが一緒に来てくれたから。
覚えていてくれたから。
見ていてくれたから。
だから半分を渡すべきなのではないか。
しかし、自分はこの卵を食べたいと思って買ったのだ。
「では、私が食べます」
「うん」
エレナは残り半分も口へ運んだ。
少し嬉しかった。
自分のために買った一つを、自分で全部食べることができた。
「次はもう少し柔らかくするのですか?」
マーサが尋ねる。
「その時に決めます」
「決めないのかい?」
「今日のところは、これで満足しましたから」
エレナは空になった皿を見る。
「次に卵を食べたくなった時、また考えます」
「そうかい」
マーサはそれ以上何も言わなかった。
片づけを終えると、ユウは帰るのかと思ったが、なぜかまだ椅子に座っていた。
エレナは少し不思議に思う。
「ユウさん」
「ん?」
「今日は、まだ帰らないのですか?」
「帰ってほしい?」
「いいえ」
すぐに答えた。
「むしろ、いてくださるなら嬉しいです」
「じゃあ、もうちょっといる」
エレナは自然に笑った。
何か一緒にすることがあるわけではない。
卵はもう食べ終えた。
それでもユウは帰らず、自分も帰ってほしいとは思わない。
エレナが何をしようか考えていると、マーサが戸棚の奥を探り始めた。
「そういや、朝に本の話してたね」
「はい」
「本じゃないかもしれないけど、昔の紙束ならあった気がするよ」
「紙束?」
「息子が小さい頃にもらったやつだ。字の練習に使ったんじゃなくて、何か話が書いてあったような気がする」
エレナは思わず立ち上がりかけ、途中で止まった。
「手伝いましょうか?」
「そこにいな。私の家のどこに何があるか、あんたより私の方が知ってる」
「分かりました」
言われた通り座って待つ。
マーサは戸棚の下段から古い布包みを取り出した。中には何枚かの紙があり、端が擦れ、ところどころ色も変わっている。
「これだね」
エレナは両手で受け取った。
立派な本ではない。
糸で簡単に綴じられた薄い冊子で、表紙らしい厚紙もない。最初の紙には子供が書いたらしい歪んだ文字が残っている。
「読んでもよいのですか?」
「読めるならね。もう誰も使ってないよ」
エレナは慎重に最初の頁をめくった。
書かれていたのは、昔この地方で語られていたらしい短い話だった。
山へ薬草を探しに行った子供が、帰り道を間違え、森の中で一晩を過ごす。翌朝になると、目印にしていた大きな木ではなく、川の音を頼りに村へ戻るという、ごく素朴な物語だった。
「……物語です」
「そうだったかい」
「覚えていないのですか?」
「何十年前だと思ってるんだい」
マーサは笑う。
エレナはもう一枚めくった。
ところどころ文字が薄く、子供が書き込んだ跡もある。それでも十分に読める。
王都で読んでいた本とはまったく違った。
装丁もない。
美しい挿絵もない。
紙も上質ではない。
それなのに、エレナは胸が少し高鳴るのを感じた。
「読んでいいよ」
マーサが言う。
「よろしいのですか?」
「そのために出したんだろ」
「ありがとうございます」
エレナは冊子を持ったまま席へ戻った。
向かいにはユウがいる。
「読む?」
「はい」
「俺いても大丈夫?」
エレナは一瞬考えた。
本を読む時間は、昔から一人で過ごすことが多かった。妹が勝手に入ってきて隣で読むことはあったが、それ以外では静かな部屋で一人になるための時間でもあった。
けれど今は、ユウが向かいにいても嫌ではない。
「大丈夫です」
エレナは少し考え、言い直した。
「いてほしいです。でも、話しかけないでください」
「分かった」
「読んでいる途中は、です」
「うん」
「終わったら話してもよいです」
「細かいね」
「本を読んでいる時に話しかけられると、どこまで読んだか分からなくなるのです」
「じゃあ静かにしてる」
ユウは椅子の背にもたれた。
エレナは冊子へ視線を落とす。
最初の数行を読む。
次の頁へ進む。
紙をめくる小さな音と、台所でマーサが動く音だけが部屋に残った。
久しぶりだった。
物語を追うためだけに文字を読むこと。
公爵家の帳簿でもない。
王宮から届いた文書でもない。
婚約者として覚えなければならない儀礼の資料でもない。
ただ、先を知りたいから読む。
それだけの時間だった。
物語そのものは短く、しばらくすると最後の頁へたどり着いた。
森で道を失った子供は、最初に探していた大木へ戻ることを諦める。代わりに川の音を聞き、その流れに沿って歩くことで、自分の村へ帰っていった。
最後まで読み終え、エレナは冊子を閉じた。
「……終わりました」
「面白かった?」
ユウがすぐに尋ねる。
「はい」
「どんな話?」
エレナは簡単に内容を説明した。
道を間違えた子供が森で夜を過ごし、翌朝、最初の目印を探すことをやめて川を頼りに帰る話。
説明し終えたところで、ユウが尋ねる。
「昔読んでたのと似てる?」
「全然違います」
エレナは冊子を見ながら笑った。
「私が妹と読んだ本は、もっと長い物語でした。いろいろな土地へ行き、そこで料理を食べる老夫婦のお話です」
「じゃあ代わりにはならない?」
その問いに、エレナは少し考えた。
「代わりにしなくてもよいと思います」
「うん」
「あの本は、あの本です。これは、これですから」
失った本と同じものを探さなくてもよい。
同じ物語でなくても、自分はまた本を読んで楽しめた。
それが嬉しかった。
「ハインさんには、やはり本があるか聞いてみます」
「どんなの頼む?」
「まだ決めません」
「料理の話?」
「それも好きですけれど、今日のような話も面白かったです。ですから、持っているものを見せてもらって、その中から選びたいです」
「いいね」
エレナは冊子をもう一度開いた。
最初の頁にある子供の文字を見る。
「これ、マーサさんの息子さんが書いたのでしょうか」
「たぶんね」
「大切なものでは?」
「大切なら戸棚の奥に何十年も突っ込んどかないよ」
「それでも、なくしたくはありません」
「なら読み終わったら戻しときな」
「はい」
借りるのではなく、今日はここで読む。
それで十分だった。
午後になる少し前、ユウがようやく立ち上がった。
「今度こそ帰る」
「はい」
エレナも冊子を閉じる。
「今日はありがとうございました」
「何が?」
「卵のことを覚えていてくださったことです。それから、誘ってくださったことも」
「うん」
「あと、本を読んでいる間、話しかけなかったことも」
「それも入るの?」
「大事です」
「じゃあどういたしまして」
ユウが笑う。
エレナは玄関まで見送った。
戸を開けたところで、ユウが少し振り返る。
「エレナさん」
「はい」
「次に何か見つけたら、また誘うよ」
胸が少し弾んだ。
「卵でなくてもですか?」
「別に卵じゃなくてもいいでしょ」
「豆でも?」
「豆はもう一緒に見てるし」
「では、何でしょう」
「見つけてから考える」
ユウらしい答えだった。
「楽しみにしていてもよいですか?」
「期待しすぎないなら」
「難しい条件ですね」
「普通のものかもしれないから」
「それでも構いません」
エレナはそう答えた。
珍しいものだから一緒に見たいのではない。
ユウが自分を思い出し、自分から誘ってくれることが嬉しいのだと、今日はもう分かっていた。
「では、また」
「うん。またね、エレナさん」
ユウが帰っていく。
エレナはその背中を少しだけ見送ってから、今度はマーサに呼ばれる前に自分から戸を閉めた。
午後は、特別なことをしなかった。
マーサと少し縫い物をし、途中で休み、また先ほどの冊子を読んだ。二度目は物語を追うというより、薄くなった文字や、昔の子供が書き込んだ跡を見ることの方が楽しかった。
途中、ローデンが家の前を通ったので、エレナは外へ出て挨拶をした。
「何かありましたか?」
「何もない」
ローデンは短く答えた。
東側の警戒線に反応はなく、昨日の筋跡周辺にも新しく報告するものはない。三軒目の家についても、西へ出した問い合わせへの返事はまだ届いていなかった。
「分かりました」
エレナはそれだけ答えた。
「見に行くか?」
「いいえ」
「家の方は?」
「待ちます」
「そうか」
「今日は、卵を茹でましたので」
ローデンが何とも言えない顔をした。
「……それは家の返事と関係あるのか?」
「ありません」
「じゃあ何で言った」
「今日あったことを話しただけです」
自分でも少し可笑しくなり、エレナは笑った。
ローデンも呆れたように笑い、そのまま歩いていった。
何もなかった。
東から新しい危険は来なかった。
西から待っている返事も来なかった。
それでも今日は、何もない日ではなかった。
夕方になり、エレナはマーサと夕食を作った。
野菜を切る時、一枚だけ厚さが違ったが、切り直さず火へ入れる順番を少し変えた。以前教わったことを覚えていたからで、それだけで料理は問題なく仕上がった。
食後、自室へ戻る。
机へ向かい、いつもの紙を広げた。
『卵を一つ買った。前より少し柔らかくできた。全部自分で食べた。』
そこまで書き、少し考えてから続きを加える。
『マーサさんの家に古い物語があった。昔と同じ本ではない。でも面白かった。』
エレナは炭筆を止めた。
今日の出来事を並べてみると、本当に小さなことばかりだった。
卵。
古い冊子。
縫い物。
夕食。
東側には何も起きなかった。
家の返事も来なかった。
それでも、今日は満足している。
エレナは日々の紙を折り、次にもう一枚の小さな紙を取り出した。
ユウについて書いている紙だった。
昨日の最後には、
『ユウさんには、エレナさんと呼んでほしい。』
と書いてある。
それを読み返しただけで少し恥ずかしくなったが、今日はその下へ書きたいことがあった。
『ユウさんが、私が卵をもう少し柔らかく茹でたいと言ったことを覚えていた。』
次の行へ進む。
『卵があると教えに来てくれた。買うかどうかは私に決めさせてくれた。』
そこまで書いてから、エレナは少し考えた。
一番嬉しかったのは、それだけではない。
『今日は、ユウさんから誘ってくれた。』
文字にした瞬間、自然に口元が緩んだ。
自分から何度も誘ってきた。
豆を見に行こうと。
もう少しいてほしいと。
家に住めたら遊びに来てほしいと。
その一つ一つをユウは嫌がらなかった。
それだけでも十分だった。
けれど今日は、ユウが自分のことを思い出して、自分の家まで来た。
たった一つの卵がきっかけだったとしても、それが嬉しかった。
最後に、
『また何か見つけたら誘うと言ってくれた。楽しみ。』
と書く。
書いた後で「楽しみ」の二文字を見つめた。
消そうとは思わなかった。
楽しみなら、楽しみでよい。
明日、何か見つかるとは限らない。
ユウが誘いに来るとも限らない。
東で何か起こるかもしれないし、家の返事が届くかもしれない。逆に、何も起こらず、一日中マーサと縫い物をして終わるかもしれない。
それでもよかった。
エレナは紙を折り、机の端へ置いた。
寝台へ向かう前に、窓を少しだけ開ける。
夜の村は静かだった。
遠くから鶏の声が一度だけ聞こえ、すぐに消える。警戒線の音はなく、人が慌ただしく動いている気配もない。
エレナは窓を閉じた。
今日、自分の名前を呼ばれることには、昨日より少し慣れた。
卵は前より柔らかくできた。
失った本とは違う物語を読んでも、ちゃんと楽しかった。
そして、いつも自分から声をかけていた相手が、今日は自分を誘いに来てくれた。
どれも大きな出来事ではない。
けれど、こういう小さなことを楽しみにして明日を迎えるのも、悪くないと思えた。
エレナは寝台へ入り、布団をかける。
明日は豆を見に行くかもしれない。
行かないかもしれない。
まだ決めなくてよい。
ただ、もし朝になってユウが何かを見つけ、自分のことを思い出してくれたなら。
その時はまた、一緒に見に行きたい。
そんなことを考えながら、エレナは静かに目を閉じた。




