第44話 名前
翌朝、エレナが目を覚ました時、空にはまだ薄い雲が残っていた。
夜のうちに雨が降ることはなかったらしく、窓から見える道は昨日の夕方よりも乾いている。雲越しの朝日は家々の屋根や畑を柔らかく照らし、雨上がり特有の湿った匂いも、昨日ほど強くは感じられなかった。
寝台の上で身体を起こした少女は、しばらく窓の外を眺めてから布団を押しのけた。床へ足を下ろし、そのまま数歩歩いたところで、右の踵を確認していなかったことに気づく。
痛みはなかった。
昨日もそうだったが、今朝も起きて最初に怪我のことを考えなかった。追放された夜に擦りむき、この村へたどり着いた頃には歩くたびに痛んでいた場所なのに、今では確認することそのものを忘れる時間が増えている。
「……もう、毎朝確かめなくてもよさそうですね」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、少女は着替えを始めた。
痛みがなくなったことは嬉しい。しかし、それ以上に、朝起きた時の自分の中から「怪我をしている人」という意識が少しずつ薄れていることが不思議だった。
服を着替え、髪を整える。最後に服の皺を伸ばそうとして、少女は鏡代わりに置かれている磨かれた金属板へ目を向けた。
ぼんやりとした自分の顔が映っている。
十九歳の自分。
かつて公爵家の長女として暮らし、王太子の婚約者として王宮へ出入りしていた自分。身に覚えのない罪を突きつけられ、婚約を破棄され、家族からも受け入れてもらえず、東の追放境界へ送られた自分。
そして今は、辺境の小さな村でマーサの家に世話になりながら、豆の芽を眺め、卵を焼き、鑿を練習し、籠の直し方を教わっている。
そこまで考えたところで、少女はふと違和感を覚えた。
この村へ来てから、自分についてはいくつものことを話している。
公爵家の娘だったことも、王太子の婚約者だったことも、婚約を破棄されたことも話した。身に覚えのない罪によって追放されたことも、ローデンやユウには伝えている。
それなのに、もっとも簡単なことを誰にも伝えていなかった。
「……名前」
小さく声に出すと、胸の奥がわずかに揺れた。
忘れていたわけではない。自分の名前を捨てたつもりもなかった。
ただ、名乗らなかった。
最初はそれどころではなかったのだと思う。
村へたどり着いた時には、空腹で喉も渇き、踵は痛み、見知らぬ人間に囲まれること自体が怖かった。自分が今日どこで眠れるのかさえ分からない状態で、公爵家の名を口にする余裕などなかった。
少し落ち着いてからも、名前を口にする気にはなれなかった。
自分の名前には、あまりにも多くのものがついているように感じていたからだ。
家名を名乗れば公爵家へつながる。そこから王太子との婚約へつながり、婚約破棄へつながり、最後には追放された理由へつながっていく。
名前を教えるだけなのに、自分が失ったものをすべて説明しなければならないような気がしていた。
だから、言わなかった。
それなのに、この村の人たちは誰も無理に聞こうとしなかった。
ローデンも、マーサも、ユウもそうだった。
名前が分からなくても水をくれた。食事をくれた。眠れる場所を用意してくれた。
ユウは怪我を見てくれたし、働かなければここにいてはいけないと思い込んでいた自分に、何もしなくてもよい時間があることを教えてくれた。村の人たちも、名前を知らないまま畑や料理や道具の使い方を教えてくれた。
少女は金属板に映る自分の顔を見つめた。
以前とは、少し違う。
名前を言わなければならないとは思っていない。それでも今朝は、自分の名前を誰かに知ってほしいという気持ちが胸の中にある。
「……言っても、いいのでしょうか」
問いかけてみたものの、答えてくれる人はいない。それでも少女は、以前のように「まだ言えない」と即座に思うことはなかった。
言わなければならないからではなく、自分が言いたいから名乗る。
そんな選び方があってもよいのかもしれない。
少女は金属板から目を離すと、部屋を出た。
台所へ向かうと、マーサが朝食用のパンを切っていた。いつもと変わらない朝の光景に少しだけ緊張がほどけ、少女は挨拶をしてから食器を卓へ並べ始める。
「おはようございます」
「おはよう。今日は少し早いね」
「昨日と同じくらいではありませんか?」
「そうだったかい?」
「たぶんですけれど」
少女が器を置くと、マーサは切ったパンを卓へ運んだ。今朝は豆の入った温かいスープもあり、湯気と一緒に優しい香りが広がっている。
二人で席についたものの、少女はすぐには本題を切り出せなかった。
まずパンを一口食べ、次にスープを口へ運ぶ。いつもならそのまま普通に食事を続けるところだが、今日は匙を置いたところで、マーサがこちらを見ていることに気づいた。
「何だい。さっきから何か言いたそうだね」
「……分かりますか?」
「分かるよ。何日一緒にいると思ってるんだい」
少女は思わず小さく笑ったが、すぐに胸の奥へ意識を戻した。いきなり名乗ることもできたが、その前に一つだけ確かめておきたいことがあった。
「マーサさん。一つ、聞いてもよいですか?」
「朝飯が冷める前に答えられることならね」
「私の名前を、知りたいと思ったことはありますか?」
マーサが持っていた匙が止まった。
驚いたというより、ようやくその話をするのかと考えているような顔だった。少女が返事を待っていると、マーサは匙を器へ戻してから、何でもないことのように答えた。
「そりゃあるよ。毎日一緒に暮らしてるんだからね」
「……そうなのですか?」
「何を驚いてるんだい」
「聞かれなかったので、あまり気になっていないのだと思っていました」
少女が正直に答えると、マーサは少しだけ眉を上げた。
「言いたくなさそうな人間に、無理やり聞いてどうするんだい。必要になったら自分から言うだろうと思ってたよ」
あまりにも単純な答えだった。
自分の中ではずっと大きなことだったのに、マーサにとっては「言いたくないなら聞かない」で終わっていたらしい。
「最初は、言いたくありませんでした」
「そうだろうね」
「名前を言ったら、私が何者なのか全部説明しなければならない気がしていたのです。家のことも、王太子殿下のことも、どうしてここへ来たのかも、全部一緒についてくるような気がして」
少女は器の脇へ置いた自分の手を見つめた。
名前を口にしただけで、追放された日の広間まで引き戻されるような気がしていた。それほど、自分にとって名前と過去は強く結びついていたのだと思う。
「今は違うのかい?」
マーサの問いに、少女はすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向ける。
村の朝は静かだった。遠くで誰かが家の戸を開ける音がし、さらに向こうでは鶏の声も聞こえている。
「全部が切り離せたとは思いません。私の名前が公爵家につながっていることも、その名前で王太子殿下の婚約者だったことも変わりませんから」
そこまで言ってから、少女はもう一度マーサへ向き直った。
「でも、この村へ来てからのことも、少しずつ私の名前につながっていってもよいのではないかと思いました」
「この村でのこと?」
「はい。豆を見に行ったことも、卵を焼いたことも、鑿を教えていただいたことも、籠を直したことも。公爵家にいた頃とは全然違いますけれど、それをしていた私にも名前があってよいのだと思ったのです」
言い終えてから、少し変なことを言ったような気がした。
名前など最初からある。
案の定、マーサも同じことを思ったらしい。
「最初からあんたの名前だろう?」
「……そうですね。言い方がおかしかったです」
「言いたいことは何となく分かるけどね」
マーサはそう言うと、無理に続きを求めずスープを一口飲んだ。その態度に背中を押されるように、少女は膝の上で一度手を握り、それからゆっくり力を抜いた。
王宮で名乗る時には、もっと堂々としていた。
公爵令嬢として礼を取り、家名と自分の名を淀みなく口にすることなど、何度も経験している。それなのに、マーサ一人を前にした今の方が、ずっと緊張していた。
けれど、これは社交のための名乗りではない。
身分を示すためでもない。
自分が知ってほしいから、伝える。
「私の名前は、エレナです」
久しぶりに、自分の名前を誰かへ渡すつもりで口にした。
「エレナ・フォン・アルヴェイン。アルヴェイン公爵家の長女として生まれました」
家名まで言うと、胸の奥に懐かしさとも痛みともつかない感覚が広がった。父や母、妹、長く暮らした屋敷の廊下、王宮へ向かう馬車の窓から見た街並みまで、いくつもの記憶が一度に浮かぶ。
それでも、エレナは言ったことを後悔しなかった。
「ここでは、エレナと呼んでいただけますか?」
マーサは少しだけ目を細め、それからごく自然に頷いた。
「ああ。じゃあ今日からエレナだね」
「……はい」
「エレナ」
改めて名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が不意に温かくなった。
王都では何度も呼ばれてきた名前なのに、聞こえ方が違う。公爵令嬢へ向けられた呼びかけでも、王太子の婚約者を呼ぶ声でもなく、毎朝同じ卓で食事をしている一人の人間へ向けられた声だった。
「変な感じがします」
「嫌なのかい?」
「いいえ。むしろ……嬉しいです」
「なら、そのうち慣れるよ」
マーサは笑い、再び朝食を食べ始めた。
それで終わりだった。
もっと何か起こると思っていた自分に気づき、エレナは少しだけ拍子抜けする。家名を聞いたマーサが態度を変えることもなければ、改まって礼を取ることもない。
「……それだけですか?」
「何がだい?」
「いえ。名前をお伝えしたので、もう少し何かあるのかと思っていました」
「何をしてほしいんだい。祝いでもするのかい?」
「それも変ですね」
「じゃあ食べな。スープが冷めるよ、エレナ」
また名前を呼ばれ、エレナは今度こそ素直に笑った。
「はい」
朝食を終え、二人で片づけを始めた。
エレナが器を洗い、マーサが乾いたものを棚へ戻していく。いつもと何も変わらない作業なのに、自分の名前を知られた後だと思うだけで、どこか不思議な気分だった。
「他の人にも言うのかい?」
棚へ器を置きながらマーサが尋ねる。
「まだ、全員に知らせようとは考えていません。名簿を作るわけではありませんから」
「じゃあ、誰か言いたい相手がいるのかい?」
エレナの手が一瞬だけ止まった。
すぐに浮かんだ顔があった。
「ユウさんには、伝えたいです」
口にしてから、少しだけ頬が熱くなる。
マーサは特にからかうこともなく、「そうかい」とだけ返した。
「今から行くのかい?」
「豆も見たいので、その途中で……いえ」
エレナは自分で言ってから首を傾げた。
「豆を見る途中に名前を伝えるのでしょうか。それとも名前を伝えに行ったついでに豆を見るのでしょうか」
「どっちでも同じだよ」
「そうですね」
考える必要のないことまで考えていたらしい。
エレナは苦笑しながら手を拭き、外へ出る準備をした。
玄関を開けると、昨日より乾いた風が頬へ触れた。東の方角は静かで、警戒線の音も聞こえず、昨日見つかった二本の筋跡について新しい知らせが届いている様子もない。
それなら今は、それでよい。
エレナはユウの家へ向かって歩き始めた。
ところが、歩き出した途端、どう名乗ればよいのか気になり始める。
「私の名前はエレナです」と言えば十分なはずなのに、改めて考えると簡単すぎる気がする。「エレナ・フォン・アルヴェインと申します」では王都での挨拶のように堅すぎるし、「そういえば名前を言っていませんでしたね」では四十日以上黙っていたことを軽く扱いすぎる気もした。
そんなことを考えながら歩いていたせいで、いつの間にか道の途中で足が止まっていた。
「何してるの?」
不意に前から声がして、エレナは顔を上げた。
ユウがこちらへ歩いてくる。
「ユウさん」
「おはよう」
「お、おはようございます」
「道の真ん中で止まってたけど、どうしたの?」
「少し考え事をしていました」
「そっか」
ユウはそれ以上追及しなかった。
そのままエレナの隣まで来ると、畑の方角を見た。
「豆、行く?」
「……はい」
「俺も見ようと思ってた」
「では、一緒に行きましょう」
結局、名前を伝えられないまま歩き始めてしまった。
隣を歩くユウを何度か横目で見るものの、今度は話を切り出すタイミングが分からない。そんなエレナの視線に気づいたらしく、ユウが不思議そうにこちらを見る。
「何?」
「何でもありません」
「そう?」
「はい。今は」
「今は?」
「……後でお話しします」
「分かった」
やはり追及しない。
そのことに安心する一方で、少しだけ困る。もう少し聞かれれば勢いで言えるかもしれないのにと思ってから、それでは自分で選んで名乗ることにならないと気づいた。
二人が畑へ着くと、珍しくガルドの姿はまだなかった。
朝露の残った畑には、雨を越えた豆の芽が並んでいる。エレナとユウは畝を踏まないよう気をつけながら端へしゃがみ、ここ数日見ている芽を探した。
「あれ、まだありますね」
「傾いてるやつ?」
「はい」
少し斜めになった芽は、今日も倒れずに残っていた。真っ直ぐではないが葉は前より開いていて、雨を越えた後も少しずつ育っていることが分かる。
「今日は測る?」
「測りません。もうそれは決めています」
「即答だね」
「これは仕事にしないで見たいのです」
エレナは芽を眺めながら微笑んだ。
傾いていても育っている。
昨日はそこへ勝手に意味をつけそうになってやめたが、今日は少しくらい自分の好きなように受け取ってもよい気がした。
「ユウさん」
「ん?」
穏やかな返事を聞いた瞬間、今なら言えると思った。
エレナは膝の上で両手を重ね、朝露をまとった豆の葉からユウへ視線を移した。
「私、今まで名前をお伝えしていませんでしたよね」
「うん」
「気になりませんでしたか?」
「気にはなってたよ」
あまりにも素直に返され、エレナは少し驚いた。
「では、どうして聞かなかったのです?」
「言いたくなさそうだったから」
今朝マーサから聞いたものと、ほとんど同じ答えだった。
エレナは思わず笑ってしまう。
「マーサさんにも、まったく同じことを言われました」
「そうなの?」
「はい。今朝、先にマーサさんへ名前を伝えたのです」
「そっか」
ユウはそれだけ答え、続きを待っている。
エレナは少し困ったように笑った。
「……聞いてくださらないのですか?」
「言いたい?」
返ってきたのは、「知りたい」ではなかった。
自分が言いたいかどうかを聞かれた。
その問いを受けた瞬間、エレナの中に残っていた迷いが少しだけ薄くなった。
「はい。今日は、言いたいです」
「じゃあ聞くよ」
ユウは急かさず、いつものようにエレナが言葉を選ぶ時間を待った。
公爵家の長女として名乗るためではない。身分を証明するためでも、追放された自分の事情を説明するためでもない。
ただ、この人には自分の名前を知っていてほしい。
エレナはそう思った。
「私の名前は、エレナです」
今朝マーサへ名乗った時より、少しだけ自然に声が出た。
「エレナ・フォン・アルヴェイン。アルヴェイン公爵家の長女として生まれました」
そこまで言ってから、エレナはわずかに視線を落とした。
以前なら、「それが私です」と続けていたかもしれない。
けれど、今は少し違う。
「……でも、それだけではありませんね」
「うん?」
「アルヴェイン公爵家の長女だったことも私です。王太子殿下の婚約者だったことも、追放されたことも、なくなるわけではありません」
エレナはもう一度豆の芽を見る。
「でも、今ここでユウさんと豆を見ている私も、エレナです」
言い終えると、急に恥ずかしくなった。
「……変なことを言いましたか?」
「別に」
ユウはいつもの調子で答えた。
そして少しだけ間を置いてから、初めてその名前を口にした。
「じゃあ、エレナさん」
たったそれだけだった。
けれど、エレナはすぐに返事ができなかった。
マーサに呼ばれた時も嬉しかった。自分が暮らしている家で、日々を共にしている人から名前を呼ばれたことが、確かに胸へ残った。
それでも、ユウの声で聞いた「エレナさん」は、少し違うところへ落ちてきた。
自分でも理由は分からない。
胸の奥が温かくなり、それと同時に鼓動が少しだけ速くなる。ユウから顔を背けるほどではないのに、まっすぐ見続けるのも落ち着かなかった。
「……はい」
少し遅れて返事をすると、ユウは何も不思議がらなかった。
「エレナさん」
「二度呼ばなくても聞こえています」
「マーサさんにも言われた?」
「私が言いました」
「やっぱり」
ユウが笑った。
エレナもつられて笑ったものの、頬に残った熱はなかなか引かなかった。
「変な感じがします」
「名前で呼ばれるのが?」
「はい。ずっと呼ばれてきた名前なのに、この村で呼ばれると違って聞こえます」
「嫌?」
「いいえ」
その問いだけは迷わず答えられた。
「むしろ、もう一度呼んでいただけますか?」
口にした直後、自分でも驚いた。
頼むつもりなどなかったのに、自然に言葉が出ていた。
ユウもほんの少し目を瞬かせたが、からかうことなく応じた。
「エレナさん」
エレナは今度こそユウの顔を見た。
「はい」
やはり嬉しかった。
理由を無理に探す必要はないのかもしれない。自分が教えたいと思った名前を、自分が知ってほしいと思った相手が呼んでくれたのだから、嬉しくても不思議ではない。
「ありがとうございます」
「名前呼んだだけだけど」
「その『だけ』が、今日は嬉しいのです」
「そっか」
「はい」
しばらく二人で豆を眺めた。
何かが劇的に変わったわけではない。家との関係も、追放された立場も、東の森に残る謎もそのままで、三軒目の家へ住めるかどうかさえ決まっていない。
それでも、自分の中では一つだけ扉を開けたような感覚があった。
そんな中で、エレナはもう一つ気になっていたことを思い出した。
「ユウさん」
「ん?」
「私も、ユウさんのお名前を全部は知りませんよね」
ユウの視線が少しだけ動いた。
エレナはその反応を見て、自分が踏み込みすぎたかもしれないとすぐに思った。
「『ユウ』だけではないのでしょう?」
「うん」
「……聞いてもよいですか?」
ユウはしばらく答えなかった。
エレナは待った。
自分が名乗ったのだから、相手も同じだけ話すべきだとは思わない。もしそう考えるなら、自分が四十日以上名前を言わなかったことも許されなくなってしまう。
やがてユウは、少し申し訳なさそうに首を横へ振った。
「今日は、まだいいかな」
その答えを聞いた瞬間、胸の中にほんの少しだけ残念な気持ちが生まれた。
知りたかった。
自分が名前を渡したからという交換ではなく、ユウのことをもう少し知りたいと思っているからだ。
けれど、その気持ちと、今すぐ教えてもらう必要がないことは両立する。
「分かりました」
「ごめん」
「謝らないでください。私も今日まで言わなかったのですから」
エレナはそう言ってから、少しだけ笑った。
「ユウさんが言いたくなった時に教えてください。その時まで待ちます」
「うん。そうする」
「では、それまではユウさんのままでよいですか?」
「それでいいよ」
「分かりました」
自分が名乗ったことで、相手から同じものを返してもらわなくてもよい。
名前さえ、交換条件ではない。
そう考えると、胸の中に生まれた小さな残念さも、そのまま置いておけた。
ちょうどその時、畑の向こうから聞き慣れた大きな声が飛んできた。
「おお! 今日も来てるな!」
エレナとユウが同時に振り返ると、ガルドがこちらへ歩いてくる。いつものように朝から元気で、畑へ着くなり豆の様子を見て満足そうに笑った。
「雨の後は伸びるぞ!」
「昨日も伸びたと言っていましたよね」
「今日も伸びてるからな!」
「それなら明日も言いそうですね」
「伸びてたら言うぞ!」
エレナは笑いながら立ち上がった。
ガルドが豆を確認し始めるのを見ていると、ふと思う。
この人にも名前を言いたい。
村中へ一度に知らせたいわけではない。けれど、毎日のように豆を見せてくれるガルドに、自分が何と呼ばれる人なのかを知ってもらうことには抵抗がなかった。
「ガルドさん」
「なんだ?」
「今まで言っていなかったのですが、私にはちゃんと名前があります」
「そりゃあるだろ!」
あまりにも当然のように返され、エレナは一瞬言葉に詰まった。
「……それは、そうなのですが」
「で、何て名前だ?」
ガルドは土を確かめながら尋ねる。
こちらへ向き直って改まって聞くわけでもない。その気負いのなさが、今のエレナにはちょうどよかった。
「エレナです。エレナ・フォン・アルヴェインといいます」
「長いな!」
「家名まで入れれば長くなります」
「じゃあエレナだな!」
「はい」
ガルドは一度だけ大きく頷くと、すぐ畑へ視線を戻した。
「エレナ! そこ踏むなよ! 昨日の雨でまだ柔らけえ!」
「あ、はい」
名前を教えた直後に、畑の土を踏まないよう注意された。
エレナは慌てて一歩下がった後、ユウと顔を見合わせる。先に笑ったのがどちらだったのか分からなかったが、結局二人とも笑ってしまった。
「……こんなものなのですね」
「何が?」
「名前を教えることです。もっと大きなことだと思っていました」
「ガルドさんだからね」
「それで全部説明できるのですか?」
「だいたい」
ガルドに「何笑ってんだ!」と遠くから言われ、二人はさらに笑った。
畑を離れた後、エレナとユウは村の中心へ向かった。
雨上がりの道はところどころ柔らかいままだが、昨日よりは歩きやすい。途中でベルの孫と出会うと、子供は二人を見るなり駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん!」
「おはようございます。昨日の虫は、橋を渡りましたか?」
「渡ったよ! ちっちゃいやつ!」
「本当に使ってくれたのですね」
嬉しそうに話す子供を見ながら、エレナは少し迷った。
この子にも言いたい。
そう思えたのなら、難しく考えなくてもよいのだろう。
「そういえば、まだ教えていませんでしたね。私の名前はエレナです」
「エレナ?」
「はい」
子供は少し考えた後、ぱっと笑った。
「エレナお姉ちゃん!」
その呼び方は予想していなかった。
胸の奥がくすぐったくなり、エレナはどう返せばよいのか迷いながらも頷く。
「……はい」
「エレナお姉ちゃん!」
「聞こえていますよ」
「エレナお姉ちゃん!」
「そんなに楽しいのですか?」
「うん!」
子供は満足したらしく、別の家の方へ走っていった。
その背中を見送っていると、隣からユウの声がした。
「今日はいっぱい呼ばれるね」
「少し恥ずかしくなってきました」
「じゃあ俺は呼ばない方がいい?」
エレナは反射的にユウを見る。
「それは嫌です」
思ったより強く答えてしまい、自分でも驚いた。
ユウも少しだけ目を瞬かせている。
「……ユウさんは、呼んでください」
「分かった」
それだけで会話が終わりそうになり、エレナはなぜか少し物足りなく感じた。
「今は呼ばないのですか?」
「呼んでほしい?」
「……それを聞くのは少し意地悪ではありませんか?」
「そんなつもりなかったけど」
「では、呼んでください」
ユウは素直に頷いた。
「エレナさん」
「はい」
何度目か分からない返事をしながら、エレナは自分の頬が少し熱くなるのを感じていた。
名前で呼ばれるだけで、どうしてこんなに意識してしまうのかはまだ分からない。けれど今は、その答えを急いで探す必要もなかった。
村の中心へ着くと、見張り帳の近くにローデンがいた。
昨日の筋跡のことが頭へ浮かんだものの、ローデンの様子に緊張はない。エレナが挨拶をすると、ローデンはいつもの調子で片手を上げた。
「昨日の跡について、何か変化はありましたか?」
「朝の見回りで遠くから見ただけだ。警戒線も鳴ってねえし、新しい異常も見つかってない」
「そうですか。分かりました」
エレナはそこで質問を終えた。
以前なら、昨日の筋跡が残っているか、周囲に新しい足跡はないか、森側まで確認したかと、さらに聞きたくなっていたかもしれない。
今は必要なことだけ聞けば十分だった。
「今日は見に行きたいって言わねえんだな」
ローデンの方から言われ、エレナは少し笑った。
「昨日、必要な人が確認していますから。何か変化があれば、その時にまた教えてください」
「そうか」
ローデンは短く頷いた。
エレナは一度ユウを見る。
今日もう一つ、自分から伝えたい相手がいる。
「ローデンさん。森とは別に、一つお話があります」
「なんだ?」
「今まで名前をお伝えしていませんでした」
エレナがそう言うと、ローデンは急かすことなく続きを待った。
「エレナ・フォン・アルヴェインといいます。アルヴェイン公爵家の長女です」
「……そうか。エレナか」
「はい」
「公爵家の娘だってことは聞いてたが、名前までは知らなかったな」
「王都では知られていた名前だと思っていました」
「こっちの人間が王都の貴族を全部覚えてると思うなよ」
少し呆れたような言い方に、エレナは思わず笑った。
それからローデンが「帳面にも名前を書くか」と尋ねたため、エレナは少し考えてから首を横へ振った。
「今すぐ必要でなければ、まだよいです。名前を伝えたからといって、すべての記録を書き換えなければならないわけではありませんよね」
「ああ。家の問い合わせも、今のところ村の空き家について確認してるだけだ。必要になった時に改めて聞く」
「お願いします」
エレナはほっと息を吐いた。
自分から名前を伝えることと、公爵家の名を公的な記録へ載せることは別に考えてよい。それもまた、自分で選べることなのだと分かった。
「エルドさんの件は、昨日から何か分かりましたか?」
「いや。昔いた町の名前が分かったところまでだ。今出してる問い合わせがどうなるかもあるから、追加で動くのはそれを見てからだな」
「分かりました。待ちます」
自然に答えると、ローデンが少しだけ笑った。
「だいぶ待てるようになったな、エレナ」
名前で呼ばれたことと、その言葉の両方が胸へ残った。
「そうでしょうか」
「最初なら、自分にできること探して村中歩いてたんじゃねえか?」
「……否定できません」
「なら、今はそれでいい」
「はい」
ローデンと別れた後、エレナは見張り帳へ視線を向けた。
新しい記録がないことだけを確認し、開かずに通り過ぎる。
今日は名前を何人かに伝えた。
だからといって、村中を歩いて全員へ挨拶して回る必要はない。
「ユウさん」
「ん?」
「今日は何人に名前を伝えたでしょう」
「数えるの?」
「……やめておきます」
「何で?」
「人数を増やすために名乗っているわけではありませんから。言いたい人に言えれば、それでよいです」
「うん」
ユウはそれ以上何も言わなかった。
二人がマーサの家へ戻る途中、オルドの家の前を通ると、柵の向こうから鶏の声が聞こえた。エレナは少し足を緩め、雨上がりの地面を歩く鶏を眺める。
「今日は卵買う?」
「今は食べたいと思っていないので、買いません。でも少し見ていきたいです」
「じゃあ見るか」
二人は柵の外に並んだ。
地面がまだ湿っているためか、一羽の鶏が普段より足を高く持ち上げながら歩いている。その様子がおかしくて、エレナは口元を緩めた。
「泥が嫌なのでしょうか」
「鶏に聞かないと分からないね」
「聞いてみますか?」
「エレナさんが?」
「答えてくれないでしょう」
「やってみないと」
「ユウさんは時々、妙なことを言いますね」
二人でそんな話をしていると、家からオルドが出てきた。
「おう。卵か?」
「今日は買いません。鶏を見ていただけです」
「そうか」
オルドはそれ以上気にせず、柵の中へ入ろうとする。
エレナはその背中へ声をかけた。
「オルドさん」
「なんだ?」
「今まで言っていませんでしたが、私の名前はエレナです」
「そうか。エレナか」
「はい」
「ならエレナ、そこに立ってると鶏が出るから少し離れてくれ」
「あ、すみません」
慌てて柵の戸から離れる。
そのままオルドは何事もなかったように鶏の世話を始めた。
エレナはしばらくその様子を見ていたが、やがて堪えきれず小さく笑った。
「また普通でした」
「何を期待してるの?」
「自分でも分かりません。でも、普通で嬉しいのだと思います」
公爵令嬢だと知っても、オルドにとって今大事なのは鶏が柵から出ないことだった。
それが心地よかった。
マーサの家へ戻ると、玄関を開けた途端に「おかえり、エレナ」と声が飛んできた。
今朝から何度も呼ばれているのに、まだ少し足が止まる。
「ただいま戻りました」
「まだ慣れないのかい?」
「自分の名前なのに、不思議です」
「そのうち嫌でも慣れるよ」
マーサはそう言ってから、ユウの姿にも気づいた。
「また一緒なのかい」
「豆見てた」
「豆を見るのにどれだけ時間かけてるんだい」
「途中でいろいろあったので」
エレナが答えると、マーサは呆れたように笑った。
ユウが帰ろうとしたため、エレナは少し迷ってから声をかける。
「ユウさん。急いでいますか?」
「別に」
「では、もう少しいませんか?」
昨日までなら、理由を探したかもしれない。
何か話があるから。
何か一緒にすることがあるから。
けれど今日は、ただもう少しいてほしいと思った。
「私は縫い物をしますけれど、ユウさんは何もしなくても構いません」
「じゃあ何もしない」
「本当にそうするのですね」
「駄目?」
「いいえ」
エレナは笑いながら窓際へ向かった。
二人は近くの椅子へ座った。
エレナは昨日途中で止めた縫い物を取り出し、針へ糸を通す。ユウは特に何をするでもなく、窓の外を眺めていた。
台所からはマーサが物を片づける音が聞こえ、外では誰かが道を歩く足音が時折通り過ぎていく。何か特別なことを話さなくても、同じ場所にいる時間が以前より自然になっていた。
数針進めたところで、エレナはふと手を止めた。
「ユウさん」
「ん?」
「私の名前を知って、何か変わりましたか?」
ユウは少し考えてから答えた。
「名前で呼べるようになった」
「それだけですか?」
「他に何か変わる?」
聞き返され、エレナは自分でも考えてみた。
確かに、ユウの態度は何も変わっていない。
公爵家の名前を知ったからといって距離を取ることもなければ、急に丁寧になることもない。朝と同じように豆を見て、鶏を眺め、今は同じ部屋で何もせず過ごしている。
「私は、少し変わった気がします」
「どんなふうに?」
「まだ、うまく言えません」
エレナは手元の布へ視線を落とした。
「今まで誰かに呼びかけられるたび、私はまだ名前を言っていないのだと、どこかで思っていたのかもしれません。意識していたわけではないのですが、小さく隠れているような感覚があったのでしょうね」
「今は?」
「少し軽くなりました」
「そっか」
ユウはそれ以上意味を決めつけなかった。
エレナはまた針を動かす。
「ただ、毎回フルネームで呼ばれるのは困ります」
「エレナ・フォン・アルヴェインさん」
「やめてください」
「長いね」
「分かっていて言いましたね?」
「ちょっと」
エレナは呆れながらも笑ってしまった。
「エレナさんでいい?」
笑いが落ち着いたところで、ユウが何気なく尋ねる。
エレナは針を持ったまま顔を上げた。
「はい」
少しだけ間を置き、今度は自分の気持ちを確かめてから続ける。
「それが、いいです」
公爵家の長女であることを否定したいわけではない。
過去を捨てて別人になりたいわけでもない。
けれど、この村で暮らす自分を呼ぶ時には、家名も肩書もなく「エレナさん」と呼ばれることが、今はとても心地よかった。
縫い物を続けているうちに、窓の外へ視線が向いた。
三軒目の家はここから見えない。
それでもエレナの頭には、リンカの木と窓のある古い家が浮かんだ。
「ユウさん。もし、三軒目の家に住めることになったら、玄関の近くに名前を書いた札を置きたいです」
「表札みたいなやつ?」
「ひょうさつ?」
「俺がいたところだと、家に住んでる人の名字とか名前を書いて、玄関の近くにつける家があったよ」
「こちらにも似たものはあります。商家などではよく見ましたが、私は自分で付けることを考えたことがありませんでした」
エレナは少し想像してみた。
古い家を必要なところだけ直し、窓際へ小さな机を置く。いつか本が増えれば棚も置きたい。
そして玄関には、自分の名前がある。
「何て書くの?」
「エレナ、と」
「アルヴェインは?」
尋ねられ、エレナは少し考えた。
「まだ分かりません。アルヴェインという名前を嫌いになったわけではありませんから、書きたくないとは思いません」
家族との傷は消えていない。
父と母に拒絶されたことも、妹と比べられ続けた記憶も残っている。それでも、家名そのものを憎んでいるわけではなかった。
「ただ、もし本当にあの家へ住めることになった時、そこに暮らす私がどんな名前を玄関へ置きたいのかは、その時に決めたいです」
「それでいいんじゃない?」
「はい」
まだ許可は来ていない。
エルドの現在地すら判明しておらず、自分自身の追放後の法的な扱いも解決していない。
それでも、「もし住めたら」と想像することまで止める必要はない。
「その時は、遊びに来てくださいね」
「前にも言われた気がする」
「言いました」
「じゃあ行くよ」
「確認したかったのです」
「何回も?」
「……何度も確認すると、約束を重くしてしまいますか?」
「別に。行ける時なら行くよ」
エレナは少し安心した。
「では、たまに確認します」
「たまになんだ」
二人は顔を見合わせて笑った。
昼が近づくと、ユウは椅子から立ち上がった。
「そろそろ帰る」
「昼食は食べていかないのですか?」
「今日は自分の家で食べるよ」
「分かりました」
エレナも縫い物を置き、玄関まで見送りに出た。
ユウが靴を履き、戸へ手をかけたところで、ふと振り返る。
「エレナさん」
「はい?」
「名前、教えてくれてありがとう」
その言葉に、エレナはしばらく返事を忘れた。
今日だけで何度も名前を呼ばれた。
それなのに、今の「エレナさん」は、それまでのどれとも少し違って聞こえた。
教えてよかった。
胸の中へ最初に浮かんだのは、それだった。
「……はい」
エレナは小さく息を吸い、今度は自分からユウを見る。
「私も、ユウさんに知っていただけて嬉しいです」
「そっか」
「はい」
「じゃあ、またね。エレナさん」
「また、ユウさん」
ユウが外へ出て、戸が閉まる。
エレナはすぐには動かなかった。
名前を呼ばれた余韻がまだ胸の中に残っていて、ほんの少しだけそこにいたかった。
「エレナ」
台所からマーサの声が飛んでくる。
「はい?」
「昼の芋、手伝うんじゃなかったのかい?」
「あ」
名前の余韻は、一瞬で昼食の支度へ戻された。
「今行きます」
エレナは笑いながら台所へ向かった。
名前を教えた日でも、芋は勝手に剥けてはくれない。
そんな当たり前のことが、今はとても心地よかった。
午後になり、エレナはベルのところへ向かった。
昨日教わった籠の修理について、持ち手の緩んだものを見せてもらう約束をしていたからだ。
ベルの作業場へ着くと、老人はこちらを見るなり口を開いた。
「名前、聞いたぞ」
「……もうですか?」
「孫が言ってた。エレナお姉ちゃんがどうとか」
エレナは思わず額へ手を当てた。
「早いですね」
「村が小さいからな」
「そうでした」
これほど小さな村なら、わざわざ一人ずつ名乗って回らなくても、そのうち自然に広がるのだろう。
「勝手に広まるのは嫌か?」
ベルが籠を持ち上げながら尋ねる。
エレナは少しだけ考えた。
「今は、嫌ではありません。ただ、家名まで皆に知らせたいわけではありません」
「俺は知らんぞ」
「お孫さんにはエレナとしか言っていませんから」
「なら大丈夫だろ。エレナ、こっち押さえてろ」
「はい」
呼ばれたことにまだ少し反応しながら、エレナは籠の端を両手で押さえた。
ベルは緩んだ持ち手を確かめ、古い部分をすべて外すのではなく、傷んだ箇所だけに新しい木片を添えていく。
「全部替えないのですか?」
「まだ使えるところまで捨てる必要ないだろ」
「緩んだところだけ直すのですね」
「そういうことだ」
ベルの手元を見ながら、エレナは少しだけ考えた。
以前の自分なら、直すなら完全に直さなければならないと思ったかもしれない。
けれど、この村では何度も同じことを見る。
使えるものは使う。
必要なところだけ手を入れる。
完璧にすることより、今使えることを大切にする。
それを自分自身へ無理に重ねるつもりはなかった。
籠は籠で、自分は自分だ。
それでも、その考え方を見ているのは好きだった。
「できたぞ」
ベルが籠を差し出す。
エレナが持ち手を握ってみると、昨日よりぐらつきが少ない。
「しっかりしました」
「昨日も使えたけどな」
「はい」
「今日はもう少し使いやすくなった。それだけだ」
エレナはその言葉を聞き、自然に笑った。
「その言い方、好きです」
「籠の話だぞ」
「分かっています」
「ならいい」
ベルは不思議そうな顔をしながら次の道具を片づけ始めた。
エレナは直った籠を見つめる。
昨日も使えた。
今日は、もう少し使いやすい。
それだけでよい。
作業場を出た頃には、日が西へ傾き始めていた。
マーサの家へ戻る途中、エレナは見張り帳の前を通った。朝と同じく新しい異常を知らせる様子はなく、警戒線も一度も鳴っていない。
昨日の筋跡は、まだ何の跡か分からない。
東の森についても、分からないことは多いままだ。
それでもエレナは帳面を開かなかった。
必要な変化があれば知らせてもらえる。
今は、自分の日常へ戻ればよい。
夕食を終えて自室へ入ると、エレナは机の前へ座った。
日々のことを書いている紙を開き、炭筆を手に取る。
今日は何を書くか、迷う必要がなかった。
『今日、名前を伝えた』
そこまで書いてから、朝から名前を教えた人たちの顔を思い浮かべた。
マーサ。
ユウ。
ガルド。
ベルの孫。
ローデン。
オルド。
ベルには孫から先に伝わっていた。
名前を書き並べかけて、エレナは少し笑った。
「数えないと決めたのに」
それでも今日は最初の日だからと、自分へ言い訳をして、そのまま残した。
次の行には、少し時間をかけた。
『名前を知られても、皆は今までと同じだった』
ガルドには畑を踏むなと言われた。
オルドには鶏が逃げるから柵から離れろと言われた。
ベルには籠を押さえろと言われ、マーサには昼の芋を忘れるなと言われた。
誰もエレナ・フォン・アルヴェインという名前を聞いて、突然別人を見るような顔はしなかった。
それが嬉しかった。
公爵令嬢だったことは消えない。
追放されたことも消えない。
けれど、それだけが自分の名前に結びついているわけではなくなった。
エレナは日々の紙を脇へ置くと、小さく折ってある別の紙を取り出した。
ユウについて、誰に見せるでもなく書き始めた紙だった。
鶏肉が好きなこと。
カレーという料理が好きだったこと。
豆の芽は一人で見るよりユウと見た方が楽しかったこと。
危ない場所へ行った時、帰ってきて安心したこと。
以前なら、こんなことを書き残して何になるのだろうと思ったかもしれない。
今は、何にもならなくてもよい。
エレナは炭筆を動かした。
『ユウさんに名前を教えた。』
その一行を書いただけで、昼間の声が頭へ戻ってくる。
『エレナさん、と呼ばれた。』
さらに続けようとして、少し手が止まった。
頼んだのだ。
もう一度呼んでほしい、と。
書くのは少し恥ずかしい。
けれど、消す理由もなかった。
『もう一度呼んでほしいと頼んだ。』
文字にすると余計に恥ずかしくなり、エレナはしばらく炭筆を置いて両手で頬を押さえた。
誰にも見せない紙なのだから、何を書いてもよいはずだ。
それでも、自分で読み返すだけで落ち着かない。
しばらくしてから、最後にもう一行だけ加えた。
『ユウさんには、エレナさんと呼んでほしい。』
そこまで書くと、エレナは紙を折った。
窓の外はすっかり暗くなっている。
三軒目の家について、今日は新しい知らせがなかった。
昨日見つかった東の筋跡も、正体不明のままだ。
妹が今どうしているのかも分からない。
王都で何が起きているのかも、自分の追放が今どのように扱われているのかも分からない。
そして、自分はユウの本当の名前をまだ知らない。
けれど、それを不公平だとは思わなかった。
自分がここまで時間をかけて、ようやく自分から名前を伝えたいと思えたのだから、ユウにもユウの時間がある。
「言いたくなったら、教えてください」
昼間、自分が伝えた言葉を小さく繰り返す。
知りたい気持ちはある。
以前より、ユウのことを知りたいと思うことが増えている。
それでも、その気持ちを理由に相手から答えを急いで取り出す必要はない。
待てると思った。
エレナは灯りを消し、寝台へ入った。
暗くなった部屋で目を閉じると、今日一日の中で何度も聞いた自分の名前が、いくつもの声で思い出される。
マーサの「エレナ」。
ガルドの大きな声。
子供の「エレナお姉ちゃん」。
ローデンやオルドやベルから呼ばれた名前。
そして最後に浮かんだのは、やはりユウの声だった。
『エレナさん』
ただ名前を呼ばれただけなのに、その声だけは胸の奥へ静かに残っている。
エレナは布団の中で小さく息を吐いた。
アルヴェイン公爵家の長女として与えられ、王太子の婚約者として何度も呼ばれてきた名前だった。
それでも今日初めて、その名前を自分から誰かへ渡したような気がする。
失った過去を取り戻すためではない。
昔の自分へ戻るためでもない。
この村で豆を見て、料理をして、道具を教わり、時には何もせず、ユウと一緒に過ごしている今の自分も、同じ名前で生きている。
そのことを、今日は少しだけ好きになれた。
エレナは目を閉じたまま、明日の予定を決めようとはしなかった。
豆を見に行きたければ行けばいい。
眠ければ少し長く寝てもいい。
誰かに名前を伝えたくなったなら、その時に伝えればいい。
明日から急に別の人間になるわけではない。
ただ、明日の朝に誰かから「エレナ」と呼ばれたなら、今日より少し自然に返事ができるような気がした。




