第43話 雨のあとの跡
翌朝、少女が目を覚ました時、雨は完全に上がっていた。
窓の外には薄い雲が残っているものの、その切れ間から淡い朝日が差し込んでいる。昨夜まで屋根や道を濡らしていた水はまだあちこちに残り、軒先から落ちた雫が朝の静かな空気の中で、ときおり小さな音を立てていた。
少女は寝台の上で身体を起こし、まず窓を見た。
晴れている。
それを確認した直後、頭に浮かんだのは豆だった。
「……今日は、どうしましょう」
昨日は雨だったから行かなかった。
ユウも行かなかった。
昼になって彼がマーサの家へ来て、互いに畑へ行かなかったことを知った。今日は晴れているのだから、昨日よりは行く理由がある。
けれど、晴れたから必ず行くと決めたわけではない。
少女は寝台から足を下ろし、立ち上がった。
右の踵へ体重がかかる。
痛みはない。
それに気づいたのは、数歩歩いてからだった。
「あ」
少女は足元を見る。
今日は起きた直後に確かめなかった。
わざと忘れようとしたわけでもない。ただ、窓の外を見て、豆のことを考えて、着替えようとして、そのまま歩いていた。
「……忘れていました」
小さく笑う。
痛みがなくなったことより、確認しなかったことの方が少し嬉しかった。
怪我をしていた事実まで消えるわけではない。追放された夜、長く歩き、擦れた踵が痛くて仕方なかったことも覚えている。
それでも、毎朝最初に思い出さなくてもよいところまで来たらしい。
少女は着替えを済ませ、髪を整えて部屋を出た。
台所では、マーサが昨夜使った鍋を棚へ戻しているところだった。
「おはようございます」
「おはよう。晴れたね」
「はい」
「豆?」
少女は少し考えた。
「朝食を食べてから決めます」
「ずいぶん慎重だねえ」
「行きたいと思ったら行きます」
「ユウは?」
「知りません」
「誘わないのかい?」
少女は卓へ器を並べながら、また少し考える。
「昨日は、ユウさんの方から来ました」
「そうだね」
「だから今日は、私から行ってもよいでしょうか」
「私に聞かれても知らないよ」
「……そうですね」
少女は苦笑した。
許可が必要なことではない。
ユウの家へ行き、起きていれば声をかける。
寝ていれば起こさない。
それだけだ。
朝食は、麦粥と昨日の残りの野菜だった。
少女は食べながら窓の外を何度か見る。雨に洗われた村はいつもより色が濃く、道の脇の草も、家々の屋根も、朝日に照らされて湿った光を返していた。
「行く顔してるね」
マーサが言った。
「行く顔とは何ですか?」
「知らないよ。そんな顔」
「適当ではありませんか?」
「で、行くのかい?」
少女は匙を置いた。
「行きます」
「はいはい」
「豆を見たいので」
「誰も何も言ってないよ」
「……そうでした」
少女は自分で言い訳を始めていたことに気づき、少し恥ずかしくなった。
食事を終え、器を洗う。
外へ出る前に、少女は一度だけ東の方角を見た。
警戒線の音は聞こえない。
誰かが慌ただしく動いている様子もない。
昨日は一日雨だった。
雨上がりは足跡が残りやすいとユウと話したが、だからといって自分から森へ様子を見に行くつもりはなかった。
「行ってきます」
「転ばないようにね。道濡れてるよ」
「はい」
少女は家を出た。
雨上がりの空気は少し冷たく、湿った土と草の匂いが強い。靴底が濡れた道を踏むたび、柔らかな音がした。
ユウの家へ向かう。
途中、見張り帳の置かれている場所が視界へ入った。
少女の足が一瞬だけ遅くなる。
昨日の雨で何か書かれているかもしれない。
そう思った。
けれど、今は見に行かなかった。
もし警戒線が反応したなら、必要な人へ話が伝わる。自分が毎朝最初に帳面を確認する役目ではない。
少女はそのままユウの家へ向かった。
家の前まで来ると、今日は戸が少し開いていた。
中から物音もする。
「ユウさん?」
外から声をかける。
「起きてるよ」
すぐに返事があった。
少ししてユウが顔を出す。
「おはよう」
「おはようございます」
「豆?」
「……なぜ分かるのです?」
「晴れたから」
「私が毎日豆のことしか考えていないようではありませんか」
「違うの?」
「違います」
少女は答えてから、少しだけ考えた。
「でも、今朝は考えました」
「じゃあ行く?」
「はい。ユウさんも行きたいですか?」
「行く」
即答だった。
少女は少し嬉しくなる。
「今日は一人でも行くつもりでした」
「そっか」
「でも、一緒の方がよいです」
「うん」
ユウは戸を閉めた。
「朝飯は?」
少女が先に尋ねる。
「食べた」
「本当に?」
「今日はちゃんと食べた」
「何を?」
「パンとスープ」
「ならよいです」
「確認厳しくない?」
「昨日も確認しましたから」
「毎日確認するの?」
少女は歩き始めながら、少し考えた。
「……それは嫌ですね」
「何で?」
「ユウさんの朝食記録係になりそうです」
「見張り帳より面倒そう」
「では、明日は聞きません」
「明日だけ?」
「その先は明日考えます」
ユウが笑う。
少女も笑った。
二人は雨上がりの道を畑へ向かった。
昨日一日雨が降ったせいで、村のあちこちに変化がある。低い場所には水が溜まり、畑の脇の細い水路にはいつもより多く水が流れていた。
「滑りますね」
「そこ、土柔らかいよ」
「はい」
ユウに言われ、少女は少し道の中央へ寄る。
その時、靴が浅い泥へ沈んだ。
「あ」
「大丈夫?」
「はい」
少女は足を抜いた。
靴の側面に泥がついている。
「汚れました」
「雨の後だからね」
「洗えば落ちますよね」
「たぶん」
「では、大丈夫です」
以前なら服や靴の汚れを気にしたかもしれない。
公爵家では、外へ出た後に泥をつけたまま戻れば使用人がすぐに気づいた。婚約者として王宮へ出入りするようになってからは、裾の汚れ一つにも注意するよう言われていた。
今は、自分で洗えばよい。
それだけだった。
畑へ着く。
「おお!」
今日もガルドがいた。
「来たな!」
「おはようございます」
「雨で伸びたぞ!」
少女は思わず笑った。
「毎日それを言っていませんか?」
「毎日伸びてるからな!」
昨日見なかった分だけ、豆の芽は確かに変わったように見えた。
葉が少し開き、茎も伸びている。
少女は畑の端へしゃがんだ。
「本当に大きくなっています」
「今回は分かる?」
ユウも隣へしゃがむ。
「はい。昨日見ていないので、昨日よりかは分かりませんが、一昨日よりは大きいです」
「測る?」
「測りません」
少女は即答した。
ユウが笑う。
「早かったね」
「決めていますから」
少女は豆の葉を見つめた。
雨粒がまだ残っている。
一昨日、少し傾いていた芽を探す。
「あ」
「何?」
「これです」
少女が指を向ける。
傾いていた芽はまだ傾いていた。
けれど、倒れてはいない。
「まだ傾いています」
「ほんとだ」
「ガルドさん」
「なんだ!」
「これは、まだ何もしなくてよいのですか?」
ガルドが近づいてくる。
しゃがみ込み、芽を少し離れたところから見る。
「平気だな!」
「昨日の雨でも?」
「倒れてねえ!」
「では、まだ見ておく?」
「そうだ!」
少女は頷いた。
「分かりました」
触らない。
支えない。
ただ見る。
傾いているからといって、すぐ直さなくても育っている。
「強いですね」
少女が呟く。
「豆が?」
ユウが尋ねる。
「はい」
少女は少し考え、首を振った。
「いえ。豆ですから、強いかどうかは分かりません」
「急に慎重」
「勝手に意味をつけるところでした」
「意味つけてもいいんじゃない?」
「そうですか?」
「自分の中で思うだけなら」
少女は傾いた芽を見る。
「では、少しだけ」
「何を?」
「秘密です」
「そっか」
ユウは追及しなかった。
その時だった。
畑の向こう、村の東側から一人の男が歩いてくるのが見えた。
ケルだった。
走ってはいない。
けれど、いつもの朝の歩き方より少しだけ速い。
少女は自然と身体を起こした。
ユウも気づいたらしい。
「ケルさん」
少女が呼ぶ。
ケルは畑の外で足を止めた。
「ユウ、ちょっといいか」
「何かあった?」
「線は鳴ってねえ」
最初にそれを言った。
少女の肩から、知らないうちに入っていた力が少し抜ける。
「ただ、雨の後を見てたドランが、東の道で気になるもん見つけた」
ユウの表情が少し変わった。
「東の道?」
「村から森へ行く手前だ。線よりこっち」
「村側?」
「ああ」
少女は二人の会話を聞きながら、胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。
警戒線より村側。
その言葉だけで、以前より近い場所に何かあったように聞こえる。
けれど、ケルは慌てていない。
「何があったんですか?」
少女が尋ねる。
ケルは彼女を見る。
「跡だ」
「足跡?」
「それが分からん」
少女は口を閉じた。
分からない。
なら、まだそれ以上ではない。
「見に行く?」
ユウがケルへ尋ねる。
「ドランが待ってる。ローデンにも声かけた」
「分かった」
ユウが立ち上がる。
少女の指先が少し冷たくなる。
行かないでほしい。
一瞬、そう思った。
昨日、ユウが森へ行かないと聞いて安心した。
今日は村側とはいえ、東へ行く。
「ユウさん」
「ん?」
ユウが振り返る。
少女は言葉を選んだ。
「危ない場所ですか?」
ケルが先に答えた。
「今んとこ、そうとは言えねえ。線より内側だが、森の中じゃねえ。村の東の道端だ」
「獣の跡では?」
「まだ分からん」
「人の?」
「それも分からん」
少女は頷いた。
分からない。
今はそれだけ。
「私も――」
言いかける。
一緒に行きたい。
何があったのか自分の目で確かめたい。
しかし、その先が続かなかった。
自分が行って何をするのか。
足跡を読む技術はない。
森の痕跡を見る知識もない。
記録なら、見た人が書けばよい。
少女は一度息を吸った。
「……いえ」
「行く?」
ユウが尋ねる。
少女は首を横に振った。
「行きません」
言葉にすると、少し胸がざわついた。
「私は見ても分からないと思います。それに、必要ならケルさんたちが見たことを後で教えていただけます」
「うん」
「ただ」
少女はユウを見る。
「無理はしないでください」
「分かった」
「本当に?」
「ケルさんとドランさんとローデンさんいるんでしょ?」
「いる」
ケルが答える。
「俺一人じゃないよ」
「はい」
少女はもう一度頷いた。
胸のざわつきは消えない。
けれど、それを消すためについて行く必要はない。
「では、待っています」
「豆見てて」
「もう十分見ました」
「じゃあガルドさん手伝う?」
「勝手に仕事を増やさないでください」
「そっか」
ユウが少し笑う。
少女も小さく笑えた。
「行ってきます」
「はい」
ユウはケルと一緒に村の東側へ向かった。
少女はその背中を見送った。
ガルドも畑の中から二人を見ていたが、追いかけようとはしない。
「何かあったのか?」
「まだ分かりません」
「そうか!」
ガルドはそれだけ言うと、再び畑へ戻った。
少女は少し驚く。
「気にならないのですか?」
「気になるぞ!」
「では、なぜ普通に戻れるのです?」
「ケルが見てんだろ!」
「……そうですね」
あまりにも簡単だった。
ガルドは土の状態を確かめ始める。
少女は畑の端に立ったまま、東へ続く道を見る。
追いかけない。
そう決めた。
なら、ここでずっと道を見つめていても仕方がない。
「ガルドさん」
「なんだ!」
「何か手伝うことはありますか?」
口にしてから、少女は少しだけ眉を寄せた。
また仕事を探している。
ガルドは少女を見て、畑の端に積んである細い枝を指さした。
「あれ三本こっち持ってきてくれ!」
「はい」
頼まれた。
なら、今はそれをやる。
少女は枝を三本持ち上げた。
「ここですか?」
「そこ!」
置く。
「もうありますか?」
「今はねえ!」
「分かりました」
そこで終わる。
少女は次の仕事を探さなかった。
「私は戻ります」
「おう! また豆見に来い!」
「行きたくなったら来ます」
「明日来い!」
「約束はしません」
ガルドの大きな笑い声を背に、少女はマーサの家へ戻った。
歩きながら、何度か東へ視線が向く。
雨上がりの道。
森。
警戒線。
古い車輪跡。
以前見つかった人の靴跡。
未知の獣に似た足跡。
いくつもの情報が頭へ浮かぶ。
けれど、今日見つかったものがそのどれかとつながるとは限らない。
「まだ、跡があっただけです」
自分へ言い聞かせるためではなく、事実として口にする。
正確には、跡らしいものがあった。
何の跡かすら分からない。
それ以上考えても、今は答えが増えない。
マーサの家へ戻ると、少女は玄関脇で靴についた泥を落とした。
「ただいま戻りました」
「おかえり。豆は?」
「大きくなっていました」
「そうかい」
「それと、ケルさんがユウさんを呼びに来ました」
マーサの手が止まる。
「森かい?」
「警戒線より村側の東の道で、何か跡が見つかったそうです。線は鳴っていません」
「何の跡?」
「まだ分からないそうです」
「そうかい」
マーサはそれ以上聞かなかった。
「私は行きませんでした」
「行きたかったのかい?」
少女は少し考える。
「知りたいとは思いました」
「うん」
「ユウさんが行くので、心配でもあります」
「うん」
「でも、私が行っても何の跡か分からないので」
少女は椅子へ座った。
「待つことにしました」
「じゃあ待ちな」
「はい」
マーサは台所へ戻る。
「昼の芋むく?」
少女は一瞬だけ驚いた。
東で何か見つかった。
ユウたちが確認へ行っている。
それでも、昼食は作る。
「むきます」
少女は立ち上がった。
芋を洗い、椅子へ座る。
皮を薄く剥いていく。
最初の一つは少し厚くなった。
二つ目は薄くできた。
三つ目へ移る。
外で誰かの足音がするたび、少女の手は少しだけ止まった。
そのたびに再び動かす。
心配していないふりをする必要はない。
ただ、心配している間も芋は剥ける。
「そこ、皮残ってるよ」
マーサが指さす。
「あ」
少女は芋を見る。
「本当です」
「東ばっか考えてるからだよ」
「……分かりますか?」
「分かるよ」
「すみません」
「何で謝るんだい」
少女は少し笑った。
「では、もう一度ここを剥きます」
「指切るんじゃないよ」
「はい」
昼が近づく。
ユウたちはまだ戻らない。
少女は芋を剥き終えた後、見張り帳を確認しに行こうかと考えた。
だが、まだ確認中なら何も書かれていない。
戻ってから、確認した本人が書けばよい。
少女は行かなかった。
代わりに、昨日途中でやめた縫い物を持ってくる。
一針ずつ進めた。
いつもより遅い。
それでも進む。
しばらくして、外から複数の声が聞こえた。
少女の手が止まる。
立ち上がりかけた。
そこで一度息を吸う。
走る必要はない。
少女は針を布へ刺して固定し、机へ置いてから玄関へ向かった。
戸を開ける。
道の向こうから、ローデン、ケル、ドラン、そしてユウが歩いてくる。
誰も怪我をしている様子はない。
少女の胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりほどけた。
ユウが少女に気づいた。
「ただいま」
自然に言った。
少女は一瞬だけ目を見開いた。
それから、
「おかえりなさい」
と答えた。
以前にも交わした言葉だった。
けれど今日は、少し違って聞こえた。
「何だったのですか?」
少女が尋ねる。
ケルが答える。
「まだ分からん」
その言葉に、少女は驚かなかった。
「跡はありましたか?」
「あった。ただ、足跡じゃねえ」
「では?」
ケルは少し考えてから、手で地面を示すような仕草をした。
「泥の上に、細い筋が二本あった」
「二本?」
「ああ。並んでる。ただし短い」
少女の頭に車輪跡が浮かぶ。
だが、すぐには口にしない。
「車輪ですか?」
「分からん」
ケルははっきり言った。
「幅が狭すぎるようにも見えるし、片方は途中で消えてる。昨日の雨の後についたのは間違いない」
少女の背筋に冷たいものが走る。
第40話で見つかった古い車輪跡は、雨より前のものだった。
今日の跡は雨の後。
「新しいのですね」
「ああ。それは言える」
ドランが続ける。
「だが、荷車かどうかは言えねえ。枝か何か引きずった跡が二つ並んだ可能性もある」
「場所は?」
「村の東道から少し外れた草地だ。警戒線よりこっち。森まではまだ距離がある」
「どちらから、どちらへ?」
「そこが変なんだ」
ケルが眉を寄せた。
「道を横切ってねえ」
「では?」
「草地の中だけだ。北から南へ、十歩あるかないか。その先は硬い地面で消えてる」
少女は黙って聞く。
「人の足跡は?」
「はっきりしたもんはなし」
「獣は?」
「小さいのならいくつかある。雨の後だから兎か何かも動いてる。例の獣に似た大きさは見つけてねえ」
「警戒線は?」
「反応なし」
少女はゆっくり息を吐いた。
新しい跡。
雨の後。
村側。
しかし、人とも獣とも車輪とも分からない。
「旧道とは?」
「離れてる」
ドランが答えた。
「今んとこ、あっちと結びつける理由はねえ」
「そうですか」
少女は頷いた。
ユウが彼女の顔を見る。
「怖い?」
少女はすぐには答えなかった。
胸へ手を当てる。
以前なら数字にしていた。
今も数字で考えることはできる。
「……四くらいです」
「そっか」
「見つかった場所が村側と聞いた時は、六くらいでした」
少女は東の方を見る。
「でも、今分かっていることを聞いたら少し下がりました」
「うん」
「分からないことが多いですけれど」
少女は一度言葉を止めた。
「分からないからこそ、勝手に怖い答えを入れないようにします」
ケルが小さく頷いた。
「それがいい」
「見張り帳へ書きますか?」
「書く」
「誰が?」
「俺だ」
ケルが答える。
少女は少し笑った。
「お願いします」
「お前は書かねえのか?」
「私は見ていませんから」
「そうだったな」
ケルたちは見張り帳の方へ向かった。
ローデンも同行する。
少女は一緒に行こうとはしなかった。
後で見ればよい。
今すぐ自分が立ち会う必要はない。
ユウだけがその場へ残った。
「行かなくていいのですか?」
「俺も見たけど、ケルさんが書くって」
「そうですね」
「芋?」
ユウが玄関の奥を見る。
「なぜ分かるのです?」
「匂い」
少女も振り返る。
確かに煮物の匂いがする。
「昼食です」
「いい匂い」
「食べますか?」
言ってから、少女はマーサの家だということを思い出した。
「……私が決めることではありませんでした」
奥からマーサの声が飛んでくる。
「一人くらい増えても変わらないよ!」
少女は笑った。
「だそうです」
「じゃあ食べる」
「今日は朝食を確認しません」
「もう昼だよ」
「そういう意味ではありません」
二人は家へ入った。
ユウが濡れた靴の泥を落とす。
少女はその様子を見ながら、先ほどまでの緊張が少しずつ日常の中へ溶けていくのを感じた。
昼食の席で、森の話はほとんどしなかった。
マーサが一度だけ「危ないもんだったのかい」と尋ね、ユウが「今のところ分からない」と答えた。それで終わった。
代わりに、少女が芋の皮を一か所厚く剥きすぎた話になった。
「東が気になっていました」
「手切らなくてよかったね」
ユウが言う。
「マーサさんにも言われました」
「同じこと言われてる」
「ユウさんもです」
「俺?」
「無理をしないでくださいと、私が何度も言っています」
「そうだった」
少女は少し笑った。
食事を終えた頃、ケルがマーサの家へ顔を出した。
「書いたぞ」
「見に行っても?」
「ああ」
少女は立ち上がった。
今度はユウも一緒に行く。
見張り帳の木札は、相変わらず少し右へ傾いている。
少女はそれを直さず、帳面を開いた。
ケルの文字がある。
『朝 東道脇草地』
『雨後の新しい筋跡 二本』
『長さ 十歩弱』
『何の跡か不明』
『人の新しい足跡 確認なし』
『大型獣の新しい跡 確認なし』
『警戒線反応なし』
『旧道との関係 不明』
『確認 ケル・ドラン・ローデン・ユウ』
少女は最初から最後まで読んだ。
余計な推測はない。
車輪という言葉もない。
「これでよいと思います」
「そうか」
「はい」
少女は帳面を閉じた。
「次は?」
尋ねたのはユウだった。
ケルが答える。
「何もしねえ」
少女はケルを見る。
「確認しないのですか?」
「今日見た。周りも見た。今追える跡がねえ」
「では、また何かあったら?」
「見る」
「分かりました」
それで終わった。
少女は少しだけ驚いた。
新しい跡が見つかった。
しかも雨の後についたもの。
以前なら、それだけで明日も明後日も確認する必要があると思ったかもしれない。
だが、今は追えるものがない。
同じ場所へ何度も入れば、自分たちの跡が増える。
警戒線も鳴っていない。
なら、待つ。
少女は見張り帳の表紙へ手を触れず、棚から離れた。
「怖さ、まだ四?」
ユウが歩きながら尋ねる。
少女は少し考えた。
「三くらいです」
「下がったね」
「何もしないと決めたからかもしれません」
「普通は逆じゃない?」
「以前の私なら、そうだったと思います」
少女は濡れた道を見ながら歩く。
「何もしないというのは、放っておくことだと思っていました。でも今は、見た上で待つこともあるのだと分かります」
「うん」
「……豆と同じですね」
ユウが少女を見る。
「豆?」
「傾いていても、今は触らない」
「ああ」
「でも、森のことを豆と同じにするのは違いますね」
「だいぶ違う」
「やはり」
二人で笑った。
そのままマーサの家へ戻る途中、少女はふと足を止めた。
「ユウさん」
「ん?」
「今日は、少し怖かったです」
「うん」
「行かないでほしいとも思いました」
ユウは黙って少女を見る。
少女は自分の手元へ視線を落とした。
「でも、言いませんでした」
「言ってもよかったのに」
「そうなのですか?」
「行くかどうかは、その後考えるけど」
少女は顔を上げる。
「私が行かないでと言っても、行く時は行く?」
「必要なら」
「……そうですよね」
少しだけ胸が沈んだ。
けれど、ユウは続けた。
「でも、行かないでほしいって思ったことまで言っちゃ駄目ってことにはならないでしょ」
少女は何も言えなかった。
風が濡れた草の匂いを運んでくる。
「それは、困りませんか?」
「何が?」
「私が心配することです」
「別に」
「でも」
「俺も昨日、そっちが豆見に行ったか気になって来たし」
「それと同じですか?」
「同じかは知らない」
ユウは少し考えた。
「でも、気になるものは仕方ないんじゃない?」
少女は胸の前で指を組んだ。
心配する。
帰ってきてほしいと思う。
行かないでほしいと思う。
それを相手へ伝える。
相手を縛ることとは違うのだろうか。
「……難しいです」
「何が?」
「心配することと、相手の行動を決めようとすることの違いです」
「違うんじゃない?」
「どう違いますか?」
「『行かないでほしい』と『行くな』は違うし」
少女は少し目を見開いた。
「でも、言われたら気になりますよね」
「気にはする」
「それで判断が変わるかもしれません」
「変わってもいいんじゃない?」
ユウは歩きながら答えた。
「聞いた上で、自分で決めるなら」
少女はしばらく黙った。
公爵家にいた頃。
自分の希望は、相手を困らせるものだと思うことが多かった。
王太子の婚約者として。
公爵家の長女として。
妹より時間がかかる自分として。
だから、求められる前に合わせる。
迷惑をかけないようにする。
自分が望んだことで誰かの予定が変わるのが怖かった。
「では」
少女は少し勇気を出した。
「次に危ない場所へ行く時、私は行ってほしくないと思ったら、言ってもよいですか?」
「いいよ」
「それでもユウさんが必要だと思ったら行く?」
「たぶん」
「分かりました」
少女は少し笑った。
「それなら、言えそうです」
「そっか」
「今日は、帰ってきてくださって安心しました」
「ただいま」
ユウが言った。
少女は一瞬だけ立ち止まった。
昼前にも聞いた言葉。
「……おかえりなさい」
今度は、先ほどより少し自然に言えた。
マーサの家へ戻ると、少女は午前中に止めた縫い物を再び手に取った。
ユウは少しだけ居間に残ったが、今日は昼寝をすると言って自分の家へ帰った。
「今日は止めません」
少女が言う。
「昨日は止めたのに?」
「昨日は、もう少しいてほしかったので」
「今日は?」
少女は少し考えた。
「今日は、帰ってきたのを見られたので」
ユウは一瞬だけ黙った。
「そっか」
「はい」
「じゃあ寝てくる」
「おやすみなさい」
「まだ昼だけど」
「昼寝ですよね?」
「うん」
「では、おやすみなさい」
ユウは笑いながら帰っていった。
少女はその背中を少しだけ見送り、今度は戸口に長く立たなかった。
席へ戻り、縫い物を続ける。
針を通す。
糸を引く。
少し曲がる。
次を直す。
外では、雨上がりの村がいつもの午後へ戻っていく。
森の問題は消えていない。
新しい筋跡も残っている。
けれど、今日の自分がすることはもうない。
そのことを、以前ほど不安に思わなかった。
夕方、少女はサナの家へ行こうか少し考えた。
石鹸のことが気になったからだ。
しかし、前に見てからまだそれほど経っていない。
「今日はやめましょう」
代わりに、マーサと夕食を作った。
根菜を切り、豆を入れ、塩を少しずつ加える。
「入れすぎるんじゃないよ」
「味見します」
「最初から全部入れなきゃ大丈夫だよ」
「はい」
少女は少量を加え、匙ですくう。
まだ薄い。
もう少し。
再び味を見る。
「これくらいでしょうか」
マーサも味見する。
「いいんじゃない?」
その言葉を聞いて、少女は鍋の火を弱めた。
「今日は直すところが少ないです」
「料理の?」
「はい」
「毎回何か失敗したいのかい?」
「そうではありません」
少女は笑った。
「ただ、前より少しできるようになったのだと思います」
「そうだね」
マーサの返事は簡単だった。
けれど、それで十分だった。
夕食後、少女は自室へ戻った。
机の前へ座る。
日々の紙を開いた。
『雨上がり。豆は大きくなっていた。傾いている芽は、まだそのまま』
『東の道の脇に、新しい筋の跡が二本。雨の後についた。何の跡か不明。私は見ていない』
そこまで書き、少女は少し考えた。
これは見張り帳の写しではない。
だから、必要以上に細かく書くことはしない。
『ユウさんたちが確認した。私は待った』
次の一行を書く。
『怖かったけれど、待てた』
少女は炭筆を置いた。
それから、折ってある小さな紙を取り出す。
こちらへ何を書くかは、もう少し迷った。
『今日は、ユウさんに行ってほしくないと思った』
書く。
胸が少し熱くなる。
その下へ、
『でも、言ってもよかったらしい』
と続けた。
さらに、
『帰ってきて安心した』
そこまで書いて止める。
昨日は、もう少しいてほしいと思った。
今日は、帰ってきてほしいと思った。
その違いを考える。
どちらも、ユウがそこにいることに関係している。
少女は炭筆を持ったまま、しばらく紙を見つめた。
何か名前をつけられそうな気がした。
けれど、今はつけたくなかった。
まだ、分からないままでよい。
紙を折る。
その時、遠くから木を叩くような音がした。
少女は顔を上げる。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
警戒線の音ではない。
誰かが夜の作業をしているのだろうか。
少女は窓へ近づいた。
外は既に暗い。
村の家々には灯りがついている。
東側も静かだった。
しばらく待っても、誰かが走る様子はない。
「……何でも、異変に聞こえてしまいますね」
少女は苦笑した。
窓から離れようとする。
その時、玄関の方からマーサの声がした。
「誰だい?」
来客らしい。
少女は部屋を出た。
玄関にはローデンが立っていた。
「こんばんは」
「ああ。悪いな、こんな時間に」
ローデンの手には、一枚の紙があった。
少女の視線がそこへ向く。
森のことだろうか。
昼の筋跡について、何か分かったのか。
「何かありましたか?」
「森じゃない」
ローデンが先に言った。
少女の胸が少しだけ緩む。
しかし、次の言葉を聞く前に、別の緊張が生まれた。
「西へ行ってた者が、夕方戻ってきた」
「西へ……」
昨日、マーサが話していた。
誰かが荷を取りに西へ行くと。
「家の手紙とは別件だったんだがな」
ローデンは持っている紙へ目を落とした。
「途中の宿場で、エルドって名前を知ってる奴に会ったそうだ」
少女の呼吸が止まりかけた。
三軒目の家。
ハルトの息子。
西へ移ったエルド。
「本人ですか?」
「いや」
ローデンはすぐに否定した。
「本人じゃない。居場所が分かったわけでもない」
少女はゆっくり息を吐く。
「では?」
「昔、エルドと同じ職人のところにいたって男を知ってる商人がいたらしい」
遠い。
いくつも人を挟んでいる。
確かな返事ではない。
それでも、完全に途切れていた糸へ、ほんの少しだけ続きが見えた。
「その人は、エルドさんが今どこにいるか?」
「そこまでは知らん。ただ」
ローデンは紙を見た。
「十年も前の話だが、エルドが西へ出た後、最初にいた町の名前が分かった」
少女は何も言わなかった。
ローデンも急かさない。
「今そこにいる保証はない。家族が残ってるかも分からん。これから照会先を増やせるかもしれないってだけだ」
「……はい」
「返事が来たわけじゃないからな」
「分かっています」
少女は胸の前で手を重ねた。
今日、東では新しい跡が見つかった。
西からは、三軒目の家につながる古い情報が一つ届いた。
どちらも答えではない。
けれど、止まっていたものがほんの少し動いた。
「町の名前を、私は聞いてもよいですか?」
少女が尋ねる。
「ああ」
ローデンは紙を少女へ見せた。
そこには、聞き取りで書き留めたらしい町の名が一つ記されていた。
少女は静かに読んだ。
「ここへ、手紙を?」
「すぐじゃない」
ローデンは紙を畳む。
「まず、今の手紙がどこまで行ってるか確認する。同じ問い合わせをあちこちへ出して話をややこしくしたくない」
「はい」
「それに、十年前の勤め先が分かっただけだ。急いでも仕方ねえ」
「待ちます」
少女は答えた。
以前より、その言葉が自然に出る。
「でも」
ローデンを見る。
「教えてくださって、ありがとうございます」
「おう」
「少し、嬉しいです」
「まだ何も決まってねえぞ」
「はい。それでもです」
少女は微笑んだ。
ローデンもわずかに表情を緩めた。
「じゃあ、また分かったら話す」
「お願いします」
ローデンが帰った後、少女はしばらく玄関に立っていた。
「家、近づいたのかい?」
マーサが尋ねる。
少女は首を横に振る。
「まだです」
「そうかい」
「でも、少しだけ道が増えました」
「ならよかったね」
「はい」
少女は自室へ戻った。
先ほど閉じた日々の紙を、もう一度開く。
『三軒目の家。エルドさんが昔いた町の名前が分かった。今いるかは不明。返事ではない』
そこまで書く。
そして最後に、
『少し嬉しい』
とだけ加えた。
東の森には、何か分からない新しい跡が残った。
西には、住みたい家へつながる古い糸が一本見つかった。
ユウは無事に帰ってきた。
豆は雨を越えて伸びていた。
すべてが一日の中にあった。
少女は紙を閉じ、灯りを消した。
明日、何かが分かるとは限らない。
むしろ、分からないままのことの方が多いだろう。
それでも今日は、答えのないものを答えのないまま置いて眠れそうだった。
寝台へ入り、布団を肩まで引き上げる。
目を閉じた時、最後に浮かんだのは東の森ではなかった。
『ただいま』
帰ってきたユウの声だった。
少女は暗闇の中で、小さく息を吐いた。
「……おかえりなさい」
今度は誰にも聞こえない声でそう言って、静かに目を閉じた。




