第42話 今日は別々に
翌朝、少女が目を覚ました時、最初に聞こえたのは雨の音だった。
激しく屋根を叩くような雨ではない。細かな雨粒が一定の調子で屋根と窓へ触れ、時折、軒先からまとまった雫が落ちている。薄い雲に覆われた空のせいで部屋はまだ少し暗く、昨日の朝より時間が早いようにも感じられた。
少女は寝台の上で身体を起こし、窓へ目を向けた。
「雨……」
そこで、豆のことを思い出した。
昨日、ユウと一緒にガルドの畑へ行った。今日も起きていて、行きたければ一緒に見る。それだけの、約束と呼ぶには少し緩すぎる予定が残っている。
少女は窓辺まで歩き、外を確認した。道は既に濡れ、ところどころに小さな水溜まりができているものの、外へ出られないほどではない。
「どうしましょう」
豆を見たいかと聞かれれば、見たい。
ユウと一緒に見たいかと聞かれても、おそらく同じ答えになる。
しかし、雨の中をわざわざ畑まで行く必要があるのかと考えると、少し違った。
豆は逃げない。
今日見なければ枯れてしまうわけでもない。
ガルドなら雨の日に必要なことがあれば自分で畑を見るだろうし、少女が毎朝確認する役目を任されたわけでもなかった。
「……今日は、行かなくてもよいでしょうか」
口に出してみる。
誰も答えない。
けれど、昨日までより簡単に答えは出た。
「はい。行かなくてもよいですね」
少女は着替えを始めた。
服を整え、髪をまとめて部屋を出る。台所へ行くと、マーサは窓を少しだけ開け、外の雨を眺めていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日は豆は休みかい?」
「そのつもりです」
「へえ」
マーサが振り返る。
「行くと思ってたよ」
「私も起きるまではそう思っていました。でも、雨ですから」
「傘代わりの布くらいあるよ」
「それを使ってまで行く必要はないと思います」
「ユウが待ってるかもしれないよ?」
少女の手が一瞬止まった。
「……待っていますか?」
「知らないよ」
「マーサさん」
「何だい」
「今のは、少し意地悪ではありませんか?」
「そうかい?」
マーサは何食わぬ顔で鍋の蓋を開けた。
少女は唇を尖らせかけ、それから自分でも可笑しくなった。
「待っていたとしても、昨日、約束にはしませんでした」
「そうだね」
「ユウさんも、行きたければ行くと言っていました」
「うん」
「ですから、今日は行きません」
「分かったよ」
マーサはそれ以上何も言わなかった。
少女は卓の上へ器を並べる。
そうしているうちに、胸の中へ小さな引っかかりが生まれた。
ユウが畑へ行っていたら。
自分が来るかもしれないと思って、少し待っていたら。
そう考えると、何となく落ち着かない。
「……でも」
「何だい?」
「後で会ったら、今日は行かなかったと伝えます」
「好きにしな」
「待たせていたら悪いですから」
「約束じゃないんだろ?」
「そうですけれど」
少女は器を置きながら眉を寄せた。
「約束ではなくても、来るかもしれないと思っていた人が来なければ、少しくらい気になるのではありませんか?」
マーサが少女を見る。
「そうかもしれないね」
「ですよね」
「じゃあ行く?」
「行きません」
「面倒だねえ」
「私もそう思います」
少女は苦笑した。
朝食は、焼いたパンと温かい野菜のスープだった。
雨の日は少し冷えるからと、マーサがいつもより濃く味をつけている。少女は両手で器を包み、立ち上る湯気を吸い込みながらゆっくり食べた。
外から聞こえる雨音は途切れない。
それでも不思議と気持ちは沈まなかった。
「今日は何をするんだい?」
マーサに尋ねられ、少女はパンをちぎる手を止めた。
「まだ決めていません」
「そうかい」
「何かありますか?」
「聞いたら仕事探してるみたいじゃないか」
少女は口を閉じた。
確かにそうだった。
「では、聞きません」
「極端だねえ」
「難しいです」
「何が?」
「手伝いたい時に手伝うことと、何かしなければならないと思って探すことの違いです」
マーサはしばらく少女を見た後、自分のパンをスープへ浸した。
「その時やりたい方でいいんじゃないかい」
「その時?」
「私が重そうなもん持ってて、あんたが手伝いたきゃ手伝えばいい。今日は何か仕事ありませんかって家中探し回る必要はないだろ」
「……なるほど」
「まあ、掃除したいなら止めないけどね」
「今日はやめておきます」
「早いね」
二人で笑った。
朝食後、少女は食器を片づけ、自室へ戻った。
雨の日に何をしたいか。
机の前へ座り、しばらく考える。
紙はある。
縫い物もある。
鑿の練習木も手元にあるが、室内で木屑を散らすのは避けたい。
本を読みたいとも思う。
しかし、自分の本は持っていない。
三軒目の家へ住めるようになったら、いつか本を置きたい。
そんなことを考えながら窓を見る。
「本……」
ルードに、読める本はあるのだろうか。
帳面ならローデンのところにある。
古い記録もある。
しかし、そういうものではなく、物語を読むための本が欲しかった。
王都にいた頃は、自分の部屋に何冊もあった。
歴史書、詩集、礼法書、地理書。それから、母にはあまり好まれなかった物語の本も少しだけ持っていた。
追放された時、何一つ持ち出せなかった。
思い出した瞬間、胸の奥が少し重くなる。
お気に入りだった一冊があった。
少女が主人公の物語ではない。旅をする老夫婦が、各地で食べ物を食べながら少しずつ家へ帰っていく、変わった話だった。
妹も好きだった。
少女の部屋へ来ては勝手に読み、しおりを挟む場所まで毎回変えていた。
『お姉様、ここ面白いです!』
弾むような声が蘇る。
少女は目を閉じた。
妹は、あの本をどうしたのだろう。
まだ自分の部屋に残っているのか。
部屋そのものが、今もそのままなのか。
分からない。
少女はゆっくり息を吐いた。
以前なら、ここから次々と考えてしまっただろう。
妹はどうしている。
父は。
母は。
王太子は。
自分の部屋は。
あの日の後、公爵家では何が起きたのか。
けれど今日は、そこで止めることができた。
「読みたい本がある」
少女は小さく呟いた。
失った本を取り戻したいという意味ではない。
何か読みたい。
ただ、それだけだった。
机に置いていた日々の紙を開く。
『いつか、家に本を置きたい』
以前にも似たことを書いた気がする。
少女はその下へ一行加えた。
『物語の本も欲しい』
書き終えたところで、玄関の方からマーサの声がした。
「いるよ!」
誰か来たらしい。
少女は紙を閉じ、部屋を出た。
玄関にいたのはベルだった。
頭に古い布をかぶり、肩にも雨粒がついている。手には細長い木の板を抱えていた。
「おはようございます」
「おう」
「どうしたのです?」
「これ」
ベルは持っていた板を見せた。
「昨日の籠な。マーサに聞いたら、持ち手も少し緩いって言うから」
「あ」
昨日、少女がほつれを直した籠だ。
自分が直した部分ばかり見ていて、持ち手の方までは気づかなかった。
「壊れていましたか?」
「まだ壊れちゃいねえ」
ベルは短く答えた。
「緩んでるだけだ」
「直すのですか?」
「そのうちな」
「今日ではない?」
「雨だし」
少女は首を傾げた。
「雨だとできないのですか?」
「できる」
「では、なぜ?」
「急がんから」
ベルは当然のように答えた。
マーサが横で笑う。
「この村の爺さんたち、あんたに似たようなことばっか教えるね」
「私も今、そう思いました」
少女も笑った。
ベルは何のことか分からないという顔をしている。
「板は何に使うのです?」
「持ち手外した時に籠置く台」
「専用ですか?」
「余りだ」
「なるほど」
少女は籠を持ってきた。
昨日、自分が直した場所はそのままだ。少し不格好だが、糸は外れていない。
ベルが指で押して確認する。
「ここ、お前がやったんだって?」
「はい」
「使えるな」
「見た目は?」
「籠だぞ」
少女は一瞬黙った後、笑った。
「前にも似たことを言われた気がします」
「知らん」
ベルは籠を返した。
「今度持ち手やる時、見たきゃ来い」
「私も直すのですか?」
「見るだけでもいい」
「……では、見たいです」
「分かった」
ベルはそれだけ言うと、また布を頭へかぶった。
「もう帰るのですか?」
「来ただけだからな」
「雨なのに?」
「近い」
確かに近い。
ベルはマーサへ一言声をかけ、雨の中を戻っていった。
少女は玄関からその背中を見送る。
「自由ですね」
「誰が?」
「皆さんです」
「今さらかい」
マーサは笑いながら籠を持ち上げた。
「これ、今日使うよ」
「大丈夫ですか?」
「ベルが使えるって言っただろ」
「はい」
「なら使える」
マーサは籠へ布を何枚か入れた。
少女が直した部分へ重みがかかる。
糸は外れない。
「……本当に使えています」
「直したんだからね」
少女は少し嬉しくなった。
けれど、以前のように「次も何か直さなければ」とは思わなかった。
ただ、昨日やったことが今日の生活の中に残っている。
それで十分だった。
昼前になっても雨は止まなかった。
少女は居間でマーサと向かい合い、古い布を使って縫い方の練習を続けた。昨日曲がったところから少し離れた場所へ、新しく針を通していく。
「そこ、引っ張りすぎ」
「これくらいですか?」
「もうちょい緩く」
糸を少し戻す。
「こう?」
「そう」
「難しいです」
「最初から上手いやつなんかいないよ」
少女の頭の中に、昔の声が一瞬だけ浮かんだ。
『妹は一度でできたぞ』
以前なら、その声が聞こえた瞬間に指が固まっていたかもしれない。
今日は違った。
「妹なら、もう少し早く覚えたかもしれません」
マーサが少女を見る。
少女は針を持ったまま、続けた。
「でも、今縫っているのは私ですから」
「そうだね」
それだけだった。
慰めも否定もない。
少女はもう一針進めた。
少し曲がる。
次は真っ直ぐになった。
その次は、また少しだけずれた。
昼食の準備を始める頃、玄関が叩かれた。
「今度は誰だい」
マーサが立ち上がる。
少女も針を置いた。
戸を開けると、そこにはユウが立っていた。
髪の先が少し濡れている。
頭には布をかぶっているが、肩には細かな雨粒がついていた。
「こんにちは」
「ユウさん」
「いた」
「いますよ」
「豆行かなかった?」
少女は少しだけ目を見開いた。
「行っていません」
「そっか」
「ユウさんは?」
「行ってない」
少女の胸の中で、何かがふっと軽くなった。
「雨でしたから?」
「うん。わざわざ濡れてまで見なくてもいいかなって」
「私も同じことを考えました」
「じゃあよかった」
「何がです?」
「片方だけ行ってたら、ちょっと申し訳ないかなって」
少女はユウを見つめた。
今朝、自分も同じようなことを考えていた。
「私もです」
「同じ?」
「もしユウさんが畑で待っていたら、後で今日は行かなかったと伝えようと思っていました」
「待ってないよ」
「分かっています」
「俺も待ってない」
「二度言わなくても分かります」
少女は笑った。
ユウも少し笑う。
「じゃあ、今日は別々だったね」
「はい」
その言葉を聞いて、少女は少しだけ考えた。
昨日、一昨日と朝を一緒に過ごした。
今日は違った。
それでも、何も壊れていない。
むしろ、こうして昼に会って、同じことを考えていたと知るのが少し面白い。
「明日は?」
ユウが尋ねる。
「まだ分かりません」
「だよね」
「晴れたら行きたいかもしれません」
「俺も」
「では、その時に」
「うん」
マーサが二人の後ろから顔を出した。
「いつまで玄関で喋ってんだい。寒いから閉めな」
「すみません」
少女が慌てて戸を開ける。
「ユウさん、入りますか?」
「いいの?」
「昼食前ですけれど」
「じゃあちょっとだけ」
「飯食ってくかい?」
マーサが尋ねる。
「いいの?」
「一人増えたくらいで変わらないよ」
ユウは少し考えた。
「じゃあ、もらう」
「今日はちゃんと朝飯食べましたか?」
少女がすぐ尋ねる。
「食べたよ」
「何を?」
「パンと卵」
「卵」
「何その反応」
「いえ」
少女はオルドの鶏を思い出した。
「私、最近買っていません」
「食べたくないならいいんじゃない?」
「そうですね」
少女は素直に頷いた。
以前なら「卵を焼く練習をしていたのだから続けるべき」と考えたかもしれない。
今は食べたい時に買えばよい。
ユウが居間へ入る。
少女は椅子を一つ引いた。
「ここへどうぞ」
「ありがとう」
ユウが座る。
その瞬間、少女の視線が自分の手元へ落ちた。
何も考えず、いつも自分が座る位置の隣へ椅子を置いていた。
向かい側にも場所はある。
マーサの横も空いている。
けれど、自然とここへ置いた。
「どうしたの?」
「……何でもありません」
「最近それ多いね」
「マーサさんにも言われました」
「やっぱり」
「笑わないでください」
少女は少し頬を膨らませ、自分も席へ座った。
昼食は豆と根菜を煮たスープに、昨日のパンを軽く焼いたものだった。マーサが三人分の器を並べ、湯気の向こうでユウが手を合わせるような仕草をする。
「いただきます」
少女はその言葉を何度か聞いている。
「それは、ユウさんのいた場所の言葉ですよね」
「そう」
「食べる前に言う?」
「だいたい」
「誰に言うのですか?」
「うーん」
ユウは少し考えた。
「食べ物とか、作った人とか。そこまで毎回深く考えてなかったけど」
「習慣ですか?」
「たぶん」
少女は自分の器を見る。
豆。
根菜。
マーサが作った。
誰かが育てた。
「……いただきます」
試しに言ってみる。
ユウが少女を見る。
「何ですか?」
「いや。普通だなって」
「変でしたか?」
「変じゃない」
「ならよいです」
マーサは二人を見ながら首を傾げている。
「何の話だい?」
「ユウさんの故郷の言葉です」
「へえ」
マーサは一口スープを飲んだ。
「食えば同じだね」
「そうですね」
少女も笑った。
食事の途中、雨が少し強くなった。
屋根を叩く音が大きくなり、窓の向こうが白っぽく霞む。
「今日はしばらく止まなそうですね」
「そうだね」
少女が言うと、ユウも窓を見る。
「警戒線、大丈夫でしょうか」
「雨で鳴るようにはしてないよ」
「でも、雨の後は足跡が分かりやすくなることもありますよね」
「なるね」
ユウはスープを飲んでから続けた。
「だからって、雨上がった瞬間に森へ行く必要はないけど」
「はい」
少女はそれだけで頷いた。
以前の自分なら、「ではいつ確認しますか」「誰が行きますか」と続けていたかもしれない。
今は、必要になればケルやドランたちが決めると分かっている。
自分が全部を考える必要はない。
「そういえば」
マーサがパンをちぎりながら言った。
「ローデンが朝、誰か西へ行くって言ってたね」
少女の手が止まる。
「西へ?」
「荷を取りに行くとか何とか」
「誰がですか?」
「知らないよ。そこまでは聞いてない」
三軒目の家。
手紙。
エルド。
いくつかの言葉が頭へ浮かぶ。
けれど少女は、すぐには尋ねなかった。
既に手紙は出ている。
西へ行く人がいるからといって、その人がエルドのいる町へ向かうとは限らない。
「気になる?」
ユウが尋ねる。
「少し」
「家の手紙?」
「はい。でも、もう出していただいていますから」
少女はスープへ視線を落とす。
「今聞いても、早く返事が来るわけではありません」
「そうだね」
「……ただ、少し気にはなります」
「それでいいんじゃない?」
少女は頷いた。
気にしないふりをする必要もない。
待てることと、楽しみにしないことは違う。
昼食後、雨はまだ続いていた。
ユウはすぐに帰らず、居間の窓際で外を眺めていた。マーサは台所で器を洗い、少女は拭いた器を棚へ戻していく。
「ユウさん」
「ん?」
「今日は何をしに来たのですか?」
少女が尋ねると、ユウは少し考えた。
「何をって?」
「豆の確認ではありませんよね」
「うん」
「マーサさんに用事が?」
「ない」
「私に?」
聞いた瞬間、少女の手が止まった。
少し直接的すぎた気がする。
ユウは窓から少女へ視線を移した。
「たぶん」
「たぶん?」
「朝、豆行かなかったから」
「はい」
「そっちも行かなかったかなって、ちょっと気になった」
少女は器を持ったまま黙った。
「……それだけですか?」
「それだけ」
何かを届けに来たわけでもない。
仕事を頼みに来たわけでもない。
森の話でもない。
豆を見に行かなかった自分が、どうしているのか少し気になった。
それだけで雨の中を来た。
少女はゆっくり器を棚へ戻した。
「私は、嬉しいです」
「そっか」
「はい」
昨日と同じ返事だった。
けれど今日は、物足りないとは感じなかった。
少女が嬉しいと言えば、ユウはそれを否定せず受け取る。
それだけでよいのかもしれない。
「私も、ユウさんが畑へ行ったか気になっていました」
「じゃあ同じだね」
「そうですね」
少女は微笑んだ。
マーサが台所から二人をちらりと見た。
何か言うかと思ったが、何も言わない。
ただ、口元が少しだけ上がっていた。
「マーサさん」
「何だい?」
「今、何か思いましたか?」
「別に」
「本当ですか?」
「ほら、器まだあるよ」
少女は追及を諦めた。
片づけが終わる頃、雨脚が少し弱くなった。
ユウが立ち上がる。
「そろそろ帰る」
「もう?」
少女の口から先に言葉が出た。
ユウが少女を見る。
少女自身も少し驚いた。
「……いえ」
「もうちょっといる?」
聞かれて、少女は迷う。
引き留めたい。
しかし、特に話すことはない。
何か用事を作る必要もない。
第35話で、用事がなくても話したり、お茶を飲んだり、何もしなかったりしてよいと聞いた。
「もし、急ぐことがないなら」
「ないよ」
「では、もう少しいませんか?」
「いいよ」
ユウはまた椅子へ座った。
あまりにも簡単だった。
少女は少し拍子抜けする。
「何をしましょう」
「何もしなくてもいいんじゃない?」
「……本当に?」
「この前もそんな話したよね」
「しました」
少女は向かいの椅子へ座りかけ、少し迷った末、先ほどと同じユウの隣へ座った。
近すぎるほどではない。
手を伸ばしても触れない程度の距離がある。
それでも、向かい側よりは近い。
雨音を聞きながら、二人で窓の外を見る。
マーサは奥の部屋へ行き、居間には二人だけになった。
何も話さない時間が続く。
昨日、豆畑でも同じような時間があった。
今日は豆がない。
ただ雨が降っている。
「こういうのも、よいですね」
少女が言った。
「雨?」
「何もしないことです」
「俺は好きだよ」
「知っています」
「昼寝する?」
「今はしません」
「そっか」
「ユウさんも寝ないでください」
「何で?」
「せっかくいるのに寝られたら、少し寂しいです」
言ってから、少女の呼吸が止まった。
今、自分は何を言ったのだろう。
ユウもすぐには答えなかった。
雨が軒を叩く音だけが、妙にはっきり聞こえる。
「……すみません」
「何で謝るの?」
「いえ、その……」
少女は膝の上で指を組んだ。
「寝てはいけないという意味ではありません」
「うん」
「眠いなら寝てください」
「今は眠くないよ」
「そうですか」
「じゃあ起きてる」
ユウはいつも通りの声で言った。
少女は少しだけ顔を上げる。
「……はい」
胸の奥が落ち着かない。
けれど、嫌ではない。
むしろ、先ほど自分が口にした言葉を、取り消したくなかった。
せっかくいるのだから。
寝てしまったら少し寂しい。
どうしてそう思うのかは、まだ考えないことにした。
雨はしばらく降り続いた。
二人は時々短い話をした。
ユウのいた場所では雨の日に何をしていたのか。
少女は王都の屋敷で雨の日に何をしていたのか。
けれど、昔の暮らしを詳しく掘り下げることはしなかった。
「雨の日は、本を読むことが多かったです」
少女が言う。
「本好きなの?」
「好きだったと思います」
「だった?」
「今も好きです。でも、こちらへ来てから読む本がなかったので、少し忘れていました」
「ローデンさんの帳面ならいっぱいあるけど」
「それは読み物ではありません」
「違う?」
「少なくとも、楽しむためには読みません」
ユウが笑う。
「どんな本読むの?」
「物語も好きです。昔、旅をする老夫婦の話をよく読みました」
「冒険もの?」
「冒険というより、食べてばかりいました」
「いい話じゃん」
「ユウさんは好きそうですね」
「食べ物いっぱい出るなら」
少女は笑った。
「妹も好きでした」
言葉が出た後、少しだけ空気が変わる。
ユウは何も挟まない。
少女は窓の外を見たまま続けた。
「私の部屋へ来て、勝手に読んでいました。しおりを毎回違う場所へ移すので、私がどこまで読んだか分からなくなって」
「怒った?」
「怒りました」
「妹さんは?」
「謝って……次の日にまたやりました」
「反省してないね」
「そうなのです」
少女の口元に笑みが浮かぶ。
その後、少しだけ胸が痛んだ。
楽しかった記憶だった。
今までは、妹との記憶を思い出すと、そのすぐ隣に比較された苦しさが出てきた。
今日も消えたわけではない。
けれど、妹がしおりを勝手に動かしたことを、ただ懐かしいと思う自分もいる。
「また読みたいです」
「その本?」
少女は考えた。
「……いいえ」
意外な答えだった。
「同じ本でなくてもよいです」
「そっか」
「新しい本も読んでみたいです」
言葉にすると、胸の奥が少し軽くなった。
失ったものを全部取り戻さなくてもよい。
まだそこまで大きな言葉にはできない。
ただ、昔持っていた本と同じものがなければ読書を再開できないわけではなかった。
「ハインさん、次来た時に本持ってないかな」
ユウが言う。
「本を?」
「商人だし。頼めば次に持ってきてくれるかも」
少女の目が少し開く。
「買えるでしょうか」
「値段は聞かないと分かんないけど」
少女は自分の小さな財布を思い浮かべた。
残っている銀貨と銅貨。
無駄遣いはできない。
けれど、生活に必要なもの以外へお金を使ってはいけないとも言われていない。
「次に来た時、聞いてみます」
「うん」
「すぐ買うかは、その時決めます」
「それがいいんじゃない?」
少女は頷いた。
また一つ、少し先に楽しみなものが増えた。
家。
本。
鶏肉の料理。
豆の芽。
どれもまだ確定していない。
それなのに、確定していないことが以前ほど怖くない。
やがて雨がさらに弱まり、屋根を叩いていた音が細くなった。
ユウが窓を見る。
「今なら帰れそう」
今度は少女も引き留めなかった。
「はい」
立ち上がるユウを見て、少女も玄関まで一緒に行く。
「今日は来てくださって、ありがとうございました」
「飯もらっただけだけど」
「それだけではありません」
「そっか」
「はい」
少女は戸を開けた。
湿った空気が入ってくる。
「明日、晴れるでしょうか」
「どうだろ」
「晴れて、起きていて、行きたかったら」
「豆?」
「はい」
「じゃあその時」
「その時に」
ユウは雨上がりかけの道を歩いていった。
少女は少しの間、その背中を見送った。
途中でユウが振り返る。
「寒いよ」
「え?」
「戸、閉めた方がいい」
「あ……はい」
見ていたことを気づかれたような気がして、少女は少し慌てて戸を閉じた。
背中を戸へ預ける。
頬が少し熱い。
「何をしているのでしょう」
「見送りだろ?」
奥からマーサの声が飛んできた。
「聞いていたのですか?」
「家の中だからね」
「……そうでした」
少女は居間へ戻った。
夕方になって雨は完全に止んだ。
空はまだ曇っているものの、西の端だけが少し明るくなっている。
少女は外へ出ず、窓から濡れた村を眺めた。
道の窪みに水が残り、屋根からは時々最後の雫が落ちる。
東の森も雨に濡れている。
警戒線は鳴らなかった。
誰も調べに走らない。
それでよい。
夕食の後、少女は自室の机へ座った。
日々の紙を開く。
『雨。豆は見に行かなかった』
その下へ続ける。
『ベルさん。籠は使えている。持ち手は急がない』
『縫い物。妹なら早かったかもしれない。でも、縫ったのは私』
『物語の本が読みたい。次にハインさんが来たら聞いてみる』
少し考えてから、もう一行。
『昔と同じ本でなくてもよい』
炭筆を置く。
次に、折ってある小さな紙を開いた。
昨日までの記録を読む。
『ユウさんは、豆だけなら一人では見に来ない。でも、私が誘ったから来た』
『いつか鶏肉を煮る料理を覚える。ユウさんが食べるかもしれない』
少女は今日のことを思い返した。
朝、会わなかった。
豆も一緒に見なかった。
それでも昼にユウは来た。
自分が畑へ行ったか少し気になったから。
雨の中を。
少女は炭筆を持つ。
『今日は別々に朝を過ごした』
そこで一度止まった。
続ける。
『でも、ユウさんが来た』
さらに少し迷ってから、
『もう少しいてほしいと思った』
と書いた。
文字を見つめる。
消したくはない。
その下へ、もう一つ書く。
『寝られたら少し寂しいと言ってしまった』
「……これは」
少女は片手で顔を覆った。
思い出すと、また頬が熱くなる。
けれど、ユウは嫌そうではなかった。
笑いもしなかった。
眠くないから起きている、と言った。
少女は指の隙間から紙を見る。
「なぜ、こんなことまで書いているのでしょう」
答えは出ない。
出なくてもよい気がした。
紙を折る。
今日は豆を見なかった。
ユウとも朝は会わなかった。
それでも、昨日より遠くなったとは思わない。
会わない時間があって、その後に会う。
別々のことをして、それを後で話す。
同じ場所にいても、何もしない時間がある。
そういうものが少しずつ増えていくことを、少女はまだ何と呼べばよいのか知らなかった。
窓の外で、雲の切れ間から月の淡い光が落ちた。
濡れた道が薄く光っている。
明日、晴れるかは分からない。
豆を見に行くかも、朝にならなければ分からない。
三軒目の家の返事も来ていない。
森の古い車輪跡が何だったのかも分からない。
妹が今どこで何をしているのかも知らない。
それでも、分からないものをすべて今夜のうちに答えへ変えなくても、眠れる。
少女は机の灯りを消し、寝台へ入った。
雨上がりの冷えた空気の中、布団を肩まで引き上げる。
目を閉じると、今日一番強く残っていたのは、森でも古い車輪跡でもなかった。
雨に濡れた髪で玄関に立ち、
『そっちも行かなかったかなって、ちょっと気になった』
そう言ったユウの姿だった。
少女は布団の中で、ほんの少しだけ笑った。
今日は一緒に朝を過ごさなかった。
それでも、悪くない一日だった。




