第41話 朝の豆畑
翌朝、少女が目を覚ました時、窓の外はもう十分に明るくなっていた。
昨夜まで残っていた薄い雲は東へ流れたらしく、窓から差し込む朝日は昨日よりも強い。軒先では小鳥が短く鳴き、家の裏からはマーサが何かを動かしているらしい木の擦れる音が聞こえていた。
少女は掛け布を押しのけて身体を起こし、枕元へ置いていた服へ手を伸ばしたところで、ふと思い出した。
豆の芽。
昨日、ガルドの畑でユウと一緒に見た小さな芽だ。
明日の朝も、ユウが起きていて、自分も行きたければ一緒に見ようと話した。約束というほど強いものではなく、どちらかが寝ていたり、別のことをしたくなったりすれば、それで終わる程度の予定だった。
「……何時でしょう」
時計はない。
けれど、家の中の音と日の高さから考えれば、寝坊したわけではなさそうだった。
少女は寝台から足を下ろし、いつものように立ち上がる。そこで右足へ体重を乗せた後、少し遅れて、自分が踵の痛みを確かめようとしていたことに気づいた。
痛くない。
それ自体は、もう何日も変わっていない。
少女は足元を見つめてから、小さく笑った。
「今日も確認してしまいました」
昨日、忘れていたらそのままでよいと思ったばかりなのに、身体の方が先に覚えているらしい。
だからといって、明日は絶対に確認しないと決める必要もない。
そのうち忘れる日が来るのだろう。
少女は着替えを済ませ、髪を整えて部屋を出た。
台所へ入ると、マーサは既に朝食の準備を始めていた。鍋からは湯気が細く立ち、昨夜残しておいた豆と青菜の煮込みへ少し水を足して温め直している。
「おはようございます」
「おはよう。よく寝てたね」
「寝坊しましたか?」
「してないよ」
マーサは鍋を混ぜながら少女を振り返った。
「でも、今日は起きたらすぐ外へ飛び出すかと思ってた」
「なぜです?」
「豆見るんだろ?」
少女は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……知っていたのですか?」
「昨日、ユウとガルドの畑にいたって聞いたからね」
「誰から?」
「ガルド」
「本人ですか」
「『明日も見に来るぞ!』って言ってたよ」
「まだ行くとは決めていません」
「そうなのかい?」
「起きていて、行きたければです」
マーサは少女の顔を見た。
「行きたくないのかい?」
少女は答える前に少し考えた。
行きたい。
昨日の芽が今日どうなっているか気になるし、ユウが起きているなら一緒に見たい。
「……行きたいです」
「じゃあ飯食べな」
「はい」
あまりにも簡単に話が終わり、少女は少し笑った。
卓へ器を並べ、マーサと向かい合って座る。
温め直した煮込みは、昨夜より豆が柔らかくなっていた。パンをちぎって汁へ浸すと、昨日とは少し違う味になる。
「昨日よりおいしい気がします」
「煮物は一晩置くと味変わるからね」
「では、昨日失敗していたということではない?」
「誰がそんなこと言ったんだい」
「いえ。前の私なら、今日の方がおいしいと感じたら、昨日は足りなかったのかと考えたかもしれません」
マーサはパンを口へ運びながら鼻を鳴らした。
「昨日は昨日の味だよ」
「はい」
少女はもう一口食べた。
今日の方が好きだと思う。
それだけでよい。
朝食を終え、食器を洗う。少女はいつも通り布で器を拭き、棚へ戻してから玄関へ向かった。
「行ってきます」
「豆によろしく」
「豆へ挨拶はしません」
「ガルドならしてそうだけどね」
「……否定できません」
少女は笑いながら外へ出た。
朝の空気はまだ少し冷たい。
晴れていても、日陰には夜の湿り気が残っている。道端の草には小さな露がつき、歩くたびに靴の脇へ触れた葉が揺れた。
まずユウの家へ向かうべきか、それとも畑へ直接行くべきか。
少女は道の分かれる場所で足を止めた。
昨日は「起きていたら一緒に」と話した。
しかし、待ち合わせ場所までは決めていない。
「……これは、約束として不完全なのでは?」
誰も答えない。
少し考えた末、少女はユウの家へ向かった。
起こさないとは言った。
だから、戸を叩かなければよい。
家の前を通り、起きている気配がなければ一人で畑へ行く。
それなら昨日の話とも矛盾しない。
そんなことを考えながら歩いていると、目的の家が見えてきた。
戸は閉まっている。
煙突から煙は出ていない。
少女は少し離れた場所で立ち止まった。
「……寝ていますか?」
当然、返事はない。
近づいて物音を確かめるのも違う気がする。
起こさないと言ったのだから、今日は一人で行こう。
そう決めて踵を返しかけたところで、家の裏手から何かが落ちる音がした。
続いて、聞き慣れた声がする。
「痛っ」
少女は反射的に振り返った。
「ユウさん?」
「あれ?」
家の脇からユウが顔を出した。
片手には薪が一本握られている。
「おはよう」
「おはようございます。何をしているのです?」
「薪取ろうとしたら落とした」
「足に?」
「当たってない。手から落ちただけ」
少女はユウの足元を見た。
確かに普通に立っている。
「驚かせないでください」
「ごめん」
「怪我をしたのかと思いました」
「してないよ」
ユウは薪を拾い直し、家の壁際へ立てかけた。
「豆?」
「……はい」
「やっぱり」
「何ですか、その言い方は」
「来るかなと思ってたから」
少女は少しだけ目を見開いた。
「待っていたのですか?」
「いや、起きてたら行こうって話だったし」
「それは待っていたことにはならないのですか?」
「ならないんじゃない?」
少女は首を傾げた。
自分には違いがよく分からない。
「ユウさんも行きたいのですか?」
「昨日見たから、今日はちょっと気になる」
「では、行きましょう」
「朝飯食べた?」
「食べました」
「俺まだ」
少女の足が止まった。
「……では、食べてからでは?」
「パンだけ持ってく」
「歩きながら食べるのですか?」
「駄目?」
「駄目ではありませんが」
少女は少し考えた。
公爵家にいた頃なら、歩きながら食べるなど考えられなかった。
食事には場所と作法があり、姿勢があり、使う器まで決まっていた。
「やってみたいです」
「何を?」
「歩きながらパンを食べることです」
「もう朝飯食べたんでしょ?」
「食べました」
「じゃあ今やらなくても」
「そうですね」
自分でも可笑しくなり、少女は笑った。
「次にします」
「次あるの?」
「やりたくなった時に」
「そっか」
ユウは家へ入り、少しして小さなパンを一つ持って戻ってきた。
「それだけですか?」
「後でちゃんと食べる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
「マーサさんみたいになってきたね」
少女は口を閉じた。
以前も似たようなことを言われた気がする。
「……食べなかったら言います」
「誰に?」
「マーサさんに」
「それは困る」
ユウがパンを一口かじる。
二人は並んでガルドの畑へ向かった。
朝の村は既に動き始めている。井戸の近くでは二人の老人が桶を並べ、家の前では老婆が濡らした布を絞っていた。
少女は何度か挨拶をしながら歩く。
もう、村の中で誰かとすれ違うたびに身体を強張らせることはなくなった。
「今日は森、静かですね」
畑へ向かう途中、東側の森が見える場所で少女が言った。
「昨日の夜も線は鳴ってないよ」
「確認したのですか?」
「朝、ローデンさんに会った」
「そうですか」
少女はそれ以上尋ねなかった。
昨日、次に異常が出るまでは同じ場所へ調べに行かないと決めた。
なら、今朝何もなかったという情報だけで十分だった。
「気になる?」
ユウがパンを食べながら尋ねる。
「気にはなります。でも、今日は豆を見に来ています」
「切り替え早くなったね」
「そうでしょうか」
「前だったら、森のこと聞いた後ずっと考えてた気がする」
少女は歩きながら少し考えた。
「今も考えています」
「うん」
「でも、私が今考え続けても、車輪跡がいつのものか分かるわけではありませんから」
森へ視線を向ける。
朝日を受けた木々の上部は明るいが、幹の間はまだ暗い。
「怖くないわけではありません。ただ、怖いことと、朝に豆を見ることは一緒にあってもよいのだと思います」
「いいんじゃない?」
「はい」
少女は前を向いた。
畑が見えてくる。
昨日と同じ場所に、小さな緑が並んでいた。
「あ」
少女は自然に足を速めた。
走るほどではない。
それでも、ユウより半歩ほど先に出る。
「大きくなっていませんか?」
「昨日より?」
「はい」
二人で畑の端へしゃがむ。
昨日見た芽は、確かに少し伸びたように見えた。葉の開き方が変わったものもあり、朝露を乗せた小さな葉が光を反射している。
「大きくなってる気がする」
「ですよね?」
「でも測ってないから分かんない」
「今日はそれでよいです」
少女は芽を覗き込んだ。
一つだけ、他より少し傾いているものがある。
「これは昨日から傾いていましたか?」
「覚えてない」
「私もです」
「じゃあ分かんないね」
「はい」
少女は笑った。
分からなくても困らない。
これは見張り帳ではない。
豆が昨日からどれだけ伸びたか正確に記録する必要はない。
「おう!」
予想していた声が畑の奥から響いた。
ガルドが大股で歩いてくる。
「来たな!」
「おはようございます」
「大きくなっただろ!」
「少し大きくなった気がします」
「大きくなった!」
「昨日も同じことを言っていましたよ」
「毎日大きくなるからな!」
ガルドは胸を張った。
少女は笑いながら芽を見る。
「これ、少し傾いています」
「どれだ?」
「これです」
ガルドがしゃがみ込む。
「これくらい平気だ!」
「直さなくてよいのですか?」
「まだ触らん!」
「なぜ?」
「根ぇ張ってる途中だからな。下手にいじる方がよくねえ」
少女は手を伸ばしかけていた指を引っ込めた。
「倒れそうだから支えた方がよいと思いました」
「もっと倒れたら考える!」
「今は?」
「見とく!」
少女は小さな芽を見た。
傾いている。
だからといって、すぐに手を加える必要はないらしい。
「……そういうこともあるのですね」
「豆だぞ?」
ガルドは何の話だという顔をしている。
「はい。豆です」
少女はそれ以上説明しなかった。
ガルドが畑の別の場所へ行き、ユウは最後のパンを口へ入れた。
「食べ終わりましたね」
「うん」
「朝食は?」
「帰ったら食べる」
「忘れないでください」
「はいはい」
「返事が軽いです」
「ちゃんと食べるって」
少女は少し疑うようにユウを見る。
それから豆へ視線を戻した。
「昨日より大きい気がします」
「二回目」
「言いたかったので」
「そっか」
しばらく二人でしゃがんだまま、何も話さなかった。
鳥の声が聞こえる。
少し離れたところでガルドが土を掘る音がする。
風が吹くと、豆の小さな葉が一斉に揺れた。
何か話さなければならないとは思わなかった。
沈黙していても気まずくない。
少女はそのことに気づき、隣へ視線を向けた。
ユウも豆を見ている。
「ユウさん」
「ん?」
「楽しいですか?」
「豆見るの?」
「はい」
ユウは少し考えた。
「豆だけだったら、たぶん一人では来ないかな」
少女の胸が小さく動く。
「では、なぜ来たのです?」
「誘われたから」
「私に?」
「他に誰がいるの」
少女は視線を豆へ戻した。
「……そうですか」
「嫌だった?」
「いいえ」
答えはすぐに出た。
「嬉しいです」
言った後で、頬が少し熱くなる。
けれど昨日と同じように、取り消したいとは思わない。
「そっか」
ユウもそれ以上何も言わなかった。
少女はその返事に、少しだけ物足りなさを感じた。
何を期待したのかは分からない。
同じように「楽しい」と言ってほしかったのかもしれない。
しかし、ユウは一人なら来ない場所へ、自分に誘われたから来た。
それで十分な気もした。
「明日も来ますか?」
少女は尋ねてから、自分で少し驚いた。
「もう明日の話?」
「……いけませんか?」
「別にいいけど」
ユウは芽を見ながら答える。
「起きてて、行きたかったら」
昨日と同じだった。
少女は笑う。
「はい。それでお願いします」
「約束じゃなく?」
「約束にすると、寝ていた時に起こしたくなってしまうかもしれません」
「起こさないって言ってなかった?」
「言いました。でも、約束したのに、と思うかもしれません」
「なるほど」
「だから、このくらいでよいです」
「じゃあ、このくらいで」
二人は立ち上がった。
少女が膝についた土を払う。
ユウも手を軽く叩いた。
「帰る?」
「私は少し村を歩きます」
「何かあるの?」
「ありません」
少女は答えた。
「少し歩きたいだけです」
「そっか」
「ユウさんは朝食を食べてください」
「分かった」
「本当に?」
「食べるよ」
「では、また後で」
「うん。またね」
畑の前で二人は別れた。
少女は村の南側へ向かう。
特に目的はない。
昨日までなら、目的もなく歩くことに少し戸惑ったかもしれない。
けれど今日は、晴れた朝の村をもう少し見たかった。
道沿いには低い石垣があり、その隙間から小さな黄色い花が咲いている。どこかの家では洗った布を干し始めており、風に揺れる白い布の向こうから老婆の鼻歌が聞こえた。
少女はゆっくり歩いた。
三軒目の家へ続く道が見える場所まで来る。
足が自然にそちらへ向きかけた。
けれど、途中で止まる。
見に行ってはいけないわけではない。
許可前に掃除や修理をしなければよいだけで、外から眺めることまで禁じられてはいない。
それでも、今日は行かなくてもよい気がした。
「返事が来てからでも、家は逃げませんよね」
少女は小さく呟いた。
リンカの木も、窓も、昨日までと同じ場所にある。
返事が来るまで毎日確かめなくても、自分が住みたいと思ったことは消えない。
少女は道を曲がらず、そのまま歩いた。
少し先で、ベルの孫が木切れを二つ持ってしゃがみ込んでいた。
「おはようございます」
「あ、お姉ちゃん」
「何をしているのです?」
「橋」
「橋?」
子供の前には浅い溝があり、その上へ木切れを渡そうとしている。
「ここに?」
「うん。虫が渡るやつ」
少女は溝を覗いた。
「虫のための橋ですか?」
「そう」
「渡りますか?」
「知らない」
あまりにも迷いのない答えだった。
少女は思わず笑った。
「知らないのに作るのですか?」
「渡ったら面白いから」
「渡らなかったら?」
「別にいい」
子供は再び木切れを置き始めた。
少女はその横へしゃがむ。
「手伝いましょうか?」
「いい」
「分かりました」
断られた。
少女はそのまま少し眺めた。
手伝わせてもらえなくても、嫌われたわけではない。
子供が自分でやりたいだけだ。
以前の自分なら、何か役に立てることを探したかもしれない。
今は、隣で見ているだけでもよい。
「できた」
子供が木切れから手を離す。
二本の木が溝へ渡された。
少し曲がっている。
「立派です」
「まだ虫いない」
「待つのですか?」
「ちょっとだけ」
「では、私も少しだけ」
二人で溝を見る。
すぐには何も来ない。
風が吹き、草が揺れる。
一分ほど経った頃、小さな黒い虫が土の上を歩いてきた。
「あ!」
子供が声を上げる。
虫は橋の手前まで来た。
少女も息を詰める。
しかし虫は木切れへ上がらず、そのまま横へ曲がって草の中へ消えた。
「……渡りませんでしたね」
「うん」
「残念ですか?」
「次の虫待つ」
子供はまったく気にしていなかった。
少女は笑う。
「そうですね」
今度は少女の方が先に立ち上がった。
「私は行きます」
「うん」
「渡ったら教えてください」
「分かった!」
歩き出してから、少女は少し可笑しくなった。
豆が伸びるのを見る。
虫が橋を渡るのを待つ。
昨日までの自分なら、何の意味があるのだろうと思ったかもしれない。
意味などなくても、面白い。
それだけで一日の中に置いてよいことが、この村にはたくさんある。
昼前、少女はマーサの家へ戻った。
「ただいま戻りました」
「おかえり。豆どうだった?」
「大きくなった気がします」
「気がする?」
「測っていませんから」
「測ればいいじゃないか」
「測りません」
少女は少し得意げに答えた。
「見たいだけなので」
「そうかい」
マーサは不思議そうな顔をしたが、すぐに笑った。
「ユウは?」
「一緒に見ました」
「そうかい」
「それだけですか?」
「何が?」
少女は自分から尋ねてしまったことに気づく。
「……いえ。何でもありません」
「何言ってほしいんだい」
「分かりません」
「最近それ多いね」
「私もそう思います」
少女は苦笑し、台所へ入った。
昼食の準備を手伝う。
今日は芋を薄く切り、青菜と一緒に焼くことになった。
少女が包丁を使っていると、マーサが横から手元を見る。
「前より早くなったね」
「本当ですか?」
「最初は一枚切るたび止まってたからね」
「厚さを揃えようとしていました」
「今日も揃ってないけどね」
少女はまな板を見る。
確かに少し厚いものと薄いものがある。
「……直しますか?」
「何を?」
「厚いものをもう少し薄く」
「焼く順番変えりゃいいよ」
少女は包丁を置きかけて、止めた。
「では、厚いものから先に?」
「そう」
「分かりました」
切り直さない。
厚いものを先に鍋へ置く。
少し待ってから薄いものを入れる。
油が小さく弾け、芋の表面が色づき始めた。
「こういうやり方も、前に教わりましたね」
「毎回同じに切れるようになるまで飯食わないつもりかい?」
「それは困ります」
「なら焼きな」
「はい」
少女は笑った。
昼食を終えた後、少女は一度自室へ戻った。
机には昨日の紙がある。
見張り帳の内容を写した紙ではなく、自分の日々を書いている方だ。
少女は炭筆を持ち、少し考えてから書いた。
『豆。昨日より少し大きくなった気がする。測っていない』
続けて、
『虫の橋。最初の虫は渡らなかった』
と書く。
書いた後、自分で笑ってしまった。
「何を書いているのでしょう、私は」
誰にも提出しない。
何かの証拠にもならない。
それでも残しておきたかった。
もう一枚の小さな紙へ手を伸ばす。
ユウの好きなものや、自分が彼と一緒にいる時に感じたことを書いている紙だ。
開く。
『ユウさんは、鶏料理が好き』
『カレーという料理が好きだった』
『豆の芽は、一人で見るよりユウさんと見た方が楽しかった』
『明日も、起きていたら一緒に見る』
その最後の一行の横へ、少女は小さく印をつけた。
実際に一緒に見た。
約束ではなかった。
それでも二人とも起きていて、行きたかったから行った。
少女は新しい一行を書く。
『ユウさんは、豆だけなら一人では見に来ない。でも、私が誘ったから来た』
そこまで書いて、炭筆が止まった。
「……これは、残す必要がありますか?」
実用性はない。
必要性もない。
けれど消したくない。
少女は紙を折った。
答えはそれで十分だった。
午後は特に予定を決めなかった。
少女はマーサの家の軒先へ椅子を出し、少しだけ縫い物をした。破れているわけではない布の端を使い、サナに以前教わった縫い方をもう一度試してみる。
風が穏やかで、日向は暖かい。
針を何度か通したところで、道の向こうからローデンが歩いてきた。
「こんにちは」
「ああ」
ローデンは足を止める。
「森の方は?」
少女が尋ねると、ローデンは首を横に振った。
「変わりなし。線も鳴ってない」
「そうですか」
「今日は誰も昨日の場所へ入ってない」
「はい」
少女は頷いた。
それで会話を終えようとした時、ローデンが続けた。
「家の手紙の方も、まだだぞ」
「……私、顔に出ていましたか?」
「森を聞いた後、こっち見てたからな」
ローデンが自分の持っている紙束を軽く持ち上げる。
少女は少し恥ずかしくなった。
「すみません」
「謝ることじゃない」
「返事は、まだ先ですよね」
「早くても数日はかかる。相手がすぐ見つかるとも限らん」
「分かっています」
少女は膝の上の布を見る。
「待ちます」
「そうしてくれ」
ローデンは歩き出しかけ、少しして振り返った。
「名前の方も、急がんでいいからな」
少女の指が止まる。
以前、帳面を見ていた時に話したことだ。
ローデンはまだ少女の名前を知らない。
少女自身が「いつかは言いたい」と答えた。
「……はい」
「家の問い合わせにも、お前の身元は書いてない」
「ありがとうございます」
「今必要なのは、あの家を村で使っていいかどうかだからな」
ローデンはそれだけ言い、今度こそ歩いていった。
少女はしばらく針を動かさなかった。
名前。
公爵家の娘だった自分。
王太子の婚約者だった自分。
罪を犯したとされた自分。
追放された自分。
それらすべてにつながるもの。
この村へ来てから、誰も名前を強く求めなかった。
それがありがたかった。
同時に、最近は少しだけ違う気持ちもある。
いつまでも隠したいわけではない。
いつか、自分の口から言いたい。
ただ、それは今日ではない。
少女は針を持ち直した。
布へ通す。
一針。
もう一針。
名前について考えた後でも、縫い物はできる。
午後の日差しは変わらず暖かかった。
しばらくして、家の前をユウが通った。
「あ」
少女が先に声を出した。
ユウが振り返る。
「こんにちは」
「何してるの?」
「縫い物です」
「直してる?」
「練習です」
「見せて」
少女は少し迷い、布を持ち上げた。
「まだ途中です」
「朝の籠みたいに?」
「籠は昨日です」
「あ、そっか」
「今日は豆です」
「豆は朝」
「そうでした」
二人で顔を見合わせる。
少女は先に笑った。
「何だか、一日が長いですね」
「まだ午後だよ」
「いろいろした気がします」
「何したの?」
「豆を見て、子供が虫の橋を作るのを見て、芋を焼いて、今は縫い物です」
「すごい平和だね」
「はい」
少女はその言葉を気に入った。
「平和です」
東の森には分からないものが残っている。
自分の身分も、家も、王都のことも解決していない。
それでも、今日の午後を平和だと言ってよい。
「ユウさんは?」
「朝飯食べて、薪割って、昼飯食べて、ちょっと寝た」
少女はじっと見る。
「また寝たのですか?」
「ちょっとだけ」
「朝も寝ていたわけではありませんよね?」
「起きてたじゃん」
「そうですが」
少女は笑いを堪えきれなかった。
「本当に昼寝が好きなのですね」
「好きって言ったでしょ」
「知っています」
好きなもの。
鶏料理。
カレー。
風呂。
食事。
昼寝。
少女は頭の中に自然と並んだそれらへ、自分でも少し驚いた。
覚えようと努力したわけではない。
覚えていた。
「どうしたの?」
「何でもありません」
「また?」
「今回は、少し分かっています」
「何が?」
少女は答えかけて、やめた。
「まだ言いません」
「そっか」
ユウは簡単に引いた。
そのことにも安心する。
「ユウさん」
「ん?」
「夕食は決まっていますか?」
「まだ」
少女の胸の奥で、昨日から残っていた小さな考えが動いた。
鶏料理。
自分はまだ、鶏肉を使った料理をきちんと教わっていない。
ユウが好きだから作る。
そこまで考えると、少しだけ急いでいる気がした。
少女は言葉を変えた。
「マーサさんに、今度鶏肉の料理も教わろうと思っています」
「いいんじゃない?」
「ユウさんが好きだから、ではありません」
言ってから、自分で固まった。
ユウも瞬きをした。
「……まだ何も言ってないけど」
「分かっています」
少女は布へ視線を落とした。
頬が熱い。
「今のは忘れてください」
「うん」
「早いですね」
「忘れてって言ったから」
「そうですが……」
少しくらい何か言われると思っていた。
しかし言われたら困る。
自分でも何を望んでいるのか分からない。
少女は針を布へ通した。
「でも」
ユウの声がした。
少女は顔を上げる。
「作ったら食べるよ」
それだけだった。
少女の指が止まった。
「……まだ作るとは言っていません」
「今度教わるんでしょ?」
「そうですが」
「じゃあ上手くできたら」
「上手くできなかったら?」
「食べられるやつなら食べる」
少女はしばらくユウを見つめた。
それから、小さく笑った。
「では、そのうち」
「うん。そのうち」
いつになるかは決めない。
明日でもない。
鶏肉が手に入って、マーサに教わりたくなって、自分で作ってみたいと思った時。
その時に考えればよい。
「では、期待しないで待っていてください」
「難しい注文だな」
「期待されると失敗できなくなります」
「じゃあ期待しない」
「それはそれで少し嫌です」
「どっち?」
少女は自分でも分からなくなり、声を上げて笑った。
マーサが家の中から顔を出す。
「何笑ってんだい?」
「分かりません!」
「またかい」
「今日は本当に分かりません」
マーサは呆れたように首を振り、家の中へ戻った。
ユウも笑っている。
少女は頬の熱がなかなか引かないまま、手元の布へ視線を落とした。
針を通す。
少し曲がった。
「あ」
「失敗?」
「少し」
「直す?」
少女は縫い目を見る。
使えないほどではない。
「……このままにします」
「そっか」
「今、少し手元が狂いました」
「何で?」
少女はユウを見る。
「言いません」
「そっか」
また、それ以上聞かない。
少女はもう一度笑った。
夕方が近づく頃、ユウは自分の家へ戻った。
少女は縫い物をあと少しだけ続け、今日はここまでと決めて針をしまった。
夕食の支度を始める前、東の方角から風が吹いた。
少女は一度だけ森を見る。
警戒線の音はない。
誰かが走ってくる様子もない。
だから家へ入った。
今夜の夕食は、昼に残った芋と豆のスープだった。
「マーサさん」
「何だい?」
「今度、鶏肉の料理を教えてください」
少女が言うと、マーサの手が止まった。
「鶏?」
「はい」
「急だね」
「作ったことがありませんから」
「焼くのと煮るの、どっち?」
少女は迷った。
ユウはどちらも好きだと言っていた。
しかし、その基準だけで決めたくない。
「私が最初に覚えるなら、どちらがよいですか?」
「煮る方が失敗しにくいかね」
「では、煮る方から」
「肉が手に入ったらね」
「はい」
それだけ決めた。
誰のために作るかは決めない。
まず自分が覚えてみたい。
その後で、食べてもらいたければ持っていけばよい。
夕食後、自室へ戻る。
少女は机へ座り、今日の日々の紙を開いた。
『豆。昨日より大きくなった気がする。測らない』
『虫の橋。最初の虫は渡らなかった。次を待つらしい』
『芋。厚さが違っても、入れる順番を変えればよい』
『縫い物。少し曲がったが、そのまま』
並んだ文字を見て、少女は微笑んだ。
どれも王都にいた頃なら記録しなかったことばかりだ。
公爵家の予定でもなければ、礼儀作法の反省でもない。
誰かに提出する必要もない。
今日、自分が見たもの。
やったこと。
少し面白かったこと。
それだけだった。
少女は次に、折ってある小さな紙を開いた。
朝に書いた一行がある。
『ユウさんは、豆だけなら一人では見に来ない。でも、私が誘ったから来た』
その下へ何を書くか、しばらく迷う。
鶏料理。
まだ作っていない。
約束もしていない。
ただ、いつか作ったら食べると言われた。
少女は炭筆を動かした。
『いつか鶏肉を煮る料理を覚える。ユウさんが食べるかもしれない』
書き終えた後、最後の部分を見つめる。
「かもしれない、です」
誰に言い訳しているのか分からない。
少女は少し笑い、紙を折った。
窓の外は暗くなっている。
三軒目の家からの返事はまだない。
森にも新しい動きはない。
自分の名前も、まだ誰にも伝えていない。
明日の予定も決めていない。
それでも、少女には一つだけ、朝になった時に少し楽しみにしていることがあった。
ユウが起きているだろうか。
自分は明日も豆を見たいと思うだろうか。
二つとも、今夜決める必要はない。
少女は灯りを消し、寝台へ入った。
目を閉じる直前、朝露を乗せて揺れていた小さな豆の葉が浮かんだ。その隣には、しゃがみ込んで同じものを眺めていたユウの姿が、ごく自然に一緒に残っている。
少女はその記憶を追い払わなかった。
明日も同じ朝になるとは限らない。
けれど、同じでなくても構わないと思えるくらいには、今日という一日は穏やかだった。




