第40話 残っていた跡
翌朝、少女が目を覚ました時、窓の向こうには薄い朝靄が残っていた。
雨が上がってから二日が経ち、道の大部分は乾いている。それでも畑の低い場所や森に近い方角には湿り気が残っているらしく、朝の冷えた空気の中に土と草の匂いが混ざっていた。
少女は寝台の上で身体を起こし、しばらく窓の外を眺めた。
今日、ケルとドランは昨日見つけた獣らしい足跡の周辺をもう一度確認する。
昨日までに分かっているのは、まだ多くない。
警戒線の反応はない。
最初に見つかった崩れた痕跡は、人なのか獣なのかさえ分からなかった。その翌日には、以前森で見つかった未知の獣に似た大きさと形の足跡が二つ確認され、さらに昨日は、それより少し西側で三か所の足跡が見つかった。
同じ個体が残したのか、複数いるのかは分からない。
以前村の近くへ現れた獣と同じ種類なのかも、まだ確定していない。
三か所のうち一つは、古い道の方向へ向いていた。
ただし、古い道を使っている証拠はない。
少女はそこまで頭の中で整理してから、掛け布をめくった。
「……増えていなければよいのですが」
願うことと、事実を決めることは違う。
増えていてほしくはない。
けれど、確認する前から「きっと大丈夫」と考える必要もない。
右の踵へ体重を乗せる。今日も痛みはなかった。
少女は数歩歩いてから、ふと足元を見た。
この確認も、そろそろ毎朝しなくてよいのかもしれない。
怪我をしてからずっと続けているが、ここしばらく痛みは一度も出ていない。もちろん、また痛んだら確認すればよい。
「明日は……忘れていたら、そのままでもよいでしょうか」
わざわざ「確認をやめる日」を決める必要もない。
少女は少し笑い、着替えを済ませた。
机の上には何枚かの紙が置かれている。
三軒目の家についての紙。
日々のことを書いている紙。
そして、自分だけが見るつもりで折ってある小さな紙。
昨夜そこへ書いたのは、ユウが日本で好きだったという料理の名前だった。
『カレー』
まだ味も匂いも知らない。
香辛料をいくつも使うらしいことと、肉や野菜を煮込むらしいことしか分からない。
少女はその紙を開きかけて、やめた。
「朝食にしましょう」
部屋を出る。
台所へ入ると、マーサは既に竈へ火を入れていた。
「おはようございます」
「おはよう。今日は早いね」
「いつもと同じくらいだと思います」
「そうかい?」
マーサは鍋へ水を入れながら少女を見た。
「森が気になって早く起きたんじゃないのかい?」
「少しは気になっています」
少女は否定しなかった。
「でも、起きた時間はたぶん同じです」
「ならいいけどね」
「今日もケルさんたちは確認へ行くのでしょう?」
「そう聞いてるよ」
少女は棚から器を出した。
「私は行きません」
「まだ何も聞いてないよ」
「先に言っておこうと思いまして」
「誰に?」
「……自分に、でしょうか」
マーサが笑った。
少女も少し笑い、器を卓へ並べた。
朝食は豆と野菜のスープ、それから昨日より少し厚く切ったパンだった。今日は焼かず、そのまま食べる。
「昨日の青菜、まだありますか?」
「少しね」
「ガルドさん、本当にたくさん持ってきたのですね」
「まだあいつの家にもあると思うよ」
「どうするのでしょう」
「食べるんじゃない?」
「全部?」
「ガルドなら食べるかもね」
少女はスープを飲みながら、畑で見た小さな豆の芽を思い出した。
「昨日、ガルドさんに豆の芽を見せてもらいました」
「手伝わされたかい?」
「いいえ。見せたかっただけだと言われました」
「珍しいね」
「私も驚きました」
「で、何か持たされた?」
「何も」
マーサの手が止まった。
「本当にガルドかい?」
「私も少し心配になってきました」
二人で顔を見合わせ、笑う。
少女はスープへ視線を戻した。
「でも、嬉しそうでした」
「豆が?」
「ガルドさんがです」
「畑好きだからねえ」
「何かを手伝ってほしいのではなくて、ただ見せたいこともあるのですね」
「そりゃあるだろ」
マーサは何でもないように答えた。
少女は少し考える。
以前の自分なら、誰かに呼ばれれば「何をすればよいのだろう」と考えた。
何かを見せたいだけ。
一緒に見てほしいだけ。
そんな理由で人を呼ぶことがあると、少しずつ知ってきた。
ユウを呼び止めた時もそうだった。
用事がなくても話したかった。
昨日は、自分が作った料理を食べてもらった感想を聞きたかった。
少女はスプーンを持つ指へ少し力を入れた。
「何だい?」
「何でもありません」
「また考え事かい?」
「少しだけです」
「飯冷めるよ」
「はい」
今は朝食。
少女は考えるのをやめ、残りを食べた。
食後、マーサと一緒に片づけをする。
少女は外へ出る前に、一度だけ自分の気持ちを確認した。
森のことは気になる。
怖さは、今のところ四くらい。
昨日の情報から何かが増えたわけではない。
「見張り帳を見てきます」
「まだケルたち戻ってないよ」
「昨日までのものを一度見るだけです。その後は別のことをします」
「そうしな」
外へ出る。
朝靄は少しずつ薄くなり、東の森の輪郭も見え始めていた。
村の中央へ向かう途中、少女はユウの家の前を通った。
戸は閉まっている。
昨日なら、料理の感想が気になって少し立ち止まったかもしれない。
今日はその必要がない。
おいしかったと聞いた。
もう一杯食べられるとも言ってくれた。
少女は口元を少し緩め、そのまま歩いた。
見張り場所へ着く。
ベルの孫とつけた木札は、今日も少し右へ傾いている。
『見張り帳』
「……まだ落ちていませんね」
少女は紐の状態だけ確認した。
直さない。
板を外し、昨日の記録を読む。
『前日より西側で獣様足跡 三か所』
『同一個体・複数個体 不明』
『以前の不明獣との一致 未確認』
『一か所、旧道方向。旧道使用は不明』
『追跡せず』
最後の一行で目が止まる。
追跡せず。
何もしなかった、ではない。
危険と情報の量を考え、追わないと決めた。
少女は板を棚へ戻した。
「今日は増えていないとよいですね」
誰に言うでもなく呟く。
その時、背後から足音がした。
少女は振り返る。
ユウだった。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は驚かないね」
「足音が聞こえました」
「そっか」
ユウは棚の札を見る。
「まだ曲がってる」
「直しません」
「何で?」
「読めますし、落ちません。それに、あの子が自分で結びましたから」
「なるほど」
ユウは札を軽く見上げた。
「俺だったら気にしないな」
「知っています」
「そんなにはっきり言う?」
「ユウさんは気にしなさそうです」
「まあね」
少女は少し笑った。
「昨日の料理の器、あとで返すね」
「急がなくてよいです」
「洗ってあるよ」
「それなら、なおさら急ぎません」
「マーサさんの器だから返した方がよくない?」
「それはそうですね」
少女は少し考えた。
「では、今日中にお願いします」
「急になった」
「マーサさんのものですから」
ユウが笑う。
「何してたの?」
「昨日の記録を見ていました」
「怖さは?」
「今は四くらいです」
「そっか」
「ユウさんは今日も行くのですか?」
「今日は行かないよ」
少女は一瞬だけ表情を緩めた。
それを自分で意識し、少し遅れて尋ねる。
「境界壁は?」
「昨日見たからね。ベルさんが土の流れを見る時に呼ばれたら行くけど、森の確認はケルさんとドランさん」
「そうですか」
「安心した?」
少女はユウを見る。
隠す必要があるだろうか。
「少し」
「俺が行かないから?」
「はい」
素直に答えると、今度はユウの方が少し黙った。
「……何ですか?」
「いや」
「またそれです」
「普通に言うようになったなと思って」
「何をです?」
「心配してるって」
少女は少しだけ視線を下げた。
以前なら、否定したかもしれない。
心配する理由を探し、村に必要な人だから、魔法が使えるから、自分を助けてくれた人だからと説明したかもしれない。
どれも間違いではない。
でも、今はそれだけではないような気もしている。
「心配してはいけませんか?」
「全然」
「なら、よいではありませんか」
「うん」
ユウはそれ以上追及しなかった。
少女も答えを探さなかった。
「ユウさんは今日は何をするのです?」
「まだ決めてない」
「またですか?」
「朝だから」
少女は笑った。
「では、朝になってから考えている途中ですね」
「そういうこと」
「私は、豆の芽をもう一度見に行くかもしれません」
「ガルドさんの?」
「はい」
「昨日見たんじゃなかった?」
「昨日より大きくなっているか、少し気になります」
「一日でそんな変わるかな」
「分かりません」
「じゃあ見に行けば?」
「そうします」
少女は棚から離れた。
「ユウさんも行きますか?」
自然に尋ねてから、自分で少し驚く。
用事はない。
豆の芽を見るだけだ。
ユウも一瞬目を瞬いたが、すぐに答えた。
「いいよ」
「本当に?」
「暇だし」
「では、一緒に行きましょう」
二人でガルドの畑へ向かう。
朝の村では、それぞれの家から人が出始めていた。井戸の近くでは老婆が桶へ水を汲み、別の家の軒先では老人が濡れた縄を広げている。
少女とユウが並んで歩いていても、誰も特別な目を向けない。
それが少女には少し不思議で、同時に心地よかった。
「昨日、ここです」
畑の端へ着く。
少女が指した先には、小さな豆の芽が並んでいた。
ユウがしゃがむ。
「本当に芽だね」
「そう言ったではありませんか」
「いや、疑ってたわけじゃないよ」
少女も少し離れたところへしゃがんだ。
「昨日より大きくなっていますか?」
「俺は昨日見てないから分かんない」
「あ」
「何で呼んだの?」
「……一緒に見れば分かると思ってしまいました」
「昨日の大きさ知らないよ」
「そうでした」
少女は少し恥ずかしくなる。
ユウが芽を見ながら笑った。
「でも、今日の大きさは分かった」
「では、明日また見れば比べられますね」
「毎日見るの?」
「いけませんか?」
「全然」
少女は芽へ視線を戻した。
昨日より大きいような気もする。
ただ、そう思いたいだけかもしれない。
「測りますか?」
「測りたい?」
ユウに聞き返され、少女は少し考えた。
「……いいえ」
「いいの?」
「毎日数字にしてしまうと、見に来ることが仕事になりそうです」
自分で言ってから、少女は少し笑った。
「ただ見たいので、それでよいです」
「そっか」
「大きくなった気がしたら、嬉しいです」
「ガルドさん喜びそう」
「昨日もとても嬉しそうでした」
「何が嬉しいんだ?」
背後から大きな声が響いた。
少女とユウが同時に振り返る。
ガルドが立っていた。
「おはようございます」
「おう!」
ガルドは二人の横へ来ると、芽を見下ろした。
「見に来たのか!」
「はい」
「どうだ!」
「昨日より少し大きい……気がします」
「大きくなってる!」
「本当ですか?」
「たぶんな!」
「たぶんですか」
少女が笑う。
「ユウも豆見るのか!」
「連れてこられました」
「私が無理に連れてきたような言い方をしないでください」
「誘われた」
「それならよいです」
ガルドが二人を交互に見る。
「仲いいな!」
少女の身体がわずかに固まった。
ユウは特に気にした様子もなく芽を見ている。
「そう見えますか?」
少女は思わず尋ねた。
「一緒に豆見てるだろ!」
「それが仲がよい基準なのですか?」
「嫌いなやつと朝から豆見に来るか?」
あまりにも単純だった。
少女は答えに困る。
嫌いではない。
それどころか、一緒にいたいと思う時間が増えている。
「……そうですね」
小さく答える。
ガルドはそれ以上気にせず畑の奥へ向かった。
「今日の昼には食えんぞ!」
「分かっています!」
「明日もまだだぞ!」
「それも分かっています!」
「じゃあまた見に来い!」
「はい!」
少女が返事をすると、ガルドは満足そうに笑った。
ユウが隣で肩を揺らしている。
「何を笑っているのです?」
「毎日来ることになってる」
「見たいのでよいです」
「記録しないのに?」
「しません」
少女は胸を張った。
「見たいから見ます」
「うん」
ユウの返事は短かった。
けれど、その声が少し柔らかく聞こえた。
畑を離れる。
少女は次に何をするか決めていなかった。
「ユウさんは?」
「俺?」
「これからです」
「風呂の薪でも割ろうかな」
「お風呂?」
「夕方使う分」
「私も――」
手伝います、と言いかけて止まる。
薪割りは自分に向いているだろうか。
やってみたいわけでもない。
「どうしたの?」
「いえ。手伝うと言おうとして、別にやりたいわけではないと気づきました」
「じゃあやらなくていいんじゃない?」
「はい」
少女は素直に頷いた。
「私は、オルドさんのところへ行こうと思います」
「また卵?」
「今日は買いません」
「じゃあ何しに?」
「鶏を見ます」
「鶏?」
「雨の日と晴れの日で、歩き方が違うか少し気になったので」
ユウが笑った。
「何ですか?」
「いや。楽しそうだなと思って」
少女は少し驚いた。
「私が?」
「うん」
言われて、自分の行動を振り返る。
豆の芽を見に行く。
鶏を見る。
どちらも必要ではない。
誰かの役にも立たない。
それでも、自分からやろうと思っている。
「……楽しいのだと思います」
少女はゆっくり答えた。
「そういうことを考えるのが」
「そっか」
「はい」
二人は道の分かれる場所で立ち止まった。
「では、また」
少女が言う。
「またね」
ユウは風呂場の方へ。
少女はオルドの家へ。
別々の方向へ歩き出す。
離れることに不安はなかった。
また会うだろうと思えるからだった。
オルドの鶏小屋では、昨日と同じように何羽かの鶏が地面をつついていた。
今日は泥が少ない。
鶏たちは昨日より軽い足取りで歩いているように見える。
「違いますね」
「何がだ?」
オルドが小屋の奥から出てくる。
「歩き方です」
「鶏の?」
「はい。雨の日は泥を避けるように歩いていました」
「そりゃ泥嫌うやつもいるからな」
「全部ですか?」
「知らん」
「オルドさんでも?」
「鶏一羽ずつに聞いてねえよ」
少女は笑った。
「ユウさんと同じことを言いますね」
「何が?」
「本人に聞かなければ分からない、と」
「鶏に聞いても分からんぞ」
「そこまで同じです」
オルドは首を傾げた。
「お前、今日は卵いらんのか?」
「今日は買いません」
「金ないのか?」
「あります」
「じゃあ何でだ?」
「毎日食べなくてもよいからです」
少女は鶏を眺める。
「昨日、好きな柔らかさに少し近づきました。次に食べたくなった時、もう一度試します」
「そうか」
オルドはそれ以上勧めなかった。
少女も買わなかった。
欲しい時に買う。
買えるから毎日買う必要はない。
しばらく鶏を眺めた後、少女は家へ戻った。
途中、ベルの工房の前を通る。
中から木を削る音がする。
鑿を使いたい気持ちは少しある。
だが、今日はまだ決めなくてよい。
少女は工房へ入らず、そのまま歩いた。
マーサの家へ戻ると、玄関前に小さな器が置かれていた。
「あ」
昨日ユウへ料理を入れて渡した器だ。
きれいに洗われ、布を被せてある。
その上に、小さな木片が載っていた。
風で布が飛ばないようにしたのだろう。
「返ってきました」
少女は器を持って中へ入った。
「何が?」
「昨日の器です」
「洗ってあるかい?」
「はい」
「ならしまっといて」
「はい」
少女は布を外す。
器の中はきれいだ。
何か手紙が入っているわけでもない。
当然だ。
少女は棚へ戻そうとして、少しだけ手を止めた。
「どうした?」
「いえ」
「何か入ってたかい?」
「何もありません」
「ならしまっときな」
「はい」
少女は器を棚へ戻した。
なぜ少しだけ何かを期待したのか、自分でも分からなかった。
感想は昨日直接聞いた。
おいしかったと言ってもらった。
それで十分なはずだ。
「マーサさん」
「何だい?」
「誰かに料理を渡した器が返ってくる時、何か一言つけたりするものですか?」
「人によるね」
「何もなくても普通?」
「普通だよ」
「そうですか」
「何期待してたんだい?」
「分かりません」
少女は正直に答えた。
マーサがこちらを見る。
少女は器をしまった棚から手を離した。
「本当に、分からないのです」
「なら分かるまで置いときな」
「はい」
最近、その答えにも慣れてきた。
昼前。
少女はマーサと一緒に家の裏の小さな物置を整理した。
冬に使った布や、古い籠、乾燥させた香草の袋などが積まれている。大がかりな片づけではなく、雨の湿気が入っていないかを見るついでに、少し位置を変える程度だった。
「これは?」
「冬物」
「こちらは?」
「使ってない籠」
「捨てるのですか?」
「まだ使えるから置いとく」
少女は籠を持ち上げる。
縁の一部が少しほつれている。
「ベルさんなら直せますか?」
「直せるだろうけど、これくらいなら私でもやるよ」
「マーサさんが?」
「籠くらい編み直すさ」
「教えてもらえますか?」
「やりたいのかい?」
少女は籠を見る。
少し興味がある。
「はい」
「じゃあ今度ね」
「今日は?」
「今日は物置見るって始めたんだろ」
「あ」
少女は笑った。
「また増やすところでした」
「やりたいこと増えるのはいいけど、一度にやるんじゃないよ」
「はい」
籠を元へ置く。
今度。
その言葉を自然に受け入れられるようになってきた。
物置の確認が終わる頃、外から足音が聞こえた。
「マーサー!」
ガルドではない。
少女は声の低さでドランだと気づいた。
胸が少し強く打つ。
「戻ったのでしょうか」
「みたいだね」
少女は立ち上がった。
すぐに外へ出る前に、自分の手を見る。少し埃がついている。
「手を洗ってから行きます」
「そうしな」
桶の水で手を洗う。
布で拭く。
それから外へ出た。
ドランは既に村の中央へ向かっている。
少女も後を追う。
走らない。
歩く。
昨日よりは自然にできた。
見張り場所へ近づくと、ケルとドランの他にローデンがいた。
ユウはまだいない。
少女の視線が一度周囲を探し、それに気づいて自分で少し苦笑する。
今日は森へ行っていない。
探す必要はない。
「おかえりなさい」
「ああ」
ケルが答える。
表情はいつもと大きく変わらない。
怪我もない。
「どうでしたか?」
「足跡は増えてない」
少女は息を吐いた。
「では、昨日の三つだけ?」
「少なくとも、昨日見た場所の周りではな」
ケルはそこで続ける。
「ただ、一つ分かったことがある」
少女の緩んだ肩へ、少しだけ力が戻る。
「何ですか?」
「昨日、旧道の方向を向いてた跡があっただろ」
「はい」
「その先を追ったわけじゃない。ただ、旧道側から昨日の確認場所へ回り込んで、道の縁だけ見た」
少女は頷いた。
追跡ではない。
別方向から、決めた範囲を確認した。
「そこに何か?」
「古い車輪の跡が残ってた」
少女は瞬きをした。
「車輪?」
「ああ。ただし新しくない」
ケルはすぐに付け加える。
「いつのものかは分からん。雨で削られてるし、道自体が昔使われてたから、前から残ってた可能性もある」
「昨日や今日に通ったものではない?」
「少なくとも、昨日の雨の後についた跡じゃない」
「では、獣の足跡との関係は?」
「分からん」
少女は一度息を吸った。
車輪。
以前、森側では人の靴跡が見つかったことがある。
さらにその前には、少女自身が追放境界へ運ばれた馬車が東へ向かった。
頭の中でいくつものものがつながりそうになる。
少女はそこで止めた。
「私が乗せられていた馬車とは……」
「分からん」
ケルははっきり答えた。
「幅も取れない。片側しか残ってないからな」
「そうですよね」
少女は小さく頷いた。
ローデンがこちらを見る。
「大丈夫か?」
「はい」
少女は自分の怖さを確かめた。
「今は……五です」
「昨日より?」
「昨日の報告を聞いた時と同じくらいです。ただ、馬車と聞いて少し上がりそうになりました」
「自分のこと考えたか」
「はい」
隠さなかった。
「でも、同じ馬車だと分かっていません」
「ああ」
「昔からある道なら、別の車輪跡が残っていてもおかしくないですよね」
「そうだ」
ローデンが頷く。
「この村の人間も昔はあの道を使ってた。木を取りに入ったやつもいるし、王国側の役人が通った時期もある」
「では、今のところは古い車輪跡が一つ見つかっただけ」
「それでいい」
少女はもう一度頷いた。
「獣の足跡は増えていない」
「ああ」
「警戒線は?」
「反応なし」
「新しい人の足跡は?」
「見つけてない」
「分かりました」
少女はそこで質問を止めた。
聞きたいことがなくなったわけではない。
旧道をもっと調べれば何か分かるのではないか。
車輪跡の先を探せば。
獣の足跡との位置をもっと詳しく比べれば。
そう考える部分はある。
だが、今日の確認で必要なことは聞いた。
「見張り帳には?」
「これから書く」
ケルが答える。
「お願いします」
少女は棚の横へ立った。
自分では炭筆を持たない。
ケルが板を外し、書き始める。
『朝』
『前日足跡周辺 新しい跡なし』
『警戒線反応なし』
『旧道縁に古い車輪跡 一部』
『時期不明』
『雨後についたものではない』
『獣跡との関係 不明』
『新しい人跡 確認なし』
『確認 ケル・ドラン』
少女は書き終わるのを待った。
ローデンが読む。
「これでいい」
ケルが少女を見る。
「見るか?」
「はい」
板を受け取る。
少女は一行ずつ読む。
余計な推測はない。
自分が乗せられていた馬車のことも書かれていない。
それでよい。
「大丈夫です」
少女は板を返した。
「足すものは?」
「ありません」
「消すものは?」
「ありません」
ケルが板を棚へ戻す。
少女は小さく息を吐いた。
「今日は、これで終わりですか?」
ローデンが答える。
「ああ。明日は同じ場所へ行かん」
「行かない?」
「新しい跡が増えてない。警戒線も鳴ってない。毎日同じところを歩き回れば、こっちの足跡だらけになる」
少女はなるほどと思った。
確認するために入り続けることで、かえって分かりにくくなることもある。
「では、次は?」
「警戒線が鳴るか、村のいつもの見回りで新しいものが見つかった時だ」
「旧道も?」
「今は追わん」
「分かりました」
少女は東の森を見る。
何も解決していない。
獣の正体も。
数も。
古い道との関係も。
車輪跡の由来も。
けれど、毎日調べ続けない。
それも決まった。
「何かあったか?」
後ろからユウの声がした。
少女は振り返る。
ユウとベルが歩いてくる。
二人とも手には土のついた道具を持っている。
「境界壁の方ですか?」
「うん。終わった」
ユウが答える。
「何をしたのです?」
「土が水で寄ってたところ、ベルさんと流れを少し変えた。壁の下も見たけど、今すぐ補強はいらなそう」
「魔法は使わなかった?」
「使ってない」
「そうですか」
少女は少し嬉しくなる。
魔法で直せるから使う、ではなく、必要な方法を選んだ。
「そっちは?」
ユウがケルを見る。
ローデンが簡単に説明する。
昨日の足跡周辺には新しい跡がなかったこと。
旧道の縁に古い車輪跡の一部が残っていたこと。
時期は不明で、獣との関係も分からないこと。
明日から毎日の確認はやめること。
ユウは途中で口を挟まず聞いた。
「じゃあ、今はそのまま?」
「そのままだ」
ローデンが答える。
「線の感度も変えない。奥へも入らん」
「了解」
それだけだった。
少女はユウを見る。
「もっと気になりませんか?」
「気になるよ」
「でも、調べたいとは?」
「今は別に」
「なぜです?」
「調べに行く方が危ないなら、今じゃなくていいかなって」
ユウは森へ目を向けた。
「線は鳴ってないし、昨日より近づいた跡もないんでしょ。だったら、今は村側をちゃんとしとけばいいんじゃない?」
「村側?」
「境界壁とか、見張りとか。何か来た時に分かるようにしとく方」
少女は見張り帳を見る。
少し傾いた木札。
その下に、何日か分の必要な記録が残っている。
「そうですね」
少女は頷いた。
知らないものを全部知ろうとするのではなく、自分たちがいる場所を守る。
それも一つのやり方なのだろう。
「さて」
ローデンが腰を伸ばす。
「今日はもう終わりだ」
「早いですね」
少女が言う。
「何が?」
「森の話です」
「続けても新しいことは出んぞ」
「そうですね」
ローデンは家へ戻り、ケルとドランも別れていった。
ベルは工房へ向かう。
少女は少し考えた後、ベルの背中へ声をかけた。
「ベルさん」
「何だ」
「今日は鑿を使ってもよいですか?」
「手ぇ疲れてるか?」
少女は自分の手を握ってみる。
物置の片づけはしたが、疲れてはいない。
「大丈夫です」
「なら来い」
「はい」
少女は一歩進み、ふとユウを見る。
「ユウさんは?」
「俺?」
「これから何をするのです?」
「昼寝しようかな」
少女は空を見る。
まだ昼前だ。
「もうですか?」
「朝から土いじったし」
「疲れは?」
「三くらい」
「なら寝てもよいですね」
「許可制なの?」
「違います」
少女は笑った。
「では、おやすみなさい」
「まだ寝てないよ」
「昼寝の前ですから」
「じゃあ、おやすみ」
ユウが家へ向かう。
少女はベルの工房へ向かった。
以前なら、森で新しい情報を聞いた直後に鑿の練習をすることへ、少し抵抗を覚えたかもしれない。
問題が残っているのに、そんなことをしていてよいのか。
今は、そうは思わない。
森のことは、必要な人が必要なところまで確認した。
自分は情報を聞き、怖さも伝えた。
なら、今から鑿を使ってもよい。
工房へ入る。
ベルはいつもの練習木と鑿を出してくれた。
「今日はどうしますか?」
「前と同じ」
「また?」
「前のが全部できるようになったのか?」
少女は木片を見る。
「なっていません」
「じゃあやれ」
「はい」
椅子へ座る。
木目を見る。
刃を当てる。
一度目は少し浅い。
二度目はちょうどよい。
三度目は端が欠けた。
「あ」
「見ろ」
ベルが言う。
少女は欠けた部分を見る。
「木目と逆でした」
「そうだ」
「次は変えます」
木片を少し回す。
刃の向きを変える。
木槌を落とす。
今度は滑らかに削れた。
少女は少し笑った。
「できました」
「一回な」
「はい」
以前なら、「できた」と言われた瞬間に安心し、その次も同じように成功させなければと思ったかもしれない。
今日は違う。
次はまた失敗するかもしれない。
それでも、一回できたことは消えない。
何度か繰り返す。
途中、一度だけ深く入りすぎた。
少女はその跡を眺めた後、隣へ刃を当てた。
しばらくすると、指に疲れを感じた。
「今日はここまでにします」
「そうしろ」
ベルは止めなかった。
少女は道具を片づける。
木片を見る。
最初の頃につけた跡と、今日つけた跡が同じ木に並んでいる。
完璧ではない。
けれど、違いは分かる。
「ベルさん」
「何だ」
「この木、いつまで使えますか?」
「削るとこなくなるまで」
「なくなったら?」
「次の木やる」
あまりにも当たり前だった。
少女は笑った。
「そうですよね」
「何だと思った」
「この木をきれいに完成させなければならないのかと、一瞬思いました」
「練習木だぞ」
「はい」
少女は木片を持ち上げた。
「でも、なくなっても取っておきたいです」
「好きにしろ」
「最初の失敗も残っていますから」
「失敗取っとくのか」
「はい」
少女は木の表面を眺める。
「前より、嫌ではありません」
ベルは何も言わなかった。
ただ、少女の手元を一度見てから、自分の作業へ戻った。
工房を出る頃には昼を少し過ぎていた。
少女はマーサの家へ戻る。
昼食は簡単なスープとパンだった。
「森、どうだった?」
マーサが尋ねる。
少女は必要なことだけ話した。
「昨日の足跡の周りには、新しいものはありませんでした。古い道の縁に車輪跡が残っていたそうですが、古いもので、いつのものかは分かりません。獣との関係も分かりません」
「そうかい」
「明日は確認へ行かないそうです」
「なら一段落かい?」
少女は少し考えた。
「一段落、というより……待つのだと思います」
「何を?」
「次に何か変化があるかを」
「そうかい」
「警戒線が鳴るか、新しい跡が見つかるまでは、今のままです」
「じゃあ飯食べな」
「はい」
少女はパンを取った。
森の問題は終わっていない。
それでも、昼食を食べる。
それでよい。
午後。
少女は少し昼寝をした。
目を覚ました後、マーサと一緒に籠のほつれを直す練習を始めた。
昨日「今度」と言われたものだ。
細い枝を湿らせ、柔らかくする。
マーサが一度見本を見せる。
「ここ通して、こっちへ返す」
「こうですか?」
「違う。そこだと緩む」
「では、こちら?」
「そう」
少女は慎重に枝を通した。
最初は力を入れすぎ、枝が折れそうになる。
「そんな引っ張るんじゃないよ」
「でも、緩くなりませんか?」
「締めるのは後」
「後?」
「先に通す」
少女は手の力を抜いた。
「順番があるのですね」
「あるよ」
「鑿とは違います」
「そりゃ籠だからね」
少女は笑った。
同じ「手を使うこと」でも、やり方は違う。
覚えることも違う。
しばらくすると、一か所だけ自分で編み直せた。
きれいではない。
マーサがやった部分より少し膨らんでいる。
「これは?」
「使えるよ」
「きれいではありません」
「籠だよ」
「見れば分かります」
「そうじゃなくて、物入れて落ちなきゃいいんだよ」
少女は籠を見る。
以前なら、隣のきれいな部分と比べたかもしれない。
今も違いは見える。
でも、自分が直したところを指で押してみると、簡単には外れない。
「使えるなら、今日はこれでよいです」
「そうしな」
少女は少し嬉しくなった。
その時、玄関が叩かれた。
「はい」
少女が立ち上がる。
戸を開けると、ユウがいた。
片手に小さな木桶を持っている。
「こんにちは」
「こんにちは。昼寝は?」
「した」
「どのくらい?」
「一時間くらい」
「ちゃんと寝たのですね」
「ちゃんとって何」
「寝ると言って別のことをしていない、という意味です」
「信用ないなあ」
少女は笑った。
「何を持っているのです?」
「風呂場で余った湯」
「お湯?」
「マーサさん、今日足洗うのに使うかなと思って」
マーサが奥から声を上げる。
「使うよ!」
「聞こえましたね」
「うん」
ユウは木桶を玄関脇へ置いた。
「じゃあ置いとく」
「もう帰るのですか?」
少女の口から自然に出た。
ユウがこちらを見る。
「あ、何かある?」
「いえ」
用事はない。
少女は少し迷った。
以前なら「何でもありません」と言って終わらせたかもしれない。
「籠を直していました」
少女は室内を指した。
「見る?」
ユウが尋ねるより先に、自分から言った。
「……少し、見ますか?」
「いいの?」
「はい」
ユウは靴の泥を落としてから中へ入った。
少女は卓の上の籠を持ち上げる。
「ここです」
自分が直した部分を指す。
ユウは顔を近づけた。
「直ってる」
「少し膨らんでいます」
「でも使えるんでしょ?」
「マーサさんにも同じことを言われました」
「じゃあいいじゃん」
「ユウさんまで」
少女は困ったように笑った。
「もう少し、何かありませんか?」
「何か?」
「初めて直したのです」
「ああ」
ユウはもう一度籠を見る。
少女は無意識に返事を待った。
「前よりできること増えたね」
その言葉に、少女は一瞬だけ黙った。
「……増えましたか?」
「増えてるでしょ。料理もしてるし、鑿もやってるし、石鹸も作ってたし、記録も」
少女は籠を見た。
確かに増えた。
でも、不思議だった。
以前なら、できることが増えたと聞けば、それを自分の価値のように受け取っただろう。
今は少し違う。
「でも、全部しなくてもよいのですよね」
「うん」
「できることが増えても、やることを増やさなくてもよい?」
「やりたくなければ」
「……それなら、嬉しいです」
少女は籠を卓へ戻した。
「何が?」
「できることが増えるのは嬉しいです。でも、それが全部『やらなければならないこと』になるのは、少し怖かったので」
ユウは少女を見る。
「ならないよ」
「はい」
少女は素直に頷いた。
今なら、その言葉を以前より信じられる。
「ユウさん」
「ん?」
「今日、豆の芽を一緒に見てくださって、ありがとうございました」
「それ、礼いる?」
「分かりません」
少女は少し笑った。
「でも、一人で見るより楽しかったです」
ユウが一瞬黙った。
少女も自分の言葉を聞き返すように止まる。
以前なら、口に出した後で恥ずかしくなっただろう。
今も少しだけ頬は熱い。
けれど、取り消したいとは思わなかった。
「じゃあ明日も見る?」
ユウが言った。
少女は顔を上げる。
「よいのですか?」
「朝、起きてたら」
「起きています」
「俺が寝てるかもしれない」
「朝ですよ?」
「朝でも眠い時あるし」
少女は笑った。
「では、起きていたら」
「うん」
「約束ではありません」
「うん」
「寝ていたら起こしません」
「助かる」
「私一人でも見に行きます」
「それでいいんじゃない?」
「はい」
決めすぎない約束。
明日の朝、ユウが起きていて、自分も行きたくて、都合が合えば一緒に豆を見る。
少女はそのくらいが、今はちょうどよい気がした。
夕方。
ユウが帰った後、少女はマーサと夕食を作った。
今日は豆と青菜、それから少量の肉を煮たものだ。
少女は途中で味を見る。
「少し薄いです」
「どうする?」
マーサは答えを言わなかった。
少女は考える。
「肉からもう少し味が出るかもしれないので、少し待ちます」
「そうしな」
すぐ塩を足さない。
少し煮る。
もう一度味を見る。
「……さっきより違います」
「だろ」
「これなら、ほんの少しだけでよいです」
塩を少量入れる。
混ぜる。
味を見る。
「はい。これで好きです」
「なら終わり」
少女は火を弱めた。
完成した料理を見て、ふとユウへ持っていこうかという考えが浮かんだ。
昨日、料理を渡した。
今日は豆の芽を一緒に見た。
籠も見てもらった。
さらに夕食まで持っていく必要はない。
少女はその考えを否定するのではなく、少し眺めてから手放した。
「今日は持っていきません」
「何を?」
「いえ。こちらの話です」
マーサは首を傾げたが、それ以上聞かなかった。
夕食後。
少女は自室へ戻り、机の前へ座った。
今日も一日が終わる。
まず、見張り帳とは別の自分の紙へ短く書く。
『昨日の獣らしい足跡の周りに、新しい跡なし』
『旧道の縁に古い車輪跡。時期不明。獣との関係不明。詳しくは見張り帳』
それ以上は書かない。
自分が乗っていた馬車かもしれない、とは書かなかった。
そう思った瞬間はあった。
でも、証拠がない。
次に別のことを書く。
『ガルドさんの豆。昨日より大きくなった気がする。測ってはいない』
少女は少し笑った。
さらに、
『籠を一か所直した。少し膨らんでいるが使える』
と書く。
そして手が止まった。
今日、ユウから言われたこと。
『前よりできること増えたね』
少女はそのまま書いた。
少し考え、その下へ自分の言葉も残す。
『できることが増えても、全部やらなくていい』
書き終えた後、少女は紙を見つめた。
公爵家にいた頃は、できることが増えるほど求められるものも増えた。
一つできれば、次。
妹ができるなら、自分も。
公爵家の長女なら、これくらい。
王太子の婚約者なら、もっと。
努力してできるようになったことは、次の要求へ進むための階段だった。
だから、できるようになることが嬉しいのに、同時に苦しかった。
ここでは違う。
鑿を使えるようになっても、大工になる必要はない。
料理を覚えても、毎日誰かの食事を作る必要はない。
記録を整えるのが得意でも、見張り帳を自分一人の仕事にしなくてよい。
籠を直せても、村中の籠を直す必要はない。
そして、何もできなかった頃から、自分はこの村にいた。
少女は炭筆を置いた。
それを何度も言葉にして確認する必要は、もう少しずつ減っている気がした。
頭で理解するだけではなく、今日の暮らしの中で実際にそうしている。
やりたいことをする。
やめたいところでやめる。
できても、しないことがある。
何の役にも立たない豆の芽を見に行く。
誰かと一緒に見たいと思う。
それだけの一日がある。
少女は別の紙を取り出した。
三軒目の家についての紙。
『エルドさんへ確認の手紙が出た』
まだ、それだけだ。
少女は何も書き足さなかった。
返事はない。
それでよい。
紙を折る。
その時、机の端に置いていた小さな私的な紙が目に入った。
『ユウさんは、鶏料理が好き』
『カレーという料理が好きだった』
少女は少し迷った。
今日知った新しい好きな食べ物はない。
それでも、書きたいことがある。
炭筆を持つ。
『豆の芽は、一人で見るよりユウさんと見た方が楽しかった』
書いた瞬間、少女は動きを止めた。
じっと文字を見る。
これは、ユウについて知ったことではない。
自分について知ったことだ。
「……私が?」
小さく呟く。
一人でも見に行きたかった。
実際、ユウが来なければ一人で行っていただろう。
それでも、一緒に見た方が楽しかった。
なぜ。
仲がよいから。
ガルドはそう言った。
嫌いな相手と朝から豆を見に来るか、と。
少女は少し頬を熱くした。
「仲がよい……」
口にすると、妙に落ち着かない。
でも、嫌ではない。
むしろ、その言葉が嬉しい。
少女は紙を折りかけ、もう一度開いた。
少し迷ってから、さらに一行を書く。
『明日も、起きていたら一緒に見る』
約束ではない。
ユウが寝ていれば、一人で行く。
自分が行きたくなくなれば、行かなくてもよい。
それでも、明日の朝が少し楽しみになった。
少女は紙を丁寧に折った。
窓の外を見る。
東の森は暗い。
あの中には、まだ正体の分からないものがいるかもしれない。
獣らしい足跡。
以前現れた未知の獣。
古い道。
人の靴跡。
今日見つかった、古い車輪の跡。
それらがつながっているのか、別々なのかは分からない。
警戒線は鳴っていない。
だから、今夜は何もしない。
西では、少女の住みたいと思っている三軒目の家について尋ねる手紙が、エルド本人か、その消息を知る誰かのところへ向かっている。
返事はまだない。
だから、それも今夜は何もしない。
石鹸も、まだ乾いている途中だ。
豆も、まだ芽が出たばかりだ。
鑿の練習木も、削れるところがまだ残っている。
籠も、直したのは一か所だけ。
何も終わっていない。
それなのに、以前のような焦りはなかった。
少女は灯りを消し、寝台へ入った。
明日になれば、また何か変わるかもしれない。
何も変わらないかもしれない。
どちらでもよい。
朝になったら起きて、痛くなければ歩く。
お腹が空いたら朝食を食べる。
そして、もしユウが起きていたら。
一緒に豆の芽を見に行く。
少女は掛け布の中で、小さく笑った。
「……おやすみなさい」
誰に向けたわけでもない言葉を残し、目を閉じる。
答えの出ていないことはいくつもあった。
けれど、答えが出るまで人生を止めておく必要はない。
そのことを、少女はもう紙へ書いて確認しなくても、少しずつ分かるようになっていた。




