第39話 聞きたかったこと
翌朝、少女はいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ青みがかった薄暗さを残しており、村の屋根の向こうから朝日が昇るまでにはもう少しかかりそうだった。雨上がりの湿気は夜のあいだにだいぶ抜けたらしく、少しだけ開けた窓から入る風にも、昨日ほど濃い土の匂いはない。
寝台の上で身体を起こし、少女はぼんやりと昨日のことを思い出した。
森で見つかった、獣らしい二つの足跡。
ケルたちは今日も同じ場所を確認すると言っていた。
西へ送った手紙の返事は、まだずっと先だろう。
見張り帳の棚には、ベルの孫と一緒につけた少し傾いた札がある。
そして、昨日の夕方にはユウへ鶏肉と青菜の煮込みを渡した。
そこまで思い出したところで、少女の意識は最後の一つに止まった。
「……食べたでしょうか」
小さく呟いてから、自分で少しおかしくなる。
食べるために渡したのだから、おそらく食べただろう。
もちろん、昨夜は別の食事を用意していて、今日食べるつもりだった可能性もある。それならまだ感想を聞けない。
少女は寝台から足を下ろした。
右の踵へ体重を乗せる。痛みはない。
数歩歩いたところで、ふと考えた。
朝になったらユウへ感想を聞こう。
昨夜、自分でそう決めていた。
それなのに、今は「いつ聞けば不自然ではないだろう」と考えている。
「……普通に聞けばよいのです」
料理を渡した。
感想を聞かせてほしいと言った。
なら、聞いてよい。
少女は着替えを済ませ、机へ向かった。
昨夜の紙には、ユウから言われた言葉が残っている。
『私が村にいることは普通になったと言われた』
読み返すと、やはり胸の奥が少し温かくなる。
少女は紙を折り直し、その隣に置いてある三軒目の家についての紙へ目を向けた。
手紙を送ってから、まだ二日目。
何も増えていない。
それで当然だった。
少女はどちらの紙にも書き足さず、部屋を出た。
「おはようございます」
「おはよう」
台所ではマーサが昨日残ったパンを薄く切っていた。竈には小さな火が入り、鉄板が温められている。
「今日は焼くのですか?」
「ちょっと硬くなったからね」
「私がやっても?」
「焦がしても食べるなら」
「焦がさないようにします」
少女は鉄板の前へ立った。
薄く切ったパンを並べる。火は強くない。
「油は?」
「今日はなしでいい」
「はい」
少女は表面を見ながら待った。
以前なら、焼き色をつけるなら何分、裏返した後は何分、と決めたくなったかもしれない。今は端を少し持ち上げ、色を見る。
まだ薄い。
戻す。
「慣れたねえ」
マーサが言った。
「何がですか?」
「いちいち聞かなくなった」
少女は手を止めかけた。
確かに、今は「もう返してよいですか」と聞かなかった。
「勝手にしてしまいましたか?」
「何でそうなるんだい」
「教わっている途中なので」
「分からなきゃ聞けばいいし、分かるならやればいいだろ」
「……はい」
少女はパンの端をもう一度持ち上げた。
今度は淡い焼き色がついている。
返す。
隣の一枚も確認する。
こちらは少し色が薄いので、もう少し待つ。
全部を同時に返さなくてもよい。
「これも、前なら全部同じにしようとしていたと思います」
「パンかい?」
「はい」
「別に同じにしてもいいけどね」
「でも、一枚ずつ違いますから」
「そうだね」
少女は二枚目を返した。
最後の一枚は少し焦げた。
黒くなるほどではないが、端が濃い茶色になっている。
「あ」
「食えるよ」
「分かっています」
少女は笑った。
「これは私が食べます」
「またかい」
「焦がしたところの味も知りたいので」
「物好きだね」
朝食の卓には、焼いたパンと昨夜の煮込みを少し薄めたスープが並んだ。
少女は焦げた端を一口かじる。
香ばしい。
少し苦い。
けれど、食べられないほどではない。
「次はもう少し早く返します」
「そうしな」
マーサは普通の焼き色のパンを食べている。
少女は自分の皿を見ながら、ふと昨日ユウへ渡した煮込みを思い出した。
自分にはおいしかった。
マーサもおいしいと言った。
では、ユウは。
「朝から何考えてんだい?」
マーサの声に、少女は顔を上げた。
「分かりますか?」
「パン見ながらずっと止まってるからね」
「昨日の料理です」
「昨日食べただろ?」
「ユウさんに渡した方です」
「ああ」
マーサはそれだけ言ってスープを飲んだ。
少女は続きを待ったが、何も言わない。
「……何も聞かないのですか?」
「何を?」
「なぜ気にしているのか、とか」
「食わせたなら味が気になるんだろ?」
「そうです」
「じゃあ聞きゃいいじゃないか」
あまりにも簡単な答えだった。
「今日、会ったら聞きます」
「そうしな」
「おいしくなかったと言われたら?」
「次変えりゃいい」
「……そうですね」
料理の話なら、確かにそれだけだ。
少女は残りのパンを食べた。
朝食後、マーサと片づけを済ませてから外へ出た。
今日は空がよく晴れている。
昨日まで湿っていた道も、日当たりのよい場所から乾き始めていた。畑では朝から何人かが動いており、ガルドの大きな声も遠くから聞こえてくる。
少女は村の中央へ向かった。
見張り帳を確認したい。
それも本当だった。
けれど、歩きながら視線が何度かユウの家の方角へ向いてしまう。
少女は二度目で自分に気づいた。
「……まだ朝です」
ユウが家にいるとは限らない。
わざわざ料理の感想だけを聞きに家まで行く必要もない。
村を歩いていれば、そのうち会うだろう。
少女は進路を変えず、見張り場所へ向かった。
小さな棚には、昨日取りつけた木札が下がっている。
『見張り帳』
やはり少し右へ傾いていた。
少女は立ち止まり、直そうか迷った。
紐を少しずらせば真っ直ぐになる。
手を伸ばしかける。
昨日、ベルの孫は自分で三度やり直して結んだ。
読める。
落ちそうでもない。
「……このままでよいですね」
手を下ろした。
棚から記録用の板を取り出す。
昨日ケルが書いた内容が残っている。
少女は一度目を通した。
『警戒線反応なし』
『外線より外、北寄り』
『獣と思われる足跡 二か所』
『大きさ・形は以前確認した不明獣の跡に近い』
『同一種か不明』
『同一個体か複数か不明』
『一か所は西寄りに向く。行き先不明』
『確認 ケル・ドラン』
必要なことだけが書かれている。
少女は読み終えると、板を元へ戻した。
昨日、自分の紙へ細かく写さなかったことを後悔しなかった。
ここにある。
必要なら見ればよい。
「おはよう」
背後から声がした。
少女の肩が少し動く。
振り返る前に、誰なのか分かった。
「おはようございます、ユウさん」
ユウが歩いてくる。
手には何も持っていない。
服も泥で汚れていない。
今日はまだ森へ行っていないらしい。
「早いね」
「いつもとあまり変わりません」
「そう?」
「はい」
少女は返事をしながら、頭の中では別のことを考えていた。
聞く。
昨日決めた。
普通に。
「あの」
「うん?」
「昨日の料理、食べましたか?」
思っていたより早く口から出た。
ユウは少し目を丸くした後、笑った。
「食べたよ」
「どうでした?」
少女は一歩近づきそうになり、踏みとどまった。
「おいしかった」
「本当ですか?」
「うん」
「マーサさんが作った部分ではなく、私が作ったところも?」
ユウが少し困った顔になる。
「どこからどこまでが君なの?」
少女は止まった。
「……鶏肉を切りました」
「うん」
「鍋へ入れました」
「うん」
「味を見ました」
「うん」
「薄かったので、塩を足しました」
「じゃあ味つけもしてるじゃん」
「マーサさんが量は見ていました」
「でもおいしかったよ」
少女はユウの表情を見る。
気を遣っているようには見えない。
「どこが?」
「どこがって?」
「おいしかったところです」
「感想細かくいる?」
「聞きたいです」
ユウは少し考えた。
「鶏が硬くなってなかったし、青菜も煮すぎてなかった。味は薄すぎないけど濃くもなくて、普通にもう一杯食べられる感じ」
少女は真剣に聞いた。
「もう一杯?」
「量があったら」
胸の奥が一気に明るくなる。
「では、成功ですね」
「成功でいいと思う」
「よかった……」
少女は息を吐いた。
自分が思っていた以上に緊張していたらしい。
ユウが少し笑う。
「そんなに気にしてた?」
「気にしていました」
「朝から?」
「起きた時から少し」
「そんなに?」
「だって、食べてほしくて持っていったので」
言った後、少女は固まった。
ユウも一瞬黙った。
少女の頬へ熱が集まる。
「……料理を、です」
「うん」
「私が作った料理を食べてほしかったという意味です」
「分かってるよ」
「なら、そんな顔をしないでください」
「どんな顔?」
「分かりません」
少女は視線を逸らした。
自分で何を言っているのだろう。
料理を食べてほしかった。
それは事実だ。
ユウが鶏料理を好きだと知ったから、自分が作ったものも食べてほしいと思った。
そのことの何が恥ずかしいのか、うまく説明できない。
「また作ったら、食べますか?」
気づけば尋ねていた。
「くれるなら」
「では、上手にできたら」
「失敗したやつでもいいよ」
少女はユウを見る。
「なぜです?」
「食べられるなら」
マーサと同じような答えだった。
少女は思わず笑った。
「皆さん、本当に同じことを言いますね」
「何が?」
「食べられるならよい、と」
「駄目?」
「以前なら、少し嫌だったかもしれません」
「今は?」
少女は考えた。
「今は……失敗した時に一人で全部食べなくてよいなら、少し助かります」
「そっち?」
「大切です」
二人で笑った。
その時、東側からローデンが歩いてくるのが見えた。
少女の表情が自然に引き締まる。
「ケルさんたちは?」
「もう出た」
ローデンが答える。
「ユウ、お前も来い」
「境界壁?」
「ああ。ベルも後から来る」
「分かった」
少女はユウを見る。
昨日と同じように、胸の奥に少しだけ不安が生まれる。
だが、昨日とは違い、その不安にすぐ飲み込まれることはなかった。
「今日は、どこまで行くのですか?」
少女が尋ねる。
ローデンが答える。
「ユウとベルは外線の手前までだ。雨で土が寄った場所を見る。ケルとドランは、その先の昨日の足跡を確認してる」
「別行動なのですね」
「ああ。追跡するとは決めてない」
「分かりました」
少女は頷いた。
ユウがこちらを見る。
「今日は怖さ聞かないの?」
「今は四です」
「もう測ってた」
「昨日、六まで上がりましたから」
「そっか」
「でも、昨日と同じ場所を見るのでしょう?」
「俺はもっと手前」
「なら、大丈夫です」
少女は一度息を吸った。
「気をつけてください」
「うん」
「戻ったら」
そこで言葉が止まる。
戻ったら何だろう。
報告してほしい。
無事な姿を見たい。
もう少し話したい。
いくつかの気持ちが混ざった。
「……また、会ったら話してください」
結局そう言った。
「分かった」
ユウは普通に答えた。
ローデンと二人で東側へ向かう。
少女はその背中を少しだけ見送った。
追わない。
見張り場所で待ち続けもしない。
少女は棚へ向き直った。
今日の記録は、戻ってきた人が書けばよい。
自分は何をするか。
少し考える。
「サナさんのところは昨日行きましたし……」
ベルは後から東側へ行くので、鑿は今日はやめておこう。
マーサのところへ戻って料理をするにはまだ早い。
少女は村の道を眺めた。
ガルドの畑から声が聞こえる。
昨日は青菜だった。
今日は何を押しつけられるか分からない。
それでも、少しだけ行ってみたくなった。
「おはようございます」
畑へ近づくと、ガルドが腰を曲げて土を見ていた。
「おお!」
少女を見つけた瞬間、声が大きくなる。
「ちょうどいい!」
「まだ何も言っていません」
「こっち来い!」
「今日は何ですか?」
「見ろ!」
ガルドが指したのは、畑の端に並ぶ細い芽だった。
少女は恐る恐る近づく。
「何の芽ですか?」
「豆!」
「また豆ですか?」
「またとは何だ!」
「ガルドさんは豆が多いので」
「うまいからな!」
ガルドは胸を張る。
少女は芽を見る。
昨日の雨を受けた土は黒く湿り、小さな緑の芽がいくつも顔を出していた。
「全部同じ日に植えたのですか?」
「だいたいな」
「大きさが違います」
「そりゃ違う!」
「同じ種でも?」
「同じ腹から生まれた兄弟だって違うだろ!」
例えが急で、少女は目を瞬いた。
「ガルドさんにしては、分かりやすい例えです」
「俺を何だと思ってる!」
「豆をくれる方です」
「間違ってないな!」
ガルドが笑う。
少女もつられて笑った。
「今日は、何をすれば?」
「何もしなくていいぞ!」
予想外の答えだった。
「え?」
「見せたかっただけだ!」
「……私に?」
「昨日の雨で出てきたからな!」
ガルドは嬉しそうに芽を見る。
「こいつ、三日前まで何もなかったんだぞ」
「そうなのですか?」
「土しかなかった!」
少女はしゃがみ、芽を近くから見る。
小さい。
まだ葉も十分に開いていない。
これがやがて伸び、ガルドが抱えて持ってくるほどの豆になるのだろうか。
「何日で食べられますか?」
「まだまだ!」
「どのくらい?」
「育ってからだ!」
「答えになっていません」
「天気で変わる!」
まただ。
少女は笑った。
「最近、そればかり聞きます」
「何がだ?」
「待って、途中を見て、その時に考えるという話です」
「畑なんてそんなもんだ!」
ガルドは当然のように言った。
「雨降りゃ伸びるし、降りすぎりゃ腐る。晴れりゃいいってもんでもない。虫も来る!」
「では、最初に全部決められない?」
「決められるわけないだろ!」
ガルドは笑う。
少女は芽を見つめた。
昨日、サナの石鹸を見た。
作ってから、待つ。
今日は豆の芽。
植えた後、育つまで待つ。
家の手紙もそうだ。
出した後、自分ではどうにもできない時間がある。
「待つものって、多いのですね」
「腹減ったら待てんぞ!」
「そういう話ではありません」
「昼飯はまだか!」
「朝食を食べたばかりでしょう?」
「もう畑やった!」
「だからといって昼には早いです」
「マーサみたいなこと言うな!」
少女は思わず笑った。
結局、何も手伝わず、豆の芽を見ただけで畑を離れた。
それでも不思議と「何もしなかった」とは感じなかった。
ガルドが見せたかったものを、一緒に見た。
それだけで十分だった。
村の中央へ戻る途中、オルドの鶏小屋の近くを通った。
鶏が数羽、地面をつついている。
昨日、ユウと軒下から見た鶏を思い出す。
「今日は濡れていませんね」
一羽へ声をかけてみる。
当然、返事はない。
「本人に聞いても、やはり分かりません」
「何してんだ?」
背後から声がして、少女は振り返った。
オルドが籠を持って立っている。
「鶏に話しかけていました」
「返事したか?」
「しません」
「そりゃそうだ」
「ユウさんにも、本人に聞かないと雨が嫌か分からないと言われたので」
「ユウは鶏と話せんぞ」
「本人もそう言っていました」
オルドは少女を不思議そうに見た。
「何の話だ?」
「私にも分からなくなってきました」
少女は笑った。
オルドの籠を見る。
今日は卵が三つある。
「売る分はありますか?」
「一つなら」
「買います」
「またか」
「今日は、昨日より少し短く茹でてみたいです」
少女は財布を出す。
銅貨を一度で正しい枚数選び、オルドへ渡した。
もう数える時に緊張しない。
オルドも確認し、卵を一つ渡す。
「割るなよ」
「はい」
「ユウにやるのか?」
少女の手が止まった。
「なぜです?」
「昨日、鶏の煮たやつ持ってったって聞いたぞ」
「誰からですか?」
「マーサ」
「……マーサさん」
「違うのか?」
「昨日の料理は持っていきました。でも、この卵は私が食べます」
「そうか」
オルドはそれ以上興味を示さなかった。
少女だけが少し頬を熱くしている。
「別に、毎回ユウさんへ食べ物を持っていくわけではありません」
「聞いてないぞ」
「……はい」
余計な説明をした。
少女は卵を布へ包み、逃げるようにその場を離れた。
マーサの家へ戻ると、卵を見せる。
「また買ったのかい?」
「はい。今日は前より短く茹でたいです」
「昼にする?」
「はい」
少女は鍋へ水を入れた。
前回と同じように卵を入れ、火へ掛ける。
今回は砂時計の砂がすべて落ちる少し前に火から下ろすことにした。
「どこで止めるんだい?」
「前回より少し早く」
「どのくらい?」
「……見えませんね」
「殻の中だからね」
少女は砂時計を見る。
少し不安になる。
「このくらいでしょうか」
「やってみな」
少女は鍋を火から下ろした。
水へ入れ、冷ます。
殻を剥く。
前回より少し上手く剥けた。
「切ります」
「はいよ」
包丁を入れる。
半分に開く。
中心の黄身は完全には固まっておらず、真ん中だけ少し柔らかい。
少女の顔が明るくなる。
「前より柔らかいです」
「そうだね」
「食べてみます」
塩を少し。
一口。
黄身の中心が滑らかで、前回より自分の好みに近い。
「……これ、好きです」
「じゃあ覚えときな」
「はい」
少女は嬉しそうにもう一口食べた。
「でも、次はもう少しだけ柔らかくてもよいかもしれません」
「また買えばいい」
「はい」
次がある。
それが自然に思えることが嬉しかった。
昼食後、少女は少し休んだ。
すぐに見張り場所へ行きたくなる気持ちはあったが、ケルたちが戻る時間は分からない。マーサと卓を片づけ、自室で午前中に使った木片を眺める。
鑿の跡は不揃いだ。
昨日深く入りすぎた場所もある。
その隣には、少しずつ揃ってきた浅い跡が並んでいる。
少女は指で触れず、目で追った。
何度か失敗している。
けれど、最初の跡と最後の方の跡を比べれば違いが分かる。
妹なら。
その言葉が、頭の奥に小さく浮かんだ。
以前ほど鋭くはない。
少女は少し待った。
妹なら、もっと早くできたかもしれない。
一度で角度を理解したかもしれない。
そう思う自分は、まだいる。
「……そうかもしれません」
少女は小さく口にした。
否定しなかった。
妹が優れている可能性を消さなくてもよい。
「でも、これは私の練習です」
木片を見つめる。
昨日より少し上手くなった。
それでよい。
少女は木片を机へ戻した。
午後の半ば頃、外から声が聞こえた。
「戻ったぞー!」
ガルドではない。
ドランの声だった。
少女は立ち上がる。
すぐに部屋を出かけ、足を止めた。
走らない。
深く一度呼吸する。
「マーサさん、見に行ってきます」
「はいよ」
少女は家を出た。
村の中央へ向かう。
歩く速度は少し速いが、走ってはいない。
見張り場所には既に何人か集まっていた。
ケル。
ドラン。
ローデン。
ベル。
そしてユウ。
少女はまず全員が立っていることを確認した。
怪我をした様子はない。
それだけで胸の緊張が少し下がる。
「おかえりなさい」
「ああ」
ケルが頷く。
ユウも「ただいま」と返した。
昨日と同じ言葉なのに、少女は少しだけ安心する。
「どうでしたか?」
少女は見張り棚の近くで止まった。
ケルはすぐに答えず、地面へ置いた小さな板を指した。
そこには泥で簡単な形が描かれている。
「昨日見た二つの跡とは別に、今朝新しい跡が三つあった」
少女の胸が強く打つ。
「三頭?」
「まだ言わん」
ケルはすぐ訂正した。
「三つの足跡だ。場所は近いが、一列じゃない」
「同じ個体が動いた可能性も?」
「ある」
「別の個体の可能性も?」
「ある」
「形は?」
「昨日と同じ。前に見た妙な獣の跡にも近い」
少女は頷く。
「方向は?」
ケルが泥の上へ指を滑らせる。
「一つは南西。二つは西寄り。ただ、連続した跡が取れない」
「途中がない?」
「地面が硬いところへ出る」
ドランが横から続けた。
「追えるほど残ってない」
「警戒線へ近づいていますか?」
「昨日よりは近い」
少女の指先が冷たくなる。
「どのくらい?」
「外線から、歩いてしばらくの距離だ。すぐそばじゃない」
ケルの声は落ち着いている。
「外線の反応は?」
「なし」
「内側も?」
「なし」
少女は息を吐いた。
近づいている可能性はある。
だが、まだ線には触れていない。
「古い道は?」
ローデンがケルを見る。
「今日は少しだけ位置を確認した」
少女も視線を向ける。
「足跡は、古い道の方へ?」
「一本だけなら、そう見える」
「一本だけ」
「ああ。他は分からん」
ケルは板の泥へ一本の線を引いた。
「ここが昔の道の跡。今は草でほとんど消えてる。三つのうち一つが、この方向に向いてた」
「道を使っているとは言えない?」
「言えん」
少女は頷いた。
何度も「分からない」が出る。
それでも、昨日より一つだけ輪郭が増えた。
獣らしい跡が、昨日より少し西側で見つかった。
そのうち一つは古い道の方向へ向いていた。
ただし、道を使っているとは確認できない。
「追わなかったのですね」
「ああ」
ケルが答える。
「今日はそこまでと決めてた」
「見つけたから、その先へ行くことは?」
「してない」
少女の肩が少し下がった。
決めた範囲で戻ってきた。
「怖さは?」
今度はユウから聞かれた。
少女は自分の内側を確かめる。
昨日の六よりは低い。
今聞いた内容は怖い。
しかし、全員が無事に戻っている。
警戒線は反応していない。
「五です」
「相談する方?」
「はい。でも、今ここで皆さんから聞いています」
「じゃあもう相談中だね」
「そうですね」
少女は少し笑った。
ローデンが見張り帳を取り出す。
「ケル、書いてくれ」
「ああ」
ケルが板を外し、記録を始める。
少女は少し離れたところから見る。
今日は横から細かく確認しなかった。
書き終わった後、ローデンが読み、ドランも一度見る。
「これでいい」
少女はそれを聞いてから尋ねた。
「私も見てもよいですか?」
「もちろん」
ケルが板を渡す。
少女は読む。
『朝』
『北東〜東』
『警戒線反応なし』
『外線より外』
『前日より西側で獣様足跡 三か所』
『同一個体・複数個体 不明』
『以前の不明獣との一致 未確認』
『一か所、旧道方向。旧道使用は不明』
『追跡せず』
『確認 ケル・ドラン』
少女は最後の一行を見る。
『追跡せず』
以前なら、それを「何もしなかった」と読んだかもしれない。
今は違う。
追わないと決めた。
それも一つの判断だ。
「よいと思います」
少女は板を返した。
「何か足す?」
ローデンが尋ねる。
「ありません」
「消すものは?」
「ありません」
ローデンは頷き、板を棚へ戻した。
少女は木札を見る。
『見張り帳』
少し傾いたままだ。
その下に、必要な情報が増えている。
名前は簡単でも、役目は果たしていた。
「今後は?」
ベルが尋ねる。
ケルとドランが顔を見合わせる。
「明日は、今日見た場所まで」
ケルが答えた。
「増えてなければ、一旦そのまま。増えてたら位置を見る」
「森の奥へは?」
「まだ入らん」
ローデンも頷く。
「警戒線の感度は?」
ユウが尋ねる。
「変えない」
ローデンの答えは早かった。
「まだ線へ触れてもいない。今上げたら、別の獣で鳴りすぎるかもしれん」
「了解」
少女はそのやり取りを聞く。
一つの情報が増えたからといって、すぐ全部を変えない。
以前の自分なら、不安を減らすために何かをしたくなったかもしれない。
今は、変えない理由を聞けば納得できた。
「じゃあ今日は終わりだ」
ローデンが言った。
本当に、それで解散になった。
少女は少し拍子抜けした。
何か対策会議が続くのかと思っていた。
ベルは工房へ戻り、ドランとケルもそれぞれ別の方向へ歩いていく。ローデンも家へ向かった。
残ったのは少女とユウだった。
「終わりましたね」
「終わったね」
「もっと話すのかと思いました」
「今決めることないし」
「そうですね」
二人は見張り場所から村の中央へ戻る。
少女は少し歩いてから、ユウの手を見る。
「怪我はありませんか?」
「ないよ」
「本当に?」
「ほら」
ユウが両手を見せる。
擦り傷もない。
「足は?」
「ない」
「服は?」
「それは怪我じゃないでしょ」
「泥がついています」
「森行ったからね」
少女は笑った。
「昨日より少ないです」
「今日は境界壁のとこまでだったし」
「土の流れは?」
「ベルさんが明日やるって。水の逃げ道少し変えるだけでいけそう」
「魔法は?」
「最後に壁の下だけ見直すかも。でも土の方が先」
「分かりました」
少女はそこまで聞き、ふと気づいた。
自分はユウの仕事の報告をかなり細かく聞いている。
「私、聞きすぎでしょうか」
「何を?」
「ユウさんが何をしたか」
「別に」
「迷惑では?」
「聞かれて困ることなら言わないよ」
その答えに、少女は少し安心した。
「では、これからも聞いてよいですか?」
「いいよ」
「……はい」
少女は前を向いた。
口元が少し緩んでいる気がする。
「そういえば」
ユウが言う。
「卵買ってた?」
少女は驚いて振り返った。
「なぜ知っているのです?」
「オルドさんに会った」
「何を聞きました?」
「今日も卵買ってったって」
「それだけですか?」
「あと、俺にはやらないらしいって」
少女の顔が熱くなる。
「オルドさん!」
ユウが笑う。
「何で怒るの?」
「私が勝手に説明してしまっただけです」
「俺にはくれないの?」
「欲しいのですか?」
少女は思わず聞き返した。
ユウが少し考える。
「ゆで卵一個なら、自分で作れるかな」
「作れるのですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「日本にいた時は作ったことあるよ」
少女は歩みを少し緩めた。
「ユウさんは料理ができるのですか?」
「最低限は」
「何を作れます?」
「そんな大したものは作れないよ」
「例えば?」
「ご飯炊いたり、肉焼いたり、野菜炒めたり」
「ご飯?」
「あ」
ユウが止まる。
少女も止まった。
「また、こちらにはないものですか?」
「米はあるかもしれないけど、この辺では見ないね」
「日本の食べ物?」
「うん」
少女は興味を引かれた。
「どんなものですか?」
「白くて、小さい粒を水で炊く」
「麦とは違う?」
「違うね」
「おいしいですか?」
「俺は好き」
少女は少し考える。
「いつか食べてみたいです」
「見つかればね」
「《魔導書庫》では出せないのですか?」
「食べ物は出ないよ」
「便利なのか不便なのか、時々分からなくなります」
「俺も」
二人はまた歩き始めた。
「ユウさん」
「ん?」
「日本の料理で、一番好きだったものは何ですか?」
尋ねると、ユウが少し考え込んだ。
「一番かあ」
「鶏料理では?」
「鶏も好きだけど」
「では?」
「……カレーかな」
「カレー」
少女は聞き慣れない音を繰り返した。
「どんな料理です?」
「説明難しいな」
「煮るのですか?」
「煮る」
「肉は?」
「入れる」
「野菜も?」
「入れる」
「鶏でも?」
「全然あり」
少女の目が少し明るくなる。
「作れますか?」
ユウは困った顔をした。
「材料があれば」
「何が必要です?」
「香辛料が色々」
「村には?」
「たぶん揃わない」
「町なら?」
「分かんない」
少女は少し残念に思った。
けれど、すぐに別の考えが浮かぶ。
「ハインさんが来た時に聞いてみてもよいでしょうか」
「香辛料?」
「はい」
「高いかもよ」
「買うかどうかは、聞いてから決めます」
「そっか」
少女は小さく頷いた。
ハインが次に来るのは、まだ先だ。
その頃まで覚えていたら聞けばよい。
「カレー……」
もう一度呟く。
「そんなに気になる?」
「ユウさんが好きなものなので」
また自然に言ってしまった。
少女は数歩進んでから、自分の言葉に気づく。
隣を見る。
ユウもこちらを見ていた。
「……何ですか?」
「いや」
「またその返事です」
「嬉しいなと思って」
少女の足が止まりそうになる。
「嬉しい?」
「自分の好きだったものに興味持ってもらえるの、普通に嬉しくない?」
「……そう、ですね」
少女は前を向いた。
胸の奥が妙に落ち着かない。
ただ食べ物の話をしているだけなのに。
「では、覚えておきます」
「カレー?」
「はい」
「無理に探さなくていいよ」
「分かっています」
少女は少し笑った。
「探したいと思ったら探します」
「うん」
その答えを、ユウは否定しなかった。
マーサの家が見えてきたところで、少女は立ち止まる。
「私はここです」
「うん」
「ユウさんは?」
「一回家帰る。泥落としたいし」
「そうしてください」
「また言われた」
「今日は自分から言ったではありませんか」
「そうだった」
少女は笑う。
「では、また」
「またね」
ユウが歩いていく。
少女は以前のように長く見送らなかった。
家へ入る。
「ただいま戻りました」
「おかえり。どうだった?」
マーサが台所から尋ねる。
少女は外套を外しながら答えた。
「獣らしい足跡が、昨日より少し西側で三か所見つかったそうです。同じ個体か複数かは分かりません。一つだけ古い道の方向へ向いていましたが、道を使っているかは分かりません」
「警戒線は?」
「反応していません」
「なら今日は?」
「追いません。明日また同じ場所を確認するそうです」
「そうかい」
マーサはそれ以上質問しなかった。
少女も必要以上に話さない。
「怖さは五くらいです」
「なら休むかい?」
「少しだけ。その後、夕食を手伝いたいです」
「何作る?」
少女は考えた。
「卵は昼に食べてしまいました」
「知ってるよ」
「青菜は?」
「まだある」
「では、今日は青菜を使いたいです」
「じゃあ炒めるか」
「炒める?」
「煮てばっかりだからね」
少女の表情が明るくなる。
「教えてください」
「夕方にね」
「はい」
午後は少し休んだ。
窓辺の椅子へ座り、何もせず外を眺める時間を取った。
森のことは頭へ浮かぶ。
けれど、そのたびに追い払おうとはしなかった。
足跡があった。
明日確認する。
警戒線は鳴っていない。
今はそれだけ。
しばらくすると、ガルドの畑で見た小さな豆の芽を思い出した。
あれも今頃、同じ場所にある。
朝から急に大きくなったりはしていないだろう。
石鹸も同じ。
家の手紙も同じ。
何も起きていないように見える時間の中で、少しずつ進んでいるものがある。
少女は目を閉じた。
気づけば、少し眠っていた。
目を覚ました時、窓から入る光は午後の色になっている。
「……寝てしまいました」
慌てて立ち上がりそうになり、やめた。
何分眠ったのか分からない。
マーサに何か頼まれていたわけでもない。
少女は身体を伸ばした。
よく眠れた。
それなら、それでよい。
夕方になると、マーサと一緒に青菜を炒めた。
鍋とは違い、火の強さと手を動かす速さが大切になる。
「入れたらぼんやりすんじゃないよ」
「はい」
「下から返す」
「こうですか?」
「もうちょい大きく」
少女は木べらを動かす。
青菜が熱で少しずつしんなりしていく。
「減りました」
「葉っぱはね」
「昨日ガルドさんが『煮れば減る』と言っていました」
「炒めても減るよ」
「本当ですね」
少女は少し楽しくなる。
塩を入れる。
今回は慎重になりすぎて少なかった。
味を見る。
「薄いです」
「足しな」
「はい」
少し足す。
もう一度。
「今度は?」
「私は好きです」
「じゃあいい」
「マーサさんは?」
「私もそれでいいよ」
皿へ盛る。
少女は出来上がった青菜を見て、昨日の鶏料理ほど強く誰かへ食べてもらいたいとは思わなかった。
それに気づき、自分でも少し不思議だった。
料理が上手くできたから、誰にでも食べてもらいたいわけではない。
昨日は、ユウに食べてほしかった。
その違いを考えそうになり、少女は一度手を止めた。
「どうした?」
マーサが尋ねる。
「……何でもありません」
「焦げるよ」
「あ」
少女は慌てて火から皿を離した。
マーサが呆れたように笑う。
「料理中に考え事すんじゃないよ」
「はい」
今は料理。
考えるなら後でよい。
夕食を終え、夜。
少女は自室の机へ向かった。
今日の紙へ書く。
『ガルドさんの豆が芽を出した』
最初にそれを書いた。
森のことより先だった。
自分でも少し意外に思う。
次に、
『獣らしい足跡が昨日より西側で三か所。警戒線反応なし。明日また確認。詳しくは見張り帳』
それだけ。
そして少し迷い、
『卵は前より短く茹でた。今日の方が好き。次はもう少しだけ柔らかくしてみたい』
と書いた。
さらに炭筆を持ったまま止まる。
今朝、聞きたかったこと。
料理の感想。
『ユウさんは、おいしいと言った』
少女はその文字を見る。
頬が少し緩む。
『もう一杯食べられると言った』
そこまで書いて、少女は小さく笑った。
「これは、書かなくても覚えていると思います」
それでも消さなかった。
今日、もう一つ知ったことがある。
『ユウさんは、日本ではカレーという料理が好きだった』
少女は「カレー」の文字を少し丁寧に書いた。
見たこともない料理。
どんな色なのかも知らない。
香辛料をいくつも使うらしい。
ハインが来た時に聞いてみたい。
ただし、買うと決めたわけではない。
手に入るとも限らない。
それでも、少し楽しみだった。
少女は炭筆を置き、紙を眺めた。
家の返事はまだない。
森には少し気になる変化がある。
けれど、今日の紙には豆の芽と卵と料理の感想と、聞いたことのない食べ物の名前も並んでいる。
一日は、一つの出来事だけでできているわけではない。
怖いことがある日にも、嬉しいことがある。
返事を待っている日にも、新しく知ることがある。
少女は紙を折った。
寝台へ向かおうとして、机の端に置いた木片が目に入る。
不揃いな鑿の跡。
少女はそれを少し眺めた。
「明日は、どうしましょう」
鑿をやってもよい。
休んでもよい。
石鹸を見てもよい。
豆の芽を見に行ってもよい。
見張り帳の記録を確認してもよい。
料理をしてもよい。
何もしない時間を作ってもよい。
朝になってから選べばいい。
灯りを消し、寝台へ入る。
目を閉じると、今日聞いたユウの声が思い出された。
『おいしかった』
それだけで、また少し嬉しくなる。
少女は掛け布の中で小さく息を吐いた。
明日、森の痕跡が増えていれば、怖くなるかもしれない。
何も増えていなければ、安心するかもしれない。
どちらでも、その時に考える。
そして、いつかハインが村へ来た時には、香辛料について聞いてみよう。
ユウが好きだったという、まだ味も匂いも知らない料理を思い浮かべながら、少女はゆっくりと眠りへ落ちていった。




