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第38話 雨のあと

翌朝、雨は上がっていた。


 窓を開けると、夜のあいだに洗われたような空気が部屋へ入り、少女は思わず深く息を吸った。湿った土と草の匂いはまだ濃いものの、昨日の灰色の空は東から少しずつ明るくなり、屋根の端に残った雫が朝日に照らされている。


 寝台から起きた少女は、いつものように右の踵へ体重を乗せた。痛みはない。もう確認しなくてもよいのではないかと思う日も増えてきたが、確かめること自体が不安からではなく朝の習慣になりつつあるので、無理にやめる必要もない気がしていた。


 机へ向かうと、昨夜書いた紙が目に入った。


『今日は、ユウさんと何もしないで話した。楽しかった』


 少女は数秒それを見つめ、そっと裏返した。消すつもりはないが、朝一番に何度も読み返すものでもない。


「……今日は、別のことを考えましょう」


 自分へ言い聞かせるように呟き、着替えを始めた。昨夜の雨で道はまだ柔らかいだろうから、裾を少し上げやすい服を選ぶ。


 部屋を出ると、台所ではマーサが鍋を火へ掛けていた。


「おはようございます」


「おはよう。晴れそうだね」


「はい。道はまだ濡れていそうですが」


「昼にはだいぶ乾くだろ」


 少女は窓から外を見た。昨夜まで屋根から落ち続けていた雫も、今は時折一滴落ちる程度になっている。


「ケルさんたち、今朝見に行くと言っていました」


「森かい?」


「昨日見つけた痕跡の辺りを。雨が止んだ後なら、新しいものが出ているかもしれないと」


 マーサは鍋の蓋をずらし、湯気を逃がした。


「じゃあ行くんだろうね。お前さんも行くのかい?」


 少女はすぐに首を横へ振った。


「行きません。私が行っても足跡を見分けられませんし、警戒線の外ですから」


「即答だね」


「少し気にはなります」


 少女は正直に付け加えた。人なのか、獣なのか。新しいのか、古いのか。それすら分からなかった昨日の崩れた痕跡が、今朝になれば少し分かるかもしれない。


 知りたい。


 けれど、知りたいから自分で行く必要はない。


「戻ってきたら聞きます」


「それがいいね」


 マーサは特に褒めもしなかった。少女には、それがちょうどよかった。


 朝食の準備を手伝う。今日は昨日もらった豆を柔らかく煮たものと、薄く切ったパンだった。


 少女が豆の鍋を覗き込んでいると、マーサが木べらを渡してくる。


「混ぜて。底だけ気をつけな」


「はい」


 少女は鍋底をなぞるようにゆっくり混ぜた。湯気の向こうで豆が崩れ、少しとろみが出ている。


「昨日いただいたものですよね」


「そうだよ」


「青菜を配りに行って、豆を持ち帰って、それを今日食べる」


「そうなるね」


「ガルドさんへは何も返していません」


「まだ気になるのかい?」


「少しだけです。でも、昨日よりは気になりません」


 少女は苦笑した。


「そのうちガルドが何か困った時に手ぇ貸せばいいよ」


「ガルドさんが困るところを、あまり想像できません」


「腰やった時は大騒ぎだったよ」


 少女は手を止めかけ、慌てて豆を混ぜ続けた。


「腰を?」


「三年前。畑ででかい石を一人で動かそうとしてね」


「今のガルドさんから想像できます」


「だろ?」


「その時は、皆さんで?」


「そりゃね。畑も手伝ったし、飯も持ってった」


「ガルドさんは休めましたか?」


「休ませた」


 マーサの言い方が妙に強く、少女は笑った。


「自分からではなかったのですね」


「寝てろって言っても畑見に行こうとするから、ベルが杖隠した」


「それは……」


 想像すると、かなりひどい。けれど、同時にこの村らしいとも思う。


「ユウさんがいた頃ですか?」


「まだいなかったよ」


「そうなのですね」


 少女は少し意外に感じた。


 誰かができることを残し、できないところだけ手を貸すこと。休む時には休ませ、無理をする人を周りが止めること。そうしたもののすべてを、ユウがこの村へ持ち込んだわけではない。


 ユウ自身も以前そう言っていた。


 村には村のやり方があり、彼はそこへ自分の経験を重ねている。


「何笑ってんだい?」


「笑っていましたか?」


「ちょっとね」


「ユウさんが、この村を選んだ理由が少し分かった気がしただけです」


「本人に聞いたのかい?」


「いえ」


「じゃあ勝手に決めるんじゃないよ」


 マーサにすぐ訂正され、少女は目を瞬いた後で頷いた。


「そうですね。分かった気がしただけでした」


 本人がそう思っているとは限らない。


 少女は豆をもう一度混ぜた。


「今度、聞いてみます」


「そうしな」


 朝食を終えた後、少女はすぐに見張り場所へ向かわなかった。


 ケルたちが確認へ出るなら、そこへ行っても待つだけになる。昨日なら、その待つ時間も見張り棚の近くで過ごしたくなったかもしれないが、今日はマーサと食器を片づけ、それから昨日の青菜の残りを確認した。


 傷みはない。夕食にも使えそうだ。


「サナさんのところへ行ってもよいでしょうか」


「私に聞くことかい?」


「……そうでした」


「行きたいなら行っといで」


「はい」


 少女は薄い外套を持つか迷い、今日は置いていくことにした。


 外へ出ると、昨日よりずっと暖かい。


 水溜まりを避けながらサナの家へ向かう。途中、東側へ続く道が見えたが、少女はそちらへ曲がらなかった。


 サナの作業場は家の脇にある小さな屋根付きの場所だった。


 近づくと、油と草を混ぜたような独特の匂いがする。棚には型へ流した石鹸がいくつか並び、そのうち一つには少女が以前手伝ったものもある。


「おはようございます」


「おや。朝からどうしたんだい」


 サナは木箱の中を整理していた。


「石鹸を見に来ました」


「昨日も見なかったかい?」


「昨日は遠くから少しだけです」


「毎日見ても急には変わらないよ」


「マーサさんにも同じようなことを言われました」


「なら聞いときな」


 サナは笑い、手を布で拭いた。


「触るかい?」


「よいのですか?」


「手ぇ洗ってからね」


「はい」


 少女は桶の水で手を洗い、布でしっかり水気を取った。サナが棚から一つ取り出す。


 以前より表面が乾き、色も少し落ち着いて見える。


「両手で」


 少女は受け取った。


 思っていたより硬い。ただ、完成した石鹸ほどではないらしく、指で強く押さないよう注意する。


「前より硬くなっています」


「なってるね」


「もう使えますか?」


「まだ」


 少女は少し残念そうに石鹸を見る。


「あとどのくらいでしょう」


「天気にもよるし、置く場所にもよる。焦らない方がいいよ」


「やはり、ここでも同じなのですね」


「何が?」


「時間を決めても、その通りになるとは限らないことです」


 昨日の卵。


 今朝の料理。


 石鹸。


 どれも途中の状態を見る必要がある。


 サナは少女から石鹸を受け取り、棚へ戻した。


「作ったら終わりじゃないからね」


「待つところまで、作るうちですか?」


「そうだねえ」


 少女は棚を見る。


 並んだ石鹸は、何もしていないように見える。けれど、少しずつ変わっている。


「では、私が何もしなくても進んでいるのですね」


「石鹸はね」


 サナの返しが少しおかしく、少女は笑った。


「私も同じだと言おうとしたわけではありません」


「言いそうな顔してたよ」


「そんな顔がありますか?」


「あるある」


 サナは楽しそうに笑った。


 少女は少し頬を膨らませたものの、すぐに自分も笑う。


「今日は、何か手伝えることがありますか?」


「今はないね」


「分かりました」


 以前なら、そこで別の仕事を探しただろう。


 少女は棚をもう一度眺め、それから素直に帰ろうとした。


「本当に帰るのかい?」


 サナが逆に驚いた。


「手伝うことはないのでしょう?」


「ないけど」


「では、また来ます」


「変わったねえ」


 少女の足が止まる。


「そうでしょうか」


「前なら、掃除でも何でも探してたよ」


 少女は少し考えた。


 自分では大きく変わった感覚はない。今も何かできるなら手伝いたいと思う。


 けれど、「ない」と言われた後まで自分の仕事を作ろうとは思わなくなった。


「今は、別にやりたいこともありますから」


「何だい?」


「まだ決めていません」


 答えると、サナがまた笑った。


「それも変わったね」


 少女は今度は否定しなかった。


 サナの家を出ると、村の中央から金槌の音が聞こえた。


 ベルの工房だ。


 鑿を触りたい気持ちが少し出てくる。昨日は休んだ。


 今日はどうするか。


 少女は工房の方へ数歩進み、そこで立ち止まった。


 やりたい。


 なら、行けばよい。


 そう思い直し、そのままベルの工房へ向かった。


「ベルさん」


「何だ」


 工房ではベルが椅子の脚を削っていた。少女が入口から顔を出しても、手は止めずに返事をする。


「鑿を触りたいです」


「そこにある」


 以前練習に使った木片と鑿が、作業台の端へ置かれている。


「使ってよいのですか?」


「駄目なら置いとかん」


「はい」


 少女は木片を持った。


 これまでにつけた浅い跡がいくつも残っている。最初は力の入れ方が分からず、深く入りすぎたところもある。


「今日は何をすれば?」


「前と同じ」


「同じでよいのですか?」


「前にできたからって、次に別のことやる必要あるか?」


「……ありません」


 少女は椅子へ座り、木片を固定した。


 鑿を当てる角度を確認する。


 ベルは自分の作業を続けており、ずっと見てくれるわけではない。


 少女は一度呼吸を整え、木槌を軽く落とした。


 乾いた音とともに、刃が木へ入る。


 少し浅い。


 もう一度。


 今度は力が強すぎた。


「あ」


「深い」


 見ていないようで、ベルは見ていた。


「はい」


「戻せんぞ」


「分かっています」


「なら次で変えろ」


 少女は失敗した跡を指で触った。


 削っていなかったことにはできない。だから、その隣へ次の刃を当てる。


 今度は木槌を少し低い位置から振った。


 先ほどより浅く、最初より深い。


「これくらいでしょうか」


「自分で見ろ」


「ベルさんは?」


「俺が使う木じゃない」


 少女は木片を見る。


 自分の練習だ。


 自分が、どの深さを揃えたいか。


「では、もう少しだけ浅くします」


「そうしろ」


 何度か繰り返すうち、一度刃が斜めへ逃げた。その跡も残ったが、少女は以前ほど気にしなかった。


 失敗した跡を消すための練習ではない。


 次を変えるための練習だ。


 しばらくすると、手のひらが少し疲れてきた。


 まだ続けられる。


 けれど、木槌を握る指が最初より固くなっている。


 少女はもう一度だけ打ち、そこで鑿を置いた。


「今日は終わります」


 ベルが顔を上げた。


「もうか?」


「手が少し疲れました」


「痛いのか」


「痛くはありません。力が入りにくくなる前にやめます」


「なら終われ」


 ベルはそれだけ言い、自分の作業へ戻った。


 少女は道具についた木屑を払い、元の場所へ戻す。木片は持ち帰ろうとして、少し迷った。


「これは、まだ持っていてよいですか?」


「お前の練習木だろ」


「はい」


「好きにしろ」


 少女は木片を胸元へ抱えた。


 上手にできたものではない。むしろ失敗の跡の方が多い。


 それでも、捨てたいとは思わなかった。


「ありがとうございました」


「次やるなら、手ぇ疲れてない日にしろ」


「はい」


 工房を出たところで、村の東側から三人が戻ってくるのが見えた。


 ケル。


 ドラン。


 そしてユウ。


 少女の足が止まる。


 今朝、ユウも行くとは聞いていなかった。


 胸の奥が一瞬強く縮む。


 三人とも歩いている。急いでいる様子はなく、怪我をしているようにも見えない。


 少女はそこまで確認してから、ようやく息を吐いた。


 走らない。


 マーサにも言われている。


 そもそも走る必要もない。


 少女は木片を持ったまま、普通の速さで三人の方へ歩いた。


「おかえりなさい」


 最初に出たのは、その言葉だった。


 ユウが少し笑う。


「ただいま」


 胸の奥が、また少しだけ温かくなる。


 ケルとドランも少女へ軽く頷いた。


「何か分かりましたか?」


 尋ねながら、少女の視線は一度だけユウの服や手足を確認していた。泥はついている。右の袖にも少し汚れがあるが、血は見えない。


「先に言っとくと、怪我はないよ」


 ユウが言った。


 少女は顔を上げる。


「聞いていません」


「見てたから」


「……確認していただけです」


「うん」


「何ですか、その顔は」


「別に」


 ユウが少し笑っている。


 少女はそれ以上追及せず、ケルを見る。


「痕跡は?」


「昨日のは、ほとんど消えてた」


「では、分からないままですか?」


「昨日の一つについてはな」


 ケルはそこで言葉を切った。


 少女の表情が変わる。


「別のものが?」


「あった」


 ドランが答えた。


「二つ」


「足跡ですか?」


「今度は足跡だ」


 少女は木片を抱える手へ少し力を入れた。


「人ですか。獣ですか」


「獣だと思う」


 ケルが慎重に答える。


「断定は?」


「まだしない。ただ、指の形と爪がある。人の靴じゃない」


「大きさは?」


「前に見た、あの妙な獣の跡に近い」


 少女の背筋へ冷たいものが走った。


 以前、村の近くまで来た未知の獣。森でユウたちが戦った、人の腰ほどの高さがあり、複数で動き、障壁を探るような行動まで見せた獣。


「同じ獣ですか?」


「そこまでは分からん」


 ケルは即座に線を引いた。


「似た大きさ。形も近い。ただし、雨上がりの柔らかい地面で二つ見つかっただけだ」


「二頭ですか?」


「それも決められん」


「二つの足跡が、別の個体のものとは限らない?」


「そういうことだ」


 少女は頷いた。


 怖さが少しずつ上がっている。


 昨日は四だった。


 今は。


「場所は?」


「昨日の崩れた跡より北寄り。外線からはまだ離れてる」


「警戒線は?」


「反応なし」


 少女は少し息を吐いた。


 近づいてはいない。


 少なくとも、今確認できた範囲では。


「進んでいた方向は分かりますか?」


 ケルが少し間を置いた。


「一つは西寄り。もう一つは形が足りなくて分からん」


「西……」


「村へ向かってるとは言ってないぞ」


 ドランが低い声で言った。


 少女は自分が無意識に先を考えかけたことに気づく。


「はい」


 西。


 村も森から見れば西側にある。


 だが、西へ向いた足跡一つだけで、村へ向かっているとは言えない。


「古い道との位置は?」


「今日はそこまで行ってない」


 ケルが答えた。


「追わなかったのですか?」


「ああ」


「なぜ?」


「追う理由がまだない」


 その答えは簡潔だった。


「警戒線から離れてる。数も分からん。昨日の跡との関係も不明。ここで奥へ入れば、こっちが危なくなる」


 少女は黙って聞いた。


 知りたいから追うのではない。


 調べられるから奥へ行くのでもない。


「明日は?」


「今日の場所をもう一度見る。新しい跡が増えるかどうか。それからだ」


「分かりました」


 少女はそこで、自分の怖さを確認した。


「六くらいです」


 誰にも聞かれていなかった。


 三人が少女を見る。


「何が?」


 ユウが尋ねる。


「怖さです。今は六くらい」


 以前決めた目安。


 六なら止まる。


 一人で抱えず、誰かへ伝える。


「だから言いました」


 少女は自分でも少しおかしくなって笑った。


 ドランが頷く。


「それでいい」


「六なら、今日はもう森のことを調べない方がいいんじゃない?」


 ユウが言う。


「考えない、というのは難しいです」


「じゃあ調べない」


「それならできます」


「紙も?」


 少女は見張り場所の方角を見る。


 記録は必要だ。


 ただし、自分が書かなければならないわけではない。


「ケルさん、お願いできますか?」


「ああ」


 少女は頷いた。


「では、私は行きません」


 口にすると、少しだけ肩が軽くなった。


 情報は聞いた。


 怖いと伝えた。


 記録は確認した人に任せる。


 今、自分がさらに何かをする必要はない。


「それ、何持ってんの?」


 ユウが少女の腕の中を見る。


「練習した木です」


「鑿?」


「はい」


「今日やったんだ」


「少しだけ。手が疲れる前にやめました」


「ちゃんとやめられたんだ」


「その言い方は失礼ではありませんか?」


「前だったら、もう一回ってやりそうだったから」


 少女は反論しようとして、やめた。


「……そうですね」


 自分でもそう思う。


 ケルとドランは見張り場所へ向かった。


 ユウも一緒に行こうとしたが、少女はその袖の泥をもう一度見た。


「ユウさん」


「ん?」


「今日は、なぜ一緒に行ったのですか?」


「ああ。雨で外側の境界壁も一部見ときたかったから」


「魔法の確認ですか?」


「うん。雨そのものでは壊れてない。流れた土が一か所寄ってたから、そこだけベルさんたちに見てもらう」


「魔法で直さないのですか?」


「土の流れの方を先に変えた方がいいかも。壁だけ直しても、また溜まるし」


 少女はなるほどと頷いた。


「では、ベルさんへ?」


「これから話す」


「私も行ってよいですか?」


 言ってから、少女は考え直した。


 森の話から離れると決めたばかりだ。土の流れと境界壁の補修は森の獣そのものとは別だが、今の自分がついていく理由は何だろう。


「……いえ」


「行かない?」


「はい。今、怖さが六だと言ったばかりなので、今日は森に関係することから少し離れます」


「そっか」


「ベルさんへ伝えるのは、ユウさんに任せます」


「了解」


 少女は頷いた。


 そのまま別れようとして、ユウの袖を見る。


「それと、帰ったら服を払った方がよいです」


「泥?」


「はい」


「これくらいなら乾いてからでいいかな」


「では、乾いてから」


 少女は言ってから、自分がまた世話を焼いていることに気づいた。


 ユウも気づいたのか、少しだけ笑う。


「何ですか?」


「いや、何でもない」


「昨日も同じことを言いました」


「言ったっけ」


「言いました」


 少女は少し睨んだ。


 それでも、胸の奥の怖さがほんの少し下がった気がした。


 ユウが無事に戻ってきた。


 ケルもドランもいる。


 今すぐ何かが村へ来ているわけではない。


 それだけ確認できれば、今は十分だった。


 少女はマーサの家へ戻った。


「ただいま戻りました」


「おかえり」


 台所から返ってきた声に、肩が緩む。


 マーサは青菜を選り分けていた。


「何かあったかい?」


「森で、獣らしい足跡が二つ見つかったそうです」


 マーサの手が一瞬止まる。


「近いのかい?」


「外の警戒線からは離れています。警戒線の反応もありません。同じ獣かどうかも、二頭いるのかも分かりません」


「そうかい」


「私は少し怖くなったので、今日はもう調べません。見張り帳への記録もケルさんにお願いしました」


 マーサが少女を見る。


「そうしな」


 少女はそこで息を吐いた。


「何か、温かいものを飲んでもよいですか?」


「自分で入れな」


「はい」


 以前なら、怖さを感じた後に休むことへ罪悪感があったかもしれない。


 今は湯を沸かす。


 自分のために。


 少女は小鍋へ水を入れ、竈へ掛けた。沸くまでの間、棚から乾燥させた香草を少し取る。


「それ多いよ」


 マーサが言った。


 少女の手が止まる。


「このくらい?」


「半分」


「はい」


 戻す。


 湯が沸き、香草を入れる。


 しばらく待つと、柔らかな香りが立った。


 少女は椅子へ座り、両手で器を包む。


 温かい。


 指先から少しずつ力が抜けていく。


「怖い時に温かいものを飲むのは、よいですね」


「そうかい?」


「はい」


「なら覚えときな」


 少女は一口飲んだ。


 少し苦い。


 香草を減らしても、思っていたより味が強い。


「……少し苦いです」


「次はもっと減らしな」


「はい」


 失敗ではない。


 飲める。


 次に変えればよい。


 少女はゆっくり飲んだ。


 しばらくすると、怖さは六から五くらいまで下がっていた。完全に消えるわけではないが、それでよい。


「マーサさん」


「何だい?」


「怖いまま、別のことをしてもよいのですよね」


「何で駄目なんだい?」


「以前は、問題がある時に別のことをするのは、逃げているような気がしていました」


「お前さんが森へ行ったところで、足跡が消えるのかい?」


「消えません」


「じゃあ飯のことでも考えな」


 少女は笑った。


「今日の夕食ですか?」


「鶏、まだ残ってるよ」


「では、それを教えてください」


「昨日も食べただろ」


「昨日はマーサさんがほとんど作りました。今日は私ももう少しやりたいです」


「いいよ」


 そうして、午後の一部は夕食の下ごしらえになった。


 鶏肉を一口大に切る。


 少女は包丁を握り、マーサが最初に見本を見せるのをじっと見た。


「大きさは同じでなくてもよいのですよね」


「火の通りがあんまり違うほどじゃなきゃね」


「では、ある程度は揃える」


「そう」


 何でも不揃いでよいわけではない。必要な理由がある時は揃える。


 少女はそれを面白いと思った。


 一切れ目は少し大きい。


 二切れ目は小さい。


 三切れ目で、だいたいの大きさが分かってきた。


「これくらいでしょうか」


「いいんじゃない?」


「マーサさんのものより少し大きいです」


「煮る時間長くすりゃいい」


「途中で一つ切って確認しても?」


「いいよ」


 少女は頷いた。


 昨日の朝に聞いた「途中で見る」が、ここでも使える。


 調味料を入れる時は、最初から濃くしすぎないよう教わった。


「足せるけど、取れないからね」


「木と似ていますね」


「木?」


「鑿です。削りすぎたところは戻せないので」


「ああ」


「でも、料理は水を足せば少し薄くできますか?」


「できるけど、増えるよ」


 少女は鍋を見る。


「それは困りますね」


「二人で食えなくなったらユウに持ってきゃいい」


「なぜユウさんなのです?」


「近いから」


「……そうですね」


 それだけの理由だ。


 なのに少女は、少しだけ嬉しくなった。


 鍋を火へ掛けるところまで終えた頃、外から子どもの声がした。


「マーサばあちゃーん!」


「いるよ!」


 マーサが大きな声で返す。


 ベルの孫が玄関から顔を出した。


「ユウ兄ちゃんいる?」


「ここにはいないよ」


「そっか」


「どうしたのですか?」


 少女が尋ねる。


「これ!」


 子どもが持ち上げたのは、小さな木の板だった。端に穴があり、紐が通されている。


「何ですか?」


「見張り帳の札!」


 少女は瞬きをした。


「札?」


「じいちゃんが作った!」


 板には少し歪んだ文字で『見張り帳』と彫られている。


 少女は思わず近づいた。


「もう作ったのですか?」


「じいちゃんが、紙の名前決まったって!」


「まだ試用です」


「しよう?」


「試している途中ということです」


「じゃあ使えないの?」


「いえ……」


 少女は札を見る。


 ベルが彫ったにしては文字が少し不揃いだ。


「これは、ベルさんが全部?」


「ぼくもやった!」


「あなたも?」


「ここ!」


 子どもが指したのは最後の文字の端だった。線が一本だけ少し深い。


「じいちゃんが押さえて、ぼくが叩いた!」


「そうだったのですね」


 少女は指先で文字の溝をなぞらないよう、近くから眺めた。


 試用なのに。


 まだ変えるかもしれないのに。


 札までできてしまった。


「変だった?」


 子どもが不安そうに尋ねる。


 少女は顔を上げた。


「いいえ。とても分かりやすいです」


「ほんと?」


「はい」


 子どもの顔が明るくなる。


「つけてくる!」


「あ、待ってください」


 少女は呼び止めた。


「一人で見張り場所まで行くのですか?」


「うん!」


「今日は森で確認があったので……」


 そこまで言って、少女は止まる。


 自分が決めることではない。


「マーサさん」


「中央の見張り棚だろ? 村の中だよ」


「では、大丈夫ですか?」


「一人が気になるなら一緒に行けば?」


 少女は少し考えた。


 森のことから離れると言った。


 だが、見張り棚は村の中にある。怖さも今は五くらいまで下がっている。


「行きたいです」


 自分の気持ちを確認して答えた。


「では、一緒に行きます」


「やった!」


 子どもが先に走り出そうとする。


「走ると滑ります!」


「もう乾いてるよ!」


「まだ日陰は濡れています!」


 少女は慌てて後を追い、玄関を出た。


 途中で本当に日陰の泥へ足を取られかけた子どもが速度を落とし、少女は少し得意げになる。


「ほら」


「転んでないもん」


「転ぶ前にゆっくり歩くのです」


「ユウ兄ちゃんみたい」


「え?」


「前も言ってた!」


 少女は少し笑った。


「では、ユウさんが正しいです」


「えー」


「なぜ嫌そうなのです?」


 二人で話しながら見張り場所へ着く。


 棚には新しい記録が増えていた。


 少女は先にそれを読みそうになったが、今日は読まないと決めたことを思い出す。内容はケルから既に聞いているので、細部を今確認する必要はない。


「どこにつける?」


 子どもが札を持ち上げる。


 少女は棚を見る。


「私が決めてよいのでしょうか」


「じいちゃん、見えるとこって」


「では……ここ?」


 棚の横なら、紙を取る時に見える。ただ、雨が当たりやすそうだ。


「屋根の下の方がよいですね」


「ここ?」


「そこなら濡れにくいと思います」


 子どもが紐を棚の横木へ通す。


 結び方がうまくいかず、何度かやり直した。


「手伝いましょうか?」


「できる!」


「では、見ています」


 少女は手を出さなかった。


 一度目はほどけた。


 二度目は輪が大きすぎた。


 三度目で、ようやく札が下がった。


『見張り帳』


 少し傾いている。


「できた!」


「はい」


「曲がってる?」


「少し」


「直す?」


 少女は札を見る。


 文字は読める。


 落ちそうでもない。


「今日は、このままでよいと思います」


「うん!」


 子どもは満足そうだった。


 少女も、その少し傾いた札を眺めた。


 試用中。


 名前も、必要なら変えてよい。


 なのに、形になってしまったことを不安には思わなかった。


 変える時は、札も変えればよい。


 今はこれで使う。


 それだけだ。


「何してんの?」


 聞き慣れた声がして、少女は振り返った。


 ユウが歩いてくる。


「ユウ兄ちゃん!」


「お、何それ」


「見張り帳!」


 子どもが誇らしげに札を指す。


 ユウは近づき、少し傾いた板を見る。


「いいじゃん」


「ぼくも作った!」


「すごいじゃん」


 子どもはさらに嬉しそうになる。


 少女はそのやり取りを見ながら笑った。


「少女も手伝った?」


「私は場所を少し考えただけです。結んだのはこの子です」


「そっか」


 ユウが札を軽く確認する。


「ちゃんとついてる」


「三回やった!」


「三回?」


「二回失敗した!」


「じゃあ三回目で成功だね」


「うん!」


 子どもは嬉しそうに頷いた。


 少女はその横顔を見る。


 失敗した回数を隠さない。むしろ三回やったことを誇っている。


 それが少し眩しかった。


「ユウさん」


「ん?」


「ベルさんのところは終わったのですか?」


「話だけ。明日、土の流れ見るって」


「今日は直さない?」


「地面まだ柔らかいし。急ぐほどじゃないから」


「そうですか」


 少女は安心した。


 森の足跡も。


 境界壁の周りの土も。


 今日中に全部何とかしようとはしていない。


「怖さ、どう?」


 ユウが尋ねた。


 少女は少し考える。


「今は四くらいです」


「下がったね」


「温かいものを飲んで、料理をして、この札をつけに来ました。森のことを考えなかったわけではありませんが、ずっと考え続けなくてもよいみたいです」


「うん」


 ユウはそれ以上何も言わなかった。


 少女は少し迷ってから、今朝マーサと話したことを思い出す。


「一つ、聞いてもよいですか?」


「いいよ」


「ユウさんは、どうしてこの村を選んだのですか?」


 ユウが少し目を瞬いた。


「急だね」


「今朝、マーサさんと話していて気になりました」


 子どもは二人の会話に興味を失ったのか、札を揺らさない程度に指で触っている。


 ユウは村の家々へ目を向けた。


「最初は、静かそうだったからかな」


「それだけですか?」


「あと、人が少なかった」


「人が少ない方がよかった?」


「うん。もう大勢に期待されたくなかったし」


 少女は黙って聞いた。


「王都に近いところだと、魔法が使えるって分かったら色々頼まれそうだったから。ここなら、そんなに大きなこと起きないかなって」


「……起きていますね」


 少女は東の森を見る。


「起きてるね」


 ユウが苦笑した。


「獣が来て、警戒線を作って、王都からも人が来て」


「予定と違う」


「私も来ました」


 口にしてから、少女は少しだけ声を落とした。


「それも、予定と違いましたか?」


「そりゃね」


「……迷惑でしたか?」


 聞くつもりはなかった。


 けれど、言葉が出た。


 ユウはすぐに答えなかった。


 その短い間に、少女の胸が少し固くなる。


「最初の日は、迷惑とか考える前に大丈夫かなって思った」


「私が?」


「うん。歩くのもしんどそうだったし」


「では、今は?」


 少女はユウを見る。


 聞いてから、答えを求めすぎているような気がして少し怖くなった。


 ユウは村の方へ視線を戻した。


「今は、いても普通になった」


「普通……」


「朝歩いてたり、マーサさんのところにいたり、ベルさんに教わってたり。いない方が、あれってなると思う」


 少女は何も言えなかった。


 特別だと言われたわけではない。


 むしろ「普通」だ。


 それなのに、その言葉は胸の奥へゆっくり染み込んだ。


 ここにいる自分が、珍しい客ではなくなりつつある。


 追放された令嬢でも、王太子の元婚約者でもなく。


 朝になれば村を歩いている人。


「……それは」


 少女は一度息を吸った。


「嬉しいです」


「そっか」


「はい」


 それ以上は言えなかった。


 今は、それで十分だった。


 子どもが突然二人の間へ顔を出す。


「ユウ兄ちゃん! これ曲がってる?」


「ちょっと」


「直した方がいい?」


「読めるからいいんじゃない?」


「少女もそう言った!」


「じゃあいいね」


「うん!」


 大人二人の間にあった少し静かな空気が、あっさり壊れた。


 少女はほっとしたような、少し惜しいような、自分でもよく分からない気持ちで笑った。


 夕方。


 少女はマーサと一緒に鶏肉の鍋を仕上げた。


 途中で一つ取り出し、切って火の通りを確認する。中心まで色が変わっていたので、それ以上長く煮すぎないよう火を弱めた。


「どうですか?」


 少女が尋ねる。


 マーサが一口食べる。


「ちょっと薄い」


 少女も味を見る。


「本当ですね」


「足す?」


「少しだけ」


 塩を入れる。


 混ぜる。


 もう一度味を見る。


「今度は?」


「いいんじゃない?」


 少女は自分でも食べてみた。


 昨日のマーサの味とは少し違う。


 けれど、おいしい。


「これなら、食べられます」


「食べられるどころか普通にうまいよ」


 少女の手が止まった。


「本当ですか?」


「嘘言ってどうすんだい」


 胸が温かくなる。


 けれど、以前のように「できた」と証明されたことだけが嬉しいのではなかった。


 途中で味を見た。


 薄かった。


 足した。


 それでおいしくなった。


 その過程ごと、自分でやれたことが嬉しい。


「ユウさんにも少し――」


 言いかけて、少女は止まった。


 マーサが見る。


「何だい?」


「いえ」


「持ってくかい?」


「……ユウさんも鶏料理が好きなので」


「なら持ってきな」


「でも、ユウさんも昨日の鶏肉があります」


「いらなきゃ、いらないって言うだろ」


 少女は少し考えた。


 食べてほしい。


 自分が作ったものを。


 その気持ちに気づいた途端、少し恥ずかしくなる。


「少しだけ、持っていってもよいですか?」


「好きにしな」


 マーサは何でもないように器を出した。


 少女は鍋から鶏肉と青菜を少しだけよそう。


 多すぎない。


 一食分にもならないくらい。


 味見をしてもらう程度だ。


「行ってきます」


「暗くなる前に帰っといで」


「はい」


 器へ蓋をし、布で包む。


 少女は外へ出た。


 夕方の村は雨上がりの湿り気をまだ残していたが、西の空には薄い赤が広がっている。


 ユウの家へ向かう。


 歩きながら、何と言って渡すか考える。


 マーサと作りました。


 私も切りました。


 味を見て、塩を足しました。


 鶏料理が好きだと言っていたので。


 そこまで考えてから、最後の一つは言わなくてもよい気がした。


 家の前へ着く。


 戸を叩く。


「はーい」


 中からユウの声がした。


 戸が開く。


「どうしたの?」


「これを」


 少女は包みを差し出した。


「何?」


「鶏肉と青菜を煮たものです」


「おお」


「マーサさんと作りました」


「ありがとう」


 ユウが受け取ろうとする。


 少女は少しだけ器を離さなかった。


「……私も、かなり作りました」


 ユウが少女を見る。


「そっか」


「途中で味が薄かったので、塩を足しました」


「うん」


「マーサさんは、おいしいと言いました」


「じゃあ楽しみ」


 ユウが笑った。


 少女はようやく器を渡した。


「鶏料理が好きだと聞いたので」


 結局、言った。


 言った瞬間、頬が少し熱くなる。


「覚えてたんだ」


「昨日も同じことを言いました」


「あ、そうだった」


「忘れたのですか?」


「いや、忘れてない」


「では、なぜ同じことを?」


「なんか、また覚えててくれたなと思って」


 少女は返事に困った。


 覚えている。


 忘れようとも思わなかった。


「……食べたら、感想を聞かせてください」


「分かった」


「おいしくなかった場合も、本当のことを」


「分かった」


「気を遣わなくてよいです」


「分かったって」


 ユウが笑う。


 少女も少し笑った。


「では、帰ります」


「うん。暗くなるから気をつけて」


「はい」


 数歩離れてから、少女は振り返った。


 ユウはまだ戸口にいた。


「ユウさん」


「ん?」


「今朝の答え、ありがとうございました」


「村を選んだ理由?」


「それもです」


 少女は少し迷った。


「私がいることが、普通になったという方も」


 ユウの表情が少し柔らかくなる。


「うん」


「おやすみなさい」


「おやすみ」


 今度こそ少女は歩き出した。


 マーサの家へ戻る道は、まだ完全には暗くない。道端の水溜まりが夕空を映している。


 東の森には、まだ分からないことがある。


 獣らしい足跡が二つ。


 同じ個体か、別の個体か。


 以前の獣と同じなのか。


 西へ向いていた一つの跡が、どこへ続いているのか。


 明日、ケルたちがもう一度確認する。


 それを考えると、怖さはまだ四くらいある。


 けれど、その怖さだけで一日が埋まることはなかった。


 石鹸を触った。


 鑿を使った。


 鶏肉を切った。


 子どもと一緒に少し傾いた札をつけた。


 ユウと話した。


 料理を渡した。


 どれも、森の答えが出るまで待たなくてもできることだった。


 夜、自室へ戻った少女は、机の紙へ今日のことを書いた。


『見張り帳の札がついた。少し曲がっている』


 その後へ、森で見つかった痕跡について書こうとして、少女は炭筆を止めた。


 詳しい内容は見張り帳へケルが書いている。


 自分の紙へすべて写す必要はない。


『森で獣らしい足跡。詳しいことは見張り帳にある』


 それだけ書いた。


 次に、今日一番胸へ残っている言葉を書こうとして、また手が止まる。


『今は、いても普通になった』


 ユウの言葉。


 そのまま書くと、何度見ても思い出しそうだった。


 少女はしばらく迷い、それでも書いた。


『ユウさんに、私が村にいることは普通になったと言われた』


 その下へ何かを書こうとして、やめる。


 嬉しかった。


 それはもう、自分で分かっている。


 さらに別の紙へ目を向ける。


『ユウさんは、鶏料理が好き』


 そこへ今日のことを書き足そうかと思ったが、それもやめた。


 料理を渡したことまで記録する必要はない気がした。


 記録しなくても、覚えていたい。


 そんなことがあるのだと気づく。


 少女は炭筆を置いた。


 窓の外では、雨雲が去った夜空にいくつか星が見えている。


 西へ送った手紙の返事は、まだ遠い。


 森の答えも出ていない。


 それでも今日、自分の暮らしは昨日より少しだけ増えた。


 何かが解決したからではない。


 待っているあいだに、自分で選んだ時間が一つずつ積み重なっているからだった。


 少女は灯りを落とした。


 明日の朝、森に新しい跡があるかもしれない。


 何もないかもしれない。


 どちらであっても、朝になってから聞けばいい。


 今夜はそれより、ユウがあの料理をどう思ったのかが少し気になった。


 少女は掛け布を引き上げながら、そのことに自分で気づいて小さく笑った。


「……明日、聞けばいいですね」


 答えを急ぐ必要はなかった。


 森のことも、家のことも、そして自分の胸の中で少しずつ増えている、まだ名前のないものについても。

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