第5話 いつもの一日
昨日、魔法の練習で人の背丈ほどある岩を吹き飛ばしてしまった翌朝、俺が最初にやったことは反省でも訓練でもなかった。
台所の机に並んだ芋を見ながら、今日の朝飯をどうするか考えていた。
「焼くか、煮るか……」
芋はベル爺さんからもらったものがまだ残っている。葉野菜もあるし、卵もあるので、別に困るほど選択肢が少ないわけではない。
むしろ最近は、食べ物が増えすぎて困ることの方が多かった。
誰かの家へ手伝いに行けば何か持たされる。
畑の前を通れば野菜を渡される。
何もしていない日でも、玄関へ籠が置かれていることがある。
昨日なんて夕方に家へ戻ったら、小さな瓶に入った蜂蜜のようなものが置いてあった。
誰が持ってきたのかは分からない。
でもこの村の場合、数日以内に本人が普通に、
「あれ食ったか?」
と聞いてくるだろう。
「……焼こう」
考えた末、芋を薄く切る。
赤い魔導書を呼び出して火をつけてもいいのだが、昨日の岩の件が頭へ浮かび、俺は一瞬だけ手を止めた。
もちろん《微熱》と《火弾》は別の魔法だ。
《微熱》を使ったところで家が吹き飛ぶわけではない。
それでも、火の魔導書を見る目が昨日までとは少し変わっている。
「お前、本当はかなり危ないんだな」
誰もいない台所で本へ話しかける。
当然、返事はない。
俺は《微熱》だけを使い、竈へ火をつけた。
炎は普通に薪へ移り、何事もなく燃え始める。
「……よし」
自分で確認してから鍋を置く。
何を警戒しているんだろうと思わなくもないが、昨日のようなことをもう一度やるよりはいい。
芋を軽く焼き、卵を落とす。
塩を少し振る。
それだけの簡単な朝食だった。
窓を開けると、朝の空気が入ってくる。
遠くで鶏が鳴いている。
誰かが薪を割る音も聞こえる。
昨日までと何も変わらない朝だった。
魔法で岩を一つ消し飛ばしたからといって、この村の生活が変わるわけではない。
たぶん今日も、誰かが腰が痛いとか、桶が壊れたとか、戸が閉まらないとか言ってくる。
それでいい。
俺は焼いた芋を口へ運びながら、今日の予定を考える。
まず畑。
昨日ガルド爺さんに頼まれた岩も見なければならない。
その後は何も決めていない。
予定がないなら、その時に考えればいい。
そう思っていた。
「ユウー!」
外から声がした。
「ほら来た」
思わず笑う。
まだ朝飯も終わっていない。
窓から顔を出すと、ガルド爺さんが道の向こうで手を振っている。
「今日、岩どかしてくれるんじゃろ!」
「朝一番からそれ!?」
「昨日約束しただろ!」
「したけど、せめて飯食わせてよ!」
「食ってからでいいぞ!」
「じゃあなんで今呼んだんだよ!」
「忘れられたら困る!」
七十四歳とは思えない声量だった。
俺はため息をつきながら窓を閉める。
忘れるつもりはない。
でも、朝から念押しされるとは思わなかった。
「……この村、俺より予定管理しっかりしてる人多いな」
残りの朝食を食べる。
急がない。
別にガルド爺さんも「今すぐ来い」とは言っていない。
前なら、呼ばれた瞬間に食事を中断していたかもしれない。
でも今は、食べ終わってから行く。
それでいい。
◇
朝食を終えて畑へ向かうと、ガルド爺さんは既に待っていた。
待っていたというより、自分の畑仕事をしながらこちらを何度も見ていた。
「そんなに岩邪魔だったの?」
「去年から邪魔じゃった」
「一年我慢できたなら今日じゃなくてもよくない?」
「お前が昨日できると言ったから、今日邪魔になった」
「そういうものなの?」
「そういうもんじゃ」
言い切られた。
俺は畑の端へ視線を向ける。
そこには大きな岩が半分ほど地面へ埋まっている。
昨日吹き飛ばしたものより少し小さい。
「これ?」
「そうじゃ。毎年ここだけ耕せん」
「掘り出した方がいいよね。吹き飛ばすのはやめとこう」
「別に昨日みたいにやれば早いだろ」
「畑ごと消えたらどうすんの」
冗談ではない。
少なくとも今の俺には、どれくらい出力を落とせば安全なのか完全には分からない。
土魔法なら扱い慣れている。
岩の周囲を少しずつ掘り、下へ土を滑り込ませて持ち上げる方がいい。
《魔導書庫》を呼び、茶色い魔導書を開く。
「周り離れててね」
「俺も?」
「爺さんが一番離れて」
「なんでじゃ」
「近づくから」
ガルド爺さんは不満そうだったが、言われた通り数歩下がった。
俺は岩の周囲へ魔力を流す。
まず土を柔らかくする。
根が巻き込まれていないか確認する。
畑の土を必要以上に崩さないよう範囲を狭め、岩の下だけを少しずつ押し上げる。
「《土成形》」
地面が静かに動く。
昨日のような爆発はない。
岩がゆっくりと持ち上がり、土の中から全体が姿を現す。
思ったより大きかった。
地上に出ていた部分は三分の一くらいしかなかったらしい。
「でか」
「だから邪魔だったんじゃ」
「これ、人力じゃかなり大変だっただろうね」
「昔は皆で掘ろうとしたんだが、途中で面倒になった」
「一年放置した理由それ?」
ガルド爺さんが笑う。
俺は岩を少し離れた場所へ移動させる。
空いた穴を土で埋め、周囲と同じ高さに整える。
「これでどう?」
「おお、広いな」
「今まで岩だったところ、急に畑にすると土の状態違うかもしれないよ」
「そこは俺がやる」
即答だった。
俺は少し嬉しくなる。
魔法で全部整えることもできる。
土質を変える術も、たぶん灰色の本を組み合わせればできる。
でも、ガルド爺さんが自分でやると言うなら、それでいい。
「じゃあ任せる」
「当たり前じゃ。俺の畑だからな」
「腰だけは気をつけてよ」
「まだ七十四じゃ!」
「七十四は十分気をつける年齢だから!」
昨日から何度似たようなやり取りをしているのだろう。
俺が笑っていると、ガルド爺さんは岩のあった場所へ鍬を入れ始めた。
動きは慣れている。
確かにまだ元気だ。
俺が心配しすぎなのかもしれない。
でも、心配する癖はそう簡単には抜けない。
「ユウ、お前も畑やるんだろ?」
「うん。昨日あんまりできなかったから」
「なら先に草抜け。あそこ伸びとるぞ」
「分かってるよ」
「水は昼前くらいでいい」
「はいはい」
「返事が雑じゃ」
「俺の畑なのに爺さんの方が詳しいんだもん」
実際その通りだった。
俺の畑なのに、俺よりガルド爺さんや他の老人たちの方が状態を把握している。
いつ種を蒔いた。
いつ水をやった。
どこに虫がついていた。
俺が覚えていないことまで覚えている。
最初は少し情けなかった。
今は、別にそれでもいいと思う。
知らないなら聞けばいい。
教えてもらえばいい。
俺に魔法があるからといって、何でも知っているわけではない。
◇
自分の畑へ移動し、草を抜く。
地味だ。
魔法なら一瞬で終わる。
草だけを選んで抜く術も、探せばあるかもしれない。
でも今日は手でやる。
地面へしゃがみ、葉の形を見ながら必要なものと雑草を分ける。
最初の頃は何度か作物まで抜いた。
その度にガルド爺さんから笑われた。
今ではだいぶ分かる。
「……これ、どっちだ?」
ただし、全部ではない。
一つだけ似た葉がある。
抜こうか迷っていると、背後から声がした。
「それ抜いたら怒るぞ」
振り返る。
ローデンだった。
「作物?」
「作物だ」
「危なかった」
「お前、昨日魔法で岩消した奴とは思えんな」
「魔法と草の見分け方は別でしょ」
「それもそうか」
ローデンは笑いながら畑の端へ腰を下ろした。
「何か用?」
「いや、通りかかっただけだ」
「この村、通りかかった人がよく立ち止まるよね」
「人が少ないからな。見知った顔がいたら話すだろ」
確かに。
町なら、道で知り合いを見つけても急いでいれば軽く挨拶するだけかもしれない。
ここでは急いでいる人が少ない。
だから皆止まる。
「昨日の爆発、森の方まで鳥が逃げたらしいぞ」
「やっぱり?」
「夕方には戻ってたから問題ない」
「よかった」
「何を試したんだ?」
「火の魔法。弱めたつもりだった」
「弱めてあれか」
「そう」
ローデンは少し黙り、それから俺を見る。
「危ない力なんだな」
昨日までとは違う言い方だった。
俺は草を抜く手を止める。
「たぶんね」
「怖いか?」
「自分で?」
「ああ」
少し考える。
怖くないと言えば嘘になる。
もし昨日、人がいたら。
もし村の近くで同じことをしていたら。
想像すると背中が冷たくなる。
「扱い間違えるのは怖い。でも、持ってること自体はまだよく分からないかな」
「そうか」
「町では、とんでもない力だから王都へ行けって言われた」
「行きたいのか?」
「全然」
「なら行かなくていいだろ」
簡単だった。
またそれだ。
この村の人たちは、何でも簡単に言う。
でも、その簡単さに助けられている。
「国に必要だとか言われたら?」
「国が困ってるなら国の人間が考えるだろ」
「俺にしかできないことだったら?」
「その時になってから考えればいい」
「……それでいいのかな」
「今、何か起きてるのか?」
「起きてない」
「じゃあ畑やれ」
俺は笑った。
「はい」
「あとその草は抜いていい」
「これは?」
「それは駄目」
「分からん」
「覚えろ」
ローデンは楽しそうに笑い、そのまま道を歩いていった。
俺は再び草へ視線を戻す。
世界がどうとか。
国がどうとか。
今は考えなくていい。
目の前の草を抜く。
それで十分だ。
◇
昼前になると、日差しが強くなった。
背中に汗を感じたところで、俺は作業をやめる。
まだ続けられる。
でも、今日は暑い。
喉も乾いた。
「休憩」
声に出して宣言する。
誰も聞いていない。
それでも、こうして言うと仕事を止めやすい気がする。
木陰へ移動し、水を飲む。
座る。
風が気持ちいい。
畑の向こうではガルド爺さんがまだ働いている。
「爺さんも休みなよ!」
声をかける。
「もう少しやったらな!」
「その『もう少し』信用できないんだけど!」
「お前は自分の心配しとれ!」
元気だ。
本当に元気だ。
でも、十分ほどするとガルド爺さんも木陰へ来た。
「ほら、休んだぞ」
「偉い」
「子供扱いするな」
「休める人は偉いんだよ」
「変なこと言うな」
ガルド爺さんが隣へ座る。
少し離れた場所から、マーサ婆ちゃんも歩いてきた。
手に籠を持っている。
「また何か持ってきた?」
「昼飯だよ」
「俺の?」
「三人分」
「なんで?」
「作りすぎたから」
いつもの理由だった。
籠の中にはパンと、豆を潰して焼いたようなものが入っている。
「家で食べなくていいの?」
「天気がいいから外で食べようと思ってね。あんたらがいるの見えたから持ってきた」
「俺たちがいなかったら?」
「一人で食べる」
「自由だなあ」
「年取ると好きに生きないと損だからね」
マーサ婆ちゃんはそう言いながら地面へ布を敷いた。
俺とガルド爺さんもそこへ移動する。
昼飯は簡単だった。
でも、外で食べると妙にうまい。
「ユウ、昨日の魔法の音、うちまで聞こえたよ」
「その話、もういいじゃん」
「家が壊れたかと思った」
「ごめん」
「次やる時は教えな。洗濯物取り込むから」
「そこ!?」
ガルド爺さんが笑う。
「マーサは魔法より洗濯物の心配か」
「土埃ついたらまた洗うことになるだろ。面倒じゃないか」
「合理的だけどさ……」
俺は笑いながらパンを食べる。
こういう反応を見るたび、少し安心する。
力を怖がられていない。
利用しようともされていない。
ただ、迷惑をかけるなら事前に言えという程度だ。
「そういえばユウ」
「何?」
「明後日、村の東側の道を直すぞ」
ガルド爺さんが言う。
「道?」
「雨で少し削れとる。荷車が通りにくい」
「魔法で直す?」
「いや」
「じゃあ何するの?」
「皆で土運ぶ」
少し意外だった。
「俺がやれば早いよ?」
「早いけど、お前だけでやる必要ないだろ」
「でも土魔法なら数分で……」
「便利なのは分かる。でも、俺たちも身体動かさんと鈍る」
昨日ローデンにも似たことを言われた。
マーサ婆ちゃんも頷いている。
「それに、道直しは皆でやると昼飯が豪華になる」
「目的そっちじゃない?」
「半分はな」
ガルド爺さんが笑う。
俺も笑う。
「じゃあ俺も参加する」
「魔法は最後に使え。人力でどうにもならんところだけ頼む」
「了解」
「あと若いんだから重い物は持て」
「結局使われるじゃん!」
「当然じゃ」
こういう扱いが嫌ではない。
魔法使いとして特別扱いされるより、若いから重い物を持てと言われる方がずっと楽だった。
◇
昼飯の後、俺は本当に昼寝をした。
畑の木陰。
背中へ草の感触がある。
頭の下には丸めた上着。
最初は少し休むだけのつもりだった。
でも、風が気持ちよくて目を閉じる。
鳥の声。
遠くの話し声。
鍬が土へ入る音。
全部が遠くなる。
気づけば眠っていた。
◇
「ユウ兄ちゃん」
肩を軽く叩かれて目を覚ます。
反射的に身体を起こしかけ、すぐにここが畑だと思い出す。
「……何時?」
「知らない」
目の前にベル爺さんの孫がいた。
子供に時間を聞いた俺が悪かった。
「何かあった?」
「ないよ」
「じゃあなんで起こしたの」
「寝てるから」
「寝てたら起こすの?」
「暇だったから」
「ひどくない?」
少年が笑う。
俺は上半身だけ起こし、周囲を見る。
日差しの角度が変わっている。
一時間以上寝ていたかもしれない。
「ユウ兄ちゃん、昼間から寝るんだね」
「眠かったからね」
「大人なのに?」
「大人でも眠い時は眠いよ」
「父ちゃんは昼間寝たら怠け者って言うよ」
「仕事ある人はそうかもしれないけど、俺は今日急ぎの仕事ないし」
「じゃあずっと寝ててもいいの?」
「それは腰痛くなりそうだから嫌だな」
少年は少し考え、それから隣へ座った。
「俺も寝ていい?」
「家の人に怒られない?」
「今日は手伝い終わった」
「じゃあいいんじゃない?」
二人で木にもたれる。
少年は数分もしないうちに飽きたらしい。
「暇」
「昼寝ってそういうものだよ」
「何かしようよ」
「俺、今起きたばっかりなんだけど」
「魔法見せて」
「昨日危ないって分かったばっかりだから嫌」
「小さいやつ!」
「何がいい?」
「水」
それくらいなら問題ない。
俺は青い魔導書を呼び出し、指先に小さな水球を作る。
拳より少し小さい。
「触っていい?」
「ゆっくりね」
少年が指先で触れる。
水球が形を変える。
「冷たい!」
「水だからね」
「飛ばして!」
「人には飛ばさないよ」
「あの木!」
「木ならいいか」
軽く意識を向ける。
水球が飛び、近くの木の幹へ当たって弾ける。
ただそれだけ。
少年は大喜びしている。
「もう一回!」
「あと一回だけね」
「三回!」
「一回」
「二回!」
「交渉うまくなってるな」
結局二回やった。
世界を揺るがすかもしれない魔導書で、子供と水遊び。
昨日の《火弾》より、俺にはこっちの方がいい。
◇
午後は、特に何も起きなかった。
畑の残りを少しやる。
途中でサナ婆さんに呼ばれて、昨日作った石鹸の様子を見に行く。
まだ固まっていない。
触るなと言われたので見るだけだった。
「明日には使える?」
「まだだよ。もう少し待ちな」
「意外と時間かかるんだね」
「何でもすぐできると思うんじゃないよ」
「魔法に慣れすぎたかな」
「待つ時間も大事なんだよ」
サナ婆さんはそう言いながら、昨日の鍋を洗っている。
「明日使いたいなら買えばいい。でも自分で作るなら待つ。どっちでもいいんだよ」
「どっちでもいい、か」
「好きな方にしな」
俺は頷く。
この世界へ来てから、その言葉をよく聞く気がする。
どっちでもいい。
好きにしろ。
疲れたら休め。
急がなくていい。
前の世界では、何かを選ぶ時に正解を探していた。
仕事を続けるべきか。
辞めるべきか。
休むべきか。
頑張るべきか。
間違えたくなかった。
でも今は、正解が一つじゃないことを少しずつ受け入れられる。
「じゃあ固まるまで待つよ」
「そうしな。できたら一つやる」
「またもらうの?」
「灰出しただろ」
「それだけじゃん」
「いいんだよ」
サナ婆さんが笑う。
俺も笑う。
◇
日が傾き始める頃、俺は自宅へ戻った。
今日は大きなことを何もしていない。
畑の岩を一つ動かした。
草を抜いた。
昼飯をもらった。
昼寝をした。
子供と水遊びをした。
石鹸を見に行った。
本当にそれだけだった。
それでも一日は終わる。
前の世界では、一日が終わる時に何をしたか考えると、仕事の数が並んだ。
何人介助した。
何件記録した。
何件コールへ行った。
何時まで残業した。
今日どれだけ動いたかで、一日を測っていた気がする。
ここでは違う。
何もしていない時間も一日の中に入っている。
昼寝した一時間も。
木陰で風を感じていた時間も。
子供が水球を触って笑っていた時間も。
全部同じ一日だ。
「……悪くないな」
玄関を開けようとした時、足元に何かあることへ気づく。
籠だった。
「また?」
中を見る。
小さな魚が数匹。
横には葉に包まれた塩。
誰が置いた。
周囲を見る。
誰もいない。
「せめて名前書いてよ……」
紙が貴重なのだから仕方ない。
俺は籠を持って家へ入る。
夕飯は魚に決まった。
竈へ火を入れ、塩を振って焼く。
昨日なら少し警戒した赤い魔導書も、今日は普通に使えた。
危険な力だ。
でも、それだけではない。
使い方を選べばいい。
火は岩を砕く。
同じ火が飯を作る。
結局、力そのものより扱う側の問題なのだろう。
魚が焼ける匂いが部屋へ広がる。
腹が鳴る。
「今日はちゃんと飯食ってるからな」
誰もいないのに、ベル爺さんへ言い訳するように呟く。
食事を机へ運び、一人で食べ始める。
一人だけれど、孤独な感じはしない。
この魚も誰かが持ってきた。
昼飯も誰かと食べた。
今日何人と話したか数えてみる。
ガルド爺さん。
ローデン。
マーサ婆ちゃん。
ベル爺さんの孫。
サナ婆さん。
少なくとも五人。
三十一人しかいない村なら、十分多い。
食事を終え、外へ出る。
空はまだ少し明るい。
夕焼けが畑の向こうへ広がっている。
風が冷たくなっていた。
俺は家の前に置いた椅子へ座る。
特に何もしない。
空を見る。
鳥が飛んでいる。
遠くから誰かの笑い声が聞こえる。
少しすると、ガルド爺さんが道を歩いてきた。
「ユウ!」
「何?」
「明日の朝、畑手伝え!」
「何するの?」
「支柱立てる!」
「分かったよ」
「朝飯食ってからでいいぞ!」
「今日はそれ言えるんだ!」
「昨日お前が文句言ったからな!」
ガルド爺さんは笑いながら去っていく。
俺も笑った。
明日の予定が一つ決まった。
支柱を立てる。
たぶんそれ以外にも何か起きる。
誰かが呼びに来るかもしれない。
何も起きないかもしれない。
どちらでもいい。
世界を救わなくてもいい。
英雄にならなくてもいい。
魔導書の全部を今日知る必要もない。
自分が何者になるか、今すぐ決めなくてもいい。
朝起きて、飯を食べる。
誰かと話す。
畑へ行く。
疲れたら休む。
夜になったら寝る。
そんな一日を重ねる。
俺が求めていたスローライフというのは、何もせず寝ているだけの生活ではなかったのかもしれない。
誰にも急かされず、自分で今日やることを決められる。
途中で変えてもいい。
できなければ明日に回してもいい。
そのくらいの自由がある暮らし。
たぶん俺が欲しかったのは、それだった。
「……よし、風呂入るか」
立ち上がる。
赤い魔導書を呼び出して湯を沸かす。
昨日は岩を砕いた火が、今日は風呂を温める。
それをおかしいと思わなくなってきた。
むしろ、これでいい。
俺にとって十冊の魔導書は、今のところ世界を変えるための力ではない。
生活を少し楽にするための道具だった。
そして今日という日は、後から思い返せば何も特別なことがなかった日になるのだろう。
大きな魔物も出なかった。
王都から使者も来なかった。
誰かの人生がひっくり返るような出来事もない。
でも、そんな何も起きない一日を心地いいと思えること自体、前の俺にはできなかった。
湯気の上がる浴槽へ身体を沈めながら、俺はゆっくり息を吐いた。
明日も同じような日なら、それでいい。
明後日も、その次も。
そんな毎日が続けばいいと思っていた。




