第36話 西へ行く手紙
朝から薄い雲が空を覆っていた。
雨が降りそうなほど厚くはないものの、いつもの朝より日差しが弱く、マーサの家の窓から入ってくる光も白っぽい。少女が寝台から起き上がると、開けていた窓の隙間から少し冷たい風が入り、椅子の背に掛けてあった薄い布を揺らした。
少女は床へ足を下ろし、立ち上がる前に一度だけ右の踵を動かした。痛みはなく、そのまま体重を乗せても違和感はない。念のため部屋の中を数歩歩いてから、今朝も問題なしと判断して着替えを始める。
以前なら、痛みが消えて何日経ったかを数えていたかもしれない。完全に治ったのか、もう気にしなくてよいのかと答えを出そうとしていただろうが、最近は朝に一度確認するだけになっていた。
痛くないなら、今日は痛くない。
明日のことは明日確認すればよい。
着替えを終えた少女は机へ向かい、昨夜折って置いた紙を見つけた。開けば、日々の記録に混じって『ユウさんは、鶏料理が好き』という一行がある。
昨夜は書いた後で妙に恥ずかしくなった。
朝になれば消したくなるかもしれないと思っていたのに、今見ても消したいとは思わない。それどころか、文字を見た瞬間に昨日の会話が思い出され、少女の口元がわずかに緩んだ。
「……別に、変なことではありません」
誰に聞かれたわけでもないのに、少女は小さく言い訳した。
好きな食べ物を知っただけだ。
ガルドが豆や芋を育てていることも知っている。マーサが朝はあまり多く食べないことも、ベルが作業中に話しかけられても大抵は手を止めないことも、サナが石鹸を触る前には必ず手を洗わせることも知っている。
村で暮らしていれば、人のことを少しずつ知っていく。
ユウについて知りたいと思うのも、きっとその一つなのだろう。
そう考えたところで、少女は紙を折り直した。
それ以上は考えない。
考え始めると、まだ名前のつかないものに無理やり名前をつけようとしてしまいそうだった。
机のもう一方には、三軒目の家についてまとめた紙がある。こちらには昨日、新しいことを書かなかった。
住みたいという自分の希望は既に書いてある。
持ち主側の確認が取れていないという事実も変わっていない。
少女はその紙にも触れず、部屋を出た。
「おはようございます」
「おはよう。今日はちょっと冷えるね」
台所ではマーサが火を起こしていた。竈の近くには昨夜使った芋の残りが籠に入れられ、その隣には小さな玉葱のような野菜が置かれている。
少女は窓の外へ目を向けた。
「雨になりますか?」
「どうだろうね。降っても少しじゃないかい」
「洗濯は?」
「今日はしない」
「では、私もやめておきます」
少女が即座に答えると、マーサが振り返った。
「自分の分なら好きにすりゃいいよ」
「乾かないかもしれません」
「なら明日にすればいい」
「はい」
それだけで話は終わった。
少女は棚から二人分の器を取り出し、卓へ運ぶ。マーサが鍋へ水を入れているのを見ながら、今日は何をするか考えた。
昨日までなら、まず警戒記録が頭に浮かんだだろう。
今朝も気にはなっている。
名称はまだ決まっていない。
天候欄を外した後の使い勝手も見たい。
けれど、朝一番に確認しなければならないものではなかった。
「マーサさん」
「何だい?」
「今日は、何を作るのですか?」
「朝飯かい?」
「はい」
「芋の残りを潰して焼くよ」
少女は籠を見る。
「昨日煮たものを?」
「残ってるからね」
「別の料理にするのですね」
「そのまま食べてもいいけど、飽きるだろ」
マーサは昨夜の芋をいくつか取り出し、木の器へ入れた。少女が横から覗き込むと、木べらを渡される。
「潰すかい?」
「やります」
「じゃあ全部ぐちゃぐちゃにしなくていいからね。少しくらい形が残ってても食える」
「分かりました」
少女は木べらを握り、柔らかい芋を押し潰した。
最初の一つを丁寧に潰し、塊が残っていないか確認する。その様子を見たマーサが何も言わず玉葱を刻み始めたので、少女は途中で手を止めた。
「……形が残ってもよいのでしたね」
「言ったね」
「また全部同じにしようとしていました」
「好きならそうしてもいいよ」
「いえ。今日は残してみます」
少女は力を少し弱めた。
大きな塊だけ潰し、小さなものはそのまま残す。マーサが刻んだ野菜と塩を少し加え、丸くまとめて薄くする。
「これを焼くのですか?」
「そう」
「崩れませんか?」
「崩れるかもね」
「崩れても?」
「食べられるよ」
少女は思わずマーサを見る。
マーサは何でもない顔で鉄板へ油を薄く塗っていた。
「最近、そればかり教わっている気がします」
「何が?」
「形が悪くても食べられるとか、同じ大きさでなくてもよいとか」
「料理なんて家で食うならそんなもんだよ」
「公爵家では、厨房から出てくるものはいつもきれいでした」
口にしてから、少女は少しだけ胸の内を探った。
公爵家。
以前はその言葉を出すだけで、失ったものが一気に押し寄せてくるような感覚があった。今も痛みがないわけではないが、朝の台所で芋を潰しながら話せる程度には、その記憶との距離が変わっている。
「料理人がいたんだろ?」
「はい。私が厨房へ入ることはほとんどありませんでした」
「じゃあ今覚えりゃいい」
「はい」
少女は丸めた芋を鉄板へ置いた。
じゅ、と小さな音がして、油と芋の香ばしい匂いが立ち上る。少女は表面をじっと見つめ、いつ返せばよいのか分からず木べらを持ったまま待った。
「まだ」
マーサが言う。
「分かりました」
少し待つ。
「まだですか?」
「まだ」
「どのくらいで?」
「色見な」
少女は鉄板の端から覗き込もうとした。
「危ないよ」
「すみません」
「端をちょっと上げりゃいい」
言われた通り、木べらを差し込んで端だけ持ち上げる。薄い焼き色がついているものの、中央はまだ白い。
「もう少しですね」
「そうだね」
少女は木べらを抜いた。
待つ。
以前なら、何度も確認したかもしれない。
けれど一度見たのだから、少し待てばよい。
香りが少し強くなったところで、もう一度端を持ち上げる。今度はきれいな焼き色がついていた。
「返します」
「はいよ」
慎重に木べらを入れ、ひっくり返す。
一枚目は成功した。
二枚目も返す。
三枚目は途中で端が崩れ、少し欠けた。
「あ」
少女の手が止まる。
鉄板の上で、欠けた部分だけが離れて焼けている。
「崩れました」
「食えるよ」
マーサは昨夜と同じような調子で言った。
少女は欠けた部分を木べらで本体へ寄せようとして、それをやめた。
「……これも、このままで?」
「嫌ならくっつけてもいい」
「では、このままにします」
欠けた芋は欠けたまま焼いた。
朝食の卓へ並べると、三枚目だけ少し不格好だった。
少女はそれを自分の皿へ取る。
「何でそれにしたんだい?」
「私が崩したので」
「別にどれでもいいけど」
「でも、食べてみたいです」
一口食べる。
外側は少し香ばしく、中は柔らかい。形が欠けていても、味は他のものと変わらなかった。
「おいしいです」
「そうかい」
「形は悪いですが」
「腹に入れば同じだよ」
「そこまで言ってしまうと、少し寂しい気もします」
「面倒だねえ」
マーサが笑い、少女も笑った。
朝食を終えた頃、外から足音が聞こえた。
ガルドほど大きな声はしない。
玄関の戸を叩く音も二度だけだった。
「誰だろうね」
マーサが立ち上がろうとしたので、少女が先に腰を上げた。
「私が出ます」
「頼むよ」
戸を開けると、そこに立っていたのはローデンだった。
五十代の男はいつもの落ち着いた顔をしていたが、手に一枚の紙を持っている。少女がそれを見た瞬間、胸の奥がわずかに動いた。
「おはようございます」
「おはよう。マーサはいるか?」
「はい」
少女が身体を横へずらす。
ローデンは家へ入ると、台所にいるマーサへ軽く手を上げた。
「朝から悪いな」
「何だい?」
「西へ行く者が出た」
少女の呼吸が一瞬止まった。
マーサも少女を見る。
「今日?」
「ああ。昼前に出る」
ローデンは持っていた紙を卓へ置いた。
「北西の村へ荷を届けるついでに、西の町まで回るそうだ。エルドが今も以前の町にいるかは分からんが、問い合わせの手紙を預けられる」
少女はすぐに紙へ近づきそうになり、足を止めた。
昨日まで、待つしかなかったもの。
次のハインの来訪までは数週間かかるかもしれないと思っていた。
それが、突然動いた。
「三軒目の家の……?」
「ああ」
ローデンは頷いた。
「昨日、屋根まで一通り見ただろ。だからといって修理を始めるわけにはいかんが、村として使ってよいかを確認するには十分だ」
「はい」
「古い帳面の記録もある。ハルトが亡くなった後、息子のエルドが『村で必要なら使ってよい』と口頭で言ったらしい。ただ、肝心なところが傷んでいて、今もその意思が変わっていないかも分からない」
「覚えています」
少女は卓の紙を見る。
胸が少し速くなっている。
住めると決まったわけではない。
むしろ、これから初めて確認を取る。
返事が「使ってよい」とは限らない。
「これは、もう手紙ですか?」
「下書きだ」
「見ても?」
「そのために来た」
ローデンが紙を少女の方へ滑らせた。
少女は両手で受け取る。
内容は短かった。
村の名前。
故ハルトの家について確認したいこと。
古い村の記録に、息子エルドが村で必要なら使用してよいと口頭で伝えた旨が残っていること。
現在、その家を使いたい者がいること。
今も村で使用してよいか。
長期の居住に使ってよいか。
修繕を行ってよいか。
所有権そのものを村へ移す話ではなく、まず使用の意思確認をしたいこと。
必要なら改めて条件を相談したいこと。
少女は最後まで読み、もう一度最初へ戻った。
「私の名前は、書かないのですね」
「書けないだろ」
ローデンの答えは静かだった。
少女の指が紙の端で止まる。
責められたわけではない。
それでも、一瞬だけ身体が硬くなった。
「……はい」
「それに、今の段階では必要ない」
ローデンは続ける。
「村が空き家を使ってよいかを持ち主側へ確認する。まずはそこだ。誰が住むかは、その次の話になる」
少女は紙へ目を落とした。
「私が住みたいと言ったから、問い合わせるのでは?」
「きっかけはそうだ」
「なら、私のことを伝えなくてもよいのですか?」
「『住みたい者がいる』までは書く。だが、公爵令嬢だったとか、追放されたとか、王太子の元婚約者だとか、今の確認には関係ない」
少女は息をゆっくり吐いた。
関係ない。
その言葉が、妙に胸へ残った。
自分が何者だったのか。
なぜここへ来たのか。
何を失ったのか。
それらをすべて説明しなければ、何かを望んではいけないと思っていたのかもしれない。
「ただし」
ローデンの声が少し低くなる。
少女は顔を上げた。
「家の使用許可が出ても、お前さんが長く住めるかは別だ。身分や追放の扱いは、まだ分からん」
「はい」
「家の話が進んだからといって、そっちまで解決したと思わないでくれ」
「分かっています」
少女はすぐに答えた。
少しだけ胸は痛んだ。
けれど、以前のように全身が冷たくなるほどではない。
家に住みたい。
その気持ちと、自分の立場が不明なことは、同時に存在してよい。
「この手紙は、村から出すのですね」
「ああ。俺の名前で出す」
「私が書く必要は?」
「ない」
「何か付け加えることは?」
「今のところはな」
少女は少し黙った。
何もしなくてよい。
自分が住みたい家なのに。
自分のために手紙が出るのに。
自分は何もしない。
胸の奥に、小さな落ち着かなさが生まれた。
「……私も、一言書いた方がよくありませんか?」
「何を書く?」
「使いたい理由などを」
「例えば?」
聞かれて、少女は考えた。
窓が好きだから。
リンカの木が見えるから。
小さな机を置きたいから。
マーサの家から遠すぎないから。
村の中央にも歩いて行けるから。
いつか本を置きたいから。
どれも自分には大切だ。
しかし、エルドに伝えなければならない理由なのかは分からない。
「……思いつきません」
「なら書かなくていい」
「でも、私のための確認なのに」
ローデンは少女を見た。
「家を使わせてほしいと頭を下げる手紙にしたいのか?」
「いえ」
「村に残っている空き家を今後使ってよいか、持ち主側へ確認する。それだけだ。お前さんが何かを差し出して許してもらう話じゃない」
少女は返事をせず、紙へ視線を戻した。
自分のために誰かが動く。
その時、自分も何かをしなければならない。
そうしなければ、借りを作る。
そんな考えが、まだ残っていた。
「……分かりました」
少女は紙をローデンへ返した。
「私は、書きません」
「そうしてくれ」
「もし、エルドさんから『誰が住むのか』と聞かれたら?」
「その時考える」
「はい」
「今、聞かれてもいないことまで全部説明する必要はない」
少女は小さく頷いた。
ローデンは紙を折り、懐へしまう。
「昼前に預ける。向こうでエルドが見つかれば、返事は早くて十日くらい。いなければもっとかかる」
「十日……」
「早ければ、だぞ」
「はい」
「一月かかるかもしれんし、返事が来ない可能性もある」
期待しすぎないように、という意味なのだろう。
少女はそれを理解したうえで頷いた。
「待ちます」
口にした声は、自分で思っていたより落ち着いていた。
「待てそうか?」
マーサが横から尋ねる。
少女は少し考えた。
「昨日まで待っていましたから」
「そうだね」
「今日からも待てます」
ただ、昨日までとは少し違う。
昨日までは、いつ連絡できるかも分からなかった。
今日からは、手紙が西へ向かう。
結果はまだ分からない。
それでも、自分の希望が紙になり、村の外へ動き始める。
「……少し、嬉しいです」
少女は正直に言った。
ローデンは大げさに反応せず、「そうか」とだけ答えた。
それがありがたかった。
「それと」
ローデンが思い出したように続ける。
「警戒線の紙、また変えたらしいな」
「はい」
「今度は何を消した?」
「天候欄です」
「消したのか」
「必要な時だけ補足へ書けばよいのではないかと、ケルさんが」
「それでいい」
あっさり言われ、少女は少しだけ肩の力を抜いた。
「名前もまだ決まっていません」
「名前?」
「記録の」
「まだ考えてたのか」
「大切ではありませんか?」
「使う連中が分かれば何でもいい」
昨日のユウとほぼ同じ答えだった。
少女は唇をわずかに尖らせる。
「皆さん、名前を軽く考えすぎではありませんか?」
「お前さんが重く考えすぎなんじゃないか?」
マーサが吹き出した。
少女は二人を見比べる。
「では、今日聞きます」
「誰に?」
「使う皆さんにです」
「そうしな」
ローデンは用件を終えると立ち上がった。
少女も玄関まで見送る。
「ローデンさん」
「何だ?」
「ありがとうございます」
「まだ返事は来てないぞ」
「手紙を出してくださることにです」
ローデンは少しだけ目を細めた。
「村の空き家の話だ。村でやる」
「はい」
その答えが、今度は少し嬉しかった。
自分だけの問題として扱われていない。
だからといって、勝手に決められているわけでもない。
自分は住みたいと言った。
村は必要な確認をする。
それぞれが、自分のするところをする。
「行ってらっしゃい」
「ああ」
ローデンが歩いていく。
少女はその背中が道の向こうへ消えるまで見送った。
家へ戻ると、マーサはもう朝食の片づけを始めていた。
「手、動かすかい?」
「はい」
少女は隣へ立ち、洗った器を受け取る。
しばらく二人とも黙っていた。
水の音と、器が布へ触れる音だけが台所へ響く。
「嬉しいかい?」
マーサが尋ねた。
「はい」
少女は器を拭きながら答えた。
「でも、少し怖いです」
「何が?」
「断られたらと思うと」
「そりゃあるだろうね」
「それから、許可が出ても私が住めないかもしれません」
「そうだね」
マーサは否定しなかった。
少女は次の器を受け取る。
「以前なら、どちらか一つでも駄目な可能性があるなら、期待しない方がよいと思っていた気がします」
「今は?」
「期待しています」
自分で言って、少女は少し笑った。
「怖いのに?」
「怖いです」
「ならやめる?」
「やめません」
答えはすぐに出た。
少女は手の中の器を見る。
「住みたいので」
「そうかい」
「はい」
それ以上、マーサは何も言わなかった。
器をすべて片づけた後、少女は外へ出た。
村の中央へ向かう。
曇り空の下、畑では何人かが作業を始めていた。遠くからガルドの笑い声が聞こえ、別の畑では腰を伸ばした老人が空を見上げている。
雨はまだ降っていない。
少女は見張り場所へ向かいながら、三軒目の家がある方角を一度だけ見た。
今日は行かない。
手紙が出るからといって、家そのものが変わるわけではない。
それでも、昨日までより少し近く感じた。
見張り場所へ着くと、紙は昨日のままだった。
新しい記録はない。
少女は棚から試用紙を取り出し、天候欄へ引かれた線を確認する。
名称欄はまだ仮のまま。
「おはよう」
声に振り返ると、オルドが歩いてきた。
手には小さな籠がある。
少女は思わず中を見る。
「今日は卵がありますか?」
「あるぞ」
籠の底には、藁に包まれた卵が四つ入っていた。
「売る分ですか?」
「二つはな」
「では、一つ買いたいです」
「朝からか?」
「なくなる前に」
少女は少し恥ずかしくなったが、オルドは気にした様子もない。
「持ってくか?」
「はい」
少女は小さな財布を取り出す。
以前教わった値段を思い出し、銅貨を選ぶ。今度は数え直さず、一度で正しい枚数を差し出した。
オルドが受け取って数える。
「合ってる」
「はい」
その一言だけで、少女の胸に小さな満足が広がった。
「今日はどうやって食う?」
「まだ決めていません」
「焼くんじゃないのか?」
「同じ食べ方も好きですが、別のものも覚えたいので」
「マーサに聞け」
「そうします」
オルドから卵を受け取り、割れないよう布へ包む。
「ところで、オルドさん」
「何だ?」
「この紙の名前を考えているのですが」
「紙?」
少女は見張り棚の試用紙を見せた。
「今は『警戒線反応記録・試用』となっています。でも、警戒線が鳴らなくても異常を見つけた場合に使います」
「そうか」
「『東側確認記録』ではどうでしょう」
「長い」
「四文字しか減っていません」
「長い」
「では、『警戒記録』」
「何の?」
「……そうなりますよね」
少女は眉を寄せる。
オルドは紙を見ながら少し考えた。
「『見回り帳』じゃ駄目か?」
「見回り帳?」
「見回った時に変なのあったら書くんだろ?」
「警戒線が鳴った場合もです」
「じゃあ『見張り帳』」
少女は黙った。
短い。
分かりやすい。
ただ、警戒線という言葉は消えている。
「どうした?」
「思っていたより簡単だったので」
「駄目か?」
「いえ。候補にします」
少女は紙の端へ『見張り帳』と書いた。
「ありがとうございます」
「卵落とすなよ」
「はい」
オルドが去る。
少女は『見張り帳』という文字を見る。
悪くない。
ただ、一人で決めないと決めたばかりだ。
次に来たのはドランだった。
「ドランさん」
「何だ」
「名前を考えています」
「何の?」
「これです」
少女が紙を見せる。
ドランは一瞬だけ見た。
「東の紙」
「それは名前ですか?」
「分かるだろ」
「分かりますけれど」
「ならいい」
少女は額へ手を当てたくなった。
「もう少し、正式なものを」
「何で?」
「後から見た人が分かるようにです」
「『東の紙』で分かる」
「村に東側の紙が増えたら?」
「その時変えればいい」
またそれだ。
少女は息を吐きながらも、『東の紙』と候補へ書き加えた。
「本当にこれを採用する可能性もありますからね」
「好きにしろ」
「ドランさんが言ったのですよ」
「だから好きにしろ」
ドランは気にせず歩いていった。
少女が紙を見ていると、今度は少し離れたところから笑い声が聞こえた。
「何してんの?」
ユウだった。
片手には木の棒のようなものを持っている。
「記録の名前を聞いています」
「決まった?」
「オルドさんは『見張り帳』。ドランさんは『東の紙』です」
「東の紙でいいんじゃない?」
「ユウさんまで!」
思わず声が大きくなった。
近くを通っていた老婆がこちらを見て笑う。
少女は少し恥ずかしくなり、声を落とした。
「もう少し考えてください」
「じゃあ『東側見張り記録』」
「急に真面目になりましたね」
「何を求められてるのか分かんなくて」
ユウは困ったように笑う。
少女は紙へ『東側見張り記録』と書いた。
「これなら分かりやすいですね」
「じゃあそれで」
「まだケルさんたちにも聞きます」
「ちゃんとしてるなあ」
「使う方に聞くと決めましたから」
少女はそこで、ユウが持っている木の棒へ視線を移した。
「それは何ですか?」
「これ?」
ユウが持ち上げる。
棒の先に小さな金具がついている。
「ベルさんに頼まれたやつ。見張り棚の屋根の端がちょっと浮いてたから押さえる金具つける」
「魔法では直さないのですか?」
「これくらいなら普通に直した方が早い」
「ユウさんが?」
「ベルさんが作って、俺が持ってきただけ」
「では、取り付けるのは?」
「ベルさん」
少女は笑った。
「何?」
「いえ。ユウさんなら何でも魔法で直すと思っていた頃があったので」
「そんな面倒なことしないよ」
「魔法の方が面倒なのですか?」
「加減考えるのが面倒」
ユウは見張り棚の屋根を見る。
「こういうのはベルさんの方が上手いし」
「そうですね」
少女は自然に答えた。
以前なら、《魔導書庫》ほどの力を持っているのに使わないことを不思議に思ったかもしれない。
今は違う。
できることと、やることは別。
できる人と、任せる人も別。
「ローデンさんが来ました」
少女が言うと、ユウがこちらを見る。
「何かあった?」
「三軒目の家について、西へ手紙を出せるそうです」
「お」
ユウの表情が少し明るくなる。
「今日、出る方がいるそうです。エルドさんが以前の町にいるかは分からないそうですが、問い合わせてくださいます」
「よかったじゃん」
「はい」
その言葉を聞いた瞬間、少女は自分でも分かるほど頬が緩んだ。
「……はい。嬉しいです」
「返事、いつくらい?」
「早ければ十日ほど。でも、一月かかるかもしれませんし、返事が来ないこともあると」
「そっか」
「まだ何も決まっていません」
「うん」
「家を使ってよいと言われても、私の立場の問題もあります」
「うん」
「だから、まだ住めるわけではありません」
「うん」
三度同じように返され、少女は口を閉じた。
「……何ですか?」
「何が?」
「もう少し何か言ってください」
「まだ住めないんでしょ?」
「そうです」
「でも手紙は出るんでしょ?」
「はい」
「じゃあ今日はそれでよくない?」
少女は黙った。
また簡単に言う。
けれど、その簡単さに救われることがある。
「そうですね」
少女は手に持った卵の包みを見る。
「今日は、手紙が出ます」
「うん」
「それで十分です」
ユウが頷く。
「卵買ったの?」
「はい」
「また焼く?」
「まだ決めていません」
「そっか」
「何かおすすめはありますか?」
「俺に聞く?」
「鶏料理が好きなので」
言ってから、少女は止まった。
ユウも一瞬だけ黙る。
「……覚えてたんだ」
「昨日聞きましたから」
「そうだけど」
「忘れると思ったのですか?」
「いや」
ユウは視線を少し逸らした。
ほんの一瞬だった。
少女はそれを見て、胸の奥が妙にざわついた。
何か変なことを言っただろうか。
「卵も鶏料理に入りますか?」
少女が尋ねる。
「鶏そのものじゃないけど」
「では、参考になりませんね」
「ゆで卵とか?」
「茹でる?」
「お湯で」
「殻のまま?」
「うん」
少女は目を丸くした。
「割らないのですか?」
「割らない」
「中が見えません」
「見えないね」
「どうやって固さを決めるのです?」
「時間」
少女の表情が変わった。
「時間?」
「何か嫌な予感するんだけど」
「測れば、同じ固さにできますか?」
「だいたいは」
少女は卵を見る。
面白そうだ。
焼く時は、見ながら固さを決めていた。
殻の中が見えないまま、時間で変わる。
「やってみたいです」
「マーサさんに聞いてからね」
「もちろんです」
少女は少し弾んだ声で答えた。
その時、見張り棚の向こうからベルが歩いてきた。
「ユウ。持ってきたか」
「これ?」
「それだ」
ユウが金具のついた棒を渡す。
ベルは受け取ると、棚の屋根へ目を向けた。
「何でまだいる」
「今来たところ」
「じゃあ押さえろ」
「俺が?」
「手ぇ二本あるだろ」
「あるけど」
ユウが素直に屋根の端を押さえる。
ベルは小さな脚台へ乗り、金具を合わせ始めた。
少女はその様子を見ながら、少し離れた。
「何見てる」
ベルが言う。
「邪魔でしたか?」
「見るならそっち押さえろ」
「私も?」
「手ぇ二本あるだろ」
同じことを言われた。
少女は笑いをこらえながら反対側へ回り、棚が動かないよう支える。
木の屋根へベルが金具を当て、細い釘を打つ。
乾いた音が曇り空の下へ響いた。
大きな仕事ではない。
魔法も使わない。
英雄もいない。
三人で小さな棚を押さえ、一人の老人が浮いた屋根を直している。
少女はそんな時間を、不思議なくらい心地よいと思った。
「動かすな」
「動かしていません」
「ユウ」
「俺?」
「お前だ」
「ごめん」
少女は思わず笑った。
「笑うな」
「すみません」
「お前も動いたぞ」
「え?」
「今笑った時」
「……すみません」
結局二人とも注意された。
作業が終わる頃には、少女の腕が少し疲れていた。
ベルが脚台から下り、屋根を軽く押す。
「これでいい」
「ありがとうございます」
少女が言うと、ベルが眉を寄せた。
「何でお前が礼言う」
「記録の紙を置く棚なので」
「村のだ」
その返事に、少女は少しだけ目を細めた。
「そうでした」
自分のものではない。
けれど、自分も使う。
それでよい。
「ベルさん」
「何だ」
「この紙の名前、何がよいと思いますか?」
「紙?」
「警戒線や森の異常を記録するものです」
ベルはしばらく考えた。
「見張り帳」
少女はオルドを見るような気持ちでベルを見た。
「オルドさんと同じです」
「じゃあそれでいいだろ」
「……二票」
「何の話だ?」
「こちらの話です」
少女は候補の横へ一本線を引いた。
ユウが覗き込む。
「投票になったの?」
「分かりません。でも、二人が同じ名前を言いました」
「じゃあ俺も見張り帳」
「今、合わせましたね?」
「ばれた?」
「数えません」
少女は紙を胸元へ引き寄せた。
ベルが呆れたように二人を見る。
「何やってんだ」
「名前を決めています」
「暇だな」
「大切です」
「紙が使えりゃ何でもいい」
少女は小さく息を吐いた。
「この村では、私だけが名前を大切にしている気がします」
「そうかもね」
ユウに肯定され、少女は少しだけ睨んだ。
それでも、嫌ではなかった。
昼前。
少女がマーサの家へ戻る途中、村の西側で荷車の準備をしている男を見かけた。
普段あまり話したことのない村人だった。
荷台には麻袋と木箱が積まれている。
その横にローデンが立っていた。
少女の足が自然に止まる。
ローデンの手には、朝見た紙がある。
もう封じられていた。
少女は少し離れた場所から、その様子を見た。
近づくべきか迷う。
自分の家になるかもしれない場所についての手紙。
見送りたい。
けれど、わざわざ行けば相手に説明が必要になるかもしれない。
「行ってくれば?」
横から声がした。
ユウだった。
「またいましたね」
「家こっちだから」
「そうでした」
少女は少し恥ずかしくなる。
「見送りたいんでしょ?」
「分かりますか?」
「ずっと見てるし」
少女は荷車へ視線を戻した。
「でも、私が行くと……」
「行くだけならいいんじゃない?」
「説明を求められたら?」
「ローデンさんがいるし」
少女は迷った末、荷車の方へ歩いた。
ローデンが気づく。
「来たか」
「はい」
荷車の男も少女を見るが、特に何も尋ねなかった。
「これから出るのですか?」
「ああ」
ローデンは封じた手紙を持ち上げる。
「こいつを西の町の連絡所へ預けてもらう。エルド本人がいれば本人へ。いなければ、行き先が分かるか確認してもらう」
「分かりました」
少女は手紙を見る。
紙一枚。
それだけだった。
けれど、その紙の向こうに、自分が初めて自分から欲しいと思った家がある。
少女は荷車の男へ頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「おう」
男は事情を詳しく知らないらしく、軽く返事をしただけだった。
それでよかった。
何者なのか説明しなくても、手紙は運ばれる。
追放された公爵令嬢だからではなく、村から西へ送る一通の手紙として。
ローデンが手紙を男へ渡す。
男は濡れないよう革袋へ入れ、荷台の前方へ固定した。
その動作を見た瞬間、少女の胸の奥が熱くなった。
本当に行く。
「じゃあな」
男が荷車へ乗る。
馬がゆっくり歩き始めた。
車輪が乾いた土を踏み、低い音を立てる。
少女は道の脇へ立ち、荷車が西へ小さくなっていくのを見送った。
曇った空の下、街道は遠くまで続いている。
あの先に王都もある。
公爵家もある。
自分が戻ることを望んでいない場所も、まだ答えを出せない人たちもいる。
けれど今、西へ向かった手紙は、そのどれとも違う。
過去へ戻るためのものではない。
これから住むかもしれない家について尋ねるための手紙だった。
「……行きました」
少女が呟く。
「行ったね」
隣にいたユウが答えた。
少女は荷車が見えなくなった後も、しばらく街道を見ていた。
「不思議です」
「何が?」
「西へ何かが行くのを見ると、以前は怖かったのです」
ユウは急かさず、少女の次の言葉を待った。
「私のことが知られるのではないか。連れ戻されるのではないか。あるいは、また何かを失う知らせが来るのではないかと思っていました」
少女は胸元で両手を重ねる。
「今も、少し怖いです。でも今日は、それだけではありません」
「うん」
「あの手紙は、私がここで暮らすために西へ行きました」
言葉にした途端、胸の奥にあったものが輪郭を持った。
少女はゆっくり息を吐く。
「戻るためではなくて」
ユウは少女を見た。
「うん」
「ここにいるために」
声が少し震えた。
悲しいわけではない。
嬉しいだけでもない。
自分でもうまく名前をつけられない感情が、胸の内側を静かに満たしていく。
少女は西の街道から目を離し、村の方へ振り返った。
小さな家々。
畑。
見張り場所。
ベルの工房。
マーサの家。
まだ自分のものではない三軒目の家。
その全部が、曇り空の下に変わらず存在している。
「返事が来るまで、何をすればよいでしょう」
少女が尋ねる。
「何したい?」
予想していた答えではなかった。
少女は少し笑う。
「また私に聞くのですね」
「だって俺が決めることじゃないし」
「そうですね」
何をしなければならないかではない。
何をしたいか。
少女は考えた。
「今日は、卵を茹でてみたいです」
「そこ?」
「今、思いついたのです」
ユウが笑う。
少女も笑った。
「それから、警戒記録の名前をもう少し聞きます」
「まだやるんだ」
「やります」
「見張り帳でいいのに」
「三票目には数えません」
「厳しい」
「後から合わせたので」
二人は村の中央へ歩き始めた。
街道から離れるにつれ、荷車の音は完全に聞こえなくなった。
代わりに畑から人の声が聞こえる。
どこかの家から薪を割る音がする。
風が吹くたび、道端の草が低く揺れる。
何も特別ではない昼前の村だった。
少女はその中を歩く。
途中、三軒目へ続く道の前を通った。
今日は少しだけ足を止めた。
「行く?」
ユウが尋ねる。
少女は家の方角を見る。
見たい。
手紙が出た直後だからこそ、もう一度見たくなる。
けれど。
「今日は行きません」
「そっか」
「返事が来るまで見てはいけない、という意味ではありません」
「うん」
「ただ、今日はもう十分です」
自分の口から出た言葉に、少女自身が少し驚いた。
十分。
以前はなかなか使えなかった言葉だった。
もっとやらなければ。
もっと確認しなければ。
もっと準備しなければ。
そんな考えの終わりには、いつも「まだ足りない」があった。
今日は違う。
手紙が出た。
それを見送った。
それだけで、家については十分だった。
「帰ります」
「マーサさんのとこ?」
「はい。卵を茹でます」
「割らないでね」
「分かっています」
「途中で中見ようとして割らないでね」
少女は足を止めた。
「……少し考えていました」
「やっぱり?」
「本当に見えないので」
「割ったらゆで卵じゃなくなるよ」
「分かりました。絶対に割りません」
少女は真剣に頷いた。
ユウが笑う。
「何ですか?」
「いや。頑張って」
「卵一つに大げさです」
「君が真剣だから」
「初めてなのですから当然です」
少女は少し頬を膨らませたが、すぐに自分も笑った。
マーサの家へ戻ると、買った卵を卓へ置いた。
「茹でたいです」
開口一番に言うと、マーサが少女を見る。
「卵を?」
「はい」
「いいよ」
「ユウさんに聞きました」
「じゃあユウにやってもらえばよかったじゃないか」
「マーサさんに聞いてからと言われました」
「あいつ、逃げたね」
「逃げたのですか?」
「たぶんね」
少女は少し考えた。
今度会ったら聞こう。
「どうすればよいですか?」
「鍋に水入れて」
「はい」
「卵入れて」
「先に?」
「やり方はいろいろあるけど、今日はそれでいい」
少女は慎重に卵を鍋へ入れた。
殻が鍋底へぶつからないよう、指先で支えながら沈める。
「火をつける」
「はい」
「沸いたら少し待つ」
「少しとは?」
「固めが好きなら長め」
「時間を測らないのですか?」
「測りたいなら測れば?」
少女は困った。
「何で測るのです?」
「そこからかい」
「ユウさんは時間でと言いました」
「ユウ呼んできな」
「逃げたのでは?」
「捕まえな」
少女は思わず笑った。
結局、マーサが普段使っている簡単な砂時計を持ってきた。
「料理専用じゃないよ」
「これで測れますか?」
「だいたいね」
「だいたい」
「火の強さも卵の大きさも違うんだから、毎回まったく同じにはならないよ」
少女は砂時計を見る。
「時間を測っても、完全に同じにはならないのですね」
「そりゃね」
「……少し残念です」
「でも目安にはなる」
「では、それで十分です」
湯が温まるのを待つ。
鍋の底から小さな泡が上がり始める。
やがて水面が揺れ、湯気が立った。
少女は砂時計を返す。
砂が細く落ちていく。
見ていると、妙に長く感じる。
「ずっと見てなくていいよ」
「でも、時間が」
「砂が落ちたら分かる」
「そうですが」
「昼の準備するよ」
少女は鍋を気にしながらも、マーサの横へ移った。
野菜を切る。
途中で二度ほど砂時計を見る。
まだ落ち切っていない。
三度目に見た時、砂がほぼ下へ落ちていた。
「そろそろです」
「じゃあ火から下ろしな」
少女は鍋を移し、教わった通り水へ入れた。
冷めるのを待つ。
ようやく殻を剥く時になり、少女は慎重に表面を叩いた。
ひびが入る。
少しずつ殻を取る。
「難しいです」
「多少白身まで取れても食えるよ」
「なるべくきれいに剥きたいです」
「好きにしな」
ところどころ白身が欠けたものの、卵は無事に姿を現した。
少女は皿へ置く。
「切ります」
「どうぞ」
包丁を入れる。
半分に開く。
黄身は中心まで固まっていた。
少女はしばらく見つめた。
「固いです」
「長めにしたからね」
「私が焼いた時より固いです」
「嫌かい?」
「食べてみます」
塩を少しつけ、一口食べる。
白身の弾力。
ほくりとした黄身。
焼いた時とはまったく違う。
「……おいしいです」
「そうかい」
「でも、もう少し中心が柔らかい方が好きかもしれません」
「じゃあ次は少し短くしな」
「次?」
「また買えばいいだろ」
少女は残った半分を見る。
失敗ではない。
おいしい。
ただ、自分の好みとは少し違った。
「はい」
少女は笑った。
「次は、少し短くします」
その日の午後、警戒線は鳴らなかった。
森から新しい痕跡が見つかったという報告もなく、試用中の紙には何も増えなかった。少女はケルとガルドにも名称を聞き、ケルからは「見張り記録」、ガルドからは「東のやつ」という、予想以上に簡単な答えをもらった。
少女は候補を並べ、夕方まで考えた末、その日は決めなかった。
二人以上が「見張り」という言葉を使っている。
それだけ覚えておけばよい。
決めるのは明日でもよかった。
夕方、少女はマーサの家の前で洗った布を取り込んでいた。
結局、雨は降らなかった。
朝に洗濯をしなかったことを少しだけ惜しいと思ったが、明日洗えばよい。空を読み違えたからといって、一日が駄目になるわけでもない。
西の空には、雲の隙間から細い橙色の光が差している。
少女は布を籠へ入れ、少しだけ街道の方角を見た。
今頃、手紙はどこまで進んだのだろう。
考えても分からない。
だから、それ以上は考えなかった。
家へ入り、夕食を手伝う。
夜になって自室へ戻ると、少女は机の前へ座った。
日々の記録を開く。
『西へ手紙が出た』
まず、それだけ書いた。
次に何を書くか考える。
『返事は早くて十日くらい。もっとかかるかもしれない』
そこまで書き、少し迷った。
返事が来なかったら。
断られたら。
許可が出ても自分が住めなかったら。
書こうと思えば、いくらでも不安は書ける。
けれど今日は、それらを全部並べなくてもよい気がした。
少女は一行空けた。
『私は、嬉しかった』
その下へ続ける。
『西へ戻るためではなく、ここで暮らすための手紙だったから』
炭筆を置く。
胸の奥が、もう一度静かに温かくなった。
その横には昨日の紙がある。
『ユウさんは、鶏料理が好き』
少女は今日のことを思い出し、その下へ小さく書き足した。
『卵を茹でる方法を教えてもらった。本人ではなく、マーサさんに』
書いてから、少し笑う。
「これは、ユウさんに見せない方がよいですね」
別に悪口ではない。
けれど、なんとなく見せたくない。
自分だけが知っていればよいこともある。
少女は紙を折った。
机の端には、三軒目の家についての紙がある。
今日は、そこへ一つだけ書き足せる。
『エルドさんへ確認の手紙が出た』
それだけだった。
許可が出たとは書かない。
住めるとも書かない。
修理できるとも書かない。
今日進んだ分だけを書く。
少女は紙を閉じた。
明日になれば、また普通の一日が始まる。
返事はまだ来ない。
石鹸もまだ完成しない。
森のことも分からない。
警戒記録の名前すら決まっていない。
それでも、急いで全部を終わらせたいとは思わなかった。
少女は灯りを消し、寝台へ入る。
薄暗くなった部屋の中で、昼間に見送った荷車を思い出した。
西へ延びる街道。
遠ざかっていく車輪。
革袋の中に入った一通の手紙。
それは、失った場所へ戻るためのものではなかった。
少女は掛け布を胸元まで引き上げ、静かに目を閉じた。
返事が来るまでの時間も、ここで暮らしていていい。
明日は明日の朝を迎えて、食事をして、やりたいことを選ぶ。その日々を重ねながら待てばよいのだと、今はそう思えた。




