第35話 書かなくていいこと
翌朝、少女が目を覚ました時、最初に浮かんだのは三軒目の家だった。
窓の近くに置きたい小さな机。古い壁に残っていた棚の跡。まだ実をつける季節ではないリンカの木と、その向こうから差し込んでいた午後の光。
昨日、自分の口から出た言葉も覚えている。
『私は、あの家に住みたいです』
まだ決めたわけではない。
使ってよいという確認も取れていないし、屋根や床を直すにも持ち主側の了承が必要になる。自分自身の身分が、この村で長く暮らすうえでどう扱われるのかも分からないままだった。
それでも、住みたい。
その気持ちだけは、昨日よりはっきりしていた。
少女は寝台の端へ座り、右足を床へ下ろした。踵へゆっくり体重を乗せて立ち上がり、部屋の中を数歩歩く。
「……零」
今朝も痛みはない。
少女はそれだけを確認すると、すぐに着替え始めた。
以前なら、痛みがないことにも理由を探したかもしれない。もう治ったのか、昨日歩いた距離は適切だったのか、今日ならどこまで動いてよいのかと、朝から答えを出そうとしていた気がする。
今は、朝の時点で零。
それで十分だった。
着替えを終えた少女は、机の上へ重ねてある紙を見る。
一番上には、昨日書き直した警戒線の記録についてのメモがある。
『普段の異常なし見回りは毎回記録しない』
『異常があった時、または異常地点を改めて確認した時に使う』
『反応なしの場合は鳴り方欄に斜線』
『名称は後で考える』
最後の一行を見て、少女は少しだけ眉を寄せた。
「名称……」
警戒線反応記録。
それでは、警戒線が鳴らずに何かを見つけた場合が入らない。
東側確認記録。
それでは、内側の警戒線が鳴った場合まで東側だけに限定してよいのか迷う。
見張り記録。
それでは範囲が広すぎる。
「……後で考えると書きましたね」
自分へ言い聞かせるように呟き、紙を置いた。
今、考えなくてもよい。
朝食の前から名前を決める必要はなかった。
部屋を出ると、台所ではマーサが乾燥させた豆を小さな鍋へ入れていた。
少女はその豆を見て、一瞬だけガルドの顔を思い出す。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日は豆ですか?」
「豆だよ」
「ガルドさんの?」
「違う」
マーサは即答した。
少女は思わず鍋へ顔を近づける。
「違う豆なのですか?」
「豆なんてガルドの畑にしかないわけじゃないよ」
「そうでした」
「何だと思ってたんだい」
「最近、豆を見るとガルドさんを思い出すようになってしまって」
「本人に言うんじゃないよ。喜んで持ってくるから」
「言いません」
少女は真剣に答えた。
マーサが小さく笑う。
「パン出して」
「はい」
棚からパンを取り出し、卓へ置く。
少女は自分の分を切った後、マーサの分も切ろうとして手を止めた。
「どれくらいですか?」
「いつもの半分くらい」
「分かりました」
以前なら、聞かずに同じ大きさへ切っていたかもしれない。
同じ食卓なら同じ量。
そんな決まりはない。
マーサが食べたい量と、自分が食べたい量は違う。
少女は自分の分より少し小さく切り、皿へ置いた。
「今日は何するんだい?」
鍋を混ぜながらマーサが尋ねる。
「警戒線の記録を、もう少し見ます」
「まだ完成してないのかい?」
「試用中です」
「そうだったね」
「それから……」
少女は一瞬、三軒目の家のことを言いかける。
けれど、今日は新しくできることがない。
権利確認は、次に西へ連絡できる機会を待つ。
屋根の状態も昨日確認した。
修理を始める段階ではない。
「家のことは、今日は何もしません」
「できないんだろ?」
「はい」
「ならしなくていいね」
「……簡単に言いますね」
「難しく言った方がいいのかい?」
「いいえ」
少女は笑いながら椅子へ座った。
豆と野菜を煮たものが器へ盛られる。
湯気の向こうに、柔らかくなった豆がいくつも見えた。
「いただきます」
一口食べる。
ガルドからもらう豆とは少し違う。
「味が違います」
「種類が違うからね」
「豆にもいろいろあるのですね」
「そりゃあるよ」
少女はもう一口食べた。
「こちらも好きです」
「そうかい」
「ガルドさんのも嫌いではありません」
「誰も聞いてないよ」
「念のためです」
朝食を食べながら、少女は今日の予定を頭の中で並べた。
警戒記録を見る。
使った人に聞く。
必要なら直す。
それ以外は、まだ決めていない。
以前なら、その空白が落ち着かなかった。
午前。
午後。
夕方。
何をするか先に決めておかなければ、一日を無駄にするような気がしていた。
今は、少し違う。
「午後はまだ決めていません」
少女が言うと、マーサが顔を上げた。
「急に何だい?」
「言ってみたくなりました」
「そうかい」
「ユウさんがよく言うので」
「なら昼になってから決めな」
「はい」
少女は少し笑った。
食事を終えた後は、二人で器を片づけた。
マーサが洗い、少女が拭く。
途中で役割が入れ替わったが、どちらから言い出したわけでもない。
少女が最後の器を棚へ戻したところで、外から大きな声が聞こえた。
「マーサー!」
少女とマーサが同時に窓を見る。
「……ガルドさんですね」
「朝からうるさいね」
玄関を開けると、予想通りガルドが立っていた。
両手には籠。
中には豆ではなく、丸い根菜がいくつも入っている。
「今日は豆ではないのですね」
少女が言うと、ガルドが胸を張った。
「芋だ!」
「見れば分かります」
「豆もあるぞ!」
「持ってこなくて大丈夫です」
「そうか!」
ガルドはまったく残念そうではない。
マーサが玄関まで出てくる。
「何しに来たんだい」
「芋持ってきた!」
「見れば分かるよ」
少女と同じ返事だった。
少女は少し笑いそうになったが、口元を押さえた。
「それと!」
ガルドが少女を見る。
「紙!」
「紙?」
「昨日のやつだ!」
少女は目を瞬いた。
「警戒線の記録ですか?」
「そうだ!」
「どうしました?」
「書いたぞ!」
「え?」
ガルドは胸元から折った小さな紙を取り出した。
少女は慌てて受け取る。
昨日の試用紙とは違う。
何かの包みに使っていたらしい古い紙の裏へ、炭で大きな文字が書かれている。
『朝』
『東』
『何もなし』
それだけだった。
少女は紙を見る。
ガルドを見る。
もう一度紙を見る。
「……これは?」
「朝、畑行く前に東の方見た!」
「見張り場所から?」
「道からだ!」
「何かありましたか?」
「何もなかった!」
「だから『何もなし』?」
「そうだ!」
少女はしばらく黙った。
昨日、ケルと話したばかりだった。
普段の見回りで異常がなければ、毎回記録しなくてよい。
記録が増えすぎれば、書くことそのものが負担になる。
それなのに、ガルドは自分から書いてきた。
「ありがとうございます」
「使えるか!」
「少し待ってください」
「何でだ!」
「確認します」
少女は紙を持ったまま考える。
ガルドが見た。
東。
何もなし。
それ自体は情報である。
しかし、どこまで見たのか分からない。
警戒線の近くへ行ったのか。
村の道から遠くを見ただけなのか。
何をもって「何もなし」としたのか。
「ガルドさん」
「おう!」
「どこまで行きました?」
「畑!」
「東の警戒線までは?」
「行ってない!」
「森の近くは?」
「行ってない!」
「足跡は確認しました?」
「してない!」
少女は紙へ目を落とした。
やはり、警戒記録として残すには曖昧だった。
ただ。
「東の方を見て、変わった様子はなかった、ということですね」
「そうだ!」
「分かりました」
「書くか!」
「正式な記録には書きません」
ガルドの顔が止まった。
「何でだ!」
「確認した範囲が、警戒線の記録として残すほどではないからです」
「見たぞ!」
「見てくださったことは分かっています」
「なら!」
「でも、全部記録したら、村の皆さんが東を見たたびに書くことになります」
少女は紙を両手で持ちながら説明する。
「ガルドさんが畑から見た。オルドさんが鶏小屋から見た。マーサさんが道を歩きながら見た。私が家の窓から見た。それを全部残したら、紙がすぐいっぱいになります」
ガルドは腕を組んだ。
「いっぱいじゃ駄目か!」
「必要なものが見つけにくくなります」
「そうか!」
納得が早かった。
少女は少し拍子抜けする。
「怒らないのですか?」
「何を!」
「せっかく書いたのに、使わないと」
「次書けばいい!」
少女は言葉を失った。
ガルドは何でもないように続ける。
「使える時の書けばいいだろ!」
「……そうですね」
「じゃあ芋置いてくぞ!」
「待ちな!」
マーサが声を上げる。
「全部置くんじゃないよ!」
「うまいぞ!」
「知ってるよ!」
「ならいいだろ!」
「多いんだよ!」
二人の声が玄関先へ響く。
少女は手元の紙を見る。
『何もなし』
正式な記録には使わない。
けれど、捨てる気にもならなかった。
自分が作ったものを、ガルドが自分から試そうとした。
しかも、使えないと言われても「次に書けばいい」と言った。
「……次に書けばいい」
少女は小さく繰り返した。
「何だ!」
「いえ。ありがとうございます」
「おう!」
結局、マーサは籠の半分ほどの芋だけ受け取り、残りをガルドへ持ち帰らせた。
ガルドが去った後、少女は小さな紙を見ながら台所へ戻る。
「それ、取っておくのかい?」
マーサが尋ねる。
「迷っています」
「使わないんだろ?」
「正式には」
「なら捨てれば?」
「でも、ガルドさんが初めて自分から書いてくださったので」
「好きにしな」
少女は考えた末、自分の個人的な紙の間へ挟んだ。
警戒記録ではない。
けれど、自分にとっては残しておきたい。
記録しなくてよい情報と、覚えておきたい出来事は同じではなかった。
「行ってきます」
「昼には戻るのかい?」
「そのつもりです」
「そのつもりね」
「遅くなりそうなら、一度戻ります」
「はいよ」
少女は家を出た。
村の中央へ向かう途中、昨日確認した三軒目の家へ続く道が視界へ入る。
少しだけ行きたいと思った。
窓を見たい。
リンカの木も見たい。
けれど、今日は家へ行ってもできることがない。
「……また今度」
誰に言うでもなく呟き、そのまま中央へ向かった。
見張り場所には、試用中の記録用紙が置かれている。
少女が近づくと、紙の一番下に新しい文字が増えていた。
『朝 外 反応なし』
少女は目を細めた。
「……増えています」
誰が書いたのか。
確認者の欄には何もない。
反応なしなのだから、確認者という考え方自体が合わなかったのかもしれない。
少女が紙を持って考えていると、背後から声がした。
「それ、俺」
振り返る。
ユウが歩いてくる。
「ユウさん?」
「朝、通った時に見たから」
「警戒線を?」
「うん。反応してなかった」
少女は紙を見る。
「でも、昨日ケルさんと話して、普段の異常なしは毎回書かなくてもよいのでは、という話になりました」
「あ、そうなんだ」
「はい」
「じゃあ消していいよ」
「よいのですか?」
「何が?」
「ユウさんが書いたのに」
「使わないなら」
朝から二人目だった。
少女は少しだけ笑う。
「何?」
「ガルドさんも、似たことを言いました」
「ガルドさんも書いたの?」
「畑から東を見て、『何もなし』と」
「それはだいぶ広いね」
「はい」
少女はユウの書いた一行へ薄く線を引いた。
完全に消すのではなく、試用中に不要と判断した例として残す。
「こうしておきます」
「消さないんだ」
「試した結果なので」
「なるほど」
「それに、なぜ不要になったか分かった方が、後で同じことを迷わなくて済みます」
「それはありかも」
少女は紙を棚へ戻す。
「ユウさん」
「何?」
「昨日、家へ来てくださるか聞いたことなのですが」
口から出してから、少女は自分でも驚いた。
朝から話すつもりではなかった。
ユウも少しだけ目を瞬く。
「家?」
「三軒目に住めたら、遊びに来てくださるかと」
「ああ」
少女は指先を軽く握った。
「変なことを聞きましたか?」
「別に?」
「そうですか」
「何で?」
「後から考えたら、修理でも相談でもないのに、わざわざ来てほしいと言ったので」
ユウは少し考える。
「人の家に遊びに行くのって、用事なくてもいいんじゃない?」
少女は顔を上げた。
「用事がなくても?」
「うん」
「何をするのですか?」
「話すとか」
「それだけ?」
「お茶飲むとか」
「それだけ?」
「何か食べるとか」
「食べてばかりですね」
「じゃあ何もしないとか」
少女は困った。
「人を家へ呼んで、何もしないのですか?」
「ずっと無言で座るって意味じゃないけど」
ユウは苦笑する。
「何か特別な用事がないと会っちゃ駄目ってこともないでしょ」
少女はすぐに返事ができなかった。
公爵家にいた頃、誰かが自分を訪ねてくる時には、たいてい理由があった。
茶会。
勉強。
婚約者としての予定。
礼儀作法。
相談。
報告。
幼い頃は、もう少し違ったのかもしれない。
妹が部屋へ飛び込んできて、「お姉様!」と呼んでいた頃。
友人だった彼女が、何の用事もなく自分の部屋へ来ていた頃。
けれど、いつからか。
人と会うことにも理由が必要になっていた。
「……用事がなくても、来てくださいますか?」
少女はもう一度尋ねた。
「住めたらね」
「はい」
「でも毎日は行かないよ」
「それはマーサさんにも言われました」
「何を?」
「毎日食事に来るのは多い、と」
「毎日来るつもりだったの?」
「少しだけ考えました」
「それ、一人暮らし?」
「だから料理も教えていただくことにしました」
ユウが笑う。
少女もつられて笑った。
「まだ住めるか分かりませんけれど」
「うん」
「でも、住めたら来てください」
「分かった」
今度は、それ以上何かを期待しなかった。
来てくれる。
その約束だけで、少し嬉しかった。
「ところで」
ユウが見張り棚を見る。
「今日は記録どうするの?」
「それを考えています」
「また増える?」
「増やさないように考えています」
「難しそう」
「難しいです」
少女は真剣に答えた。
「昨日までは、何を書けばよいか考えていました」
「今日は?」
「何を書かなくてよいかを考えています」
ユウは少しだけ笑った。
「そっちも大事だね」
「ユウさんの以前のお仕事でも?」
「記録?」
「はい」
「書かなくていいことまで書いてた時もあったかもね」
ユウは見張り場所の椅子へ座った。
少女も少し離れた長椅子へ腰を下ろす。
「何を書いていたのですか?」
「いろいろ。食事の量とか、水分とか、排泄とか、体調とか、その日にあったこととか」
「かなり多いですね」
「必要なのも多いよ。薬飲んだとか、転んだとか、いつもと様子違うとかは残さないと困るし」
「では、不要なものは?」
「施設によるけど……」
ユウは少し考える。
「同じ内容を別の紙にも書いたり、誰かに口で伝えたことをまた書いたり。必要な記録と、決まりだから書く記録が増えて、何のために書いてるのか分かんなくなる時もあったかな」
「決まりだから」
「うん」
「誰が決めたのですか?」
「それが分かんないやつもあった」
少女は眉を寄せる。
「分からないのに続けるのですか?」
「前からやってるから」
「それだけで?」
「それだけのこともある」
少女はしばらく黙った。
公爵家にも似たものはあったかもしれない。
なぜ必要なのか分からないまま続いている習慣。
誰も疑問を持たない礼儀。
昔からそうだからという理由で、守るもの。
「変えられなかったのですか?」
「変える方が大変なこともあるよ」
「でも、無駄なら」
「無駄って決めるにも話し合いがいるし、勝手にやめたら困る人がいるかもしれないし」
ユウは少しだけ肩をすくめる。
「俺一人の職場じゃなかったからね」
少女は警戒線の紙を見る。
自分一人で作ったものではなくなっている。
ガルド。
ケル。
ドラン。
オルド。
ローデン。
ユウ。
使う人の意見を聞きながら、少しずつ変えた。
「だから、皆さんに書いていただいたのですね」
「それは君が決めたんじゃない?」
「はい」
少女は少しだけ胸を張る。
「よかったと思います」
「俺も」
「でも、名前がまだ決まりません」
「名前?」
「この紙の」
「何でもよくない?」
「よくありません」
「ケルさんと同じこと言われた?」
「はい」
「じゃあ、みんな何でもいいと思ってるんじゃない?」
少女は言葉に詰まった。
「……そういう可能性はあります」
「何て名前にしたいの?」
「それが決まらないのです」
「じゃあ『東の記録』とか」
「簡単すぎませんか?」
「分かりやすいけど」
「内側の警戒線も東にありますし、森の痕跡も東ですし、確かに範囲は入りますが……」
「じゃあそれでいいじゃん」
「もう少し考えます」
「考えるんだ」
「はい」
ユウが笑う。
「何ですか?」
「いや。そういうの好きなんだなと思って」
「名前を考えることが?」
「整理するのが」
少女は少し考える。
「……好きなのかもしれません」
「前から?」
「分かりません」
公爵家では、できて当然だった。
帳簿を読む。
書類を整理する。
必要な情報を抜き出す。
それらは公爵家の長女として学ばされたことであり、好きか嫌いかを考えたことがなかった。
「できることと、好きなことは違いますよね」
「違うね」
「でも、同じこともありますか?」
「あるんじゃない?」
「私は、これはどちらでしょう」
「俺に聞くの?」
少女はすぐに首を横へ振った。
「いえ。自分で考えます」
「うん」
「今は、少し楽しいです」
「じゃあ今日はそれでいいんじゃない?」
「はい」
少女は記録用紙を見た。
役に立たなければならないから作っているわけではない。
誰かに頼まれて義務としてしているわけでもない。
村の安全に関係するものだから、適当にはできない。
それでも、自分はこの作業を少し楽しいと思っている。
そのことが、なんとなく嬉しかった。
「ユウさんは?」
「何が?」
「魔法のことを整理するのは好きですか?」
「そんなに」
「では、何が好きですか?」
尋ねた後、少女は少しだけ驚いた。
ユウが何をできるかではない。
何が好きなのか。
今まで、あまり聞いたことがなかった。
ユウも少し考えている。
「昼寝」
「それは知っています」
「風呂」
「それも」
「ご飯」
「それも知っています」
「だいたい知ってるじゃん」
「もう少しありませんか?」
「難しいな」
「私には聞くのに」
「聞いたっけ?」
「いろいろ聞かれています」
「そう?」
「そうです」
少女は少し身を乗り出した。
「好きな食べ物は?」
「肉」
「広すぎます」
「焼いたやつ」
「まだ広いです」
「何で尋問みたいになってるの?」
「記録ではありません」
「分かってるけど」
ユウは困ったように笑った。
少女はそこで、自分も笑っていることに気づく。
特別な話ではない。
危険の話でも、過去の話でも、追放の話でもない。
ただ、好きな食べ物を聞いている。
それだけなのに、妙に楽しかった。
「では、今度教えてください」
「今度?」
「思いついたら」
「分かった」
「忘れないでください」
「たぶん」
「怪しいですね」
「覚えてたら」
「もっと怪しくなりました」
二人で話していると、村の東側から足音が近づいてきた。
ケルとドランだった。
少女はすぐに立ち上がりかける。
しかし、二人の様子に緊張はない。
走ってもいない。
まずそれを見てから、ゆっくり立った。
「何かありましたか?」
少女が尋ねる。
ケルが首を横へ振った。
「新しいのはない」
「昨日の場所ですか?」
「ああ。昨日と今朝で新しい足跡は確認できなかった」
「警戒線は?」
「反応なし」
少女は紙へ手を伸ばしかける。
そこで止まった。
「今日は、昨日の異常地点を確認したのですか?」
「そうだ」
「では記録します」
今朝ユウが書いた「反応なし」とは違う。
昨日まで痕跡があった場所を、目的を持って再確認した。
少女は試用紙を木板へ載せる。
「ケルさん、書きますか?」
「俺が?」
「確認した方が書いた方がよいか試したいので」
「面倒だな」
「短くてよいです」
「お前が書けば早いだろ」
その言葉に、少女の手が一瞬止まった。
確かに、自分が書いた方が早い。
ケルから聞いて、自分が整えて書けば読みやすい。
字も自分の方が揃っている。
けれど、それでは。
「私がいない時に困ります」
少女は答えた。
ケルが少女を見る。
「だから、今日はお願いします」
「……分かった」
ケルは炭筆を受け取った。
木板へ置いた紙を見る。
『いつ』
そこへ『朝』。
『内側/外側』
反応していないため、どちらにも丸をつけず斜線。
『方向』
『北東』
『鳴り方』
斜線。
『天候』
『晴』
『確認した人』
『ケル・ドラン』
『線との位置』
『外側線の近く』
『見つけたもの』
『新しい痕跡なし』
『必要な補足』
ケルはそこで止まった。
「何かありますか?」
「昨日の足跡は残ってる」
「では?」
『昨日の足跡のみ。新規なし』
短い。
けれど、分かる。
「どうですか?」
少女が尋ねる。
「まだ項目多い」
「やはり?」
「でも昨日よりはましだ」
「どこを減らせますか?」
「天気」
少女は驚く。
「必要では?」
「雨とか雪とか強風なら書けばいい。普通に晴れてる時まで毎回書く必要あるか?」
少女は考えた。
確かに、痕跡確認に影響する天候なら必要。
けれど、何も影響がない晴天を毎回書く意味は薄い。
「では、『天候』を項目から外して、必要な時だけ補足へ?」
「それでいい」
「ドランさんは?」
少女が尋ねると、ドランは肩をすくめた。
「書くとこ減るなら賛成」
「理由が違います」
「結果は同じだろ」
少女は少し悔しかったが、反論できない。
「では、外してみます」
炭筆で『天候』へ細い線を引く。
また一つ減った。
「他には?」
「今はいい」
ケルが炭筆を返す。
「次に使ってからだ」
少女は受け取った。
「はい」
その返事は自然に出た。
今ここで完成させなくてよい。
次に使って、また考える。
「新しい痕跡はなかったのですね」
「ああ」
「では、昨日の獣らしきものが戻ってきた証拠もない?」
「ない」
「別の方向へ行った証拠も?」
「ない」
「では、分からない」
「そういうことだ」
少女は頷いた。
以前なら、「何もなかった」と聞いて安心しきったかもしれない。
あるいは逆に、「見つからなかっただけでは」と不安を広げたかもしれない。
今は、その中間に立てる。
確認した範囲では、新しい痕跡なし。
それだけ。
「ありがとうございます」
ケルとドランはそのまま村の中央へ向かった。
少女は二人を見送る。
「書かなかったね」
隣からユウが言った。
「何をですか?」
「代わりに」
「はい」
「前なら書いてた?」
少女は少し考える。
「書いていたと思います」
「何で今日は書かなかったの?」
「私が書いた方が早いからです」
「ん?」
「だから、書きませんでした」
ユウは少女を見る。
少女は自分でも少し可笑しくなりながら続ける。
「私が早いからと毎回書いていたら、私がいる時しか使えないものになるかもしれません」
「なるほど」
「それに、私は毎日これをするとは約束していません」
「うん」
「役に立ちたいとは思っています。でも、私がいなければ困る形にはしたくありません」
口にすると、胸の奥が少しだけ震えた。
以前の自分なら。
自分がいなければ困る。
それは、必要とされている証拠だと思ったかもしれない。
自分にしかできない。
だから自分には価値がある。
そんな場所を求めていたかもしれない。
「……少し、不思議です」
「何が?」
「以前なら、私にしかできないことがあれば、嬉しかったと思います」
「今は?」
「嬉しくないわけではありません」
少女は慎重に言葉を選ぶ。
「でも、それしか私がここにいる理由がないようになるのは、少し怖いです」
ユウは何も言わず聞いている。
「記録を作れなくても、私はこの村にいてよいのでしょうか」
尋ねてから、少女は自分で答えを知っている気がした。
それでも、言葉にしたかった。
ユウはすぐに答えなかった。
「今、記録作る前からいたよね」
「はい」
「卵焼ける前もいたし」
「はい」
「石鹸作る前も」
「まだ完成していません」
「じゃあ、完成してない石鹸の人?」
「何ですか、それは」
少女は思わず笑った。
「家もまだ決まってないし」
「はい」
「それでもいるじゃん」
「……はい」
「なら、記録作れなくてもいるんじゃない?」
簡単な答えだった。
けれど少女は、すぐには笑えなかった。
胸の奥に、静かに何かが落ちていく。
「そうですね」
やがて、そう答えた。
「私、もういましたね」
「うん」
「何もできると分かる前から」
「最初は歩くのも大変だったし」
「そうでした」
「水飲んで、ご飯食べて、寝てただけ」
「……そうでした」
少女は目を伏せた。
村へ来たばかりの自分。
足が痛くて。
疲れて。
怖くて。
何も返せなくて。
それでも、水をもらった。
食事をもらった。
眠る場所をもらった。
誰も「役に立て」とは言わなかった。
「忘れていました」
「何を?」
「何もできない時から、ここにいたことを」
ユウは少女を見た。
「できないっていうか、疲れてたんじゃない?」
「それでもです」
少女は少し笑った。
「今は、記録を考えるのが楽しいです」
「うん」
「だからやります。でも、私がやらなければならないものにはしません」
「いいと思う」
「もし私より上手にまとめる方がいたら?」
「その人にやってもらえば?」
少女の胸に、昔なら痛かったかもしれない言葉が落ちる。
妹ならもっと上手に。
妹ならもっと早く。
その考えが一瞬だけ浮かんだ。
けれど、以前ほど鋭くなかった。
「……そうですね」
「嫌?」
「少しだけ」
正直に答える。
「でも、前ほどではありません」
「そっか」
「もし妹がこれを見たら、もっときれいに作るかもしれません」
自分で言ってみる。
胸が少しざわつく。
けれど、耐えられないほどではない。
「でも」
少女は試用紙を見る。
ガルドの太い字。
ケルの短い記録。
線で消された天候欄。
自分が書いた文字。
「これは、私が皆さんと作ったものです」
妹が上手に作れるかどうかとは関係ない。
自分が作ったものが消えるわけではない。
以前、ベルから教わったことと同じだった。
「うん」
ユウはそれだけ言った。
少女も、それ以上説明しなかった。
昼が近づく頃、少女はマーサの家へ戻った。
途中でサナの家の前を通る。
庭先には、見覚えのある木箱が置かれていた。
石鹸を乾かしている箱だ。
少女は足を止めた。
サナが家の中から出てくる。
「見てく?」
「よいのですか?」
「触らなきゃね」
少女は庭へ入った。
箱の中には、四角く切られた石鹸が並んでいる。
以前より表面が乾き、色も少し落ち着いて見えた。
「もう使えますか?」
「まだ」
「まだですか」
「もう少し」
少女は笑った。
「以前より、残念ではありません」
「そう」
「待つものが増えましたので」
「家?」
「はい」
「石鹸より長そうだね」
「かなり」
サナも笑う。
「でも、家は待っている間に考えることがあります」
「石鹸もあるよ」
「何を?」
「次、何入れるか」
少女は目を瞬いた。
「次?」
「また作るんだろ?」
「……よいのですか?」
「やりたいって言ってたじゃない」
「はい」
以前、自分で言った。
役に立つためではなく、また作りたいと。
「香りを変えることもできますか?」
「できるよ」
「では、考えます」
「今決めなくていいからね」
「分かっています」
答えた後、少女は少し笑う。
「最近、皆さんから同じことを言われます」
「必要だからじゃない?」
「否定できません」
石鹸をもう一度見る。
まだ使えない。
けれど、確実に少しずつ変わっている。
「楽しみです」
「そう」
「では、また」
「はいよ」
少女はサナの家を出た。
マーサの家へ戻ると、昼食の準備が始まっていた。
「遅かったね」
「サナさんのところで石鹸を見ていました」
「使えた?」
「まだです」
「まだかい」
「でも、次に作る石鹸のことを考えてよいそうです」
「今のもまだなのに?」
「はい」
「増やしすぎるんじゃないよ」
少女は笑った。
「今日は考えるだけにします」
「ならいい」
昼食を食べる。
午前中に何をしたか、マーサへ簡単に話した。
ガルドが勝手に記録を書いてきたこと。
ユウも「反応なし」と書いたこと。
ケルと相談して、普段の異常なしは毎回残さないこと。
天候欄も消すことになったこと。
「減ってるじゃないか」
マーサが言う。
「はい」
「最初より?」
「かなり」
「じゃあ最初のは何だったんだい」
「必要だと思っていました」
「今は?」
「書かなくてよいこともあると分かりました」
少女は一口食べてから続ける。
「でも、ガルドさんが書いてくださった紙は取ってあります」
「記録にしないんだろ?」
「私が取っておきたいので」
「なら好きにしな」
「はい」
昼食後。
少女は午後に何をするか考えた。
警戒記録をさらに直すこともできる。
サナと次の石鹸について考えることもできる。
ベルの工房へ行って、久しぶりに鑿を使うこともできる。
家について書くこともできる。
選択肢はいくつもあった。
「マーサさん」
「何だい?」
「午後、少し昼寝します」
「そうかい」
「起きてから何をするか決めます」
「好きにしな」
少女は自室へ戻った。
横になる。
今日は頭を使った。
警戒記録。
ユウとの話。
役に立つこと。
妹のこと。
石鹸。
家。
考えることはいくつもある。
それでも、全部を今まとめる必要はない。
目を閉じる。
風が窓の外の葉を揺らしている。
その音を聞きながら、少女は眠りへ落ちた。
目を覚ました時、部屋の中へ差し込む光は少し西へ傾いていた。
身体を起こす。
思ったよりよく眠ったらしい。
「……午後」
まだ夕方ではない。
少女は水を飲み、顔を洗った。
何をするか。
少し考える。
「鑿」
今日は、それがやりたかった。
紙ではない。
家でもない。
石鹸でもない。
久しぶりに木を削りたい。
少女はマーサへ声をかけ、ベルの工房へ向かった。
工房では、ベルが小さな木箱を削っていた。
以前から作っている、用途の決まっていない箱だった。
「こんにちは」
「起きたか」
少女は驚く。
「なぜ寝ていたと?」
「マーサが言ってた」
「いつですか?」
「さっき通った」
「……村では隠し事が難しいですね」
「寝てたこと隠すのか?」
「隠しません」
「じゃあいいだろ」
「そうですね」
少女は工房の中を見る。
「今日、鑿を使ってもよいですか?」
「足は?」
「朝は零でした。今も痛みはありません」
「手は?」
少女は両手を開く。
「大丈夫です」
「疲れてないか?」
「昼寝しました」
「なら少しだけな」
「はい」
ベルは以前使った柔らかい端材を出してくれた。
そこには少女が最初に削った跡が残っている。
浅い傷。
深く入りすぎて欠けたところ。
少し整った線。
全部残っている。
「これを使いますか?」
「まだ削れる」
少女は椅子へ座った。
鑿を持つ。
刃の向き。
手を前へ置かない。
力を入れすぎない。
以前教わったことを思い出す。
「やります」
「勝手にしろ」
刃を木へ当てる。
ゆっくり押す。
薄い木屑がめくれる。
一回。
二回。
三回。
前より少しだけ感覚が分かる。
「上手くなっていますか?」
「前よりは」
「どれくらい?」
「知らん」
「見れば分かるのでは?」
「比べりゃ分かる」
ベルは以前の跡を指差した。
「ここより今の方が浅く揃ってる」
少女は見比べる。
確かに違う。
「上手になっています」
「そう言っただろ」
「嬉しいです」
「そうか」
少女はもう一度鑿を当てる。
今度は少し力が強かった。
刃が深く入り、端が小さく欠ける。
「あ」
手を止める。
失敗した。
けれど。
「深すぎました」
「そうだな」
「次は浅くします」
「そうしろ」
それだけだった。
少女は角度を少し変える。
次は浅く削れた。
「できました」
「見れば分かる」
「言いたいのです」
「好きにしろ」
少女は笑う。
しばらく削った。
上手くいく時。
深くなる時。
途中で刃が止まる時。
どれもある。
それでも、以前ほど一つ一つに意味をつけなくなった。
妹なら。
公爵家の娘なのに。
一度でできなければ。
そんな言葉が完全に消えたわけではない。
けれど、木を削っている間ずっと頭の中を占めることもなかった。
「今日はここまでにします」
少女は自分から鑿を置いた。
ベルが端材を見る。
「まだできるだろ」
「できます」
「じゃあ何でやめる」
「今日は、もう少しやりたいところでやめてみます」
ベルは少女を見る。
「何だそれ」
「分かりません」
「なら好きにしろ」
「はい」
少女は端材を持ち上げる。
新しい跡が増えている。
「持って帰ります」
「お前のだ」
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
少女は端材を布へ包んだ。
工房を出る。
午後の日差しは柔らかくなっていた。
村の中央を通る。
見張り場所の記録紙はそのまま。
新しい反応はない。
少女は足を止めたが、紙を取り出さなかった。
何も書く必要はない。
そのまま通り過ぎる。
少し先では、ユウがガルドと何か話していた。
ガルドの手には、また籠がある。
少女は嫌な予感がした。
「おう!」
見つかった。
「こんにちは」
「芋いるか!」
「朝マーサさんへ持ってきたでしょう?」
「まだあるぞ!」
「知っています」
ユウが横で笑っている。
「何ですか?」
「いや。慣れたなと思って」
「何に?」
「ガルドさんに」
「慣れました」
「おう!」
ガルドがなぜか嬉しそうに笑う。
「褒めていません」
「そうか!」
「でも、芋はおいしいと思います」
「だろ!」
「だから増やさないでください」
「分かった!」
本当に分かったのかは怪しい。
ガルドはそのまま別の家へ向かっていった。
少女は籠の行き先を見ながら呟く。
「次の方が困りそうです」
「たぶん受け取るよ」
「この村では、食べ物が回っていますね」
「俺のところにも来る」
「ユウさんは断らないのですか?」
「量による」
「豆は?」
「少しなら」
「ガルドさんに言わない方がよいですね」
「絶対言わないで」
ユウの返事が早かった。
少女は笑う。
「鑿?」
ユウが少女の布包みを見る。
「はい。少しだけ」
「どうだった?」
「前より上手になっていました」
「よかったね」
「でも、一度深く削りすぎました」
「じゃあ失敗?」
少女は少し考える。
「一回は」
「全部じゃなく?」
「はい。一回だけです」
「そっか」
ユウはそれ以上何も言わない。
少女は自分の答えをもう一度考えた。
一回失敗した。
だから今日の練習全部が失敗したわけではない。
当たり前のようで、以前は難しかったことだ。
「ユウさん」
「何?」
「好きな肉、思いつきましたか?」
ユウが止まった。
「覚えてたの?」
「忘れないでくださいと言いました」
「そうだった」
「何ですか?」
「鶏かな」
「焼いた鶏?」
「焼いたのも煮たのも好き」
「広がりましたね」
「駄目?」
「駄目ではありません」
少女は少し笑う。
「では、鶏料理」
「うん」
「覚えておきます」
「何で?」
聞かれて、少女は止まった。
なぜだろう。
何か作る予定があるわけではない。
贈り物をするわけでもない。
ただ知りたかった。
「……知っておきたいからです」
正直に答える。
ユウは少しだけ目を瞬いたが、すぐに頷いた。
「そっか」
「はい」
少女の胸が、ほんの少しだけ落ち着かなくなる。
昨日と似ている。
用事がなくても家へ来てほしい。
理由がなくても好きなものを知りたい。
なぜなのか。
まだ分からない。
けれど、今はそれでよい。
「私は何が好きでしょう」
少女が呟く。
「卵?」
「食べ物ですか?」
「今それの話じゃなかった?」
「そうですが」
「少し固めの卵」
「今のところ、です」
「じゃあ今のところそれ」
少女は笑った。
「そうですね」
今のところ。
それでよい。
好きなものは変わってもよい。
人への気持ちも、すぐ名前をつけなくてよいのかもしれない。
「では、帰ります」
「うん」
「ユウさんは?」
「ガルドさんから逃げたところ」
「逃げていたのですか?」
「芋を籠ごと置かれそうだった」
少女は吹き出した。
「笑い事じゃないよ」
「すみません」
「たぶん次マーサさんのところ行くよ」
「朝もう来ました」
「じゃあ俺のところ戻ってくるかも」
「頑張ってください」
「助けてくれないの?」
「全部は背負わないのでしょう?」
ユウが黙る。
少女は少しだけ胸を張った。
「ユウさんから教わりました」
「こういう時に使う?」
「使います」
「そっか……」
少女は笑いながらマーサの家へ戻った。
夕食までの時間、今日の記録を整理する。
警戒線の試用紙。
天候欄を消す。
普段の異常なしは書かない。
異常があった時。
異常地点を再確認した時。
警戒線が鳴らなくても、見回り中に何か異常を見つけた時。
その時だけ使う。
名称は。
「……東側確認記録」
書いてみる。
少し違う。
「警戒記録」
広すぎる気もする。
「東の見張り記録」
悪くない。
少女は何度か書き、最後に炭筆を置いた。
「明日、聞けばよいですね」
自分一人で決めなくてよい。
使う人が分かれば、それでよい。
今日中に名前を完成させる必要はなかった。
夕食の支度を手伝う。
今夜は朝にガルドが持ってきた芋を使うことになった。
「やはり食べるのですね」
「食べ物なんだから食べるよ」
「ガルドさんが喜びます」
「言うんじゃないよ」
「はい」
少女は芋の皮を剥く。
形を揃えようとして、マーサに「そこまで揃えなくていい」と言われた。
大きすぎるものだけ切り直す。
小さいものはそのまま。
鍋へ入れる。
「全部同じ大きさでなくても?」
「煮えりゃいいよ」
「小さいものが先に柔らかくなります」
「それが嫌なら後で入れな」
「なるほど」
少女は小さい芋だけ少し後に入れた。
全部を同じ形へするのではなく、違うなら扱いを少し変える。
そんな方法もある。
煮上がった芋は柔らかかった。
「おいしいです」
「ガルドの芋だからね」
「本人に言ってよいですか?」
「駄目」
「なぜです?」
「明日倍になる」
少女は笑いながら芋を食べた。
夕食後。
今日の日々の記録を書く。
『ガルドさんが、自分から東を見た記録を書いた』
『正式な記録には使わない』
『でも、私は取っておく』
『書けること全部を書かなくてもよい』
その下へ続ける。
『ケルさんに記録を書いてもらった』
『私が書いた方が早かったけれど、書かなかった』
そこで炭筆が止まる。
少し考え、続きを書いた。
『私がいなくても使える方がよい』
『私にしかできないものにしなくてよい』
以前の自分が読めば、どう思うだろう。
公爵家の長女として、妹より劣っていると言われ続けていた自分。
何か一つでも、自分だけのものが欲しかった自分。
その自分なら、「自分にしかできないこと」を手放すのは怖かったかもしれない。
今も、まったく怖くないわけではない。
誰でもできる。
自分でなくてもいい。
その言葉には、まだ少し胸がざわつく。
けれど。
『自分でなくてもできることを、自分がやってもよい』
少女は書いた。
誰かがもっと上手でも。
誰かがもっと早くても。
自分がやりたいなら、やってよい。
そして、疲れたら別の人に任せてもよい。
それで自分が消えるわけではない。
少女は炭筆を置き、今日ベルの工房で削った端材を手に取った。
最初の失敗。
次の失敗。
少し整った跡。
今日増えた新しい跡。
深く入りすぎた一か所。
全部同じ木の上に残っている。
「……消えませんね」
誰かがもっと上手に削っても、この木が元に戻るわけではない。
ベルが以前言ったことを思い出す。
少女は端材を机へ戻した。
その隣には、三軒目の家についての紙がある。
『私は、三軒目の家に住みたい』
『まだ決めてはいない』
今日はそこへ何も足さなかった。
新しい情報がないから。
住みたい気持ちを何度も書き直して、強くする必要もない。
待つ。
それだけ。
最後に、少女は今日ユウと話したことを思い出した。
鶏料理が好き。
焼いたものも、煮たものも。
それを記録へ書くか迷う。
「……これは、書かなくてよいことですね」
誰かへ報告する必要はない。
忘れて困ることでもない。
それでも。
少女は紙の端へ小さく書いた。
『ユウさんは、鶏料理が好き』
書いた後、自分で顔が熱くなる。
「……なぜ書いたのでしょう」
必要な記録ではない。
警戒線にも。
家にも。
村の仕事にも。
何の役にも立たない。
それでも、消す気にはならなかった。
少女はその一行をしばらく見つめる。
やがて紙を二つに折り、その文字が内側になるように閉じた。
書かなくてよいこと。
残さなくてよいこと。
誰かに見せなくてよいこと。
それでも、自分が覚えておきたいなら、残してもいい。
全部の記録に役目が必要なわけではないのかもしれない。
机の端へ紙を置く。
明日、警戒記録の名前は皆に聞けばいい。
家の返事はまだ来ない。
石鹸もまだ使えない。
森の獣についても、新しいことは分からない。
分からないことは、今日もいくつも残っている。
それでも今日は、木を削った。
芋を食べた。
昼寝をした。
ユウの好きな食べ物を一つ知った。
それで一日は終わってよかった。
少女は灯りを消し、寝台へ入る。
目を閉じる直前。
窓の近くへ机を置いた小さな家を、ほんの少しだけ思い浮かべた。
その机の上には紙があって。
壁には、まだ一冊も持っていない本を置く棚があって。
そして時々、特別な用事もないのに誰かが扉を叩く。
そこまで想像したところで、少女は薄く笑った。
誰が来るのかまでは、考えないことにした。
まだ分からないものは、分からないままでよかった。




