第34話 古い帳面
翌朝、少女が目を覚ますと、窓の外には昨日より明るい空が広がっていた。
夜のうちに雲はほとんど流れてしまったらしく、薄いカーテンの向こうから柔らかな朝日が差し込んでいる。庭先では小鳥が短く鳴き、少し離れた家から薪を割る乾いた音も聞こえていた。
少女は寝台の端へ座り、いつものように右足を床へ下ろした。
踵へ体重を乗せる。
立つ。
数歩歩く。
「……零」
今朝も痛みはなかった。
以前なら、何日も痛まなければ「もう治った」と決めてしまいたくなったかもしれない。けれど今は、今日の朝が零なら、それだけで十分だった。
少女は着替えを済ませると、机の上へ置いてある紙を見た。
昨日の日記。
『今日は、やりたいことを全部はやらなかった』
『全部しなくても、一日はなくならない』
昨夜書いた文字を読み返し、少しだけ恥ずかしくなる。
「……大げさですね」
誰もいない部屋で呟いた。
それでも消さなかった。
隣には警戒線の改善メモがある。
『反応なしの確認時、鳴り方欄が不要になる』
『反応記録だけでなく、確認記録として使うか?』
『ローデンさん――一枚がよい』
『毎日書く必要があるかも確認する』
そして、その横には三軒目の空き家についてまとめた紙。
昨日は開かなかった古い帳面。
今日は読みたい。
そう思った。
ただし、その前に朝食を食べる。
少女は紙を置き、部屋を出た。
台所へ入ると、マーサが既に火を起こしていた。今日は平たいパンを炙っているらしく、香ばしい匂いが部屋へ広がっている。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日は晴れましたね」
「洗濯物が乾きそうだ」
少女は窓から空を見る。
「では、洗濯を?」
「朝飯の後ね」
「手伝います」
「やりたいなら」
「はい」
即答してから、少女は少し考えた。
「でも、その後に帳面を読みたいです」
「昨日やめたやつかい?」
「はい」
「なら洗濯全部終わるまで付き合わなくていいよ」
「途中で?」
「あたし一人でもできるし」
少女は一瞬、反射的に「最後まで手伝います」と言いそうになった。
けれど、昨日のことを思い出す。
全部しなくても、一日はなくならない。
手伝うなら、最後まで。
始めたなら、終わるまで。
その考え方も、少しずつ緩めてよいのかもしれない。
「では、干すところまで手伝います」
「量見て決めな」
「はい」
マーサが焼いたパンと野菜の煮込みが卓へ並ぶ。
少女は椅子へ座り、手を合わせた。
「いただきます」
パンをちぎって煮汁へ浸す。
昨日食べた煮た卵のことを思い出したが、今日は卵がない。
オルドのところへ買いに行くこともできる。
けれど、毎朝卵を食べなければならないわけではなかった。
「今日は卵、買わないのかい?」
考えていたことをマーサに聞かれ、少女は顔を上げた。
「今日は、なくてもよいかなと思っています」
「飽きた?」
「いいえ。また食べたいです」
「じゃあ何で?」
「今日はこれがおいしいので」
少女は煮汁の染みたパンを見せた。
マーサは一度だけそれを見て、何でもないように自分の朝食へ戻る。
「なら食べな」
「はい」
それだけの会話だった。
けれど少女には、その簡単さが心地よかった。
朝食後、二人で洗濯を始めた。
少女は水を運び、マーサが洗った布を受け取る。途中からは少女も何枚か洗い、二人で庭の縄へ干していった。
昨日の雨が嘘のように日差しは明るい。
濡れた布を広げると、朝の風がすぐにその端を揺らした。
「これで最後ですか?」
「まだ籠にあるよ」
マーサが家の中を指す。
少女は振り返る。
まだ数枚残っている。
「……どうしましょう」
「何が?」
「干すところまで手伝うと言いました」
「今干しただろ」
「全部ではありません」
「全部とは言ってないね」
少女は自分の言葉を思い返した。
確かに、「干すところまで」と言っただけだった。
「では、ここでやめても?」
「好きにしな」
「マーサさんは大丈夫ですか?」
「このくらいならね」
少女は少し迷った後、頷いた。
「では、お願いします」
「はいよ」
「ありがとうございます」
手を拭き、家へ入る。
残りをマーサへ押しつけたような感覚は、完全には消えていない。
それでも、マーサ自身が大丈夫だと言っている。
相手の「大丈夫」を、自分の不安だけで否定しなくてもよい。
少女は自室から紙と炭筆を持ち出した。
今日は古い帳面を読む。
その前に村の中央へ寄り、警戒線の記録だけ確認することにした。
外へ出ると、道は昨日より乾いていた。
東の森は遠くから見ればいつもと変わらない。木々の上を鳥が一羽横切り、そのまま北側へ消えていった。
見張り場所へ近づく。
ベルが作った棚には、昨日と同じ試用紙が挟まれていた。
少女は紙を取り出す。
新しい記録はない。
「今日は、まだ何もなし」
それでよい。
警戒線が鳴らないことを残すために、毎朝自分が何か書く必要もない。
少女が紙を棚へ戻そうとした時、背後から足音が聞こえた。
「早いな」
ケルだった。
「おはようございます」
「おう」
「昨日のことを聞きたかったのですが、今よいですか?」
「何だ?」
少女は改善メモを開いた。
「昨日、警戒線が鳴っていないのに、前日の場所を確認したので『鳴り方』が書けなかったとおっしゃいましたよね」
「ああ」
「この紙を、警戒線が鳴った時だけではなく、東側を確認した時にも使う方がよいと思いますか?」
ケルは記録用紙を見る。
「毎回か?」
「そこも迷っています」
「毎朝見回っただけで書くなら、面倒だな」
「ローデンさんも一枚で済ませた方がよいと言いました」
「紙を分ける必要はない」
「では?」
ケルは少し考える。
「何かあった時と、何かを確かめに行った時だけでいいんじゃないか」
「何かを確かめに?」
「昨日みたいにな。前の日に足跡があったから、同じ場所を見た」
「普段の見回りは?」
「何もなければ書かなくていい」
「でも、後から見た時に、見回っていなかったのか、見回ったけれど何もなかったのか分からなくなりませんか?」
「そこまで残したいか?」
少女は答えようとして、止まった。
残せるなら残した方が正確だ。
毎日の見回り。
誰が行ったか。
どこまで見たか。
異常がなかったか。
天候。
時間。
全部書けば、後から状況を追いやすい。
けれど。
「……毎日書く方は、面倒ですか?」
「俺は嫌だな」
ケルは即答した。
少女は思わず笑った。
「そこまで迷わないのですね」
「森見るのが仕事で、紙書くのが仕事じゃない」
「はい」
昨日ユウやマーサからも似たことを聞いた。
本来の目的を圧迫するほど記録を増やさない。
「では、異常があった時と、異常があった場所を改めて確認した時」
「それくらいでいいんじゃないか」
「警戒線が鳴らずに、見回り中に何か見つけた場合は?」
「書く」
「では、『警戒線反応記録』という名前では狭いですね」
「名前なんぞ何でもいい」
「よくありません」
「そうか?」
「はい」
少女は真剣に答えた。
ケルは少しだけ口元を緩める。
「じゃあ好きにしろ」
「考えます」
少女はメモへ書き足した。
『普段の異常なし見回りは記録しない』
『異常発見時/異常地点の再確認時は記録』
『警戒線反応記録→名前を変える?』
「それと、昨日の紙は一枚のままでよいですか?」
「ああ」
「『鳴り方』は、警戒線が鳴っていない時には斜線で?」
「それで分かるなら」
「では、そうします」
少女は頷いた。
「ありがとうございます」
「もういいか?」
「はい」
「今日は東へ行かないのか?」
思いがけず尋ねられ、少女は目を瞬いた。
「私が?」
「昨日、一昨日と気にしてただろ」
「気にはなっています」
「なら?」
「今日は帳面を読みたいので」
「そうか」
ケルはそれ以上何も言わなかった。
少女は少しだけ嬉しくなる。
森が気になる。
家も気になる。
両方気になっていても、今日は家の方を選んでよい。
「何かあれば教えていただけますか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
少女は見張り場所を離れた。
向かったのは、村の中央から少し西へ寄った場所にある小さな倉庫だった。
ローデンが使っている古い帳面の一部は、湿気を避けるため木箱へ入れられている。村の財産や家、畑、道、昔のやり取りなど、残っている内容は年代によってかなり違うらしい。
倉庫の前には、既にローデンがいた。
「来たか」
「はい」
「今日は読むんだな」
「今日は読みます」
「最後まで?」
少女は一瞬黙った。
「……一冊までにします」
「昨日と同じだな」
「昨日は一冊読んだので」
「なら今日は次の一冊か」
「はい」
ローデンは鍵を開ける。
中へ入ると、乾いた木と古い紙の匂いがした。
窓は小さい。
朝の日差しが細く差し込んでいるものの、帳面を読むには少し暗かった。
「灯りを使いますか?」
少女が尋ねる。
「火は嫌だな」
「では、私の魔法でも?」
「できるのか?」
「小さいものなら」
少女は右手を上げる。
集中すると、掌の少し上に淡い黄色の光が浮かんだ。
ユウの魔導書から生まれるような強い光ではない。
部屋全体を照らすほどでもない。
それでも、卓の上を見るには十分だった。
「便利だな」
ローデンが言う。
少女は一瞬だけ妹のことを思い出した。
妹なら、もっと明るく。
もっと長く。
そんな言葉が浮かびかける。
けれど、今は帳面の文字が読めればよい。
「これくらいなら」
少女は答えた。
「十分だ」
ローデンは木箱から一冊を取り出した。
昨日読んだものより少し新しい。
表紙の角は擦れているが、紐はまだしっかり残っている。
「これは?」
「ハルト爺さんがまだ生きてた頃の、家と畑の記録が混じってる」
「息子さんの名前も?」
「たぶんな」
少女は椅子へ座った。
ローデンは向かいではなく、少し離れた場所で別の書類を整理し始める。
「分からない字があったら聞け」
「はい」
「破れてるところは勝手にめくるなよ」
「はい」
「あと」
「何でしょう」
「息止めて読むな」
少女は顔を上げた。
「息はしています」
「昨日してなかったぞ」
「していました」
「顔がそう見えた」
「どんな顔ですか?」
「帳面に入っていきそうな顔」
少女は少し不満そうにローデンを見た。
「ユウさんにも、似たようなことを言われた気がします」
「なら二人分聞いとけ」
「マーサさんと同じことを言いますね」
「村だからな」
最近、何度も聞く言葉だった。
少女は小さく笑い、帳面を開いた。
最初の数頁は畑についての記録だった。
誰がどの区画を使っていたか。
水路の修理。
境界の杭。
収穫が少なかった年。
今の自分には直接関係のない内容が続く。
少女はそれでも、一行ずつ読んだ。
貴族家で帳簿を読む訓練はしていた。
領地収入。
使用人への支払い。
倉庫の在庫。
季節ごとの支出。
数字や記録を追うこと自体は苦ではない。
むしろ、嫌いではなかった。
しばらく進むと、見覚えのある名前が現れた。
「ハルト」
少女は声を落とす。
ローデンが顔を上げた。
「あったか?」
「はい」
そこには、ハルトが家の横に小さな薪置き場を増やすため、村の共有林から一定量の木材を受け取った記録があった。
「薪置き場……」
少女は三軒目の家を思い出す。
ベルが確認した、小さな屋根の傷んだ薪置き場。
「今も残っているものですね」
「たぶんな」
「この時に作った?」
「補修かもしれん。そこまでは分からん」
「そうですね」
少女は紙へ写そうとして、手を止めた。
必要だろうか。
薪置き場が昔からある。
それは分かった。
けれど、家の権利確認には直接関係しない。
「書かないのか?」
ローデンに尋ねられる。
「迷っています」
「書きたいなら書けばいいだろ」
「でも、必要ではないかもしれません」
「何のための紙だ?」
少女は自分の持ってきた紙を見る。
三軒目の家について分かったことをまとめた紙。
権利確認だけのために作ったわけではない。
自分が住めるかもしれない家について、知ったことを書いている。
「……書きたいです」
「なら書け」
少女は小さく書き足した。
『昔から薪置き場あり。今のものと同じかは不明』
事実と推測を分ける。
警戒線の記録で覚えたことが、こんなところにも繋がっていた。
「これなら?」
「いいんじゃないか」
少女は次へ進む。
何頁か後。
再びハルトの名。
今度は家そのものに関する記録だった。
『北西小屋根補修』
『窓枠交換』
『リンカ木剪定』
少女の目が止まる。
「リンカの木」
「何だ?」
「家の横の木です」
「そうだな」
「昔からあったのですね」
「俺が子供の頃にはあったぞ」
少女は顔を上げた。
「では、かなり古い?」
「木だからな」
「そうですね」
当たり前の返事なのに、少し笑ってしまう。
帳面には剪定の理由までは書かれていない。
誰が切ったのかも分からない。
ただ、あの木が何年も前から家の横に立っていたことだけは分かった。
少女はその一行も紙へ書いた。
『リンカの木は昔からある』
今度は迷わなかった。
権利確認には関係ない。
それでも、自分は知りたかった。
頁を進める。
ハルトの妻らしい女性の名前も何度か出てきた。
ミナ。
家の裏で薬草を育てていたらしい記録。
小さな畑を一部返した記録。
病気になった年には、薪運びを村の若者が手伝った記録もある。
「奥さんがいたのですね」
「ああ。ハルト爺さんより先に亡くなった」
「そうでしたか」
「だいぶ前だ」
少女は家の中を思い出した。
一人用としては小さい。
けれど、かつては二人で暮らしていた時期もあったのだろう。
壁に残っていた棚の跡。
窓の近く。
古い炉。
誰かがそこで食事をし、眠り、季節を過ごしていた。
急に家が少し違って見える気がした。
「どうした?」
「いえ」
少女は帳面へ視線を戻す。
「空き家になる前にも、生活があったのだと思って」
「そりゃ家だからな」
「はい」
「嫌になったか?」
少女は驚いて顔を上げる。
「なぜです?」
「他人が長く住んだ家だ」
考えてみる。
嫌ではない。
むしろ。
「少し、安心しました」
「安心?」
「誰かが暮らせた家なのだと思ったので」
「今は直さなきゃ住めんけどな」
「それはベルさんにも言われました」
少女は笑う。
「完璧ではなくても、暮らしながら直したところがあったのですね」
「昔の家なんぞそんなもんだ」
「私が見た時だけ傷んでいたわけではない」
「当たり前だ」
「はい」
少女はまた帳面へ目を落とした。
次の数頁には、ハルトの息子と思われる名が出てきた。
「エルド」
少女は小さく読む。
ローデンが近づいてくる。
「そこだな」
記録には、エルドが西の町へ移った年が書かれていた。
職人の手伝いとして村を出たらしい。
その数年後、村へ戻らないことを前提に畑の一部を返した記録もある。
「家は?」
少女は頁を追う。
畑については書いてある。
けれど家については、ハルトの名がそのまま残っていた。
「息子さんへ移していない?」
「この帳面ではな」
「では、ハルトさんの家のまま?」
「当時は本人が住んでたからな」
「そうですね」
少女はさらに読む。
何年か進む。
ハルトの妻ミナが亡くなった記録。
その後もハルトは一人で住み続けている。
村から薪運びを手伝った記録が増える。
屋根の小さな修理。
井戸までの道に手すり代わりの杭を打った記録。
少女は一つずつ読みながら、少しずつ胸の中へ何かが積もっていくのを感じた。
老人が一人で暮らしていた。
だからといって、全部一人でしていたわけではない。
村の誰かが薪を運ぶ。
屋根を直す。
道を整える。
昨日まで、自分が何度も教えてもらったことと同じだった。
「ハルトさんも、一人で住んでいたのですね」
「ああ」
「でも、皆さんに手伝ってもらっていた」
「年取ってからは特にな」
「家が一人なだけ」
少女が呟く。
ローデンが少女を見る。
「前にも言ったな」
「はい」
少女は帳面の文字を指で追った。
「言葉で聞いた時より、少し分かる気がします」
そこには、何年分もの記録がある。
薪を運んだ。
屋根を直した。
病気の時に食事を届けた。
それでも、その家はハルトの家だった。
「誰かに助けてもらっても、自分の家なのですね」
「そうだろ」
「はい」
少女は少しだけ笑った。
自分の家を持つなら、自分で全部しなければならない。
そんな考えが、まだどこかに残っていた。
けれど、あの家で以前暮らしていた人も、村に助けられていた。
助けてもらうことは、家を自分の場所ではなくするものではない。
さらに頁を進める。
やがて、ハルトが亡くなった年へ辿り着いた。
文字は簡潔だった。
日付。
死亡。
家財の一部を息子エルドへ送付。
残った家具のうち、使えるものは村で一時保管。
家については――。
少女の目が止まる。
「ここです」
以前見つけた、破損している記録へ繋がる部分だった。
ただし、昨日見た帳面とは別の記録らしい。
文字は途中まで読める。
『家屋について、エルドより――』
その後が薄れていた。
少女は顔を近づける。
「触るなよ」
「はい」
紙には触れず、角度を変える。
魔法の光を少し横へ移す。
文字の凹凸が僅かに浮いた。
「……『当面』?」
少女が呟く。
ローデンも横から見る。
「そう見えるな」
『当面、村にて――』
その先は紙の端が欠けている。
次の頁にも続きらしい文字はない。
「やはり、分かりませんね」
「ああ」
少女は少しだけ肩を落とした。
何か決定的な一文が見つかるのではないかと、どこかで期待していた。
村で使ってよい。
誰かに住んでもらってよい。
そうはっきり書いてあれば、少し先へ進めると思っていた。
けれど、読めるのは『当面、村にて』まで。
「残念か?」
ローデンが尋ねる。
「はい」
少女は正直に答えた。
「もう少し分かるかと思いました」
「そうか」
「でも」
もう一度、文字を見る。
「分からないものは、分からないですね」
「ああ」
「勝手に続きは作れません」
「それやったら記録読む意味ないからな」
「はい」
少女は自分の紙へ書く。
『ハルト死去後、家についてエルドから何らかの返答あり』
『読める範囲――「当面、村にて」』
『続き破損。不明』
少し考え、『村で使ってよい、とは断定できない』と付け足した。
「それでいい」
ローデンが言う。
少女は頷いた。
知りたかった答えは見つからなかった。
それでも、何も得られなかったわけではない。
エルドから返答そのものは来ている。
少なくとも、家のことを完全に放置したわけではない。
そして、当面は村に何かを任せる意思があった可能性はある。
ただし、その範囲が分からない。
「次の手紙では、この記録についても尋ねた方がよいですね」
「ああ。昔こういう返事をもらったが、今どう考えているか、って聞けばいい」
「もしエルドさんが亡くなっていたら?」
「その時は家族がいるか調べる」
「さらに分からなければ?」
「またその時考える」
少女は小さく息を吐いた。
「長いですね」
「家だからな」
「王都では、もっと早かった気がします」
「公爵家だからじゃないか?」
言われて、少女は少し考える。
公爵家では、土地や建物に関することは多くの使用人や役人が動いていた。
自分が何かを必要とすれば、既に整っていることも多かった。
結果だけが自分のところへ届く。
今は違う。
一軒の小さな家を使いたい。
それだけのために、古い帳面を読み、昔の持ち主を調べ、西の町にいるかもしれない親族へ確認する。
「一つの家に住むのも、大変なのですね」
「自分のもんじゃない家だからな」
「はい」
「勝手に使う方が早いぞ」
「それは嫌です」
「なら待て」
「待ちます」
少女はすぐに答えた。
待つ。
石鹸と同じではない。
けれど、今できることをした後に、相手の返事を待つという点では少し似ている。
頁をさらに進める。
ハルトが亡くなった後、家に関する記録はほとんどなくなった。
一度、風で屋根板が飛び、村側で応急処置をした記録。
その後、何年かして窓の確認。
最近ではほぼ使われていない。
「ベルさんが言っていた屋根の傷みは、この後ですね」
「たぶんな」
「今度、梯子を持って見ると言っていました」
「勝手に直すなよ」
「分かっています」
「お前じゃなくベルに言っとく」
「ベルさんも分かっています」
「分かってても直す時あるからな、あの爺さん」
少女は少し笑った。
「皆さん、似ていますね」
「誰と誰が」
「できると、やってしまうところが」
ローデンが少し考える。
「まあ、あるな」
「ユウさんは、できてもやらないことがあります」
「あいつはやらなすぎる時もある」
「そうなのですか?」
「昼寝してるからな」
「でも、必要なら起きますよね」
「必要ならな」
少女は帳面を閉じる前に、最後の頁を確認した。
この一冊に、これ以上三軒目の家へ関係する記録はなさそうだった。
それでも、予定していた一冊を読み終えた。
「終わりました」
「次もあるぞ」
ローデンが別の木箱へ視線を向ける。
少女の心が動く。
「次には?」
「もっと新しい記録。ハルト爺さんが死んだ後の修繕とか、村の空き家一覧とか」
「読みたいです」
「読むか?」
少女は窓を見る。
朝より日差しが高くなっている。
どれくらい時間が経ったのか。
右手の魔法の光も、最初より少し揺らいでいた。
疲労は強くない。
まだ読める。
けれど。
「今日は一冊までと決めました」
「そうだったな」
「でも、読みたいです」
「じゃあ読めば?」
少女は困った。
「止めてくださらないのですか?」
「何で俺が止めるんだ」
「一冊までと」
「決めたのはお前だろ」
「そうですが」
「変えてもいいんじゃないか?」
少女は黙った。
決めたことを守る。
それは大事だと思う。
けれど、決めたから絶対に変えてはいけないのなら、それもまた別の縛りになる。
「……もう一冊読んだら、疲れそうです」
「なら?」
「今日はやめます」
「そうか」
「でも、一冊までと決めたからではありません」
少女は自分で言いながら、その違いを確かめる。
「今、少し休みたいからやめます」
「それなら片づけるぞ」
「はい」
ローデンは帳面を木箱へ戻した。
少女も魔法の光を消す。
途端に倉庫の中が少し暗くなり、窓から入る自然光がはっきり見えた。
「魔法、疲れるか?」
「この程度なら少しだけです」
「じゃあ外出ろ。暗いところで文字ばっか見てると目も疲れる」
「はい」
二人で倉庫を出る。
外の日差しは思ったより眩しかった。
少女は目を細め、数回瞬きをする。
「……明るいです」
「中暗いからな」
風が頬へ触れる。
帳面の古い紙の匂いから、土と草の匂いへ戻る。
少女は大きく息を吸った。
「どうだった?」
ローデンが尋ねる。
「答えは見つかりませんでした」
「そうだな」
「でも、読んでよかったです」
「何で?」
少女は少し考える。
「ハルトさんが、あの家で暮らしていたことが分かりました」
「知ってただろ」
「知識としては」
少女は三軒目の家がある方向を見る。
「奥さんがいて、一人になってからも暮らして、薪を運んでもらったり、屋根を直してもらったりしていたことは知りませんでした」
「そうだな」
「リンカの木も、ずっと前からあった」
「ああ」
「家が、少しだけ家らしくなった気がします」
ローデンは少女を見る。
「変なことを言っていますか?」
「いや」
「住みたくなりました」
口にしてから、少女は自分で驚いた。
昨日までは、「住めたらよい」「候補にしたい」「少し住んでみたい」という言葉だった。
今は、もう少しはっきりしている。
「……私、あの家に住みたいのかもしれません」
ローデンはすぐには返事をしなかった。
「決めたのか?」
少女は考える。
権利確認は終わっていない。
屋根もまだ完全には見ていない。
自分の法的な身分も曖昧なまま。
「いいえ」
少女は首を横へ振った。
「まだ決められません。でも、住みたいと思っています」
「なら、それでいいんじゃないか」
「決めていないのに?」
「気持ちまで保留にする必要あるか?」
少女は目を瞬いた。
「……ありませんね」
「住みたい。けど、まだ決められない。それでいいだろ」
「はい」
胸の奥が少し温かくなる。
住みたいと思っていい。
使えない可能性があっても。
期待して、駄目だったら残念に思ってもいい。
「手紙を出せる時になったら、教えてください」
「ああ」
「その時は、私も何か書いた方がよいですか?」
「村から事情を書く。お前のことをどこまで書くかは、その時相談だ」
「公爵家のことも?」
「勝手には書かん」
少女はほっとした。
「ありがとうございます」
「まだ名前も聞いてないしな」
少女の呼吸が、一瞬だけ止まった。
ローデンはそれ以上何も言わない。
少女も、すぐには口を開かなかった。
名前。
この村へ来てから、誰にも伝えていない。
サナには公爵家の娘だったことを話した。
ローデンとユウには、元王太子の婚約者だったことまで伝えた。
それでも、自分の名前だけはまだ口にしていない。
「必要ですか?」
少女は静かに尋ねた。
「今すぐは」
ローデンは答える。
「手紙を出す時も、お前の家の話をしなきゃいいなら必要ないかもしれん」
「そうですか」
「でも、ずっと知らないままかは分からん」
「はい」
「言いたくなった時に言えばいい」
少女は胸元へ手を置いた。
怖い。
名前を言えば、過去と繋がるような気がする。
公爵家の娘だった自分。
王太子の婚約者だった自分。
広間で罪を告げられた自分。
追放された自分。
名前には、そのすべてがついてくるような気がしていた。
「今日は、まだ言いません」
「ああ」
「でも」
少女は少しだけ迷った。
「いつかは、言いたいと思います」
ローデンはただ頷いた。
「そうか」
それだけだった。
名前を言わないことを責められない。
言いたいと思ったことも、大げさに扱われない。
少女は小さく息を吐いた。
「では、戻ります」
「昼飯忘れるなよ」
「今日は覚えています」
「昨日も覚えてたな」
「成長しました」
「二日でか?」
「少しずつです」
少女は笑い、マーサの家へ向かった。
途中、村の中央を通る。
見張り場所の棚は変わらずそこにある。
警戒線は鳴っていない。
少女はその前を通り過ぎた。
今は昼食を食べる。
記録のことは午後でもよい。
マーサの家へ戻ると、庭の洗濯物はほとんど乾いていた。
朝、自分が干さなかった残りの布も並んでいる。
「おかえり」
マーサが家の中から言った。
「ただいま戻りました」
「帳面どうだった?」
「答えは見つかりませんでした」
「そうかい」
「でも、ハルトさんの奥様の名前が分かりました」
「ミナだろ」
「ご存じだったのですか?」
「知ってるよ」
少女はその場で固まった。
「……先に聞けばよかったです」
「何を?」
「名前です」
「聞かれてないからね」
少女はしばらくマーサを見る。
「皆さん、知っていることを全部先に教えてはくださらないのですね」
「何で全部教えなきゃいけないんだい」
「そうですよね」
少女は笑ってしまった。
「昼飯にします」
「そうしな」
昼食を食べながら、帳面で分かったことを話す。
ハルトとミナが暮らしていたこと。
息子のエルドが西へ出たこと。
ハルトが一人になった後も村の人に助けてもらいながら暮らしていたこと。
家に関する返答が破損していて、結局正式な確認が必要なこと。
マーサは途中で口を挟まず聞いていた。
「それで?」
「住みたいと思いました」
少女は今度は迷わず言った。
マーサが匙を止める。
「決めたのかい?」
「まだです」
「そう」
「でも、住みたいです」
「なら確認取れるといいね」
「はい」
その一言が嬉しかった。
「寂しいですか?」
「前にも聞いたね」
「はい」
「少しはね」
「それでも?」
「それでも何だい」
「住みたいと言ってもよい?」
マーサは呆れたように少女を見る。
「何であたしの許可がいるんだい」
「……そうですね」
「住めるようになったら、その時また考えな」
「はい」
少女は煮込みを一口食べる。
味は昨日と大きく変わらない。
けれど、少しだけ胸の中が軽かった。
食後、今日は昼寝をしなかった。
代わりに庭の椅子へ座り、乾いた洗濯物を何枚か取り込む。
朝、自分が干さなかったものも混ざっていた。
誰が干したかは関係ない。
乾いている。
今、自分の手が空いている。
だから畳む。
それだけだった。
何枚か終えたところで、家の前をユウが通った。
少女に気づき、足を止める。
「こんにちは」
「こんにちは。洗濯?」
「はい。朝は途中でやめたので、乾いたものを少しだけ」
「そっか」
「ユウさんは?」
「ベルさんと屋根見に行く」
少女の手が止まった。
「屋根?」
「三軒目の」
思わず立ち上がりそうになる。
「今日ですか?」
「梯子借りられたから。ベルさんが今なら見るって」
「私も行ってよいですか?」
「ローデンさんには聞いた?」
「まだです」
「じゃあ聞けば?」
少女は畳んでいた布を見る。
まだ数枚ある。
マーサは家の中。
「マーサさん!」
「何だい!」
中から声が返ってくる。
「三軒目の家の屋根を、ベルさんたちが見に行くそうです!」
「行きたいのかい!」
「はい!」
「じゃあ行ってきな!」
少女は残った布を見る。
「洗濯物が!」
「あとでいい!」
「でも!」
「雨降ってない!」
少女は空を見た。
確かに晴れている。
「行ってきます!」
「はいよ!」
少女はユウを見る。
「ローデンさんにも聞きます」
「うん」
二人で村の中央へ向かう。
少女は少し早足になりかけ、道が完全には乾いていないことを思い出して歩幅を戻した。
ユウが横を見る。
「急がなくてもベルさん逃げないよ」
「分かっています」
「家も」
「それも分かっています」
「屋根も」
「屋根が逃げたら大変です」
「ローデンさんと同じこと言ってる」
少女は思わずユウを見る。
「ローデンさんも今朝、家が逃げたら大騒ぎだと言いました」
「似たこと考えるんだな」
「村だからでしょうか」
「便利だね、その言葉」
「最近、皆さんが使います」
二人で少し笑う。
村の中央にはローデンがいた。
事情を話すと、すぐに頷いた。
「家の中へ入るなら俺も行く」
「よいのですか?」
「確認の続きだからな」
ベルも梯子を担いで現れた。
「行くぞ」
「はい」
少女は返事をする。
四人で三軒目の家へ向かった。
昨日までと同じ道。
けれど今日は、帳面で知ったことがある。
ハルト。
ミナ。
エルド。
何年も前から立っているリンカの木。
村の人に薪を運んでもらいながら、一人で暮らした老人。
家が見えてくる。
小さな屋根。
古い壁。
窓の横のリンカの木。
少女は足を止めず、その姿を見た。
「……少し違って見えます」
ユウが横から尋ねる。
「何が?」
「家です」
「直った?」
「そういう意味ではありません」
少女は笑った。
「昔、ここで暮らしていた方のことを少し知りました」
「帳面読んだんだ」
「はい」
ベルが梯子を壁へ立てかける。
「下にいろよ」
「私も登っては?」
「駄目だ」
「なぜですか?」
「屋根見る目がないだろ」
少女は反論できなかった。
「では、下から見ます」
「そうしろ」
ベルが梯子へ上がる。
ユウが下で押さえる。
ローデンは家の周囲を見ている。
少女は少し離れ、安全な場所から屋根を見上げた。
ベルは屋根の端を確認し、何か所か手で押す。
場所を変える。
しばらくすると、低い声が落ちてきた。
「すぐ落ちるほどじゃない」
少女の肩から少し力が抜ける。
「住めますか?」
「最後まで聞け」
「はい」
「傷んでる板がある。二、三枚は替えた方がいい。端のところも一か所浮いてる」
「雨漏りは?」
「跡を見る」
ベルが降りてくる。
四人で家の中へ入った。
窓を開ける。
埃っぽい空気が外へ流れ、午後の日差しが床へ差し込んだ。
ベルは天井を見上げる。
「ここ」
指差した場所には、薄い染みがあった。
「雨漏り?」
「昔した跡かもしれん。昨日の雨で濡れてない」
「では今は?」
「今は漏ってない可能性が高い」
「可能性」
「断言できん」
少女は頷いた。
「では、必要な修理は?」
「屋根板二、三枚。浮いたところ固定。煙道の掃除と確認。床の弱いところ」
「窓は?」
「冬までに考えろ」
「扉は?」
「油差して、下を少し削れば使える」
「薪置き場は?」
「屋根だけ直せばいい」
少女は紙を出そうとして、持ってきていないことに気づいた。
「あ」
「どうした?」
ユウが尋ねる。
「紙を持ってきていません」
「覚えられない?」
「覚えます」
「じゃあいいんじゃない?」
「でも」
少女は少し考える。
全部正確に覚える必要があるだろうか。
「ベルさん、後で聞いてもよいですか?」
「忘れたらな」
「では、今は見ます」
少女は紙を探すのをやめた。
部屋を見る。
窓。
壁。
古い炉。
床。
まだ何も置かれていない場所。
窓の近くに机を置きたい。
そこは変わらない。
「ベルさん」
「何だ」
「直すのに、どれくらいかかりますか?」
「材料があれば一日か二日」
「そんなに早く?」
「俺一人ならもう少しかかる。手ぇ借りればな」
少女はユウを見る。
「俺?」
「手伝いますか?」
「必要なら」
「魔法で全部直すのではなく?」
「ベルさんが必要って言ったところだけなら、補助はできるかも」
ベルが口を挟む。
「屋根板を変に固くするなよ」
「しないよ」
「前みたいになるぞ」
「椅子?」
「金具だ」
少女は二人の会話を聞きながら、少し笑った。
「私も手伝えますか?」
ベルが少女を見る。
「掃除なら」
「修理は?」
「今のお前に何ができる」
「鑿を少し」
「屋根で練習するな」
「しません」
「なら掃除だ」
少女は少しだけ残念に思った。
けれど、それでよい。
「掃除をします」
「まだ直すって決まってないぞ」
「……そうでした」
全員が少女を見る。
「今のは忘れてください」
「無理だな」
ユウが笑う。
「笑わないでください」
「ごめん」
「まだ住めると決まっていません」
少女は自分へ言い聞かせるように言った。
「だから、勝手に掃除もしません」
「埃くらいなら掃いても怒られんと思うが」
ローデンが言う。
「でも、今はしません」
「そうか」
「確認が取れてからにします」
少女は部屋の中央に立つ。
何も始めない。
それでも、想像はできる。
掃除をする。
床を直す。
炉を使えるようにする。
窓の近くへ机を置く。
小さな棚を作ってもらう。
いつか本を一冊置く。
「住みたいです」
今度は、誰かに聞かれたわけではなかった。
自然に言葉が出た。
ユウが少女を見る。
ベルも一瞬だけ作業の手を止める。
ローデンは何も言わず待っている。
「まだ、住めるかは分かりません」
少女は続けた。
「でも、住めるなら、私はここに住みたいです」
昨日までより、少しだけはっきりした。
選択が確定したわけではない。
権利も確認していない。
それでも、自分の気持ちは言える。
「じゃあ、返事待ちだね」
ユウが言った。
「はい」
「長いかもしれないけど」
「待ちます」
「そっか」
それだけだった。
少女は窓の外を見る。
リンカの木の葉が、午後の風に揺れている。
「ユウさん」
「何?」
「もし、ここに住めることになったら」
「うん」
「遊びに来てくださいますか?」
言った後で、少女は自分の口から出た言葉に驚いた。
修理を手伝ってほしい、ではない。
魔法を使ってほしい、でもない。
ただ、遊びに来てほしい。
ユウも少しだけ目を瞬いた。
「近所なんだから来ると思うけど」
「そうですか」
「嫌じゃなければ」
「嫌ではありません」
答えるのが少し早かった。
少女は自分でもそれに気づいた。
胸の奥が、僅かに落ち着かなくなる。
「むしろ」
言葉が続きかける。
けれど、何を言おうとしたのか自分でも分からない。
少女は一度口を閉じた。
「……いえ。まだ分からないので、やめておきます」
「うん」
ユウはまた、それ以上聞かなかった。
以前なら安心しただけだった。
今日は少しだけ、聞いてほしかったような気もした。
その感覚に自分で戸惑う。
けれど、今は答えを出さない。
分からないものは、不明。
警戒線の記録と同じでよい。
「そろそろ戻るぞ」
ベルの声がして、少女は我に返った。
「はい」
家を出る。
最後に窓を閉め、扉も元通りにする。
勝手に何かを変えない。
まだ、この家は少女の家ではない。
それでも、外へ出てから一度だけ振り返った。
小さな家。
リンカの木。
午後の日差し。
「待っています」
誰に言ったのか、自分でもよく分からなかった。
家から返事が来るわけではない。
西の町にいるかもしれないエルドからの返事を待つ。
自分の身分についても、いつか考えなければならない。
それでも今は、待つことが以前ほど怖くなかった。
村へ戻る途中、ユウが少女の隣を歩く。
「今日、帳面読んだんだよね」
「はい」
「疲れてない?」
聞かれ、少女は自分の身体を確かめた。
朝の洗濯。
帳面。
小さな光魔法。
昼食。
家まで歩いた。
「四くらいです」
「じゃあ帰ったら休んだ方がいいね」
「はい」
少女は素直に答えた。
「ユウさんは?」
「三くらい」
「本当ですか?」
「たぶん」
「怪しいです」
「何で」
「以前、四でも動いていました」
「学習してるから」
少女は思わず笑った。
「それ、私の言葉です」
「俺が先に言ってたって聞いたけど」
「そうでした」
「じゃあ俺の」
「今は私も使っています」
「共有?」
「そうしましょう」
少女は笑いながら歩く。
村が見えてくる。
小さな家々。
畑。
見張り場所。
マーサの家。
今住んでいる場所。
そして、少し離れたところには、まだ自分のものではない小さな空き家がある。
どちらも同時に大切に思ってよい。
マーサの家が好きでも、自分の家を欲しいと思ってよい。
自分の家を欲しいと思っても、マーサの家を捨てることにはならない。
村の中央でユウと別れた。
「じゃあ、休んでね」
「ユウさんも」
「うん」
「本当に」
「分かったって」
「確認です」
「そっちもね」
「はい」
少女はマーサの家へ戻った。
玄関を開ける。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
奥からマーサの声が返る。
その声を聞いて、少女は少し笑った。
自分の家が欲しい。
それでも、今この家へ帰ってきて「おかえり」と言われるのが嬉しい。
両方でよかった。
「屋根、どうだった?」
「直せそうです」
「そうかい」
「それと」
少女は靴を脱ぎながら言う。
「私、あの家に住みたいです」
マーサが台所から顔を出した。
「決めた?」
「まだです」
「またそれかい」
「でも、住みたいです」
マーサは少女を見て、それから笑った。
「じゃあ返事待ちだね」
「はい」
「待ってる間に昼寝でもしな」
「今は夕方です」
「じゃあ夕寝」
「夜に眠れなくなりませんか?」
「なら座って休みな」
「そうします」
少女は居間の椅子へ腰を下ろした。
今日はもう帳面を読まない。
警戒線の紙も直さない。
家について新しい一覧も作らない。
ただ座る。
窓の外では、朝干した洗濯物が風に揺れている。
そのうち何枚かは、自分が干したもの。
何枚かは、マーサが干したもの。
けれど、どれがどちらなのかはもう分からなかった。
それで困ることもなかった。
しばらくして、少女は自室へ戻った。
今日のことだけ、短く書く。
『古い帳面を一冊読んだ』
『ハルトさんとミナさんが暮らしていた』
『ハルトさんは一人になった後も、村に助けてもらいながら家で暮らしていた』
『家についての古い返答は、一部破損。不明。正式な確認が必要』
そこで一度炭筆を止める。
次の一行は、少し大きく書いた。
『私は、三軒目の家に住みたい』
見つめる。
その下へ、さらに付け足す。
『まだ決めてはいない』
二つの文は矛盾しているようにも見える。
けれど、少女にはもう、それが矛盾ではないことが分かっていた。
気持ちはある。
決定はまだ。
それでよい。
最後に、警戒線の紙へ今日聞いたことだけを書き足した。
『普段の異常なし見回りは毎回記録しない』
『異常があった時、または異常地点を改めて確認した時に使う』
『反応なしの場合は鳴り方欄に斜線』
『名称は後で考える』
完成させない。
明日また誰かに使ってもらえばいい。
少女は紙を重ね、机の端へ置いた。
その時、今日の空き家での会話を思い出す。
『もし、ここに住めることになったら、遊びに来てくださいますか?』
なぜ、あんなことを聞いたのだろう。
ユウなら、村の誰かが困っていれば来る。
近所なら顔を合わせることもある。
修理を手伝うことだってあるだろう。
分かっている。
それなのに、自分はわざわざ聞いた。
遊びに来てくれるか。
役に立つためでもなく。
助けてもらうためでもなく。
ただ来てほしいと。
「……なぜでしょう」
答えは出なかった。
少女は少し迷い、日々の記録へそのことを書こうとした。
けれど、炭筆の先を紙へつける直前で止める。
まだ言葉にできない。
なら、無理に記録しなくてもいい。
「不明」
小さく呟く。
自分で言って、少し笑った。
警戒線なら、それでよい。
人の気持ちも、今はそれでよいのかもしれない。
少女は炭筆を置いた。
明日になれば、何か分かるかもしれない。
分からないままかもしれない。
どちらでもいい。
今夜は、今日分かったことだけを持って眠ればよかった。




