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第33話 今日やりたいこと

翌朝、少女が目を覚ました時、最初に聞こえてきたのは雨の音ではなく、屋根の端から落ちる雫の音だった。


 夜のうちに少しだけ降ったらしく、窓の外に見える道は薄く濡れている。空にはまだ灰色の雲が残っていたものの、その向こうには明るい場所もあり、昼まで降り続くような重さは感じられなかった。


 少女は寝台の端へ腰を下ろし、いつものように右足を床へつけた。踵へ少しずつ体重を移し、立ち上がって二歩ほど歩いてから、違和感がないことを確かめる。


「今朝も、零」


 声に出して、それ以上は考えない。


 痛みがないから何でもできる日なのではなく、今のところ痛みがない朝だ。それだけ確認すると、少女は着替えを済ませ、卓の上へ置いていた二枚の紙へ目を向けた。


 一枚には『警戒線反応記録・試用』と書いてある。


 もう一枚には、三軒目の空き家について分かっていることと、『確認が取れるまで待つ』『待っている間に、住めたら何をしたいか考えてもよい』という自分の文字が残っていた。


 少女は空き家の紙へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 今日は何をするのか。


 昨日の夜には、いくつか思い浮かべていた。


 ベルのところで鑿を触りたい。サナのところで石鹸を見たい。警戒線の試用記録が本当に置かれているかも気になるし、オルドから買った卵も一つ残っている。


 古い帳面の続きを読みたい気持ちも、もちろん消えてはいない。


「……多いですね」


 全部できないわけではない。


 朝から順番に回れば、おそらくいくつかはできるだろう。


 けれど、その考え方をした瞬間、少女は昨日までの自分を思い出した。


 やりたいことを見つける。


 すると、いつの間にか全部やる予定へ変わっている。


 少女はしばらく二枚の紙を眺めた後、どちらも持たずに部屋を出た。


 台所では、マーサが小さな鍋を火へかけていた。昨夜の雨で少し冷えたためか、湯気の立つ鍋の近くはいつもより暖かく感じられる。


「おはようございます」


「おはよう。雨は止んだよ」


「道が濡れていますね」


「朝のうちは滑るかもしれないから、走るんじゃないよ」


「走りません」


「どうだかね」


 マーサは鍋を混ぜながら、少女を横目で見た。


「今日は何するんだい?」


 少女はすぐに答えようとして、止まった。


「まだ、決めていません」


「そうかい」


 マーサはそれだけだった。


 何も決めていないことを咎めるでもなく、予定を尋ね直すでもない。少女は棚から器を二つ取り出しながら、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


「やりたいことはいくつかあります」


「なら、その中からやればいいだろ」


「全部ではなく?」


「全部やりたいなら全部やれば?」


「……そういうことですか」


「疲れたらやめな」


 あまりにも簡単だった。


 少女は器を卓へ置き、椅子へ腰を下ろす。


「ベルさんのところで、もう一度鑿を使ってみたいです」


「うん」


「サナさんの石鹸も気になります」


「うん」


「警戒線の記録も、今日から試用する予定です」


「うん」


「古い帳面の続きも」


「多いね」


「やはり」


「だからって、減らせとは言ってないよ」


 マーサは鍋から麦粥を器へ移し、少女の前へ置いた。今日は刻んだ根菜が少し入っていて、湯気と一緒に素朴な甘い匂いが立ち上る。


「朝飯食いながら決めれば?」


「それでもよいのですか?」


「食い終わるまでに決まらなかったら?」


「……その後に決めます」


「分かってるじゃないか」


 少女は少し笑った。


「いただきます」


 匙を手に取り、温かい麦粥を口へ運ぶ。


 食べながら考えてみる。


 警戒線の記録は気になる。


 けれど、それは自分が毎朝確認しなければならないものではない。昨日、ローデンにも「誰でも使えるものにする」と確認したばかりだった。


 古い帳面も、急いで読む必要はない。


 空き家の確認は、次に西へ連絡できる機会を待つことになっている。今日帳面を一冊多く読んだからといって、その時間が急に縮まるわけではない。


 石鹸は、まだ待つものだった。


 なら。


「今日は、ベルさんのところへ行ってみます」


「決まったかい」


「はい。鑿を使いたいです」


「じゃあ行っといで」


「その後は、まだ決めません」


「そうしな」


 少女はもう一口、麦粥を食べた。


 何をしなければならないかではなく、何をしたいかで朝の予定を決めた。


 それだけのことなのに、少し不思議な気分だった。


 朝食を終え、器を片づける。少女は外へ出る前に一度だけ自室へ戻ったが、警戒線の紙も空き家の紙も持たなかった。


 今日は鑿を使いに行く。


 それだけなら、紙はいらない。


 家を出ると、昨夜の雨の匂いがまだ残っていた。濡れた土はいつもより色が濃く、道端の草には大きな雫がいくつも乗っている。


 少女は足元を確かめながら歩いた。


 マーサに言われたからではない。


 自分で滑りやすそうだと思ったから、少し歩幅を狭くする。


 村の中央が見えてきたところで、少女は無意識に見張り場所へ目を向けた。


 ベルが作った小さな棚。


 その庇の下に、一枚の紙が挟まれている。


「あ」


 試用の記録用紙だった。


 近づいて確認したくなる。


 誰かが書いたのか。


 今朝、警戒線に何かあったのか。


 少女は数歩そちらへ進み、途中で足を止めた。


 警戒線が鳴っていたなら、村の空気はもう少し違うはずだった。


 誰かが東へ向かった様子もない。


 紙が置かれていることを確認するだけなら、今すぐでなくてもいい。


「……ベルさんのところへ行くのでした」


 自分へ言い聞かせるというより、予定を思い出すために呟いた。


 少女は見張り場所から視線を外し、工房へ向かった。


 ベルの工房からは、既に木を削る音が聞こえていた。


 入口は開いている。


 少女が外から声をかけると、奥で作業していたベルが顔を上げた。


「おはようございます」


「おう」


「今、よいですか?」


「何がだ」


「鑿を使いたいのですが」


 ベルは少女の足元を見る。


「足は?」


「今朝は零です」


「今は?」


 少女は一度、右足へ意識を向ける。


 ここまで歩いてきた。


 痛みはない。


「零です」


「なら入れ」


「はい」


 工房へ入ると、乾いた木の匂いが鼻へ届いた。壁には大小さまざまな道具が並び、作業台の上には削りかけの板と木屑が広がっている。


 以前、自分が練習した時の端材も、隅の棚に残されていた。


 少女はそれを見つけ、少し嬉しくなる。


「まだあったのですね」


「何が」


「私が削った木です」


「捨てろって言われてないからな」


「私が持って帰ったものとは別の方です」


「練習用の端材なんぞ何本もある」


「そうでした」


 自分が削ったものだけが特別に保存されているわけではない。


 少しだけ恥ずかしくなったが、不思議と落胆はしなかった。


 ベルは柔らかい端材を一本取り出し、作業台の上へ置く。


「前に言ったこと覚えてるか」


「刃の前に手を置かない。無理に力を入れない。最初は槌を使わない」


「他は」


「削りすぎたら、元には戻らない」


「まあ、それもだ」


 ベルは鑿を一本渡した。


「今日は何を作る?」


 少女は鑿を受け取りかけた手を止める。


「作る?」


「削りたいだけか?」


「そのつもりでした」


「なら削ればいい」


 あっさり返される。


「何か作らなくても?」


「練習だろ」


「はい」


「じゃあ練習しろ」


 少女は鑿を受け取った。


 何か完成させなければならないと思っていたわけではない。


 それでも「何を作る」と聞かれた瞬間、何か形に残るものを答えなければならない気がした。


 少女は作業台の前へ立ち、端材へ左手を添える。


 刃の前には置かない。


 角度をつけすぎない。


 前回、二度目に深く入りすぎて木を欠かせたことを思い出す。


「やってみます」


「やれ」


 鑿を押す。


 薄い木片が、くるりと丸まりながら浮いた。


 前より浅い。


 もう一度。


 今度は途中で刃が止まる。


「力を入れた方が?」


「入れてもいいが、向き見ろ」


 ベルが横から指差す。


「木目?」


「ああ。そっちから無理に行くと引っかかる」


「反対から?」


「やってみろ」


 端材の向きを変える。


 同じ場所へ刃を当てると、今度は先ほどより滑らかに進んだ。


「あ」


「木にも向きがある」


「知りませんでした」


「今知ったな」


「はい」


 少女はもう一度削る。


 今度は少し長く、薄い木片が取れた。


 嬉しい。


 けれど、その次は角度が浅すぎたのか、ほとんど削れなかった。


「……失敗でしょうか」


「何が」


「削れていません」


「もう一回やればいい」


 ベルは自分の作業へ戻っている。


 少女は鑿の刃先を見る。


 以前なら、同じようにできなかったことを気にしただろう。


 今は、少し角度を変える。


 もう一度押す。


 今度は削れた。


「できました」


「そうか」


 ベルは見てもいない。


 それでもよかった。


 少女は何度か繰り返した。


 うまく削れる時もある。


 途中で止まる時もある。


 一度はまた少し深く入りすぎて、端が小さく欠けた。


「あ」


 少女は手を止める。


 欠けた場所を見る。


 前回と似ている。


 胸の中へ、ほんの僅かに「また」という言葉が浮かんだ。


 けれど、その後へ「だから駄目だ」は続かなかった。


「深すぎました」


「そうだな」


「次は浅くします」


「そうしろ」


 それだけだった。


 少女は欠けた場所を隠そうとせず、その隣へ刃を当てる。


 少し浅く。


 ゆっくり。


 今度は薄く削れた。


 何度か続けたところで、右手に少し疲れを感じた。


 痛みではない。


 握っている指が重くなってきた程度だった。


 まだ続けられる。


 もう少しならできる。


 少女は鑿を見た。


 以前の自分なら、ここからが練習だと思ったかもしれない。


 疲れてからも続けてこそ身につく。


 できるのなら、やる。


 けれど。


「ベルさん」


「何だ」


「今日は、ここまでにします」


 ベルが一度だけ少女の手を見る。


「そうか」


「まだできますが」


「なら何でやめる」


 少女は少し考えた。


「今日は、もう十分やったと思ったので」


「なら終わりだ」


 少女は鑿を差し出した。


 ベルは受け取り、布で刃先を拭く。


「前より上手くなりましたか?」


「少しな」


 少女は思わず顔を上げた。


「本当ですか?」


「嘘ついてどうする」


「どのくらい?」


「知らん」


「そこは分からないのですね」


「昨日のお前よりは削れてる。俺よりは下手だ」


 少女は一瞬だけ黙り、それから笑った。


「随分広い間ですね」


「そうだな」


「妹なら、もっと早く――」


 そこまで口にして、少女は止まった。


 言葉はまだ出る。


 以前より減ったとはいえ、消えたわけではない。


 ベルは何も言わず、少女を見ている。


「……覚えたかもしれません」


 少女は言い直した。


「何を」


「妹なら、私より早く覚えたかもしれません」


「そうかもな」


「でも、今日は私が削りました」


「ああ」


「前より少し上手くなったそうです」


「俺が言った」


「はい」


 胸の奥に、僅かな引っかかりは残っている。


 妹なら。


 妹の方が。


 その考えが浮かばなくなったわけではない。


 けれど、浮かんだ後に、自分が今日削った木まで消えるわけではなかった。


「この木、持って帰ってもよいですか?」


「またか」


「だめですか?」


「端材だ。好きにしろ」


 少女は削った木を手に取った。


 最初の練習で持ち帰ったものと比べてみたい。


 うまくできた場所だけではない。


 欠けたところも残っている。


 それでよかった。


「ありがとうございます」


「次やるなら、今度は線引いてそこまで削る練習するか」


「線?」


「好き勝手削るんじゃなく、止めたいところで止める」


「難しそうです」


「難しいぞ」


 ベルは平然と言った。


「やりますか?」


「今日じゃない」


「当たり前だ」


「……はい」


 少女は笑い、端材を抱えて工房を出た。


 外へ出ると、雲の切れ間が広がっていた。


 弱い日差しが濡れた道へ落ち、ところどころ白く光っている。朝より気温も少し上がったらしく、工房の中で動いた身体には外の風が心地よかった。


 少女はその場で、自分の疲れを確かめる。


 手が少し重い。


 肩も少し疲れている。


 踵は零。


 全体としては、三くらいだろうか。


 まだ何かできる。


 けれど、すぐ次へ行く必要はない。


 少女は村の中央にある長椅子へ向かった。


 そこへ腰を下ろすと、目の前に見張り場所が見える。


「あ」


 朝、気になっていた記録用紙を思い出した。


 今なら見てもいいだろうか。


 そう考えたところで、少女は少し笑った。


 誰かに禁止されているわけではない。


 自分も使う一人なのだから、確認してよい。


 ただし、休むために座ったのなら、今すぐ立たなくてもいい。


 少女は背もたれへ身体を預けた。


 風が頬を撫でる。


 工房からは、また木を削る音が聞こえ始めている。


 遠くではガルドの大きな声がした。何を言っているのかまでは分からないが、その後に別の誰かが笑う声が続く。


 村は今日も動いている。


 自分が何もしなくても。


 しばらく座っていると、東側からケルが歩いてきた。


 森へ入っていたような装備ではなく、腰に短い道具袋を下げているだけだった。少女に気づくと、軽く片手を上げる。


「休みか?」


「はい。ベルさんに鑿を教えていただいていました」


「そうか」


「警戒線は?」


 聞いてから、少女は少しだけ姿勢を正した。


「今日は反応なし」


「そうですか」


「朝、昨日の場所だけ見た。新しい足跡も確認できなかった」


「記録は?」


「書いた」


 少女の視線が見張り場所へ向く。


「もう?」


「試すんだろ」


「はい」


「書きにくいところ、一個あったぞ」


 少女は立ち上がりかけた。


 けれど、まだ少し手が疲れている。


「何ですか?」


 座ったまま尋ねる。


「『鳴り方』」


「今日は鳴っていないから?」


「ああ。昨日の場所を確認しただけだから、そこは書くことがない」


「空欄では?」


「空欄だと、書き忘れたのか関係ないのか分からん」


 少女はなるほどと思った。


「では、『反応なし』の場合は?」


「別にした方が分かりやすいかもな」


「確認記録と、警戒線の反応記録を分ける?」


「そこまで増やすと面倒だ」


 ケルは即座に言った。


 少女は笑う。


「やはり増やすのは嫌ですか」


「嫌というより、使わなくなる」


「では、一枚の中に『反応なしの確認』も書けるようにします」


「その方がいい」


「ありがとうございます。後で見ます」


 ケルが少しだけ眉を上げる。


「今じゃないのか」


「休んでいるところなので」


「そうか」


「忘れません」


「ならいい」


 ケルはそのまま去っていった。


 少女は背中を見送り、少しだけ満足した。


 改善点を聞いた。


 けれど、すぐに直しに行かなかった。


 紙は逃げない。


 自分も忘れない。


 休んでからでいい。


「何か嬉しそうだね」


 横から声がして、少女は顔を向けた。


 いつの間にかユウが近くまで来ていた。


「驚きました」


「ごめん」


「足音が聞こえませんでした」


「普通に歩いてたけど」


 ユウは少女の隣ではなく、長椅子の端に少し間を空けて腰を下ろした。手には小さな布袋を持っている。


「何を持っているのですか?」


「ベルさんにもらった金具」


「また見張り場所ですか?」


「いや、俺の家の戸。ちょっと引っかかるから」


「魔法で直さないのですか?」


「このくらいなら普通に直せるし」


「灰色の魔導書なら早いのでは?」


「たぶんね」


「では、なぜ?」


 ユウは布袋を膝へ置く。


「魔法出す方が面倒だから」


 少女は数秒黙った。


「その理由で使わないのですか?」


「使いたい時は使うよ」


「とても強い魔法なのに」


「強いから毎回使わなきゃいけないわけでもないでしょ」


 少女は以前、ハインから金属の補強品をもっと作って売らないかと言われた時のことを思い出した。


 作れる。


 売れる。


 役に立つ。


 それでもユウは、面倒だから作らないと言った。


「本当に、そうなのですね」


「何が?」


「できることを全部やらない」


「うん」


「もったいないとは思いませんか?」


「何が?」


「能力が」


 ユウは少し考えた。


「使わないと腐るものなら、使うかもしれないけど」


「魔導書は腐らない?」


「たぶん」


「たぶんですか」


「全部分かってるわけじゃないし」


 少女はユウの横顔を見る。


 十冊もの魔導書。


 自分から見れば、あまりにも大きな力だ。


 王都にいた頃の人々が知れば、放っておかないだろう。実際、以前にも王都から誘いが来たと聞いている。


 それでも、この人は小さな村で戸の金具を直そうとしている。


「ユウさん」


「ん?」


「力があるのに使わないと、誰かに怒られませんでしたか?」


 ユウは少しだけ視線を上げた。


「こっち来てから?」


「以前でも」


 しばらく返事がなかった。


 少女は聞きすぎたかと思ったが、ユウはやがて小さく息を吐いた。


「前の仕事だと、人が足りない時にできる人がやる、みたいなのは多かったかな」


「できる人が?」


「うん。これできるよね、前もやったよね、じゃあお願い、みたいな」


「断ることは?」


「できる時もあったけど、誰かがやらないと困る状況だと断りにくいよね」


 少女は黙って聞いた。


「それが続くと?」


「できること増えるほど、やることも増える」


「……褒められるのでは?」


「褒められることもあるよ」


「なら」


「褒められても、仕事減らないし」


 ユウは少し笑った。


 笑ってはいるが、楽しそうな記憶ではないことくらい、少女にも分かった。


「だから、今は?」


「全部はやらない」


「魔法も?」


「魔法も」


「人を助ける時でも?」


「必要ならやる。でも、俺がやらなくていいなら、俺じゃなくてもいいと思う」


 少女は膝の上へ置いた端材を見る。


 今日、自分が削った木。


 自分ができること。


 自分が役に立てること。


「私、警戒線の記録を作った時」


「うん」


「少しだけ、嬉しかったです」


「いいんじゃない?」


「役に立てたから」


「うん」


「でも、毎日私が書くものにはしたくないとも思いました」


「それもいいんじゃない?」


「矛盾しませんか?」


「何で?」


「役に立ちたいのに、自分だけの仕事にはしたくない」


 ユウは少女の方を見る。


「役に立つのと、いないと困る人になるのって、別じゃない?」


 少女は返事をしなかった。


 その言葉が胸の中へ落ちていく。


 役に立つ。


 必要とされる。


 いなければ困る。


 以前の自分は、その三つをほとんど同じものとして考えていたのかもしれない。


「いなくても困らないなら」


 少女はゆっくり尋ねる。


「自分がやった意味はありますか?」


「あるでしょ」


「どうして?」


「その時は助かったんだから」


 ユウは何でもないように答えた。


「ずっと必要じゃないと、助けたことにならないの?」


「……いえ」


「じゃあいいんじゃない?」


 少女は端材の欠けた場所を指でなぞった。


 昨日までの警戒線記録がなくても、村は暮らしていた。


 自分が作った記録がなくても、ケルは足跡を見られるし、ローデンは判断できる。


 それでも、記録があれば後から比べやすい。


 誰かが少し助かる。


 それだけでもよいのかもしれない。


「ユウさん」


「何?」


「私がこの村にいなくても、村は困らないと思います」


 口にすると、以前なら怖かったはずの言葉が、今日は少し違って聞こえた。


「たぶんね」


 ユウは否定しなかった。


 少女は一瞬だけ目を見開いたが、その後に続く言葉を待った。


「俺がいなくても、たぶん村は暮らしてくよ」


「ユウさんが?」


「前からあった村だし」


「でも、魔法が」


「なかった時も暮らしてたでしょ」


「……はい」


「便利にはなったと思うけどね」


 少女は少し笑った。


「それでよいのですか?」


「何が?」


「自分がいなくても大丈夫なことが」


「俺はその方が楽」


 あまりにもユウらしい答えだった。


「楽だから?」


「うん。俺が一日寝てても村が壊れない」


「それは大事ですね」


「でしょ?」


「はい」


 少女は長椅子へ少し深く腰を預けた。


 自分がいなくても、村は壊れない。


 それは、自分に価値がないという意味ではない。


 自分がここにいる間、誰かと話したり、少し手伝ったり、卵を買ったり、石鹸を作ったり、木を削ったりする。


 それで十分なのかもしれない。


「ところで」


 ユウが少女の手元を見る。


「それ、今日削ったの?」


「はい」


「前のより綺麗じゃない?」


 少女の胸が少し跳ねた。


「分かりますか?」


「前のも見せてもらった気がする」


「ベルさんにも、昨日の私よりは上手だと言われました」


「よかったね」


「はい」


 素直に答える。


「途中で一度欠けました」


「そこ?」


 ユウが端材の一角を指す。


「はい」


「ほんとだ」


「でも、その後は少し浅く削れました」


「じゃあよかったじゃん」


「はい」


 少女はもう一度答えた。


 欠けたことを隠さずに話している。


 それでも、褒めてもらったことが消えない。


「少し休んだので、そろそろ行きます」


「どこへ?」


「見張り場所です。ケルさんから使いにくいところを教えていただきました」


「直す?」


「確認します」


「今日中に?」


 少女は立ち上がりかけたまま止まる。


「……直せそうなら」


「そっか」


「でも、全部終わらなくてもよいです」


「うん」


「何ですか、その顔は」


「いや」


 ユウが少し笑う。


「ちゃんと言うようになったなと思って」


 少女は僅かに頬が熱くなるのを感じた。


「私も学習しています」


「それ最近好きだね」


「ローデンさんにも言われました」


「みんな思ってるんだ」


「……もう言いません」


「何で?」


「恥ずかしくなってきました」


 ユウが笑った。


 少女は少しだけ不満そうに彼を見たものの、本気で腹を立ててはいなかった。


「では、行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 その言葉を背中に受けて、少女は見張り場所へ向かった。


 棚には試用の紙が挟まれていた。


 今朝の欄に、ケルの文字がある。


『昨日の場所確認』


『新しい足跡 確認範囲なし』


『警戒線 追加反応なし』


 そして、『鳴り方』の欄には斜線が引かれている。


「これですね」


 少女は一人で呟いた。


 反応があった時だけでなく、何かを確認しに行った時にも使う。


 なら、『反応時』だけでは狭い。


 少女はすぐ書き直そうとして、手を止めた。


 今ある紙へ直接変更を加える前に、実際に使った人へもう少し聞いた方がいい。


 昨日、それを学んだばかりだ。


「ケルさんに聞いてから」


 少女は小さな紙片へ改善点だけを書いた。


『反応なしの確認時、鳴り方欄が不要になる』


『反応記録だけでなく、確認記録として使うか?』


 そこまで書き、炭筆を置く。


 直していない。


 けれど、忘れないようには残した。


 それで十分だった。


 見張り場所を離れようとした時、ローデンが向こうから歩いてきた。


「見たか?」


「はい。ケルさんからも聞きました」


「どうする?」


「まだ決めません」


「そうか」


「反応がない日に確認した場合も同じ紙を使うのか、それとも別にするのか、使う方へ聞いてから決めます」


「分けすぎると面倒だぞ」


「私もそう思います」


「なら一枚で済ませろ」


「……ローデンさんは一枚がよい、と」


「俺はな」


 少女は紙片へ書き足した。


『ローデンさん――一枚がよい』


「俺の名前まで書くのか」


「誰が何と言ったか分からなくなるので」


「好きにしろ」


 ローデンは少し呆れたように言った。


「家の帳面は読まないのか?」


 少女は一瞬だけ反応した。


「読んでもよいのですか?」


「昨日読みたそうだったからな」


「読みたいです」


「なら倉庫にあるぞ」


 少女は西の倉庫の方角を見る。


 今から行けば、昼食までには少し読めるだろう。


 けれど、今朝はベルのところで鑿を使った。


 休んだ。


 記録を確認した。


 頭の中では、まだ警戒線の紙について考えている。


「……今日は、やめておきます」


 ローデンが少し目を細める。


「いいのか?」


「はい」


「読みたかったんじゃないのか?」


「読みたいです」


「なら何で?」


 少女は少し考えた。


「今読むと、最後まで読みたくなるので」


 ローデンが笑った。


「分かってるじゃないか」


「明日にします」


「帳面は逃げん」


「家も逃げませんね」


「たぶんな」


「たぶん?」


「家ごと逃げたら大騒ぎだ」


 少女は一瞬真顔になり、それからローデンが冗談を言ったのだと気づいた。


「ローデンさんも、そういうことを言うのですね」


「何だと思ってたんだ」


「もっと真面目な方だと」


「失礼だな」


「すみません」


 反射的に謝ってから、少女は少し考える。


「……今のは、謝ってよいところですか?」


「好きにしろ」


「では、少しだけ謝ります」


「量があるのか?」


「分かりません」


 二人で小さく笑った。


 昼が近づき、少女はマーサの家へ戻った。


 朝に買った卵はまだ使わない。


 昼食はマーサが用意していた野菜と豆の煮込みだった。


「今日は豆なのですね」


「嫌かい?」


「嫌ではありません」


「なら食べな」


「でも、毎日でなくてよかったです」


「ガルドには言うんじゃないよ」


「なぜです?」


「明日からもっと持ってくる」


 少女は想像し、思わず笑った。


 食事をしながら、朝からのことをマーサへ話す。


 鑿を使ったこと。


 前より少し上手になったこと。


 警戒線の記録に、早速直した方がよさそうな場所が見つかったこと。


 古い帳面は、今日は読まないと決めたこと。


「随分やったじゃないか」


「そうでしょうか」


「朝は一個にするみたいな顔してたのに」


「鑿だけにするとは言っていません」


「そうだったかい」


「でも、帳面はやめました」


「なら午後は?」


 少女は匙を止める。


 午後。


 朝の時点では決めなかった。


「サナさんのところへ行きたいです」


「石鹸かい?」


「はい」


「なら飯食って少し休んでから行きな」


「はい」


 今度は迷わなかった。


 食後、少女は三十分ほど横になった。


 眠りはしなかったが、目を閉じて身体を休める。右手には鑿を握っていた時の疲れが少し残っていたものの、痛むほどではない。


 休んでからサナの家へ向かう。


 昼を過ぎると雲はかなり薄くなり、青空も見え始めていた。昨夜の雨で濡れた道も、日当たりのよい場所から乾き始めている。


 サナの家へ着くと、庭先にいくつかの布が干されていた。


「こんにちは」


「はいよ」


 中からサナが出てくる。


「石鹸かい?」


「分かりましたか?」


「最近お前さんがここへ来る理由、それが多いからね」


「今日は見るだけでもよいですか?」


「好きにしな」


 少女はサナと一緒に、石鹸を乾かしている場所へ向かった。


 木の棚には、いくつもの石鹸が間隔を空けて並べられている。自分が手伝ったものも、その中にあった。


 以前見た時より、表面が少し乾いているように見える。


「触っても?」


「手ぇ乾いてるかい?」


 少女は自分の掌を見る。


「はい」


「なら一個だけ」


 少女は慎重に石鹸を持ち上げた。


 見た目より少し軽く感じる。


 表面も以前ほど湿っていない。


「もう使えますか?」


「まだ待った方がいいね」


「まだ」


「焦るのかい?」


 少女は石鹸を棚へ戻しながら考えた。


「以前よりは、焦りません」


「なら待ちな」


「はい」


「終わりかい?」


「……終わりですか?」


「見るだけって言っただろ」


 少女は目を瞬いた。


 確かに言った。


「そうでした」


「何かやるかい?」


 サナに尋ねられる。


 少女は周囲を見る。


 乾燥棚。


 材料を入れた箱。


 前に整理した木札。


 やろうと思えば、何か見つけられるかもしれない。


 けれど、自分は石鹸を見に来た。


「今日は、いいです」


「そうかい」


「見たかったので、見ました」


「じゃあ茶でも飲むかい?」


「よいのですか?」


「嫌なら帰ってもいいよ」


 少女は少し考えた。


「飲みたいです」


「なら入んな」


 サナの家で薄い茶を飲む。


 窓から入る午後の光は暖かく、湯気の向こうに小さな庭が見えた。


「家、どうなったんだい?」


 サナが尋ねる。


「まだ確認待ちです」


「三軒目?」


「はい。以前住んでいた方の息子さんが西の町にいるそうです」


「ハルト爺さんの息子だろ」


「ご存じですか?」


「昔は村にいたからね」


 少女は身を乗り出しかけ、止めた。


「どんな方ですか?」


「息子かい?」


「はい」


「普通だよ」


「普通」


「働きに町へ行って、そのまま向こうで家庭持った。悪い奴だったって話は聞かないね」


「家のことは?」


「知らないよ」


 サナは茶を飲む。


「昔のこと全部覚えてると思うんじゃないよ」


「はい」


 少女は少し笑った。


「聞けば何か新しいことが分かるかと思いました」


「分からなかったね」


「はい」


「残念かい?」


「少し。でも、分からないことが一つ増えたわけではありません」


「変な言い方だね」


「そうでしょうか」


 少女は茶の表面を見る。


「以前なら、何も分からなかったことを無駄だと思ったかもしれません」


「今は?」


「お茶を飲めたので」


 サナが笑った。


「それでいいのかい?」


「今日は」


「ならいいさ」


 少女も笑った。


 茶を飲み終えると、サナの家を出た。


 帰り道で見張り場所の前を通る。


 試用の記録用紙は、まだ棚にある。


 少女は今度は立ち止まった。


 今日の改善点を書いた小さな紙を取り出す。


 今すぐ書式を直すのではなく、明日ケルやドランへ見せるためのメモとして、もう一つだけ書き足した。


『毎日書く必要があるかも確認する』


 警戒線が鳴らない日まで、毎日「反応なし」と書く必要があるのか。


 昨日の地点を見に行った日のように、何か確認した日だけでよいのか。


 それも使う人に聞けばいい。


 少女は紙を畳んだ。


「今日はここまで」


 口にすると、少し気持ちがよかった。


 マーサの家へ戻る途中、ユウの家の前を通った。


 戸の近くに本人がしゃがみ込み、金具を触っている。


「直していますね」


 少女が声をかけると、ユウが振り返った。


「うん」


「魔法を使わずに」


「そこ確認する?」


「少し気になりました」


 少女は近づきすぎない位置で止まる。


「直りましたか?」


「たぶん」


 ユウが戸を一度閉め、開く。


 途中で少しだけ引っかかった。


「あ」


「まだですね」


「まだだった」


 ユウはまたしゃがむ。


「灰色の魔導書なら?」


「すぐ言うね」


「使わないのですか?」


「まだ」


「なぜ?」


「これで直したいから」


 少女は少し驚いた。


「やりたいのですか?」


「まあね」


「魔法を使わずに?」


「うん」


「面倒だからではなく?」


「今日はこっちでやりたい」


 少女はしばらくその言葉を考えた。


 できる方法の中から、どれを使うか選ぶ。


 最も早い方法を選ばなくてもいい。


「私も今日は鑿を使いました」


「聞いた」


「ベルさんから?」


「うん」


「本当に話が早いですね」


「村だからね」


 昨日と同じ答えだった。


 少女は少し笑う。


「前より上手になったそうです」


「さっき見せてもらった」


「はい」


「嬉しかった?」


 少女は素直に頷く。


「嬉しかったです」


「よかったね」


「でも、上手にならなくてもやってよい、と前にベルさんが言っていました」


「うん」


「今なら、少し分かる気がします」


「何が?」


「上手になることだけが、やる理由ではないことです」


 ユウは金具から手を離し、少女を見る。


「楽しかった?」


「はい」


「じゃあそれでいいんじゃない?」


「はい」


 また同じような答えだった。


 けれど、今日はその簡単さが心地よかった。


「ユウさん」


「ん?」


「今日、何度かあなたと話していますね」


 言ってから、自分でも妙なことを言ったと思った。


 ユウも少し不思議そうな顔をする。


「そうだね?」


「いえ。何でもありません」


 少女は視線を逸らす。


 朝、長椅子で話した。


 今、また話している。


 それだけだ。


 以前なら、誰と何度話したかなど気にしたことはなかった。


 なぜ今、それを数えるようなことを考えたのか。


 分からない。


「どうしたの?」


「分からないので、まだ考えません」


「何が?」


「それも、まだ分かりません」


「そっか」


 ユウは追及しなかった。


 少女は少しだけ安心し、同時に、ほんの少しだけ物足りないような感覚を覚えた。


 その理由も分からない。


 だから、今はそのままにする。


「戸、直るとよいですね」


「たぶん直る」


「直らなかったら?」


「ベルさん呼ぶ」


「魔法ではなく?」


「それでもいいけど」


「選べるのですね」


「まあね」


 少女は頷いた。


「では、帰ります」


「うん。またね」


「……はい。また」


 少女はマーサの家へ向かって歩き出した。


 数歩進んでから、「また」という言葉が少しだけ胸に残っていることへ気づく。


 けれど、振り返らなかった。


 家へ戻ると、マーサは夕食の準備を始めていた。


「石鹸どうだった?」


「まだでした」


「そうかい」


「サナさんとお茶を飲みました」


「そう」


「それだけです」


「いいじゃないか」


「はい」


 少女は台所へ入り、朝に買った卵を見る。


「今日は卵をどうしますか?」


「自分で食うんだろ?」


「はい。でも、毎日焼くのも同じなので」


「煮るかい?」


 少女が振り返る。


「煮る?」


「殻のまま湯で煮る」


「できますか?」


「卵だからね」


「知りませんでした」


「じゃあ今日はそれにするかい?」


 少女は少し考えた。


 昨日まで、焼き加減を試していた。


 今のところ、中心だけ少し柔らかいくらいが好きかもしれないと分かった。


 だから、また同じ焼き方をしてもいい。


 でも、別の食べ方も少し気になる。


「やってみたいです」


「なら湯沸かしな」


「はい」


 少女は鍋へ水を入れた。


 マーサに教わりながら、卵を殻のまま湯へ入れる。火加減を見て、時間を待つ。


「どれくらいで出すのですか?」


「固くしたいなら長め」


「柔らかくしたいなら?」


「短め」


「正確には?」


「卵の大きさと火にもよるね」


「……難しいです」


「一回やってみな」


 少女は笑った。


「今日もそれですね」


「何が」


「やってみる」


「嫌ならやめてもいいよ」


「今日はやります」


 しばらくして卵を湯から出し、少し冷ます。


 殻を割る。


 最初は細かく砕けすぎ、白身まで少し削れてしまった。


「あ」


「食えるよ」


「見た目が」


「食うのはお前だろ」


「はい」


 慎重に殻を剥く。


 ところどころ表面が欠けた、不格好な白い卵が現れた。


 半分に切る。


 黄身はほぼ固まっていた。


「焼いた時より固いです」


「長かったね」


「失敗?」


「食ってみな」


 少女は一口食べた。


 焼いた卵とは違う。


 油の味がなく、少し淡泊だった。


「……これはこれで好きです」


「じゃあ失敗じゃないね」


「でも、次はもう少し柔らかくしたいです」


「なら早く出しな」


「はい」


 少女は残りを食べる。


 好きな焼き方を見つけかけたと思ったら、別の食べ方が出てきた。


 少し前なら、また決めるものが増えたと思ったかもしれない。


 今は、少し面白い。


「卵だけでも、いろいろあるのですね」


「そりゃあるさ」


「全部試したら?」


「好きならね」


「全部試さなくても?」


「何で全部食わなきゃいけないんだい」


 少女は笑った。


「そうですね」


 夕食後、少女は自室へ戻った。


 今日持ち帰った端材を、以前のものの隣へ置く。


 二つを比べる。


 最初の木には、深く入りすぎた跡が大きく残っている。


 今日の木にも欠けた場所はあるが、それ以外の部分は少し滑らかだった。


「前より少し」


 それでよかった。


 次に、警戒線の改善メモを机へ置く。


 まだ直さない。


 明日、使う人へ聞く。


 空き家の紙もある。


 今日は何も増えていない。


 それもよい。


 最後に、日々のことを書いている紙を開いた。


『鑿。前より少し上手になった。途中で一度欠けた』


『警戒線の記録。反応がない日の確認を書きにくい。明日聞く』


『石鹸。まだ待つ』


『卵。今日は煮た。少し固かった。次は少し早く出してみたい』


 そこまで書いて、少女は炭筆を止めた。


 少し考える。


 そして、もう一行だけ足した。


『今日は、やりたいことを全部はやらなかった』


 文字を見つめる。


 それでも、一日は終わった。


 何かをやり残したような焦りは、不思議とそれほど強くない。


 古い帳面は読まなかった。


 警戒線の紙も完成させなかった。


 家の話も進まなかった。


 それでも、木を削った。


 休んだ。


 人と話した。


 石鹸を見た。


 茶を飲んだ。


 卵を煮た。


 今日という一日は、それでちゃんと存在している。


 少女は紙の下へ、さらに小さく書いた。


『全部しなくても、一日はなくならない』


 書いた後で、少し気恥ずかしくなった。


 誰かに見せるものではない。


 だから消さなかった。


 窓の外では、雲がほとんど切れていた。


 夜空の一部に星が見え、その下で村の家々が静かに眠り始めている。東の森は暗く、何がいるのかは今日も分からないままだった。


 警戒線は、今日一度も反応しなかった。


 昨日の足跡が何だったのかも分からない。


 三軒目の家へ住めるかも分からない。


 妹が今どうしているのかも分からない。


 自分がこれから何になるのかも、まだ分からない。


 けれど、分からないことばかりの中にも、今日自分で選べたことはいくつもあった。


 鑿を使う。


 疲れたから止める。


 帳面を読まない。


 石鹸を見る。


 茶を飲む。


 卵を煮る。


 誰かと話す。


 明日に回す。


 少女は紙を閉じた。


 寝台へ入る前に、窓の外をもう一度見る。


 明日何をするかは、まだ決めていない。


 鑿の続きをしてもいい。


 古い帳面を読んでもいい。


 警戒線の記録を直してもいい。


 何もしない時間を増やしてもいい。


「……明日になってから」


 小さく呟く。


 以前、ユウに言われた言葉を思い出した。


 明日になってから考えればいい。


 あの時は、そんなことでよいのかと思った。


 今は少しだけ、その意味が分かる。


 少女は灯りを消した。


 暗くなった部屋の中で、窓の外から木の葉が擦れる音だけが聞こえる。


 いつか三軒目の家へ住めたなら、リンカの木も夜にはこんな音を立てるのだろうか。


 その想像だけは、少しだけしてから目を閉じた。


 答えを出すためではない。


 ただ、そうなったらいいと思いながら眠るために。

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