第32話 使ってみる
翌朝、少女が目を覚ました時、窓の外には薄い雲が広がっていた。
雨が降りそうなほど暗くはないものの、昨日までの朝より日差しは弱く、部屋の中にも白っぽい光が静かに入り込んでいる。耳を澄ませば、家の裏手を抜ける風が木の葉を揺らし、ときおり屋根の端を小さく鳴らしていた。
寝台から身体を起こした少女は、まず右足を床へ下ろした。踵へゆっくり体重を乗せ、違和感がないことを確かめてから立ち上がる。
「……零」
今朝も痛みはなかった。
だからといって、もう二度と痛まないと決める必要はない。今日の朝は零で、それ以上でもそれ以下でもないと考えながら、少女は寝台脇へ置いていた服へ手を伸ばした。
着替えを終えると、昨夜まとめた二枚の紙を確認する。一枚は警戒線の記録用紙で、もう一枚は三軒目の空き家について分かったことを書いたものだった。
『明日、使う人に見てもらう』
昨日、自分で書いた一文が目に入る。
少女は少しだけ口元を緩め、その紙を丁寧に畳んだ。以前の自分なら、「見てもらう」ではなく「完成させる」と書いていたかもしれない。
完成させてから渡す。
間違いのないものにしてから見せる。
それが責任を果たすことだと思っていた。
けれど、昨日の警戒線の反応で、完成していない記録でも役に立った。むしろ実際に使ったことで、考えているだけでは分からなかったことも見えてきた。
少女は紙と炭筆を布へ包み、部屋を出た。
台所では既にマーサが朝食の準備を始めていた。鍋から湯気が立ち、昨日の残りの野菜を煮た匂いが部屋へ広がっている。
「おはようございます」
「おはよう。今日は早いね」
「いつもと同じくらいだと思います」
「そうだったかい」
マーサは特に気にした様子もなく鍋を混ぜた。少女も棚から器を二つ出し、卓へ並べる。
「今日、警戒線の記録を皆さんに見ていただこうと思います」
「昨日の続きかい?」
「はい。実際に書く方が使えるかどうか、試していただきます」
「そうしな」
マーサの返事は相変わらず簡単だった。
少女は鍋から器へ盛られていく野菜を見ながら、少し考える。
「マーサさんも書いてみますか?」
「あたしも?」
「昨日、使う可能性がないとは言い切れないと話しましたので」
「字は書けるよ」
「では」
「でも面倒なのは嫌だね」
「……やはり、そこですか」
「見張りのための紙なんだろ? 紙を書くために見張るんじゃないんだから、面倒なら続かないよ」
少女は椅子へ座りながら頷いた。
「ケルさんにも似たことを言われました。正確に測れるなら測ればよいけれど、雨の中で物差しを持って這いつくばる必要はない、と」
「そりゃそうだ」
「私は、詳しい方がよいと思っていました」
「詳しい方がいい時もあるだろ」
マーサは自分の器を持って向かいへ座ると、匙で煮汁を一度混ぜた。
「でも、詳しくするせいで誰も書かなくなったら、何も残らないじゃないか」
「はい」
「食べな」
「いただきます」
少女は匙を取った。
温かい野菜を口へ運ぶと、柔らかく煮えた根菜の甘みが広がる。昨日の警戒線のことを思い返しながらも、少女は急いで食べず、朝食そのものへ意識を戻した。
昨日の夜、東の森にいる何かについて考え続けることもできた。
一頭分の獣らしき足跡。
以前見つかったものと同じ程度の大きさ。
外側の警戒線へ近づき、少し沿って歩いた後、北東へ戻った。
人間の足跡は確認した範囲では見つからず、古い道との関係も分からない。以前の獣と同じ種類なのか、同じ個体なのかも分からない。
考えようと思えば、いくらでも考えられる。
けれど、考え続けても増えない情報があることを、少女は少しずつ理解していた。
「今日は卵どうするんだい?」
マーサに聞かれ、少女は顔を上げた。
「オルドさんのところへ行って、あれば買いたいです」
「昨日も食べただろ」
「昨日ので、少し固めが好きかもしれないと分かりました」
「毎日食べ比べるのかい?」
「いけませんか?」
「別に」
マーサは煮汁を飲み、何でもないことのように続ける。
「飽きたら別のもん食べればいいさ」
「……そうですね」
少女は笑った。
好きなものを見つけることさえ、一度決めたら変えてはいけないように考えていた自分が、少しおかしく思える。
食事を終えた後、少女は器を洗うのを手伝った。すべて自分でやろうとはせず、マーサが洗った器を受け取って拭き、自分が洗ったものはマーサが棚へ戻す。
どちらがどこまで担当するかを、いちいち決めたわけではない。
手が空いている方がやる。
疲れたら止める。
そんな曖昧さが、以前より心地よく感じられた。
「では、行ってきます」
「昼までには一度戻るんだよ」
「はい」
「紙に夢中になって昼飯忘れるんじゃないよ」
「昨日、ローデンさんにも似たことを言われました」
「なら二人分聞きな」
「分かりました」
少女は苦笑しながら家を出た。
村の道には、昨夜吹いた風で落ちた細い枝がいくつか転がっていた。空はまだ薄曇りだったが、雲の切れ間から時折淡い日差しが落ち、畑の葉に残った露を光らせている。
最初に向かったのはオルドの家だった。
鶏小屋の前には本人の姿があり、木の桶へ水を入れている。少女が近づくと、一羽の鶏が柵の内側から首を伸ばし、こちらを見た。
「おはようございます」
「おう」
「今日は卵がありますか?」
「ある」
オルドは即答し、小屋の脇に置いてあった籠を持ち上げた。
中には三つ入っている。
「一つ、買います」
「一つか」
「はい」
「二つじゃなく?」
「昨日いただいた分もありますし、毎日たくさん食べるわけではありませんので」
「そうか」
少女は財布代わりの小さな袋を取り出した。
前回は支払う金額を間違えた。
今回は、教えてもらった額を思い出しながら銅貨を選ぶ。念のため掌へ載せてオルドへ見せると、老人は一度だけ確認して頷いた。
「それでいい」
「合っていますか?」
「ああ」
少女は僅かに胸を張った。
「今回は一度でできました」
「卵買うだけだぞ」
「私にとっては二度目です」
「そうか」
「はい」
オルドは特に褒めるでも笑うでもなく、卵を一つ渡してくれた。その反応が少女にはかえって心地よかった。
卵を買えた。
ただそれだけ。
大きな成果ではない。
けれど、自分の生活の中に一つずつ「できる」が増えている。
「ところで、オルドさん」
「なんだ」
「これを書いてみていただけますか?」
少女は布包みから警戒線の記録用紙を出した。
オルドは紙を見る。
「何だ?」
「昨日の警戒線の記録です。誰でも使える形にしたいので、実際に書けるか試していただいています」
「今か?」
「お時間があれば」
オルドは鶏小屋を見る。
一羽が水桶の縁をつついている。
「今は鶏見る」
「では、後で」
「昼前ならいい」
「分かりました」
少女はすぐ紙を畳んだ。
以前なら、「少しだけですから」と頼んでいたかもしれない。
自分の用事が重要なら、相手も時間を作ってくれるものだと無意識に考えていたわけではない。それでも、頼む以上はその場で応じてもらうことをどこかで期待していた。
今は、オルドにはオルドの朝がある。
「では、昼前にまた来ます」
「おう」
少女は卵をマーサの家へ置きに戻ってから、村の中央へ向かった。
昨日警戒線の反応を書いた木板は、そのまま見張り場所の脇へ置かれている。文字が消えていないことを確認していると、後ろから大きな声が聞こえた。
「おう!」
振り返る。
ガルドだった。
朝から畑仕事をしていたのか、袖を肘までまくり、靴には土がついている。片手にはなぜか大きな豆の入った籠を持っていた。
「おはようございます」
「記録か!」
「はい。ちょうどよかったです」
「俺でも書けるやつになったか!」
「それを確認したいので、書いてください」
「よし!」
少女は一瞬、不安になった。
ガルドは勢いよく長椅子へ座り、差し出された紙を見る。そこには昨日整理した項目が並んでいた。
『いつ』
『どこ――内側/外側』
『方向』
『鳴り方』
『天候』
『確認した人』
『実際に見つけたもの』
『分からないこと・考えたこと』
ガルドは紙を見つめた。
少女も隣で待つ。
「……多いな!」
「やはり多いですか?」
「多い!」
予想していたとはいえ、ここまで迷いなく言われると少しだけ胸へ刺さった。
けれど、少女はすぐに紙を引っ込めなかった。
「どこが多いですか?」
「全部だ!」
「それでは減らせません」
「そうか!」
「一つずつ見てください」
「分かった!」
ガルドは炭筆を握り直した。
少女は昨日の出来事を例にしてもらうことにした。
「昨日、警戒線が鳴ったとします」
「鳴ったな!」
「『いつ』には何と書きますか?」
「朝!」
「もう少し詳しくできますか?」
「飯の後!」
「では、『朝食後』」
「それでいい!」
少女は頷いた。
「どこ?」
「東!」
「内側と外側があります」
「外!」
「では外側へ印をつけてください」
ガルドが丸をつける。
炭筆の線は少女が書くものより太く、丸も少し歪んでいた。
「方向は?」
「北東!」
「書けますか?」
「書ける!」
ガルドは大きく『北東』と書いた。
「鳴り方は?」
「カン、カン!」
少女は思わず口元を押さえた。
「文字で書くなら?」
「二回!」
「それで十分ですね」
「最初からそう言え!」
「私は何も止めていません」
「そうだったか!」
少女は笑いを堪えながら、次へ進める。
「天候は?」
「昨日は晴れ!」
「確認した人は?」
「ユウ、ケル、ドラン!」
「実際に見つけたものは?」
「獣の足跡!」
ガルドの炭筆が止まる。
「一頭!」
「種類は?」
「知らん!」
「では?」
「知らん!」
「それを書けばよいです」
「知らんって書くのか?」
「はい」
ガルドは少女を見る。
「いいのか?」
「分からないものを分かったように書くよりよいと思います」
「そうか!」
そして、本当に大きな字で『種類 知らん』と書いた。
少女はしばらくその文字を見つめた。
「……分かりやすいですね」
「だろ!」
「少し言葉は変えるかもしれません」
「何でだ!」
「他の方も使うので」
ガルドは不満そうだったが、紙を返してくれた。
「どうでした?」
「書けた!」
「面倒でしたか?」
「お前が横で聞くなら書ける!」
「一人では?」
「途中で畑行く!」
少女は肩を落とす代わりに、紙へ小さく印をつけた。
まだ多い。
少なくとも、ガルドには。
「ありがとうございます」
「もう終わりか!」
「はい」
「豆いるか!」
「今日は大丈夫です」
「昨日もそう言ってたぞ!」
「毎日いただいていますから」
「うまいぞ!」
「知っています」
「なら持ってけ!」
「今日は卵を買いました」
「豆と卵は別だ!」
確かに別ではある。
しかし、それで受け取っていたら毎日何かしら持たされる気がした。
「今日は遠慮します」
「そうか!」
ガルドはあっさり諦め、豆の籠を抱えて去っていった。
その背中を見送りながら、少女は記録用紙を見る。
『種類 知らん』
大きな文字が目立っている。
少しだけ笑い、それを消さずに残した。
「何笑ってるの?」
声に振り返ると、ユウが歩いてきていた。
今日は手ぶらで、まだ何か大きな作業を始める前らしい。
「ガルドさんに書いていただきました」
「見ていい?」
「はい」
紙を渡す。
ユウは『種類 知らん』を見つけると、すぐに笑った。
「分かりやすいじゃん」
「私もそう思いました」
「これでいいんじゃない?」
「そのまま採用するのですか?」
「『不明』とかに変えてもいいけど、意味は一緒でしょ」
「そうですが」
少女は自分が作った項目を指でなぞる。
「一人で書くには多いそうです」
「ガルドさん基準?」
「まずは」
「一番厳しい基準かも」
「そうなのですか?」
「字を書くの嫌いな人基準なら、たぶん」
ユウは紙を返しながら、木板に残った昨日の記録へ視線を移した。
「でもさ、全部を一人が書かなくてもいいんじゃない?」
少女は顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
「警戒線が鳴った時、見張りにいた人が最初のところだけ書く。確認に行った人が戻ってきたら、結果を足す」
「二人以上で?」
「昨日もそうだったでしょ。最初に反応を書いたのは君で、足跡を見たのはケルさんたち」
「……そうですね」
「一人で全部確認する前提じゃないなら、記録も一人で完成させなくていいんじゃない?」
少女は紙へ目を落とした。
最初から最後まで、一人の担当者が書き切る。
無意識にそう考えていた。
「途中のまま、別の方へ渡しても?」
「それで困る?」
「いえ」
「ならいいんじゃない?」
少女は少し考え、紙の上部に新しい線を引いた。
『反応した時に書く』
『確認後に書く』
二つへ分ける。
反応した時。
いつ。
内側か外側か。
方向。
鳴り方。
天候。
確認後。
誰が確認したか。
何があったか。
分からないこと。
「……こうでしょうか」
「さっきより分かりやすい」
「最初からこうすればよかったです」
「使ったから分かったんじゃない?」
少女の炭筆が止まる。
「そうですね」
自分だけで考えていた時には、すべてを一枚の記録として見ていた。
昨日、実際に警戒線が鳴った。
自分は最初に分かっていることだけを書いた。
確認に行った人が戻り、そこへ結果を足した。
既に昨日、自分たちはこの形で使っていたのだ。
「実際に起きたことの方が、考えていた形より分かりやすいですね」
「そういうことあるよ」
「介護のお仕事でも?」
何気なく尋ねると、ユウは少し考えた。
「あるね。使いやすいと思って置いた椅子が邪魔だったり、手すりの位置が合わなかったり」
「それも、使ってから直す?」
「直せるなら。人によって違うし」
「昨日の椅子と同じですね」
「うん。最初から全部当てるのは無理だよ」
少女は紙を見た。
最初から全部当てなくてもいい。
その言葉は記録用紙だけに向けられたものではないような気がしたが、今はそれ以上考えなかった。
「ユウさんも書いてみますか?」
「俺?」
「はい」
「いいよ」
少女は新しい紙を一枚取り出そうとして、手を止めた。
「紙がもったいないですね」
「木板でいいんじゃない?」
「あ」
見張り場所に置いてある木板なら、炭筆で書いて消せる。
少女は昨日の記録を別紙へ写した後、布で木板を拭いた。完全に真っ白には戻らなかったが、練習には十分だった。
「では、お願いします」
「何書けばいい?」
「私が説明しない方がよいですね」
「試すならそうだね」
少女は少し離れた。
ユウが紙の項目を見る。
しばらくして、木板へ書き始めた。
『朝』
『外』
『北東』
『二回』
そこで止まる。
「天気って必要?」
「ケルさんが、雨や強風なら痕跡の確認へ影響すると言っていました」
「じゃあ要るか」
『曇り』
さらに確認後の欄へ進む。
『ケル・ドラン・ユウ』
『獣らしい足跡一頭分。線越えなし。北東へ戻る』
『種類不明。人の足跡は確認範囲では見つからず。旧道との関係不明』
少女は横から読み、少し驚いた。
「短いですね」
「長くした方がいい?」
「いいえ。必要なことはあります」
「じゃあこれで」
「私が昨日書いたものより、かなり短いです」
「俺、長い記録嫌いだったから」
ユウは苦笑した。
「仕事では書いていたのでは?」
「書いてたよ。いっぱい」
「いっぱい?」
「いっぱい」
声に僅かな重さが混じった。
「何をしたか、どうだったか、何か起きたらその記録、家族に伝えたこと、会議の記録。書くのは必要なんだけど、書く時間がなくて残業になることもあったし」
「人を支えるための記録なのに?」
「その人を見る時間が減るくらい記録が増えることもあった」
少女は返す言葉を探した。
必要なことを残すための記録。
けれど、その記録のために本来の目的が圧迫される。
今朝マーサが言ったことを思い出した。
紙を書くために見張るのではない。
「では、これは増やしすぎない方がよいですね」
「必要なものは必要だけどね」
「はい。減らすことだけを目的にはしません」
「それがいいと思う」
少女はユウが書いた木板を見ながら、項目の横へ小さく記号を足した。
文章ではなく、丸をつけられる場所は丸にする。
内側、外側。
天候。
痕跡なし。
それ以外は短く書く。
「もう少し試します」
「誰に?」
「ドランさんとケルさん、それからオルドさんにもお願いしています」
「ローデンさんは?」
「最後に見ていただきます」
「何で最後?」
「最初にローデンさんへ見せると、私がまた完成したと思ってしまいそうなので」
言ってから、少女は自分でも少し可笑しくなった。
ユウも笑う。
「自分で分かってるんだ」
「最近、少し」
「いいんじゃない?」
「たぶん」
少女は紙を畳んだ。
「ユウさんは今日は何を?」
「午前はベルさんと見張り棚の続き。午後はまだ決めてない」
「決めていない?」
「うん」
「何かしなければならないことは?」
「あるかもしれないけど、今のところ急ぎはないかな」
「では、午後は?」
「昼になってから考える」
少女は思わずユウの顔を見た。
「本当にそうするのですね」
「何が?」
「明日のことは明日、午後のことは午後」
「全部じゃないよ。決める必要ある時は決めるし」
「でも、決めなくてよいことまで先に決めない?」
「そんな感じ」
少女は頷いた。
自分の家についても同じなのかもしれない。
三軒目の家へ住みたい気持ちは強くなっている。
窓の近くへ机を置きたい。
本も置きたい。
けれど、正式に使えるかはまだ分からない。
なら今は、住めることになった時に何をしたいかを楽しみにしながら待てばいい。
「では、私はドランさんたちを探します」
「うん」
「ユウさん」
「何?」
「午後、もし休むなら、本当に休んでくださいね」
「先に言われた」
「以前のことがありますので」
「分かった」
少女は満足して歩き出した。
背後からユウの声が飛んでくる。
「そっちもね」
「何がですか?」
「記録作り」
振り返る。
「昼までってマーサさんに言われてない?」
「……言われています」
「じゃあ守ってね」
「はい」
少しだけ悔しい。
けれど、言い返せなかった。
ケルとドランは、東へ続く道の少し手前で見つかった。
二人とも森へ入る装備ではなく、村側の柵を見ながら話している。昨日の警戒線反応を受けて、何か確認していたらしい。
「今よいですか?」
少女が声をかけると、ドランがこちらを見た。
「記録か?」
「分かりましたか?」
「紙持ってるからな」
少女は二人へ近づき、先ほど分けたばかりの形式を見せた。
「昨日より変えました」
「もう変えたのか?」
「使ってみたら、変えた方がよさそうでした」
「早いな」
「変えてはいけませんか?」
「いや。面倒じゃなくなるなら変えてくれ」
ドランは紙を受け取った。
ケルも隣から覗き込む。
「反応時と確認後で分けたのか」
「はい。最初にいる方と、確認へ行った方が同じとは限らないので」
「こっちの方がいい」
ケルはすぐに言った。
少女の胸が少し軽くなる。
「では、昨日の出来事を書いてみていただけますか?」
「俺が?」
ドランが嫌そうな顔をする。
「長い文章は必要ありません」
「本当か?」
「ガルドさんは『種類 知らん』と書きました」
「それでいいなら書く」
「意味が分かれば」
ドランは木板を借り、炭筆を握った。
字はガルドより小さいが、少女ほど整ってはいない。
『朝飯後』
『外』
『北東』
『二回』
『晴れ』
そこまでは早かった。
確認後の欄へ移る。
『俺、ケル、ユウ』
『足跡一頭。線越えなし。北東戻り』
『種類不明』
そこで炭筆を置いた。
「終わり」
「人の足跡は?」
「なかった」
ケルが横から口を挟む。
「確認した範囲では、だ」
「面倒だな」
「でも必要です」
少女が言うと、ドランは渋々『人跡 確認範囲なし』と足した。
「これでいいか?」
「はい」
「なら使える」
少女は嬉しくなった。
ただ、すぐにその感情だけで終わらせず、ケルへ紙を渡す。
「ケルさんは、足りないものがありますか?」
ケルはしばらく読む。
「痕跡があった場所」
「方向とは別に?」
「警戒線のすぐ近くか、少し離れてるか。線に触れたのか、近くを通っただけか」
「あ」
昨日の記録では、「外側警戒線へ接近」「一部線沿い」と文章の中へ入れていた。
「必要ですね」
「毎回細かい距離はいらん。線のところ、線の近く、離れた場所くらいでいい」
「では、『線との位置』」
「それなら分かる」
少女は項目を足した。
「増えたな」
ドランが言う。
「必要なので」
「朝より増えてないか?」
「一度減ってから一つ増えました」
「同じじゃないか?」
「違います」
少女は少しだけ強く答えた。
ドランは笑う。
「ならいい」
ケルはもう一度紙を見る。
「推測を書く場所は小さくていい」
「なぜですか?」
「長く書けると、考えたことをいっぱい書くだろ」
少女は反論しかけて、止まった。
「……私なら、書くかもしれません」
「だろ」
「でも、必要な仮説もありませんか?」
「ある。だから消すな。ただ、事実より目立たせるな」
少女は紙の下部にあった『分からないこと・考えたこと』の欄を半分ほどに縮めた。
「これくらい?」
「いいんじゃないか」
「分からないこともそこですか?」
「それは事実の方に『不明』でいい」
少女は頷いた。
昨日よりさらに形が変わった。
けれど、直すたびに失敗しているとは思わなかった。
「ありがとうございます」
「もう終わりか?」
「はい」
「なら東側、見てくる」
ケルが言う。
少女は反射的に森の方を見る。
「昨日の足跡を?」
「線の外からな。新しいのがないか見るだけだ」
「私も――」
言いかけて止める。
行って何をするのか。
自分には足跡を見分ける技術もない。
昨日の記録を作ったからといって、確認まで自分がする必要はない。
「……行ってらっしゃい」
少女が言い直すと、ケルが短く頷いた。
「ああ」
ドランも続いて歩き出す。
少女は二人を見送り、村の中央へ戻った。
東へ行かないことが、以前より悔しくない。
できないから置いていかれたのではなく、そこは自分の役割ではないと考えられるようになってきたからかもしれない。
それでも、結果は知りたい。
知りたい気持ちまで消す必要はなかった。
中央へ戻ると、ベルが見張り場所の棚へ細い板を取り付けていた。その横でユウが木材を押さえている。
「終わった?」
ユウが尋ねる。
「まだオルドさんが残っています」
「オルドさんも?」
「昼前ならよいと言ってくださいました」
「予約したんだ」
「予約?」
「約束みたいなもの」
「では、予約しました」
少女はベルの作業を見る。
新しく取り付けられているのは、記録板と炭筆を置くための小さな棚だった。雨が吹き込みにくいよう上側に庇があり、紙を挟むための細い木枠もついている。
「これなら紙が飛びませんね」
「風で飛ぶ紙なんぞ見張りに置くな」
ベルが言う。
「昨日は手で押さえていました」
「だから作ってる」
「ありがとうございます」
「お前のためじゃない。使う奴のためだ」
「はい」
以前なら、その言葉を少し冷たく感じたかもしれない。
今は違う。
自分の提案から始まったものでも、自分だけのものではない。
だから、使う人のために作る。
「高さはどうですか?」
少女が尋ねると、ベルが棚を叩いた。
「立って書くならこんなもんだ。座って書くなら板外せる」
「外せる?」
「ほら」
ベルが木板を持ち上げる。
簡単な留め具で固定されていて、外せば椅子の上でも膝へ載せられる。
「……すごいです」
「普通だ」
「私は固定するものだと思っていました」
「何でだ?」
「棚ですから」
「棚に置いてあるだけだろ」
少女は返事ができなかった。
ユウが横で笑っている。
「何ですか?」
「いや、ベルさんと話すと毎回そういう顔するなと思って」
「どういう顔です?」
「考えてた前提が一個なくなった顔」
「そんな顔がありますか?」
「ある」
ベルまで頷いた。
「あるな」
「お二人で決めないでください」
少女は少し頬を膨らませたが、すぐに自分でも笑ってしまった。
固定しなくてもいい。
必要なら外せばいい。
昨日までの形に、今日も従わなければならないわけではない。
「記録用紙も、外せるものだと思えばよいのでしょうか」
少女が呟く。
「紙は最初から外れるだろ」
ベルに真顔で返される。
「そういう意味ではありません」
「じゃあ知らん」
「もう少し比喩というものを」
「木なら分かる」
「では、木で説明してください」
「嫌だ」
少女は言葉を失った。
ユウが肩を震わせている。
「笑っていますね?」
「ちょっと」
「ユウさんも何か言ってください」
「ベルさんらしいなって」
「味方になってくださいとは言っていません」
「じゃあ何言えばいいの?」
聞かれて、少女は考えた。
「……分かりません」
「じゃあ俺も分かんない」
三人の間に少しだけ静かな時間が落ちた後、少女は先に吹き出した。
ベルは何が面白いのか分からない顔をしていたが、作業へ戻る口元が僅かに緩んでいた。
昼前になり、少女は約束通りオルドのところへ戻った。
鶏の世話は一段落していたらしく、老人は家の前の小さな椅子へ座っていた。少女を見ると、何も言われる前に手を出す。
「紙」
「覚えていたのですか?」
「言った」
「はい」
少女は記録用紙と炭筆を渡した。
「昨日の警戒線について書いてみてください」
「どこまで?」
「分かるところまでです」
オルドは紙を見る。
「俺、見てないぞ」
「では、警戒線が鳴った時に村の中央にいた方として、最初の部分だけお願いします」
「それなら分かる」
少女は少し驚いた。
オルドは迷わず『朝』と書き、外側へ丸をつける。
方向で止まった。
「北東だったか?」
「はい」
「それ、俺はユウの声で聞いた」
少女の手が止まる。
「では、ご自分で見たわけではない?」
「ない」
「……そうですね」
昨日、自分もユウの声で「外側、北東寄り」と知った。
警戒線の場所そのものを自分で確認したわけではない。
「誰から聞いたかも必要でしょうか」
「毎回書くのか?」
オルドに聞き返され、少女は考え込む。
増やせばまた複雑になる。
「全部には要らないかもしれません」
「なら書かん」
「待ってください」
「どっちだ」
「少し考えます」
少女は紙を受け取り、自分の膝へ置いた。
事実。
確認した事実。
誰かから聞いた事実。
そこまで細かく分ければ、確かに正確になる。
けれど、村の見張り記録としてどこまで必要なのか。
「……ローデンさんに聞きます」
「そうしろ」
「オルドさんは、残りは?」
「知らん」
「では、そこで終わりですか?」
「終わり」
「簡単でした?」
「これくらいなら」
少女は頷いた。
「ありがとうございます」
「卵、割るなよ」
「置いてきました」
「そうか」
今日も同じ失敗はしていない。
少し誇らしい気持ちになりながら、少女はマーサの家へ戻った。
昼食は硬めのパンと野菜の煮込み、それに少量の干し肉だった。少女は記録用紙を卓へ出さず、マーサと一緒に食事をする。
「終わったのかい?」
「午前の分は」
「午前の分?」
「午後はローデンさんに見ていただきます」
「じゃあ午前は終わりだね」
「はい」
マーサの言い方に、少女は素直に頷いた。
食後は器を片づけ、そのまま少し横になる。
眠るつもりはなかった。
けれど、目を閉じているうちに身体の力が抜け、気づけば短い眠りへ落ちていた。
目を覚ました時、窓から入る光の角度が少し変わっている。
「……寝ていました」
「寝てたね」
裁縫をしていたマーサが答える。
「どれくらいですか?」
「そんなに長くないよ」
少女は身体を起こした。
頭はすっきりしている。
昼寝をしてしまった、ではなく、昼寝をした。
今はそれでよかった。
水を一杯飲んでから、少女は午後の用事へ向かった。
ローデンは村の中央にいた。
見張り場所の棚を確認し、ベルと何か話している。少女が近づくと、ベルは「俺の仕事は終わりだ」と言って工具を持って去っていった。
「できたか?」
ローデンが尋ねる。
「完成はしていません」
少女はそう答えてから、少し嬉しくなった。
「ですが、使える形には近づいたと思います」
「見せてくれ」
紙を渡す。
ローデンは最初から最後まで黙って読み、ガルドの試し書きが残った別紙も見る。
「これは?」
「ガルドさんです」
『種類 知らん』
ローデンが鼻から息を吐いた。
「ガルドだな」
「皆さん同じ反応をします」
「分かりやすいからな」
「採用した方がよいでしょうか」
「正式な紙に『知らん』は書かなくていい」
「そうですよね」
少女は少し安心した。
「反応した時と確認後を分けたのはいいな」
「ユウさんに言われました。一人ですべて書く必要はないのでは、と」
「その通りだ」
「それから、ケルさんに『線との位置』が必要だと言われました」
「それも要る」
「オルドさんと話して、もう一つ迷っています」
「何だ?」
「自分で確認したことと、人から聞いたことを分けるべきでしょうか」
ローデンはすぐには答えなかった。
見張り棚へ置かれた木板を一度見て、それから少女へ視線を戻す。
「全部分けると面倒だな」
「はい」
「でも、誰が確認したかは残す」
「では、例えば昨日なら?」
「最初の反応は見張り場所にいた者が記録。確認結果は、現場へ行った者の名前を書いた上で、その者から聞いた内容を残す。それで十分だろ」
「私が現場を見ていなくても?」
「『確認者 ケル、ドラン、ユウ』とあれば、後で詳しく聞きたい時に分かる」
「なるほど」
「大事なのは、書いた奴が全部見たようにしないことだ」
「はい」
少女は項目を増やさず、確認者の欄の意味だけを明確にした。
「これならどうでしょう」
「いいと思う」
「では完成?」
口にしてから、自分で止まる。
ローデンが少女を見る。
「完成にしたいか?」
「……いえ」
少女は紙を見た。
「明日から使ってみたいです」
「それでいい」
「使いにくければ直す」
「ああ」
「では、『試し』と書いておきます」
紙の上部へ、小さく『試用』と書き足した。
正式なものではない。
だからといって、役に立たないわけでもない。
「一週間くらい使ってみてもよいですか?」
「いいぞ」
「その間に何も警戒線が鳴らなかったら?」
「それはそれでいいだろ」
「記録を試せません」
「鳴らない方が村にはいい」
少女は一瞬黙り、それから笑った。
「そうですね」
記録を完成させるために事件が必要なわけではない。
「昨日の足跡について、新しいことはありましたか?」
少女が尋ねると、ローデンは首を横へ振った。
「午前にケルとドランが見た。新しい足跡は確認できなかったそうだ」
「昨日の一頭分だけ?」
「確認した範囲ではな」
「警戒線は?」
「追加反応なし」
「古い道は?」
「今日は見てない」
「では、未確認のまま」
「ああ」
少女は記録用紙へ書こうとして、止めた。
「これは昨日の記録へ追記しますか?」
「今日確認したなら、今日の欄へ書いた方がいい」
「警戒線は鳴っていませんが?」
「鳴ってないことも、必要なら残せばいい」
少女は考える。
毎日「鳴らなかった」と書く必要があるのか。
「毎日でしょうか?」
「そこまではいらんと思う。確認に行った日だけでいいんじゃないか」
「では、『昨日の反応地点を再確認。新しい痕跡は確認範囲でなし』」
「それでいい」
少女は別の小さな欄へ書いた。
何もなかったことも記録になる。
昨日ケルから教わったばかりのことだった。
「それと、家の記録ですが」
少女が話題を変えると、ローデンは少しだけ眉を上げた。
「気になってたか」
「はい」
「昼まで待てたか?」
「一冊だけにしました」
「ならいい」
「続きは?」
「今日はもういいだろ」
少女は口を開きかける。
だが、午前に記録用紙のことで何人も回り、昼寝をして、午後もローデンと話している。
古い帳面は明日でも読める。
「……はい」
「素直だな」
「私も学習しています」
「ユウと同じこと言ってるな」
少女の動きが止まった。
「ユウさんも?」
「何か言ったのか?」
「いえ。昨日、ユウさんが『俺も学習してる』と言っていました」
「似た者同士だ」
また言われた。
昨日もローデンから同じ言葉を聞いた気がする。
少女は紙を畳みながら、なぜか少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「……そんなに似ていますか?」
「休むの下手なところはな」
「そこですか」
「他に何がある?」
「いえ」
少女は少しだけ安心したような、なぜ安心したのか自分でも分からないような気持ちになった。
「家の方は、記録上は親族の確認を取った方がいいというところまで変わらん」
「はい」
「次にハインが来た時、西の町へ手紙を回せるか聞く。それより早く町へ行く奴がいれば、その時頼むかもしれん」
「私から手紙を書くのですか?」
「いや。村からだ」
「私ではなく?」
「家の扱いを確認するんだから、まず村から聞く方がいい」
少女は頷いた。
「もし、使ってよいと返事が来たら?」
「その時は、その後の話だ」
「その後?」
「本当にお前が使うか。どこまで直すか。長く住む扱いにできるか。お前自身の身分の問題もある」
少女の胸に、小さな重さが戻る。
公爵令嬢。
元王太子の婚約者。
追放された人間。
自分がこの村で暮らしたいと思うことと、王国の制度がどう扱うかは別だった。
「……そうでした」
「忘れてたか?」
「少し」
正直に答える。
「家を見て、机を置くことを考えていたので」
「机?」
「窓の近くに置きたいのです」
「そうか」
ローデンはそれ以上笑わなかった。
少女は少し迷いながら続ける。
「本も置きたいと思っています」
「本か」
「一冊も持っていませんが」
「ハインに頼めば安い古本くらい探せるかもしれん」
「ユウさんもそう言っていました」
「なら次に聞いてみろ」
「はい」
答えた後、少女は胸の中に残った重さを確かめた。
身分の問題は消えていない。
それでも、机や本の話まで消えるわけではない。
「ローデンさん」
「何だ?」
「私の身分のことが分かるまで、家のことを考えない方がよいですか?」
ローデンは少し驚いたように少女を見る。
「何でだ?」
「住めない可能性もあるので」
「あるな」
「では」
「住めない可能性があると、考えちゃいかんのか?」
少女は言葉を止めた。
「いえ」
「勝手に家を直し始めるのは困る。金や材料を使うのも、持ち主の確認が済んでからだ」
「はい」
「でも机をどこに置きたいか考えるくらい、誰も困らんだろ」
少女は目を伏せる。
「……そうですね」
「住めなかったら?」
「残念です」
「それで終わりか?」
少女は考えた。
三軒目の家が使えない。
その可能性はある。
以前なら、その可能性があるだけで期待しないようにしていたかもしれない。
欲しいと思わなければ、失わずに済む。
けれど今は、既にあの家をもう一度見たいと思っている。
「別の家を考えるかもしれません」
「そういうことだ」
ローデンは見張り棚へ試用の記録用紙を挟んだ。
「まだ何も決まってないんだから、決まってないままで考えればいい」
「はい」
少女は棚へ収まった紙を見る。
それもまだ試用だ。
家も確認中。
自分の身分も曖昧。
それでも、今日の生活は続いている。
「今日はこれで終わりにします」
少女が言うと、ローデンが少し意外そうな顔をした。
「帳面読まないのか?」
「明日にします」
「そうか」
「何ですか?」
「いや。止める前に自分から言ったなと思って」
少女は少しだけ胸を張った。
「私も学習していますので」
「それ、気に入ったのか?」
「少し」
少女は笑い、村の中央を離れた。
マーサの家へ戻る途中、ベルの工房の前を通る。
中から木を削る音が聞こえた。
少女は一度足を止めた。
久しぶりに鑿を触りたい。
そう思う。
けれど、今日は記録用紙のことで頭を使った。
身体は疲れていなくても、少し休みたい。
明日でもいい。
「……今日はやめておきます」
誰に聞かせるでもなく呟き、そのまま歩き出した。
数歩進んだところで、工房からベルの声が飛んできた。
「やらんのか?」
少女は振り返った。
入口からベルが顔を出している。
「聞こえていましたか?」
「そこにいたら聞こえる」
「今日はやめます」
「そうか」
「明日は、やるかもしれません」
「好きにしろ」
「はい」
それだけで会話は終わった。
やらないと言っても、理由を求められない。
明日やると約束しなくてもいい。
少女は少し軽くなった足取りで家へ戻った。
夕方までの時間は、マーサの手伝いを少しだけした。
洗った布を畳み、棚へ戻す。途中で一枚の布を逆向きに重ねたが、マーサに「そっちじゃない」と言われて直しただけで終わった。
以前なら、自分が一度でできなかったことを気にしたかもしれない。
今日は、向きを変えただけだった。
「今夜、卵を焼いてもよいですか?」
「自分で買ったやつだろ」
「はい」
「好きに焼きな」
少女は台所へ立った。
火を強くしすぎない。
油は前より少なく。
殻は、器の縁へ一度だけ少し強めに当てる。
昨日までの経験を思い出しながら卵を割ると、今回は殻の欠片を落とさずに済んだ。
「あ」
「どうした?」
「入りませんでした」
「何が?」
「殻です」
「よかったね」
マーサはそれだけ言って、自分の野菜を切り続ける。
少女は鍋の上の卵を見る。
白身が少しずつ固まり、縁から小さな音が立つ。黄身の表面が薄く変わり始めたところで火を弱め、昨日気に入った固さを思い出しながら待った。
皿へ移す。
形は昨日より整っている。
「少し上手になりました」
「そうだね」
「食べます」
「冷めるよ」
少女は席へ着き、一口食べた。
中心だけ柔らかい黄身。
昨日とほぼ同じ。
「やはり、これが好きかもしれません」
「決まったかい?」
「今のところ」
「ならいい」
「でも、また変わるかもしれません」
「卵の焼き方くらい好きに変えな」
少女は笑った。
「はい」
夕食後、少女は今日使った記録用紙を開いた。
午前中についたガルドの大きな文字。
ユウの短い記録。
ドランの必要最低限の書き方。
オルドが途中で止めた場所。
ケルから追加された「線との位置」。
ローデンと決めた確認者の扱い。
一枚の紙に、いろいろな人の使い方が残っている。
自分一人で作ったものではなくなっていた。
少女は新しい紙へ、明日から試す形を書き直した。
『警戒線反応記録・試用』
『反応時』
『いつ』
『内側/外側』
『方向』
『鳴り方』
『天候』
『確認後』
『確認した人』
『線との位置』
『見つけたもの――なし/あり』
『分からない場合――不明』
『必要な補足』
昨日より短い。
朝よりもさらに整理されている。
それでも、これが最後の形ではない。
「……試用」
少女は上に書いた二文字を指でなぞった。
試してみる。
合わなければ直す。
誰かが使いにくければ、その理由を聞く。
自分が間違えたとしても、紙を書き直せばいい。
そこまで考えたところで、少女は隣に置いてあった空き家の紙へ目を移した。
三軒目。
ハルトという老人が暮らしていた家。
息子のエルドは西の町。
村で必要なら使ってよいという意味に読める古い記録はあるが、文章の一部が破損している。
正式な確認が必要。
次の商人は数週間先になるかもしれない。
少女はその下へ新しい一文を書いた。
『確認が取れるまで待つ』
そこで炭筆を止める。
少し考えて、もう一行足した。
『待っている間に、住めたら何をしたいか考えてもよい』
書いてから、少女は頬を緩めた。
窓の近くの机。
本。
料理をする場所。
自分で買った卵。
もしかしたら、石鹸を置く場所も必要になる。
サナと作った石鹸は、もう少し待てば使えるはずだった。
家の前にはリンカの木がある。
季節が変われば、葉の色も変わるのだろうか。
まだ住めるとは決まっていない。
それでも、想像するだけなら誰にも迷惑はかからない。
「何書いてるんだい?」
マーサが湯を持ってきた。
少女は少し迷ったが、紙を隠さなかった。
「家のことです」
「まだ決まってないだろ」
「はい」
「じゃあ何を?」
「住めたら、何をしたいか」
マーサは少女の紙を覗き込んだ。
「机と本?」
「はい」
「それだけかい?」
少女は目を瞬いた。
「それだけでは少ないですか?」
「家だろ。寝るとこもいるし、鍋もいるし、服置くとこもいる」
「……そうでした」
「机だけあってどうするんだい」
「記録を書きます」
「飯は?」
「マーサさんのところへ――」
言いかけて、少女は止まった。
マーサが眉を上げる。
「毎日食べに来る気かい?」
「だめですか?」
「別にいいけど、自分の家持つなら自分でも食べるだろ」
「そうですね」
少女は炭筆を持ち直した。
『鍋』
『器』
『寝具』
『服を置く場所』
項目が増えていく。
しかし途中で、マーサが少女の手を軽く叩いた。
「何で今全部書くんだい」
「必要なものを」
「また始まったね」
少女は止まった。
「……はい」
「今日は机と本だけでいいんじゃないかい?」
「でも、住むなら必要です」
「住めるって決まってからでも間に合うよ」
「忘れたら?」
「腹減ったら鍋のこと思い出すさ」
少女は思わず笑った。
「確かに」
「寝る場所なかったら寝具も思い出す」
「それは困ります」
「困ってから全部考えろとは言ってないよ。今夜全部決めなくてもいいって言ってるんだ」
「はい」
少女は追加した項目へ線を引いて消そうとした。
けれど、少し考えて止める。
「消さなくてもよいですか?」
「好きにしな」
「思いついたこととして残しておきます。でも、今日は増やしません」
「そうしな」
マーサは湯の入った杯を少女の前へ置いた。
「ありがとうございます」
両手で杯を包む。
温かさが掌へ広がった。
「マーサさん」
「なんだい?」
「私が家を見たいと言った時、嫌ではありませんでしたか?」
マーサの動きが少しだけ止まった。
「何で?」
「ここを出ることを考えているので」
「出たいのかい?」
「追い出されたいわけではありません」
「なら違うだろ」
少女は言葉を探した。
「自分の場所を持ってみたい、と思っています」
「うん」
「でも、ここも好きです」
「うん」
「両方でもよいのでしょうか」
マーサは椅子へ座った。
「何でどっちかにしなきゃいけないんだい?」
「家を出たら、ここへ住まなくなるので」
「住まなくなるだけだろ」
「それは……そうですが」
「村の外へ消えるわけじゃあるまいし」
少女は杯へ視線を落とした。
湯の表面が小さく揺れている。
「私は、何かを選ぶ時、選ばなかった方を捨てるものだと思っていたのかもしれません」
「大げさだね」
「そうでしょうか」
「家一軒だよ」
マーサは呆れたように言ったが、声は柔らかかった。
「別の家に住んだからって、ここへ来ちゃいけない決まりはない。飯食いたきゃ来ればいいし、あたしが手伝ってほしけりゃ呼ぶかもしれない」
「毎日でも?」
「毎日は多いね」
「……では、時々」
「好きにしな」
少女は笑った。
「はい」
少しだけ目の奥が熱くなったが、泣くほどではなかった。
自分の家を持つことは、マーサの家を失うことではない。
新しい場所を選ぶことは、今まで得たものを全部捨てることでもない。
そう思うと、三軒目の家について考えることが、少しだけ怖くなくなった。
「マーサさん」
「今度は何だい?」
「もし住めることになったら、最初の何日か、料理を教えていただいてもよいですか?」
「今もやってるだろ」
「卵だけでは暮らせません」
「豆がある」
「ガルドさんが喜びます」
「毎日豆だね」
「それは困ります」
二人で笑った。
少女は湯を一口飲み、身体の内側へ温かさが落ちていくのを感じた。
その夜、寝る前にもう一度だけ警戒線の記録用紙を確認した。
試用。
明日から実際に見張り場所へ置く。
警戒線が鳴らなければ、書くことはない。
鳴ったとしても、慌てて何かを断定しない。
確認したことだけを残す。
分からないものは、不明と書く。
少女は紙を折り、机の端へ置いた。
その隣には空き家の紙がある。
こちらにも、分からないことが残っている。
親族の意思。
自分の法的な立場。
いつから住めるのか。
そもそも住めるのか。
けれど、今日新しく分かったこともあった。
待っている間に、楽しみにしてもいい。
住めた時のことを考えてもいい。
マーサの家を好きなまま、別の家を欲しいと思ってもいい。
何か一つを選ぶたびに、それまでのすべてを捨てなくてもいい。
少女は寝台へ入り、薄い掛け布を胸元まで引き上げた。窓の外では風が少し弱まり、雲の切れ間から月の光が村の屋根へ淡く落ちている。
明日は、ベルのところで鑿を触りたい。
警戒線の記録も見たい。
サナの石鹸がどれくらい固くなったのかも気になる。
オルドの卵は、今日買ったものがまだ一つある。
全部をやる必要はない。
朝になってから、その時やりたいものを選べばいい。
少女はそう考えながら目を閉じた。
その頃、村の東側に置かれた二本の警戒線は、どちらも静かなままだった。
森から風が流れてくるたび、木々の葉が暗闇の中で擦れ合う。昨日一頭分の足跡が見つかった場所にも、新しい痕跡は増えていない。
何も起きていない夜だった。
少なくとも、今分かっている範囲では。
そして今の少女には、それで十分だった。




