第31話 書いて残す
朝食を終えた少女は、昨夜閉じたままにしていた紙を卓の上へ広げた。
窓から差し込む朝の光はまだ柔らかく、紙の端には木枠の細い影が落ちている。外では誰かが家の前を通り過ぎ、少し遅れて鶏の鳴き声が聞こえた。昨日までなら空き家について書いた紙を真っ先に開いていたかもしれないが、今朝少女が手に取ったのは、途中までしか書いていないもう一枚の方だった。
『日時』
『方向』
『確認した人』
『見つけたもの』
『考えたこと』
昨日、ローデンと話したところで止まっている。
警戒線が反応した時、その時刻と方向、確認へ向かった人、実際に見つかった痕跡、そこから考えられることを残す。ただし、誰か一人にしか分からない複雑なものにはしない。
そこまでは決まっていた。
「……難しくしない」
少女は炭筆を指先で転がしながら呟いた。
領地経営について学んでいた頃なら、記録様式を作れと言われれば、もっと多くの項目を並べただろう。日時、場所、天候、担当者、報告者、発見物、数量、推定経過時間、対応、結果、今後の処置――思いつくものを漏れなく記載し、誰が読んでも情報不足にならない形を目指したはずだった。
けれど、それを村の見張り場所へ持っていったところで、果たして皆が使うだろうか。
「朝から難しい顔して、何と喧嘩してるんだい」
洗った器を拭いていたマーサに声をかけられ、少女は顔を上げた。自分では普通に考えていたつもりだったが、眉間へ力が入っていたらしい。
「紙です」
「紙は殴ってこないよ」
「分かっています」
「ならそんな顔しなさんな」
マーサは布を置き、卓の紙を横から覗き込んだ。細かな文字を追ったものの、すぐに興味を失ったように身体を起こす。
「昨日言ってた見張りのやつかい?」
「はい。誰でも書けるものにしたいのですが、何を残すべきか考えると増えてしまって」
「じゃあ減らしな」
「何を減らすかで悩んでいます」
「使う連中に聞けば?」
あまりにも簡単に返され、少女は炭筆を止めた。
「使う方に?」
「お前さんが一人で見張るんじゃないんだろ?」
「はい」
「なら、書く奴に聞くのが一番早いんじゃないかい」
マーサはそう言って、拭き終えた器を棚へ戻した。少女は紙へ視線を落とし、そこに並んでいる文字をもう一度眺める。
自分だけで完成させてから持っていくつもりだった。
頼まれた仕事なら、きちんと仕上げてから見せる。それが普通だと思っていたし、半端な状態で他人へ尋ねるのは、自分の役割を果たしていないような気がしていた。
けれど今回は、そもそも自分だけが使うものではない。
「……その方がよさそうです」
「なら聞いといで」
「はい」
少女は紙を畳もうとして、ふと手を止めた。
「マーサさんなら、警戒線が鳴った時に何が書いてあれば分かりやすいですか?」
「あたし?」
「使う可能性がないとは言い切れませんから」
マーサは少し考え、棚へ伸ばしかけた手を止めた。
「いつ鳴ったか」
「はい」
「どっちで鳴ったか」
「はい」
「あとは何がいたか」
少女は紙を開き直し、既に書いてある項目を指で追う。
「確認した人の名前は?」
「なくても困らないんじゃないかい?」
「後で詳しく聞きたい場合は、誰が見たか分からなくなります」
「ああ、それなら要るね」
「天候は?」
「雨なら書いといた方がいいんじゃないかい。足跡が消えるだろ」
少女の手が止まった。
以前、東側で見つかった人間の足跡も、雨で追跡が難しくなっていた。
「そうですね」
新しい項目を書きかける。
だが、炭筆の先が紙へ触れる直前に止めた。
「……また増やしています」
「必要なら増やせば?」
「難しくしない方がよいのでは?」
「必要なのと面倒なのは別だろ」
マーサは少女を見て、少し呆れたように眉を上げる。
「最初から正解作ろうとしなくていいんじゃないかい。使って面倒なら変えればいいだろ」
少女は炭筆を持ったまま黙った。
ベルも似たようなことを言っていた。
一度作った棚だからといって、ずっと同じ高さで使わなければならない決まりはない。家だって、人が住めば直す場所が出てくる。
紙も同じなのかもしれない。
「最初から完成していなくても?」
「紙だろ?」
「紙です」
「書き直せるね」
「……はい」
少女は笑った。
「では、まず使っていただくものを作ってみます」
「そうしな」
マーサは再び片づけへ戻る。少女も紙を畳み、炭筆と一緒に布へ包んだ。
外へ出ると、朝の空気には昨夜の冷たさがまだ少し残っていた。
青空には薄い雲が何本か伸び、東から差す光が家々の屋根を明るく照らしている。道の端では露を含んだ草が靴へ触れ、歩くたびに小さな水滴が落ちた。
少女は右足の踵を意識しながら歩く。
痛みはない。
ここ数日は歩く距離が増えても問題が出ていなかったが、それでも確認する癖は残っている。以前なら、痛くなくなった瞬間に「もう大丈夫」と考えていたかもしれない。
今は、今日の朝は零。
それだけでいい。
村の中央へ向かう途中、オルドの家の前を通ると、鶏小屋の近くに本人の姿が見えた。籠を持っているのを見て、少女は思わず足を止める。
「おはようございます」
「おう」
オルドは籠の中を確認していた。
少女の視線がそこへ向いていることに気づいたのか、籠を少し持ち上げる。
「二つ」
「産んだのですか?」
「産んだ」
薄茶色の卵が二つ入っている。
昨日はないと言われた。
今日はある。
当たり前のことなのかもしれないが、少女には少し面白かった。
「一つ、買えますか?」
「一つでいいのか」
「はい。まだ毎日上手に焼けるとは限りませんので」
「卵は逃げんぞ」
「でも、割れるかもしれません」
「そりゃ割るものだ」
オルドは真顔で答えた。
少女は笑いながら小さな銀貨を出そうとしたが、オルドが首を振る。
「昨日、籠直すの手伝ったろ」
「私は紐を押さえていただけです」
「押さえてた」
「それで卵一つは多くありませんか?」
「じゃあ半分にするか?」
少女は卵を見る。
「……どうやって?」
「知らん」
オルドの顔は変わらない。
少女は少し迷ってから、差し出された卵を両手で受け取った。
「ありがとうございます」
「おう」
「次は買います」
「好きにしろ」
オルドはもう一つの卵を籠へ残し、鶏小屋の奥へ戻っていく。
少女は掌の卵を見下ろした。
何かを手伝った。
だから何かをもらった。
けれど、正確に価値を揃えた交換ではない。
村では、そういうやり取りが時々ある。
「割らないようにしないと」
紙と炭筆を持った上に卵まで増えた。
少女は一度マーサの家へ戻るか迷ったが、布包みの中に卵を入れるのは危険そうだった。結局、片手で大事に持ったまま中央へ向かうことにした。
ローデンは見張り場所にはいなかった。
代わりに、村の中央に置かれた長椅子でケルが靴紐を締め直している。近くにはドランもいて、細い木の棒を削っていた。
「おはようございます」
少女が声をかけると、二人が顔を上げた。
「おはよう」
「卵持ってどこ行くんだ?」
ドランが少女の手元を見る。
「ローデンさんを探しています」
「卵で?」
「これは途中でオルドさんにいただきました」
「なるほど」
何が「なるほど」なのか少女にはよく分からなかったが、ドランは納得したらしい。
「ローデンなら西の倉庫だ」
ケルが答える。
「ありがとうございます。その前に、お二人にも聞いてよいですか?」
「何だ?」
少女は卵を落とさないよう慎重に腰を下ろし、布包みから紙を取り出した。
「警戒線の記録についてです。実際に確認へ行くことが多い方が、何を書いてあれば後で分かりやすいと思いますか?」
ケルとドランが紙を見る。
「記録?」
「昨日、ユウさんが用意していた板に残すものです」
「ああ、あれか」
ドランが削っていた棒を膝へ置いた。
「鳴った場所と時間だろ」
「はい」
「見つけた足跡」
「はい」
「数」
少女の炭筆が止まる。
「数?」
「足跡一つなのか、何匹もいるのかで違う」
「なるほど」
少女は『痕跡』の横へ、小さく『数が分かる場合』と書き足す。
「大きさも」
今度はケルが言った。
「足跡の?」
「分かればな。同じ獣か別の獣か比べる時に使える」
「正確な長さを測りますか?」
「毎回そこまでやってたら面倒だ」
少女は顔を上げる。
「では、どのように?」
「前に見たのと同じくらい、大きい、小さい。それで十分な時もある」
「正確でなくても?」
「正確に測れる状況なら測ればいい。雨降ってる時に物差し持って這いつくばる必要はないだろ」
少女は少し考え、頷いた。
記録は詳しければ詳しいほどよいと思っていた。
けれど、現場で使えないほど手間がかかれば、誰も続けられない。
「天気は?」
少女が尋ねる。
「要る」
ケルはすぐ答えた。
「特に雨。あと強い風」
「風もですか?」
「匂いが分かりにくくなる。枝も落ちる」
「なるほど」
「雪もな」
ドランが言った。
「冬なら足跡は見やすいが、降り続けりゃ消える」
少女は紙へ書き足した。
項目は増えている。
けれど、朝に一人で考えていた時とは違う。何のために必要なのかを聞きながら増やしているため、頭の中で整理しやすかった。
「あと、見つからなかった時も書いとけ」
ケルの言葉に、少女は炭筆を止めた。
「何も見つからなかったことを?」
「ああ」
「書くことがないのでは?」
「警戒線が鳴った。見に行った。でも何もなかった。それも記録だ」
少女は紙を見た。
反応があったのに、痕跡がない。
何も見つからなければ、失敗したように感じるかもしれない。
けれど、それ自体が一つの結果になる。
「……『確認したが、痕跡なし』」
「それでいい」
少女は丁寧に書いた。
「分からない場合は?」
「分からないって書け」
ケルは簡単に答えた。
「推測で埋めるな」
「はい」
その言葉は、今の村で何度も聞いてきた考え方とよく似ていた。
可能性は事実ではない。
知らないことは、知らないままにしておく。
「以前の人の足跡も、まだ誰のものか分かっていませんね」
「ああ」
「獣の足跡との関係も?」
「分からん」
「古い道を使っていたものが何なのかも?」
「分からん」
少女は頷く。
「では、そこも混ぜないようにします」
「そうしてくれ」
ケルは靴紐を結び終えると立ち上がった。
「難しい表はやめろよ」
ドランが少女の紙を覗き込む。
「私もそう言われました」
「誰に?」
「ローデンさんです」
「なら聞け」
「聞いています」
「その紙、もう難しそうだぞ」
少女は自分のメモを見る。
確かに文字が増えていた。
「これは考えるための紙です。実際に使うものは減らします」
「ならいい」
「ドランさんは、文字を書くのは?」
「書けるぞ」
「長い文章も?」
「嫌だ」
即答だった。
少女は思わず笑う。
「では、短くします」
「頼む」
「ケルさんは?」
「書けるが、見張りの最中に作文はしたくない」
「作文にはしません」
「なら使う」
少女は大きく頷いた。
「ありがとうございます」
紙を畳み直し、卵を持って立ち上がる。
「ローデンさんのところへ行ってきます」
「卵落とすなよ」
「気をつけます」
ドランに言われ、少女は無意識に卵を両手で包みそうになった。
しかし紙も持っている。
やはり一度置いてくればよかったかもしれない。
西側の倉庫へ向かう途中、前方からユウが歩いてきた。
肩には細い木材を数本担いでいる。少女へ気づくと、その視線が顔から手元へ移った。
「何で卵持って散歩してるの?」
「皆さん同じことを聞きます」
「そりゃ聞くでしょ」
「オルドさんにいただきました」
「よかったね」
「はい。昨日はなかったのですが、今日は産んだそうです」
「鶏が?」
「はい」
「そりゃ卵だからね」
少女は少し眉を寄せた。
「私もそれくらいは分かっています」
「ごめん」
ユウは笑いながら木材を肩から少しずらす。
「どこ行くの?」
「ローデンさんのところです。警戒線の記録について、ケルさんとドランさんにも聞きました」
「もう作ってる?」
「まだです」
少女はそこで少し胸を張った。
「先に使う方へ聞くことにしました」
「いいんじゃない?」
「マーサさんに言われました」
「マーサさん強いな」
「何がです?」
「だいたい一言で話終わる」
「私が考えすぎなのかもしれません」
「両方じゃない?」
少女は少し笑った。
「ユウさんにも聞いてよいですか?」
「何を?」
「警戒線が反応した時、何を残してほしいですか?」
ユウは少し考え、担いだ木材を地面へ下ろした。朝の日差しが強くなり始めていて、額には薄く汗が浮かんでいる。
「まず、魔法の線がどっちで反応したか。外側の補助線なのか、元からある方なのかも分けたい」
「あ」
少女は急いで紙を開く。
「それは必要ですね」
「あと、鳴り方に違いがあったらそれも」
「鳴り方?」
「今のところ大きく何種類もあるわけじゃないけど、反応の長さとか。一瞬なのか、何回か続いたのか」
「時間を測りますか?」
「正確じゃなくていいと思う。『短い』『少し続いた』くらいでも」
少女は書き込む。
「ケルさんも、正確さより続けられることが大事だという話をしていました」
「うん。数字取れる時は取ればいいけど、それで確認が遅れたら意味ないし」
「では、記録より確認が先?」
「基本はね。安全も」
少女の炭筆が止まる。
「記録するために危険な場所へ近づいてはいけない」
「それ大事」
「書いておきます」
「紙に?」
「記録板の上に」
「いいかもね」
ユウは頷いた。
「それと」
ユウの声が少しだけ真面目になる。
「『警戒線が鳴った=敵が来た』って書き方にはしないでほしい」
少女は顔を上げる。
「はい」
「動物かもしれないし、人かもしれない。枝とか、まだ試してない条件があるかもしれない」
「以前も言っていましたね。魔法だけで敵かどうか決めない、と」
「うん」
「では、『反応』にします」
「それがいいと思う」
少女は『警報』と書きかけていた文字を消し、『反応』へ変えた。
「人が見て確認したものと、魔法が反応したことを分けます」
「うん」
「それなら、警戒線が間違えた場合も残せます」
「間違いっていうより、条件が違ったって方が近いかも」
「条件」
「こっちが想定してないものに反応しただけなら、魔法が嘘ついたわけじゃないから」
少女は少し考え、言葉を書き直す。
『反応あり/確認結果』
二つを分ける。
「これならどうでしょう」
「分かりやすいと思う」
ユウは紙を覗き込み、それから少女の手元へ目を落とした。
「卵大丈夫?」
「今のところ」
「紙に夢中で握り潰さないでね」
少女は反射的に力を緩めた。
「……先に言ってください」
「今言った」
「そうではなくて」
卵を見る。
割れていない。
ほっと息を吐くと、ユウが笑った。
「それ、マーサさんの家に置いてくれば?」
「私も今そう思いました」
「ローデンさんのとこ行く前に?」
少女は西の倉庫とマーサの家の方向を見比べた。
「戻ります」
「うん」
「遠回りです」
「卵持って記録作るよりはいいんじゃない?」
「そうします」
少女は歩き出しかけ、ユウが置いた木材を見る。
「これは?」
「見張り場所の棚に使うやつ。ベルさんにもらった」
「持ちますか?」
「一本なら?」
差し出された細い一本を見て、少女は卵と紙を見る。
「……今日はやめておきます」
「それがいいと思う」
「自分から聞いたのに」
「持てない時もあるでしょ」
「はい」
少女は少し笑った。
「では、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
その言葉を聞き、少女は自然に「はい」と返した。
マーサの家へ戻ると、本人は庭先で布を干していた。
「忘れ物かい?」
「卵を持ったまま記録の相談をするのが難しいことに気づきました」
「何で持ってったんだい?」
「途中でもらったので」
少女は事情を説明しながら台所へ入り、卵を小さな器へ置く。割れていないことを確かめると、妙な達成感があった。
「今夜、焼きます」
「好きにしな」
「今度は少し固めにしてみます」
「この前柔らかいのも好きって言ってなかったかい?」
「どちらが好きか、まだ決めていないので」
「食べ比べかい」
「はい」
少女は笑い、今度こそ紙と炭筆だけを持って外へ出た。
西の倉庫へ着いた頃には、太陽が少し高くなっていた。
倉庫の大きな戸は開け放たれ、内部には農具や古い家具、木箱、縄などが並んでいる。ローデンは奥の棚から古い帳面を何冊か出し、入口近くの台へ積んでいた。
「おはようございます」
「おはよう。ちょうどよかった」
「何かありましたか?」
「家の記録」
少女の足が止まる。
三軒目の家。
昨日、ローデンに確認を頼んだものだった。
「もう見つかったのですか?」
「古い方だけな」
ローデンは一冊の帳面を開く。
「ハルト爺さんが住んでたことと、親族の名前までは残ってる」
少女は台へ近づいたが、すぐには帳面へ手を伸ばさなかった。
「見てもよいですか?」
「ああ」
許可を得てから覗き込む。
紙は黄ばみ、ところどころ端が擦れていた。書かれている文字も現在のものより癖が強く、少女は一行ずつゆっくり追う。
ハルトという名。
妻の名。
子の名。
西の町へ移った親族。
家の修繕についての短い記録。
「……ありますね」
「あるな」
「では、親族の方へ確認できますか?」
「できると思う。ただ、今すぐ手紙を出す前に、村としてどう扱ってたかもう少し見る」
少女は帳面から顔を上げる。
「まだ分からないことが?」
「家そのものを親族が相続した扱いなのか、村へ戻す話になってたのか、途中の記録が抜けてる」
「抜けている?」
「別の帳面かもしれん」
ローデンは積まれた古い記録へ目を向けた。
「ここだけ見て決めるのは早い」
「はい」
少女は少しだけ胸に生まれた期待を、そのまま抱えておくことにした。
記録が見つかった。
親族も分かった。
だから住める。
そう繋げたくなる。
けれど、まだ途中だった。
「残念か?」
ローデンに聞かれ、少女は少し考えた。
「少し」
正直に答える。
「昨日より住んでみたい気持ちが強くなっているので」
「そうか」
「でも、確認が必要なのも分かります」
「なら待ってくれ」
「はい」
少女は帳面の文字をもう一度見る。
「手伝えることはありますか?」
「この記録探しを?」
「はい」
ローデンは少し考えた。
「古い帳面を読めるなら助かるが」
「読めます」
「全部やるなよ」
少女は目を瞬いた。
「まだ何もしていません」
「先に言っとく」
「……そんなに信用がありませんか?」
「逆だ。やれと言ったら全部読みそうだから」
少女は言葉を失い、やがて小さく笑った。
「否定しにくいです」
「だろ」
「では、一冊だけ?」
「今日はな」
「分かりました」
少女は素直に頷いた。
「その前に、別の用事がありました」
持ってきた紙を広げる。
「警戒線の記録です。マーサさん、ケルさん、ドランさん、ユウさんに聞いてきました」
「俺より先に随分回ったな」
「使う方に聞いた方がよいと言われました」
「誰に?」
「マーサさんです」
「なるほど」
ローデンは紙を受け取った。
少女のメモには、既にたくさんの文字が並んでいる。
「これをそのまま使うのか?」
「いいえ」
少女は即答した。
「ドランさんに嫌がられます」
「だろうな」
「ですから、減らします」
ローデンが笑う。
「何を残す?」
「反応した日時、場所、元の警戒線か外側の補助線か、反応の長さ。確認へ行った方の名前、天候、実際に見つけたもの。何もなければ『痕跡なし』。それから、推測を書く場合は事実と分けます」
「多くないか?」
「やはり?」
「一枚に全部文章で書くならな」
少女は紙を見る。
「では、選ぶだけにします」
「選ぶ?」
「例えば天候なら、晴れ、雨、風が強い、雪。該当するものに印をつけるだけにすれば、書く量が減ります」
「方向も東、北東、南東くらいで選べるな」
「はい。警戒線も『内側』『外側』で」
「時間は?」
「そこは書きます」
「確認した奴の名前も書く」
「はい」
二人で紙を見ながら項目を減らしていく。
少女は途中で、以前の自分ならこの作業をどうしていただろうと考えた。
最初から一人で完成形を作り、使う側へ渡したはずだ。
使いにくいと言われれば、自分の設計が悪かったと落ち込む。
あるいは、必要な情報なのだから慣れてほしいと思ったかもしれない。
今は違う。
「これなら、ドランさんも書いてくださるでしょうか」
「本人に見せろ」
「また変えても?」
「使い始めてから変えてもいい」
「はい」
少女は少し笑った。
朝、マーサに言われたことと同じだった。
「ところで」
ローデンが古い帳面を一冊、少女の前へ置く。
「これが家関係の記録だ」
「一冊だけですね」
「約束したからな」
「はい」
「昼まで。見つからなければ今日は終わり」
少女は窓の外を見る。
太陽の位置を確認する。
「分かりました」
「本当に?」
「……努力します」
「休むのに努力するな」
少女は思わず口元を押さえた。
「それ、以前ユウさんにも似たことを言われました」
「そうか」
「私もユウさんに言ったことがあります」
「似た者同士だな」
「そうでしょうか」
何気なく返したものの、その言葉が胸の中へ少しだけ残った。
少女は理由を考えず、帳面を開いた。
古い記録を読む作業は、思っていたより楽しかった。
紙は古く、文字には書き手ごとの癖がある。それでも、いつ誰がどの家を使い、誰が西へ移り、どの家が空いたのかという村の過去が、短い記録の中に残されていた。
公爵家で学んだ領地記録とは規模がまるで違う。
何千人、何万人という領民を管理する帳簿ではない。
一軒の家。
一人の名前。
一頭の牛。
井戸の修理。
屋根を直した年。
そんな小さな記録ばかりだった。
「……面白いです」
少女が呟く。
「何が?」
別の作業をしていたローデンが尋ねる。
「誰がどこに住んでいたか分かります」
「そのための帳面だからな」
「この方は?」
少女は一つの名前を指す。
「二十年くらい前に西へ行った」
「こちらは?」
「ガルドの兄貴」
「ガルドさんにお兄様が?」
「いるぞ。今は町だ」
少女は驚いた。
村で暮らしている人たちにも、ここにいない家族がいる。
当たり前なのに、自分が知らなかっただけだった。
ページを進める。
やがて、ハルトの名が再び現れた。
「あ」
少女の声に、ローデンが近づく。
「ありました」
そこには、妻を亡くした後もハルトが家に住み続けたこと、息子家族は西の町へ移ったことが記されている。
さらに数年後。
ハルトが亡くなった時の短い記録。
少女は文字をゆっくり追う。
「『家屋については、息子エルドへ確認。本人、村で必要なら使ってよい旨を口頭で――』」
そこで文章が途切れていた。
紙の端が傷み、次の数文字が読みにくい。
「……最後が分かりません」
ローデンが覗き込む。
「俺も前に見た気がするな」
「これなら、村で使ってよいという意味では?」
「そうかもしれん」
「でも」
少女は自分で続きを止めた。
口頭。
記録が不完全。
どこまでの意味で「使ってよい」と言ったのかも分からない。
「これだけでは決められませんね」
「そうだな」
「親族の方へ確認した方がよい?」
「俺はそう思う」
「はい」
少女は少し残念だった。
けれど、不思議と落ち込みはしなかった。
「次の商人は、いつ頃ですか?」
「ハインなら早くても何週間か先だ」
「そんなに」
「毎日来るわけじゃないからな」
少女は窓の外へ目を向けた。
数週間。
以前なら長いと思ったかもしれない。
今も短いとは思わない。
「待ちます」
少女は帳面を閉じた。
「いいのか?」
「急いで住まなければならない理由はありませんから」
「マーサに追い出されそうか?」
「いいえ」
少し笑う。
「むしろ、出たら寂しいと言ってくださいました」
「そうか」
「でも、出たいなら出ればよいとも」
「マーサらしいな」
「はい」
少女は古い帳面へ手を置いた。
「確認できるまで、もう少し考えます」
「それでいい」
その時、倉庫の外から鐘に似た乾いた音が響いた。
一度。
短い間。
もう一度。
少女の身体が固まる。
ローデンも瞬時に顔を上げた。
音は東からだった。
村の空気が変わる。
遠くで誰かの声が上がり、倉庫の前を歩いていた男が東の方角を振り返った。少女の胸が強く鳴り始めるが、ローデンは帳面を閉じ、慌てず入口へ向かう。
「警戒線ですか」
「ああ」
少女も立ち上がる。
足が一歩前へ出た。
けれど、そのままローデンについて走ろうとはしなかった。
「私は?」
尋ねる。
「中央へ。勝手に東へ来るな」
「はい」
返事をした時には、既にローデンは外へ出ていた。
少女も倉庫を出る。
朝から穏やかだった村の中央に、緊張が広がっていた。叫び声や悲鳴が上がっているわけではないが、畑にいた者が手を止め、家の外へ出た者が東を見る。
遠くからユウが走ってくる。
その後ろにはケル。
別の道からドランも現れた。
「外側!」
ユウが走りながら声を上げる。
「北東寄り!」
少女は息を呑む。
外側の補助警戒線。
北東。
今朝、自分が紙へ書いたばかりの項目だった。
ローデンがユウたちと合流する。
短い言葉が交わされる。
ケルとドランが東へ向かい、ユウも続く。
少女はその背中を見送った。
追いかけない。
今、自分が行っても役には立たない。
むしろ邪魔になる可能性がある。
「……大丈夫」
自分へ言い聞かせるためではない。
まだ大丈夫かどうか分からない。
だから、少女は言い直した。
「まだ、分かりません」
その言葉の方が、今は正しかった。
中央へ集まってきた村人たちの中にマーサの姿を見つける。
「ここにいたのかい」
「はい」
「東は?」
「外側の警戒線、北東寄りだそうです。ユウさんたちが確認へ行きました」
マーサは頷く。
サナも少し遅れてやってきた。
「何か入ったのかい?」
「まだ分かりません」
少女は答える。
その時、自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
怖くないわけではない。
胸はまだ速く動いている。
東の森には、以前村へ近づいた獣がいるかもしれない。
人間の足跡もあった。
古い道を何かが使っていた形跡もある。
けれど、それらを今の音と結びつける証拠はない。
村人たちは中央から東を見ていた。
ガルドも来ている。
ベルは作業用の槌を持ったままだ。
オルドは鶏小屋から出てきたのか、袖に羽毛が一枚ついている。
「獣か?」
誰かが呟く。
「まだ分からないそうです」
少女は思わず答えていた。
相手がこちらを見る。
「外側の警戒線が北東で反応したことだけです。何が反応させたのかは、確認へ行った方が戻るまで分かりません」
言い終えてから、自分が説明したことに気づく。
ローデンから役目を与えられたわけではない。
けれど、誰かが断定しかけたから、分かっていることだけを口にした。
「そうだな」
ベルが短く言った。
「待つか」
周囲の緊張が消えたわけではない。
それでも、獣だ、人だ、と憶測が広がることはなかった。
少女は見張り場所の近くへ視線を向けた。
そこには昨日ユウが用意していた記録用の木板が置かれている。
まだ何も書かれていない。
今なら。
そう思った。
けれど勝手に触れてよいか分からない。
「ローデンさん」
少し離れたところにいたローデンへ声をかける。
「何だ?」
「記録を始めてもよいですか?」
ローデンは一瞬だけ木板を見た。
「ああ。今分かってることだけな」
「はい」
少女は見張り場所へ向かった。
木板の前へ座る。
炭筆を取る。
手が少し震えていた。
少女は一度、ゆっくり息を吐く。
日時。
正確な刻を測る道具はないため、朝食後、昼前。
反応。
外側。
方向。
北東。
鳴り方。
短い反応が二度。
そこまで書き、少女は止めた。
『獣』
そう書きそうになった。
書かない。
『人』
それも書かない。
『確認結果――確認中』
最後にそう記す。
少女は炭筆を置いた。
「できたのかい?」
マーサが後ろから覗く。
「今分かっているところだけです」
「少ないね」
「はい」
少女は木板を見る。
「今は、これしか分からないので」
以前の自分なら、空白が怖かったかもしれない。
何かを書かなければならない気がしたかもしれない。
今は、空白のまま待てる。
時間がゆっくり過ぎる。
実際にはそれほど長くなかったのかもしれない。
けれど、東へ向かった者を待つ間、村の音はいつもより小さく感じられた。誰も普段通りの作業へ完全には戻らず、それでも騒ぎ立てる者もいない。
少女は時々、自分の手を見る。
震えは少しずつ収まっていた。
やがて、東の道に人影が見えた。
「戻ったぞ」
誰かが言う。
少女は立ち上がりかけた。
けれど、すぐには走らない。
ユウ。
ケル。
ドラン。
三人いる。
歩いている。
誰かが担がれている様子もない。
そのことを確認してから、少女は立ち上がった。
三人が近づく。
ユウの服には少し土がついていたが、怪我をしているようには見えない。
少女の胸の奥に溜まっていた息が、ようやく外へ出た。
「どうだった?」
ローデンが尋ねる。
ケルが答える。
「足跡がある」
周囲が静かになる。
「獣だ」
少女の指が僅かに動いた。
「一頭分。たぶん前に見たのと同じくらいの大きさ」
ケルは続ける。
「外側の線まで来て、少し沿って歩いてる。中には入ってない」
「どっちへ行った?」
「北東へ戻ってる」
「古い道か?」
「そこまでは追ってない」
ドランが答える。
「線の確認を優先した。越えた跡はない」
ローデンが頷く。
「他は?」
「今のところ一頭分だけ」
「人の足跡は?」
「見てない」
「見てない、だな?」
ローデンが確認する。
「ないと断定はしない。確認した範囲では見つからなかった」
ケルが言い直す。
少女はその言葉を聞き、木板へ視線を落とした。
「書いてよいですか?」
少女が尋ねる。
「頼む」
ローデンが答えた。
少女は再び座る。
『確認結果――獣らしき足跡、一頭分』
そこで止める。
「同じ獣、と書きますか?」
ケルへ尋ねる。
「同じくらいの大きさ。種類までは断定するな」
「はい」
『以前確認したものと同程度の大きさ。種類は未確認』
「線に沿って?」
「少しだけ。北東へ戻った」
『外側警戒線に接近。一部、線沿いに移動。越境痕跡なし。北東方向へ戻る』
「古い道は?」
「未確認」
少女はそのまま書く。
『旧道との関係――未確認』
「人の足跡は?」
「確認範囲では見つからず」
それも書く。
炭筆を置く。
木板に並んだ文字を見る。
朝、自分が考えていた記録様式とは違う。
項目もまだ整っていない。
書き方も統一されていない。
それでも、今起きたことが残っている。
「こんな感じでどうでしょう」
少女が尋ねると、ケルが板を読む。
「分かる」
ドランも横から覗く。
「長い」
少女は肩を落としかけた。
「やはり?」
「でも俺が書くならもっと短くする」
「それで構いません」
「いいのか?」
「必要なことが分かれば」
ドランは少し意外そうな顔をした。
「じゃあ使える」
少女は笑った。
ユウも木板を覗き込む。
「いいね」
「まだ形は決まっていません」
「今日使えたなら、それでいいんじゃない?」
「でも、直したいところがあります」
「直せば?」
「はい」
少女は頷く。
その時、ユウの袖についた土が目に入った。
「怪我は?」
「ないよ」
「疲れは?」
ユウは少し考える。
「二くらい」
「本当に?」
「本当に」
「走っていましたよね」
「走ったけど、そんな遠くないし」
少女は顔を見て確認する。
呼吸は既に落ち着いている。
顔色も悪くない。
「分かりました」
「疑われてる」
「以前、四でも動こうとしていましたから」
「覚えてたか」
「覚えています」
ユウは苦笑した。
「そっちは?」
今度はユウが少女へ尋ねる。
「何がですか?」
「怖さ」
少女は少しだけ黙った。
今の自分の内側を確認する。
「鳴った時は、六くらいでした」
「今は?」
「三……くらいです」
「そっか」
「ユウさんたちが戻ってきたので」
言ってから、少女は一瞬だけ視線を落とした。
ユウたち。
そう言った。
けれど、東の道に最初に見つけた姿が誰だったのか、自分では分かっている。
そのことを今は言わなかった。
「じゃあ少し休んだ方がいいかもね」
ユウはそれ以上踏み込まずに言う。
「記録を整えたいのですが」
「今?」
「……」
少女は木板を見る。
警戒線が鳴った。
緊張した。
待った。
記録した。
思っていたより身体に力が入っていたらしく、肩が少し重い。
「後でも逃げませんね」
「紙はたぶん」
「警戒線も逃げないと、昨日ローデンさんに言われました」
「じゃあ大丈夫」
「はい」
少女は炭筆を置いた。
村人たちは少しずつ元の場所へ戻り始めた。
新しい危険が消えたわけではない。
獣らしき足跡が一頭分。
外側の警戒線へ近づき、少し沿って歩き、北東へ戻った。
以前にも似た行動があった。
けれど、今日分かったのはそこまでだ。
ガルドが戻り際に少女の板を覗き込んだ。
「俺でも書けるか!」
「文字は?」
「書ける!」
「では、たぶん」
「難しいのは無理だぞ!」
「簡単にします」
「頼む!」
大声を残して去っていく。
少女は思わず笑った。
マーサが隣へ来る。
「帰るかい?」
「はい」
「卵置いてきてよかったね」
少女は目を瞬いた。
警戒線のことで完全に忘れていた。
「……本当ですね」
「持ってたら今頃割ってたんじゃないかい?」
「否定できません」
二人で村の中央を離れる。
歩きながら、少女は一度だけ東を振り返った。
森はいつもと同じように見える。
遠くの木々が風で揺れ、葉の重なる音が微かに届く。
その向こうに何があるのかは、まだ分からない。
けれど、分からないものを無理に埋めなくてもいい。
今日残した記録には、空白がある。
未確認という文字もある。
それでよいのだと思えた。
マーサの家へ戻ると、少女はまず水を飲んだ。
冷たい水が喉を通り、そこで初めて自分が思っていた以上に緊張していたことに気づく。椅子へ腰を下ろすと、脚にも少し疲れが残っていた。
「昼飯まで座ってな」
マーサが言う。
「はい」
少女は素直に答えた。
警戒線の記録を作り直したい。
古い帳面の続きも気になる。
三軒目の家についても、親族への確認方法を考えたい。
やりたいことはいくつもある。
けれど、今は座る。
窓の外を見る。
それだけにした。
しばらくすると、身体の緊張が少しずつ抜けていった。
「マーサさん」
「なんだい?」
「今日、警戒線が鳴った時」
「うん」
「怖かったです」
「そうかい」
「でも、前よりは何をすればよいか分かりました」
「そう」
「東へ行かない。分かっていることだけ書く。分からないことは待つ」
「できたじゃないか」
少女は少し考える。
「はい」
その言葉を、今日は否定しなかった。
昼食後、少女は本当に何もしない時間を取った。
横になるほど眠くはなかったため、窓辺の椅子に座る。机の上には紙があるが、手を伸ばさない。
外では風が少し強くなっていた。
木の葉が擦れる。
その音を聞いているうちに、三軒目の家のリンカの木を思い出した。
あの家へ住むことになれば、同じように窓の外で葉が揺れるのだろう。
警戒線が鳴った日も。
何も起こらない日も。
卵を上手に焼けた日も。
失敗した日も。
そこまで考えて、少女は少し笑った。
まだ住めると決まっていない。
急がない。
午後になってから、少女はようやく紙を開いた。
朝に集めた意見を整理する。
今度は最初から項目を増やさなかった。
『警戒線の反応記録』
一番上にそれだけ書く。
次に、必要な項目を並べる。
『いつ』
『どこ――内側/外側』
『方向』
『鳴り方』
『天候』
『確認した人』
『実際に見つけたもの』
『分からないこと・考えたこと』
最後の二つの間を少し広く空けた。
事実と推測を混ぜないためだ。
少女は紙を眺める。
朝よりずっと短い。
完璧ではない。
今日使った木板とも少し違う。
それでいい。
明日、ドランやケルに見せる。
使いにくければ変える。
ガルドが書けなければ、もっと簡単にする。
「……これくらいでしょうか」
誰にともなく呟く。
その時、戸を叩く音がした。
「はい」
少女が立ち上がる。
マーサは奥にいる。
戸を開けると、そこにはユウがいた。
「こんにちは」
「こんにちは」
ユウは片手に小さな木板を持っている。
「これ、置いてった」
「私が?」
「記録のとこに」
少女は受け取る。
朝使っていた炭筆用の小さな板だった。
「ありがとうございます」
「あと、ローデンさんが今日はもう記録読まなくていいって」
「……先に言われました」
「読みに行くつもりだった?」
少女は黙る。
ユウが少し笑った。
「行くつもりだったんだ」
「少しだけ」
「一冊だけって言われてたんでしょ?」
「一冊は終わりました」
「じゃあ終わりじゃん」
「続きが気になります」
「明日あるよ」
「はい」
少女は渋々ではなく、今度は普通に頷いた。
「これを作っていました」
少女は完成途中の記録用紙を見せる。
ユウは玄関先で受け取り、目を通す。
「分かりやすい」
「本当ですか?」
「うん。俺でも書けそう」
「ユウさんは書けるでしょう」
「ガルドさんでも?」
少女は少し考える。
「そこが明日の確認です」
「大事だね」
「本人も『難しいのは無理』と言っていました」
「ガルドさんらしい」
二人で笑った。
風が少し強く吹き、ユウの髪が揺れた。
少女は紙が飛ばされないよう手で押さえる。
「今日の足跡」
少女が言う。
「はい」
「以前の獣と同じなのでしょうか」
「分かんない」
ユウはすぐ答えた。
「大きさは似てるってケルさんは言ってたけど」
「はい」
「同じ個体かも分からないし、同じ種類かもまだ断定できない」
「そうですね」
「気になる?」
「気になります」
少女は正直に答える。
「少し怖いです。でも、何なのか知りたいとも思います」
「うん」
「ただ」
少女は東の方角へ一度視線を向ける。
「今すぐ森へ行きたいとは思いません」
「それがいいと思う」
「ユウさんは行くのですか?」
「必要なら」
「一人で?」
「行かないよ」
即答だった。
少女はユウを見る。
「本当に?」
「そこ疑う?」
「少し」
「ひどい」
「以前なら一人で行きそうでした」
「俺も学習してるんだけど」
少女は笑った。
「では、覚えておきます」
「何を?」
「ユウさんも、昨日より変わることです」
言った後で、自分が朝の卵について考えていたことと似ていると気づいた。
昨日の自分より少し。
今日できなかったら、また次。
それは自分だけではない。
「そうかもね」
ユウは軽く肩をすくめた。
その反応を見ていると、少女の胸の中にあった緊張がもう少しだけほどけた。
「そういえば」
ユウが思い出したように言う。
「家の記録、あったんだって?」
「ローデンさんから聞いたのですか?」
「さっき」
「以前の持ち主の息子さんが、村で必要なら使ってよいと言ったらしい記録がありました。でも、口頭で、しかも文章の最後が傷んでいて完全には読めません」
「じゃあまだ確認か」
「はい」
「そっか」
「残念ではあります」
少女は少し笑う。
「でも、待ちます」
「うん」
「何週間かかかるかもしれないそうです」
「その間マーサさんとこ?」
「そのつもりです」
「なら家なくなるわけでもないしね」
少女は頷く。
「はい」
少し沈黙が落ちる。
気まずいものではなかった。
玄関の外では風が吹き、道の向こうから子供の声が聞こえる。
少女は手元の紙を見た後、ふとユウへ視線を戻した。
「ユウさん」
「ん?」
「もし、あの家に住めることになったら」
そこまで言って、少し迷う。
「机を置きたいのです」
「聞いた」
「ベルさんから?」
「うん」
「話が早いです」
「村だから」
少女は苦笑する。
「窓の近くに、小さな机を置いて」
言葉にしながら、あの部屋を思い浮かべる。
「こういう記録を書いたり、いつか本を置いたりしたいです」
「いいね」
「本は一冊も持っていませんが」
「これから増えるかもよ」
「そうでしょうか」
「欲しいなら」
少女は黙った。
欲しいなら。
誰かに必要だから与えられるのではなく、自分が欲しいから手に入れる。
「次にハインさんが来た時、本もありますか?」
「どうだろ。頼めば持ってきてくれるんじゃない?」
「何を読むかも決めなければ」
「それも今決める?」
少女は一瞬考え、それから首を振った。
「いいえ」
自然に答えられた。
「家もまだですし」
「うん」
「棚もまだです」
「うん」
「本もまだ」
「うん」
「それなのに、少し楽しみです」
少女は自分の口から出た言葉に、ほんの少し驚いた。
先のことを考えて、楽しみだと思う。
王都を追われた日の自分には、想像もできなかった感情だった。
明日が来ることさえ嫌だった。
何も残っていないと思った。
今も、失ったものが戻ったわけではない。
婚約は戻っていない。
家族との関係も戻っていない。
名誉も回復していない。
妹のことも分からない。
自分が正式にどこへ住めるのかさえ決まっていない。
それでも。
まだ持っていない机や本のことを考えて、少し楽しみだと思える。
ユウは何も大げさなことを言わなかった。
「じゃあ、いいね」
ただ、それだけだった。
少女はゆっくり頷く。
「はい」
ユウが帰った後、少女は戸を閉めた。
マーサが奥から顔を出す。
「帰ったかい?」
「はい」
「何しに来たんだい?」
「忘れ物を届けてくださいました」
「そう」
それだけ言って戻ろうとする。
少女は少し迷い、声をかけた。
「マーサさん」
「なんだい?」
「もし、あの家に住めたら」
「うん」
「机を置こうと思います」
「置けば?」
「窓の近くに」
「好きにしな」
「本も置きたいです」
「棚いるね」
「ベルさんに相談します」
「そうしな」
マーサは台所へ戻っていった。
少女はその背中を見送り、少し笑う。
誰も驚かない。
誰も「そんなことをして何になる」とは言わない。
机を置きたいなら置けばいい。
本が欲しいなら置けばいい。
その程度の願いとして受け止められる。
少女は卓へ戻り、記録用紙の下へ小さく書き足した。
『明日、使う人に見てもらう』
そこで炭筆を置く。
今日はもう完成させない。
朝より少しだけ形になった。
実際の警戒線反応にも使えた。
それで十分だった。
夕食では、オルドからもらった卵を焼いた。
今度は前回より少しだけ長く火へかける。黄身は完全に固めず、柔らかすぎないところで止めた。
「どうだい?」
マーサに聞かれ、少女は一口食べる。
黄身は中心だけ少し柔らかい。
最初の日ほど固くない。
二度目ほど流れない。
「……これが一番好きかもしれません」
「そうかい」
「まだ、もう一度食べてみたいですが」
「じゃあ次もそうしな」
「はい」
少女は笑った。
好きなものが、一度で決まらなくてもいい。
何度か試して、変えて、それから決めてもいい。
家も。
仕事も。
自分のこれからも。
きっと同じなのだろう。
夜、寝る前に今日の記録をまとめた。
警戒線が外側・北東寄りで短く二度反応。
確認した範囲で、一頭分の獣らしき足跡。
以前のものと同程度の大きさ。
外側警戒線へ近づき、一部線沿いに移動。
越えた痕跡なし。
北東へ戻った。
人の足跡は確認範囲では見つからず。
旧道との関係は未確認。
同一個体・同一種かは未確認。
そこまで書き、少女は炭筆を止めた。
分からないことが多い。
けれど、それを埋めようとは思わなかった。
別の紙には、三軒目の家について書いてある。
『以前の住人ハルトさん』
『息子エルドさん。西の町』
『村で必要なら使ってよい、という意味らしい古い記録あり。ただし文章破損。正式確認が必要』
『待つ』
最後の二文字を見て、少女は少し笑った。
以前なら、こんな言葉を自分の記録へ書くことはなかったかもしれない。
待つことは、何もしていないことではない。
分からないまま勝手に決めないために必要な時間でもある。
少女は紙を折り畳んだ。
灯りを消す前に窓を少し開ける。
夜の空気が部屋へ入り、昼間より静かな村の音が聞こえた。
遠くで誰かが戸を閉める音。
家畜の小さな鳴き声。
風が草を撫でる音。
東の森には、まだ分からないものがいる。
西の町には、まだ会ったことのないハルトの息子がいる。
王都には、まだ確かめられていない家族のことが残っている。
自分が住む家も、まだ決まっていない。
それでも少女は、以前ほど「分からない」という言葉を怖いと思わなくなっていた。
分からなければ、分からないと書いておけばいい。
必要になったら確かめればいい。
今日決めなくてよいことは、明日へ残してもいい。
窓を閉め、少女は寝台へ向かった。
明日は今日作った記録の形を皆に見てもらう。
使いにくければ直す。
家の帳面は、ローデンがよいと言えば続きを一冊だけ読む。
それから、オルドの鶏が卵を産んでいたら、今度こそ一つ買ってみよう。
そんな小さな予定を思い浮かべながら布団へ入る。
明日が来ることを、少し楽しみにしている自分がいた。
少女はその気持ちに名前をつけようとはせず、ただ静かに目を閉じた。




