第30話 もう一度見る
翌朝、少女が目を覚ました時、最初に思い浮かんだのは卵ではなかった。
昨日見た三軒目の空き家。その窓のすぐ外で風に揺れていた、リンカという名の木だった。
夏の終わりに小さな実がなる。
酸っぱい。
ベルは嫌いだと言っていた。
まだ味わったこともない実なのに、少女は寝台の中でその言葉を思い出し、少しだけ笑った。
「……もう一度、見たいです」
昨日の夜にも考えたことを、朝になって改めて口にする。
気持ちは変わっていなかった。
だからといって、あの家に住むと決めたわけではない。昨日より一歩だけ先へ進み、暮らすなら何が必要なのかを見てみたいと思っているだけだった。
少女は身体を起こし、右足を床へ下ろした。
踵に体重を乗せる。
痛みはない。
昨日も三軒の空き家を歩いて見て回ったが、以前のような違和感は出なかった。
「零」
小さく確認してから立ち上がる。
窓を開けると、朝の空気が部屋へ流れ込んだ。
今日はよく晴れていた。昨日の薄い雲は消え、空には淡い青が広がっている。庭先の草には朝露が残り、村のどこかから薪を割る乾いた音が一定の間隔で聞こえてきた。
少女はその音へ耳を傾ける。
もし自分が別の家へ移っても、村の音までは消えない。
昨日、マーサと話して少しだけ分かったことだった。
着替えを済ませて台所へ向かうと、マーサは鍋の前にいた。
「おはようございます」
「おはよう」
少女は卓を見る。
卵はない。
昨日、最後の一つを自分で焼いたのだから当然だった。
「卵、ありませんね」
「昨日食べただろ」
「はい」
「また欲しけりゃオルドに聞きな」
「昨日は今日はないと言っていました」
「じゃあ鶏次第だね」
マーサは鍋の中を木匙で混ぜる。
今朝は麦を柔らかく煮たものらしく、湯気と一緒に穀物の匂いが広がっていた。
「今日は焼かないのですね」
「何を?」
「卵を」
「ないものは焼けないよ」
「そうでした」
少女は少し笑い、食器を並べる。
「今日、もう一度あの家を見たいです」
朝食をよそいながら言うと、マーサは振り返らなかった。
「三つ目かい?」
「はい」
「ローデンに言いな」
「ベルさんにも、決める前に呼べと言われました」
「なら呼びな」
「ユウさんにも相談した方がよいでしょうか」
そこまで言って、少女は自分で少し考えた。
何について相談するのか。
家を選んでもらうためではない。
魔法で直してもらうと決めたわけでもない。
「……まだ、相談することが決まっていませんね」
「なら決まってから聞けば?」
「はい」
少女は椅子へ座った。
麦粥には塩が少しだけ入っていた。
昨日までなら出されたものをそのまま食べていただろうが、少女は一口食べてから、卓の端に置かれた乾燥香草へ視線を向けた。
「これを入れてもよいですか?」
「好きなら」
「昨日、分けていたものですよね」
「そうだよ」
「何の香草ですか?」
「香りづけ。苦くはない」
少女は少量を指先で摘み、自分の器へ落とした。
混ぜる。
もう一口食べる。
「こちらの方が好きです」
「なら入れな」
「マーサさんは?」
「あたしはいらない」
「では、私だけですね」
「そうだね」
昨日の卵と同じだった。
同じ卓で食べていても、同じ味を選ぶ必要はない。
少女はもう少しだけ香草を足した。
朝食を終え、二人で片づけをする。
少女が器を洗っている間、マーサは使い終えた鍋を水へ浸した。
「家を見るなら、何を見るつもりだい?」
突然尋ねられ、少女は手を止めた。
「何を……」
「昨日見たんだろ?」
「はい」
「同じように眺めて帰ってくるのかい?」
少女は考える。
昨日の夜、自分で紙へ書いた。
水をどう運ぶか。
竈は使えるか。
寝台をどこへ置くか。
机を置けるか。
修理はどこまで必要か。
「暮らすために必要なものを見たいです」
「例えば?」
「水と、竈と、寝る場所。それから机を置けるか」
「掃除」
「……はい」
「薪」
「はい」
「食べ物置く場所」
「あ」
少女は濡れた手を布で拭き、少し考える。
「それも必要ですね」
「冬の寒さ」
「今は分かりません」
「だからベルに窓見てもらうんだろ」
「なるほど」
少女は頷いた。
家というものを、部屋の広さや見た目だけで考えていた。
公爵家にいた頃、自分の部屋を維持するために何が必要なのかなど考えたこともない。掃除も暖房も灯りも水も、誰かが整えてくれていた。
「生活するのは、思っていたよりたくさん必要なのですね」
「今さらかい?」
「今さらです」
少女は苦笑した。
「でも」
マーサが鍋を洗いながら続ける。
「全部今日決めるんじゃないよ」
「はい」
「家を見るだけなのに、鍋から冬の薪まで全部揃えて帰ってきたら笑うからね」
「そんなことはしません」
「お前さん、考え始めると全部決めたがるから」
少女は反論しようとして、やめた。
否定できない。
「……気をつけます」
「気をつけなくてもいい。疲れたらやめな」
「そちらですか」
「そっちだよ」
マーサは洗い終えた鍋を置いた。
家を出る前、少女は紙を一枚持っていくことにした。
商人から買った分は多くないため、半分ほどの大きさに切る。炭筆も一緒に小さな布へ包んだ。
「記録するのかい?」
「忘れそうなので」
「好きだねえ」
「書くことが?」
「何でも書くことが」
少女は少し考える。
「好きなのかもしれません」
公爵家では、必要なことを書き留めるのは勉強や仕事のためだった。
今は違う。
卵を焼いたこと。
石鹸を作ったこと。
空き家を見たこと。
誰かに提出するわけでもない出来事まで、自分のために書いている。
「行ってきます」
「おう。昼までに戻れなきゃどっかで食べてきな」
「はい」
少女は紙と炭筆を持って外へ出た。
まずローデンを探す。
昨日と同じ場所にはいなかったが、村の西側でドランと話している姿を見つけた。
二人の足元には古い縄が置かれ、何かを確認している。
「おはようございます」
「おはよう」
ローデンが顔を上げる。
ドランも軽く手を上げた。
「昨日の家を、もう一度見たいのですが」
「三軒目か?」
「はい」
少女は少し驚く。
「やはり分かるのですね」
「昨日あれだけ気にしてたからな」
ドランが横から口を挟む。
「家決めるのか?」
「まだ決めません」
「そうか」
ドランはそれだけ言い、縄を束ね直した。
村の人々は「まだ決めない」という言葉を、随分簡単に受け入れる。
「ベルさんにも見ていただきたいです」
「なら呼んでこい。鍵は昨日と同じだから俺も行く」
「ありがとうございます」
「今すぐか?」
「ベルさんの都合がよければ」
ローデンは空を見る。
「昼前までなら俺も空いてる」
「では、聞いてきます」
少女はベルの作業場へ向かった。
作業場からは、今日も木を削る音が聞こえていた。
「おはようございます」
「おう」
ベルは手を止めずに答える。
作業台には細長い木材が固定されている。
「昨日の家ですが」
「三つ目か」
少女は足を止めた。
「皆さん、なぜ分かるのです?」
「お前、あの家のことしか聞かなかっただろ」
「二軒目も気になっています」
「じゃあ二軒目にするか?」
「いえ」
「なら三つ目だろ」
少女は返す言葉を失った。
「……まだ決めません」
「知ってる」
ベルはようやく手を止める。
「見に行くのか?」
「はい。暮らすなら何を直す必要があるか、見ていただきたいです」
「今?」
「ローデンさんは昼前までなら」
「ちょっと待て」
ベルは作業中の木材を確認し、道具を片づける。
「これだけ終わらせる」
「待っています」
「十分くらいだ」
「はい」
少女は作業場の端へ置かれた椅子へ座った。
以前、自分が鑿を教わった作業台。
今も練習に使った木片はマーサの家に置いてある。
ベルの手元を眺めながら、少女は紙を取り出した。
『水』
『竈』
『寝る場所』
『机』
『掃除』
『薪』
『食べ物を置く場所』
『窓・冬』
マーサと話した内容を書く。
さらに少し考える。
『灯り』
夜になれば必要だ。
『鍵』
今まで自分で戸締まりを気にしたこともほとんどない。
「何書いてる」
いつの間にかベルの作業が止まっていた。
「家で見ることです」
「見せろ」
「秘密ではないので、どうぞ」
少女は紙を差し出す。
ベルが目を通した。
「屋根」
「あ」
「床」
「はい」
「戸」
「鍵と同じでは?」
「違う。閉まっても腐ってりゃ駄目だ」
「なるほど」
「煙道」
「煙道?」
「竈使うなら煙抜けるか見なきゃならん」
少女は急いで書き足す。
「他には?」
「見てからだ」
「はい」
ベルが紙を返す。
「家一軒見るだけでも、大変ですね」
「住むならな」
「ベルさんは、自分の家を建てたのですか?」
「半分くらい」
「半分?」
「元からあった家を直した」
「最初から完璧には?」
「そんな家、ほとんどない」
ベルは工具を小さな袋へ入れた。
「住んでりゃ壊れる。使ってりゃ変えたくなる。人間も年取る」
「年を取ると?」
「昔は要らなかった手すりが今は欲しい」
ベルは自分の腰を軽く叩く。
「棚も高いと面倒だ」
「だから以前、低くしたのですね」
「そうだ」
少女は紙を見る。
家も、住む人に合わせて変わっていく。
昨日の椅子と同じだった。
ベルと一緒にローデンのところへ戻り、三人で三軒目へ向かった。
途中、少女は一度だけマーサの家の方向を振り返った。
屋根が見える。
それほど遠くない。
昨日、自分が想像していたより近かった。
「どうした?」
ローデンが尋ねる。
「マーサさんの家が見えました」
「場所によっちゃな」
「昨日は気づきませんでした」
「家ばっか見てたんだろ」
「はい」
少女は少し笑った。
昨日とは見るものが違う。
だから同じ家をもう一度見る意味がある。
三軒目の空き家へ着く。
朝の光の中で見ると、昨日より古さが目立った。
壁板には色の違う部分があり、下側には土が跳ねた跡が残っている。屋根も遠くから見れば問題なさそうだったが、ベルは家へ入る前から顎を上げて細かく見ていた。
「どうですか?」
「まだ聞くな」
「はい」
少女は口を閉じた。
ローデンが戸を開ける。
昨日と同じ、埃と古い木の匂い。
ただ、今日は少女自身が窓を開けた。
固くはない。
木の葉を通った光が部屋へ入り、床の上に揺れる影を作る。
「リンカ」
少女は窓の外を見る。
「まだ実はないのですね」
「時期じゃない」
ベルが答える。
「夏の終わりでしたね」
「そうだ」
「どれくらい酸っぱいのですか?」
「家を見るんじゃなかったのか」
「……そうでした」
ローデンが小さく笑った。
ベルはまず戸から確認した。
蝶番を動かし、下側を押し、木の表面を指で叩く。
「戸は?」
「今すぐ替えるほどじゃない。下が少し傷んでる」
少女は紙へ書く。
『戸――下が少し傷んでいる。すぐ交換ではない』
「鍵は?」
「使える」
ベルが金具を動かす。
「ただ古い。油差して様子見だ」
『鍵――使える。油』
少女が書いている間に、ベルは床へ移った。
部屋の隅から順番に踏む。
少女も真似しようとすると、ベルが手を上げた。
「待て」
「はい」
「俺が先」
少女は止まる。
ベルが床板を何度か踏み、工具の柄で叩いた。
「ここ」
「何かありますか?」
「少し弱い」
「落ちますか?」
「今すぐは落ちん」
「では大丈夫?」
「大丈夫とは言ってない」
ベルが少女を見る。
「使うなら直す」
「はい」
少女は書き足した。
『床――一か所、直す』
その後も確認は続いた。
窓。
壁。
天井。
竈。
煙道。
少女が昨日ただ「家」として見ていたものが、今日は一つずつ別の部分へ分かれていく。
「竈は?」
「掃除してから火を入れて確認」
「今は使わないのですか?」
「煙道詰まってたら部屋が煙だらけになる」
「……それは困ります」
「だから先に見る」
ベルは煙道の入口を覗き込む。
「鳥の巣はなさそうだな」
「鳥が入るのですか?」
「空き家ならな」
少女は紙へ書く。
『竈――掃除。煙道確認。いきなり火を入れない』
書いてから、最後の一文に線を引いた。
「何だ?」
「自分への注意です」
「そうか」
屋根については外から見るだけでは分からず、ベルが梯子を持ってくる必要があるという。
「今日全部見られないのですか?」
「梯子持ってきてない」
「取りに戻れば?」
「今日決めるのか?」
少女は止まった。
「……決めません」
「なら急がなくていい」
「はい」
また先へ行きすぎていた。
少女は紙の端に小さく書く。
『屋根――別の日』
それだけで済んだ。
ローデンは少女が書いている様子を横から見ていた。
「随分増えたな」
「はい」
「全部直してからじゃないと住めないと思ってるか?」
少女は紙を見る。
「違うのですか?」
「危ないところは直す必要がある。だが棚がないとか机がないとかは別だろ」
「でも、必要では?」
「必要になったらでいい」
少女は部屋を見る。
何もない壁。
空いた床。
「最初から全部揃っていなくても?」
「寝られて、火と水が使えて、雨風が防げれば、とりあえず暮らせる」
ベルが横から口を挟む。
「冬までには窓やれ」
「それは必要なのですね」
「寒いぞ」
「はい」
少女は少し考え、紙に印をつけ始めた。
「何してる?」
ローデンが尋ねる。
「今すぐ必要なものと、後でもよいものを分けようかと」
「いいんじゃないか」
「床は今すぐ?」
「住むならな」
ベルが答える。
「竈と煙道も?」
「使うなら」
「戸は?」
「今は使える」
「窓は?」
「夏の間は急がん。冬前」
少女は一つずつ印をつける。
全部が同じ重さではない。
必要なことを並べた瞬間、全てを終えなければ前へ進めないように感じていた。
けれど、順番をつければ違って見える。
「掃除は?」
「住む前にはした方がいいだろ」
ローデンが言う。
「一人で?」
少女が尋ねると、二人とも少女を見た。
「なぜ一人でやる」
ベルが先に言った。
「私の家になるなら、私が」
「まだお前の家じゃない」
「もし、です」
「もしお前が住むとしても、五年分の埃を一人で掃除する意味が分からん」
「でも、私のための掃除ですよね」
「手伝ったら何か困るのか?」
少女は言葉に詰まった。
困らない。
ただ、自分の家なら自分ですべきだと思った。
ローデンが壁へ背を預ける。
「前にも言っただろ。一人暮らしと全部一人でやるのは別だ」
「はい」
「忘れたか?」
「忘れてはいません」
少女は紙を握る指へ少し力を入れる。
「でも、何度も戻ってきます」
「何が?」
「自分のことなら、自分で全部しなければいけないという考えが」
ローデンは少しだけ黙った。
「戻ってくるなら、そのたび考えりゃいい」
「なくならなくても?」
「俺に聞かれても知らん」
少女は小さく笑った。
「この村の方は、すぐ『知らない』と言いますね」
「知らんことを知ってるとは言えんだろ」
「はい」
それも、少し好きになっていた。
ベルは既に次の場所を見ている。
「ここ、棚あった跡あるぞ」
壁に古い穴が残っていた。
「棚?」
「前の爺さんが使ってたんだろ」
「今はないのですか?」
「親族が持ってったんじゃないか」
少女はその壁を見る。
「ここに棚を置けますか?」
「置ける」
「本や紙を?」
「重さ次第」
「本は、今は持っていません」
言ってから、少女は少しだけ胸の奥が痛んだ。
公爵家の自室には本があった。
勉強のためのもの。
礼法。
歴史。
領地経営。
法律。
王家に関する記録。
好きで読んでいたものも少しだけあった。
追放された時、何一つ持ってこられなかった。
小さな荷物の中に、本は一冊もなかった。
「……いつか」
少女は壁の穴を見ながら言う。
「本を一冊くらい置けたら、嬉しいです」
「じゃあ棚いるな」
ベルはそれだけ答えた。
「でも、今すぐではありません」
「そうだな」
「後でよいものです」
「そうだ」
少女は紙へ書いた。
『棚――いつか。本を置けたら嬉しい』
修理の記録にしては少し変だったが、消さなかった。
次に寝室へ入る。
昨日は「寝台を置けそう」と思っただけだった。
今日は実際に床の広さを見る。
「寝台は?」
少女が尋ねる。
「持ってくるなら入る」
ベルが入口を見る。
「大きすぎなきゃな」
「マーサさんの家で使っているものは?」
「それ持ってくつもりか?」
「……マーサさんのものですね」
「そうだろ」
少女は少し恥ずかしくなった。
「では、新しく必要です」
「空いてる寝台が倉庫に一つあったはずだ」
ローデンが言う。
「村の?」
「ああ。使えるかは見ないと分からん」
「買わなくても?」
「使えるものがあるなら使えばいい」
「でも、誰かが後で使うのでは?」
「その時考える」
「……その時」
少女は呟く。
未来に必要になるかもしれないから、今使わず残しておく。
以前なら、それを当然のように選んだかもしれない。
「借りることもできますか?」
「できるだろ」
「では、それも確認してから」
「そうしろ」
紙へ書く。
『寝台――村の倉庫に一つ。使えるか確認。借りられるか聞く』
部屋を出て、今度は窓辺へ立つ。
昨日、机を置きたいと思った場所。
リンカの葉が揺れている。
「ここに机を置きたいです」
少女は初めて、はっきり言った。
ベルが床を見る。
「置けるぞ」
「大きなものではなくてよいです」
「何する」
「紙を書きます」
「それだけ?」
「今は」
「なら小さくていいな」
ベルが壁から窓までの幅を測るように手を広げる。
「余ってる板で作れるかもしれん」
「作っていただけるのですか?」
「住むならな」
「お金は?」
「材料次第」
「払います」
「決めてから言え」
「はい」
少女は少し笑った。
まだ住むと決めていない。
それでも、ここへ机を置きたいという気持ちははっきりしている。
その違いが、自分でも面白かった。
「外も見るぞ」
ベルが言う。
三人で家の外へ出る。
壁の周囲を一周する。
家の裏には狭い空間があり、古い薪置き場らしい屋根が残っていた。
「ここへ薪を?」
「そうだな」
「雨は?」
「屋根直せば大丈夫」
「ここも修理ですか」
「大したことない」
少女は書く。
『薪置き場――屋根少し』
家の横へ回る。
リンカの木が近くなる。
昨日は窓越しに眺めただけだったが、今日は幹のそばまで行ってみた。
木肌は少しざらついている。
少女が見上げると、葉の間から青空が見えた。
「実はどの辺になるのですか?」
「枝の先だ」
ベルが指す。
「たくさん?」
「年による」
「酸っぱいだけですか?」
「砂糖で煮る奴もいる」
「砂糖」
少女は商人が持ってきた品を思い出す。
高かった。
「高級な実になりますね」
「実はただだ」
「砂糖が高いのです」
「じゃあそのまま食え」
「ベルさんは嫌いなのでしょう?」
「俺は食わん」
少女は笑った。
風が吹く。
枝が揺れ、葉が擦れ合う。
その音を聞いていると、少女は昨日よりもはっきりと、この家の中で過ごす時間を想像できた。
朝。
窓を開ける。
夏なら葉が見える。
机に紙を置く。
水を汲みに出る。
帰って竈へ火を入れる。
上手く焼けるか分からない卵を焼く。
失敗したら、次に変える。
誰かが通れば挨拶する。
困ったら聞く。
「……」
少女は木の幹へ触れた。
自分の家。
その言葉が、以前とは違う響きを持ち始めている。
公爵家では、自分の家と言えば巨大な屋敷だった。
けれど、あそこを自分で選んだことはない。
生まれた時からそこにあり、そこで公爵家の長女として生きることが決まっていた。
この小さな家は、まだ自分のものではない。
住めるかどうかも分からない。
法的な扱いも確認が必要だ。
修理もいる。
水も運ばなければならない。
それでも、自分で「ここが気になる」と思った。
「ローデンさん」
「何だ?」
「この家の、以前の持ち主のご親族について確認できますか?」
ローデンの表情が少し変わった。
「住みたいのか?」
少女はすぐに「はい」と言いかけた。
けれど、一度だけ息を吸う。
胸の中を確かめる。
「……候補にしたいです」
言葉を選んだ。
「まだ、住むと決めるところまではいきません。でも、この家を選べる状態なのか知りたいです」
ローデンは頷いた。
「分かった」
「すぐ分かりますか?」
「親族は西の町だったはずだ。次の商人に手紙を頼むか、村に残ってる古い記録を先に見る」
「次の商人まで?」
「待てないか?」
少女は考える。
「いいえ」
急ぐ理由はない。
「待てます」
「じゃあ先に記録を確認する」
「お願いします」
「正式に住むなら、村側でも話はする。お前の身分の問題もまだ完全には片づいてない」
「はい」
それも忘れてはいけない。
自分はただの旅人ではない。
公爵家の娘であり、元王太子の婚約者。
追放された身であり、その追放が法的にどのような扱いなのかも、まだ分からない。
けれど、その問題があるからといって、家を見ることまで止める必要はない。
「確認できるところから、ですね」
「そうだ」
少女は頷いた。
ベルはリンカの木の下から屋根を見上げていた。
「ベルさん」
「なんだ」
「もし、住めることになったら」
「うん」
「この家を直していただけますか?」
ベルは少女を見る。
「必要なとこはな」
「全部ではなく?」
「全部新品にしたいのか?」
少女は古い家を見る。
色の薄れた壁。
少し傷んだ戸。
使われていない竈。
以前誰かが棚をつけていた穴。
「……いいえ」
不思議だった。
「使えるところは、そのままがいいです」
「じゃあそうする」
「床の危ないところと、竈と、煙道と」
「屋根はまだ見てない」
「はい。屋根も必要なら」
「窓は冬前」
「薪置き場は?」
「あれは板二枚くらいだ」
少女は紙を見る。
「思ったより、全部ではありませんね」
「だから見てから決めろって言ったんだ」
「はい」
少女は素直に頷いた。
確認を終え、三人は家の前へ出た。
戸を閉める前に、少女はもう一度室内を振り返った。
朝の光が窓から入っている。
空っぽの部屋。
何もない。
だからこそ、そこへ何を置くかを自分で考えられる。
「閉めるぞ」
ローデンが言う。
「はい」
少女は外へ出た。
戸が閉まる。
鍵がかかる。
昨日より、その音が少しだけ惜しく感じた。
村へ戻る途中、少女は紙を見ながら歩いていた。
「前見ろ」
ベルに言われ、慌てて顔を上げる。
「すみません」
「転ぶぞ」
「はい」
「紙は座って見ろ」
「はい」
少女は折り畳んでしまった。
以前なら注意されたこと自体に落ち込んだかもしれない。
今は、歩きながら紙を見れば危ないというだけの話だと分かる。
村の中央近くまで戻ると、井戸のそばにユウがいた。
今日は大きな籠を足元へ置き、中身を一つずつ確認している。
「おかえり」
少女は足を止めた。
「……ただいま」
返した後で、少し笑う。
もう何度目かになるやり取り。
それでも、まだ少し嬉しい。
「家見てきた?」
「はい」
ユウが籠から顔を上げる。
「どうだった?」
「昨日より、見るところがたくさんありました」
「へえ」
「床に一か所、直した方がよいところがあります。竈と煙道は掃除して確認が必要で、屋根は別の日に梯子を持って見ます。窓は冬までに確認して、薪置き場の屋根も少し直すそうです」
「めっちゃ見てる」
「紙にも書きました」
「本格的だね」
少女は少しだけ胸を張りかけ、すぐに笑った。
「まだ住むとは決めていません」
「うん」
「でも、候補にしたいとローデンさんに伝えました」
ユウの手が止まる。
「そっか」
「はい」
少女はその反応を待った。
驚くでもなく、寂しがるでもなく、ただ受け止める。
「どう思いますか?」
自分から尋ねた。
「何が?」
「私が、一人で暮らすかもしれないことです」
ユウは少し考える。
「いいんじゃない?」
「それだけですか?」
「嫌なの?」
「嫌ではありませんが」
少女は少し言葉を探した。
「もう少し何かあるかと思いました」
「例えば?」
尋ねられると困る。
寂しい。
心配。
まだ早い。
近くにいてほしい。
そんな言葉を期待していたのか。
自分でも分からない。
「……分かりません」
「そっか」
ユウはそれ以上追わない。
少女は少しだけ拍子抜けしながら、それでも不快ではなかった。
「心配じゃないのですか?」
結局、自分から聞いた。
「何が?」
「私が一人で暮らせるか」
「困ったら聞くでしょ?」
少女は目を瞬く。
「……たぶん」
「じゃあ大丈夫じゃない?」
「聞かなかったら?」
「聞いてって言う」
「それでも聞かなかったら?」
「マーサさんが怒る」
少女は思わず笑った。
「ユウさんではないのですね」
「俺より怖いし」
「本人に言ったら怒られますよ」
「言わないで」
「考えておきます」
「秘密にして」
少女は笑いながら頷いた。
けれど、胸の奥に残っていた小さな不安は少し軽くなった。
ユウは「一人でできる」と言ったのではない。
困ったら聞く。
聞かなければ、聞いてと言う。
それだけだった。
「家の修理に、魔法を使うことはできますか?」
少女が尋ねる。
「できると思うよ」
「全部?」
「たぶんできるけど、ベルさんが見てるなら俺が勝手にやらない方がいいんじゃない?」
「やはり」
「何?」
「そう言うと思いました」
少女は笑う。
「ベルさんにも、必要なところだけ直していただくことになりました」
「いいんじゃない?」
「灰色の魔導書で木を補強できますか?」
「できる。でも古い木全部硬くしたら、別のところに負担いくかもしれない」
「別のところ?」
「一か所だけ妙に強くすると、その隣が先に壊れるとか」
「なるほど」
「だからベルさんと見ながらかな」
「はい」
少女は紙を取り出そうとして、ベルに言われたことを思い出す。
今は立っている。
「あとで書きます」
「何を?」
「ユウさんの魔法も、全部使えばよいわけではないことです」
「それもう何回か聞いてない?」
「聞いています。でも家の話として書きます」
「細かいね」
「私は書いた方が覚えるので」
「じゃあ書いた方がいいね」
否定されない。
少女は少し笑った。
「ところで、その籠は?」
足元の大きな籠を指す。
「ああ、警戒線の確認用」
少女の表情が少し変わった。
「何かあったのですか?」
「いや、今朝も反応なし」
「では?」
「昨日ベルさんと椅子直したでしょ。見張り場所に置く水とか、簡単な道具とか整理しようって」
「何が入っていますか?」
「水入れる容器、布、縄、予備の灯り。あと警戒線が鳴った時に記録する板」
「記録?」
少女は籠を覗く。
薄い木板が数枚入っている。
「いつ鳴ったか、どっち側か、見に行った人が何を見つけたか。毎回口だけだと忘れるから」
少女の目が少し大きくなる。
「書くのですか?」
「うん」
「私も手伝えますか?」
すぐに口から出た。
ユウは少女を見る。
「何を?」
「記録です」
「やりたい?」
「はい」
少女は一度頷き、それから少し考え直す。
「毎回、必ずではありません。私ができる時に」
「じゃあローデンさんに聞いてみれば?」
「はい」
胸の中が少し弾む。
文字を書く。
情報を整理する。
それなら、自分の教育が役に立つかもしれない。
けれど、以前とは少し違う。
役に立たなければここにいられないからではない。
「……やってみたいです」
少女はもう一度言った。
「うん」
ユウが頷く。
昼食はマーサの家へ戻って食べた。
今日見た家の話をしながら、少女は紙を卓へ広げる。
マーサは煮た芋を食べながら眺めていた。
「随分書いたね」
「ベルさんに見ていただきました」
「屋根は?」
「別の日です」
「竈は?」
「掃除して、煙道を確認してからです」
「水は?」
「中央の井戸から運びます」
「毎日?」
「必要な分だけ」
「冬は?」
「窓を直すかもしれません」
「飯は?」
「……作ります」
「毎日?」
少女は止まった。
「毎日、作らなければいけませんか?」
「知らないよ」
「では、作れない日は?」
「うち来れば?」
あまりにも簡単に言われ、少女は瞬きをした。
「よいのですか?」
「さっきも言ったろ。毎日は困る」
「はい」
「サナのとこでも食わせてもらえるだろうし、ユウのとこ行ってもいい」
「ユウさんのところへ?」
「嫌なのかい?」
「嫌ではありません」
少女は少しだけ声が小さくなった。
「ただ、考えていませんでした」
「じゃあ今考えたね」
「……はい」
マーサは気にせず芋を食べる。
少女は紙へ書こうとして、やめた。
「これは書かなくても覚えられそうです」
「何を?」
「食事に困ったら、誰かに相談してもよいことです」
「当たり前だろ」
「私には、まだ当たり前ではありません」
マーサは少しだけ少女を見た。
「じゃあ、そのうち当たり前にしな」
「はい」
少女は笑った。
昼食後、少女は少し休んでからローデンを訪ねた。
今度は家の話ではない。
「警戒線の記録について聞きました」
「ああ、ユウから?」
「はい。私も手伝ってよいでしょうか」
ローデンは少し考える。
「文字は書けるな」
「はい」
「数字も?」
「もちろんです」
「なら助かる」
少女の胸が一瞬だけ高鳴った。
助かる。
役に立つ。
その言葉は、今でも嬉しい。
同時に、以前ならここで「もっとやらなければ」と思ったことにも気づく。
「ただ」
少女は自分から続けた。
「毎日はできません」
ローデンが眉を上げる。
「そうか」
「私がいる時と、やりたい時なら」
「それでいい」
「他の方も書けるようにしますか?」
「そのつもりだ。お前専用にしたら、お前がいない日に困る」
「はい」
少女は嬉しくなった。
自分だけにしかできない役目ではない。
それでも、自分がやってよい。
「何を書けばよいか、形を決めても?」
「難しくするなよ」
「分かりました」
「誰でも書けるように」
「はい」
少女は考える。
日時。
反応した方向。
確認した人。
見つけたもの。
分からなかったこと。
「噂や推測は?」
「分けたいな」
「では、『見たもの』と『考えたこと』を別にします」
ローデンが頷く。
「それならいい」
「作ってみます」
「今日中じゃなくていいぞ」
少女は少し止まる。
「……はい」
先に言われた。
「明日でも?」
「警戒線は逃げん」
「この村では本当に何でも逃げませんね」
「何の話だ」
少女は笑った。
午後、マーサの家へ戻る。
紙を卓へ置く。
警戒線の記録方法を考えようとして、炭筆を持った。
日時。
方向。
確認者。
痕跡。
推測。
そこまで書いて、少女は手を止めた。
今日は家も見た。
ローデンとも話した。
思っていたより疲れている。
「……明日にします」
自分で声に出す。
紙を折る。
炭筆を置く。
以前なら、形だけでも完成させたと思う。
頼まれた。
役に立てる。
なら今日中に。
けれど、ローデン自身が今日中でなくてよいと言った。
警戒線も今は反応していない。
急ぐ理由はない。
少女は窓辺へ移動した。
椅子へ座る。
何もしない。
外では、ガルドが誰かに大声で話している。
内容までは聞き取れない。
鶏が鳴く。
子供の笑い声がする。
少し離れた場所で、木を叩く音が響く。
少女は目を閉じた。
家を持つこと。
仕事をすること。
役に立つこと。
休むこと。
どれも少しずつ、自分で選べるものになり始めている。
夕方、少女はサナの家へ向かった。
石鹸の様子が気になったからだ。
あの日、型へ入れたものはもう固まっているはずだった。
「こんにちは」
「おや、来たね」
サナは家の脇で布を干していた。
「石鹸を見ても?」
「いいよ」
二人で作業場所へ向かう。
型から外された石鹸は、既にいくつかに切り分けられていた。
「もう使えますか?」
「まだ」
「固まっているのに?」
「乾かす」
「あとどのくらい?」
「しばらく」
少女は石鹸を見る。
「また待つのですね」
「待つよ」
サナが笑う。
「嫌かい?」
「いいえ」
少女は首を振った。
「前より、待つことが嫌ではなくなりました」
「そりゃよかった」
「今日、家も見てきました」
「聞いたよ」
「もう?」
「小さい村だからね」
少女は苦笑する。
「三つ目が気になるんだって?」
「そこまで?」
「ガルドが言ってた」
「ガルドさんには三つ目とは言っていません」
「じゃあベルかね」
「……皆さん、話が早いです」
「困る?」
少女は考える。
「少し恥ずかしいですが、今は困りません」
「ならいい」
サナは干してある石鹸の向きを変えた。
「一人で暮らすの、怖いかい?」
突然尋ねられる。
少女は少し黙った。
「はい」
素直に答えた。
「夜が、少し」
「そうかい」
「でも、やってみたい気持ちもあります」
「そう」
「マーサさんの家を出るのは寂しいです」
「そう」
「自分の家が欲しいとも思います」
「そう」
サナは全部同じ調子で受け止める。
「変ではありませんか?」
「何が?」
「全部一緒に思うことが」
「知らないよ。あたしはお前じゃないから」
少女は思わず笑った。
「サナさんまで」
「何だい?」
「皆さん、知らないと言うので」
「知らないものは知らないよ」
「はい」
少女は石鹸を見る。
まだ使えない。
けれど、失敗しているわけではない。
待っている途中。
「私も、まだ途中なのでしょうか」
「何の?」
「分かりません」
「じゃあ分かるまで置いときな」
「石鹸みたいに?」
「お前さんを棚に置くのは無理だね」
「そういう意味ではありません」
二人で笑った。
マーサの家へ戻る頃には、夕暮れが近づいていた。
空が薄い橙色へ変わり、家々の影が道へ長く伸びている。
少女は途中で三軒目の家がある方向を見た。
ここからは見えない。
それでも、場所はもう分かる。
自分の足で行ける場所にある。
そのことが、少し嬉しかった。
夕食後、少女は今日の紙を広げた。
修理箇所。
必要なもの。
後でよいもの。
棚。
机。
寝台。
水。
リンカの木。
その下へ、ゆっくり書く。
『三軒目を、住む家の候補にしたいと伝えた』
少女はそこで手を止める。
さらに一行。
『まだ決めていない。でも、昨日より少し住んでみたい』
書いた文字を見つめる。
昨日より少し。
それで十分だった。
別の紙には、警戒線の記録について途中まで書いてある。
少女はそちらを開かなかった。
今日はもうやらないと決めたからだ。
寝る前、マーサと一緒に戸締まりを確認した。
少女は鍵がかかった戸を見て、今日ベルと確認した三軒目の古い鍵を思い出す。
「マーサさん」
「なんだい?」
「一人で住んだら、戸締まりも自分でするのですね」
「そうだね」
「忘れたら?」
「戻って閉めな」
「寝てから気づいたら?」
「起きて閉めな」
「面倒ですね」
「一人暮らしなんて面倒なこと多いよ」
少女は少し笑った。
「それでも、皆さんするのですね」
「したい奴はね」
「したくなくなったら?」
「誰かと住めば?」
少女は目を瞬いた。
そんなふうに、後から変えることもできる。
一度一人暮らしを始めたら、一生一人で暮らさなければならないわけではない。
「……そうですね」
「何だい、その顔」
「また、一度決めたら変えられないと思っていました」
「家なんて引っ越せるよ」
「はい」
少女は小さく笑った。
寝室へ戻る。
灯りを消す前に、窓から外を見る。
マーサの家で過ごす夜。
今はまだ、この部屋が自分の眠る場所だ。
それを嫌だとは思わない。
むしろ安心する。
だから急いで出ていく必要はない。
けれど、少し離れたところには、窓の横にリンカの木がある小さな家がある。
そこへ机を置きたいと思った。
いつか本を一冊置けたら嬉しいと思った。
自分で朝食を作り、自分で戸を開け、自分で今日することを決める生活を、少しだけやってみたいと思った。
誰かに命じられたからではない。
公爵家の娘だからでもない。
元王太子の婚約者だったからでもない。
追放されたから仕方なくでもない。
自分が、少しやってみたい。
その気持ちはまだ小さく、明日になれば揺れるかもしれない。
それでも少女は、消さずに持っていてよいのだと思えた。
寝台へ入り、布団を肩まで引き上げる。
明日は警戒線の記録の形を考えてみよう。
屋根の確認はベルの都合がよい時でいい。
家の記録についてはローデンからの返事を待つ。
全部、明日終わらせる必要はない。
少女は目を閉じた。
家を選ぶことも。
暮らしを作ることも。
自分がどうなりたいかを考えることも。
一度で正解を出さなくていい。
今はただ、昨日よりほんの少しだけ。
窓の横にリンカの木がある、あの小さな家で暮らしてみたいと思っていた。




