第29話 空いている家
翌朝、少女が台所へ入ると、最後の卵は昨日と同じ場所に置かれていた。
たった一つ残った薄茶色の卵を見ただけで、昨日の朝の失敗がいくつも蘇る。多すぎた油、少し強かった火、器へ落ちた小さな殻、焦げて苦くなった白身の端。それでも最後には全部食べられたし、今日もう一度やってみたいと思った気持ちは、夜を越えても変わっていなかった。
「おはようございます」
「おはよう」
マーサは既に起きていて、卓の上で乾燥させた香草を小さな束に分けていた。少女が卵を見ていることに気づいても、立ち上がって手伝おうとはせず、手元の作業を続けている。
「今日も焼くのかい?」
「はい。昨日とは少し変えてみようと思います」
「何を?」
「油を少なくします。それから、火も少し弱くして、黄身は柔らかくしてみたいです」
「覚えてたね」
「紙にも書きましたから」
「卵一個焼くのに随分大げさだねえ」
呆れたような口調だったが、マーサは笑っていた。
少女も小さく笑い、まず手を洗う。昨日と同じ器を用意し、卵を手に取ったところで、一度だけ掌の中の重みを確かめた。
「割ります」
「いちいち宣言しなくてもいいよ」
「まだ少し緊張するので」
「卵相手に?」
「卵相手にです」
少女は器の縁へ卵を当てた。
一度目では割れなかった昨日と違い、今朝は最初から少しだけ力を強くする。乾いた音とともに細い亀裂が走り、少女はそこへ親指を添えた。
昨日より慎重に殻を左右へ開く。
白身と黄身が器へ落ちた。
「あ」
「どうした?」
「殻が入りませんでした」
「そりゃよかった」
マーサの反応は昨日と同じくらい淡泊だった。
けれど少女は器を覗き込み、少しだけ頬を緩める。
「昨日より上手にできました」
「二回目だからね」
「はい」
それでよかった。
一度でできなくても、二度目で少し変わる。
昨日より上手くできたことを、誰かと比べる必要もない。
竈へ火を入れるところは、まだマーサに手伝ってもらった。
少女自身でも薪を足すことはできるようになってきたが、料理にちょうどよい火加減までは分からない。マーサが空気の入り方を調整する手元を見ながら、少女は昨日より少なめに油を鍋へ入れた。
「これくらいでしょうか?」
「やってみな」
「昨日よりは少ないです」
「それは見れば分かる」
油が鍋の底へ薄く広がる。
少女は昨日教わった方法で熱を確かめ、少し待ってから卵を流し込んだ。じゅっ、と音がして白身の縁が白く変わるが、昨日ほど激しく油は跳ねない。
「今日は下がりませんでした」
「慣れたんじゃないかい」
「まだ少し怖いです」
「なら怖いままでやればいいさ。火傷しないようにね」
「はい」
長い柄の道具を持ち、白身の端を見る。
昨日焦がした場所。
色が変わり始める前に、少女は少しだけ火を弱くした。
「マーサさん」
「なんだい?」
「今ですか?」
「何が?」
「火を弱くするのは」
「自分でやったんだろ。見てみな」
少女は鍋へ視線を戻す。
正解かどうかをすぐに聞きたくなった。
けれど、もう変えてしまったのだから、少し見ればいい。
「……では、待ちます」
「そうしな」
白身がゆっくり固まる。
昨日より時間がかかる。
少女は焦らず、時々端へ道具を差し込んだ。今度は白身を大きく破ることもなく、黄身も中央近くに残っている。
「黄身を柔らかくするなら、そろそろだね」
マーサが言った。
「もう?」
「触ってみな」
少女は道具の先で黄身の近くをそっと押した。
柔らかい。
「昨日と違います」
「昨日は固くしたからね」
「これで食べられるのですか?」
「食べられるよ」
「生では?」
「全部固くなきゃ食えないわけじゃない」
少女は少し迷ったものの、火から鍋を外した。
皿へ移す。
昨日より形が崩れない。
端も焦げていない。
「……綺麗です」
「昨日よりはね」
「はい」
その言葉を聞いても、少女は嫌な気持ちにならなかった。
昨日より。
自分の昨日と今日を比べる。
その比較なら、少し好きかもしれない。
マーサの分は今朝も本人が焼いた。
卓へ二枚の皿を並べ、黒パンと温め直した野菜のスープを添える。少女は自分の卵へ匙を入れ、黄身を割った。
黄色い中身がとろりと白身へ広がる。
「……流れました」
「柔らかいからね」
「少し勿体ない気がします」
「パンつけな」
言われた通り、黒パンを黄身へ浸して食べる。
少女の目が少し大きくなった。
「おいしいです」
「そうかい」
「昨日とは全然違います」
「どっちが好きだい?」
少女はすぐに答えず、もう一口食べた。
昨日の固い黄身も嫌いではなかった。
今日の柔らかい黄身もおいしい。
「……まだ決められません」
「じゃあ決めなくていいよ」
「料理の好みまで、すぐ決めなくてよいのですね」
「誰が急かすんだい」
「誰も」
少女は笑った。
「では、また卵を買った時に考えます」
「そうしな」
朝食を終えると、少女は昨日の紙を取り出した。
『空いている家を見てみたい』
昨夜書いた一行は、朝になっても消したくならなかった。
マーサの家を出たいわけではない。
今日から一人で暮らしたいわけでもない。
ただ、見てみたい。
それだけの気持ちは変わっていない。
「マーサさん」
「なんだい?」
「今日、ローデンさんに聞いてみます」
「家かい?」
「はい」
少女は紙を折り畳む。
「まだ住むとは決めません」
「昨日も聞いたよ」
「……そうでした」
「何回確認するんだい」
「自分にも言っているのかもしれません」
マーサは少しだけ少女を見た。
それから、乾燥した香草の束を籠へ入れる。
「見たからって住まなきゃならんわけじゃないよ」
「はい」
「気に入ったからって、今日から移らなきゃならんわけでもない」
「はい」
「嫌ならここにいりゃいい」
少女は返事をするまで、ほんの少し時間がかかった。
「……ありがとうございます」
「ただし、ずっと客のつもりで飯食ってるなら、そのうち薪割りくらい増やすよ」
「それはやります」
「できるのかい?」
「教えていただければ」
「ベルに聞きな。あたしが教えたら指まで割りそうだ」
「そんなに危ないのですか?」
「お前さんなら最初は小さい薪からだね」
少女は少し笑った。
ここに残る場合の話をされても、胸が締めつけられない。
出る場合の話をしても、追い出されるようには感じない。
どちらもまだ選べるからだろう。
家を出る前に右足の状態を確認する。
痛みはない。
昨日、東の見張り場所から戻る途中に一まで上がった違和感も、休んだ後には消えていた。
「行ってきます」
「おう」
少女は外へ出た。
朝の空は薄い雲に覆われていた。
雨が降りそうなほど暗くはないが、昨日より日差しは弱い。風が少しあり、道端の草が同じ方向へ揺れている。
ローデンの姿は村の中央近くで見つかった。
荷車の車輪を確認しているところだった。
「おはようございます」
「おはよう」
ローデンは手を止める。
「足はどうだ?」
「今朝は零です」
「そうか」
「昨日、帰りに一になりましたが、休んだら戻りました」
「なら無理はするな」
「はい」
少女は一度息を整えた。
「お願いがあるのですが」
「何だ?」
「空いている家を、見せていただけませんか」
ローデンは驚かなかった。
マーサから聞いていたのかもしれないし、以前の話を覚えていただけかもしれない。
「住む家を決めたいのか?」
「いいえ」
少女は首を振った。
「まだ、そこまでは決めていません。ただ、どのような家があるのか見てみたいのです」
「分かった」
ローデンは荷車から手を離した。
「今からでもいいか?」
「よいのですか?」
「急ぎの仕事じゃない」
「では、お願いします」
「ユウも呼ぶか?」
少女は少しだけ考えた。
第24話で商人の話を聞く時には、ユウがいてくれた方が安心すると自分から言った。
今日も、一緒にいてくれたら安心すると思う。
けれど、空き家を見るために必ずユウが必要なわけではない。
「……今日は、大丈夫です」
口にしてみる。
少しだけ胸がざわついたが、嫌ではない。
「ローデンさんに案内していただければ」
「分かった」
ローデンはそれ以上何も言わなかった。
二人は村の中央から少し南へ歩いた。
少女が普段使う道から一本外れると、見慣れた村でも景色が少し違って見える。家と家の間隔が広くなり、使われていない畑には背の低い草が広がっていた。
「空き家はいくつあるのですか?」
「住めそうなのは三つだな」
「もっとあるのですか?」
「家の形だけ残ってるのを数えれば、あと二つ。ただ、屋根から直さなきゃ住めん」
「三つは、そのまま住めますか?」
「そのままは無理だ」
ローデンは前を歩きながら答える。
「何年か人が入ってない家もある。掃除はいるし、戸や屋根を見てもらわなきゃならん。井戸も家ごとにはない」
「では、住むとなればベルさんにも?」
「そうなるな。直せるところは村で直す。材料が要るなら次の商人に頼む」
「ユウさんの魔法なら、すぐ直せるのでは?」
尋ねてから、少女は自分で少し答えが分かった気がした。
ローデンも振り返り、僅かに笑う。
「本人に聞いてみろ」
「たぶん、全部を魔法で直すとは言わない気がします」
「俺もそう思う」
「必要なところだけ?」
「それも見てからだ」
少女は頷いた。
まだ家すら見ていない。
誰がどう直すかを先に決める必要はなかった。
一軒目は、村の南端に近い場所にあった。
小さな平屋だった。
壁はところどころ色が薄れ、木製の雨戸にも傷がある。屋根は大きく崩れてはいないものの、一部の板が浮いているように見えた。
家の前には狭い庭がある。
今は草が生えているだけだが、小さな畑なら作れそうだった。
「ここです」
ローデンが戸を開ける。
長く使われていなかった木が軋み、室内から乾いた埃の匂いが流れてきた。
少女は入口で止まった。
「入っても?」
「見るために来たんだろ」
「そうでした」
少女は一歩入る。
室内は薄暗い。
窓を閉じているため、戸口から入る光だけが床を細長く照らしていた。
ローデンが雨戸を一枚開く。
光が広がる。
舞い上がった細かな埃が、その中でゆっくり動いている。
「……小さいですね」
少女は正直に言った。
「一人用だからな」
部屋は二つ。
入口側に竈と卓を置けそうな場所があり、奥に寝室として使える部屋がある。
公爵家で暮らしていた自室と比べれば、全てを合わせてもずっと狭い。
けれど、不思議と息苦しくはなかった。
「前は誰が住んでいたのですか?」
「エナって婆さんだ。三年前に息子夫婦のところへ行った」
「亡くなったのではないのですね」
「元気だよ。去年手紙来た」
少女は少し安心した。
誰かが亡くなった後の家だと聞けば、気持ちが違ったかもしれない。
「ここは井戸まで少し遠い」
ローデンが窓の外を指す。
「水は中央の井戸から運ぶことになる」
「マーサさんの家より遠いですね」
「ああ」
「一人で運ぶなら……」
少女は考える。
水。
料理。
洗濯。
掃除。
今まで誰かがしてくれていた生活の仕事。
村へ来てから少しずつ触れているが、一人で全部行ったことはない。
「住めるでしょうか」
思わず口にする。
ローデンは少女を見た。
「知らん」
「……そうですよね」
「住みたいなら、何ができて何が難しいか見りゃいい。できんことがあれば考える」
「最初から全部できなければ、一人で住んではいけないわけではない?」
「この村で一人暮らししてる年寄りが、全部一人でやってると思うか?」
少女はマーサを思い浮かべた。
オルド。
サナ。
ベル。
「思いません」
「水を運んでもらう奴もいる。薪を割ってもらう奴もいる。飯を一緒に食う日もある」
「一人暮らしなのに?」
「家が一人ってだけだ」
少女は部屋を見回した。
家が一人。
生活まで全部一人になるわけではない。
「……そういうものなのですね」
「少なくともここじゃな」
ローデンは窓枠を軽く押した。
「ここは窓が少し悪い。ベルに見てもらわんとな」
少女も近づく。
窓を開けようとすると、途中で引っかかった。
「固いです」
「無理にやるな」
「はい」
手を離す。
できないから力任せに押す必要はない。
「庭は使えますか?」
「使いたきゃ」
「畑に?」
「エナは薬草植えてた」
「薬草」
「今はほとんど雑草だ」
少女は窓から庭を見る。
自分がここに住んでいる姿を想像してみる。
朝、戸を開ける。
水を汲みに行く。
料理をする。
洗濯する。
小さな庭を見る。
誰かが道を通れば挨拶する。
想像できないわけではなかった。
けれど、胸の奥に小さな不安が生まれる。
「……静かですね」
「中央から離れてるからな」
マーサの家なら、朝になれば台所から音がする。
夜にも誰かの気配がある。
ここには、それがない。
「次も見ますか?」
ローデンが尋ねた。
少女は一軒目の部屋をもう一度見回した。
「はい」
まだ決めない。
二軒目は、村の中央に比較的近かった。
一軒目より少し大きく、部屋も一つ多い。
ただし、家の前へ着いた時点で少女は屋根の一部に大きな補修跡があることに気づいた。
「ここは?」
「去年の大風でやられた」
「直したのですか?」
「応急処置だけな。住むならちゃんとやる」
戸を開ける。
こちらも埃は多いが、一軒目より明るい。
窓が二方向にあるためだった。
「広いですね」
「夫婦で住んでた家だ」
「今は?」
「二人とも西の町にいる娘のところへ移った」
少女は中央の部屋へ入る。
壁際には古い棚が残されている。
卓はない。
竈は使えるかどうか分からない。
奥には小さな寝室が二つあった。
「一人には広すぎますか?」
「それもお前が決めることだ」
「掃除は増えますね」
「増えるな」
「使わない部屋は?」
「閉めとけば?」
少女は目を瞬いた。
「使わなくてもよいのですか?」
「なんで全部使うんだ?」
「部屋があるので」
「あるだけだろ」
少女は思わず笑った。
「そうですね」
部屋が三つある。
だから三つ全部を使いこなさなければならない。
そんな決まりはない。
窓から外を見ると、少し先にマーサの家へ続く道が見えた。
「ここなら、マーサさんの家が近いですね」
「歩いてすぐだ」
少女の胸が少し軽くなる。
一人で暮らすとしても、マーサが遠くへ行くわけではない。
「サナさんの家も?」
「向こうだな」
「ベルさんは?」
「あっち」
ローデンが順番に方向を示す。
少女は窓の外を見ながら、小さく頷いた。
「……こちらは、少し安心します」
「そうか」
「でも、それだけで決めるのも違う気がします」
「今日は決めないんだろ?」
「はい」
「なら覚えとけばいい」
「安心した、ということを?」
「それも家を見る材料だろ」
少女はローデンを見る。
広さ。
屋根。
水場。
竈。
修理。
そういうものだけが条件だと思っていた。
けれど、自分がそこでどう感じるかも、選ぶための材料になる。
「分かりました」
少女はもう一度部屋を見る。
「ここは、少し安心する」
声に出して覚えた。
三軒目へ向かう途中、村の中央を横切った。
ガルドが荷車へ野菜を積んでいる。
少女とローデンを見つけると、大きく手を上げた。
「何してる!」
「空き家を見せてもらっています」
少女が答える。
「住むのか!」
「まだ決めていません」
「そうか!」
ガルドはそれだけで納得したらしい。
「うちの近くの家にしろ!」
「なぜです?」
「野菜やれるぞ!」
「それは家がどこでも持ってきませんか?」
「持ってく!」
少女は笑った。
「では、理由になっていません」
「そうか!」
「はい」
「まあ好きなとこにしろ!」
ガルドは野菜を積む作業へ戻った。
ローデンが隣で小さく息を吐く。
「あれに相談すると全部ああなる」
「でも、分かりやすいです」
「まあな」
少し先では、オルドが籠を持って歩いてきた。
「家見るのか」
「はい」
「鶏小屋の隣は空いてないぞ」
「そこへ住むつもりはありません」
「そうか」
「でも、卵はまた買いたいです」
「明日はない」
「なぜです?」
「今日はまだ産んでない」
「……そういう日もあるのですね」
「鶏に聞け」
「聞いて分かりますか?」
「分からん」
オルドは真顔で答え、そのまま歩いていった。
少女はしばらく背中を見送った。
「皆さん、家の話を聞いても驚かないのですね」
「そのうち考える話だと思ってたんだろ」
「私が?」
「ここにいたいって言ったからな」
少女の歩みが少しだけ遅くなった。
自分で言った。
今は、この村にいたい。
あの時は、それより先のことなど考えられなかった。
それが少しずつ、食事や仕事やお金や家という形へ変わっている。
「ここにいたいと言うだけでは、生活にはならないのですね」
「まあな」
「でも、全部を一度に決める必要もない」
「そうだな」
ローデンは簡単に答えた。
少女は少し笑った。
三軒目は村の北西寄りにあった。
西へ続く道へ比較的近く、商人が来る時に通る道も遠くない。
家そのものは三軒の中で最も小さかった。
けれど、少女が最初に目を留めたのは家ではなかった。
「木があります」
家の脇に一本の木が立っていた。
大きすぎず、小さすぎない。
枝には青い葉が茂り、午後になれば家の片側へ影を作りそうだった。
「あるな」
「何の木ですか?」
「俺に聞くな」
「ローデンさんでも知らないのですか?」
「木は専門外だ」
少女は少し笑った。
「ケルさんなら分かりますか?」
「たぶんな」
戸を開ける。
三軒目は一番長く使われていないらしく、室内の埃も多かった。
入口近くには蜘蛛の巣が張り、ローデンが枝で払う。
「ここは五年くらい空いてる」
「そんなに」
「住んでた爺さんが亡くなってな。親族は西だ」
少女は一瞬だけ足を止めた。
「亡くなった方の家なのですね」
「ああ。嫌なら入らなくてもいい」
少女は室内を見る。
怖いわけではない。
ただ、先ほどの一軒目とは違う感覚がある。
「少しだけ、入ります」
「分かった」
中へ入る。
小さな居間。
竈。
奥に一部屋。
それだけだった。
窓を開けると、脇にある木の葉が見える。
風が入る。
埃の匂いに、外の草の匂いが混ざった。
「……明るいですね」
「西側にも窓があるからな」
少女は部屋の中央に立つ。
三軒の中で最も小さい。
マーサの家からも少し離れている。
井戸も近くはない。
けれど、なぜか嫌ではなかった。
窓辺へ近づく。
木の枝が風で揺れている。
「ここに机を置けそうです」
「机?」
「はい」
少女は窓の下を指す。
「紙を書く時に、明るそうなので」
口にしてから気づく。
自分がそこで暮らす姿を、自然に想像していた。
朝、窓を開ける。
ここに机がある。
紙と炭筆を置く。
昨日のことを書く。
商人から聞いた情報を整理する。
石鹸の数を記録する。
卵を焼いたことも書く。
「……」
少女は黙ったまま窓枠へ指先を触れた。
埃がつく。
慌てて手を離し、少し笑った。
「掃除は大変そうですね」
「三軒の中じゃ一番だな」
「屋根は?」
「大きな穴はない。だが五年だからベルに見せる」
「竈は?」
「使う前に確認」
「水は?」
「中央から運ぶ。二軒目より遠い」
「マーサさんの家は?」
「歩けば大した距離じゃないが、二軒目よりは離れる」
少女は一つずつ聞いた。
良いところだけではない。
不便なところも知りたい。
「冬は?」
「この窓だと寒いかもな」
「直せますか?」
「ベル次第」
「お金は?」
「それも直す場所と材料次第だ」
「村の家なら、借りる形ですか?」
ローデンは少し考える。
「そこはまだ決めてない。昔の持ち主の親族との扱いもある。勝手にお前の家にするわけにはいかん」
「はい」
「住みたい家が出たら、その時調べる」
「分かりました」
少女は少し安心した。
今日決められない理由が、また一つ増えた。
けれど、それは嫌なことではない。
「ローデンさん」
「ん?」
「私は、どれを選べばよいと思いますか?」
尋ねた瞬間、自分で少し後悔した。
ローデンは少女を見る。
「俺が住むなら?」
「……いいえ」
「なら知らん」
やはり、そう答えられた。
少女は苦笑する。
「そうですよね」
「一軒目は庭が使いやすい。二軒目は中央に近い。三軒目は小さいが、一人なら十分だろう」
「はい」
「修理は全部必要。水は二軒目が一番楽だな」
「それ以外は?」
「それ以外って?」
「どれが、私に合うか」
ローデンは肩をすくめた。
「お前が決めることだ」
少女は窓の外の木を見る。
「……難しいです」
「今日決める必要あるか?」
「ありません」
「なら難しいままでいいだろ」
「はい」
少女はゆっくり息を吐いた。
三軒を見終え、二人はマーサの家へ戻る方向へ歩いた。
少女の頭の中には、それぞれの家が残っている。
一軒目。
庭がある。
静か。
少し遠い。
二軒目。
広い。
村の中央に近い。
マーサの家にも近い。
三軒目。
小さい。
修理と掃除が多い。
水場は遠い。
窓辺に木がある。
「三軒目が気になるのか?」
ローデンが突然尋ねた。
少女は驚いた。
「分かりましたか?」
「質問が多かった」
「……そうでしたか」
「でも決めなくていいぞ」
「はい」
少女は少し考える。
「気になるだけです」
「それでいい」
「二軒目は安心しました」
「うん」
「一軒目の庭も好きでした」
「うん」
「三軒目の窓も好きです」
「なら三つとも覚えとけ」
「全部好きなところが違います」
「普通だろ」
少女はその言葉を胸の中で転がした。
全部に良いところがある。
全部に不便なところもある。
だから選ぶ。
何か一つが完全に正しく、残りが間違いなのではない。
村の中央へ戻ると、ユウが井戸の近くにいた。
桶を持ち上げていたが、少女たちへ気づくと片手を上げる。
「家見てきた?」
「はい」
「どうだった?」
少女はすぐには答えなかった。
「三軒とも違いました」
「そりゃ違うでしょ」
「そうなのですが」
少女は少し笑う。
「一軒目は庭がありました。二軒目はマーサさんの家に近くて、三軒目には木があります」
「木?」
「窓の横に」
「へえ」
「何の木かはローデンさんも知りませんでした」
「俺も分かんないと思う」
「誰も頼りになりませんね」
「木についてはね」
ユウが笑った。
「決めた?」
尋ねられ、少女は首を振る。
「いいえ」
「そっか」
「……それだけですか?」
「何が?」
「三軒も見て、まだ決めていないのですが」
「今日決めるって話だったっけ?」
「違います」
「じゃあいいんじゃない?」
予想していた答えだった。
それでも、聞くと肩の力が抜ける。
「ユウさんなら、どれにしますか?」
「見てないから分かんない」
「見たら?」
「俺が住む家じゃないし」
「ローデンさんにも同じようなことを言われました」
「じゃあ二票」
「何の票ですか」
「自分で決めろ票」
少女は笑った。
「圧倒的ですね」
「マーサさんも入りそう」
「おそらく」
「ベルさんも」
「『好きにしろ』と言いそうです」
二人で顔を見合わせ、また笑った。
ローデンは「俺は戻る」と荷車の方へ向かった。
少女はユウと二人、井戸のそばに残る。
水を汲んだ桶が置かれている。
「これ、マーサさんのとこ?」
ユウが尋ねる。
「違います。私のではありません」
「あ、そっか」
「でも」
少女は桶を見る。
「一人で暮らしたら、水を運ぶ必要があります」
「うん」
「毎日?」
「使う量によるんじゃない?」
「料理、飲み水、洗う水……」
「風呂は共同の方使えばいいし」
「洗濯は?」
「今も毎日全部洗ってるわけじゃないでしょ」
「そうですね」
少女は少し考える。
「一人暮らしは、思っていたより考えることが多いです」
「そりゃそうだと思う」
「ユウさんは一人ですよね」
「うん」
「大変では?」
「大変な時もある」
「どうしているのですか?」
「面倒な日は簡単な飯にする」
「それでよいのですか?」
「死なない程度には」
「基準が低すぎませんか?」
「じゃあ、そこそこ食べる」
少女は呆れたように笑った。
「洗濯は?」
「溜めすぎない」
「掃除は?」
「汚れたら」
「毎日では?」
「毎日はやってない」
「公爵家では毎日、使用人が」
そこまで言って、少女は止まった。
ユウは特に気にした様子もなく言う。
「人が何人もいる家と一人の家じゃ違うでしょ」
「……そうですね」
「あと、村だと誰かから飯もらう日もあるし」
「それは私も既に分かります」
「ガルドさんとか勝手に持ってくるし」
「豆を」
「豆を」
二人の声が重なった。
少女は笑った。
けれど笑いが収まると、少しだけ真剣になる。
「一人で暮らすことは、全部一人ですることではないとローデンさんに言われました」
「うん」
「それなら、私にもできるでしょうか」
ユウは少女を見る。
「やってみたいの?」
問い返された。
少女は答えを探す。
「……分かりません」
「そっか」
「少し、やってみたい気もします」
胸の内側にあるものを、一つずつ確かめるように続ける。
「自分で朝起きて、自分で食べるものを決めて、自分で紙を書く場所を決めて。そういう生活をしてみたいです」
「うん」
「でも、夜に一人なのは少し怖いです」
「うん」
「マーサさんの家を出るのも、寂しいです」
「うん」
「なのに、自分の家というものも少し欲しいと思います」
「うん」
少女は眉を寄せた。
「全部反対のことを言っています」
「そう?」
「一人で暮らしたいのに、一人は怖い。マーサさんの家にいたいのに、自分の家も欲しい」
「両方思ってるなら両方なんじゃない?」
「どちらかに決めなくても?」
「家決める時にはどっちか選ぶことになるかもしれないけど、気持ちまで片方消さなくてもいいんじゃない?」
少女は黙った。
マーサの家にいたい。
自分の家も欲しい。
どちらも本当なのかもしれない。
「ユウさん」
「ん?」
「もし私が一人で住むことになったら」
少女は少しだけ視線を落とす。
「その……今までのように、話してもよいですか?」
ユウが不思議そうな顔をする。
「なんで話さなくなるの?」
「家が変わったら、何か変わるのかと」
「近所になるだけじゃない?」
「近所」
「今も近所みたいなもんだけど」
少女はその言葉を聞いて、少しだけ胸が温かくなる。
「では、変わりませんか?」
「何か変えたいの?」
「いいえ」
答えは思ったより早く出た。
「今は、変えたくありません」
「じゃあそのままでいいんじゃない?」
「はい」
少女は小さく笑った。
ユウが桶を持ち上げる。
「これ誰のだろ」
「まだ気にしていたのですか?」
「置きっぱなしだから」
「持ち主が戻ってくるのでは?」
「じゃあ置いとくか」
「はい」
少女はその場を離れようとして、少しだけ東の方角を見た。
今日は警戒線の音を聞いていない。
「森は?」
「今のところ変化なし」
「今のところ」
「うん」
「分かりました」
少女はそれ以上聞かなかった。
マーサの家へ戻ると、昼食の準備が始まっていた。
「戻りました」
「おかえり。どうだった?」
マーサは鍋をかき混ぜながら尋ねる。
「三軒見ました」
「どれにする?」
あまりにも早く聞かれ、少女は目を瞬いた。
「決めていません」
「そうかい」
「……それだけですか?」
「他に何がある」
「皆さん同じことを言います」
「誰と一緒にされたんだい」
「ローデンさんとユウさんです」
「ならあたしが一番まともだね」
「なぜですか?」
「年上だから」
「理由になっていないと思います」
少女は笑った。
昼食を食べながら、三軒の話をした。
一軒目の庭。
二軒目の広さと距離。
三軒目の木。
マーサは食べながら聞いている。
「三つ目が気に入ったのかい?」
「ローデンさんにも言われました」
「顔に出てるんじゃない?」
「そんなに?」
「今の話じゃ三つ目だけ窓がどうとか机がどうとか言ってたよ」
少女は黙った。
確かにそうだった。
「……気になっています」
「ならもう一回見りゃいい」
「よいのですか?」
「一回見たら決めなきゃならん決まりでもあるのかい?」
「ありません」
「じゃあ見な」
少女はスープを一口飲む。
「マーサさん」
「なんだい?」
「私がここを出たら、寂しいですか?」
尋ねた瞬間、胸が少し強く鳴った。
マーサの匙が止まる。
少女は自分が何を期待しているのか分からなくなった。
寂しいと言ってほしいのか。
気にしないと言ってほしいのか。
どちらを聞いても、きっと少し傷つく気がした。
「寂しいだろうね」
マーサは普通に答えた。
少女の指が僅かに動く。
「……そうですか」
「一人増えてたのが減るんだから」
「はい」
「でも、出たいなら出ればいい」
少女はマーサを見る。
「止めないのですか?」
「なんで?」
「寂しいのに」
「寂しいからって、お前さんをここに置いとくのかい?」
少女は答えられなかった。
マーサはスープをもう一口飲む。
「近所だろ」
その言葉に、少女は目を瞬いた。
さっきユウも似たことを言った。
「ユウさんにも、近所になるだけと言われました」
「じゃあ珍しくあの子と意見が合ったね」
「珍しいのですか?」
「知らん」
「適当ですね」
「飯が冷めるよ」
少女は匙を持ち直した。
胸の奥にあった寂しさが、なくなったわけではない。
けれど形が少し変わった。
家を出ることは、関係を終わらせることではない。
公爵家を追放された時とは違う。
あの時は、自分の意思とは無関係に場所も立場も人間関係も切られた。
だからどこかで、家を離れることそのものに「失う」という感覚が結びついていたのかもしれない。
けれど、ここでは違う。
自分で別の家へ移っても、マーサはマーサだ。
ユウも。
サナも。
ベルも。
村の人たちも。
「……少し安心しました」
「何が?」
「家を変えても、全部なくならないことです」
マーサは少女を見た。
何かを察したのかもしれない。
けれど深く尋ねなかった。
「なくしたくなきゃ、飯食いに来ればいい」
「よいのですか?」
「毎日は困る」
「毎日は来ません」
「たまにならいい」
「はい」
少女は笑った。
午後は何もしないことにした。
空き家を三軒見ただけで、思っていた以上に頭が疲れていた。
どの家がよいか。
一人暮らしをするか。
何が必要か。
考え始めればいくらでも続けられる。
だから少女は、窓辺の椅子へ座った。
紙も開かない。
今日は昼寝をしてみようと思った。
「寝るのかい?」
「はい」
「珍しいね」
「昨日も少し休みました」
「そうだったね」
「今日は、考えすぎる前に寝ます」
「いいんじゃないかい」
少女は目を閉じる。
外では風が吹いている。
誰かが道を歩く音。
遠くで鶏が鳴く。
マーサが台所で器を動かす音。
全部が聞こえる。
一人ではない家の音だった。
もし自分の家へ移ったら、この音はなくなる。
その代わり、別の音ができるのだろう。
自分が起きる音。
自分が竈へ火を入れる音。
自分が窓を開ける音。
まだ知らない生活の音。
少女はそこまで考え、少し笑った。
考えないために昼寝をするはずだった。
「……難しいですね」
「何が?」
マーサの声がする。
「何でもありません」
「なら寝な」
「はい」
今度こそ、少女は考えるのをやめた。
目を覚ました時には、窓から入る光が少し傾いていた。
どれくらい眠ったのか分からない。
少女は身体を起こし、しばらくぼんやりする。
胸の中は静かだった。
空き家のことを思い出しても、今すぐ答えを出さなければならないとは感じない。
卓へ移動し、紙を出す。
今日の記録を書く。
『卵。油を減らした。黄身は柔らかい方。昨日より焦げなかった。固い方とどちらが好きかはまだ分からない』
少し間を空ける。
『空き家を三軒見た』
『一軒目。庭がある。静か。水が遠い』
『二軒目。広い。マーサさんの家に近い。少し安心した』
『三軒目。小さい。掃除と修理が多い。窓の横に木がある。気になる』
少女は炭筆を止める。
最後にもう一行。
『今日は決めない』
書いてから、紙を眺めた。
その言葉に逃げている感じはしなかった。
決められないのではなく、今日は決めない。
似ているようで、少し違う。
王都で自分の人生が決められた日は、考える時間など与えられなかった。
否定しても。
説明しようとしても。
待ってほしいと願っても。
次々に話が進み、婚約は失われ、家からも追われた。
だから今は、自分で時間を使っていい。
一日で決めなくていい。
もう一度見てもいい。
誰かに聞いてもいい。
途中で気が変わってもいい。
少女は紙を丁寧に折った。
夕方近くになって、戸を叩く音がした。
マーサが出ようとしたが、少女が先に立つ。
「私が出ます」
「頼むよ」
戸を開けると、そこにはベルがいた。
「こんにちは」
「おう」
ベルは小さな木片を持っている。
「足どうだ」
「今は零です」
「そうか」
「どうされました?」
「ローデンから聞いた。家見たんだろ」
「はい」
「どれか直すなら先に見せろ」
「まだ決めていません」
「決めてからでいい」
「はい」
ベルはそれだけ言って帰ろうとする。
「ベルさん」
「なんだ」
「三軒目は、かなり修理が必要ですか?」
「三軒目?」
「木がある家です」
「ああ、ハルト爺さんのとこか」
少女は初めて以前の住人の名を知った。
「見なきゃ分からん。五年空いてるからな」
「住めないほどなら?」
「直せるか見る」
「直せなかったら?」
「別の家にすりゃいい」
「……そうですよね」
ベルは少女を見る。
「気に入ったのか?」
「少し」
「なら決める前に呼べ」
「はい」
「あと」
「はい?」
「窓の横の木はリンカだ」
「リンカ?」
「夏の終わりに小さい実がなる。酸っぱい」
少女の目が少し大きくなる。
「食べられるのですか?」
「食える。俺は嫌いだ」
「酸っぱいから?」
「酸っぱいから」
少女は笑った。
「ありがとうございます」
「おう」
ベルは帰っていった。
少女は戸を閉める。
「リンカの木だそうです」
マーサへ言う。
「知ってるよ」
「知っていたのですか?」
「そりゃね」
「では、朝に聞けばよかったです」
「聞かなかっただろ」
「……そうでした」
少女は少し悔しくなり、それから笑った。
夜になってから、少女は紙をもう一度開いた。
三軒目の欄。
『窓の横に木がある』
その下へ小さく書き足す。
『リンカの木。夏の終わりに酸っぱい実がなる』
たったそれだけの情報で、三軒目の家が少し鮮明になった気がした。
窓。
机。
木。
夏の終わりの実。
住むと決めたわけではない。
それでも、もう一度見たいと思った。
少女は炭筆を置き、寝台へ向かった。
マーサの家の中には、今夜も人の気配がある。
台所から水を飲む音がして、廊下の床が一度だけ軋む。
それを聞きながら布団へ入ると、やはり安心した。
この安心を失いたくない。
同時に、自分だけの窓辺を持ってみたい。
その二つは、どちらかが間違いなのではない。
明日、三軒目をもう一度見たい。
今度はただ部屋を見るだけではなく、自分がそこで暮らすなら何が必要なのかを見てみたい。
水をどう運ぶか。
竈は使えるか。
寝台をどこへ置くか。
机を置けるか。
修理はどこまで必要か。
それでも、まだ住むとは決めない。
少女は暗い天井を見上げ、少しだけ笑った。
選ぶというのは、すぐに答えを出すことではないのかもしれない。
迷う時間まで、自分のものにすることなのかもしれなかった。




